佐藤吉信の墓碑
佐藤吉信
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永13年 (1636年)
1608年(慶長13)向岩孫助の子として生まれる。内膳。伊達政宗に仕える。佐藤甚十郎と改名。出世して2千石を与えられる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。29才。法名「法得紹隆禅定門」。杉山理兵衛が吉信に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
入生田元康の墓碑
入生田元康
生 天正5年 (1577年)
没 寛永13年 (1636年)
1577年(天正5)成定の子として生まれる。三右衛門。16才のときに伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日に殉死。60才。法名「功翁知全禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤三右衛門の墓碑
加藤三右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
名は賀藤とも。伊達政宗家臣石田与純に仕える。1636年(寛永13) 与純が主君政宗に殉死すると、三右衛門も殉死。法名「梁岫元棟禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤昌吉の墓碑
加藤昌吉
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
備前池田家の家臣七太夫の子。十三郎。同僚を殺害したため、備前を離れ宇和島伊達秀宗に仕える。のち伊達政宗の近習となる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。23才。(21才とも)法名「説庭良宣禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
南政吉の墓碑
南政吉
生 元和元年 (1615年)
没 寛永13年 (1636年)
1615年(元和元)惣右衛門の子として生まれる。次郎吉。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)5月24日政宗が没すると同日殉死。22才。法名「清隠浄光禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
喜斎の墓碑
喜斎
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永13年 (1636年)
1562年(永禄5)生まれ。岡崎喜斎とも伝わるも詳細不明。1636年(寛永13)6月20日仏眼寺にて伊達政宗に殉死。75才。法名「悦嶂道観禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
大槻定安の墓碑
大槻定安
生 天正4年 (1576年)
没 寛永13年 (1636年)
1576年(天正4)生まれ。喜右衛門。伊達政宗に仕える。大坂夏の陣で首を取る。1636年(寛永13)6月19日殉死。61才。法名「天岑周徳禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小平元成の墓碑
小平元成
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。太郎左衛門。伊達政宗に仕える。京都伏見にて町人を斬ったため、政宗の命で高野山に逃れる。のちに名を武石仁右衛門として陸奥国に戻る。のちに政宗に再仕。1636年(寛永13) 6月19日自宅にて殉死。63才。法名「怡心道悦禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小野時村の墓碑
小野時村
生 天正14年 (1586年)
没 寛永13年 (1636年)
1586年(天正14)生まれ。二左衛門。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。51才。法名「涼窓受蔭禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
桑折綱長の墓碑
桑折綱長
生 元亀2年 (1571年)
没 寛永13年 (1636年)
1571年(元亀2)生まれ。豊後。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。66才。法名「竹友祟賢禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
矢目常重の墓碑
矢目常重
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。伊兵衛。伊達政宗に仕え、大坂の陣に従う。政宗が没すると1636年(寛永13)6月7日仙台覚範寺にて殉死。63才。法名「堅室道固禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
石田与純の墓碑
石田与純
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
1589年(天正17)大波大膳の次男として生まれる。将監。伊達政宗に仕える。石田豊前宗朝の娘を娶り婿となる。1636年(寛永13)6月21日に殉死。48才。法名「信澤道傳禅定門」。青柳伝右衛門と加藤三右衛門が与純に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
茂庭兼綱の墓碑
茂庭兼綱
生 文禄2年 (1593年)
没 寛永13年 (1636年)
1593年(文禄2)斎藤孫左衛門の子として生まれる。采女。中畠兵次の婿となり伊達政宗に仕える。茂庭綱元によって茂庭の姓を名乗る。1636年(寛永13)6月20日殉死。44才。法名「叟善昌因禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
菅野重虎の墓碑
菅野重虎
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永13年 (1636年)
1596年(慶長元)生まれ。正(勝)左衛門。重成とも。伊達政宗に火縄銃薬込役として仕える。政宗から拝領したという黒漆五枚胴具足が今に残る。1636年(寛永13)6月20日殉死。41才。法名「芳叔久聯禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
青木友重の墓碑
青木友重
生 慶長10年 (1605年)
没 寛永13年 (1636年)
1605年(慶長10)生まれ。戸田氏の出身。忠五郎。伊達政宗に小姓として仕える。青木源七郎の娘を娶り青木家を継ぐ。1636年(寛永13)6月20日に殉死。32才。法名「圓岫了規禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
仙石久信の墓碑
仙石久信
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄12年 (1699年)
1638年(寛永15)久邦の子として生まれる。1648年(慶安元)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。その際、6千石のうち千石を弟久尚に分け与える。1699年(元禄12)1月5日没。62才。法名「圓光院殿普岳常照居士」。
保科正重の墓碑
保科正重
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
正直の次男。冷遇されていたらしく詳細不明。晩年は異母弟正貞のもとに寄せていたと思われ、正貞の領地である千葉県木更津市の選擇寺にも墓がある。1636年(寛永13)8月23日没。法名「鳳桐院殿月光玄白大禅定門」。
内藤信良妻の墓碑
内藤信良妻
生 不明
没 不明
奥平忠昌の長女。名はミネ姫。内藤信良の正室となる。子を儲けることなく没す。法名「恵照院殿寂然宗空大禅定尼」。
内藤重頼の墓碑
内藤重頼
生 寛永5年 (1628年)
没 元禄3年 (1690年)
1628年(寛永5)正勝の長男として生まれる。1630年(寛永7)父が没すると遺領1万5千石を没収され5千石を相続。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。順調に加増を重ね3万3千石を領す。1687年(貞享4)京都所司代となる。1690年(元禄3)11月27日没。63才。法名「無著院殿然譽常光存空大居士」。
吉田良連娘の墓碑
吉田良連娘
生 不明
没 天保15年 (1844年)
吉田良連の3女。鷹司任子(徳川家定妻)に年寄役として仕える。通称勘解由小路。1844年(天保15)5月没。法名「功〇院殿熏譽昭和清均大姉」。膳所本多家墓域にあることから、母は本多康伴の娘と思われる。
奥平家昌の墓碑
奥平家昌
生 天正5年 (1577年)
没 慶長19年 (1614年)
下野宇都宮藩初代藩主。1577年(天正5)信昌の長男として生まれる。祖父徳川家康から1字を賜い家昌と名乗る。1601年(慶長6)下野宇都宮で10万石を与えれる。1614年(慶長19)10月10日没。38才。法名「六通院殿天眼道高大禅定門」。
奥平忠昌妻の墓碑
奥平忠昌妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
鳥居忠政の3女。奥平忠昌に嫁ぎ、内藤信良妻、最上義智妻、昌能、由良頼繁妻の1男3女を儲ける。1642年(寛永19)4月4日没。法名「桂嶽院殿少室香林大禅定尼」。
安藤重之の墓碑
安藤重之
生 元和9年 (1623年)
没 寛永18年 (1641年)
1623年(元和9)重長の長男として生まれる。跡を継ぐことなく1641年(寛永18)11月12日没。19才。法名「浄本院殿清譽理覺大禅定門」。墓石施主は息子伊勢千代(重博)。
安藤重信の墓碑
安藤重信
生 弘治3年 (1557年)
没 元和7年 (1621年)
上野高崎藩初代藩主。1557年(弘治3)基能の次男として生まれる。徳川家康に仕え1584年(天正12)長久手の戦いのときは兜首1つを獲った。後、家康3男秀忠に仕え、1600年(慶長5)真田昌幸の籠る上田城攻めに参戦。他、大坂の陣にも参戦。大久保忠隣、福島正則の所領没収のときに使者を務めている。1621年(元和7)6月29日没。65才。法名「栖岸院殿釋良善大居士」。
安藤重博の墓碑
安藤重博
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄11年 (1698年)
備中松山藩初代藩主。1640年(寛永17)重之の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。祖父重長の死により1657年(明暦3)11月上野高崎藩3代藩主となる。1695年(元禄8)5月備中松山に加増移封。1698年(元禄11)8月9日没。59才。法名「定慧院殿不漚覺海大居士」。
安藤重長の墓碑
安藤重長
生 慶長5年 (1600年)
没 明暦3年 (1657年)
上野高崎藩2代藩主。1600年(慶長5)本多正盛の長男として生まれる。母は安藤重信の娘。祖父重信の跡を継ぐ。1609年(慶長14)徳川家康に拝謁。徳川秀忠付となり、大坂の両陣に従い、夏の陣のときは首2つを取る。1632年(寛永9)改易となった徳川忠長を居城高崎城に預かる。1657年(明暦3)9月29日没。58才。法名「良峯院殿前京兆司録天誉泰翁居士」。
彦坂元正の墓碑
彦坂元正
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
光景の子。小刑部。徳川家康に仕え、代官、町奉行を務める。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは小荷駄奉行。領地の農民に訴えられ、さらに貢金を私物化したため改易となる。1634年(寛永11)1月8日没。法名「聚林居士」。墓石には、彦坂市兵衛(詳細不明)の名も見える。
彦坂吉成の墓碑
彦坂吉成
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
宗有の子。平九郎。吉家とも。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。大坂代官、倉敷代官など代官職を務む。1669年(寛文9)10月26日没。法名「法弓院殿」。
徳川治宝の墓碑
徳川治宝
生 明和8年 (1771年)
没 嘉永5年 (1852年)
紀伊和歌山藩10代藩主。1771年(明和8)6月重倫の次男として生まれる。将軍徳川家治より1字を賜い治宝と名乗る。大叔父で9代藩主治貞が没すると1789年(寛政元)10月跡を継ぐ。1824年(文政7)隠居。1852年(嘉永5)12月7日没。82才。法名「舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公」。
徳川茂承の墓碑
徳川茂承
生 天保15年 (1844年)
没 明治39年 (1906年)
紀伊和歌山藩14代藩主。1844年(天保15)1月松平頼学の6男として生まれる。1858年(安政5)に紀伊和歌山藩13代藩主慶福(家茂)が将軍になったため、14代藩主として跡を継ぐ。幕府崩壊後は、和歌山藩知事となる。1906年(明治39)8月20日没。63才。法名「慈承院殿剛健日純大居士」。
徳川頼倫の墓碑
徳川頼倫
生 明治5年 (1872年)
没 大正14年 (1925年)
紀州徳川家15代当主。1872年(明治5)6月慶頼の6男として生まれる。1880年(明治13)2月紀州徳川茂承の養子になる。1906年(明治39)8月家督を相続、貴族院議員となる。日本図書館協会総裁に就任したり、南方熊楠を支援するなど多方面に活躍。1925年(大正14)5月19日没。52才。法名「樹徳院殿●城高節大居士」。(●は臤に虎)
明智光秀の墓碑
明智光秀
生 不明
没 天正10年 (1582年)
生年不明。朝倉義景に仕え、その後足利義昭に仕える。義昭が没落すると織田信長に仕え重臣となる。1582年(天正10)6月2日主君信長を討つ。(本能寺の変)しかし、同じ信長の重臣豊臣秀吉と戦い(山崎の戦い)敗れ、同年6月13日落ち延びる途中土民に襲われ殺される。法名「秀岳院宗光禅定門」。この墓石にはかなり以前より法名等が全く読めないが光秀の墓と伝わっているので、正確には「伝明智光秀墓」である。
最上義智妻の墓碑
最上義智妻
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文4年 (1664年)
1642年(寛永19)奥平忠昌の娘として生まれる。名はてい。最上義智に嫁ぐ。1664年(寛文4)閏5月24日没。23才。法名「智光院殿槐窓壽貞大禅定尼」。
本多俊次の墓碑
本多俊次
生 文禄4年 (1595年)
没 寛文8年 (1668年)
近江膳所藩2代藩主。1595年(文禄4)康俊の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。大坂の陣に父とともに参戦。夏の陣のときには自ら槍を持ち首を取った。1621年(元和7)父の死去により家督を継ぐ。1668年(寛文8)8月11日没。74才。法名「専光院殿信蓮社深誉浄有大居士」。
本多俊次妻の墓碑
本多俊次妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
小田部統房の娘。立花宗茂の養女となり本多俊次に嫁ぐ。俊次の間に、康長、牧野光成妻、康将、忠顕、忠隆、俊正の4男1女を儲ける。1668年(寛文8)11月没。法名「崇安院殿明誉壽光大姉」。墓石施主は息子兵部少輔康将。
本多康俊の墓碑
本多康俊
生 永禄12年 (1569年)
没 元和7年 (1621年)
1569年(永禄12)酒井忠次の次男として生まれる。母は松平清康の娘碓井姫。徳川家康に仕え、幼少時は織田信長への人質となる。本多忠次の養子となり跡を継ぐ。関ケ原の戦い、大坂夏の陣に参戦して、近江国膳所で3万石を与えられる。1621年(元和7)2月7日没。53才。法名「梅香院英誉輝厳緑崇大居士」。墓石は息子下総守俊次と美作守忠相の建立による。
松平信一妻の墓碑
松平信一妻
生 不明
没 元和5年 (1619年)
松平好景の娘。松平信一に嫁ぎ、久清、大久保康忠妻、石川織部妻の1男2女を儲ける。1619年(元和5)10月28日没。法名「嶽雄院殿俊譽惣貞清大姉」。墓石は1643年(寛永20)10月28日の25回忌に信一の孫山城守忠国の建立による。
松平信吉妻の墓碑
松平信吉妻
生 不明
没 承応2年 (1653年)
松平信一の娘。松平信吉に嫁ぎ、忠国、忠晴、秋田俊季妻、忠秋、信治の4男1女を儲ける。1653年(承応2)6日23日没。法名「崇龍院殿華雄貞信大禅定尼」。墓石は息子山城守忠勝(忠国)の建立による。
松平光和の墓碑
松平光和
生 延享元年 (1744年)
没 安永4年 (1775年)
信濃松本藩4代藩主。1744年(延享元)光雄の6男として生まれる。兄光徳の養子となり1759年(宝暦9)3月跡を継ぐ。同月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)7月24日没。32才。法名「泰量院殿義範勇見大居士」。
松平光年の墓碑
松平光年
生 天明元年 (1781年)
没 天保8年 (1837年)
信濃松本藩7代藩主。1781年(天明元)光悌の子として生まれる。1794年(寛政6)2月松平光行の養子となる。同年4月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)光行の隠居により跡を継ぐ。1837年(天保8)2月4日没。57才。法名「神龍院殿大光啓雲大居士」。
松平光徳の墓碑
松平光徳
生 元文元年 (1736年)
没 宝暦9年 (1759年)
信濃松本藩3代藩主。1736年(元文元)光雄の長男として生まれる。1749年(寛延2)5月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1756年(宝暦6)閏11月跡を継ぐ。1759年(宝暦9)1月8日没。24才。法名「壷春院殿洞外義仙大居士」。
松平光悌の墓碑
松平光悌
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明6年 (1786年)
信濃松本藩5代藩主。1752年(宝暦2)光雄の8男として生まれる。兄光和の隠居により1774年(安永3)12月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1786年(天明6)6月21日没。35才。法名「本覺院殿則道了規大居士」。
松平光行の墓碑
松平光行
生 明和3年 (1766年)
没 天保10年 (1839年)
信濃松本藩6代藩主。1766年(明和3)戸田光為の4男として生まれる。松平光悌の養子となり娘を妻とする。光悌の死により1786年(天明6)8月跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)隠居して竹翁と号す。1839年(天保10)12月14日没。74才。法名「瑞光院殿祥巖道麟大居士」。
松平光領の墓碑
松平光領
生 文化12年 (1815年)
没 天保12年 (1841年)
1815年(文化12)4月光年の4男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。信濃松本藩主松平光庸の養子となっていたが、跡を継ぐことなく1841年(天保12)6月24日没。27才。
松平忠国の墓碑
松平忠国
生 慶長2年 (1597年)
没 万治2年 (1659年)
1597年(慶長2)8月17日藤井松平信吉の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川家康、秀忠に拝謁。1609年(慶長14)12月22日秀忠の御前で元服。1615年(元和元)5月7日大坂夏の陣で首を獲る手柄を立てる。1649年(慶安2)播磨明石城を与えられ7万石を領した。1659年(万治2)2月20日没。63才。法名「浄源院殿雲誉崇安道覚大居士」。墓石は息子日向守信之の建立による。
松平昌勝の墓碑
松平昌勝
生 寛永13年 (1636年)
没 元禄6年 (1693年)
越前松岡藩初代藩主。1636年(寛永13)3月忠昌の長男として生まれる。父の死後、5万石を分知され越前松岡藩主となる。父の福井藩を継ぐことが出来なかったが、息子3人が福井藩主となっている。1693年(元禄6)7月27日没。58才。法名「見性院殿鐵關了無大居士」。
溝口助勝の墓碑
溝口助勝
生 慶長16年 (1611年)
没 寛永13年 (1636年)
1611年(慶長16)善勝の次男として生まれる。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)遺領のうち3千石を相続する。1636年(寛永13)5月24日没。26才。法名「昌運東繁居士」。
溝口善勝の墓碑
溝口善勝
生 天正12年 (1584年)
没 寛永11年 (1634年)
越後沢海藩初代藩主。1584年(天正12)秀勝の次男として生まれる。1601年(慶長6)徳川家康に拝謁。のちに徳川秀忠に仕える。2千石を領していたが、1610年(慶長15)父の遺領のうち1万2千石を分与され越後沢海藩1万4千石の大名となる。大坂の両陣では、土井利勝に属して参陣。1634年(寛永11)5月2日没。 51才。法名「利性院殿大岳道徹大居士」。
溝口善勝妻の墓碑
溝口善勝妻
生 不明
没 不明
前田長種の娘。溝口善勝に嫁ぎ、政勝、助勝、安勝、信勝の4男を儲ける。法名「慶春院殿〇岳妙〇大姉」。墓石は逆修塔。
溝口宣勝の墓碑
溝口宣勝
生 天正10年 (1582年)
没 寛永5年 (1628年)
越後新発田藩2代藩主。1582年(天正10)秀勝の長男として生まれる。父の死により跡を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは松平忠輝に属して戦う。1628年(寛永5)10月29日没。47才。法名「松嶽寺殿傑岑善英大居士」。