富永守平 生 宝暦5年 (1755年)没 寛政2年 (1790年) 1755年(宝暦5)守英の次男として生まれる。1778年(安永7)大番となる。父の死により1790年(寛政2)5月跡を継ぐ。同年9月15日没。36才。法名「寂寥院殿見譽観光秋應大居士」。
伊東長詮妻 生 延享元年 (1744年)没 文政3年 (1820年) 1744年(延享元)3月4日五島盛道の次女として生まれる。伊東長丘の間に、長寛、朽木昌綱妻(のち離縁)、長庚、女子、松平康彊妻(のち離縁)の2男3女を儲ける。1820年(文政3)7月28日没。77才。法名「松仙院殿壽山海雲大姉」。
伊東長詮 生 元文元年 (1736年)没 安永7年 (1778年) 備中岡田藩7代藩主。1736年(元文元)長丘の3男として生まれる。1752年(宝暦2)3月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1763年(宝暦13)9月跡を継ぐ。1778年(安永7)6月29日没。43才。法名「龍泉院殿英嶽長雄大居士」。
米田是春妻 生 元禄8年 (1695年)没 明和3年 (1766年) 1695年(元禄8)10月9日寿之の長女として生まれる。名は津勢。米田是春の妻となり是福を儲ける。1766年(明和3)7月6日没。72才。法名「菱花院殿體眞壽光禅尼」。
南条元知 生 寛永18年 (1641年)没 元禄16年 (1703年) 1641年(寛永18)細川忠利の4男として生まれる。南条元信の養子となる。細川家の家老職。1665年(寛文5)からは長岡姓。1669年(寛文9)細川綱利に諫言したため蟄居となり、剃髪して道固と号す。1703年(元禄16)11月1日没。63才。法名「養仙院定巖道固大居士」。
亘理宗根 生 慶長5年 (1600年)没 寛文9年 (1669年) 1600年(慶長5)伊達政宗の庶子として生まれる。母は香の前。茂庭綱元の子として育てられる。亘理重宗の娘を娶り婿となる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。大野治長の臣中川隼人を討取る。1669年(寛文9)10月26日没。70才。法名「超勝院殿格外玄秀大居士」。法名は超誓院殿だがこの墓碑には「超勝院殿」とある。
茂庭茂行 生 元和4年 (1618年)没 延宝5年 (1677年) 1618年(元和4)良元の次男として生まれる。病のため跡を継ぐことが出来ず。主君伊達忠宗の命により叔父実元の養子となる。1677年(延宝5)6月2日没。60才。法名「形山院殿月齋洞明居士」。墓石施主は子の恒真による。
甲斐庄正昉 生 寛保2年 (1742年)没 寛政7年 (1795年) 1742年(寛保2)正寿の次男として生まれる。兄正堅の養子とな、正堅の死により1767年(明和4)10月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1795年(寛政7)12月27日没。54才。法名「聖箭院殿鐵關玄透居士」。
甲斐庄正堅 生 享保20年 (1735年)没 明和4年 (1767年) 1735年(享保20)正寿の長男として生まれる。父の死により1745年(延享2)8月跡を継ぐ。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)8月31日没。33才。法名「坎功院殿篤了謙忠居士」。
甲斐庄正寿 生 享保4年 (1719年)没 延享2年 (1745年) 1719年(享保4)正恒の次男として生まれる。父の失心により1723年(享保8)7月跡を継ぐ。1737年(元文2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)5月26日没。27才。法名「泰岳院殿義山玄道居士」。
甲斐庄正恒 生 元禄4年 (1691年)没 宝暦9年 (1759年) 1691年(元禄4)堀直佑の3男として生まれる。甲斐庄正永の養女を娶り養子となる。1710年(宝永7)7月将軍徳川家宣に拝謁。正永の死により1717年(享保2)6月跡を継ぐ。1723年(享保8)5月失心により蟄居となる。1759年(宝暦9)閏7月22日没。69才。法名「桂山院殿月秋常圓居士」。
小出英常 生 寛保3年 (1743年)没 安永4年 (1775年) 丹波園部藩6代藩主。1743年(寛保3)2月12日英持の次男として生まれる。1755年(宝暦5)4月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1767年(明和4)12月跡を継ぐ。1775年(安永4)9月20日没。33才。法名「霊源院殿猷峯紹機大居士」。
小出英常娘(芳林院) 生 明和7年 (1770年)没 安永4年 (1775年) 1770年(明和7)10月26日小出英常の3女として生まれる。名は於八千。1775年(安永4)2月5日没。6才。法名「芳林院殿雲岳妙紅童女」。
小出英常妻(心源院) 生 不明没 明和2年 (1765年) 身分の低い出と思われる。小出英常との間に、於銀、稲垣定淳妻の2女を儲ける。1765年(明和2)9月27日没。法名「心源院機屋妙輪大姉」。寛政重修諸家譜では他2女を儲けたように記載あるも、この2女は心源院没後の生まれである。
小出英持 生 宝永3年 (1706年)没 明和4年 (1767年) 丹波園部藩5代藩主。1706年(宝永3)英貞の長男として生まれる。1716年(享保元)閏2月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1744年(延享元)12月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄を務む。1767年(明和4)10月15日没。62才。法名「青霄院殿透嶺義關大居士」。
小出英常娘(清光院) 生 宝暦10年 (1760年)没 明和3年 (1766年) 1760年(宝暦10)11月2日小出英常の長女として生まれる。名は於銀。1766年(明和3)7月1日没。7才。法名「清光院殿寶月宗璵童女」。
伊東長丘 生 元禄10年 (1697年)没 天明2年 (1782年) 備中岡田藩6代藩主。1697年(元禄10)長救の長男として生まれる。1708年(宝永5)3月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1723年(享保8)3月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1782年(天明2)10月8日没。86才。法名「實相院殿悠嶽淨久大居士」。
平岡吉房 生 元和5年 (1619年)没 元禄6年 (1693年) 1619年(元和5)吉道の長男として生まれる。父の跡は弟が継ぎ、別家となる。1653年(承応2)6月より徳川綱吉のもと代官を務む。1693年(元禄6)5月4日没。75才。法名「正經寺休翁宇閑居士」。墓石には「元禄七年五月四日」とあるのが寛政重修諸家譜は1693年(元禄6)としている。
松平忠宜 生 享保14年 (1729年)没 宝暦6年 (1756年) 1729年(享保14)土井利庸の次男として生まれる。松平忠堅の養子となる。忠堅の死により1756年(宝暦6)8月跡を継ぐも、同年10月25日没。28才。法名「隆光院殿嶺雲宗松居士」。
堀直宥妻 生 寛文5年 (1665年)没 元禄13年 (1700年) 1665年(寛文5)桑山一玄の娘として生まれる。岡部行隆の養女として1686年(貞享3)6月堀直宥に嫁ぐ。直宥との間に、直央、女子、直意の2男1女を儲ける。1700年(元禄13)3月21日没。36才。法名「覺了院殿本源自光大姉」。
堀直景妻 生 元和7年 (1621年)没 正保4年 (1647年) 1621年(元和7)生まれ。内藤忠興の養女として堀直景に嫁ぐ。直景との間に、直良、直行、直定の3男を儲ける。1647年(正保4)12月7日没。27才。法名「淨證院殿正峯惟清大姉」。西尾豊後守光教の娘と伝えられるも光教は1615年(元和元)に没していて年代的に合わない。
高力清長 生 享禄3年 (1530年)没 慶長13年 (1608年) 1530年(享禄3)安長の子として生まれる。松平広忠に仕え、のち徳川家康に仕える。1560年(永禄3)大高城の兵糧入れに従う。三河一向一揆のときは家康に従う。その後三河三奉行の1人となる。姉川の戦い、三方原の戦いなどに従う。1608年(慶長13)1月26日没。79才。法名「快光院殿廓誉道鎮大居士」。
高力正長 生 永禄元年 (1558年)没 慶長4年 (1599年) 1558年(永禄元)清長の子として生まれる。徳川家康に仕え、三方原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1599年(慶長4)4月22日没。法名「淨林院殿善室道喜大居士」。
島津久通 生 慶長9年 (1604年)没 延宝2年 (1674年) 宮之城島津家4代当主。1604年(慶長9)12月29日久元の長男として生まれる。島津家の家老職を務める。1672年(寛文12)9月家老職を辞す。1674年(延宝2)12月31日没。71才。法名「湛水院殿徳源道智大居士」。
松平忠倶妻 生 不明没 寛文8年 (1668年) 阿部重次の3女。松平定行の養女として松平忠倶に嫁ぐ。忠倶との間に、忠継を儲ける。1668年(寛文8)2月2日没。法名「常照院殿心譽清室光雲大姉」。東京都文京区の伝通院にも墓がある。
頴姓久甫妻 生 不明没 宝永4年 (1707年) 頴姓久友の3女。島津家の久甫に嫁ぎ、婿とする。久甫との間に、島津久住妻、久明、女子、熊鶴の2男2女を儲ける。1707年(宝永4)11月3日没。法名「弾月院琴操妙指大姉」。
頴姓久甫 生 正保元年 (1644年)没 享保元年 (1716年) 1644年(正保元)島津忠朗の3男として生まれる。頴娃久友の娘を娶り、久友の養子となる。薩摩阿多小根占伊作等の地頭頭。1716年(享保元)8月17日没。73才。法名「発光院湛海定印大居士」。
大久保教本 生 不明没 文政11年 (1828年) 教孝の次男。禮七郎。1828年(文政11)12月18日没。法名「觀智院殿光巌道照大居士」。兄の教業が1830年(文政13)に23才で没しているので、教本は20才も満たなく没していると思われる。実際系譜には早世とあり、11月18日没とあるも没年月日は墓石のほうに従った。世田谷区の教学院墓石も12月18日没となっている。墓石施主は父教孝。
奥平昌成妻 生 不明没 安永2年 (1773年) 沢渡氏。奥平昌成の妻となり、豊太郎、昌敦、内藤信興妻、昌純、女子、土屋篤直妻、堀田正邦妻、松平義峯の4男4女を儲ける。1773年(安永2)8月24日没。法名「松嶺院殿清嶽妙操大姉」。墓石は孫の昌鹿の建立による。
基太村久茂 生 慶長15年 (1610年)没 寛文9年 (1669年) 1610年(慶長15)10月6日島津久元の次男として生まれる。1616年(元和2)元服、主君島津家久より宝刀を賜る。家老職を務める。1669年(寛文9)6月14日没。60才。法名「喝眼聲前大居士」。
岩城重隆 生 寛永5年 (1628年)没 宝永4年 (1707年) 出羽亀田藩3代藩主。1628年(寛永5)宣隆の子として生まれる。母は真田幸村の娘。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。明暦の大火のときに活躍。1704年(宝永元)2月隠居。1707年(宝永4)12月11日没。80才。法名「大通院殿雄山月峯大居士」。
稲葉正吉 生 元和4年 (1618年)没 明暦2年 (1656年) 1618年(元和4)正成の10男として生まれる。兄正次が没したとき5千石を譲り受け寄合となる。1656年(明暦2)7月3日駿府城にて男色の事により、家臣2人によって殺される。39才。法名「瑞雲院殿性山鉄心居士」。
稲葉正利 生 慶長9年 (1604年)没 延宝4年 (1676年) 1604年(慶長9)正成の子として生まれる。母は春日局。徳川忠長の家臣となる。忠長自害の後は細川忠利預かりとなる。行跡がかなり悪く処分が解かれることがなかった。1676年(延宝4)9月21日没。73才。法名「淨性院殿心安道清大居士」。
朽木定朝 生 慶安4年 (1651年)没 宝永5年 (1708年) 1651年(慶安4)智綱の子として生まれる。1661年(寛文元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1668年(寛文8)12月跡を継ぐ。1708年(宝永5)閏1月4日没。58才。法名「巌梅院殿芳山良英大居士」。
朽木智綱 生 慶長3年 (1598年)没 寛文11年 (1671年) 1598年(慶長3)宣綱の子として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の隠居により跡を継ぐ。1668年(寛文8)12月隠居。1671年(寛文11)6月6日没。74才。法名「崇善院殿即翁紹心大居士」。
朽木宣綱 生 天正10年 (1582年)没 寛文2年 (1662年) 1582年(天正10)元綱の子として生まれる。豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに父と西軍として参戦。戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1662年(寛文2)5月1日没。81才。法名「真源院殿春谷宗玄大居士」。
野々山兼周 生 慶長18年 (1613年)没 寛文12年 (1672年) 1613年(慶長18)兼綱の子として生まれる。父の隠居により1664年(寛文4)6月跡を継ぐ。1672年(寛文12)3月22日没。60才。法名「春窓院殿真譽道慶居士」。