⚔ No Image 伊東祐豊妻 生 不明没 寛永17年 (1640年) 内藤政長の8女。名は喜羅子。伊東祐豊に嫁ぐ。1640年(寛永17)4月5日没。法名「寶龍院殿華月榮壽大姉」。(参考資料:内藤家文書 編著 1)
本多忠栄妻 生 不明没 安永8年 (1779年) 黒田直基の娘。名は於嘉代。黒田直純の養女として本多忠栄に嫁ぎ、忠直を儲ける。1779年(安永8)7月没。法名「直松院殿貞譽入信寳壽大姉」。(参考資料:千葉県史料 近世篇 久留里藩制一班)
本多忠統妻 生 不明没 安永7年 (1778年) 寛政重修諸家譜では某氏とある。本多忠統に嫁ぎ、女子、女子、康桓、女子、忠栄、藤堂良由妻の2男4女を儲ける。1778年(安永7)6月没。法名「松向院殿心譽楽貞大姉」。(参考資料:本朝武家諸姓分脈系図)
⚔ No Image フリードリッヒ・マックス・トラウツ 生 明治10年 (1877年)没 昭和27年 (1952年) 1877年(明治10)6月3日ドイツに生まれる。第一次世界大戦ではドイツ軍として参戦。日本研究家で、「高野山根本大塔の研究」という論文をドイツ語に翻訳するなど日独両国交流に尽力。1952年(昭和27)没。墓碑は、鈴木大拙により1933年(昭和8)9月28日に建立。
⚔ No Image 土方義苗妻 生 不明没 弘化4年 (1847年) 田沼意致の娘。田沼意知の養女として土方義苗に嫁ぐ。義苗との間に雄興を儲ける。1847年(弘化4)10月22日没。法名「霊松院殿鶴林永壽大姉」。
⚔ No Image 土方豊高 生 寛文2年 (1662年)没 元禄11年 (1698年) 1662年(寛文2)雄豊の子として生まれる。1672年(寛文12)将軍徳川家綱に拝謁。1698年(元禄11)5月23日没。37才。法名「真照院殿彗鑑玄光居士」。
松浦棟妻(桃源院) 生 正保2年 (1645年)没 延宝3年 (1675年) 1645年(正保2)松平信綱の娘として生まれる。1662年(寛文2)18才で松浦棟に嫁ぐ。棟との間に子は出来ず。1675年(延宝3)1月31日没。31才。法名「桃源院殿夭菴貞春大姉」。父信綱の菩提寺埼玉県新座市の平林寺にも五輪塔がある。(参考資料:素行子山鹿甚五左衛門)
松浦棟妻(松林院) 生 不明没 享保3年 (1718年) 松浦棟の側室。奥田氏と思われるも詳細不明。兵庫県姫路市網干区龍門寺の刺繍の涅槃像に「肥前平戸侯兼壱州牧任(任は棟の前名)公夫人、松林院榮嶽壽貞手繰藉絲」とある。1718年(享保3)4月7日没。法名「松林院殿榮嶽壽貞大姉」。
⚔ No Image 戸田忠重妻 生 不明没 元和9年 (1623年) 戸田吉光の娘 。戸田忠重に嫁ぎ、松平真乘妻、康長、宣直、甚五郎の3男1女を儲ける。1623年(元和9)8月9日信州にて没。法名「松壽院殿繁室賢盛大姉」。(参考資料:岐阜県史 史料編 近世第2)
⚔ No Image 松平光永妻 生 慶安2年 (1649年)没 宝永8年 (1711年) 1649年(慶安2)松平典信の長女として生まれる。母は板倉重宗の娘。松平光永に嫁ぎ、堀直利妻(離縁)、女子の2女を儲ける。1711年(宝永8)2月9日没。63才。法名「清貞院殿桂巖秋香大姉」。(参考資料:戸田松平家系譜)
⚔ No Image 北条氏朝妻 生 不明没 元文2年 (1737年) 秋月種信の娘。北条氏朝の後室となり、女子、氏貞、民部、女子の2男2女を儲ける。1737年(元文2)12月23日没。法名「永暁院殿貞良融室信尼」。
⚔ No Image 田中角栄 生 大正7年 (1918年)没 平成5年 (1993年) 1918年(大正7)5月4日角次の次男として新潟県に生まれる。実家は農家。角栄は上京して実業家として成功。戦後、政界入り。郵政大臣、大蔵大臣、内閣総理大臣を務める。ロッキード事件により実刑判決。1993年(平成5)12月16日没。貧しい農家の出で総理大臣まで登りつめ「今太閤」と称された。墓石は「今太閤」の由来となった豊臣秀吉の横に、2026年(令和8)に建立。
大岡忠正娘 生 文化5年 (1808年)没 文化7年 (1810年) 1808年(文化5)9月27日大岡忠正の娘として生まれる。名は於藤。1810年(文化7)10月8日没。3才。法名「寶臺院殿瓊林妙光大姉」。
大岡忠正妻(本壽院) 生 天明4年 (1784年)没 文政2年 (1819年) 1784年(天明4)1月24日水野忠鼎の娘として生まれる。名は於栄。1798年(寛政10)大岡忠正に嫁ぎ、忠正との間に於米、助太郎、於恒、友次郎の2男2女を儲ける。1819年(文政2)7月23日没。36才。法名「本壽院殿浄室妙慶大姉」。(参考資料:武州岩槻藩大岡家史料)
大岡忠喜妻 生 不明没 宝暦11年 (1761年) 本多忠強の娘。井上正経の養女として大岡忠喜に嫁ぐ。忠喜との間に、女子の1女を儲ける。1761年(宝暦11)8月9日没。法名「秋清院殿月溪眞光大姉」。(参考資料:武州岩槻藩大岡家史料)
⚔ No Image 戸田光重妻 生 不明没 元禄11年 (1698年) 栗山氏。戸田光重に嫁ぎ、光永の1男を儲ける。1698年(元禄11)4月4日没。法名「 江照院殿松月良清大姉」。(参考資料:戸田松平家系譜)
松平忠昌妻(慶壽院) 生 不明没 万治元年 (1658年) 広橋兼賢の娘。名は道姫。松平忠昌の継室となる。忠昌との間に、光通、毛利綱広妻の1男1女を儲ける。1658年(万治元)8月17日没。法名「慶壽院殿淨誉月窓清心大禅定尼」。墓石は息子光通の建立による。
水野範明 生 安永2年 (1773年)没 文化2年 (1805年) 1773年(安永2)忠奇の長男として生まれる。1788年(天明8)4月将軍徳川家斉に拝謁。家督を継ぐことなく1805年(文化2)7月22日没。33才。法名「本聖院殿考懿日徳大居士」。(参考資料:水野家系譜)
内藤忠政妻 生 不明没 明暦3年 (1657年) 板倉重宗の娘。内藤忠政に嫁ぎ、忠次、戸田氏西妻、安部信友妻、菅沼定賞妻、浅野長友妻、忠勝の2男4女を儲ける。1657年(明暦3)1月22日没。法名「長香院殿法誉智教大姉」。(参考資料:諸家系譜)
山中秀重妻 生 寛永9年 (1632年)没 慶安元年 (1648年) 1632年(寛永9)鴻池之政の長女として生まれる。山中喜兵衛秀重の妻となる。1648年(慶安元)8月21日没。17才。法名「前窓貞現」。(参考資料:諸系譜 第8冊)
山中政喜妻 生 寛永18年 (1641年)没 万治元年 (1658年) 1641年(寛永18)鴻池之政の3女として生まれる。名は小萬子。山中与右衛門政喜の妻となる。1658年(万治元)9月16日没。18才。法名「勝山妙壽禅定尼」。(参考資料:諸系譜 第8冊)
鴻池之休妻 生 正保2年 (1645年)没 万治3年 (1660年) 1645年(正保2)鴻池之政の4女として生まれる。名は亀子。鴻池之休の妻となる。1660年(万治3)6月16日没。16才。法名「泉巖意清大姉」。(参考資料:諸系譜 第8冊)
富永守平 生 宝暦5年 (1755年)没 寛政2年 (1790年) 1755年(宝暦5)守英の次男として生まれる。1778年(安永7)大番となる。父の死により1790年(寛政2)5月跡を継ぐ。同年9月15日没。36才。法名「寂寥院殿見譽観光秋應大居士」。
伊東長詮妻 生 延享元年 (1744年)没 文政3年 (1820年) 1744年(延享元)3月4日五島盛道の次女として生まれる。伊東長丘の間に、長寛、朽木昌綱妻(のち離縁)、長庚、女子、松平康彊妻(のち離縁)の2男3女を儲ける。1820年(文政3)7月28日没。77才。法名「松仙院殿壽山海雲大姉」。
伊東長詮 生 元文元年 (1736年)没 安永7年 (1778年) 備中岡田藩7代藩主。1736年(元文元)長丘の3男として生まれる。1752年(宝暦2)3月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1763年(宝暦13)9月跡を継ぐ。1778年(安永7)6月29日没。43才。法名「龍泉院殿英嶽長雄大居士」。
米田是春妻 生 元禄8年 (1695年)没 明和3年 (1766年) 1695年(元禄8)10月9日寿之の長女として生まれる。名は津勢。米田是春の妻となり是福を儲ける。1766年(明和3)7月6日没。72才。法名「菱花院殿體眞壽光禅尼」。(参考資料:八代市史 近世史料編 8)
南条元知 生 寛永18年 (1641年)没 元禄16年 (1703年) 1641年(寛永18)細川忠利の4男として生まれる。南条元信の養子となる。細川家の家老職。1665年(寛文5)からは長岡姓。1669年(寛文9)細川綱利に諫言したため蟄居となり、剃髪して道固と号す。1703年(元禄16)11月1日没。63才。法名「養仙院定巖道固大居士」。
亘理宗根 生 慶長5年 (1600年)没 寛文9年 (1669年) 1600年(慶長5)伊達政宗の庶子として生まれる。母は香の前。茂庭綱元の子として育てられる。亘理重宗の娘を娶り婿となる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。大野治長の臣中川隼人を討取る。1669年(寛文9)10月26日没。70才。法名「超勝院殿格外玄秀大居士」。法名は超誓院殿だがこの墓碑には「超勝院殿」とある。
茂庭茂行 生 元和4年 (1618年)没 延宝5年 (1677年) 1618年(元和4)良元の次男として生まれる。病のため跡を継ぐことが出来ず。主君伊達忠宗の命により叔父実元の養子となる。1677年(延宝5)6月2日没。60才。法名「形山院殿月齋洞明居士」。墓石施主は子の恒真による。
甲斐庄正昉 生 寛保2年 (1742年)没 寛政7年 (1795年) 1742年(寛保2)正寿の次男として生まれる。兄正堅の養子とな、正堅の死により1767年(明和4)10月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1795年(寛政7)12月27日没。54才。法名「聖箭院殿鐵關玄透居士」。
甲斐庄正堅 生 享保20年 (1735年)没 明和4年 (1767年) 1735年(享保20)正寿の長男として生まれる。父の死により1745年(延享2)8月跡を継ぐ。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)8月31日没。33才。法名「坎功院殿篤了謙忠居士」。
甲斐庄正寿 生 享保4年 (1719年)没 延享2年 (1745年) 1719年(享保4)正恒の次男として生まれる。父の失心により1723年(享保8)7月跡を継ぐ。1737年(元文2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)5月26日没。27才。法名「泰岳院殿義山玄道居士」。
甲斐庄正恒 生 元禄4年 (1691年)没 宝暦9年 (1759年) 1691年(元禄4)堀直佑の3男として生まれる。甲斐庄正永の養女を娶り養子となる。1710年(宝永7)7月将軍徳川家宣に拝謁。正永の死により1717年(享保2)6月跡を継ぐ。1723年(享保8)5月失心により蟄居となる。1759年(宝暦9)閏7月22日没。69才。法名「桂山院殿月秋常圓居士」。
小出英常 生 寛保3年 (1743年)没 安永4年 (1775年) 丹波園部藩6代藩主。1743年(寛保3)2月12日英持の次男として生まれる。1755年(宝暦5)4月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1767年(明和4)12月跡を継ぐ。1775年(安永4)9月20日没。33才。法名「霊源院殿猷峯紹機大居士」。
小出英常娘(芳林院) 生 明和7年 (1770年)没 安永4年 (1775年) 1770年(明和7)10月26日小出英常の3女として生まれる。名は於八千。1775年(安永4)2月5日没。6才。法名「芳林院殿雲岳妙紅童女」。
小出英常妻(心源院) 生 不明没 明和2年 (1765年) 身分の低い出と思われる。小出英常との間に、於銀、稲垣定淳妻の2女を儲ける。1765年(明和2)9月27日没。法名「心源院機屋妙輪大姉」。寛政重修諸家譜では他2女を儲けたように記載あるも、この2女は心源院没後の生まれである。
小出英持 生 宝永3年 (1706年)没 明和4年 (1767年) 丹波園部藩5代藩主。1706年(宝永3)英貞の長男として生まれる。1716年(享保元)閏2月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1744年(延享元)12月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄を務む。1767年(明和4)10月15日没。62才。法名「青霄院殿透嶺義關大居士」。
小出英常娘(清光院) 生 宝暦10年 (1760年)没 明和3年 (1766年) 1760年(宝暦10)11月2日小出英常の長女として生まれる。名は於銀。1766年(明和3)7月1日没。7才。法名「清光院殿寶月宗璵童女」。
伊東長丘 生 元禄10年 (1697年)没 天明2年 (1782年) 備中岡田藩6代藩主。1697年(元禄10)長救の長男として生まれる。1708年(宝永5)3月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1723年(享保8)3月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1782年(天明2)10月8日没。86才。法名「實相院殿悠嶽淨久大居士」。
平岡吉房 生 元和5年 (1619年)没 元禄6年 (1693年) 1619年(元和5)吉道の長男として生まれる。父の跡は弟が継ぎ、別家となる。1653年(承応2)6月より徳川綱吉のもと代官を務む。1693年(元禄6)5月4日没。75才。法名「正經寺休翁宇閑居士」。墓石には「元禄七年五月四日」とあるのが寛政重修諸家譜は1693年(元禄6)としている。
松平忠宜 生 享保14年 (1729年)没 宝暦6年 (1756年) 1729年(享保14)土井利庸の次男として生まれる。松平忠堅の養子となる。忠堅の死により1756年(宝暦6)8月跡を継ぐも、同年10月25日没。28才。法名「隆光院殿嶺雲宗松居士」。