亘理宗根の墓碑
亘理宗根
生 慶長5年 (1600年)
没 寛文9年 (1669年)
1600年(慶長5)伊達政宗の庶子として生まれる。母は香の前。茂庭綱元の子として育てられる。亘理重宗の娘を娶り婿となる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。大野治長の臣中川隼人を討取る。1669年(寛文9)10月26日没。70才。法名「超勝院殿格外玄秀大居士」。法名は超誓院殿だがこの墓碑には「超勝院殿」とある。
茂庭茂行の墓碑
茂庭茂行
生 元和4年 (1618年)
没 延宝5年 (1677年)
1618年(元和4)良元の次男として生まれる。病のため跡を継ぐことが出来ず。主君伊達忠宗の命により叔父実元の養子となる。1677年(延宝5)6月2日没。60才。法名「形山院殿月齋洞明居士」。墓石施主は子の恒真による。
茂庭良元妻の墓碑
茂庭良元妻
生 不明
没 寛文6年 (1666年)
成田氏。茂庭良元に嫁ぎ、茂行を儲ける。1666年(寛文6)12月3日没。法名「永明院殿覺心宗鏡大姉」。墓石は息子大蔵茂行の建立による。
甲斐庄正昉の墓碑
甲斐庄正昉
生 寛保2年 (1742年)
没 寛政7年 (1795年)
1742年(寛保2)正寿の次男として生まれる。兄正堅の養子とな、正堅の死により1767年(明和4)10月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1795年(寛政7)12月27日没。54才。法名「聖箭院殿鐵關玄透居士」。
甲斐庄正堅の墓碑
甲斐庄正堅
生 享保20年 (1735年)
没 明和4年 (1767年)
1735年(享保20)正寿の長男として生まれる。父の死により1745年(延享2)8月跡を継ぐ。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)8月31日没。33才。法名「坎功院殿篤了謙忠居士」。
甲斐庄正寿の墓碑
甲斐庄正寿
生 享保4年 (1719年)
没 延享2年 (1745年)
1719年(享保4)正恒の次男として生まれる。父の失心により1723年(享保8)7月跡を継ぐ。1737年(元文2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)5月26日没。27才。法名「泰岳院殿義山玄道居士」。
甲斐庄正恒の墓碑
甲斐庄正恒
生 元禄4年 (1691年)
没 宝暦9年 (1759年)
1691年(元禄4)堀直佑の3男として生まれる。甲斐庄正永の養女を娶り養子となる。1710年(宝永7)7月将軍徳川家宣に拝謁。正永の死により1717年(享保2)6月跡を継ぐ。1723年(享保8)5月失心により蟄居となる。1759年(宝暦9)閏7月22日没。69才。法名「桂山院殿月秋常圓居士」。
小出英常の墓碑
小出英常
生 寛保3年 (1743年)
没 安永4年 (1775年)
丹波園部藩6代藩主。1743年(寛保3)2月12日英持の次男として生まれる。1755年(宝暦5)4月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1767年(明和4)12月跡を継ぐ。1775年(安永4)9月20日没。33才。法名「霊源院殿猷峯紹機大居士」。
小出英常娘(芳林院)の墓碑
小出英常娘(芳林院)
生 明和7年 (1770年)
没 安永4年 (1775年)
1770年(明和7)10月26日小出英常の3女として生まれる。名は於八千。1775年(安永4)2月5日没。6才。法名「芳林院殿雲岳妙紅童女」。
小出英持妻(自性院)の墓碑
小出英持妻(自性院)
生 不明
没 明和6年 (1769年)
身分の低い出と思われる。小出英持との間に、英常を儲ける。1769年(明和6)5月6日没。法名「自性院殿本源妙眞大姉」。
小出英常妻(心源院)の墓碑
小出英常妻(心源院)
生 不明
没 明和2年 (1765年)
身分の低い出と思われる。小出英常との間に、於銀、稲垣定淳妻の2女を儲ける。1765年(明和2)9月27日没。法名「心源院機屋妙輪大姉」。寛政重修諸家譜では他2女を儲けたように記載あるも、この2女は心源院没後の生まれである。
小出英持の墓碑
小出英持
生 宝永3年 (1706年)
没 明和4年 (1767年)
丹波園部藩5代藩主。1706年(宝永3)英貞の長男として生まれる。1716年(享保元)閏2月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1744年(延享元)12月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄を務む。1767年(明和4)10月15日没。62才。法名「青霄院殿透嶺義關大居士」。
小出英常娘(清光院)の墓碑
小出英常娘(清光院)
生 宝暦10年 (1760年)
没 明和3年 (1766年)
1760年(宝暦10)11月2日小出英常の長女として生まれる。名は於銀。1766年(明和3)7月1日没。7才。法名「清光院殿寶月宗璵童女」。
小出英常妻(玉峯院)の墓碑
小出英常妻(玉峯院)
生 不明
没 宝暦13年 (1763年)
土井利信の娘。小出英常の間に子は出来ず。1763年(宝暦13)1月15日没。法名「玉峯院殿心月宗圓大姉」。
伊東長丘妻の墓碑
伊東長丘妻
生 不明
没 天明4年 (1784年)
本多助芳の娘。伊東長丘の継室となり、於園、長詮、熊之助、於増の2男2女を儲ける。1784年(天明4)8月2日没。法名「瑞雲院殿蓮臺長遊大姉」。
伊東長丘の墓碑
伊東長丘
生 元禄10年 (1697年)
没 天明2年 (1782年)
備中岡田藩6代藩主。1697年(元禄10)長救の長男として生まれる。1708年(宝永5)3月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1723年(享保8)3月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1782年(天明2)10月8日没。86才。法名「實相院殿悠嶽淨久大居士」。
平岡吉房妻の墓碑
平岡吉房妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
田代氏。吉房との間に、資補、資明の2男他を儲ける。1685年(貞享2)2月20日没。法名「陽光院殿梅岩芳春大姉」。
平岡吉房の墓碑
平岡吉房
生 元和5年 (1619年)
没 元禄6年 (1693年)
1619年(元和5)吉道の長男として生まれる。父の跡は弟が継ぎ、別家となる。1653年(承応2)6月より徳川綱吉のもと代官を務む。1693年(元禄6)5月4日没。75才。法名「正經寺休翁宇閑居士」。墓石には「元禄七年五月四日」とあるのが寛政重修諸家譜は1693年(元禄6)としている。
松平忠宜の墓碑
松平忠宜
生 享保14年 (1729年)
没 宝暦6年 (1756年)
1729年(享保14)土井利庸の次男として生まれる。松平忠堅の養子となる。忠堅の死により1756年(宝暦6)8月跡を継ぐも、同年10月25日没。28才。法名「隆光院殿嶺雲宗松居士」。
堀直宥妻の墓碑
堀直宥妻
生 寛文5年 (1665年)
没 元禄13年 (1700年)
1665年(寛文5)桑山一玄の娘として生まれる。岡部行隆の養女として1686年(貞享3)6月堀直宥に嫁ぐ。直宥との間に、直央、女子、直意の2男1女を儲ける。1700年(元禄13)3月21日没。36才。法名「覺了院殿本源自光大姉」。
堀直景妻の墓碑
堀直景妻
生 元和7年 (1621年)
没 正保4年 (1647年)
1621年(元和7)生まれ。内藤忠興の養女として堀直景に嫁ぐ。直景との間に、直良、直行、直定の3男を儲ける。1647年(正保4)12月7日没。27才。法名「淨證院殿正峯惟清大姉」。西尾豊後守光教の娘と伝えられるも光教は1615年(元和元)に没していて年代的に合わない。
高力清長の墓碑
高力清長
生 享禄3年 (1530年)
没 慶長13年 (1608年)
1530年(享禄3)安長の子として生まれる。松平広忠に仕え、のち徳川家康に仕える。1560年(永禄3)大高城の兵糧入れに従う。三河一向一揆のときは家康に従う。その後三河三奉行の1人となる。姉川の戦い、三方原の戦いなどに従う。1608年(慶長13)1月26日没。79才。法名「快光院殿廓誉道鎮大居士」。
高力正長の墓碑
高力正長
生 永禄元年 (1558年)
没 慶長4年 (1599年)
1558年(永禄元)清長の子として生まれる。徳川家康に仕え、三方原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1599年(慶長4)4月22日没。法名「淨林院殿善室道喜大居士」。
島津久通の墓碑
島津久通
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝2年 (1674年)
宮之城島津家4代当主。1604年(慶長9)12月29日久元の長男として生まれる。島津家の家老職を務める。1672年(寛文12)9月家老職を辞す。1674年(延宝2)12月31日没。71才。法名「湛水院殿徳源道智大居士」。
松平忠倶妻の墓碑
松平忠倶妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
阿部重次の3女。松平定行の養女として松平忠倶に嫁ぐ。忠倶との間に、忠継を儲ける。1668年(寛文8)2月2日没。法名「常照院殿心譽清室光雲大姉」。東京都文京区の伝通院にも墓がある。
頴姓久甫妻の墓碑
頴姓久甫妻
生 不明
没 宝永4年 (1707年)
頴姓久友の3女。島津家の久甫に嫁ぎ、婿とする。久甫との間に、島津久住妻、久明、女子、熊鶴の2男2女を儲ける。1707年(宝永4)11月3日没。法名「弾月院琴操妙指大姉」。
頴姓久甫の墓碑
頴姓久甫
生 正保元年 (1644年)
没 享保元年 (1716年)
1644年(正保元)島津忠朗の3男として生まれる。頴娃久友の娘を娶り、久友の養子となる。薩摩阿多小根占伊作等の地頭頭。1716年(享保元)8月17日没。73才。法名「発光院湛海定印大居士」。
萩田四郎兵衛の墓碑
萩田四郎兵衛
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
白石宗貞の家臣。名は重慶。主君宗貞が1644年(寛永21)4月11日没すると同月27日殉死。墓石には主君の命日「寛永廿一〇四月十一日」が見える。
大久保教本の墓碑
大久保教本
生 不明
没 文政11年 (1828年)
教孝の次男。禮七郎。1828年(文政11)12月18日没。法名「觀智院殿光巌道照大居士」。兄の教業が1830年(文政13)に23才で没しているので、教本は20才も満たなく没していると思われる。実際系譜には早世とあり、11月18日没とあるも没年月日は墓石のほうに従った。世田谷区の教学院墓石も12月18日没となっている。墓石施主は父教孝。
水谷弥五郎の墓碑
水谷弥五郎
生 不明
没 万治3年 (1660年)
勝宗の長男。1654年(承応3)9月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1660年(万治3)12月27日没。法名「本光院殿醍山厳夢大居士」。
奥平昌成妻の墓碑
奥平昌成妻
生 不明
没 安永2年 (1773年)
沢渡氏。奥平昌成の妻となり、豊太郎、昌敦、内藤信興妻、昌純、女子、土屋篤直妻、堀田正邦妻、松平義峯の4男4女を儲ける。1773年(安永2)8月24日没。法名「松嶺院殿清嶽妙操大姉」。墓石は孫の昌鹿の建立による。
基太村久茂の墓碑
基太村久茂
生 慶長15年 (1610年)
没 寛文9年 (1669年)
1610年(慶長15)10月6日島津久元の次男として生まれる。1616年(元和2)元服、主君島津家久より宝刀を賜る。家老職を務める。1669年(寛文9)6月14日没。60才。法名「喝眼聲前大居士」。
戸沢定盛娘の墓碑
戸沢定盛娘
生 寛永4年 (1627年)
没 慶安元年 (1648年)
1627年(寛永4)戸沢定盛の娘として生まれる。名は風子。1648年(慶安元)1月22日没。22才。法名「高照院殿梅英寒公大姉」。
岩城重隆の墓碑
岩城重隆
生 寛永5年 (1628年)
没 宝永4年 (1707年)
出羽亀田藩3代藩主。1628年(寛永5)宣隆の子として生まれる。母は真田幸村の娘。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。明暦の大火のときに活躍。1704年(宝永元)2月隠居。1707年(宝永4)12月11日没。80才。法名「大通院殿雄山月峯大居士」。
稲葉正吉の墓碑
稲葉正吉
生 元和4年 (1618年)
没 明暦2年 (1656年)
1618年(元和4)正成の10男として生まれる。兄正次が没したとき5千石を譲り受け寄合となる。1656年(明暦2)7月3日駿府城にて男色の事により、家臣2人によって殺される。39才。法名「瑞雲院殿性山鉄心居士」。
稲葉正利の墓碑
稲葉正利
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝4年 (1676年)
1604年(慶長9)正成の子として生まれる。母は春日局。徳川忠長の家臣となる。忠長自害の後は細川忠利預かりとなる。行跡がかなり悪く処分が解かれることがなかった。1676年(延宝4)9月21日没。73才。法名「淨性院殿心安道清大居士」。
野々山兼周妻の墓碑
野々山兼周妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
詳細不明。川村重久の娘と思われる。1651年(慶安4)9月14日没。法名「芳壽院殿生安栄覚禅定尼」。
野々山兼綱妻の墓碑
野々山兼綱妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
石川忠勝の娘。兼綱との間に兼周、兼宗、元綱の3男を儲ける。1623年(元和9)11月5日没。法名「摂取院殿心月受光大信女」。
朽木定朝の墓碑
朽木定朝
生 慶安4年 (1651年)
没 宝永5年 (1708年)
1651年(慶安4)智綱の子として生まれる。1661年(寛文元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1668年(寛文8)12月跡を継ぐ。1708年(宝永5)閏1月4日没。58才。法名「巌梅院殿芳山良英大居士」。
朽木智綱の墓碑
朽木智綱
生 慶長3年 (1598年)
没 寛文11年 (1671年)
1598年(慶長3)宣綱の子として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の隠居により跡を継ぐ。1668年(寛文8)12月隠居。1671年(寛文11)6月6日没。74才。法名「崇善院殿即翁紹心大居士」。
朽木宣綱妻の墓碑
朽木宣綱妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
伴氏。朽木宣綱との間に、良綱、元綱の2男を儲ける。1667年(寛文7)2月18日没。法名「好秋院殿栄岳貞〇大姉」。
朽木宣綱の墓碑
朽木宣綱
生 天正10年 (1582年)
没 寛文2年 (1662年)
1582年(天正10)元綱の子として生まれる。豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに父と西軍として参戦。戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1662年(寛文2)5月1日没。81才。法名「真源院殿春谷宗玄大居士」。
野々山兼周の墓碑
野々山兼周
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文12年 (1672年)
1613年(慶長18)兼綱の子として生まれる。父の隠居により1664年(寛文4)6月跡を継ぐ。1672年(寛文12)3月22日没。60才。法名「春窓院殿真譽道慶居士」。
野々山兼綱の墓碑
野々山兼綱
生 天正19年 (1591年)
没 寛文7年 (1667年)
1591年(天正19)上田信綱の子として生まれる。野々山頼兼の養子となる。1605年(慶長10)9月将軍徳川秀忠に拝謁。大坂の両陣に参戦。1664年(寛文4)4月隠居。1667年(寛文7)10月28日没。77才。法名「松岳院殿然譽廓玄無世居士」。
野々山頼兼の墓碑
野々山頼兼
生 元亀3年 (1572年)
没 慶長9年 (1604年)
1572年(元亀3)元政の子として生まれる。徳川家康に仕え、後に徳川秀忠付きとなる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。1604年(慶長9)7月22日没。33才。法名「善芳浄受禅定門」。
天野長頼の墓碑
天野長頼
生 寛永19年 (1642年)
没 元禄2年 (1689年)
1642年(寛永19)長重の3男として生まれる。1660年(万治3)9月将軍徳川家綱に拝謁。御小姓組の番士を務む。1689年(元禄2)7月5日没。48才。法名「長賢」。
天野繁昌の墓碑
天野繁昌
生 弘治3年 (1557年)
没 慶長19年 (1614年)
1557年(弘治3)景隆の3男として生まれる。徳川家康の長男松平信康に仕える。のち家康家臣となり駿河にて采地200石。1614年(慶長19)10月19日没。58才。法名「安養院殿」。
内藤正迪の墓碑
内藤正迪
生 享和3年 (1803年)
武蔵栢間12代領主。1803年(享和3)正弘の長男として生まれる。父の死により1822年(文政5)跡を継ぐ。1826年(文政9)2月15日没。24才。法名「慧俊院殿篤譽守静道久居士」。
内藤正範妻(智照院)の墓碑
内藤正範妻(智照院)
生 不明
没 寛政2年 (1790年)
内藤信庸の娘。内藤正範の後室。1790年(寛政2)6月30日没。法名「智照院殿光譽無辺大姉」。埼玉県久喜市菖蒲町の善宗寺にも墓がある。
内藤正弘妻(殊妙院)の墓碑
内藤正弘妻(殊妙院)
生 不明
没 寛政6年 (1794年)
内藤正弘の先妻。詳細不明。1794年(寛政6)1月25日没。法名「殊妙院殿心譽慈念大姉」。埼玉県久喜市菖蒲町の善宗寺にも墓がある。