亘理宗根の墓碑
亘理宗根
生 慶長5年 (1600年)
没 寛文9年 (1669年)
1600年(慶長5)伊達政宗の庶子として生まれる。母は香の前。茂庭綱元の子として育てられる。亘理重宗の娘を娶り婿となる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。大野治長の臣中川隼人を討取る。1669年(寛文9)10月26日没。70才。法名「超勝院殿格外玄秀大居士」。法名は超誓院殿だがこの墓碑には「超勝院殿」とある。
茂庭茂行の墓碑
茂庭茂行
生 元和4年 (1618年)
没 延宝5年 (1677年)
1618年(元和4)良元の次男として生まれる。病のため跡を継ぐことが出来ず。主君伊達忠宗の命により叔父実元の養子となる。1677年(延宝5)6月2日没。60才。法名「形山院殿月齋洞明居士」。墓石施主は子の恒真による。
茂庭良元妻の墓碑
茂庭良元妻
生 不明
没 寛文6年 (1666年)
成田氏。茂庭良元に嫁ぎ、茂行を儲ける。1666年(寛文6)12月3日没。法名「永明院殿覺心宗鏡大姉」。墓石は息子大蔵茂行の建立による。
甲斐庄正昉の墓碑
甲斐庄正昉
生 寛保2年 (1742年)
没 寛政7年 (1795年)
1742年(寛保2)正寿の次男として生まれる。兄正堅の養子とな、正堅の死により1767年(明和4)10月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1795年(寛政7)12月27日没。54才。法名「聖箭院殿鐵關玄透居士」。
甲斐庄正堅の墓碑
甲斐庄正堅
生 享保20年 (1735年)
没 明和4年 (1767年)
1735年(享保20)正寿の長男として生まれる。父の死により1745年(延享2)8月跡を継ぐ。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)8月31日没。33才。法名「坎功院殿篤了謙忠居士」。
甲斐庄正寿の墓碑
甲斐庄正寿
生 享保4年 (1719年)
没 延享2年 (1745年)
1719年(享保4)正恒の次男として生まれる。父の失心により1723年(享保8)7月跡を継ぐ。1737年(元文2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)5月26日没。27才。法名「泰岳院殿義山玄道居士」。
甲斐庄正恒の墓碑
甲斐庄正恒
生 元禄4年 (1691年)
没 宝暦9年 (1759年)
1691年(元禄4)堀直佑の3男として生まれる。甲斐庄正永の養女を娶り養子となる。1710年(宝永7)7月将軍徳川家宣に拝謁。正永の死により1717年(享保2)6月跡を継ぐ。1723年(享保8)5月失心により蟄居となる。1759年(宝暦9)閏7月22日没。69才。法名「桂山院殿月秋常圓居士」。
小出英常の墓碑
小出英常
生 寛保3年 (1743年)
没 安永4年 (1775年)
丹波園部藩6代藩主。1743年(寛保3)2月12日英持の次男として生まれる。1755年(宝暦5)4月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1767年(明和4)12月跡を継ぐ。1775年(安永4)9月20日没。33才。法名「霊源院殿猷峯紹機大居士」。
小出英常娘(芳林院)の墓碑
小出英常娘(芳林院)
生 明和7年 (1770年)
没 安永4年 (1775年)
1770年(明和7)10月26日小出英常の3女として生まれる。名は於八千。1775年(安永4)2月5日没。6才。法名「芳林院殿雲岳妙紅童女」。
小出英持妻(自性院)の墓碑
小出英持妻(自性院)
生 不明
没 明和6年 (1769年)
身分の低い出と思われる。小出英持との間に、英常を儲ける。1769年(明和6)5月6日没。法名「自性院殿本源妙眞大姉」。
小出英常妻(心源院)の墓碑
小出英常妻(心源院)
生 不明
没 明和2年 (1765年)
身分の低い出と思われる。小出英常との間に、於銀、稲垣定淳妻の2女を儲ける。1765年(明和2)9月27日没。法名「心源院機屋妙輪大姉」。寛政重修諸家譜では他2女を儲けたように記載あるも、この2女は心源院没後の生まれである。
小出英持の墓碑
小出英持
生 宝永3年 (1706年)
没 明和4年 (1767年)
丹波園部藩5代藩主。1706年(宝永3)英貞の長男として生まれる。1716年(享保元)閏2月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1744年(延享元)12月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄を務む。1767年(明和4)10月15日没。62才。法名「青霄院殿透嶺義關大居士」。
小出英常娘(清光院)の墓碑
小出英常娘(清光院)
生 宝暦10年 (1760年)
没 明和3年 (1766年)
1760年(宝暦10)11月2日小出英常の長女として生まれる。名は於銀。1766年(明和3)7月1日没。7才。法名「清光院殿寶月宗璵童女」。
小出英常妻(玉峯院)の墓碑
小出英常妻(玉峯院)
生 不明
没 宝暦13年 (1763年)
土井利信の娘。小出英常の間に子は出来ず。1763年(宝暦13)1月15日没。法名「玉峯院殿心月宗圓大姉」。
伊東長丘妻の墓碑
伊東長丘妻
生 不明
没 天明4年 (1784年)
本多助芳の娘。伊東長丘の継室となり、於園、長詮、熊之助、於増の2男2女を儲ける。1784年(天明4)8月2日没。法名「瑞雲院殿蓮臺長遊大姉」。
伊東長丘の墓碑
伊東長丘
生 元禄10年 (1697年)
没 天明2年 (1782年)
備中岡田藩6代藩主。1697年(元禄10)長救の長男として生まれる。1708年(宝永5)3月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1723年(享保8)3月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1782年(天明2)10月8日没。86才。法名「實相院殿悠嶽淨久大居士」。
平岡吉房妻の墓碑
平岡吉房妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
田代氏。吉房との間に、資補、資明の2男他を儲ける。1685年(貞享2)2月20日没。法名「陽光院殿梅岩芳春大姉」。
平岡吉房の墓碑
平岡吉房
生 元和5年 (1619年)
没 元禄6年 (1693年)
1619年(元和5)吉道の長男として生まれる。父の跡は弟が継ぎ、別家となる。1653年(承応2)6月より徳川綱吉のもと代官を務む。1693年(元禄6)5月4日没。75才。法名「正經寺休翁宇閑居士」。墓石には「元禄七年五月四日」とあるのが寛政重修諸家譜は1693年(元禄6)としている。
松平忠宜の墓碑
松平忠宜
生 享保14年 (1729年)
没 宝暦6年 (1756年)
1729年(享保14)土井利庸の次男として生まれる。松平忠堅の養子となる。忠堅の死により1756年(宝暦6)8月跡を継ぐも、同年10月25日没。28才。法名「隆光院殿嶺雲宗松居士」。
堀直宥妻の墓碑
堀直宥妻
生 寛文5年 (1665年)
没 元禄13年 (1700年)
1665年(寛文5)桑山一玄の娘として生まれる。岡部行隆の養女として1686年(貞享3)6月堀直宥に嫁ぐ。直宥との間に、直央、女子、直意の2男1女を儲ける。1700年(元禄13)3月21日没。36才。法名「覺了院殿本源自光大姉」。
堀直景妻の墓碑
堀直景妻
生 元和7年 (1621年)
没 正保4年 (1647年)
1621年(元和7)生まれ。内藤忠興の養女として堀直景に嫁ぐ。直景との間に、直良、直行、直定の3男を儲ける。1647年(正保4)12月7日没。27才。法名「淨證院殿正峯惟清大姉」。西尾豊後守光教の娘と伝えられるも光教は1615年(元和元)に没していて年代的に合わない。
高力清長の墓碑
高力清長
生 享禄3年 (1530年)
没 慶長13年 (1608年)
1530年(享禄3)安長の子として生まれる。松平広忠に仕え、のち徳川家康に仕える。1560年(永禄3)大高城の兵糧入れに従う。三河一向一揆のときは家康に従う。その後三河三奉行の1人となる。姉川の戦い、三方原の戦いなどに従う。1608年(慶長13)1月26日没。79才。法名「快光院殿廓誉道鎮大居士」。
高力正長の墓碑
高力正長
生 永禄元年 (1558年)
没 慶長4年 (1599年)
1558年(永禄元)清長の子として生まれる。徳川家康に仕え、三方原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1599年(慶長4)4月22日没。法名「淨林院殿善室道喜大居士」。
島津久通の墓碑
島津久通
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝2年 (1674年)
宮之城島津家4代当主。1604年(慶長9)12月29日久元の長男として生まれる。島津家の家老職を務める。1672年(寛文12)9月家老職を辞す。1674年(延宝2)12月31日没。71才。法名「湛水院殿徳源道智大居士」。
松平忠倶妻の墓碑
松平忠倶妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
阿部重次の3女。松平定行の養女として松平忠倶に嫁ぐ。忠倶との間に、忠継を儲ける。1668年(寛文8)2月2日没。法名「常照院殿心譽清室光雲大姉」。東京都文京区の伝通院にも墓がある。
頴姓久甫妻の墓碑
頴姓久甫妻
生 不明
没 宝永4年 (1707年)
頴姓久友の3女。島津家の久甫に嫁ぎ、婿とする。久甫との間に、島津久住妻、久明、女子、熊鶴の2男2女を儲ける。1707年(宝永4)11月3日没。法名「弾月院琴操妙指大姉」。
頴姓久甫の墓碑
頴姓久甫
生 正保元年 (1644年)
没 享保元年 (1716年)
1644年(正保元)島津忠朗の3男として生まれる。頴娃久友の娘を娶り、久友の養子となる。薩摩阿多小根占伊作等の地頭頭。1716年(享保元)8月17日没。73才。法名「発光院湛海定印大居士」。
萩田四郎兵衛の墓碑
萩田四郎兵衛
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
白石宗貞の家臣。名は重慶。主君宗貞が1644年(寛永21)4月11日没すると同月27日殉死。墓石には主君の命日「寛永廿一〇四月十一日」が見える。
大久保教本の墓碑
大久保教本
生 不明
没 文政11年 (1828年)
教孝の次男。禮七郎。1828年(文政11)12月18日没。法名「觀智院殿光巌道照大居士」。兄の教業が1830年(文政13)に23才で没しているので、教本は20才も満たなく没していると思われる。実際系譜には早世とあり、11月18日没とあるも没年月日は墓石のほうに従った。世田谷区の教学院墓石も12月18日没となっている。墓石施主は父教孝。
水谷弥五郎の墓碑
水谷弥五郎
生 不明
没 万治3年 (1660年)
勝宗の長男。1654年(承応3)9月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1660年(万治3)12月27日没。法名「本光院殿醍山厳夢大居士」。
奥平昌成妻の墓碑
奥平昌成妻
生 不明
没 安永2年 (1773年)
沢渡氏。奥平昌成の妻となり、豊太郎、昌敦、内藤信興妻、昌純、女子、土屋篤直妻、堀田正邦妻、松平義峯の4男4女を儲ける。1773年(安永2)8月24日没。法名「松嶺院殿清嶽妙操大姉」。墓石は孫の昌鹿の建立による。
基太村久茂の墓碑
基太村久茂
生 慶長15年 (1610年)
没 寛文9年 (1669年)
1610年(慶長15)10月6日島津久元の次男として生まれる。1616年(元和2)元服、主君島津家久より宝刀を賜る。家老職を務める。1669年(寛文9)6月14日没。60才。法名「喝眼聲前大居士」。
戸沢定盛娘の墓碑
戸沢定盛娘
生 寛永4年 (1627年)
没 慶安元年 (1648年)
1627年(寛永4)戸沢定盛の娘として生まれる。名は風子。1648年(慶安元)1月22日没。22才。法名「高照院殿梅英寒公大姉」。
岩城重隆の墓碑
岩城重隆
生 寛永5年 (1628年)
没 宝永4年 (1707年)
出羽亀田藩3代藩主。1628年(寛永5)宣隆の子として生まれる。母は真田幸村の娘。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。明暦の大火のときに活躍。1704年(宝永元)2月隠居。1707年(宝永4)12月11日没。80才。法名「大通院殿雄山月峯大居士」。
稲葉正吉の墓碑
稲葉正吉
生 元和4年 (1618年)
没 明暦2年 (1656年)
1618年(元和4)正成の10男として生まれる。兄正次が没したとき5千石を譲り受け寄合となる。1656年(明暦2)7月3日駿府城にて男色の事により、家臣2人によって殺される。39才。法名「瑞雲院殿性山鉄心居士」。
稲葉正利の墓碑
稲葉正利
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝4年 (1676年)
1604年(慶長9)正成の子として生まれる。母は春日局。徳川忠長の家臣となる。忠長自害の後は細川忠利預かりとなる。行跡がかなり悪く処分が解かれることがなかった。1676年(延宝4)9月21日没。73才。法名「淨性院殿心安道清大居士」。
野々山兼周妻の墓碑
野々山兼周妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
詳細不明。川村重久の娘と思われる。1651年(慶安4)9月14日没。法名「芳壽院殿生安栄覚禅定尼」。
野々山兼綱妻の墓碑
野々山兼綱妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
石川忠勝の娘。兼綱との間に兼周、兼宗、元綱の3男を儲ける。1623年(元和9)11月5日没。法名「摂取院殿心月受光大信女」。
朽木定朝の墓碑
朽木定朝
生 慶安4年 (1651年)
没 宝永5年 (1708年)
1651年(慶安4)智綱の子として生まれる。1661年(寛文元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1668年(寛文8)12月跡を継ぐ。1708年(宝永5)閏1月4日没。58才。法名「巌梅院殿芳山良英大居士」。
朽木智綱の墓碑
朽木智綱
生 慶長3年 (1598年)
没 寛文11年 (1671年)
1598年(慶長3)宣綱の子として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の隠居により跡を継ぐ。1668年(寛文8)12月隠居。1671年(寛文11)6月6日没。74才。法名「崇善院殿即翁紹心大居士」。
朽木宣綱妻の墓碑
朽木宣綱妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
伴氏。朽木宣綱との間に、良綱、元綱の2男を儲ける。1667年(寛文7)2月18日没。法名「好秋院殿栄岳貞〇大姉」。
朽木宣綱の墓碑
朽木宣綱
生 天正10年 (1582年)
没 寛文2年 (1662年)
1582年(天正10)元綱の子として生まれる。豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに父と西軍として参戦。戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1662年(寛文2)5月1日没。81才。法名「真源院殿春谷宗玄大居士」。
野々山兼周の墓碑
野々山兼周
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文12年 (1672年)
1613年(慶長18)兼綱の子として生まれる。父の隠居により1664年(寛文4)6月跡を継ぐ。1672年(寛文12)3月22日没。60才。法名「春窓院殿真譽道慶居士」。
野々山兼綱の墓碑
野々山兼綱
生 天正19年 (1591年)
没 寛文7年 (1667年)
1591年(天正19)上田信綱の子として生まれる。野々山頼兼の養子となる。1605年(慶長10)9月将軍徳川秀忠に拝謁。大坂の両陣に参戦。1664年(寛文4)4月隠居。1667年(寛文7)10月28日没。77才。法名「松岳院殿然譽廓玄無世居士」。
野々山頼兼の墓碑
野々山頼兼
生 元亀3年 (1572年)
没 慶長9年 (1604年)
1572年(元亀3)元政の子として生まれる。徳川家康に仕え、後に徳川秀忠付きとなる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。1604年(慶長9)7月22日没。33才。法名「善芳浄受禅定門」。
天野長頼の墓碑
天野長頼
生 寛永19年 (1642年)
没 元禄2年 (1689年)
1642年(寛永19)長重の3男として生まれる。1660年(万治3)9月将軍徳川家綱に拝謁。御小姓組の番士を務む。1689年(元禄2)7月5日没。48才。法名「長賢」。
天野繁昌の墓碑
天野繁昌
生 弘治3年 (1557年)
没 慶長19年 (1614年)
1557年(弘治3)景隆の3男として生まれる。徳川家康の長男松平信康に仕える。のち家康家臣となり駿河にて采地200石。1614年(慶長19)10月19日没。58才。法名「安養院殿」。
内藤正迪の墓碑
内藤正迪
生 享和3年 (1803年)
武蔵栢間12代領主。1803年(享和3)正弘の長男として生まれる。父の死により1822年(文政5)跡を継ぐ。1826年(文政9)2月15日没。24才。法名「慧俊院殿篤譽守静道久居士」。
内藤正範妻(智照院)の墓碑
内藤正範妻(智照院)
生 不明
没 寛政2年 (1790年)
内藤信庸の娘。内藤正範の後室。1790年(寛政2)6月30日没。法名「智照院殿光譽無辺大姉」。埼玉県久喜市菖蒲町の善宗寺にも墓がある。
内藤正弘妻(殊妙院)の墓碑
内藤正弘妻(殊妙院)
生 不明
没 寛政6年 (1794年)
内藤正弘の先妻。詳細不明。1794年(寛政6)1月25日没。法名「殊妙院殿心譽慈念大姉」。埼玉県久喜市菖蒲町の善宗寺にも墓がある。
阿部正精妻の墓碑
阿部正精妻
生 天明元年 (1781年)
没 天保14年 (1843年)
1781年(天明元)12月11日松平頼謙の娘として生まれる。1795年(寛政7)2月内藤政徧に嫁ぎ、翌年銀一郎を儲ける。1798年(寛政10)9月離縁。名を於錫から於鍠と改名の後、1799年(寛政11)11月阿部正精に嫁ぐ。1843年(天保14)2月6日没。63才。法名「桂林院殿清譽皎月徳明大姉」。
松平頼貞妻の墓碑
松平頼貞妻
生 不明
没 元文5年 (1740年)
松平頼貞の侍女。松本氏。名は茂。頼貞の側室となり、多米、頼寛、七郎、堀直堯妻、頼恭、定賢、頼済の5男2女を儲ける。1740年(元文5)没。法名「安靖孺人」。墓石側面に「高岳院者松本氏」「松平大學頭頼寛之實母也」とある。
曽我利助の墓碑
曽我利助
生 慶安3年 (1650年)
没 寛文3年 (1663年)
1650年(慶安3)近祐の3男として生まれる。1655年(明暦元)5月将軍徳川家綱に拝謁。1661年(寛文元)12月父の遺領500石を賜う。1663年(寛文3)10月29日没。14才。法名「雲嶺宗白禅定門」。
曽我尚祐の墓碑
曽我尚祐
生 永禄元年 (1558年)
没 寛永3年 (1626年)
1558年(永禄元)助乘の子として生まれる。足利義昭、織田信雄、豊臣秀次に仕える。1600年(慶長5)徳川家康に拝謁、江戸の徳川秀忠に仕えるように命じられる。1626年(寛永3)2月10日没。69才。法名「具性院殿〇屋疎雪居士」。
大條茂頼の墓碑
大條茂頼
生 寛永8年 (1631年)
没 延宝2年 (1674年)
1631年(寛永8)定頼の子として生まれる。伊達家家臣。兄直頼の死により1651年(慶安4)跡を継ぐ。1666年(寛文6)河野道円父子の死罪により連座した奥女中鳥羽を預かる。1674年(延宝2)4月7日没。44才。
大山光隆妻の墓碑
大山光隆妻
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永14年 (1637年)
1607年(慶長12)楯岡満茂の次女として生まれる。大山光隆の妻となる。1637年(寛永14)1月2日没。31才。法名「明窓貞珠禅尼」。群馬県前橋市の長昌寺にも墓がある。
土井利隆妻の墓碑
土井利隆妻
生 寛永8年 (1631年)
没 承応元年 (1652年)
1631年(寛永8)中川貞長の長女として生まれる。土井利隆に嫁ぎ、利益を儲ける。1652年(承応元)8月19日没。22才。法名「法清院殿日春月秋大姉」。茨城県古河市の法成寺にも墓がある。
片桐孝利妻の墓碑
片桐孝利妻
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
伊奈忠政の長女。片桐孝利の正室として嫁ぐも子は出来ず。1639年(寛永16)2月5日没。法名「松寿院殿花眉樹栄大姉」。東京都港区の源昌寺にも孝利夫妻の墓がある。
白石宗信の墓碑
白石宗信
生 寛永9年 (1632年)
没 慶安4年 (1651年)
1632年(寛永9)石川宗敬の次男として生まれる。未亡人となっていた白石宗貞の長女を娶り、宗貞の養子となる。1651年(慶安4)11月20日没。20才。法名「長源寺殿貞菴實庭大禅定門」。
戸沢政盛妻の墓碑
戸沢政盛妻
生 不明
没 寛文4年 (1664年)
門屋氏。戸沢政盛に嫁ぎ、戸沢定盛妻、加藤泰興妻の2女を儲ける。政盛が江戸にいたときは、尼将軍と呼ばれ藩政を牛耳ったとされる。そのため政盛没後は、片岡騒動と呼ばれる事件が起きる。1664年(寛文4)3月7日没。法名「普照院殿天慶長清大姉」。のち天慶院殿と号す。
加藤光泰の墓碑
加藤光泰
生 天文6年 (1537年)
没 元禄6年 (1693年)
1537年(天文6)景泰の長男として生まれる。斉藤龍興に仕え、のち豊臣秀吉に仕える。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに従う。のち甲斐にて24万石を領す。1593年(文禄2)8月29日文禄の役参戦中に陣中にて没。57才。法名「曹渓院殿剛園宗勝大禅定門」。
松平正敬妻の墓碑
松平正敬妻
生 文化3年 (1806年)
没 文政13年 (1830年)
1806年(文化3)7月24日松平信明の娘として生まれる。名は厚。正敬との間に子は出来ず。1830年(文政13)5月16日没。25才。法名「鳳泉院殿英室妙俊大姉」。
松平正敬の墓碑
松平正敬
生 寛政6年 (1794年)
没 天保3年 (1832年)
上総大多喜藩6代藩主。1794年(寛政6)正路の長男として生まれる。父の死により1808年(文化5)7月跡を継ぐ。1826年(文政9)9月隠居。1832年(天保3)7月26日没。39才。法名「龍雲院殿天路心斉大居士」。
加藤明利妻の墓碑
加藤明利妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
朝倉宣正の娘。加藤明利に嫁ぎ、明勝、嘉遐、明重の3男を儲ける。1665年(寛文5)4月没。法名「慈明院殿心月壽即大姉」。
久世広明娘の墓碑
久世広明娘
生 不明
没 明和3年 (1766年)
詳細不明。1766年(明和3)7月2日没。法名「壽妙院殿信月日晴大姉」。
久世広武の墓碑
久世広武
生 正徳元年 (1711年)
没 安永2年 (1773年)
1711年(正徳元)土井利良の3男として生まれる。久世広籌の養子となり、広籌の死により1722年(享保7)5月跡を継ぐ。1760年(宝暦10)12月隠居。1773年(安永2)1月4日没。63才。法名「法性院殿若水日休大居士」。
久世広籌の墓碑
久世広籌
生 元禄13年 (1700年)
没 享保7年 (1722年)
1700年(元禄13)重之の5男として生まれる。1713年(正徳3)将軍徳川家継に拝謁。別に家を興す。1722年(享保7)2月13日没。23才。法名「曉遠院殿芳全日純大居士」。
久世重之娘の墓碑
久世重之娘
生 不明
没 宝暦4年 (1754年)
詳細不明。1754年(宝暦4)7月6日没。法名「慈仙院殿妙達日近大姉」。
久世暉之の墓碑
久世暉之
生 元禄12年 (1699年)
没 寛延2年 (1749年)
下総関宿藩3代藩主。1699年(元禄12)重之の4男として生まれる。1712年(正徳2)1月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1720年(享保5)8月跡を継ぐ。1748年(寛延元)8月隠居。1749年(寛延2)8月18日没。51才。法名「實相院殿教海常照日住大居士」。
久世重之妻の墓碑
久世重之妻
生 不明
没 享保12年 (1727年)
土井利房の娘。土井重之に嫁ぎ、女子、織部、松平康員妻(離縁)、富千代の2男2女を儲ける。1727年(享保12)9月4日没。法名「圓就院殿妙頓日詣大姉」。
久世重之の墓碑
久世重之
生 万治3年 (1660年)
没 享保5年 (1720年)
下総関宿藩2代藩主。1660年(万治3)広之の3男として生まれる。1669年(寛文9)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1679年(延宝7)8月跡を継ぐ。下総関宿藩から備中庭瀬藩、丹波亀山藩、三河吉田藩と転封を重ね1705年(宝永2)10月再び下総関宿藩となる。1720年(享保5)6月27日没。61才。法名「眞如院殿消残露月日成大居士」。
久世広之妻の墓碑
久世広之妻
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
戸田忠次娘。戸田忠能の養女として広之に嫁ぐ。広之との間に、女子、百助、遠山友貞妻、松平重治妻、内田正衆妻、半弥、重之、次郎助の4男4女を儲ける。1672年(寛文12)2月24日没。法名「勝證院殿定峯日禅大姉」。
久世広之の墓碑
久世広之
生 慶長14年 (1609年)
没 延宝7年 (1679年)
下総関宿藩初代藩主。1609年(慶長14)広宣の3男として生まれる。1617年(元和3)将軍徳川秀忠に拝謁。秀忠、家光、家綱のもと出世を重ね大名となる。1679年(延宝7)6月25日没。71才。法名「自證院殿心光日悟大居士」。
毛利元寛妻の墓碑
毛利元寛妻
生 不明
没 文政8年 (1825年)
溝口直侯の長女で名を美弥子という。1825年(文政8)2月14日没。法名「慈照院殿眞光貞明大姉」。
毛利元寛の墓碑
毛利元寛
生 享和3年 (1803年)
没 文政10年 (1827年)
1803年(享和3)閏1月元義の長男として生まれる。家督を継ぐことなく1827年(文政10)11月18日没。25才。法名「寛亮院嚴敬有邦大居士」。
毛利元義妻の墓碑
毛利元義妻
生 寛政元年 (1789年)
没 文化12年 (1815年)
1789年(寛政元)細川利庸の5女として生まれる。1815年(文化12)10月10日没。27才。法名「光容院殿蘭室智香大姉」。
毛利元義の墓碑
毛利元義
生 天明5年 (1785年)
没 天保14年 (1843年)
長門長府藩11代藩主。1785年(天明5)11月匡芳の子として生まれる。1792年(寛政4)父の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)9月隠居。1843年(天保14)4月5日没。59才。法名「顯明寺殿好文閑翁大居士」。
毛利匡芳娘の墓碑
毛利匡芳娘
生 天明元年 (1781年)
没 寛政8年 (1796年)
名を万喜子。1781年(天明元)8月生まれ。有馬頼端と婚約するも1796年(寛政8)6月25日没。16才。法名「清心院殿智月淨光大姉」。
毛利匡芳妻の墓碑
毛利匡芳妻
生 不明
没 天保7年 (1836年)
西園寺賞季の娘で毛利匡芳の側室となる。なお姉(宝珠院)も先に同じ匡芳に嫁いでいる。1836年(天保7)1月4日没。法名「鏡貞院殿清心祐光大姉」。
中盛房の墓碑
中盛房
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝7年 (1679年)
1611年(慶長16)生まれ。盛行の子、または養子。両親の為に慈照寺を再建する。1679年(延宝7)6月19日没。69才。法名「性雲院方室宗円居士」。
中川資政の墓碑
中川資政
生 不明
没 元和6年 (1620年)
熊田氏。中川秀政、久盛の重臣。中川資勝の養子となり、1592年(天正20)6月跡を継ぐ。加藤清正が病気になると見舞いのため熊本赴く。1613年(慶長18)隠居。1620年(元和6)10月3日没。法名「蓮池宗流」。
開田某妻の墓碑
開田某妻
生 不明
没 元和5年 (1619年)
安藤氏と伝うも詳細不明。林政秀に嫁ぎ、稲葉正成を儲ける。政秀没後は、開田某と再婚、孫六清常を儲ける。1619年(元和5)9月21日没。法名「長照院殿光譽心月大清女」。岐阜県関市武芸川町谷口の法泉寺にも墓があり、側面に稲葉内匠(正成)の母とある。光譽心月を開田清常妻としているものもあるが、間違い。
中川大蔵の墓碑
中川大蔵
生 慶長12年 (1607年)
没 元和6年 (1620年)
1607年(慶長12)秀成の3男として生まれる。1620年(元和6)5月17日没。14才。法名「梅岳院殿然宗元廓大居士」。
松平信興の墓碑
松平信興
生 寛永7年 (1630年)
没 元禄4年 (1691年)
常陸土浦藩主。1630年(寛永7)信綱の5男として生まれる。1635年(寛永12)4月将軍徳川家光に拝謁。徳川家綱の側近として、奏者番、大坂城代、京都所司代を務める。出世を重ね、大名となり3万2千石を領す。1691年(元禄4)閏8月12日没。62才。法名「天桂院殿香山無隠大居士」。
松平忠貞妻の墓碑
松平忠貞妻
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
彦坂光正の娘。松平忠貞に嫁ぎ、忠良、忠治の2男を儲ける。1631年(寛永8)9月29日没。法名「梅室浄香禅定尼」。墓石施主は息子の長三郎忠良。
三浦為章妻の墓碑
三浦為章妻
生 不明
没 天保9年 (1838年)
梅小路定肖の娘。1821年(文政4)三浦為章に嫁ぐ。「大野山由来記」では、1833年(天保4)5月為質を生んだとされる。なお「紀藩家老三浦家の歴史」では為質は為章の弟としているが誤りと思われる。1838年(天保9)2月4日没。法名「摩尼院智観妙暉大姉」。
大河内豊貫の墓碑
大河内豊貫
生 享保12年 (1727年)
没 明和7年 (1770年)
1727年(享保12)久豊の子として生まれる。父の死により1741年(寛保元)6月跡を継ぐ。御小内戸、御小姓を務める。1751年(宝暦元)4月職を辞し寄合となる。1770年(明和7)10月17日没。44才。法名「實相院殿真岳玄性大居士」。寛政重修諸家譜は10月17日没、埼玉県新座市の平林寺墓石は10月16日没としている。
松平信宝の墓碑
松平信宝
生 不明
没 文政11年 (1828年)
信弥の子。父の死により1825年(文政8)跡を継ぐ。1828年(文政11)6月17日没。法名「凉源院殿秀巖慈泉大居士」。
松平信弥妻の墓碑
松平信弥妻
生 不明
没 嘉永5年 (1852年)
詳細不明。埼玉県新座市の平林寺の墓石には「松平美作守信弥家女」とあり側室であることがわかる。1852年(嘉永5)6月7日没。法名「圓智院殿真観浄昭大姉」。
松平信弥の墓碑
松平信弥
生 安永8年 (1779年)
没 文政8年 (1825年)
1779年(安永8)信譲の次男として生まれる。兄信敬の死により1788年(天明8)7月跡を継ぐ。1795年(寛政7)3月将軍徳川家斉に拝謁。1797年(寛政9)徳川家慶付きとなる。御書院番頭、駿府城代を務む。1825年(文政8)7月23日没。47才。法名「養徳院殿湛然当浩大居士」。
上杉景勝②の墓碑
上杉景勝②
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治元)長尾政景の次男として生まれる。上杉謙信の養子となり、謙信死後相続争いで勝利して跡を継いだ。豊臣秀吉に従い、会津120万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのとき、西軍に付いたため戦後出羽米沢30万石に移封。大坂の陣のときは徳川方として出陣。1623年(元和9)3月20日没。法名「覺上院殿法印権大僧都宗心法印」。
稲富祐直②の墓碑
稲富祐直②
生 天文21年 (1552年)
没 慶長16年 (1611年)
1552年(天文21)直秀の子として生まれる。鉄砲の名手で稲富流砲術として有名。一色氏に仕え、のち細川忠興に仕える。1600年(慶長5)忠興妻ガラシャの警備をするが、ガラシャが自害すると逐電。忠興は激怒するも徳川家康が宥め、家康や家康4男松平忠吉に仕える。1611年(慶長16)2月6日没。法名「庸珠院殿泰譽榮閑一無居士」。
有馬直純②の墓碑
有馬直純②
生 天正14年 (1586年)
没 寛永18年 (1641年)
1586年(天正14)晴信の長男として生まれる。1612年(慶長17)に父が岡本大八事件によって死罪となると、直純には罪が及ばず跡を継ぐ。1614年(慶長19)7月に日向延岡に転封。1637年(寛永14)旧領で起こった島原の乱に参戦。1641年(寛永18)4月25日没。56才。法名「松園院殿光山宗和大居士」。
小出吉政②の墓碑
小出吉政②
生 永禄8年 (1565年)
没 慶長18年 (1613年)
和泉岸和田藩2代藩主。1565年(永禄8)秀政の子として生まれる。豊臣秀吉の従弟。秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは西軍に味方。丹後田辺城攻撃に参戦。戦後、弟秀家が東軍だったため、所領安堵。1613年(慶長18)2月29日没。49才。法名「雲龍院殿乹堂元公大禪定門」。
小出吉政妻②の墓碑
小出吉政妻②
生 不明
没 寛永9年 (1632年)
伊東治明の娘。小出吉政に嫁ぎ、加藤貞泰妻、吉英、吉親、吉景、吉成、松平忠明妻の4男2女を儲ける。1632年(寛永9)7月3日没。法名「長春院殿天室紹仲大姉」。
土方雄久②の墓碑
土方雄久②
生 天文22年 (1553年)
没 慶長13年 (1608年)
下総多古藩初代藩主。1553年(天文22)信治の子として生まれる。織田信雄に仕え1字を賜り雄久と名乗る。その後、豊臣秀吉に仕える。1599年(慶長4)徳川家康の暗殺疑惑により改易。その後、家康に仕える。1604年(慶長9)下総多古藩主となる。1608年(慶長13)11月12日没。56才。法名「功運建忠大居士」。
最上家親④の墓碑
最上家親④
生 天正10年 (1582年)
没 元和3年 (1617年)
1582年(天正10)義光の次男として生まれる。1594年(文禄3)から徳川家康の近侍として仕える。その後家康から1字を授かり家親と名乗る。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに参陣。1617年(元和3)3月6日没。36才。法名「盛廣院殿安景長公大禅定門」。奥之院には家親の墓が4基有る。
最上家親③の墓碑
最上家親③
生 天正10年 (1582年)
没 元和3年 (1617年)
1582年(天正10)義光の次男として生まれる。1594年(文禄3)から徳川家康の近侍として仕える。その後家康から1字を授かり家親と名乗る。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに参陣。1617年(元和3)3月6日没。36才。法名「盛廣院殿安景長公大禅定門」。奥之院には家親の墓が4基有る。
最上家親②の墓碑
最上家親②
生 天正10年 (1582年)
没 元和3年 (1617年)
1582年(天正10)義光の次男として生まれる。1594年(文禄3)から徳川家康の近侍として仕える。その後家康から1字を授かり家親と名乗る。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに参陣。1617年(元和3)3月6日没。36才。法名「盛廣院殿安景長公大禅定門」。奥之院には家親の墓が4基有る。
朽木稙綱②の墓碑
朽木稙綱②
生 慶長10年 (1605年)
没 万治3年 (1660年)
常陸土浦藩初代藩主。1605年(慶長10)元綱の3男として生まれる。1618年(元和4)より徳川家光に仕える。父の死後遺領を分知され、さらに1636年(寛永13)8月に加増により1万石の大名となる。加増を続け1649年(慶安2)2月常陸土浦にて3万石を領す。1660年(万治3)12月13日没。56才。法名「豪徳院殿雄山良英大居士」。