安食光信の墓碑
安食光信
生 不明
没 元和3年 (1617年)
最上義光の家臣。成澤城主で5千石を領す。後に土生田城の城主。1617年(元和3)6月29日没。墓石は息子藤次郎信重の建立。墓石右下に「安食大和守」、一番左側に「元和三年六月廿九日」その右に「施主孝子藤次郎」真ん中左「居士 大菩提」が辛うじて見えるが法名は読み取れず。
野辺沢光昌の墓碑
野辺沢光昌
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
最上義光の娘松尾姫を娶り、2万石を領す。最上家が改易となると、肥後熊本藩にお預け1626年(寛永3)4月11日没。法名「列岩白龍居士」。
立花忠茂の墓碑
立花忠茂
生 慶長17年 (1612年)
没 延宝3年 (1675年)
筑後柳河藩2代藩主。1612年(慶長17)7月直次の4男として生まれる。生まれた日に宗茂の養子となる。1622年(元和8)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜り忠茂と名乗る。1637年(寛永14)島原の乱が起きると出陣。1664年(寛文4)4男鑑虎に家督を譲り隠居。1675年(延宝3)9月19日没。64才。法名「別峯院殿忠巌好雪大居士」。
立花鑑虎の墓碑
立花鑑虎
生 正保2年 (1645年)
没 元禄15年 (1702年)
筑後柳河藩3代藩主。1645年(正保2)11月忠茂の4男として生まれる。1658年(万治元)4月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1664年(寛文4)閏5月跡を継ぐ。1696年(元禄9)7月隠居。1702年(元禄15)6月23日没。58才。法名「雪峰院殿英山性俊大居士」。
立花貞俶の墓碑
立花貞俶
生 元禄11年 (1698年)
没 延享元年 (1744年)
筑後柳河藩5代藩主。1698年(元禄11)6月茂高の次男として生まれる。旗本の立花貞晟の養子となり跡を継ぐ。1721年(享保6)5月立花鑑任が没すると末期養子となって柳河藩を継ぐ。1744年(延享元)5月25日江戸において没。47才。法名「興源院殿慈雲紹蔭大居士」。
立花貞則の墓碑
立花貞則
生 享保12年 (1727年)
没 延享3年 (1746年)
筑後柳河藩6代藩主。1727年(享保12)5月貞俶の次男として生まれる。1739年(元文4)将軍徳川吉宗に拝謁。1746年(延享3)7月17日に不明の集団に襲われて死去。20才。藩は死を隠し29日に公表。没日は、寛政重修諸家譜は29日となっているが、ここの墓石は17日となっている。法名「等覺院殿廊融性瑩大居士」。
立花鑑通の墓碑
立花鑑通
生 享保14年 (1729年)
没 寛政9年 (1797年)
筑後柳河藩7代藩主。1729年(享保14)12月2日貞俶の3男として生まれる。兄貞則の不慮の死により家督を継ぐ。家臣四ヵ所通久や立花寿賰を抜擢して藩政の改革を行う。約50年藩主を務め、1797年(寛政9)閏7月5男鑑寿に家督を譲る。同年12月9日没。69才。法名「大應院伝馨徳孔昭大居士」。
立花鑑寿の墓碑
立花鑑寿
生 明和6年 (1769年)
没 文政3年 (1820年)
筑後柳河藩8代藩主。1769年(明和6)3月鑑通の5男として生まれる。1793年(寛政5)11月嫡子となり同12月将軍徳川家斉に拝謁。藩主となると、小野勘解由を中心に豪傑組を組織して藩政改革を行う。1820年(文政3)4月29日没。52才。法名「陽徳院元剛紹和大居士」。
立花鑑備の墓碑
立花鑑備
生 文政10年 (1827年)
没 弘化3年 (1846年)
筑後柳河藩11代藩主。1827年(文政10)鑑賢の次男として生まれる。兄で藩主の鑑広が11才で病没すると、末期養子が認められない可能性があり、兄の替え玉となり藩主となる。鑑広と称したまま将軍に拝謁。幕府の公式では第10代藩主扱い。1846年(弘化3)3月24日没。20才。法名「常明院殿叡智紹監大居士」。
島津家久の墓碑
島津家久
生 天正4年 (1576年)
没 寛永15年 (1638年)
薩摩藩初代藩主。1576年(天正4)11月義弘の3男として生まれる。父に従い朝鮮に出兵、泗川の戦いで活躍。1638年(寛永15)2月23日没。法名「慈眼院殿華心琴月大居士」。
島津光久の墓碑
島津光久
生 元和2年 (1616年)
没 元禄7年 (1694年)
薩摩藩2代藩主。1616年(元和2)6月家久の次男として生まれる。49年藩主を務め1687年(貞享4)7月隠居。1694年(元禄7)11月29日没。法名「寛陽院殿泰雲慈温大居士」。
島津綱貴の墓碑
島津綱貴
生 慶安3年 (1650年)
没 宝永元年 (1704年)
薩摩藩3代藩主。1650年(慶安3)10月綱久の子として生まれる。1667年(寛文7)12月将軍徳川家綱より1字を賜い、綱貴と名乗る。1687年(貞享4)7月父が亡くなっていたため祖父光久の跡を継ぎ藩主となる。1704年(宝永元)9月16日没。55才。法名「大玄院殿昌道元新大居士」。
島津吉貴の墓碑
島津吉貴
生 延宝3年 (1675年)
没 延享4年 (1747年)
薩摩藩4代藩主。 1675年(延宝3)9月綱貴の長男として生まれる。1689年(元禄2)将軍徳川綱吉から1字を与えられ吉貴と名乗る。1704年(宝永元)父の死により家督を継ぐ。1747年(延享4)10月10日没。73才。法名「浄国院殿鑑阿天清道煕大居士」。
島津継豊の墓碑
島津継豊
生 元禄14年 (1701年)
没 宝暦10年 (1760年)
薩摩藩5代藩主。1701年(元禄14)12月吉貴の長男として生まれる。1715年(正徳5)4月将軍徳川家継より1字を与えられ継豊と名乗る。病気がちで江戸から帰国できず長期に滞在したこともあった。1760年(宝暦10)9月20日没。60才。法名「宥邦院殿円鑑享盈大居士」。
島津宗信の墓碑
島津宗信
生 享保13年 (1728年)
没 寛延2年 (1749年)
薩摩藩6代藩主。1728年(享保13)6月継豊の長男として生まれる。1746年(延享3)11月父の隠居により家督を継ぐ。膝が悪く、江戸からの帰国で浮腫となり帰国後すぐの1749年(寛延2)7月10日に没。22才。法名「慈徳院殿俊厳良英大居士」。
島津重年の墓碑
島津重年
生 享保14年 (1729年)
没 宝暦5年 (1755年)
薩摩藩7代藩主。1729年(享保14)2月継豊の次男として生まれる。加治木の島津久季の養子となり、加治木島津家4代当主となる。1749年(寛延2)7月兄宗信の死去により薩摩藩の当主となる。1753年(宝暦3)に幕府より、木曽三川の治水工事を命じられ犠牲者や多額の費用が発生。1755年(宝暦5)6月16日没。27才。法名「圓徳院殿覚満良義大居士」。
島津重豪の墓碑
島津重豪
生 延享2年 (1745年)
没 天保4年 (1833年)
薩摩藩8代藩主。1745年(延享2)11月重年の長男として生まれる。1833年(天保4)1月15日没。法名「大信院殿栄翁如證大居士」。墓石には、没日と5日差の「天保四年正月廿日終焉」とある。
島津斉興①の墓碑
島津斉興①
生 寛政3年 (1791年)
没 安政6年 (1859年)
薩摩藩10代藩主。1791年(寛政3)11月斉宣の長男として生まれる。1804年(文化元)10月将軍徳川家斉より1字を賜い斉興と名乗る。父の隠居により1809年(文化6)6月跡を継ぐ。祖父重豪が1833年(天保4)没すると藩内の大改革を実施。跡取り問題で長男斉彬派と5男久光派が争うお由羅騒動が起きるも幕府の介入により解決、斉興は隠居となる。1859年(安政6)9月12日没。法名「金剛定院殿明覺亮忍大居士」。1839年(天保10)に自身の毛髪を納めて建立した墓。
前田玄以の墓碑
前田玄以
生 天文8年 (1539年)
没 慶長7年 (1602年)
丹波亀山藩初代藩主。1539年(天文8)基光の子として生まれる。織田信長、信忠に仕える。のち豊臣秀吉に仕え豊臣政権下で五奉行の1人となる。1602年(慶長7)5月20日没。法名「徳善院殿天涼以公大居士」。墓石には「慶長七年三月八日」があり、死ぬ約2ヶ月半前に建立されたと思われる。
勝田典愛の墓碑
勝田典愛
生 不明
没 享保元年 (1716年)
内藤氏。矢島治太夫(矢嶋次大夫)義充の長女を娶り養子となる。勝田玄哲の娘を養い妹とする。彼女は後に矢島治太夫の養女として徳川家宣の妻(月光院)となる。1716年(享保元)8月29日没。法名「徹心院殿高山法雲大居士」。妻と合葬墓。
毛利元包の墓碑
毛利元包
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝4年 (1676年)
吉敷毛利家3代当主。1607年(慶長12)元鎮の子として生まれる。1676年(延宝4)4月7日没。法名「慈光院殿在天道自大居士」。
毛利就直の墓碑
毛利就直
生 寛永13年 (1636年)
没 宝永6年 (1709年)
吉敷毛利家4代当主。1636年(寛永13)元法の次男として生まれる。吉敷毛利元包の養子となり1671年(寛文11)元包の隠居により吉敷毛利家を継ぐ。毛利本家の綱広、吉就、吉広、吉元の一門重臣として仕える。1709年(宝永6)12月15日没。74才。法名「凌雲院殿義山道忠大居士」。
毛利広包の墓碑
毛利広包
生 元禄11年 (1698年)
没 元文2年 (1737年)
吉敷毛利家5代当主。1698年(元禄11)就直の5男として生まれる。1737年(元文2)4月23日没。法名「本光院殿徹照日源大居士」。
毛利元直の墓碑
毛利元直
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦3年 (1753年)
吉敷毛利家6代当主。1716年(享保元)広包の子として生まれる。長州藩の一門家老。長州藩主毛利吉元より1字を賜い、元直と名乗る。1753年(宝暦3)4月19日没。38才。法名「大慈院殿勇岳元直月深大居士」。
毛利就将の墓碑
毛利就将
生 延享3年 (1746年)
没 寛政9年 (1797年)
吉敷毛利家7代当主。1746年(延享3)元直の長男として生まれる。1797年(寛政9)7月16日没。法名「大雄院殿仁壽日譲大居士」。
毛利就兼の墓碑
毛利就兼
生 宝暦7年 (1757年)
没 寛政3年 (1791年)
吉敷毛利家8代当主。1757年(宝暦7)右田毛利広定の次男として生まれる。1791年(寛政3)12月3日没。法名「廓照院殿功嶽紹薫大居士」。
毛利房直の墓碑
毛利房直
生 天明5年 (1785年)
没 享和3年 (1803年)
吉敷毛利家4代当主。1636年(寛永13)元法の次男として生まれる。吉敷毛利元包の養子となり1671年(寛文11)元包の隠居により吉敷毛利家を継ぐ。毛利本家の綱広、吉就、吉広、吉元の一門重臣として仕える。1709年(宝永6)12月15日没。74才。法名「凌雲院殿義山道忠大居士」。
毛利包詮の墓碑
毛利包詮
生 明和9年 (1772年)
没 文化元年 (1804年)
吉敷毛利家10代当主。1772年(明和9)就将の次男として生まれる。1804年(文化元)7月25日没。法名「大覺院殿慈觀日曜大居士」。
毛利房裕の墓碑
毛利房裕
生 宝暦9年 (1759年)
没 文化9年 (1812年)
吉敷毛利家11代当主。1759年(宝暦9)就貞の次男として生まれる。1812年(文化9)4月2日没。法名「大龍院殿眠山玄公大居士」。
最上家親①の墓碑
最上家親①
生 天正10年 (1582年)
没 元和3年 (1617年)
1582年(天正10)義光の次男として生まれる。1594年(文禄3)から徳川家康の近侍として仕える。その後家康から1字を授かり家親と名乗る。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに参陣。1617年(元和3)3月6日没。36才。法名「盛廣院殿安景長公大禅定門」。奥之院には家親の墓が4基有る。
宇喜多直家の墓碑
宇喜多直家
生 不明
没 天正11年 (1583年)
備前の戦国大名。戦国三大梟雄の1人に数えられる。浦上宗景に仕え、謀略を尽くし敵対勢力を倒したことで有名。のち浦上氏より独立。最終的には織田信長に従う。没年月日は諸説あるが、墓石に1583年(天正11)7月9日とあるので、これが没年月日と思われる。法名「涼雲星友」。
古内重広①の墓碑
古内重広①
生 天正16年 (1588年)
没 万治元年 (1658年)
1588年(天正16)国分盛重の末子として生まれる。主膳正。伊達政宗、忠宗に仕える。1615年(慶長20)大坂夏の陣で活躍。忠宗の没した1658年(万治元)7月12日に自宅にて殉死。70才。法名「景嘯院殿仁岩怱徳居士」。1枚目の墓石には主君忠宗の1周忌にあたる万治二己亥七月十二日が刻まれている。2枚目の墓石は4回忌の建立で万治四年七月十二日とある。
島津久元の墓碑
島津久元
生 天正9年 (1581年)
没 寛永20年 (1643年)
宮之城島津家2代当主。忠長の次男。新納忠真の養子となる。薩摩島津家の家臣にて1600年(慶長5)関ケ原の戦いに参戦。1609年(慶長14)に兄が死去したため島津家に戻り家督を継ぐ。1621年(元和7)島津家久の命で、正室の新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹を娶る。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1643年(寛永20)6月13日没。63才。法名「鉄心宗昆大居士」。
島津久竹の墓碑
島津久竹
生 寛永12年 (1635年)
没 元禄6年 (1693年)
宮之城島津家5代当主。1635年(寛永12)久通の次男として生まれる。1648年(慶安元)4月将軍徳川家光に拝謁。1672年(寛文12)父の隠居により跡を継ぐ。1681年(延宝9)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1693年(元禄6)10月16日没。59才。法名「玄英大居士」。
島津久洪の墓碑
島津久洪
生 寛文2年 (1662年)
没 元禄14年 (1701年)
宮之城島津家6代当主。1662年(寛文2)1月久竹の子して生まれる。1666年(寛文8)将軍徳川家綱に拝謁。1693年(元禄6)父の死により家督を継ぐ。1701年(元禄14)7月16日没。40才。法名「寂照院殿天〇宗義大居士」。
島津久方の墓碑
島津久方
生 元禄5年 (1692年)
没 享保4年 (1719年)
宮之城島津家7代当主。1692年(元禄5)2月綱貴の5男として生まれる。宮之城島津家の島津久洪の養子となり、1701年(元禄14)久洪の死により跡を継ぐ。1719年(享保4)5月20日没。28才。法名「玄光院殿活山道機大居士」。
朝倉景垙の墓碑
朝倉景垙
生 大永6年 (1526年)
没 永禄7年 (1564年)
1526年(大永6)景紀の子として生まれる。一族の朝倉義景に仕える。1564年(永禄7)9月2日加賀出陣の際、朝倉景鏡と口論となり自殺。39才。法名「日峰宗慧禅定門」。景垙の生年は不明とされているが、墓石に「三十九歳」とあり逆算して判明。
伊達綱宗の墓碑
伊達綱宗
生 寛永17年 (1640年)
没 正徳元年 (1711年)
陸奥仙台藩3代藩主。1640年(寛永17)8月8日忠宗の6男として生まれる。1654年(承応3)元服して、将軍徳川家綱から1字を拝領して綱宗と名乗る。放蕩三昧のため幕命により21才で隠居させられる。1711年(正徳元)6月4日没。72才。法名「見性院殿雄山全威大居士」。
伊達宗時の墓碑
伊達宗時
生 元和元年 (1615年)
没 承応2年 (1653年)
1615年(元和元)1月24日秀宗の次男として生まれる。母は井伊直政の娘。1622年(元和8)兄宗実と2代将軍徳川秀忠に拝謁。宗実が病弱なため宗時が世継ぎとされていたが、1653年(承応2)5月29日父に先立ち没。39才。墓石に法名「霊雲院殿岑山宗可大居士」とあるが、伊達家御歴代事記によると「嶺雲院殿凉山宗可大居士」とある。墓石は父秀宗の建立による。
伊達宗利の墓碑
伊達宗利
生 寛永11年 (1634年)
没 宝永5年 (1708年)
伊予宇和島藩2代藩主。1634年(寛永11)12月18日秀宗の3男として生まれる。父の隠居により1657年(明暦3)7月家督を継ぐ。1708年(宝永5)12月21日没。75才。法名「天梁院殿賢山紹徳大居士」。墓石は1720年(享保5)12月21日の建立。
鶴田浩二の墓碑
鶴田浩二
生 大正13年 (1924年)
没 昭和62年 (1987年)
1924年(大正13)生まれ。本名は小野榮一。昭和を代表する映画俳優で歌手でもある。兵庫県西宮市出生で母に連れられ静岡県浜松市で幼少期を過ごす。14才のとき高田浩吉の劇団に入団。1949年(昭和24)初主演。その後、数々の映画がヒットして大スターとなる。1987年(昭和62)6月16日没。62才。法名「鶴峰院栄誉誠純悟道大居士」。
伊達宗贇の墓碑
伊達宗贇
生 寛文5年 (1665年)
没 宝永8年 (1711年)
伊予宇和島藩3代藩主。1665年(寛文5)1月15日綱宗の3男として生まれる。初め石川宗弘の養子となる。1684年(貞享元)3月伊予宇和島藩主伊達宗利の次女を娶り婿養子となる。1711年(宝永8)2月18日没。47才。法名「大玄院殿天山紹光大居士」。
伊達秀宗の墓碑
伊達秀宗
生 天正19年 (1591年)
没 明暦4年 (1658年)
伊予宇和島藩初代藩主。1591年(天正19)9月25日政宗の長男として生まれる。豊臣秀吉の人質となるも秀吉のもとで元服、1字を与えられ秀宗と名乗る。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の人質となり、家康家臣井伊直政の娘を娶る。大坂の陣のあと伊予宇和島藩主となる。1658年(明暦4)6月8日没。法名「等覺寺殿頂山紹玄大居士」。墓石は1周忌の1659年(万治2)6月8日、3男宗利によって建立。
伊達秀宗妻の墓碑
伊達秀宗妻
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永7年 (1630年)
1598年(慶長3)井伊直政の娘として生まれる。名は亀。1609年(慶長14)徳川家康の命にて伊達秀宗に嫁ぐ。秀宗との間に宗實、宗時と女子3人の5人の子供を儲ける。1630年(寛永7)8月7日没。33才。法名「桂林院殿西巖妙智」。
伊達村年の墓碑
伊達村年
生 宝永2年 (1705年)
没 享保20年 (1735年)
伊予宇和島藩4代藩主。1705年(宝永2)1月16日宗贇の3男として生まれる。1711年(宝永8)父の死により跡を継ぐ。1735年(享保20)5月28日参勤交代の途中播磨加古川にて急死。31才。法名「泰雲院殿宗山紹沢大居士」。正室は本家仙台藩主伊達吉村の3女富姫。
立花鑑一の墓碑
立花鑑一
生 宝暦12年 (1762年)
没 寛政5年 (1793年)
1762 年(宝暦 12)鑑通の4男として生まれる。立花茂雅の養子となるも兄たちが亡くなったり家督相続を放棄したため本家に戻る。1789 年(寛政元)徳川家斉に拝謁。本家の跡を継ぐことなく 1793 年(寛政5)8月9日に没す。32 才。法名「懿孝院殿仁峰宗譲」。
永田秀次郎の墓碑
永田秀次郎
生 明治9年 (1876年)
没 昭和18年 (1943年)
1876年(明治9)7月生まれる。1923年(大正12)東京市長となり、同年に起こった関東大震災の復興に尽力。広田内閣で拓務大臣、 阿部内閣で鉄道大臣を務める。政治家の他、俳句や随筆でも永田青嵐という名で活躍。1943年(昭和18)9月17日没。68才。法名「大觀院殿秀峯圓通青嵐大居士」。
高橋紹運の墓碑
高橋紹運
生 天文17年 (1548年)
没 天正14年 (1586年)
1548年(天文17)9月吉弘鑑理の次男として生まれる。大友宗麟に仕え、命にて高橋家を継ぐ。同じ大友家臣の立花道雪からの要請で長男宗茂を道雪養子とする。1586年(天正14)薩摩の島津家侵攻のときは岩屋城を守るも7月27日落城、自害して果てる。39才。法名「天叟寺殿性海紹運大居士」。
黒田長軌妻の墓碑
黒田長軌妻
生 元禄2年 (1689年)
没 享保16年 (1731年)
1689年(元禄2)6月20日佐竹義處の8女として生まれる。(3女は死体として生まれているので7女扱いされているときもある)名は久。1707年(宝永4)7月黒田長軌に嫁ぐも、子は出来ず。1731年(享保16)7月10日没。43才。法名「養眞院殿松屋宗秀大姉」。墓石は長軌の養子黒田甲斐守長治が義母のために建立。※秋月黒田家墓石7基のなか、この墓石のみ正面が逆となっている。
黒田長興妻の墓碑
黒田長興妻
生 寛永6年 (1629年)
没 貞享元年 (1684年)
1629年(寛永6)11月19日佐竹義隆の長女として生まれる。名は亀子。1647年(正保4)19才で黒田長興の継室として嫁ぎ、小笠原長祐妻、小笠原真方妻、犬万、長重、黒田一貫妻の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)8月11日江戸にて没。56才。法名「法流院殿華嶽宗心大姉」。