小笠原秀政妻②の墓碑
小笠原秀政妻②
生 天正4年 (1576年)
没 慶長12年 (1607年)
1576年(天正4)3月徳川家康の長男松平信康と織田信長の長女徳姫の子として生まれる。名は福姫、登久姫。1589年(天正17)8月小笠原秀政に嫁ぎ、蜂須賀至鎮室(敬台院)、忠脩、忠真、細川忠利室(保寿院)、忠知、松平重直、忠慶、長俊の6男2女を儲ける。1607年(慶長12)10月18日夫の領地信濃国飯田で没。32才。法名「峯高院殿高月峰譽智廓大禅定尼」。
土屋忠直②の墓碑
土屋忠直②
生 天正6年 (1578年)
没 慶長17年 (1612年)
上総久留里藩初代藩主。1578年(天正6)昌恒の長男として生まれる。父は武田家の家臣で武田家滅亡の時に殉じた。忠直は、母に連れられて駿河国に逃れ清見寺にて成長した。1588年(天正16)徳川家康が鷹狩のとき清見寺に立寄ったときに召される。翌年より家康3男秀忠の近習として仕える。1600年(慶長5)上田城攻めに従う。1602年(慶長7)上総久留里で2万石を与えらる。1612年(慶長17)3月24日没。35才。法名「圓覚寺殿琴窓淨閑大居士」。
相馬義胤(蒼霄院)②の墓碑
相馬義胤(蒼霄院)②
生 天文17年 (1548年)
没 寛永12年 (1635年)
1548年(天文17)盛胤の子として生まれる。陸奥小高城主。豊臣政権下に入るまで伊達家と争う。1600年(慶長5)関ヶ原合戦では徳川方の伊達政宗軍の領土通過を認めるも徳川家康より改易となりかける。しかし政宗の助言、重臣の奔走により改易は免れる。大坂夏の陣に参戦。1635年(寛永12)11月16日没。88才。法名「蒼霄院殿外天頭雲大居士」。
古内重広②の墓碑
古内重広②
生 天正16年 (1588年)
没 万治元年 (1658年)
1588年(天正16)国分盛重の末子として生まれる。主膳正。伊達政宗、忠宗に仕える。1615年(慶長20)大坂夏の陣で活躍。忠宗の没した1658年(万治元)7月12日に自宅にて殉死。70才。法名「景嘯院殿仁岩怱徳居士」。1枚目の墓石には主君忠宗の1周忌にあたる万治二己亥七月十二日が刻まれている。2枚目の墓石は4回忌の建立で万治四年七月十二日とある。
島津斉興②の墓碑
島津斉興②
生 寛政3年 (1791年)
没 安政6年 (1859年)
薩摩藩10代藩主。1791年(寛政3)11月斉宣の長男として生まれる。1804年(文化元)10月将軍徳川家斉より1字を賜い斉興と名乗る。父の隠居により1809年(文化6)6月跡を継ぐ。祖父重豪が1833年(天保4)没すると藩内の大改革を実施。跡取り問題で長男斉彬派と5男久光派が争うお由羅騒動が起きるも幕府の介入により解決、斉興は隠居となる。1859年(安政6)9月12日没。法名「金剛定院殿明覺亮忍大居士」。こちらも1839年(天保10)に自身の毛髪を納めて建立した墓。
前田宗辰②の墓碑
前田宗辰②
生 享保10年 (1725年)
没 延享3年 (1746年)
加賀藩6代藩主。1725年(享保10)4月吉徳の長男として生まれる。父の死により1744年(延享元)6月跡を継ぐ。1746年(延享3)12月8日没。22才。法名「大應院殿梅關雪峯大居士」。
前田宗辰妻②の墓碑
前田宗辰妻②
生 享保10年 (1725年)
没 延享2年 (1745年)
1725年(享保10)松平正容の娘として生まれる。宗辰との間に子供が出来るも死産。1745年(延享2)11月30日没。21才。法名「梅園院殿心操紹源大姉」。
伊達吉村②の墓碑
伊達吉村②
生 延宝8年 (1680年)
没 宝暦元年 (1751年)
陸奥仙台藩5代藩主。1680年(延宝8)6月宗房の長男として生まれる。1686年(貞享3)1月父の死により宮床伊達家を継ぐ。仙台藩主綱村の養子となり、1703年(元禄16)綱村の隠居により跡を継ぐ。綱村時代からの財政難を改善。1751年(宝暦元)12月24日没。72才。法名「續燈院殿獅山元活大居士」。
前田吉徳妻②の墓碑
前田吉徳妻②
生 元禄6年 (1693年)
没 天明元年 (1781年)
1693年(元禄6)上坂喜信の娘として生まれる。吉徳に嫁ぎ、宗辰を儲ける。加賀騒動の際、他の側室により毒殺されそうになる。1781年(天明元)12月18日没。89才。法名「淨珠院殿德霖了清大姉」。
伊達政宗②の墓碑
伊達政宗②
生 永禄10年 (1567年)
没 寛永13年 (1636年)
陸奥仙台藩初代藩主。1567年(永禄10)8月輝宗の長男として生まれる。1584年(天正12)10月父の隠居により家督を継ぐ。奥州で領土を拡大。豊臣秀吉に従い、秀吉死後は徳川家康に従う。関ヶ原の戦いのときは東軍に付く。大坂両陣に参陣。1636年(寛永13)5月24日没。70才。法名「瑞巌寺殿貞山利公大居士」。こちらの墓石も1周忌に建立されたもの。
親鸞②の墓碑
親鸞②
生 承安3年 (1173年)
没 弘長2年 (1262年)
浄土真宗の宗祖。1173年(承安3)日野有範の長男として生まれる。法然のもとに入門して学ぶも、1207年(建永2)後鳥羽上皇の勘気を被り越後国へ流罪となる。師の法然による浄土往生の教えを引継ぎ、浄土真宗の祖とされる。1262年(弘長2)11月28日没。90才。妻は九条兼実の娘。
北条氏治②の墓碑
北条氏治②
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄9年 (1696年)
河内狭山藩4代藩主。1639年(寛永16)氏利の次男として生まれる。1648年(慶安元)河内狭山藩3代藩主氏宗の養子となり、その娘を妻とする。1664年(寛文4)1月将軍徳川家綱に拝謁。氏宗の隠居により1670年(寛文10)10月跡を継ぐ。1696年(元禄9)5月29日没。58才。法名「淨覚院殿俊甫宗秀大居士」。墓石には「元禄九年七月十八日寂」とあるが誤記。
伊東長治妻②の墓碑
伊東長治妻②
生 不明
没 元禄2年 (1689年)
松平重則の3女として生まれる。松平勝隆(重則弟)の養女として伊東長治に嫁ぐ。長治との間に、長貞の1男を儲ける。1686年(貞享3)9月29日没。法名「照光院殿如覺月眞大姉」。
中盛行②の墓碑
中盛行②
生 慶長5年 (1600年)
没 万治元年 (1658年)
1600年(慶長5)盛久の嫡子として生まれる。1658年(明暦4)2月3日没。59才。法名「慈照院江外宗春居士」。
鴻池延貞妻の墓碑
鴻池延貞妻
生 不明
没 享保6年 (1721年)
鴻池四郎右衛門之信の娘。名は与之。1721年(享保6)12月25日没。法名「淨想恵現大姉」。
鴻池延貞の墓碑
鴻池延貞
生 不明
没 元文3年 (1738年)
吉右衛門知貞の子。新七、吉右衛門。1738年(元文3)10月9日没。法名「仲山又甫居士」。
親鸞①の墓碑
親鸞①
生 承安3年 (1173年)
没 弘長2年 (1262年)
浄土真宗の宗祖。1173年(承安3)日野有範の長男として生まれる。法然のもとに入門して学ぶも、1207年(建永2)後鳥羽上皇の勘気を被り越後国へ流罪となる。師の法然による浄土往生の教えを引継ぎ、浄土真宗の祖とされる。1262年(弘長2)11月28日没。90才。妻は九条兼実の娘。
大條直頼の墓碑
大條直頼
生 寛永7年 (1630年)
没 慶安4年 (1651年)
1630年(寛永7)定頼の子として生まれる。伊達家家臣。父の死により1644年(正保元)1月跡を継ぐ。弱年のためか、陸奥伊具郡丸森より伊具郡尾山に領地替えとなる。1651年(慶安4)10月7日没。22才。法名「白巖院雲山俊立居士」。
松平信綱の墓碑
松平信綱
生 慶長元年 (1596年)
没 寛文2年 (1662年)
武蔵川越藩初代藩主。1596年(慶長元)大河内久綱の長男として生まれる。叔父松平正綱の養子となる。徳川秀忠、家光のもと出世を重ね1620年(元和6)500石から1627年(寛永4)には1万石の大名に。島原の乱では総大将を務める。乱後、川越藩で6万石。のち7万5千石。1662年(寛文2)3月16日没。67才。法名「松林院殿乾徳全梁大居士」。
石川成堯の墓碑
石川成堯
生 不明
没 慶長20年 (1615年)
大久保忠隣の5男。内記。1607年(慶長12)外祖父の石川家成の隠棲料の5千石を譲り受ける。このとき石川姓となる。1614年(慶長19)父忠隣に連座して居。1615年(慶長20)5月7日大坂の陣に参戦して討死。法名「霊陽院殿」。墓石は正面が後ろとなっていて、正面からの撮影が出来ず後ろからの写真。
溝口政勝妻の墓碑
溝口政勝妻
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
溝口宣勝の長女。名は蝶姫。政勝に嫁ぎ、政良の1男を儲ける。1634年(寛永11)閏7月2日没。法名「芳樹院殿久巖貞昌大姉」。墓石施主は実母長壽院(溝口宣勝妻)。
溝口重雄妻の墓碑
溝口重雄妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
酒井忠勝(庄内)の娘。溝口重雄に嫁ぎ、戸川安宣妻、稲葉知通妻、酒井忠予妻、松平定陳妻の4女を儲ける。1685年(貞享2)7月8日没。法名「廣心院殿自覚聖知大姉」。かなりの良妻と伝わる。
溝口重元妻の墓碑
溝口重元妻
生 延宝9年 (1681年)
没 宝永2年 (1705年)
1681年(延宝9)5月前田利明の7女として生まれる。1703年(元禄16)7月溝口重元に嫁ぐ。重元との間に子は出来ず。1705年(宝永2)5月22日没。25才。法名「實相院殿蓮香浄池大姉」。
伊達村風の墓碑
伊達村風
生 正徳5年 (1715年)
没 享保20年 (1735年)
1715年(正徳5)2月1日吉村の3男として生まれる。采地3千石を賜い、伊達家一門に列する。1735年(享保20)5月20日没。21才。法名「天球院殿圓山融公大居士」。
鈴木大拙妻の墓碑
鈴木大拙妻
生 不明
没 昭和14年 (1939年)
名はベアトリス・レイン・スズキ。神智学者で仏教学者でもある。アメリカで大拙と知り合い日本にて結婚。日本名は琵琶子。1939年(昭和14)7月16日没。法名「青蓮院琵琶妙演大姉」。
鈴木大拙の墓碑
鈴木大拙
生 明治3年 (1870年)
没 昭和41年 (1966年)
1870年(明治3)石川県生まれ。本名貞太郎。仏教哲学者で博士号を受ける。東大講師、学習院教授を務め、論文を多く残した。1966年(昭和41)7月12日没。法名「也風流庵大拙居士」。
冷泉為親の墓碑
冷泉為親
生 天正3年 (1575年)
没 慶長15年 (1610年)
1575年(天正3)9月中山親綱の次男として生まれる。冷泉為満の出奔により、為満の養子として冷泉家に入る。しかし為満が赦されて冷泉家の当主になったため、新しく中山冷泉家を興す。1610年(慶長15)7月26日没。36才。法名「蓮池院清月浄空」。父中山親綱と合葬墓。
中山親綱の墓碑
中山親綱
生 天文13年 (1544年)
没 慶長3年 (1598年)
1544年(天文13)孝親の子として生まれる。1576年(天正4)参議。公家の役職武家伝奏として豊臣秀吉との交渉を務める。1598年(慶長3)11月28日没。55才。法名「常照院真月想空」。冷泉為親との合葬墓。
木食応其①の墓碑
木食応其①
生 天文5年 (1536年)
没 慶長13年 (1608年)
1536年(天文5)生まれる。1573年(天正元)高野山に入り出家。木食行を行ったことから一般的に木食応其と呼ばれる。1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州攻めのときに高野山降伏の使者として赴く。1600年(慶長5)東軍の伊勢安濃津、近江大津城の開城交渉を行う。1608年(慶長13)10月1日没。73才。撮影禁止区間にも墓がある。
高田慎蔵妻の墓碑
高田慎蔵妻
生 嘉永6年 (1853年)
没 昭和6年 (1931年)
1853年(嘉永6)9月池田倉蔵の長女として生まれる。名は多美、たみ子。慎蔵との間に7男5女を儲ける。囲碁界に貢献。1931年(昭和6)11月2日没。79才。法名「徳光院殿心蓮淨覺大姉」。
高田慎蔵の墓碑
高田慎蔵
生 嘉永5年 (1852年)
没 大正10年 (1921年)
1852年(嘉永5)2月天野孫太郎の子として生まれる。高田六郎の養子となる。戊辰戦争では、幕臣として戦う。明治になると政府に仕え、兵器機械を扱う高田商会を興す。日清日露戦争に貢献、豪商となる。1921年(大正10)12月26日没。70才。法名「徳壽院殿心月浄照居士」。
伊東長昌妻の墓碑
伊東長昌妻
生 不明
没 明暦3年 (1657年)
中島重次の娘。母(粟生氏)が板倉勝重と再婚したため、勝重の養女として長昌に嫁ぐ。長昌との間に、女子、女子、長治の1男2女を儲ける。1657年(明暦3)12月24日没。法名「高壽院殿潔窓玄清大姉」。
伊東長昌の墓碑
伊東長昌
生 文禄2年 (1593年)
没 寛永17年 (1640年)
備中岡田藩2代藩主。1593年(文禄2)長実の次男として生まれる。1608年(慶長13)より徳川家康に仕える。命により豊臣秀頼に仕え、秀頼没後再び家康に仕える。1640年(寛永17)9月18日没。48才。法名「寶光院殿東山高天居士」。
伊東長実妻の墓碑
伊東長実妻
生 天正2年 (1574年)
没 寛文2年 (1662年)
1574年(天正2)塚本次郎兵衛の娘として生まれる。伊東長実に嫁ぎ、長昌、長近の2男を儲ける。1662年(寛文2)11月19日没。89才。法名「福生院殿椿松永壽大姉」。
伊東長実の墓碑
伊東長実
生 永禄3年 (1560年)
没 寛永6年 (1629年)
備中岡田藩初代藩主。1560年(永禄3)長久の子として生まれる。豊臣秀吉に仕え、1578年(天正6)播磨国三木城攻めのとき手柄をたて織田信長より金の熨斗付の脇差を与えられる。武勇に優れ、秀吉の七手組に任命。1600年(慶長5年)6月下野国小山の徳川家康のもとに石田三成の挙兵の第一報を知らせる。1629年(寛永6)2月17日没。法名「金龍寺殿雲山宗徳居士」。
伊東長治妻①の墓碑
伊東長治妻①
生 不明
没 貞享3年 (1686年)
松平重則の3女として生まれる。松平勝隆(重則弟)の養女として伊東長治に嫁ぐ。長治との間に、長貞の1男を儲ける。1686年(貞享3)9月29日没。法名「照光院殿如覺月眞大姉」。
伊東長救妻の墓碑
伊東長救妻
生 寛文10年 (1670年)
没 延享3年 (1746年)
1670年(寛文10)8月木下俊長の長女として生まれる。長救との間に子は出来ず。1746年(延享3)1月17日没。77才。法名「陽運院殿華屋秀榮大姉」。
伊東長救の墓碑
伊東長救
生 寛文2年 (1662年)
没 延享2年 (1745年)
備中岡田藩5代藩主。1662年(寛文2)長貞の長男として生まれる。1673年(延宝元)将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1693年(元禄6)10月跡を継ぐ。1723年(享保8)3月隠居。1745年(延享2)9月20日没。84才。法名「節翁院義功浄山居士」。
伊東長寛妻(天壽院)の墓碑
伊東長寛妻(天壽院)
生 明和8年 (1771年)
没 天保15年 (1844年)
1771年(明和8)12月森忠洪の娘として生まれる。名は菊。森忠興の養女として長寛に嫁ぐ。1844年(天保15)2月14日没。74才。法名「天壽院殿慶室永昌大姉」。
伊東長寛妻(龍智院)の墓碑
伊東長寛妻(龍智院)
生 明和5年 (1768年)
没 寛政8年 (1796年)
1768年(明和5)五島盛義の娘として生まれる。名は民子。五島盛運の養女として長寛に嫁ぎ、政之助を儲ける。1796年(寛政8)8月11日没。29才。法名「龍智院殿慧海寶珠大姉」。
伊東長寛の墓碑
伊東長寛
生 明和元年 (1764年)
没 嘉永3年 (1850年)
備中岡田藩8代藩主。1764年(明和元)長詮の長男として生まれる。父の死により1778年(安永7)閏7月跡を継ぐ。1782年(天明2)2月将軍徳川家治に拝謁。1850年(嘉永3)6月11日没。87才。法名「南嶺院殿白翁凌雲大居士」。
阿部正邦の墓碑
阿部正邦
生 万治元年 (1658年)
没 正徳5年 (1715年)
備後福山藩藩主。1658年(万治元)定高の次男として生まれる。1669年(寛文9)8月将軍徳川家綱に拝謁。蔵岩槻藩から丹後宮津藩、下野宇都宮藩、備後福山藩と移封を重ねる。1715年(正徳5)1月27日没。58才。法名「長生院殿尋誉耀海踞岸大居士」。
阿部定高妻の墓碑
阿部定高妻
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
詳細不明。定高の側室。正邦の母。1693年(元禄6)1月15日没。法名「隆仙院殿性譽梅岳崇薫大禅定尼」。正邦の後に竹沢監物、三浦紀連妻(永昌院)の2人も儲けている記録もある。しかし正邦を生んだ翌年には夫定高が没しており、定高没後に他家(竹沢家か)に嫁いで2人を儲けたとも考えられる。
阿部定高の墓碑
阿部定高
生 寛永12年 (1635年)
没 万治2年 (1659年)
武蔵岩槻藩3代藩主。1635年(寛永12)重次の長男として生まれる。1651年(慶安4)父が徳川家光に殉死すると跡を継ぐ。同年9月将軍徳川家綱に拝謁。1659年(万治2)1月23日没。25才。法名「普廣院殿考譽寂照閑清大居士」。
南部直房妻の墓碑
南部直房妻
生 不明
没 正徳3年 (1713年)
川口玄之丞正家の娘。直房に嫁ぎ、直政、直常、市橋政勝妻の2男1女を儲ける。1713年(正徳3)閏5月28日没。法名「霊松院殿法雲宗珠大姉」。
南部直房の墓碑
南部直房
生 寛永5年 (1628年)
没 寛文8年 (1668年)
陸奥八戸藩初代藩主。1628年(寛永5)利直の7男として生まれる。兄重直がすると2万石を与えられ八戸藩初代藩主となる。1664年(寛文4)12月将軍徳川家綱に拝謁。1668年(寛文8)6月24日没。41才。法名「清涼院殿天性自性自心大居士」。
浅野長勝①の墓碑
浅野長勝①
生 不明
没 天正3年 (1575年)
長詮の子。浅野勝隆の養子となる。織田信秀、信長に仕え弓衆を務める。木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力として付けられる。1575年(天正3)9月10日没。法名「勝海院殿全光善性居士」。
小出英持妻(成等院)の墓碑
小出英持妻(成等院)
生 不明
没 寛保元年 (1741年)
詳細不明なれど、英持との間に於菊を儲ける。1741年(寛保元)9月5日没。「成等院殿妙正日覺信女」。
井上正利の墓碑
井上正利
生 慶長11年 (1606年)
没 延宝3年 (1675年)
常陸笠間藩初代藩主。1606年(慶長11)正就の長男として生まれる。1617年(元和3)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)10月跡を継ぐ。1658年(明暦4)7寺社奉行。1675年(延宝3)11月8日没。70才。法名「正善院殿智源日利大居士」。
小出岩松の墓碑
小出岩松
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
英利の長男。1685年(貞享2)11月7日没。法名「恵明院殿東林宗旭童子」。