溝口宣勝妻の墓碑
溝口宣勝妻
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
 堀秀政の娘。溝口宣勝に嫁ぎ、宣直、宣秋、宣俊、宣知、溝口政勝妻、長谷川正尚妻、徳永昌勝妻の3男3女を儲ける。1641年(寛永18)10月29日没。法名「長壽院殿寶屋慶延大姉」。墓石は1628年(寛永5)11月21日建立の逆修塔。
溝口宣直の墓碑
溝口宣直
生 慶長10年 (1605年)
没 延宝4年 (1676年)
越後新発田藩3代藩主。1605年(慶長10)宣勝の長男として生まれる。1611年(慶長16)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1672年(寛文12)9月隠居。1676年(延宝4)11月22日没。72才。法名「寒光院殿禅林味歇大居士」。
溝口政勝の墓碑
溝口政勝
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文10年 (1670年)
越後沢海藩2代藩主。1608年(慶長13)善勝の長男として生まれる。1622年(元和8)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)跡を継ぐ。その際、弟2人に4千石を分知したため沢海藩は1万石となる。1670年(寛文10)1月28日没。63才。法名「清香院殿恵観浄智大居士」。
溝口重雄の墓碑
溝口重雄
生 寛永10年 (1633年)
没 宝永5年 (1708年)
越後新発田藩4代藩主。1633年(寛永10)宣直の長男として生まれる。1640年(寛永17)10月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1672年(寛文12)9月跡を継ぐ。1706年(宝永3)7月隠居。1708年(宝永5)9月4日没。76才。法名「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
石田三成の墓碑
石田三成
生 永禄3年 (1560年)
没 慶長5年 (1600年)
1560年(永禄3)正継の3男として生まれる。近江長浜城主時代の豊臣秀吉に見出され仕える。文官奉行として頭角を現し豊臣政権下で五奉行となる。1600年(慶長5)9月関ヶ原の戦いのときは、徳川家康と戦うも敗れる。戦後、捕縛され同年10月1日六条河原で斬首となる。41才。法名「江東院正軸因公大禅定門」。墓石は1590年(天正18)3月18日逆修として建てられ法名「宗應」とある。
秋月種弘の墓碑
秋月種弘
生 貞享4年 (1687年)
没 宝暦3年 (1753年)
日向高鍋藩5代藩主。1687年(貞享4)11月種政の長男として生まれる。1700年(元禄13)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。1753年(宝暦3)7月21日没。67才。法名「瑞應院殿恵山宗定大居士」。
秋月種弘妻の墓碑
秋月種弘妻
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
柴垣氏の出にて、秋月種弘の妻となる。種弘との間に種美を儲ける。1756年(宝暦6)8月26日没。法名「凉照院殿桂輪貞香大姉」。墓石は息子佐渡守種美の建立による。
秋月種恒の墓碑
秋月種恒
生 承応3年 (1654年)
没 寛文11年 (1671年)
1654年(承応3)種信の長男として生まれる。1669年(寛文9)6月将軍徳川家綱に拝謁。父に先立ちて1671年(寛文11)10月10日没。18才。法名「松嶽院殿温室宗良居士」。
秋月種政の墓碑
秋月種政
生 万治元年 (1658年)
没 正徳6年 (1716年)
日向高鍋藩4代藩主。1658年(万治元)5月種信の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1689年(元禄2)2月跡を継ぐ。1710年(宝永7)閏8月隠居。1716年(正徳6)閏2月26日没。59才。法名「天祐院殿慶嶽宗善公大居士」。
秋月種政妻の墓碑
秋月種政妻
生 不明
没 享保19年 (1734年)
松浦棟の娘。秋月種政に嫁ぎ、種弘、脇坂安清妻、女子、女子の1男3女を儲ける。1734年(享保19)4月14日没。法名「正眼院殿心體了悟尼大姉」。墓石は息子長門守種弘の建立による。
荒尾隆重の墓碑
荒尾隆重
生 不明
没 元和3年 (1617年)
善次の3男。池田輝政の家臣。輝政没後は兄の成房とともに忠継の家老職となる。兄の成房は但馬守、隆重は志摩守を代々称した。1614年(慶長19)大坂の陣に出陣。1617年(元和3)7月11日没。法名「桂林院殿月峯浄心大居士」。
三浦高連の墓碑
三浦高連
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
初代五郎右衛門。今川氏真に仕え、のちに兄安久とともに井伊直政に仕える。長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従う。直政の娘が德川家康4男松平忠吉に嫁いだときに従い、忠吉の家臣となる。忠吉没後は井伊家に戻る。1611年(慶長16)7月29日没。法名「安祥院殿臺覚浄蓮居士」。墓石は2代目五郎右衛門高則の建立による。法名「清正院殿花覚妙蓮居士」もあるも高連の妻と思われる。墓石は為父母とあること、花や妙は女性の法名にあるのが一般的であることから妙蓮居士は妙蓮大姉の誤記と推察。
丹羽光重の墓碑
丹羽光重
生 元和7年 (1621年)
没 元禄14年 (1701年)
陸奥二本松藩初代藩主。1621年(元和7)12月長重の3男として生まれる。母は織田信長の娘。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1637年(寛永14)4月跡を継ぐ。1643年(寛永20)7月陸奥二本松藩へ移封。1679年(延宝7)4月隠居。1701年(元禄14)4月11日没。81才。法名「慈明院殿補闕玉峰大居士」。
丹羽長次の墓碑
丹羽長次
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄11年 (1698年)
陸奥二本松藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1653年(承応2)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1679年(延宝7)4月跡を継ぐ。1698年(元禄11)6月26日没。56才。法名「興國院殿節山麟功大居士」。
丹羽長重の墓碑
丹羽長重
生 元亀2年 (1571年)
没 慶長5年 (1600年)
陸奥白河藩初代藩主。1571年(元亀2)長秀の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦。父の死後跡を継ぐが、相次ぐ不祥事により123万石から4万石まで大幅な減封となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍の前田利長と戦い、戦後領地没収となる。のち大名に復帰、晩年は陸奥白河藩10万700石を領す。1637年(寛永14)閏3月6日没。67才。法名「大隣寺殿桀俊浄英大居士」。
久野宗俊の墓碑
久野宗俊
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永3年 (1706年)
紀州藩家老久野家3代当主。1643年(寛永20)宗晴の子として生まれる。父の死により1649年(慶安2)10月跡を継ぐ。1654年(承応3)田丸城代となる。1706年(宝永3)4月27日没。64才。法名「常立院殿信譽大圓大居士」。
久野宗晴の墓碑
久野宗晴
生 慶長14年 (1609年)
没 慶安2年 (1649年)
紀州藩家老久野家2代当主。1609年(慶長14)宗成の子として生まれる。紀州藩主徳川頼宣に仕える。父の死により1626年(寛永3)跡を継ぎ田丸城代となる。1649年(慶安2)6月1日没。41才。法名「長照院殿月峯宗閑居士」。
久野昌純の墓碑
久野昌純
生 天明7年 (1787年)
没 文政6年 (1823年)
紀州藩家老久野家7代当主。1787年(天明7)輝純の子として生まれる。父の死により1811年(文化8)2月跡を継ぐ。1823年(文政6)7月24日没。37才。法名「光徳院殿仁誉本空禮純大居士」。
久野輝純の墓碑
久野輝純
生 延享2年 (1745年)
没 文化8年 (1811年)
紀州藩家老久野家6代当主。1745年(延享2)俊純の子として生まれる。父の死により1773年(安永2)跡を継ぐ。1811年(文化8)1月20日没。67才。法名「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
伊奈忠常の墓碑
伊奈忠常
生 慶安元年 (1648年)
没 延宝8年 (1680年)
1648年(慶安元)忠克の長男として生まれる。父の死により1665年(寛文5)12月跡を継ぐ。翌年3月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)1月4日没。33才。法名「法性院殿空譽徹真大居士」。
伊奈忠篤の墓碑
伊奈忠篤
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄10年 (1697年)
1669年(寛文9)忠常の長男として生まれる。1679年(延宝7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1680年(延宝8)9月関東代官を継ぐ。1697年(元禄10)10月19日没。29才。法名「法玄院殿本譽覺真大居士」。
伊奈忠順の墓碑
伊奈忠順
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
忠常の次男。はじめ稲葉正篤の養子となる。兄忠篤の子が早世したため養子となり跡を継ぐ。1698年(元禄11)江戸永代橋を創架。1707年(宝永4)富士山噴火のときは災害対策の最高責任者として活躍。1712年(正徳2)2月29日没。法名「嶺頂院殿松譽哲翁大居士」。
内藤信成の墓碑
内藤信成
生 天文14年 (1545年)
没 慶長17年 (1612年)
1545年(天文14)嶋田景信の次男として生まれる。徳川家康の異母弟との説もある。内藤清長の養子となり、家康に仕える。丸根砦攻め、三河一向一揆、掛川城攻め、三方原の戦い、長篠の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)近江長浜城主となり4万石を領す。1612年(慶長17)7月24日没。68才。法名「法善寺殿陽竹宗賢大居士」。
内藤信正の墓碑
内藤信正
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永3年 (1626年)
摂津高槻藩主。1568年(永禄11)信成の長男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、九戸一揆、関ヶ原の戦いに参戦。1615年(元和元)閏6月摂津高槻城主となり5万石を領す。1626年(寛永3)4月28日没。59才。法名「光徳院殿善壽宗覚大禅定門」。
内藤信正妻の墓碑
内藤信正妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
石川康通の娘。内藤信正に嫁ぎ、信照を儲ける。1660年(万治3)3月24日没。法名「雲照院立譽宗建大信女」。墓石に「奥州高野郡棚倉城主内藤豊前守源朝臣信照 御袋方逆修建立之」とあり逆修塔である。没年月日も刻まれてるが、この部分のみ没後に刻まれたと思われる。
内藤信照の墓碑
内藤信照
生 文禄元年 (1592年)
没 寛文5年 (1665年)
陸奥棚倉藩初代藩主。1592年(文禄元)信正の長男として生まれる。多病ゆえ弟信武が嫡子となるも、1619年(元和5)信武が没したため嫡子となる。1626年(寛永3)跡を継ぐ。1627年(寛永4)陸奥棚倉藩に移封。1665年(寛文5)1月19日没。74才。法名「清淨院長岳良榮哲春大禅定門」。多病とあるも長生きをしている。
内藤信良の墓碑
内藤信良
生 寛永2年 (1625年)
没 元禄8年 (1695年)
陸奥棚倉藩2代藩主。1625年(寛永2)信照の長男として生まれる。1633年(寛永10)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1665年(寛文5)跡を継ぐ。1674年(延宝2)11月隠居。1695年(元禄8)7月23日没。71才。法名「寶岸院殿静挙供安大禅定門」。
大岡忠愛の墓碑
大岡忠愛
生 文化4年 (1807年)
没 安政4年 (1857年)
 三河西大平藩6代藩主。1807年(文化4)忠移の長男として生まれる。1828年(文政11)父の隠居により跡を継ぐ。1857年(安政4)10月5日没。51才。法名「徳光院殿永譽忠愛巍山大居士」。墓石側面には1857年(安政4)8月28日とあるので没したのが8月28日、後継ぎ(弟が相続)の関係で幕府に届けた没日が10月5日と思われる。
宍戸八助の墓碑
宍戸八助
生 宝永5年 (1708年)
没 正徳5年 (1715年)
1708年(宝永5)1月広隆の次男として生まれる。1715年(正徳5)11月22日没。8才。法名「梅梢院殿雲庭自白禅童子」。
宍戸就年の墓碑
宍戸就年
生 寛延2年 (1749年)
没 文政9年 (1826年)
1749年(寛延2)広周の次男として生まれる。父の藩内の失脚により1761年(宝暦11)跡を継ぐ。主君毛利重就より1字を賜い就年と名乗る。1826年(文政9)1月2日没。78才。法名「齢運院殿仁翁良壽大居士」。
宍戸就年妻の墓碑
宍戸就年妻
生 不明
没 文化12年 (1815年)
星坂正為の娘で矢野紀以の養女として宍戸就年に嫁ぐ。就年との間に、親朝を儲ける。1815年(文化12)2月17日没。法名「桺線院殿天室淨錦大姉」。墓石に「防州三尾宍戸美濃就年室」とある。
宍戸就延の墓碑
宍戸就延
生 寛永20年 (1643年)
没 享保7年 (1722年)
1643年(寛永20)2月熊谷元実の3男として生まれる。宍戸家を継いだ実兄宍戸就附が嫡男なく没したため、その跡を継ぐ。1722年(享保7)7月16日没。80才。法名「徳光院殿空峯心等大居士」。
宍戸就延妻の墓碑
宍戸就延妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
毛利就嘉の娘。宍戸就延に嫁ぎ、弥三郎、福原広頼妻、宍戸広隆妻の1男2女を儲ける。1714年(正徳4)3月26日没。法名「廣徳院殿鏡月慈光大姉」。
宍戸就附の墓碑
宍戸就附
生 寛永12年 (1635年)
没 延宝4年 (1676年)
1635年(寛永12)5月熊谷元実の長男として生まれる。伯父宍戸就尚が没したときその娘を娶り跡を継ぐ。毛利一門として家老職。毛利秀就、綱広に仕える。1676年(延宝4)12月14日没。42才。法名「立徳院殿外翁宗格居士」。
宍戸就附妻の墓碑
宍戸就附妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
宍戸就尚の娘。宍戸(熊谷)就附を婿養子として結婚。就附との間に、毛利定道妻、益田就高妻、毛利広矩妻、毛利就久妻の4女を儲ける。1665年(寛文5)8月14日没。法名「心鏡院殿妙照月清大姉」。
宍戸広周の墓碑
宍戸広周
生 享保5年 (1720年)
没 安永元年 (1772年)
1720年(享保5)熊谷元貞の次男として生まれる。宍戸広隆が没すると養子となり跡を継ぐ。藩主毛利宗広より1字を賜い、広満(のち広周)と名乗る。1772年(安永元)9月2日没。53才。法名「国樹院殿楨郷枯淡大居士」。墓石は1780年(安永9)9月の建立による。
宍戸広周妻の墓碑
宍戸広周妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
毛利元連の娘。宍戸広周に嫁ぎ、四郎、志道就良妻、内藤栄勝妻、女子の1男3女を儲ける。1801年(享和元)9月16日没。法名「恭性院殿永真本敬大姉」。
宍戸広隆の墓碑
宍戸広隆
生 貞享3年 (1686年)
没 元文元年 (1736年)
1686年(貞享3)熊谷就実の長男として生まれる。藩主毛利吉広より1字を賜り広隆と名乗る。1722年(享保7)叔父宍戸就延の死により跡を継ぐ。1736年(元文元)11月5日没。51才。法名「天心院殿義翁尊孝大居士」。墓石は養子宍戸広周の建立による。
宍戸広隆妻の墓碑
宍戸広隆妻
生 不明
没 享保15年 (1730年)
宍戸就延の次女。宍戸広隆に嫁ぎ、婿とする。広隆との間に、孫四郎、八助、竹次郎、女子の3男1女を儲ける。1730年(享保15)12月12日没。法名「恵光院殿寒月智照大姉」。
宍戸親朝の墓碑
宍戸親朝
生 安永元年 (1772年)
没 天保2年 (1831年)
1772年(安永元)就年の長男として生まれる。主君毛利治親より1字を賜り親朝と名乗る。1811年(文化8)藩主毛利斉熙に従い将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1818年(文政元)跡を継ぐ。1831年(天保2)8月24日没。60才。法名「大隆院殿孝運常觀大居士」。
宍戸親朝妻の墓碑
宍戸親朝妻
生 不明
没 文政5年 (1822年)
梅園実縄の娘で毛利就任の養女として宍戸親朝に嫁ぐ。親朝との間に、元礼を儲ける。1822年(文政5)9月4日没。法名「瓊琳院殿寶室貞盤大姉」。墓石に「宍戸主計親朝室」とある。
山名時義の墓碑
山名時義
生 貞和2年 (1346年)
没 康応元年 (1389年)
1346年(貞和2)山名時氏の5男として生まれる。南朝方に味方をしていたが、幕府方に帰参。1363年(貞治2)将軍足利義詮に拝謁。1376年(永和2)兄師義の死により家督を継ぐ。但馬守護のほか備後守護も担い11ヶ国を領有、「六分一殿」と称される。1389年(康応元)5月4日没。44才。法名「圓通寺殿大等宗均大禅定門」。墓石は1404年(応永11)5月4日の建立による。
山浦清麿の墓碑
山浦清麿
生 文化10年 (1813年)
没 嘉永7年 (1854年)
1813年(文化10)3月昌友の次男として生まれる。源清麿とも。信州上田藩主真田幸貫の命により江戸に行き、刀工として活躍。水心子正秀、大慶直胤とともに「江戸三作」と呼ばれる。1854年(嘉永7)11月14日自殺。42才。法名「大道院義心居士」。
徳川斉彊の墓碑
徳川斉彊
生 文政3年 (1820年)
没 嘉永2年 (1849年)
紀伊和歌山藩12代藩主。 1820年(文政3)4月家斉の21男として生まれる。1827年(文政10)清水徳川家を継ぐ。1834年(天保5) 元服のとき将軍で父でもある家斉から1字を賜り斉彊と名乗る。1846年(弘化3)和歌山藩主で兄でもある斉順が死去すると紀伊徳川家を継ぐ。1849年(嘉永2)3月1日没。30才。法名「憲章院殿至徳道光大居士」。
徳川斉順の墓碑
徳川斉順
生 享和元年 (1801年)
没 弘化3年 (1846年)
紀伊和歌山藩11代藩主。 1801年(享和元)9月家斉の7男として生まれる。1805年(文化2)11月清水徳川家を継ぐ。1815年(文化12)2月元服のとき父で将軍の家斉から1字を賜り斉順と名乗る。1824年(文政7)6月和歌山藩主となる。1846年(弘化3)5月8日没。46才。法名「顯龍院殿恭譲圓輝大居士」。
徳川治貞の墓碑
徳川治貞
生 享保13年 (1728年)
没 寛政元年 (1789年)
紀伊和歌山藩9代藩主。 1728年(享保13)2月宗直の次男として生まれる。1741年(寛保元)松平頼邑の養子となる。1775年(安永4)紀伊和歌山藩8代藩主徳川重倫が隠居すると養子となり跡を継ぐ。10代将軍徳川家治より1字を賜い治貞と名乗る。1789年(寛政元)10月26日没。62才。法名「香嚴院殿心齋圓通大居士」。
徳川重倫の墓碑
徳川重倫
生 延享3年 (1746年)
没 文政12年 (1829年)
紀伊和歌山藩8代藩主。 1746年(延享3)2月宗将の次男として生まれる。 1755年(宝暦5)11月元服のとき将軍徳川家重より1字を賜り重倫と名乗る。1765年(明和2)20才で藩主になり30才で隠居。隠居生活を54年以上送り、1829年(文政12)6月2日没。84才。法名「観自在院殿太眞大居士」。
戸沢正庸の墓碑
戸沢正庸
生 寛文4年 (1664年)
没 元文5年 (1740年)
出羽新庄藩3代藩主。1664年(寛文4)5月戸沢家重臣楢岡友清の4男として生まれる。1686年(貞享3)5月藩主戸沢正誠の養子となる。同年6月将軍徳川綱吉に拝謁。正誠の隠居により1710年(宝永7)2月跡を継ぐ。1740年(元文5)12月27日没。77才。法名「源徳院殿龐山常隆大居士」。
有馬豊氏の墓碑
有馬豊氏
生 永禄12年 (1569年)
没 寛永19年 (1642年)
筑後久留米藩初代藩主。1569年(永禄12)則頼の次男として生まれる。豊臣秀吉に仕え遠江横須賀で3万石を領す。のち徳川家康に仕え家康養女を妻とする。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)閏12月筑後久留米にて21万石を与えられる。1642年(寛永19)閏9月30日没。74才。法名「春林院殿如夢道長大居士」。
本多忠勝の墓碑
本多忠勝
生 天文17年 (1548年)
没 慶長15年 (1610年)
1548年(天文17)2月忠高の長男として生まれる。幼い時より徳川家康に仕え、大高城兵糧入れ、三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。徳川四天王の1人。1610年(慶長15)10月18日没。63才。法名「西岸寺殿長譽良信居士」。