島津久通の墓碑
島津久通
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝2年 (1674年)
宮之城島津家4代当主。1604年(慶長9)12月29日久元の長男として生まれる。島津家の家老職を務める。1672年(寛文12)9月家老職を辞す。1674年(延宝2)12月31日没。71才。法名「湛水院殿徳源道智大居士」。
高力正長の墓碑
高力正長
生 永禄元年 (1558年)
没 慶長4年 (1599年)
1558年(永禄元)清長の子として生まれる。徳川家康に仕え、三方原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1599年(慶長4)4月22日没。法名「淨林院殿善室道喜大居士」。
高力清長の墓碑
高力清長
生 享禄3年 (1530年)
没 慶長13年 (1608年)
1530年(享禄3)安長の子として生まれる。松平広忠に仕え、のち徳川家康に仕える。1560年(永禄3)大高城の兵糧入れに従う。三河一向一揆のときは家康に従う。その後三河三奉行の1人となる。姉川の戦い、三方原の戦いなどに従う。1608年(慶長13)1月26日没。79才。法名「快光院殿廓誉道鎮大居士」。
堀直景妻の墓碑
堀直景妻
生 元和7年 (1621年)
没 正保4年 (1647年)
1621年(元和7)生まれ。内藤忠興の養女として堀直景に嫁ぐ。直景との間に、直良、直行、直定の3男を儲ける。1647年(正保4)12月7日没。27才。法名「淨證院殿正峯惟清大姉」。西尾豊後守光教の娘と伝えられるも光教は1615年(元和元)に没していて年代的に合わない。
堀直宥妻の墓碑
堀直宥妻
生 寛文5年 (1665年)
没 元禄13年 (1700年)
1665年(寛文5)桑山一玄の娘として生まれる。岡部行隆の養女として1686年(貞享3)6月堀直宥に嫁ぐ。直宥との間に、直央、女子、直意の2男1女を儲ける。1700年(元禄13)3月21日没。36才。法名「覺了院殿本源自光大姉」。
松平忠宜の墓碑
松平忠宜
生 享保14年 (1729年)
没 宝暦6年 (1756年)
1729年(享保14)土井利庸の次男として生まれる。松平忠堅の養子となる。忠堅の死により1756年(宝暦6)8月跡を継ぐも、同年10月25日没。28才。法名「隆光院殿嶺雲宗松居士」。
平岡吉房の墓碑
平岡吉房
生 元和5年 (1619年)
没 元禄6年 (1693年)
1619年(元和5)吉道の長男として生まれる。父の跡は弟が継ぎ、別家となる。1653年(承応2)6月より徳川綱吉のもと代官を務む。1693年(元禄6)5月4日没。75才。法名「正經寺休翁宇閑居士」。墓石には「元禄七年五月四日」とあるのが寛政重修諸家譜は1693年(元禄6)としている。
平岡吉房妻の墓碑
平岡吉房妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
田代氏。吉房との間に、資補、資明の2男他を儲ける。1685年(貞享2)2月20日没。法名「陽光院殿梅岩芳春大姉」。
伊東長丘の墓碑
伊東長丘
生 元禄10年 (1697年)
没 天明2年 (1782年)
備中岡田藩6代藩主。1697年(元禄10)長救の長男として生まれる。1708年(宝永5)3月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1723年(享保8)3月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1782年(天明2)10月8日没。86才。法名「實相院殿悠嶽淨久大居士」。
伊東長丘妻の墓碑
伊東長丘妻
生 不明
没 天明4年 (1784年)
本多助芳の娘。伊東長丘の継室となり、於園、長詮、熊之助、於増の2男2女を儲ける。1784年(天明4)8月2日没。法名「瑞雲院殿蓮臺長遊大姉」。
小出英常妻(玉峯院)の墓碑
小出英常妻(玉峯院)
生 不明
没 宝暦13年 (1763年)
土井利信の娘。小出英常の間に子は出来ず。1763年(宝暦13)1月15日没。法名「玉峯院殿心月宗圓大姉」。
小出英常娘(清光院)の墓碑
小出英常娘(清光院)
生 宝暦10年 (1760年)
没 明和3年 (1766年)
1760年(宝暦10)11月2日小出英常の長女として生まれる。名は於銀。1766年(明和3)7月1日没。7才。法名「清光院殿寶月宗璵童女」。
小出英持の墓碑
小出英持
生 宝永3年 (1706年)
没 明和4年 (1767年)
丹波園部藩5代藩主。1706年(宝永3)英貞の長男として生まれる。1716年(享保元)閏2月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1744年(延享元)12月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄を務む。1767年(明和4)10月15日没。62才。法名「青霄院殿透嶺義關大居士」。
小出英常妻(心源院)の墓碑
小出英常妻(心源院)
生 不明
没 明和2年 (1765年)
身分の低い出と思われる。小出英常との間に、於銀、稲垣定淳妻の2女を儲ける。1765年(明和2)9月27日没。法名「心源院機屋妙輪大姉」。寛政重修諸家譜では他2女を儲けたように記載あるも、この2女は心源院没後の生まれである。
小出英持妻(自性院)の墓碑
小出英持妻(自性院)
生 不明
没 明和6年 (1769年)
身分の低い出と思われる。小出英持との間に、英常を儲ける。1769年(明和6)5月6日没。法名「自性院殿本源妙眞大姉」。
小出英常娘(芳林院)の墓碑
小出英常娘(芳林院)
生 明和7年 (1770年)
没 安永4年 (1775年)
1770年(明和7)10月26日小出英常の3女として生まれる。名は於八千。1775年(安永4)2月5日没。6才。法名「芳林院殿雲岳妙紅童女」。
小出英常の墓碑
小出英常
生 寛保3年 (1743年)
没 安永4年 (1775年)
丹波園部藩6代藩主。1743年(寛保3)2月12日英持の次男として生まれる。1755年(宝暦5)4月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1767年(明和4)12月跡を継ぐ。1775年(安永4)9月20日没。33才。法名「霊源院殿猷峯紹機大居士」。
甲斐庄正恒の墓碑
甲斐庄正恒
生 元禄4年 (1691年)
没 宝暦9年 (1759年)
1691年(元禄4)堀直佑の3男として生まれる。甲斐庄正永の養女を娶り養子となる。1710年(宝永7)7月将軍徳川家宣に拝謁。正永の死により1717年(享保2)6月跡を継ぐ。1723年(享保8)5月失心により蟄居となる。1759年(宝暦9)閏7月22日没。69才。法名「桂山院殿月秋常圓居士」。
甲斐庄正寿の墓碑
甲斐庄正寿
生 享保4年 (1719年)
没 延享2年 (1745年)
1719年(享保4)正恒の次男として生まれる。父の失心により1723年(享保8)7月跡を継ぐ。1737年(元文2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)5月26日没。27才。法名「泰岳院殿義山玄道居士」。
甲斐庄正堅の墓碑
甲斐庄正堅
生 享保20年 (1735年)
没 明和4年 (1767年)
1735年(享保20)正寿の長男として生まれる。父の死により1745年(延享2)8月跡を継ぐ。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)8月31日没。33才。法名「坎功院殿篤了謙忠居士」。
甲斐庄正昉の墓碑
甲斐庄正昉
生 寛保2年 (1742年)
没 寛政7年 (1795年)
1742年(寛保2)正寿の次男として生まれる。兄正堅の養子とな、正堅の死により1767年(明和4)10月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1795年(寛政7)12月27日没。54才。法名「聖箭院殿鐵關玄透居士」。
茂庭良元妻の墓碑
茂庭良元妻
生 不明
没 寛文6年 (1666年)
成田氏。茂庭良元に嫁ぎ、茂行を儲ける。1666年(寛文6)12月3日没。法名「永明院殿覺心宗鏡大姉」。墓石は息子大蔵茂行の建立による。
茂庭茂行の墓碑
茂庭茂行
生 元和4年 (1618年)
没 延宝5年 (1677年)
1618年(元和4)良元の次男として生まれる。病のため跡を継ぐことが出来ず。主君伊達忠宗の命により叔父実元の養子となる。1677年(延宝5)6月2日没。60才。法名「形山院殿月齋洞明居士」。墓石施主は子の恒真による。
亘理宗根の墓碑
亘理宗根
生 慶長5年 (1600年)
没 寛文9年 (1669年)
1600年(慶長5)伊達政宗の庶子として生まれる。母は香の前。茂庭綱元の子として育てられる。亘理重宗の娘を娶り婿となる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。大野治長の臣中川隼人を討取る。1669年(寛文9)10月26日没。70才。法名「超勝院殿格外玄秀大居士」。法名は超誓院殿だがこの墓碑には「超勝院殿」とある。
南条元知の墓碑
南条元知
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄16年 (1703年)
1641年(寛永18)細川忠利の4男として生まれる。南条元信の養子となる。細川家の家老職。1665年(寛文5)からは長岡姓。1669年(寛文9)細川綱利に諫言したため蟄居となり、剃髪して道固と号す。1703年(元禄16)11月1日没。63才。法名「養仙院定巖道固大居士」。
米田是春妻の墓碑
米田是春妻
生 元禄8年 (1695年)
没 明和3年 (1766年)
1695年(元禄8)10月9日寿之の長女として生まれる。名は津勢。米田是春の妻となり是福を儲ける。1766年(明和3)7月6日没。72才。法名「菱花院殿體眞壽光禅尼」。
堀直常の墓碑
堀直常
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
直里の子。堀直時、直吉の家臣。仕置役年寄を務め2千石を領す。1672年(寛文12)9月3日没。法名「祖心道意居士」。