松平輝規の墓碑
松平輝規
生 天和2年 (1682年)
没 宝暦6年 (1756年)
上野高崎藩2代藩主。1682年(天和2)信定の10男として生まれる。1715年(正徳5)2月松平輝貞の養子となる。同年3月将軍徳川家継に拝謁。輝貞の隠居により1745年(延享2)12月跡を継ぐ。1749年(寛延2)2月隠居。1756年(宝暦6)2月29日没。75才。法名「成善院殿真獨玅観大居士」。
松平輝貞の墓碑
松平輝貞
生 寛文5年 (1665年)
没 延享4年 (1747年)
上野高崎藩初代藩主。1665年(寛文5)輝綱の6男として生まれる。1672年(寛文12)2月父の遺領のうち5千石を賜る。1675年(延宝3)10月将軍徳川家綱に拝謁。1691年(元禄4)松平信興の養子となり跡を継ぐ。1730年(享保15)老中格。1745年(延享2)12月隠居。4代将軍家綱から10代将軍家治まで仕える。1747年(延享4)9月14日没。83才。法名「天休院殿節翁道義大居士」。
松平輝貞妻の墓碑
松平輝貞妻
生 不明
没 寛延4年 (1751年)
折井正辰の娘。柳沢吉保の養女として松平輝貞に嫁ぐ。輝貞との間に子は出来ず。1751年(寛延4)2月14日没。法名「長慶院殿蘭圃秀榮大姉」。
中山信正の墓碑
中山信正
生 文禄3年 (1594年)
没 延宝5年 (1677年)
常陸松岡藩2代藩主。1594年(文禄3)1月信吉の長男として生まれる。信政とも。徳川秀忠に仕え、大坂の両陣に従う。1628年(寛永5)より水戸藩主徳川頼房に仕える。父の死により1642年(寛永19)跡を継ぐ。1651年(慶安4)隠居。(墓石には慶安五請以致仕とある)1677年(延宝5)10月28日没。84才。法名「風軒」。
佛海上人の墓碑
佛海上人
生 文政11年 (1828年)
没 明治36年 (1903年)
1828年(文政11)5月生まれる。俗姓は近藤庄次郎。1845年(弘化2)出家。厳しい修行を行い、布教のほか貧民救済を行う。1903年(明治36)3月20日没。76才。没したあと観音寺(新潟県村上市)にて即身仏となるため入定。日本最後の即身仏(ミイラ)で、観音寺でお参りができる。
加藤貞泰の墓碑
加藤貞泰
生 天正8年 (1580年)
没 元和9年 (1623年)
伊予大洲藩初代藩主。1580年(天正8)光泰の長男として生まれる。父と同じく豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは始め石田三成に加担するも、途中から徳川家康に従う。大坂の両陣にも参戦。1617年(元和3)伊予大洲藩にて6万石。1623年(元和9)5月22日没。44才。法名「大峯院殿英叟雄公大居士」。
土井利重の墓碑
土井利重
生 正保4年 (1647年)
没 延宝元年 (1673年)
下総古河藩3代藩主。1647年(正保4)利隆の長男として生まれる。父の隠居により1658年(万治元)9月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1673年(延宝元)10月17日没。27才。法名「浄運院殿願誉清岸汲心大居士」。
土岐頼相の墓碑
土岐頼相
生 寛延3年 (1750年)
没 明和元年 (1764年)
1750年(寛延3)1月定経の長男として生まれる。藤次郎。跡を継ぐことなく1764年(明和元)8月31日没。15才。法名「韜光院殿實相紹幽大居士」。土岐家の家系図では定経の兄頼煕の子で、定経の養子となったとされている。
土岐頼稔の墓碑
土岐頼稔
生 元禄8年 (1695年)
没 延享元年 (1744年)
上野沼田藩初代藩主。1695年(元禄8)2月頼殷の長男として生まれる。1708年(宝永5)4月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1713年(正徳3)7月跡を継ぐ。1734年(享保19)6月京都所司代、1742年(寛保2)6月老中を務める。1744年(延享元)9月12日没。50才。法名「乾光院殿真岩道如大居士」。
塚田正家の墓碑
塚田正家
生 不明
没 寛永12年 (1635年)
木工助。稲葉正勝の家臣。主君正勝が没すると一周忌の1635年(寛永12)1月25日に殉死。法名「高節宗勇居士」。墓石には主君の命日「寛永十一年正月廿五日」が刻まれている。
大久保教勝の墓碑
大久保教勝
生 慶長18年 (1613年)
没 天和2年 (1682年)
1613年(慶長18)教隆の長男として生まれる。1631年(寛永8)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1643年(寛永20)12月跡を継ぐ。1681年(天和元)8月隠居。1682年(天和2)7月12日没。70才。法名「高涼院殿法山廓道大居士」。
大久保教勝妻の墓碑
大久保教勝妻
生 不明
没 正保3年 (1646年)
岡部長盛の娘。大久保教勝に嫁ぐも子は出来ず。1646年(正保3)6月15日没。法名「栖〇院殿松屋壽貞大姉」。
大久保教隆の墓碑
大久保教隆
生 天正14年 (1586年)
没 寛永20年 (1643年)
1586年(天正14)忠隣の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え1600年(慶長5)上杉景勝征伐に従う。このとき15才。弱年ゆえ、関ヶ原に向かう途中で江戸に引き返した。父忠隣の罪に連座して、川越の天海のもとに蟄居。1628年(寛永5)許される。1643年(寛永20)10月15日没。58才。法名「霊光院殿明室紹哲居士」。
大久保教隆妻の墓碑
大久保教隆妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
松平家乗の娘。大久保教隆に嫁ぎ、教勝、忠朝の2男を儲ける。1668年(寛文8)7月1日没。法名「永壽院殿喜峯秀慶大姉」。墓石は息子教勝の建立による。
大草公利の墓碑
大草公利
生 慶長15年 (1610年)
没 延宝7年 (1679年)
1610年(慶長15)公信の子として生まれる。1617年(元和3)徳川家光に仕え、1620年(元和6)からは将軍徳川秀忠に仕え、1632年(寛永9)からは再び家光に仕える。1679年(延宝7)6月12日没。70才。法名「寶性院〇誉稱宅大禅定門」。墓石は孫の長四郎公英の建立による。
大草利忠の墓碑
大草利忠
生 慶安2年 (1649年)
没 延宝6年 (1678年)
1649年(慶安2)公利の次男として生まれる。1670年(寛文10)11月将軍徳川家綱に拝謁。御小姓の番士を務める。父に先立ちて1678年(延宝6)5月1日没。30才。法名「空嚴院殿寶譽玄樹大禅定門」。墓石は子の長四郎公英の建立による。
日根野吉明の墓碑
日根野吉明
生 天正15年 (1587年)
没 明暦2年 (1656年)
1587年(天正15)高吉の長男として生まれる。父の死により1600年(慶長5)跡を継ぐ。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に加担。しかし祖父が中立だったことなどで1602年(慶長7)所領を減らされ下野壬生藩1万900石に移封。のち、豊後府内藩主となり2万石。1656年(明暦2)3月26日没。70才。法名「溪松院殿月峰淨覺大居士」。
日根野弘就の墓碑
日根野弘就
生 不明
没 慶長7年 (1602年)
美濃の斉藤道三、義龍、龍興に仕える。1555年(弘治元)義龍の弟孫四郎と喜平次兄弟を義龍の命で殺害。斉藤家滅亡後は今川氏真に仕え、今川家滅亡後は浅井家に仕え、さらに長島一向一揆に参加。長島一向一揆が鎮圧されると、織田信長に仕える。信長没後は、秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、朝鮮出兵に参戦。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、中立または西軍に付いたとされる。晩年は出家。1602年(慶長7)5月28日没。法名「空見法印」。
日根野高吉の墓碑
日根野高吉
生 不明
没 慶長5年 (1600年)
弘就の子。美濃斉藤氏に仕える。その後、織田信長、豊臣秀吉に仕える。1590年(天正18)小田原合戦のときは山中城攻めで功があり、戦後信濃諏訪郡で3万7千石を賜い高島城主となる。1600年(慶長5)徳川家康の上杉景勝征伐に従い先手を命じられるも、6月26日高島城において没す。法名「鑑照院殿鐡叟玄心大居士」。
松下幸之助の墓碑
松下幸之助
生 明治27年 (1894年)
没 平成元年 (1989年)
1894年(明治27)11月生まれ。電球用のソケットの製造と販売を妻と弟の3人で始める。1918年(大正7)松下電気器具製作所(現在のパナソニックホールディングス)を大阪市で創立。事業の拡大により大阪府門真市に移転。1961年(昭和36)会長職。1989年(平成元)4月27日没。96才。法名「光雲院釋眞幸」。浅草の雷門を私財で再建するなど社会貢献も行っている。
松平定直妻の墓碑
松平定直妻
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄2年 (1689年)
1667年(寛文7)9月稲葉正往の娘として生まれる。松平定直(伊予松山藩4代藩主)に嫁ぎ、定仲を儲ける。1689年(元禄2)2月3日没。23才。法名「正心院殿節巖松貞大姉」。墓石正面に生年月日、法名、没年月日がある。
松平重則の墓碑
松平重則
生 天正3年 (1575年)
没 寛永18年 (1641年)
1575年(天正3)重勝の3男として生まれる。1598年(慶長3)召されて徳川秀忠に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは秀忠に従い信州上田城攻めに参加。1641年(寛永18)12月27日没。62才。法名「松巖院殿憲譽珠宝大居士」。
松平重則妻の墓碑
松平重則妻
生 不明
没 寛永17年 (1640年)
墓石に「松平出雲守立 姉菩提」とある。出雲守は勝隆であり、勝隆が姉の菩提のために建立したことがわかる。姉とは下野皆川藩初代藩主松平重則の妻に該当する。1640年(寛永17)9日22日没。法名「勢光院殿念誉壽正大姉」。
松平重勝妻の墓碑
松平重勝妻
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
鳥居忠吉の娘。松平重勝に嫁ぎ、重忠、重長、重則、重信、勝隆、岩瀬氏興妻の5男1女を儲ける。1628年(寛永5)11月3日没。法名「稱光院殿〇〇壽球大姉」。稱光院殿は松平重則の正室との記載があるが、墓石に「松平大隅守殿 同出雲守御母儀為菩提」とあり大隅守重則と出雲守勝隆の母の菩提のためで、重勝の妻であることがわかる。
柴田康長の墓碑
柴田康長
生 天正15年 (1587年)
没 寛永13年 (1636年)
1587年(天正15)康忠の子として生まれる。1593年(文禄2)徳川家康に拝謁。このとき家康の仰せにより徳川秀忠に仕える。1600年(慶長5)上田城攻めでは本多正信に属す。1613年(慶長18)家臣との確執により改易。大坂の陣の際、伊達政宗に属して忍んで参陣。1623年(元和9)赦される。1636年(寛永13)6月22日没。50才。法名「蓮光院殿琳誉月船大居士」。
森大吉の墓碑
森大吉
生 明暦元年 (1655年)
没 寛文元年 (1661年)
1655年(明暦元)長継の子として生まれる。1661(万治4)3月7日早世。7才。法名「良洪院殿物外恵天臺児子」。
真田信重妻の墓碑
真田信重妻
生 不明
没 慶安2年 (1649年)
鳥居忠政の6女。真田信重に嫁ぐ。信重との間に子は出来ず。1649年(慶安2)12月9日没。法名「松月院殿頂誉江山大禅定尼」。
稲葉正勝の墓碑
稲葉正勝
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永11年 (1634年)
相模小田原藩初代藩主。1597年(慶長2)正成の3男として生まれる。母は春日局。徳川家光に小姓として仕える。順調に出世を重ね1632年(寛永9)11月相模小田原にて8万5千石を賜う。1634年(寛永11)1月25日没。38才。法名「養源寺殿古隠紹太大居士」。
稲葉正往妻の墓碑
稲葉正往妻
生 慶安元年 (1648年)
没 寛文7年 (1667年)
1648年(慶安元)5月3日保科正之の5女として生まれる。名は石。1661年(寛文元)11月稲葉正往に嫁ぐ。正往との間に、松平定直妻の1女を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。20才。法名「本性院殿了岳真空大姉」。
稲葉正成の墓碑
稲葉正成
生 元亀2年 (1571年)
没 寛永5年 (1628年)
1571年(元亀2)林政秀の子として生まれる。稲葉重通の婿養子となる。重通の娘が死去すると、重通の姪である春日局を娶る。小早川秀秋の家臣となり、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、秀秋を東軍に寝返らせる事に尽力。後、松平忠昌の家老となる。故ありて松平家を去り浪人となるも、1627年(寛永4)下野真岡藩にて2万石を与えられる。1628年(寛永5)9月17日没。58才。法名「現龍院殿輝宗道範大居士」。
織田長好の墓碑
織田長好
生 元和3年 (1617年)
没 慶安4年 (1651年)
1617年(元和3)頼長の長男として生まれる。祖父有楽と同じく茶人で有楽流を継ぐ。1620年(元和6)父頼長、1621年(元和7)祖父有楽が没すると、跡を継ぐことなく茶人として過ごす。1651年(慶安4)5月20日没。35才。法名「長好寺殿極厳空八」。墓石は逆修塔。
西郷延員妻の墓碑
西郷延員妻
生 不明
没 不明
松平重則の娘。安房東条藩2代藩主西郷延員の妻となり、重員を儲ける。没年不明だが夫より早く没。法名「月峯壽桂大姉」。墓石は夫の建立による。
里見景佐の墓碑
里見景佐
生 不明
没 元和6年 (1620年)
東根氏で東根景佐とも。最上義光に仕える。武将でもあり、連歌も嗜む。連歌は里村玄仍、昌琢に習う。最上家の一族でもあり重臣で、息子親宜は義光の娘を娶る。1620年(元和6)12月24日没。法名「劫外院殿雪山寒公大居士」。
高井直重の墓碑
高井直重
生 不明
没 元和9年 (1623年)
貞重の次男。伊織。父と同じく徳川頼宣に仕える。頼宣が間宮久弥を手討にした際、これを諫める。1623年(元和9)2月25日、日光参拝のさい旅籠にて松平康信と喧嘩となり果てる。法名「〇公居士」。墓石には「高井伊折(織)」とある。
高力忠房の墓碑
高力忠房
生 天正12年 (1584年)
没 明暦元年 (1655年)
肥前島原藩初代藩主。1584年(天正12)正長の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川秀忠の御前で元服。1600年(慶長5)信州上田城攻めに従う。大坂の両陣に参戦、戦後遠江浜松3万石へ加増移封。島原の乱でも活躍し、1639年(寛永16)4月肥前島原へ移封。1655年(明暦元)12月11日没。72才。法名「禅林院殿傑山道榮大居士」。
高力忠房妻の墓碑
高力忠房妻
生 天正19年 (1591年)
没 正保4年 (1647年)
 1591年(天正19)真田信之の長女として生まれる。母は小松姫。高力忠房に嫁ぎ、高長、長房、政房、小川正久妻の3男1女を儲ける。1647年(正保4)7月27日没。57才。法名「光岳院殿知庵榮照大姉」。
高力民部の墓碑
高力民部
生 不明
没 明暦2年 (1656年)
寛政重修諸家譜に該当する人物の記載はないが、真田家親族法名の中に「陽光院殿梅岩道野居士 明暦2年9月17日 高力民部」とある。(没月が墓石と7ヶ月違う)真田家親族ゆえ、高力忠房(妻が真田信之娘)の子供または孫と思われる。1656年(明暦2)2月17日没。法名「陽光院殿梅巌道野大居士」。没年月日は墓石に従った。
鳥居元忠の墓碑
鳥居元忠
生 天文8年 (1539年)
没 慶長5年 (1600年)
1539年(天文8)忠吉の3男として生まれる。幼少より徳川家康に仕える。家康初陣の寺部城攻めから、大高城兵糧入れ、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどに従軍。関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで城を守るも、西軍の宇喜多、小早川、島津、大谷等に攻められ1600年(慶長5)8月1日討死。62才。法名「龍見院賀岳宗慶大禅定門」。
鳥居忠恒の墓碑
鳥居忠恒
生 慶長9年 (1604年)
没 寛永13年 (1636年)
出羽山形藩2代藩主。1604年(慶長9)忠政の長男として生まれる。1628年(寛永5)父の死により跡を継ぐ。1636年(寛永13)7月7日没。33才。法名「孝徳寺殿鐵山玄心大居士」。
鳥居忠政の墓碑
鳥居忠政
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永5年 (1628年)
出羽山形藩初代藩主。1566年(永禄9)元忠の次男として生まれる。徳川家康に仕え、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いでは首を取る手柄をたてる。1600年(慶長5)父元忠が討死すると跡を継ぐ。1602年(慶長7)陸奥磐城で10万石を領す。大坂の陣の時は江戸城の留守居役。1622年(元和8)出羽山形22万石に移封。1628年(寛永5)9月5日没。63才。法名「俊岳院殿峯山玉雄大居士」。
鳥居忠春の墓碑
鳥居忠春
生 寛永元年 (1624年)
没 寛文3年 (1663年)
信濃高遠藩初代藩主。1624年(寛永元)忠政の3男として生まれる。兄忠恒が没すると鳥居家は改易となるも、過去の功績により忠春に信濃高遠藩3万200石を与える。1636年(寛永13)9月将軍徳川家光に拝謁。暴君だったため、侍医の松谷寿覚に斬られその傷がもとで1663年(寛文3)8月1日没。40才。法名「本光院殿覚林宗知大居士」。
中川久忠の墓碑
中川久忠
生 元禄10年 (1697年)
没 寛保2年 (1742年)
豊後岡藩6代藩主。1697年(元禄10)2月久通の3男として生まれる。1709年(宝永6)7月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1710年(宝永7)4月跡を継ぐ。1742年(寛保2)10月13日没。46才。法名「通玄院殿雲外了山大居士」。
中川久恒の墓碑
中川久恒
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄8年 (1695年)
豊後岡藩4代藩主。1641年(寛永18)7月久清の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1666年(寛文6)4月跡を継ぐ。1695年(元禄8)6月15日没。55才。法名「寶淨院殿榮松久山大居士」。
中川久慶の墓碑
中川久慶
生 宝永5年 (1708年)
没 寛保3年 (1743年)
豊後岡藩7代藩主。1708年(宝永5)3月浅野綱長の4男として生まれる。1737年(元文2)閏11月中川久忠の養子となり、その娘を妻とする。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。久忠の死により1742年(寛保2)12月跡を継ぐ。1743年(寛保3)10月30日没。36才。法名「巍然院殿鐵心如山大居士」。
中川久持の墓碑
中川久持
生 明和8年 (1771年)
没 寛政10年 (1798年)
豊後岡藩9代藩主。1771年(明和8)久徳の次男として生まれる。1789年(寛政元)1月将軍徳川家斉に拝謁。祖父久貞の死により1790年(寛政2)7月跡を継ぐ。1798年(寛政10)9月18日没。28才。法名「巖祇院殿日新敬山大居士」。
中川久盛の墓碑
中川久盛
生 文禄3年 (1594年)
没 承応2年 (1653年)
豊後岡藩2代藩主。1594年(文禄3)7月秀成の長男として生まれる。1607年(慶長12)父とともに将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1612年(慶長17)跡を継ぐ。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参戦。1653年(承応2)3月8日没。60才。法名「法臺院殿心鐵宗安大居士」。
中川久盛室の墓碑
中川久盛室
生 慶長7年 (1602年)
没 元禄2年 (1689年)
1602年(慶長7)徳川家康の異父弟松平定勝の娘として生まれる。母は奥平貞友の娘。1608年(慶長13)家康の命により中川久盛に嫁ぐ。久盛の間に、水野忠職室の1女を儲ける。寛政重修諸家譜では久清を生んだことになっているが、実は別の室が母。1689年(元禄2)2月25日没。88才。法名「光顕院殿心連社専譽」。
中川久通の墓碑
中川久通
生 寛文3年 (1663年)
没 宝永7年 (1710年)
豊後岡藩5代藩主。1663年(寛文3)5月久恒の長男として生まれる。1672年(寛文12)4月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1695年(元禄8)8月跡を継ぐ。1710年(宝永7)2月28日没。48才。法名「天眞院殿元良貞山大居士」。
中川秀成の墓碑
中川秀成
生 元亀元年 (1570年)
没 慶長17年 (1612年)
豊後岡藩初代藩主。1570年(元亀元)清秀の次男として生まれる。1592年(文禄元)兄秀政が朝鮮で鷹狩り中に敵に殺されると、所領を半分にされたが跡を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは家臣が東軍の丹後田辺城攻めに参戦。しかし西軍の臼杵城主太田一吉を攻撃するなどしたため、戦後所領安堵。1612年(慶長17)8月14日没。43才。法名「碧雲寺殿圓翁宗鑑大禅定門」。
中川資重の墓碑
中川資重
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
資政の子。父と同じく豊後岡藩中川家の老職。1613年(慶長18)父の隠居により跡を継ぐ。1631年(寛永8)9月1日没。法名「恵〇院真月〇〇居士」。墓石は嫡子清六の建立による。