牧野以成の墓碑
牧野以成
生 天明8年 (1788年)
没 天保4年 (1833年)
丹後田辺藩7代藩主。1788年(天明8)6月宣成の長男として生まれる。父の隠居により1804年(文化元)跡を継ぐ。1825年(文政8)11月隠居。1833年(天保4)8月24日没。46才。法名「崇樹院殿徳譽興英端雄仁山大居士」。
牧野宣成の墓碑
牧野宣成
生 明和元年 (1764年)
没 文化8年 (1811年)
丹後田辺藩6代藩主。1764年(明和元)惟成の5男として生まれる。父の死により1783年(天明3)9月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1811年(文化8)3月19日没。48才。法名「松樹院殿仙譽貞幹宗如忠翁大居士」。
牧野親成の墓碑
牧野親成
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝5年 (1677年)
下総関宿藩2代藩主、丹後田辺藩初代藩主。1607年(慶長12)信成の次男として生まれる。徳川秀忠の小姓役を務め、父の隠居により跡を継ぐ。京都所司代を務める。1677年(延宝5)9月23日没。71才。法名「良園院殿方誉善朗哲三大禅定門」。
牧野信成の墓碑
牧野信成
生 天正6年 (1578年)
没 慶安3年 (1650年)
下総関宿藩初代藩主。1578年(天正6)康成の3男として生まれる。1592年(文禄元)江戸城造営の奉行を15才で務め徳川家康より言葉をかけられる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。1615年(元和元)大坂夏の陣では、大砲で大坂城の櫓を破壊する手柄をたてる。1650年(慶安3)4月11日没。73才。法名「知見院殿性誉哲心大禅定門」。
池田恒興①の墓碑
池田恒興①
生 天文5年 (1536年)
没 天正12年 (1584年)
1536年(天文5)恒利の子として生まれる。母は織田信長の乳母で、恒興も幼い頃より信長に仕える。桶狭間の戦い、姉川の戦いなどに従軍。信長没後は、豊臣秀吉に仕える。1584年(天正12)4月9日長久手の戦いのときに徳川家康と戦い討死。49才。法名「護国院殿雄岳宗英大禅定門」。
水野忠興妻の墓碑
水野忠興妻
生 不明
没 宝暦7年 (1757年)
1757年(宝暦7)7月11日没。法名「〇性院殿淨觀宗智大姉」。忠興妻は永井直期の娘とあるが、彼女の法名は芳壽院殿で1778年(安永7)4月に没しているので他の側室と思われる。
水野忠興の墓碑
水野忠興
生 寛延2年 (1749年)
没 宝暦13年 (1763年)
紀伊新宮藩6代藩主。忠昭の長男。1749年(寛延2)11月父の死により跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家重に拝謁。1763年(宝暦13)6月28日没。27才。法名「本立院殿義道日成大居士」。
水野忠奇妻の墓碑
水野忠奇妻
生 不明
没 文化13年 (1816年)
早見氏。8代藩主範明の母。1816年(文化13)5月17日没。法名「蓮心院殿妙護日喜大姉」。
水野忠奇の墓碑
水野忠奇
生 寛延2年 (1749年)
没 文政5年 (1822年)
紀伊新宮藩7代藩主。1749年(寛延2)11月守鑑の次男として生まれる。忠実とも。水野忠興の養子となり跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月将軍徳川家治に拝謁。1822年(文政5)4月25日没。74才。法名「法心院殿永持日顕大居士」。
土方行忠の墓碑
土方行忠
生 享保17年 (1732年)
没 安永4年 (1775年)
1732年(享保17)行曹の子として生まれる。父の死により1759年(宝暦9)9月跡を継ぐ。同年10月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)5月13日没。44才。法名「日修」。
土方行曹の墓碑
土方行曹
生 正徳2年 (1712年)
没 宝暦9年 (1759年)
1712年(正徳2)保江の子として生まれる。父の死により1745年(延享2)5月跡を継ぐ。同年8月将軍徳川吉宗に拝謁。1759年(宝暦9)7月2日没。48才。法名「日椿」。
土方保江の墓碑
土方保江
生 天和3年 (1683年)
没 延享2年 (1745年)
1683年(天和3)雄賀の子として生まれる。父の隠居により1695年(元禄8)12月跡を継ぐ。1696年(元禄9)8月将軍徳川綱吉に拝謁。1745年(延享2)2月12日没。63才。法名「日長」。
土方雄賀の墓碑
土方雄賀
生 不明
没 正徳元年 (1711年)
雄次の3男。1659年(万治2)7月将軍徳川家綱に拝謁。父の遺領のうち2千石を賜う。1695年(元禄8)12月隠居。1711年(正徳元)4月14日没。法名「慈景」。
土方雄次の墓碑
土方雄次
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝8年 (1680年)
陸奥窪田藩2代藩主。1611年(慶長16)雄重の長男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1629年(寛永6)2月跡を継ぐ。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)1月28日没。70才。法名「淨光院殿江月淨澄大居士」。
土方雄重の墓碑
土方雄重
生 文禄元年 (1592年)
没 寛永5年 (1628年)
陸奥窪田藩初代藩主。1592年(文禄元)雄久の次男として生まれる。父の死により1609年(慶長14)2月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1622年(元和8)9月加増移封により。陸奥窪田藩主となる。1628年(寛永5)12月29日没。37才。法名「雪江了寒大居士」。
土方雄久①の墓碑
土方雄久①
生 天文22年 (1553年)
没 慶長13年 (1608年)
下総多古藩初代藩主。1553年(天文22)信治の子として生まれる。織田信雄に仕え1字を賜り雄久と名乗る。その後、豊臣秀吉に仕える。1599年(慶長4)徳川家康の暗殺疑惑により改易。その後、家康に仕える。1604年(慶長9)下総多古藩主となる。1608年(慶長13)11月12日没。56才。法名「功運建忠大居士」。
松平康哉妻の墓碑
松平康哉妻
生 宝暦6年 (1756年)
没 安永6年 (1777年)
1756年(宝暦6)井伊直幸の娘として生まれる。世与姫。松平康哉に嫁ぐ。1777年(安永6)7月31日没。22才。法名「信源院殿輭誉蒙光貞温大姉」。
井伊直惟妻の墓碑
井伊直惟妻
生 不明
没 安永5年 (1776年)
堀部氏。直惟との間に大通寺真応妻、直幸の1男1女を儲ける。1776年(安永5)5月3日没。法名「壽慶院殿」。
井伊直幸妻(本覺院)の墓碑
井伊直幸妻(本覺院)
生 不明
没 安永6年 (1777年)
江見氏。直幸との間に瀬与姫(世与姫・勢与姫)の1女を儲ける。1777年(安永6)10月10日没。法名「本覺院殿慧空妙性大姉」。
上杉景勝①の墓碑
上杉景勝①
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治元)長尾政景の次男として生まれる。上杉謙信の養子となり、謙信死後相続争いで勝利して跡を継いだ。豊臣秀吉に従い、会津120万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのとき、西軍に付いたため戦後出羽米沢30万石に移封。大坂の陣のときは徳川方として出陣。1623年(元和9)3月20日没。法名「覺上院殿法印権大僧都宗心法印」。廟内には謙信と景勝の石碑がある。(2枚目の写真)
秋元久朝の墓碑
秋元久朝
生 寛政4年 (1792年)
没 弘化4年 (1847年)
出羽山形藩3代藩主。1792年(寛政4)閏2月永朝の5男として生まれる。1839年(天保10)4月隠居。1847年(弘化4)10月19日没。56才。「享徳院殿哲明久朝大居士」。
秋元永朝妻の墓碑
秋元永朝妻
生 不明
没 文政6年 (1823年)
牧野貞長の娘で、初め本多忠粛に嫁ぎ忠粛没後に永朝に嫁ぐ。永朝との間に久朝を儲ける。1823年(文政6)11月29日没。「長壽院殿慧光妙照大姉」。
秋元永朝の墓碑
秋元永朝
生 元文3年 (1738年)
没 文化7年 (1810年)
出羽山形藩2代藩主。1738年(元文3)4月上田義当の4男として生まれる。1760年(宝暦10)2月秋元凉朝の養子となり凉朝の隠居に伴い跡を継ぐ。1810年(文化7)7月9日没。73才。法名「大隆院殿慈寛永朝大居士」。
小笠原秀政妻①の墓碑
小笠原秀政妻①
生 天正4年 (1576年)
没 慶長12年 (1607年)
1576年(天正4)3月徳川家康の長男松平信康と織田信長の長女徳姫の子として生まれる。名は福姫、登久姫。1589年(天正17)8月小笠原秀政に嫁ぎ、蜂須賀至鎮室(敬台院)、忠脩、忠真、細川忠利室(保寿院)、忠知、松平重直、忠慶、長俊の6男2女を儲ける。1607年(慶長12)10月18日夫の領地信濃国飯田で没。32才。法名「峯高院殿高月峰譽智廓大禅定尼」。
戸田忠能①の墓碑
戸田忠能①
生 天正14年 (1586年)
没 正保4年 (1647年)
1586年(天正14)三河生まれ。父は尊次。1598年(慶長3)13才のとき徳川家康に拝謁。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに父とともに従う。大坂冬の陣では2代将軍秀忠に従い、翌年の夏の陣では家康10男頼宣に従う。1647年(正保4)1月3日没。62才。法名「道林寺殿一機全通大居士」。
稲富祐直①の墓碑
稲富祐直①
生 天文21年 (1552年)
没 慶長16年 (1611年)
1552年(天文21)直秀の子として生まれる。鉄砲の名手で稲富流砲術として有名。一色氏に仕え、のち細川忠興に仕える。1600年(慶長5)忠興妻ガラシャの警備をするが、ガラシャが自害すると逐電。忠興は激怒するも徳川家康が宥め、家康や家康4男松平忠吉に仕える。1611年(慶長16)2月6日没。法名「庸珠院殿泰譽榮閑一無居士」。
本山彦一の墓碑
本山彦一
生 嘉永6年 (1853年)
没 昭和7年 (1932年)
1853年(嘉永6)8月熊本藩士本山四郎作の長男として生まれる。1854年(元治元)跡を継ぐ。明治になると実業家として活躍。大阪毎日新聞社に相談役として就任。社長の原敬が内務大臣に就任すると後任として社長となる。大阪毎日新聞社を全国紙まで発展させ、現在の毎日新聞の祖となる。1932年(昭和7)12月30日没。80才。法名「光月院雪操松陰大居士」。
馬場昌房の墓碑
馬場昌房
生 不明
没 不明
信房の長男。信忠とも。父が討死した後に跡を継ぐ。1582年(天正10)信濃深志城で討死したとも、信濃牧之島城で討死したともいう。法名「蓮華院照山慈源大居士」。
馬場信房の墓碑
馬場信房
生 永正11年 (1514年)
没 天正3年 (1575年)
教来石信保の子。1514年(永正11)生まれ。美濃守。信春とも。武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕える。1572年(元亀3)三方原の戦いでは徳川家康を追い詰める。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いのとき討死。62才。法名「信翁乾忠居士」。
水野忠義の墓碑
水野忠義
生 寛政4年 (1792年)
没 天保13年 (1842年)
駿河沼津藩3代藩主。1792年(寛政4)9月忠成の3男として生まれる。1834年(天保5)の父の死により跡を継ぐ。1842年(天保13)1月19日没。51才。法名「共徳院殿寛誉泰安義山大居士」。
水野忠友の墓碑
水野忠友
生 享保16年 (1731年)
没 享和2年 (1802年)
駿河沼津藩初代藩主。1731年(享保16)2月忠穀の長男として生まれる。田沼意次のもと老中まで出世する。しかし意次失脚により免職。その後、西丸老中となる。1802年(享和2)9月19日没。72才。法名「修徳院殿譲譽興仁懿翁大居士」。
水野忠武の墓碑
水野忠武
生 文政7年 (1824年)
没 天保15年 (1844年)
駿河沼津藩4代藩主。1824年(文政7)7月忠義の次男として生まれる。1842年(天保13)父の死により家督を継ぐ。1844年(天保15)7月10日没。21才。法名「恒徳院殿道誉赫然曜武大居士」。
水野忠成の墓碑
水野忠成
生 宝暦12年 (1762年)
没 天保5年 (1834年)
駿河沼津藩2代藩主。1762年(宝暦12)12月岡野知暁の次男として生まれる。1778年(安永7)水野忠隣の末期養子となる。1785年(天明5)水野忠友の養子となり、忠友の死後跡を継ぐ。将軍徳川家斉のもと老中首座となり、賄賂政治を行う。1834年(天保5)2月28日没。73才。法名「巍徳院殿光譽成榮融鑑大居士」。
有馬直純①の墓碑
有馬直純①
生 天正14年 (1586年)
没 寛永18年 (1641年)
1586年(天正14)晴信の長男として生まれる。1612年(慶長17)に父が岡本大八事件によって死罪となると、直純には罪が及ばず跡を継ぐ。1614年(慶長19)7月に日向延岡に転封。1637年(寛永14)旧領で起こった島原の乱に参戦。1641年(寛永18)4月25日没。56才。法名「松園院殿光山宗和大居士」。
米倉永時の墓碑
米倉永時
生 不明
没 寛永元年 (1624年)
信継の長男。家康に仕え関ヶ原の戦いに従う。大久保長安の不正を調べるため佐渡島に赴く。1624年(寛永元)2月2日没。55才または56才。法名「大虚院殿天誉道普居士」。
米倉信継の墓碑
米倉信継
生 天文17年 (1548年)
没 寛永13年 (1636年)
1548年(天文17)宗継の次男として生まれる。兄忠継とともに家康に仕える。兄が没したとき、養子となり跡を継ぐ。関ヶ原の戦い、大坂の両陣に参戦。1636年(寛永13)4月8日没。89才。法名「米倉院殿無常道心居士」。
米倉忠継の墓碑
米倉忠継
生 天文2年 (1533年)
没 天正19年 (1591年)
1533年(天文2)宗継の長男として生まれる。武田家滅亡後、徳川家康の家臣となる。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1591年(天正19)4月20日没。59才。法名「放光院殿陵山殊元居士」。
米倉宗継の墓碑
米倉宗継
生 不明
没 天正3年 (1575年)
武田信玄、勝頼に仕える。1552年(天文21)8月竹束を使い苅谷原城攻めを行う。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いで討死。
土屋盛直の墓碑
土屋盛直
生 明和5年 (1768年)
没 寛政5年 (1793年)
1768年(明和5)渡邊寛綱の次男として生まれる。土屋匡直の養子となり、匡直の隠居により1793年(寛政5)4月跡を継ぐ。1793年(寛政5)8月4日没。26才。法名「正○院殿了道宗直居士」。
土屋易直の墓碑
土屋易直
生 享保10年 (1725年)
没 明和5年 (1768年)
1725年(享保10)亮直の次男として生まれる。倫直の養子となり、倫直の死により1740年(元文5)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。勤務を怠ることが多く出仕をめられるものち赦される。1768年(明和5)1月2日没。44才。法名「紹得院殿體然元空居士」。
土屋倫直の墓碑
土屋倫直
生 元禄15年 (1702年)
没 元文5年 (1740年)
1702年(元禄15)喬直の3男として生まれる。兄安直の養子となり、安直の死により1737年(元文2)11月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1740年(元文5)4月9日没。39才。法名「普光院殿本照了然居士」。
土屋安直の墓碑
土屋安直
生 元禄12年 (1699年)
没 元文2年 (1737年)
1699年(元禄12)喬直の長男として生まれる。1710年(宝永7)9月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1725年(享保10)11月跡を継ぐ。1737年(元文2)8月1日没。39才。法名「嶺雲院殿蘆淵以白居士」。
土屋喬直の墓碑
土屋喬直
生 寛文6年 (1666年)
没 享保10年 (1725年)
1666年(寛文6)利直の3男として生まれる。幕府の寄合となる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1725年(享保10)8月23日没。60才。法名「鐡心院殿禪閑義透居士」。
土屋利直の墓碑
土屋利直
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝3年 (1675年)
上総久留里藩2代藩主。1607年(慶長12)忠直の長男として生まれる。1612年(慶長17)遺領を継ぎ、徳川家康に拝謁。大坂の陣のときには箱根を警備。1675年(延宝3)閏4月24日没。69才。法名「普乾院殿俊林道英大居士」。
土屋忠直①の墓碑
土屋忠直①
生 天正6年 (1578年)
没 慶長17年 (1612年)
上総久留里藩初代藩主。1578年(天正6)昌恒の長男として生まれる。父は武田家の家臣で武田家滅亡の時に殉じた。忠直は、母に連れられて駿河国に逃れ清見寺にて成長した。1588年(天正16)徳川家康が鷹狩のとき清見寺に立寄ったときに召される。翌年より家康3男秀忠の近習として仕える。1600年(慶長5)上田城攻めに従う。1602年(慶長7)上総久留里で2万石を与えらる。1612年(慶長17)3月24日没。35才。法名「圓覚寺殿琴窓淨閑大居士」。
徳川秀忠妻①の墓碑
徳川秀忠妻①
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
浅井長政の3女として近江国小谷に生まれる。母は織田信長の妹お市の方。お江、小督、お江与ともいい崇源院は諡号。姉に淀殿、常高院がいる。豊臣秀吉の意向により佐治一成に嫁ぐ。一成が小牧長久手の戦いのときに秀吉に敵対したため、離縁。その後、秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁ぎ、女子(豊臣完子)を儲ける。秀勝が病没すると、徳川秀忠に再婚。秀忠との間に、千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の2男5女を儲ける。1626年(寛永3)9月15日没。法名「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。
勝田典愛妻の墓碑
勝田典愛妻
生 不明
没 正徳5年 (1715年)
矢島治太夫の長女。典愛との間に愛通の1男を儲ける。1715年(正徳5)5月14日没。法名「貞鏡院殿照誉法忍大姉」。墓石側面には「矢嶋氏治太夫藤原安貞嫡女」とある。
松平忠啓妻の墓碑
松平忠啓妻
生 宝暦5年 (1755年)
没 安永8年 (1779年)
1755年(宝暦5)2月28日毛利重就の6女として生まれる。名は澄姫。1775年(安永4)6月3日忍城主松平忠啓に嫁ぐ。忠啓との間に、男子1人を儲ける。1779年(安永8)6月29日没。25才。法名「蘭蕙院殿孤芳智秀大姉」。
佐世広長妻の墓碑
佐世広長妻
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
毛利就泰の長女。佐世広長に嫁ぐ。広長との間に子は出来ず。1712年(正徳2)2月27日没。法名「桂光院殿昌顔自久大姉」。夫広長は1714年(正徳4)に桂光院(山口市阿東地福上)で彼女の追善菩提を弔っている。
佐世広玄妻の墓碑
佐世広玄妻
生 不明
没 宝暦3年 (1753年)
詳細不明なるも益田就高の娘と思われる。1753年(宝暦3)1月21日没。法名「眞〇院節操妙義大姉」。
佐世広玄の墓碑
佐世広玄
生 貞享2年 (1685年)
没 享保16年 (1731年)
長州毛利家家臣。1685年(貞享2)宣直の子として生まれる。伯父広長の養子となり跡を継ぐ。1731年(享保16)9月29日没。47才。法名「忠山宗節居士」。
鴻池又市の墓碑
鴻池又市
生 不明
没 不明
鴻池又右衛門之休の4男。初め豆葉屋四郎右衛門の養子となるも、のちに実家に戻ったと思われる。法名「直翁玄指居士」。
毛利吉元の墓碑
毛利吉元
生 延宝5年 (1677年)
没 享保16年 (1731年)
長州藩5代藩主。1677年(延宝5)8月24日綱元の長男として生まれる。毛利本家の吉広が亡くなると養嗣子となり本家を継ぐ。毛利家の支藩徳山藩毛利元次と揉め事を起し、幕府も介入して徳山藩は改易となる。(万役山事件)1731年(享保16)9月13日没。55才。法名「泰桓院殿仰岳浄高大居士」。
毛利宗広妻の墓碑
毛利宗広妻
生 享保7年 (1722年)
没 元文5年 (1740年)
1722年(享保7)越前松平宗昌の長女として生まれる。1738年(元文3)宗広と結婚。宗広との間に豊姫の1女を儲ける。1740年(元文5)3月7日没。19才。法名「融芳院殿宣譽現笑和光大姉」。
毛利宗広の墓碑
毛利宗広
生 享保2年 (1717年)
没 寛延4年 (1751年)
長州藩6代藩主。1717年(享保2)7月6日吉元の5男として生まれる。1727年(享保12)徳川吉宗より1字を賜り宗広と名乗る。父の死により1731年(享保16)10月跡を継ぐ。1751年(寛延4)2月4日没。25才。法名「観光院殿天倫常沢大居士」。
毛利治親妻(邦媛院)の墓碑
毛利治親妻(邦媛院)
生 宝暦6年 (1756年)
没 文化12年 (1815年)
1756年(宝暦6)徳川宗武の5女として生まれる。治親との間に美喜姫、多美姫の2女を儲ける。1815年(文化12)6月4日没。60才。法名「邦媛院殿壽山展興大姉」。
毛利治親の墓碑
毛利治親
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政3年 (1791年)
長州藩8代藩主。1754年(宝暦4)6月15日重就の4男として生まれる。10代将軍徳川家治から1字を与えられ治元と名乗る。(のちに治親に改名)1791年(寛政3)6月12日没。38才。法名「容徳院殿仁山応壽大居士」。
毛利吉広妻の墓碑
毛利吉広妻
生 元禄5年 (1692年)
没 元文4年 (1739年)
1692年(元禄5)鷹司輔信の次女として生まれる。名は小石姫。1703年(元禄16)9月吉広と結婚。吉広との間には子供が出来ず。1739年(元文4)8月22日没。48才。法名「養心院殿浄室負観大禅定尼」。
毛利吉広の墓碑
毛利吉広
生 延宝元年 (1673年)
没 宝永4年 (1707年)
長州藩4代藩主。1673年(延宝元)1月12日綱広の次男として生まれる。右田毛利就信の養子となるも、兄吉就が子が無く没したため長州藩を継ぐ。徳川綱吉に拝謁して1字を賜い、吉広と名乗る。1707年(宝永4)10月13日没。35才。法名「青雲院殿徹山道照大居士」。
毛利吉元妻(法林院)の墓碑
毛利吉元妻(法林院)
生 貞享2年 (1685年)
没 宝暦11年 (1761年)
1685年(貞享2)池田綱政の次女として生まれる。吉元の間に、宗元、齋宮、元陳、島津綱豊妻の3男1女を儲ける。1761年(宝暦11)3月8日没。77才。法名「法林院殿壽昌浄榮大姉」。
毛利斉熙妻の墓碑
毛利斉熙妻
生 寛政10年 (1798年)
没 安政3年 (1856年)
1798年(寛政10)池田治道の3女として生まれる。1810年(文化7)1月毛利斉熙に嫁ぐ。1856年(安政3)12月24日没。59才。法名「法鏡院殿真光恵明大姉」。
毛利斉熙の墓碑
毛利斉熙
生 天明3年 (1783年)
没 天保7年 (1836年)
長州藩10代藩主。1783年(天明3)12月治親の次男として生まれる。兄の死去により跡を継ぐ。11代将軍徳川家斉より1字を与えられ斉熙と名乗る。1836年(天保7)5月14日没。54才。法名「清徳院殿天安道寧大居士」。
毛利斉房妻の墓碑
毛利斉房妻
生 天明2年 (1782年)
没 嘉永5年 (1852年)
1782年(天明2)有栖川宮織仁親王の第2王女として生まれる。妹の子に徳川慶喜がいる。1797年(寛政9)1月毛利斉房に嫁ぐ。1852年(嘉永5)9月8日没。71才。法名「貞操院殿松林如榮大姉」。
毛利斉房の墓碑
毛利斉房
生 天明2年 (1782年)
没 文化6年 (1809年)
長州藩9代藩主。1782年(天明2)11月治親の長男として生まれる。1791年(寛政3)父の死により跡を継ぐ。1795年(寛政7)11代将軍徳川家斉から1字を賜い斉房と名乗る。1809年(文化6)2月14日没。28才。法名「靖恭院殿澹雲如祥大居士」。
毛利斉元妻の墓碑
毛利斉元妻
生 文化元年 (1804年)
没 天保9年 (1838年)
1804年(文化元)毛利斉熙の娘として生まれる。名は由美姫。斉元との間に子は出来ず。1838年(天保9)12月21日没。35才。法名「蓮容院殿美艶清質大禅尼」。
毛利斉元の墓碑
毛利斉元
生 寛政6年 (1794年)
没 天保7年 (1836年)
長州藩11代藩主。1794年(寛政6)3月親著の長男として生まれる。福原房純の養嗣子となるが、のちに長州藩本家の斉熙の養子となり1824年(文政7)2月跡を継ぐ。1836年(天保7)9月8日没。43才。法名「邦憲院殿慈峰真秀大居士」。遺髪塔。
永井直矢の墓碑
永井直矢
生 天保13年 (1842年)
没 慶応元年 (1865年)
摂津高槻藩12代藩主。1842年(天保13)松平親良の次男として生まれる。11代藩主直輝の養子となり、直輝の隠居により1861年(文久元)9月跡を継ぐ。1865年(慶応元)4月17日没。24才。法名「真諦院殿本空宗継大居士」。
永井直与の墓碑
永井直与
生 天明5年 (1785年)
没 弘化3年 (1846年)
摂津高槻藩10代藩主。1785年(天明5)4月直進の長男として生まれる。父の隠居により1809年(文化6)8月跡を継ぐ。1842年(天保13)11月隠居。1846年(弘化3)7月7日没。62才。法名「瑞鳳院殿徳翁宗壽大居士」。
永井直進の墓碑
永井直進
生 宝暦11年 (1761年)
没 文化12年 (1815年)
摂津高槻藩9代藩主。1761年(宝暦11)直珍の長男として生まれる。父の死により1771年(明和8)1月跡を継ぐ。1809年(文化6)8月隠居。1815年(文化12)2月2日没。55才。法名「法心院殿瑞林宗雲大居士」。
有馬頼貴妻の墓碑
有馬頼貴妻
生 宝暦元年 (1751年)
没 安永4年 (1775年)
1751年(宝暦元)毛利重就の娘として生まれる。名は勢代。有馬頼貴に嫁ぐも子は出来ず。1775年(安永4)閏12月20日没。25才。法名「養源院殿貞室知榮大姉」。
有馬頼徸妻の墓碑
有馬頼徸妻
生 享保8年 (1723年)
没 安永3年 (1774年)
1723年(享保8)京極宮家仁親王の第一王女として生まれる。名は登与姫。1742年(寛保2)9月有馬頼徸に嫁ぐ。子は出来なかったが側室奥田氏の生んだ頼貴の養母となる。1774年(安永3)1月14日没。52才。法名「景福院殿花岳宗富大姉」。
毛利徳丸の墓碑
毛利徳丸
生 文化6年 (1809年)
没 文化11年 (1814年)
1809年(文化6)6月14日斉房の長男として生まれる。1814年(文化11)10月2日没。6才。法名「祥雲院殿瑞玉霊光大童子」。
毛利富次郎の墓碑
毛利富次郎
生 安永2年 (1773年)
没 安永5年 (1776年)
1773年(安永2)5月21日重就の7男として生まれる。1776年(安永5)2月6日没。4才。法名「峻徳院殿天質衍諄大童子」。
毛利治親娘(瑤林院)の墓碑
毛利治親娘(瑤林院)
生 寛政2年 (1790年)
没 寛政3年 (1791年)
1790年(寛政2)6月26日治親の3女として生まれる。名は美津姫。1791年(寛政3)11月12日没。2才。法名「瑤林院殿如幻雪香神童女」。
毛利秀之助の墓碑
毛利秀之助
生 天明6年 (1786年)
没 天明7年 (1787年)
1786年(天明6)5月16日治親の4男として生まれる。1787年(天明7)2月23日没。2才。法名「玉曜院殿潤良智温善童兒」。
毛利治親娘(麗光院)の墓碑
毛利治親娘(麗光院)
生 天明元年 (1781年)
没 寛政6年 (1794年)
1781年(天明元)閏5月3日治親の次女として生まれる。名は多美姫。有馬頼端と婚約するも1794年(寛政6)9月4日没。14才。法名「麗光院殿實參堅頴大姉」。
毛利治親娘(寶幢院)の墓碑
毛利治親娘(寶幢院)
生 安永7年 (1778年)
没 天明2年 (1782年)
1778年(安永7)6月5日毛利治親の長女として生まれる。名は美喜姫。1782年(天明2)5月4日没。5才。法名「寶幢院殿岡玉榮光大童女」。
前田利謙妻の墓碑
前田利謙妻
生 明和5年 (1768年)
没 寛政4年 (1792年)
1768年(明和5)3月1日毛利重就の9女として生まれる。名は長姫。1792年(寛政4)1月23日前田利謙に嫁ぐ。利謙との間に子は出来ず。1814年(文化11)5月25日没。47才。法名「瑤臺院殿瓊室妙燿大姉」。
大岡忠正妻の墓碑
大岡忠正妻
生 不明
没 文政4年 (1821年)
忠正の妾で名は於つる。忠正との間に於綱、英吉の1男1女を儲ける。1821年(文政4)8月7日没。法名「安清院殿圓月智照大姉」。
大岡於拾の墓碑
大岡於拾
生 文政11年 (1828年)
没 天保5年 (1834年)
1828年(文政11)12月27日忠固の子として生まれる。1834年(天保5)7月1日没。7才。法名「芳幼院殿貫玉朝露禅童子」。
大岡久弥の墓碑
大岡久弥
生 文政2年 (1819年)
没 文政12年 (1829年)
1819年(文政2)4月12日忠固の長男として生まれる。1829年(文政12)12月27日没。11才。法名「梅萼院殿天然清香禅童子」。
大岡忠喜娘(繊月院)の墓碑
大岡忠喜娘(繊月院)
生 明和4年 (1767年)
没 天明7年 (1787年)
1767年(明和4)12月23日忠喜の5女として生まれる。名は於宣。1784年(天明4)水野忠昭に嫁ぐも1786年(天明6)9月離縁。このとき身籠っていたことが後で判明。1787年(天明7)5月6日出産のとき、子とともに没。(表向は7日没)21才。法名「繊月院殿翆岩妙黛大姉」。
大岡忠喜娘(照蓮院)の墓碑
大岡忠喜娘(照蓮院)
生 宝暦10年 (1760年)
没 安永3年 (1774年)
1760年(宝暦10)2月3日忠喜の長女として生まれる。名は於松。1767年(明和4)12月増山正賢と縁談が決まるも、1774年(安永3)9月2日没。15才。法名「照蓮院殿安室智清大姉」。
鍋島重茂妻の墓碑
鍋島重茂妻
生 元文4年 (1739年)
没 宝暦11年 (1761年)
1739年(元文4)伊達宗村の娘として生まれる。名は源姫惇子。鍋島重茂に嫁ぎ、1761年(宝暦11)源丸 を儲ける。同年10月5日没。23才。法名「霊松院殿青巌慧浄大姉」。
鍋島綱茂妻の墓碑
鍋島綱茂妻
生 不明
没 元禄12年 (1699年)
越前松平光通の娘。布与姫。鍋島綱茂の正室となり女子1人を生む。1699年(元禄12)4月12日江戸麻布の鍋島家屋敷で没。法名「寂光院圓空智鏡大禅定尼」。
鍋島直茂妻の墓碑
鍋島直茂妻
生 天文10年 (1541年)
没 寛永6年 (1629年)
1541年(天文10)石井常延の娘として生まれる。名は彦鶴。納富信澄に嫁ぎ1女を儲ける。信澄戦死後、1569年(永禄12)鍋島直茂に嫁ぐ。直茂との間に多久安順妻、諫早直孝妻、勝茂の1男2女を儲ける。1629年(寛永6)1月8日没。89才。法名「陽泰院殿芳林妙春大姉」。
鍋島直茂の墓碑
鍋島直茂
生 天文7年 (1538年)
没 元和4年 (1618年)
1538年(天文7)3月清房の次男として生まれる。龍造寺家に仕える。1584年(天正12)沖田畷の戦いでは島津・有馬連合軍と戦うも、主君龍造寺隆信が討取られ大敗。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に味方。江戸時代になると幕府の威光などもあり、佐賀藩は主筋龍造寺家より直茂に譲られる。1618年(元和4)6月3日没。81才。法名「高傳寺殿日峯宗智大居士」。
鍋島宗茂妻の墓碑
鍋島宗茂妻
生 元禄12年 (1699年)
没 宝暦2年 (1752年)
1699年(元禄12)9月18日久世通夏の娘として生まれる。名は貞、溜池御前。1714年(正徳4)4月鍋島宗茂に嫁ぎ、宗教、女子、直鄰、重茂の3男1女を儲ける。1752年(宝暦2)7月22日没。53才。法名「貞樹院殿實操浄光大姉」。
鍋島宗茂の墓碑
鍋島宗茂
生 貞享3年 (1686年)
没 宝暦4年 (1754年)
肥前佐賀藩5代藩主。1686年(貞享3)光茂の15男として生まれる。1716年(享保元)11月兄吉茂の養子となる。同月将軍徳川吉宗に拝謁。翌月吉宗の前で元服して1字を賜い宗茂と名乗る。吉茂の死により1730年(享保15)5月跡を継ぐ。1754年(宝暦4)11月25日没。69才。法名「海量院殿慈明活眼大居士」。
諫早直孝の墓碑
諫早直孝
生 天正2年 (1574年)
没 寛永12年 (1635年)
1574年(天正2)龍造寺家晴の子として生まれる。鍋島家の家老。兄がいたが、家晴と仲が悪く直孝が跡を継ぐ。肥前高来郡伊佐早に領地を賜い、地名を諫早として自身の名も龍造寺から諫早に改名。1635年(寛永12)6月30日没。62才。法名「全禎宗雲」。没年が1637年(寛永14)としているものもあるが間違い。墓石は妻の建立による。
菅沼定芳の墓碑
菅沼定芳
生 天正15年 (1587年)
没 寛永20年 (1643年)
丹波亀山藩初代藩主。1587年(天正15)定盈の6男として三河野田にて生まれる。1604年(慶長9)徳川家康に拝謁。兄の定仍が没したため家督を継ぐ。大坂の陣のときは本多忠政に属して戦い戦功があり。1643年(寛永20)1月17日没。57才。法名「大虚院殿無参圓徹大居士」。
菅沼定昭の墓碑
菅沼定昭
生 寛永2年 (1625年)
没 正保4年 (1647年)
丹波亀山藩2代藩主。1625年(寛永2)定芳の長男として生まれる。1634年(寛永11)7月将軍徳川家光が膳所城を訪れたときに拝謁。1643年(寛永20)父の死により家督を継ぐ。1647年(正保4)9月21日没。23才。法名「浄寂院殿傑叢全英大居士」。
秋元源之助の墓碑
秋元源之助
生 不明
没 元文3年 (1738年)
喬求の長男。1738年(元文3)12月8日早世。法名「幻光院殿一露慈観童子」。
秋元喬知妻の墓碑
秋元喬知妻
生 慶安元年 (1648年)
没 元禄4年 (1691年)
1648年(慶安元)秋元忠朝の娘として生まれる。秋元喬知に嫁ぎ、女子、朽木稙元妻、秋田広季妻、女子、戸田忠昌養女、喬房の1男5女を儲ける。1691年(元禄4)11月5日没。44才。「遍照院殿清月妙圓大姉」。
秋元喬知の墓碑
秋元喬知
生 慶安2年 (1649年)
没 正徳4年 (1714年)
武蔵川越藩初代藩主。1649年(慶安2)戸田忠昌の長男として生まれる。甲斐谷村藩主秋元富朝の養子となる。若年寄、のちに実弟戸田忠真と老中を務める。1714年(正徳4)8月14日没。66才。法名「済川院殿義舟喬知大居士」。
秋元喬求妻の墓碑
秋元喬求妻
生 不明
没 元文5年 (1740年)
秋元喬房の長女。戸田忠余の次男喬求に嫁ぎ婿とする。喬求との間に長男源之助を儲けるも早世。1740年(元文5)6月23日没。法名「琳證院殿覺峯梨玄大姉」。
秋元喬房妻の墓碑
秋元喬房妻
生 貞享2年 (1685年)
没 享保5年 (1720年)
1685年(貞享2)3月29日奥平昌章の娘として生まれる。秋元喬房の妻となる。喬房の間に子供は出来ず。1720年(享保5)5月10日没。36才。法名「浄影院殿妙岸智法大姉」。
秋元喬房の墓碑
秋元喬房
生 天和3年 (1683年)
没 元文3年 (1738年)
武蔵川越藩2代藩主。1683年(天和3)喬知の次男として生まれる。1693年(元禄6)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)父の死により家督を継ぐ。1728年(享保13)徳川吉宗の日光詣でに供奉。1738年(元文3)9月5日没。56才。法名「泰元院殿智山義勇大居士」。
牧野忠貴の墓碑
牧野忠貴
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永3年 (1706年)
1662年(寛文2)忠清の長男として生まれる。1667(寛文7)12月将軍徳川家綱に拝謁。1682年(天和2)5月父の隠居により家督を継ぐ。勤務を疎かにしたことで逼塞を命じられたが赦免される。1706年(宝永3)9月15日没。45才。法名「廓真院殿臟光月感大居士」。
牧野忠清の墓碑
牧野忠清
生 元和6年 (1620年)
没 元禄6年 (1693年)
1620年(元和6)忠成の5男として生まれる。徳川家綱の小姓として仕える。1659年(万治元)兄定成の養子となり同年閏12月遺跡を継ぐ。1682年(天和2)5月隠居。1693年(元禄6)2月5日没。74才。法名「廓誉然心幽閑大居士」。
牧野康成(与板)の墓碑
牧野康成(与板)
生 元和3年 (1617年)
没 明暦3年 (1657年)
1617年(元和3)忠成の次男として生まれる。1634年(寛永11)父より1万石を分知され越後与板藩主となる。1657年(明暦3)12月30日没。41才。法名「馨香院殿登譽泰安大居士」。
牧野定成(三根山)の墓碑
牧野定成(三根山)
生 元和3年 (1617年)
没 万治元年 (1658年)
1617年(元和3)忠成の4男として生まれる。1632年(寛永9)8月将軍徳川家光に拝謁。1634年(寛永11)父より6千石分知をされ越後三根山領主となる。1658年(万治元)10月7日没。42才。法名 「一山大居士」。
松平永兼の墓碑
松平永兼
生 天正8年 (1580年)
没 元和5年 (1619年)
1580年(天正8)戸田康長の長男として生まれる。母は徳川家康の異父妹松姫。1592年(文禄元)家康の御前で元服。1619年(元和5)6月10日没。40才。法名「壽昌院殿劫巖玄永大禅定門」。
松平忠光の墓碑
松平忠光
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永6年 (1629年)
1598年(慶長3)戸田康長の次男として生まれる。15才のとき徳川秀忠の御前で元服して、1字を賜い始め忠長と名乗る。大坂の両陣に父に従い参陣。1629年(寛永6)3月16日没。32才。法名「大休院殿的翁良端大居士」。
松平光雄の墓碑
松平光雄
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦6年 (1756年)
信濃松本藩2代藩主。1716年(享保元)8月松平光煕の5男として生まれる。1732年(享保17)8月兄光慈の養子となり、同年10月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1756年(宝暦6)11月1日没。41才。法名「萬彭院殿松巖元盛大居士」。
松平光永の墓碑
松平光永
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永2年 (1705年)
美濃加納藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1656年(明暦2)3月将軍徳川家綱に拝謁。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。1705年(宝永2)2月29日没。63才。法名「光永院殿逸山道秀大居士」。
松平光慈の墓碑
松平光慈
生 正徳2年 (1712年)
没 享保17年 (1732年)
信濃松本藩初代藩主。1712年(正徳2)9月光煕の3男として生まれる。叔父戸田光規の養子となるも兄2人が亡くなったため、父の死後1717年(享保2)11月家督を継ぐ。1723年(享保8)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1732年(享保17)8月11日没。21才。法名「泰心院殿穆堂良恭大居士」。
戸田忠昌娘の墓碑
戸田忠昌娘
生 延宝元年 (1673年)
没 貞享4年 (1687年)
1673年(延宝元)戸田忠昌の娘として生まれる。1687年(貞享4)9月27日没。15才。法名「瑞心院殿慈観妙慧大姉」。
戸田忠昌妻の墓碑
戸田忠昌妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
秋元富朝の娘。母は有馬直純の娘。戸田忠昌に嫁ぎ、秋元喬知、忠真、忠章の3男を儲ける。1695年(元禄8)2月23日没。法名「雲臺院殿高嶽妙蔭大姉」。墓石は夫忠昌の建立による。
戸田康長娘の墓碑
戸田康長娘
生 不明
没 正保3年 (1646年)
戸田康長の2女。松平乗寿に嫁ぐ。乗寿との間に子は出来ず、のちに離縁している。戸田家墓域に墓があることから、離婚後は実家に戻ったと思われる。1646年(正保3)6月18日没。法名「清涼院殿南窓貞薫大姉」。墓石は兄忠光の子松平光重の建立による。
戸田康長の墓碑
戸田康長
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永9年 (1632年)
1562年(永禄5)忠重の子として生まれる。徳川家康より松平の姓を賜り、家康の異父妹松姫を妻とする。1574年(天正2)家康の御前で元服、家康より一字を賜い康長と名乗る。1581年(天正9)高天神城攻めで初陣。以後、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、関ヶ原の戦いに従う。1617年(元和3)信濃松本藩7万石となる。2代将軍秀忠の信頼も厚く家光の守役も務めた。1632年(寛永9)12月12日没。71才。法名「祥雲院殿一運宗智大居士」。
戸田康直の墓碑
戸田康直
生 元和3年 (1617年)
没 寛永11年 (1634年)
播磨明石藩初代藩主。1617年(元和3)康長の3男として生まれる。1632年(寛永9)12月父の死により家督を継ぐ。1634年(寛永11)5月12日没。18才。法名「寂照院殿節叟賢忠大禅定門」。
戸田光重の墓碑
戸田光重
生 元和8年 (1622年)
没 寛文8年 (1668年)
美濃加納藩初代藩主。1622年(元和8)忠光の長男として生まれる。1634年(寛永11)叔父の康直が没すると、改易になるとこを特別に光重が跡を継ぐ。1668年(寛文8)7月30日没。47才。法名「光重寺殿別峯道見大居士」。
戸田光規の墓碑
戸田光規
生 延宝6年 (1678年)
没 享保元年 (1716年)
1678年(延宝6)光永の3男として生まれる。1695年(元禄8)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1704年(宝永元)1月中奥の小姓となる。1716年(享保元)閏2月19日没。39才。法名「光䂓院殿明山孤天大居士」。
戸田光熙の墓碑
戸田光熙
生 延宝2年 (1674年)
没 享保2年 (1717年)
美濃加納藩3代藩主。1674年(延宝2)光永の長男として生まれる。1683年(天和3)3月徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)4月家督を継ぐ。1717年(享保2)9月4日没。44才。法名「寶雲院殿徳翁良泰大居士」。
小笠原忠真妻の墓碑
小笠原忠真妻
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永20年 (1643年)
1597年(慶長2)本多忠政の次女として生まれる。母は松平信康の次女熊姫。名は亀姫といわれる。徳川家康の曾孫にあたる。家康の養女として、同じく家康の曾孫小笠原忠脩(母は信康の長女登久姫)に嫁ぐ。1615年(慶長20)大坂夏の陣で忠脩が討死すると忠脩の弟忠真に嫁いだ。忠脩の間には1男1女、忠真の間には2男3女を儲けた。1643年(寛永20)10月3日没。47才。法名「圓照院殿花陽宗月大姉」。
青山忠門の墓碑
青山忠門
生 永正15年 (1518年)
没 元亀2年 (1571年)
1518年(永正15)忠世の子として生まれる。松平広忠に仕え1548年(天文17)3月小豆坂の戦いに参戦。今川義元に仕え、さらに徳川家康に仕える。三河一向一揆のときは家康側に従う。武田軍との戦いで傷を負い、それが原因で1571年(元亀2)4月7日没。54才。法名「映峯授玉禅定門」。墓石施主は息子藤七郎忠成による。
蠣崎利広娘の墓碑
蠣崎利広娘
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
蠣崎利広の娘。1665年(寛文5)6月11日没。法名「高嶽院殿玉簾貞深大姉」。墓石に「松前竹松為養母立之」とあり、松前竹松の養母をしている。竹松は、1659年(万治2)生まれの松前藩5代藩主松前矩広と思われる。
稲富祐直妻の墓碑
稲富祐直妻
生 不明
没 不明
稲富祐直の妻。詳細不明。逆修塔で夫の没年月日の1611年(慶長16)2月6日建立とある。
松前高広の墓碑
松前高広
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文5年 (1665年)
蝦夷地松前藩4代藩主。1642年(寛永19)氏広の長男として生まれる。1648年(慶安元)父の死により7才で跡を継ぐ。1649年(慶安2)6月将軍徳川家光に拝謁。1665年(寛文5)7月5日没。24才。法名「松前院殿漢臣利永大居士」。
松前為広の墓碑
松前為広
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
安広の5男。兄広国の養子となる。仙台藩伊達家に仕える。1676年(延宝4)小姓、1687年(貞享4)大番頭。1692年(元禄5)9月14日没。法名「吸江院蘊嶽紹龐居士」。
松前氏広の墓碑
松前氏広
生 元和8年 (1622年)
没 慶安元年 (1648年)
蝦夷地松前藩3代藩主。1622年(元和8)公広の次男として生まれる。1638年(寛永15)将軍徳川家光に拝謁。1641年(寛永18)父の死去により跡を継ぐ。1648年(慶安元)8月25日没。27才。法名「氏広院殿直心宗性大居士」。
松前広国の墓碑
松前広国
生 寛永8年 (1631年)
没 天和2年 (1682年)
1631年(寛永8)安広の次男として生まれる。八之助。仙台藩伊達家の家臣。白石城主片倉景長は実兄。父の隠居により1656年(明暦2)跡を継ぐ。伊達騒動で活躍。歌舞伎や浪曲の「松前鉄之助」は広国をモデルとしている。1682年(天和2)3月10日没。52才。法名「見桃院了源崇徹居士」。
松前安広の墓碑
松前安広
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文8年 (1668年)
1606年(慶長11)慶広の7男として生まれる。1623年(元和9)より伊達政宗に仕える。仙台松前家の祖。伊達家の重臣片倉重長の娘を妻とする。長男の重長は片倉家を継いでいる。1656年(明暦2)隠居。1668年(寛文8)7月8日没。63才。法名「大信院殿自体恕然居士」。
松前公広の墓碑
松前公広
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永18年 (1641年)
蝦夷地松前藩2代藩主。1598年(慶長3)盛広の長男として生まれる。1613年(慶長18)11月9日将軍徳川秀忠に15日に大御所家康に拝謁。祖父慶広の死により1617年(元和3)跡を継ぐ。1641年(寛永18)7月8日没。44才。法名「公広院殿渓雲宗愚大居士」。側面に「寛文元年十月十四日」とあり建立日と思われる。
山口直友妻の墓碑
山口直友妻
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
戸田一西の長女。間宮牛之助に嫁ぎ、戸田正家、八左衛門、正綱、権左衛門の4男を儲ける。のち、山口直友と再婚。直友との間に直治を儲ける。1644年(寛永21)1月17日没。法名「光壽院殿梅譽清春大姉」。墓石は正綱が母の為に建立。
南部利直妻(香林院)の墓碑
南部利直妻(香林院)
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
南部家重臣石井伊賀守直弥の妹。名は楽。南部利直に嫁ぎ、北直愛妻、政直、中野元康妻の1男2女を儲ける。1628年(寛永5)7月26日没。法名「香林院殿梅枝月公大禅定尼」。
北直継の墓碑
北直継
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
信愛の3男。南部信直の家老。信直より1字を賜い直継と名乗る。九戸政実の乱や大坂冬の陣に従う。1630年(寛永7)10月13日没。法名「雪窓好公大禅定門」。
八戸義長妻の墓碑
八戸義長妻
生 不明
没 不明
北宣継の娘。名は連。八戸義長に嫁ぎ、義論を儲ける。夫の没後戌千代(義論)の後見をする。法名「壽量院殿栄岳宗繁大姉」。墓石は、息子義論の養子彦市利戡の建立による。
八戸義長の墓碑
八戸義長
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄元年 (1688年)
遠野南部家2代当主。1641年(寛永18)7月直義の長男として生まれる。盛岡藩南部家筆頭家老として仕える。遠野領地の検地を行い、超過分の1部で附馬牛八戸家として弟義也に分知。1688年(元禄元)6月28日没。48才。法名「光徳院殿日山惠公大居士」。
八戸義論の墓碑
八戸義論
生 天和2年 (1682年)
没 元禄12年 (1699年)
遠野南部家3代当主。1682年(天和2)10月義長の次男として生まれる。父が1688年(元禄元)6月没したため跡を継ぐ。幼少ゆえ外祖父北宣継の干渉を受ける。1699年(元禄12)5月21日没。18才。法名「觀照院殿德眼義公大居士」。
八戸直義の墓碑
八戸直義
生 慶長6年 (1601年)
没 延宝3年 (1675年)
遠野南部家初代当主。1601年(慶長6)新田政広の子として生まれる。八戸氏の女当主清心尼の娘を娶り婿となる。1627年(寛永4)主君南部利直の命により八戸から遠野に移封となり、遠野南部家初代当主となる。1675年(延宝3)1月31日没。75才。法名「大桑院殿鐵洲源船大居士」。
八戸怡顔の墓碑
八戸怡顔
生 寛延4年 (1751年)
没 文化14年 (1817年)
遠野南部家8代当主。1751年(寛延4)8月義顔の次男として生まれる。父の死により1785年(天明5)3月跡を継ぐ。1806年(文化3)松平定信による「集古十種」作成に協力。1817年(文化14)10月6日没。67才。法名「峻德院殿哲勇仁舩大居士」。相続の問題により公式には10月26日に没したことになっている。
七戸直時の墓碑
七戸直時
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直勝の子。隼人正。南部信直の家老。1597年(慶長2)父の隠居により跡を継ぎ、七戸城主となり2千石を領す。(2千300石とも)1614年(慶長19)大坂冬の陣に主君信直に従い参戦。1647年(正保4)2月16日没。法名「瑞龍寺殿証山自公居士」。
石井善太夫の墓碑
石井善太夫
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
奥州南部氏の家臣。1626年(寛永3)南部利直が上洛したときに供奉。同年10月29日京都で没。法名「〇〇正善大禅定門」。墓石は1周忌に息子作十郎の建立による。
南部重直の墓碑
南部重直
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文4年 (1664年)
陸奥盛岡藩2代藩主。1606年(慶長11)3月利直の3男として生まれる。1632年(寛永9)父の死後跡を継ぐ。1636年(寛永13)参勤交代に遅れたため蟄居処分を受ける。1664年(寛文4)9月12日没。59才。法名「即性院殿三峯宗玄大居士」。
南部重信妻の墓碑
南部重信妻
生 不明
没 寛文11年 (1671年)
玉山秀久の娘。南部重信に嫁ぎ、重信との間に、七戸定信、行信、池田綱清妻の2男1女を儲ける。1671年(寛文11)10月14日没。法名「大智院殿心月妙印大姉」。
南部行信妻の墓碑
南部行信妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信の墓碑
南部実信
生 延宝4年 (1676年)
没 元禄13年 (1700年)
1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院)の墓碑
南部利直妻(源秀院)
生 天正9年 (1581年)
没 寛文3年 (1663年)
1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直の墓碑
南部利直
生 天正4年 (1576年)
没 寛永9年 (1632年)
陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎)の墓碑
南部利用(善太郎)
生 享和3年 (1803年)
没 文政4年 (1821年)
陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎)の墓碑
南部利用(吉次郎)
生 文化4年 (1807年)
没 文政4年 (1821年)
1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済の墓碑
南部利済
生 寛政9年 (1797年)
没 文政8年 (1825年)
陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音の墓碑
諏訪頼音
生 延宝8年 (1680年)
没 宝暦元年 (1751年)
1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻の墓碑
諏訪頼水妻
生 永禄10年 (1567年)
没 正保2年 (1645年)
1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水の墓碑
諏訪頼水
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永18年 (1641年)
信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠妻の墓碑
諏訪頼忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
向井氏。諏訪頼忠に嫁ぎ、頼水を生む。1627年(寛永4)9月2日没。法名「理昌院殿玉榮貞珠大姉」。墓石は息子頼水の建立による。
諏訪頼忠の墓碑
諏訪頼忠
生 天文5年 (1536年)
没 慶長11年 (1606年)
1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻の墓碑
諏訪忠誠妻
生 不明
没 天保13年 (1842年)
松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。
諏訪忠虎妻の墓碑
諏訪忠虎妻
生 万治2年 (1659年)
没 元禄16年 (1703年)
1659年(万治2)松平昌勝の娘として生まれる。1687年(貞享4)4月諏訪忠虎に嫁ぎ、右京、盛太郎、忠尋、勝之丞、助蔵の5男を生む。1703年(元禄16)8月4日没。45才。法名「玄珠院殿勝光如璨大姉」。墓石は夫忠虎の建立による。
諏訪忠虎の墓碑
諏訪忠虎
生 寛文3年 (1663年)
没 享保16年 (1731年)
信濃諏訪藩4代藩主。1663年(寛文3)3月忠晴の3男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。赤穂事件で討取られた吉良上野介の孫吉良義周の身柄を預かる。文化人で俳諧を宝井其角に学ぶ。1731年(享保16)7月2日没。69才。法名「洞虎院殿彰住闡幽大居士」。
諏訪忠粛妻の墓碑
諏訪忠粛妻
生 明和8年 (1771年)
没 天保2年 (1831年)
1771年(明和8)松平乗完の娘として生まれる。1785年(天明5)4月諏訪忠粛の側室となり忠恕を生む。1831年(天保2)11月12日没。62才。法名「真操院殿成圓理貞大姉」。墓石は息子忠恕の建立による。
諏訪忠粛の墓碑
諏訪忠粛
生 宝暦13年 (1763年)
没 文政5年 (1822年)
信濃諏訪藩7代藩主。1763年(宝暦13)忠厚の長男として生まれる。1782年(天明元)11月将軍徳川家治に拝謁。同年12月父の隠居により跡を継ぐ。1822年(文政5)6月27日没。60才。 法名「放光院殿普照道徳大居士」。
諏訪忠林妻の墓碑
諏訪忠林妻
生 享保3年 (1718年)
没 寛保3年 (1743年)
1718年(享保3)6月13日信濃諏訪藩4代藩主諏訪忠虎の娘として生まれる。1733年(享保18)11月分家の諏訪忠林に嫁ぐ。忠林との間に忠倫を儲ける。1743年(寛保3)11月7日没。26才。法名「雲臺院殿霊香慈薫大姉」。
諏訪忠林の墓碑
諏訪忠林
生 元禄16年 (1703年)
没 明和7年 (1770年)
信濃諏訪藩5代藩主。1703年(元禄16)頼篤の次男として生まれる。諏訪藩4代藩主忠虎の娘を娶り養子となり、忠虎死後に跡を継ぐ。詩人としての才能が高かったが、藩政改革がうまくいかずに逼迫。1770年(明和7)5月27日没。68才。法名「養賢院殿聖懿諦範大居士」。
諏訪忠晴妻の墓碑
諏訪忠晴妻
生 寛永18年 (1641年)
没 正徳2年 (1712年)
1641年(寛永18)内藤美興の娘として生まれる。内藤忠興の養女として1658年(明暦4)4月諏訪忠晴の正室となる。忠晴との間に、千代熊、萬助、忠虎、女子、女子の3男2女を儲ける。1712年(正徳2)9月9日没。72才。法名「長春院殿空室韶華大姉」。墓石は息子忠虎の建立による。
諏訪忠晴の墓碑
諏訪忠晴
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄8年 (1695年)
信濃諏訪藩3代藩主。1639年(寛永16)8月忠恒の長男として生まれる。1657年(明暦3)父の死により跡を継ぐ。延宝の飢饉には領内に死者が多数でる。1683年(天和3)高島城内にて蟄居中の徳川家康の6男松平忠輝が92才で死去。1695年(元禄8)3月2日没。57才。法名「乾龍院殿雄巌文頴大居士」。
諏訪忠恕の墓碑
諏訪忠恕
生 寛政12年 (1800年)
没 嘉永4年 (1851年)
信濃諏訪藩8代藩主。1800年(寛政12)10月忠粛の長男として生まれる。1815年(文化12)松平定信の娘を娶る。父の隠居により跡を継ぐ。藩政の再建に取り組むも、凶作や百姓一揆により悪化。1851年(嘉永4)5月2日没。52才。法名「泰俊院殿徳海義山大居士」。
諏訪忠恒娘の墓碑
諏訪忠恒娘
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
諏訪忠恒の2女。名は延。生年等詳細不明だが、長野県茅野市の頼岳寺にも墓が現存する。1651年(慶安4)1月24日没。(頼岳寺では1月22日没)法名「盛光院殿渓元怡清大姉」。
諏訪忠恒妻(永高院)の墓碑
諏訪忠恒妻(永高院)
生 不明
没 天和3年 (1683年)
小喜多氏。諏訪忠恒の側室で忠晴を生む。(寛政重修諸家譜では忠晴の母は忠恒正室の稲葉典通の娘月江院となっているが間違い)熱心な日蓮宗信者で諏訪の日蓮宗高国寺を再興する。1683年(天和3)1月1日没。法名「永高院殿天心日誠大姉」。
諏訪忠恒妻(月江院)の墓碑
諏訪忠恒妻(月江院)
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。
諏訪忠恒の墓碑
諏訪忠恒
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦3年 (1657年)
信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠尋の墓碑
諏訪忠尋
生 元禄8年 (1695年)
没 享保2年 (1717年)
1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠厚の墓碑
諏訪忠厚
生 延享3年 (1746年)
没 文化9年 (1812年)
信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠倫の墓碑
諏訪忠倫
生 元文5年 (1740年)
没 延享4年 (1747年)
1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
脇坂安秋妻の墓碑
脇坂安秋妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
諏訪頼久の娘。脇坂安秋に嫁ぐも子は出来ず。父や夫より早く1701年(元禄14)10月6日没。法名「瓊林院殿梅窓貞香大姉」。
南部利義妻の墓碑
南部利義妻
生 文政8年 (1825年)
没 弘化4年 (1847年)
1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
南部利済妻の墓碑
南部利済妻
生 享和3年 (1803年)
没 文政12年 (1829年)
1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
三戸信丞妻の墓碑
三戸信丞妻
生 天明4年 (1784年)
没 文政8年 (1825年)
1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
七戸舜信妻の墓碑
七戸舜信妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
七戸愛信の娘。母は赤沢半左衛門の娘。七戸舜信の妻となり、舜信との間に八戸信有を儲ける。1720年(享保5)8月25日没。法名「龜徳院殿江月玅照大姉」。
七戸舜信の墓碑
七戸舜信
生 天和2年 (1682年)
没 宝永3年 (1706年)
1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
赤井直正妻の墓碑
赤井直正妻
生 不明
没 天正3年 (1575年)
近衛稙家の娘。赤井直正に嫁ぎ1女を儲ける。1575年(天正3)8月21日没。法名「渓江院殿月下笑光大姉」。墓石の施主は夫直正。
赤井直正の墓碑
赤井直正
生 享禄2年 (1529年)
没 天正6年 (1578年)
1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
竹村嘉理の墓碑
竹村嘉理
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永8年 (1631年)
1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
竹村嘉勝の墓碑
竹村嘉勝
生 慶長5年 (1600年)
没 寛永18年 (1641年)
1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
永井直期妻の墓碑
永井直期妻
生 宝永5年 (1708年)
没 享保19年 (1734年)
1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
武田勝頼の墓碑
武田勝頼
生 天文15年 (1546年)
没 天正10年 (1582年)
1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
武田信玄の墓碑
武田信玄
生 大永元年 (1521年)
没 元亀4年 (1573年)
1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
桜庭統弧妻の墓碑
桜庭統弧妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
柳沢信鴻妻の墓碑
柳沢信鴻妻
生 不明
没 天明5年 (1785年)
村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
柳沢信鴻の墓碑
柳沢信鴻
生 享保9年 (1724年)
没 寛政4年 (1792年)
1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
松平清照妻の墓碑
松平清照妻
生 不明
没 寛保3年 (1743年)
安西意水の娘。松平清照に嫁ぎ、松平直常妻、牧野成春妻、忠雅の1男2女を儲ける。1743年(寛保3)10月25日没。法名「妙薫院殿戒雲慧香大姉」。
松平清照の墓碑
松平清照
生 承応元年 (1652年)
没 貞享3年 (1686年)
1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。
松平忠隆の墓碑
松平忠隆
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永9年 (1632年)
美濃加納藩3代藩主。1608年(慶長13)忠政の長男として生まれる。飛騨守。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。幼年のため祖父奥平信昌が後見人となり、信昌死後は祖母亀姫(徳川家康長女)が後見人となる。祖母亀姫死去のときは忠隆が喪主を務めたが、実際は叔父の松平忠明が仕切る。1632年(寛永9)1月5日没。25才。法名「實相院殿大林宗功大居士」。
松平忠翼妻の墓碑
松平忠翼妻
生 天明5年 (1785年)
没 文政3年 (1820年)
1785年(天明5)松平忠啓の娘として生まれる。名は周姫、国姫。松平忠和の養女として松平忠翼に嫁ぐ。1801年(享和元)6月長男忠堯を儲ける。1820年(文政3)1月10日没。36才。法名「顯徳院殿明禋成裕大姉」。
松平忠翼の墓碑
松平忠翼
生 安永9年 (1780年)
没 文政4年 (1821年)
奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩6代藩主。1780年(安永9)11月井伊直朗の次男として生まれる。松平忠和の養女を娶り、忠和の養子となる。1802年(享和2)忠和の死により家督を継ぐ。1821年(文政4)3月20日没。42才。法名「文明院殿厳恭道健大居士」。
松平忠彦妻の墓碑
松平忠彦妻
生 文化10年 (1813年)
没 万延元年 (1860年)
1813年(文化10)池田斉稷の娘として生まれる。名は繡子。はじめ池田斉衆と婚約するも早世。のち松平忠彦に嫁ぐ。1860年(万延元)閏3月27日没。48才。法名「勝徳院殿天桂壽考尼大姉」。
奥平昌鹿の墓碑
奥平昌鹿
生 延享元年 (1744年)
没 安永9年 (1780年)
豊前中津藩3代藩主。1744年(延享元)7月昌敦の長男として生まれる。1758年(宝暦8)父の死により跡を継ぐ。蘭学やオランダ語に夢中で職務怠慢な藩医前野良沢を庇い、藩内に蘭学を奨励。1780年(安永9)7月24日没。37才。法名「興隆院殿悟渓道本大居士」。
奥平昌高妻の墓碑
奥平昌高妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
奥平昌男の娘。島津重豪の次男昌高に嫁ぎ、昌高は奥平家の婿養子となる。昌高との間に子供が出来た記録はない。1801年(享和元)6月26日没。法名「本明院殿香室妙華大姉」。
奥平昌高の墓碑
奥平昌高
生 天明元年 (1781年)
没 安政2年 (1855年)
豊前中津藩5代藩主。1781年(天明元)11月島津重豪の次男として生まれる。1786年(天明6年)9月奥平昌男の末期養子として家督を継ぐ。1791年(寛政3)10月将軍徳川家斉に拝謁。実父の影響で蘭学が好きで自らオランダ語を学ぶ。シーボルトとも何度か交流している。1855年(安政2)6月10日没。75才。法名「龍徳院殿無方道応大居士」。
奥平昌章妻の墓碑
奥平昌章妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
奥平昌能の嫡女。五島盛勝の子昌章を婿として婚姻。昌章との間に、秋元喬房妻の1女を儲ける。1685年(貞享2)6月3日没。法名「真珠院殿圓室妙智大姉」。
奥平昌章の墓碑
奥平昌章
生 寛文8年 (1668年)
没 元禄8年 (1695年)
下野宇都宮藩主。1668年(寛文8)3月五島盛勝の次男として生まれる。1672年(寛文12)に山形藩主奥平昌能の末期養子となり、出羽山形藩2代藩主となる。1685年(貞享2)6月宇都宮藩に移封。1695年(元禄8)4月8日没。28才。法名「自性院殿真凉道如大居士」。
奥平昌男の墓碑
奥平昌男
生 宝暦13年 (1763年)
没 天明6年 (1786年)
豊前中津藩4代藩主。1763年(宝暦13)6月昌鹿の長男として生まれる。1780年(安永9)父の死により家督を継ぐ。天明の大飢饉や家臣に実権を奪われるなどで失意のまま1786年(天明6)3月21日没。24才。法名「春徳院殿何屋道云大居士」。
奥平昌猷の墓碑
奥平昌猷
生 文化10年 (1813年)
没 天保13年 (1842年)
豊前中津藩7代藩主。1813年(文化10)3月昌高の5男として生まれる。兄昌暢が没したため1833年(天保4)1月跡を継ぐ。家臣を登用して藩政改革を行う。1842年(天保13)9月17日没。30才。法名「潜竜院殿大淵道珍大居士」。
奥平昌暢の墓碑
奥平昌暢
生 文化6年 (1809年)
没 天保3年 (1832年)
豊前中津藩6代藩主。1809年(文化6)1月昌高の次男として生まれる。1825年(文政8)5月父の隠居により家督を継ぐ。1832年(天保3)11月30日没。24才。法名「探源院殿心厳道轍大居士」。
奥平昌敦の墓碑
奥平昌敦
生 享保9年 (1724年)
没 宝暦8年 (1758年)
豊前中津藩2代藩主。1724年(享保9)4月昌成の次男として生まれる。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。目安箱の設置や農政改革など藩政改革に尽力。1758年(宝暦8)9月26日没。35才。法名「方廣院殿雲峯道端大居士」。
奥平昌成の墓碑
奥平昌成
生 元禄7年 (1694年)
没 延享3年 (1746年)
豊前中津藩初代藩主。1694年(元禄7)11月昌章の次男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により2才で下野宇都宮藩主となる。1697年(元禄10)宮津藩へ移封。1703年(元禄16)9月将軍徳川綱吉に拝謁。1717年(享保2)2月1万石加増で豊前中津藩10万石に移封。1746年(延享3)11月14日没。53才。法名「龍源院殿徳翁道見大居士」。
南部重信の墓碑
南部重信
生 元和2年 (1616年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩3代藩主。1616年(元和2)5月利直の5男として生まれる。七戸家を継いだが、1664年(寛文4)盛岡藩主の兄重直が子無く没したため跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月家督を長男行信に譲って隠居する。1702年(元禄15)6月18日没。87才。法名「大源院殿雲山宗祥大居士」。
南部通信の墓碑
南部通信
生 寛文13年 (1673年)
没 享保元年 (1716年)
陸奥八戸藩3代藩主。1673年(寛文13)2月陸奥盛岡藩3代藩主重信の子として生まれる。従兄の直政の末期養子となり陸奥八戸藩主となる。教養が高く、藩の改革をして発展に貢献。1716年(享保元)8月24日没。44才。法名「三玄院殿法林徹證大居士」。