岩沢半九郎の墓碑
岩沢半九郎
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は岩城平大夫成重ともある。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると殉死。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月19日に殉死とある。法名「清嚴勇心禅定門」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。墓石には主君の命日「二月十六日」が見える。
曽我部俊雄の墓碑
曽我部俊雄
生 明治6年 (1873年)
没 昭和24年 (1949年)
金剛流御詠歌の流祖。天野山金剛寺第76世座主。1873年(明治6)10月生まれ。1926年(大正15)4月金剛流詠歌団体を高野山大師教会内に設立する。金剛流御詠歌を編集、整備。現在も継続されている。1949年(昭和24)没。
本多正純の墓碑
本多正純
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永14年 (1637年)
1565年(永禄8)正信の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。大坂の両陣にも参戦。家康没後は2代将軍徳川秀忠の側近となるも、1622年(元和8)宇都宮城石垣の無断修理等の罪状嫌疑により失脚。晩年は出羽横手にて過ごす。1637年(寛永14)3月10日没。73才。法名「慧光院殿鐵顔宗智大居士」。
村井長次妻の墓碑
村井長次妻
生 天正8年 (1580年)
没 寛永18年 (1641年)
1580年(天正8)5月7日前田利家の7女として生まれる。名は千世。1597年(慶長2)細川忠隆に嫁ぐものちに離縁。1605年(慶長10)前田家重臣の村井長次に嫁ぐ。1641年(寛永18)11月20日没。62才。法名「春高院殿昌慶」。墓石は1614年(慶長19)3月21日建立の逆修塔。のち、法名「春香院殿梅室昌薫大姉」となる。
村越兵庫の墓碑
村越兵庫
生 不明
没 慶長5年 (1600年)
光勝の子。徳川家康に仕えるも勘気を被り、豊臣秀長、秀保に仕える。その後再び家康に仕える。1600年(慶長5)9月15日関ヶ原の戦いのときに、藤堂高虎に属して戦い討死。法名「照光院蘭月宗英大禅定門」。
松平定温妻の墓碑
松平定温妻
生 不明
没 寛延3年 (1750年)
池田仲央の娘。名は輝子。松平定温に嫁ぐ。1750年(寛延3)4月24日没。法名「光輪院殿貞譽正華亮仁大姉」。墓石は夫定温の建立による。「豫洲今治城主松平主水正定温」と墓石にあるが夫定温は伊予今治藩世嗣で城主として跡を継ぐ前に没している。
松平忠吉の墓碑
松平忠吉
生 天正8年 (1580年)
没 慶長12年 (1607年)
1580年(天正8)9月徳川家康の4男として生まれる。1592年(文禄元)武蔵忍城主となり10万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。戦後、美濃尾張で52万石となる。1607年(慶長12)3月5日没。28才。法名「性高院殿憲瑩玄伯大居士」。
武内宿禰の墓碑
武内宿禰
生 不明
没 不明
実在したかも疑問の古代の偉人。屋主忍男武雄心命の子。景行天皇から仁徳天皇の5代に仕えた忠臣。日本書記によると、景行天皇のときに棟梁之臣、成務天皇のときに大臣を務める。神功皇后のときに反乱を起こした忍熊皇子を破り、応神天皇のときに甘美内宿禰を破る。360才、295才、または280才で死亡したという。墓石は宗教家吉村長慶の建立による。
武野紹鴎の墓碑
武野紹鴎
生 文亀2年 (1502年)
没 弘治元年 (1555年)
1502年(文亀2)信久の子として生まれる。連歌師、茶人。茶道は、千利休、今井宗久、津田宗達などを弟子として大きな影響を与える。1555年(弘治元)閏10月29日没。54才。法名「一閑紹鴎居士」。
池田仲央の墓碑
池田仲央
生 元禄5年 (1692年)
没 宝暦3年 (1753年)
1692年(元禄5)11月仲澄の次男として生まれる。1702年(元禄15)11月将軍徳川綱吉に拝謁。翌年9月父の隠居により跡を継ぐ。1753年(宝暦3)1月11日没。62才。法名「岌暾院殿活空徹玄大居士」。
池田仲庸の墓碑
池田仲庸
生 享保4年 (1719年)
没 宝暦8年 (1758年)
1719年(享保4)仲央の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)3月父の死により跡を継ぐ。1758年(宝暦8)6月12日没。40才。法名「青嶂院殿雲外弘庸大居士」。
浅野長矩の墓碑
浅野長矩
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄14年 (1701年)
播磨赤穂藩3代藩主。1667年(寛文7)8月長友の長男として生まれる。内匠頭。父の死により1675年(延宝3)3月跡を継ぐ。1701年(元禄14)3月14日勅使饗応役中、江戸城内にて吉良上野介に刃傷に及ぶ。激怒した将軍徳川綱吉により即日切腹となる。35才。法名「冷光院殿吹毛玄利大居士」。
神尾理介の墓碑
神尾理介
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は神野理助成通とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、同月18日殉死。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月17日に殉死とある。しかし墓石には「二月十八日」とあるので、こちらに従った。
福原就清の墓碑
福原就清
生 宝暦6年 (1756年)
没 寛政3年 (1791年)
1756年(宝暦6)6月広門の長男として生まれる。藩主毛利重就より1字を賜い、就郷(のち就清)と名乗る。父の隠居により1789年(寛政元)跡を継ぐ。1791年(寛政3)8月18日没。36才。法名「清風齋猗園信誓居士」。
福原就澄の墓碑
福原就澄
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄3年 (1690年)
1669年(寛文9)広俊の長男として生まれる。藩主毛利吉就から1字を賜ったと思われる。跡を継ぐことなく1690年(元禄3)8月18日没。22才。法名「心源院殿無外維安居士」。
福原広俊の墓碑
福原広俊
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄8年 (1695年)
1638年(寛永15)元俊の子として生まれる。主君毛利綱広より1字を賜い、広次を名乗り、後広俊と名乗る。1695年(元禄8)4月5日没。58才。法名「慈雲院殿乾底宗泉居士」。
福原広泰の墓碑
福原広泰
生 元禄7年 (1694年)
没 享保10年 (1725年)
1694年(元禄7)5月広俊の末子として生まれる。はじめ毛利就詮の養子となる。家督を相続していた兄広頼が没したため、跡を継ぐ。1725年(享保10)4月11日没。32才。法名「性源院殿天峯道眞居士」。
福原広門の墓碑
福原広門
生 享保20年 (1735年)
没 寛政3年 (1791年)
1735年(享保20)3月元貞の長男として生まれる。父の死により1741年(寛保元)跡を継ぐ。1789年(天明9)隠居。1791年(寛政3)7月15日没。57才。法名「常在院殿月峯宗鑑居士」。
福原広門妻の墓碑
福原広門妻
生 享保20年 (1735年)
没 文化元年 (1804年)
1735年(享保20)毛利元雅の6女として生まれる。福原広門に嫁ぎ、就清、於亀槌、俊方、俊民の3男1女を儲ける。1804年(文化元)3月18日没。70才。法名「養壽院殿和室貞光大姉」。
福原広頼の墓碑
福原広頼
生 天和3年 (1683年)
没 正徳4年 (1714年)
1683年(天和3)広俊の子として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。藩主毛利吉広より1字を賜い、広頼と名乗る。1714年(正徳4)3月11日没。32才。法名「英性院殿信岩宗雄居士」。
福原房純の墓碑
福原房純
生 明和9年 (1772年)
没 天保7年 (1836年)
1772年(明和9)毛利就馴の次男として生まれる。1791年(寛政3)5月福原就清の養子となる。同年8月就清が没すると同年11月跡を継ぐ。主君毛利斉房から1字を賜い、房純と名乗る。1836年(天保7)1月2日没。65才。法名「智徳院殿高巖義尚大居士」。
福原房純妻の墓碑
福原房純妻
生 天明3年 (1783年)
没 天保7年 (1836年)
1783年(天明3)1月宍戸就年の長女として生まれる。名は於美年。福原房純に嫁ぎ、於美能、熙賢、宍戸元礼の2男1女を儲ける。1836年(天保7)1月2日に夫房純、同年1月12日に息子熙賢を亡くし、自身も同年12月8日没。54才。法名「淨體院殿保眞長養大姉」。
福原熙賢の墓碑
福原熙賢
生 文化2年 (1805年)
没 天保7年 (1836年)
1805年(文化2)房純の長男として生まれる。主君毛利斉熙の1字を賜い、熙賢と名乗る。1836年(天保7)1月2日父が没するも、家督を継ぐことなく同年1月10日没。32才。法名「仁岳院殿湛源慧流大居士」。
稲見主税の墓碑
稲見主税
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は稲見主膳成正とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、尼崎でその報を聞き旧恩に報いるため2月26日殉死した。法名「刄叟成銅居士」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。
鍋島忠直の墓碑
鍋島忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛永12年 (1635年)
1613年(慶長18)勝茂の4男として生まれる。1617年(元和3)3月将軍徳川秀忠に拝謁。4男だが母が徳川家康の養女のため跡取りとなる。秀忠より1字を賜い忠直と名乗る。跡を継ぐことなく1635年(寛永12)1月28日没。23才。法名「興国院殿敬英賢崇大居士」。
鍋島斉直の墓碑
鍋島斉直
生 安永9年 (1780年)
没 天保10年 (1839年)
肥前佐賀藩9代藩主。1780年(安永9)9月治茂の長男として生まれる。1805年(文化2)父の死により跡を継ぐ。将軍徳川家斉より1字を賜い、斉直と名乗る。1808年(文化5)長崎でフェートン号事件が起きると、長崎警備を怠っていたことで家臣数名切腹、斉直も100日の閉門となる。1839年(天保10)1月28日没。60才。法名「巍松院殿桂翁道栄大居士」。
青山幸成の墓碑
青山幸成
生 天正14年 (1586年)
没 寛永20年 (1643年)
1586年(天正14)忠成の4男として生まれる。徳川秀忠付の家臣となる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは木曽路の手前まで秀忠に従った。(木曽路が険しいため15才以下はそれより先は供奉させなかった)大坂冬の陣のときは直前に御勘気をこうむってながら、密かに参戦。夏の陣のときには御勘気を赦されており、家臣とともに活躍。1643年(寛永20)2月16日没。58才。法名「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」。
佐久間佐吉の墓碑
佐久間佐吉
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
詳細不明。墓石に「施主御内儀稲葉丹後守御息女」とあり妻は稲葉正勝の娘である。墓石によると、1641年(寛永18)1月18日没で法名「盡峯空縁禅定門」。寛政重修諸家譜に稲葉正勝の娘で佐久間佐吉の妻となった人物の記載はなく、さらに佐吉自身の記載もなく詳細不明。
佐久間実勝の墓碑
佐久間実勝
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永19年 (1642年)
1570年(元亀元)政実の子として生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え、のちに徳川幕府の旗本として仕える。1609年(慶長14)名古屋城築城の奉行となる。茶人として有名で、宗可流の開祖となり山隠宗可と号す。晩年は京都大徳寺内に寸松庵を建立して過ごす。1642年(寛永19)9月22日没。73才。法名「寸松庵山隠宗可居士」。
内田正信の墓碑
内田正信
生 慶長18年 (1613年)
没 慶安4年 (1651年)
下野鹿沼藩初代藩主。1613年(慶長18)正世の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。家光のもとで出世、1649年(慶安2)8月下野で1万5千石を領す。1651年(慶安4)4月20日家光が没すると同日に殉死。39才。法名「理明院殿光徳徹宗大居士」。
土屋政直妻の墓碑
土屋政直妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
松平康信の娘。土屋政直に嫁ぎ、式部、照直の2男を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。法名「圓應院殿泰性妙恵大姉」。
大森頼隆の墓碑
大森頼隆
生 明暦3年 (1657年)
没 宝永4年 (1707年)
1657年(明暦3)頼直の子として生まれる。1667年(寛文7)閏2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。1707年(宝永4)1月4日没。51才。法名「勇猛院殿心傳了空居士」。
大森頼隆妻の墓碑
大森頼隆妻
生 明暦3年 (1657年)
没 天和2年 (1682年)
1657年(明暦3)秋月種信の4女として生まれる。大森頼隆に嫁ぎ、松千代、女子の1男1女を儲ける。1682年(天和2)7月5日没。26才。法名「月照院殿凉岩知清大姉」。
戸田種辰の墓碑
戸田種辰
生 宝永2年 (1705年)
没 天明2年 (1782年)
1705年(宝永2)松平信庸の4男として生まれる。戸田重澄の養子となる。1718年(享保3)7月将軍徳川吉宗に拝謁。翌年重澄の死により跡を継ぐ。小姓組の番頭、御書院の番頭、大番頭を務める。1782年(天明2)9月17日没。78才。法名「如雲」。
戸祭源兵衛の墓碑
戸祭源兵衛
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
名は定経。内田正信の家臣。主君正信が徳川家光に殉死すると、1651年(慶安4)4月20日源兵衛も殉死する。法名「一翁圓心居士」。
有栖川宮織仁親王の墓碑
有栖川宮織仁親王
生 宝暦3年 (1753年)
没 文政3年 (1820年)
有栖川宮6代当主。1753年(宝暦3)7月職仁親王の第7王子として生まれる。1762年(宝暦12)桃園天皇の猶子となる。1763年(宝暦13)親王宣下をする。1811年(文化8)に一品。1820年(文政3)2月19日没。68才。法名「文聚院」。
有栖川宮職仁親王の墓碑
有栖川宮職仁親王
生 正徳3年 (1713年)
没 享保元年 (1716年)
有栖川宮5代当主。1713年(正徳3)9月霊元天皇の第17皇子として生まれる。1716年(享保元)有栖川宮正仁親王が嗣子なく没したため有栖川宮家を継ぐ。歌道、書道に優れ、有栖川流書道を創始者となる。1769年(明和6)10月20日没。57才。法名「本朋圓心院」。
有栖川宮韶仁親王の墓碑
有栖川宮韶仁親王
生 天明4年 (1784年)
没 弘化2年 (1845年)
有栖川宮7代当主。1784年(天明4)12月織仁親王の第2皇子として生まれる。1807年(文化4)光格天皇の猶子となる。1808年(文化5)親王宣下をする。1822年(文政5)に二品。1845年(弘化2)2月26日没。62才。法名「大功徳院」。
木下延次妻の墓碑
木下延次妻
生 不明
没 慶安3年 (1650年)
里見忠義の次女。大久保忠常の養女となり、木下延次に嫁ぐ。延次との間に延知を儲ける。1650年(慶安3)1月20日没。法名「圓光院殿寶月貞璃大姉」。
末吉利方の墓碑
末吉利方
生 大永6年 (1526年)
没 慶長12年 (1607年)
1526年(大永6)平野行増の次男として生まれる。西末吉家の祖。平野郷の豪商として織田信長、豊臣秀吉に仕え、商業の他代官も兼ねる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1607年(慶長12)3月5日没。82才。法名「道鑑」。
末吉利長の墓碑
末吉利長
生 正保4年 (1647年)
没 貞享3年 (1686年)
1647年(正保4)長明の子として生まれる。父の死により1653年(承応2)12月跡を継ぐ。1664年(寛文4)6月将軍徳川家綱に拝謁。1686年(貞享3)9月6日没。40才。法名「成等院殿松譽寒貞大居士」。墓石は息子勘太郎嘉于の建立による。寛政重修諸家譜の法名は「貞寒」とあるが墓石の「寒貞」が正しいと思われる。
松平康信妻の墓碑
松平康信妻
生 不明
没 不明
酒井忠勝(小浜)の娘。はじめ徳川忠長家臣の朝倉宣親に嫁ぎ、重正の1男を儲ける。のち松平康信に嫁ぎ、土屋政直妻の1女を儲ける。法名「長松院殿勝室元殊大姉」。
松平頼重の墓碑
松平頼重
生 元和8年 (1622年)
没 元禄8年 (1695年)
1622年(元和8)7月徳川頼房の嫡男として生まれる。徳川光圀(水戸黄門)の兄。故有って頼房から堕胎を命じられたが、密かに三木之次夫妻に養育される。嫡男だったが家は弟光圀が継ぎ、次男扱いとなる。1642年(寛永19)讃岐高松で12万石。1695年(元禄8)4月12日没。74才。法名「龍雲院殿雄蓮社大譽孤峯源英大居士」。
池田光政娘の墓碑
池田光政娘
生 正保2年 (1645年)
没 延宝7年 (1679年)
1645年(正保2)池田光政の娘として生まれる。名は六姫。1658年(万治元)池田由貞の元に嫁ぐ。しかし由貞は嫉妬深い六姫に耐えれず逐電。のち切腹。その後、滝川一宗と再婚。しかし夫の一宗が他の女性と一緒にいたため、夫を殺害。鬼姫と呼ばれたという。1679年(延宝7)12月25日没。35才。法名「成徳院殿見巖永性大禅定尼」。
池田忠継の墓碑
池田忠継
生 慶長4年 (1599年)
没 慶長20年 (1615年)
1599年(慶長4)2月輝政の5男として生まれる。母は徳川家康の次女督姫。1603年(慶長8)5才のとき備前国岡山で28万石を与えられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参陣。1615年(慶長20)2月23日没。17才。法名「龍峯寺殿雲臺元祥大居士」。
池田輝政の墓碑
池田輝政
生 永禄7年 (1564年)
没 慶長18年 (1613年)
1564年(永禄7)12月恒興の次男として生まれる。織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が徳川家康軍によって討ち取られると家督を継ぐ。その後秀吉の仲介により家康の次女督姫を娶る。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付き、戦後大幅に加増され播磨で52万石を領した。1613年(慶長18)1月25日没。50才。法名「国清院殿泰叟玄高大居士」。
浅野斉賢妻の墓碑
浅野斉賢妻
生 安永9年 (1780年)
没 寛政8年 (1796年)
1780年(安永9)7月有栖川織仁親王の第1王女として生まれる。母は鷹司輔平の娘。織子女王。浅野斉賢に嫁ぐ。1796年(寛政8)5月29日没。17才。法名「翺翔院」。妹の子に徳川慶喜がいる。墓石は父織仁親王が浅野家と交渉のうえ遺髪を埋めた塔である。
真田信音妻の墓碑
真田信音妻
生 不明
没 延宝9年 (1681年)
松平典信の娘。真田信音に嫁ぐ。1681年(延宝9)8月5日没。法名「芙蓉院殿香臺榮薫大姉」。墓石は弟信利の子、松平豊前守信庸の建立による。
筒井順慶の墓碑
筒井順慶
生 天文18年 (1549年)
没 天正12年 (1584年)
1549年(天文18)3月順昭の子として生まれる。1565年(永禄8)松永久秀により居城筒井城を追われるも1566年(永禄9)6月に奪還。1571年(元亀2)より織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)8月11日没。36才。法名「順慶法印」。
織田信久の墓碑
織田信久
生 寛永20年 (1643年)
没 正徳4年 (1714年)
上野小幡藩3代藩主。1643年(寛永20)高長の4男として生まれる。1650年(慶安3)9月従兄の信昌の末期養子として家督を相続、同年11月将軍徳川家光に拝謁。藩主として64年務める。1714年(正徳4)7月8日没。72才。法名「凌雲院殿嶮巌維峻大居士」。