牧野康成(与板)の墓碑
牧野康成(与板)
生 元和3年 (1617年)
没 明暦3年 (1657年)
1617年(元和3)忠成の次男として生まれる。1634年(寛永11)父より1万石を分知され越後与板藩主となる。1657年(明暦3)12月30日没。41才。法名「馨香院殿登譽泰安大居士」。
牧野定成(三根山)の墓碑
牧野定成(三根山)
生 元和3年 (1617年)
没 万治元年 (1658年)
1617年(元和3)忠成の4男として生まれる。1632年(寛永9)8月将軍徳川家光に拝謁。1634年(寛永11)父より6千石分知をされ越後三根山領主となる。1658年(万治元)10月7日没。42才。法名 「一山大居士」。
松平永兼の墓碑
松平永兼
生 天正8年 (1580年)
没 元和5年 (1619年)
1580年(天正8)戸田康長の長男として生まれる。母は徳川家康の異父妹松姫。1592年(文禄元)家康の御前で元服。1619年(元和5)6月10日没。40才。法名「壽昌院殿劫巖玄永大禅定門」。
松平忠光の墓碑
松平忠光
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永6年 (1629年)
1598年(慶長3)戸田康長の次男として生まれる。15才のとき徳川秀忠の御前で元服して、1字を賜い始め忠長と名乗る。大坂の両陣に父に従い参陣。1629年(寛永6)3月16日没。32才。法名「大休院殿的翁良端大居士」。
松平光雄の墓碑
松平光雄
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦6年 (1756年)
信濃松本藩2代藩主。1716年(享保元)8月松平光煕の5男として生まれる。1732年(享保17)8月兄光慈の養子となり、同年10月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1756年(宝暦6)11月1日没。41才。法名「萬彭院殿松巖元盛大居士」。
松平光永の墓碑
松平光永
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永2年 (1705年)
美濃加納藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1656年(明暦2)3月将軍徳川家綱に拝謁。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。1705年(宝永2)2月29日没。63才。法名「光永院殿逸山道秀大居士」。
松平光慈の墓碑
松平光慈
生 正徳2年 (1712年)
没 享保17年 (1732年)
信濃松本藩初代藩主。1712年(正徳2)9月光煕の3男として生まれる。叔父戸田光規の養子となるも兄2人が亡くなったため、父の死後1717年(享保2)11月家督を継ぐ。1723年(享保8)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1732年(享保17)8月11日没。21才。法名「泰心院殿穆堂良恭大居士」。
戸田忠昌娘の墓碑
戸田忠昌娘
生 延宝元年 (1673年)
没 貞享4年 (1687年)
1673年(延宝元)戸田忠昌の娘として生まれる。1687年(貞享4)9月27日没。15才。法名「瑞心院殿慈観妙慧大姉」。
戸田忠昌妻の墓碑
戸田忠昌妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
秋元富朝の娘。母は有馬直純の娘。戸田忠昌に嫁ぎ、秋元喬知、忠真、忠章の3男を儲ける。1695年(元禄8)2月23日没。法名「雲臺院殿高嶽妙蔭大姉」。墓石は夫忠昌の建立による。
戸田康長娘の墓碑
戸田康長娘
生 不明
没 正保3年 (1646年)
戸田康長の2女。松平乗寿に嫁ぐ。乗寿との間に子は出来ず、のちに離縁している。戸田家墓域に墓があることから、離婚後は実家に戻ったと思われる。1646年(正保3)6月18日没。法名「清涼院殿南窓貞薫大姉」。墓石は兄忠光の子松平光重の建立による。
戸田康長の墓碑
戸田康長
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永9年 (1632年)
1562年(永禄5)忠重の子として生まれる。徳川家康より松平の姓を賜り、家康の異父妹松姫を妻とする。1574年(天正2)家康の御前で元服、家康より一字を賜い康長と名乗る。1581年(天正9)高天神城攻めで初陣。以後、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、関ヶ原の戦いに従う。1617年(元和3)信濃松本藩7万石となる。2代将軍秀忠の信頼も厚く家光の守役も務めた。1632年(寛永9)12月12日没。71才。法名「祥雲院殿一運宗智大居士」。
戸田康直の墓碑
戸田康直
生 元和3年 (1617年)
没 寛永11年 (1634年)
播磨明石藩初代藩主。1617年(元和3)康長の3男として生まれる。1632年(寛永9)12月父の死により家督を継ぐ。1634年(寛永11)5月12日没。18才。法名「寂照院殿節叟賢忠大禅定門」。
戸田光重の墓碑
戸田光重
生 元和8年 (1622年)
没 寛文8年 (1668年)
美濃加納藩初代藩主。1622年(元和8)忠光の長男として生まれる。1634年(寛永11)叔父の康直が没すると、改易になるとこを特別に光重が跡を継ぐ。1668年(寛文8)7月30日没。47才。法名「光重寺殿別峯道見大居士」。
戸田光規の墓碑
戸田光規
生 延宝6年 (1678年)
没 享保元年 (1716年)
1678年(延宝6)光永の3男として生まれる。1695年(元禄8)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1704年(宝永元)1月中奥の小姓となる。1716年(享保元)閏2月19日没。39才。法名「光䂓院殿明山孤天大居士」。
戸田光熙の墓碑
戸田光熙
生 延宝2年 (1674年)
没 享保2年 (1717年)
美濃加納藩3代藩主。1674年(延宝2)光永の長男として生まれる。1683年(天和3)3月徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)4月家督を継ぐ。1717年(享保2)9月4日没。44才。法名「寶雲院殿徳翁良泰大居士」。
小笠原忠真妻の墓碑
小笠原忠真妻
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永20年 (1643年)
1597年(慶長2)本多忠政の次女として生まれる。母は松平信康の次女熊姫。名は亀姫といわれる。徳川家康の曾孫にあたる。家康の養女として、同じく家康の曾孫小笠原忠脩(母は信康の長女登久姫)に嫁ぐ。1615年(慶長20)大坂夏の陣で忠脩が討死すると忠脩の弟忠真に嫁いだ。忠脩の間には1男1女、忠真の間には2男3女を儲けた。1643年(寛永20)10月3日没。47才。法名「圓照院殿花陽宗月大姉」。
青山忠門の墓碑
青山忠門
生 永正15年 (1518年)
没 元亀2年 (1571年)
1518年(永正15)忠世の子として生まれる。松平広忠に仕え1548年(天文17)3月小豆坂の戦いに参戦。今川義元に仕え、さらに徳川家康に仕える。三河一向一揆のときは家康側に従う。武田軍との戦いで傷を負い、それが原因で1571年(元亀2)4月7日没。54才。法名「映峯授玉禅定門」。墓石施主は息子藤七郎忠成による。
蠣崎利広娘の墓碑
蠣崎利広娘
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
蠣崎利広の娘。1665年(寛文5)6月11日没。法名「高嶽院殿玉簾貞深大姉」。墓石に「松前竹松為養母立之」とあり、松前竹松の養母をしている。竹松は、1659年(万治2)生まれの松前藩5代藩主松前矩広と思われる。
稲富祐直妻の墓碑
稲富祐直妻
生 不明
没 不明
稲富祐直の妻。詳細不明。逆修塔で夫の没年月日の1611年(慶長16)2月6日建立とある。
松前高広の墓碑
松前高広
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文5年 (1665年)
蝦夷地松前藩4代藩主。1642年(寛永19)氏広の長男として生まれる。1648年(慶安元)父の死により7才で跡を継ぐ。1649年(慶安2)6月将軍徳川家光に拝謁。1665年(寛文5)7月5日没。24才。法名「松前院殿漢臣利永大居士」。
松前為広の墓碑
松前為広
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
安広の5男。兄広国の養子となる。仙台藩伊達家に仕える。1676年(延宝4)小姓、1687年(貞享4)大番頭。1692年(元禄5)9月14日没。法名「吸江院蘊嶽紹龐居士」。
松前氏広の墓碑
松前氏広
生 元和8年 (1622年)
没 慶安元年 (1648年)
蝦夷地松前藩3代藩主。1622年(元和8)公広の次男として生まれる。1638年(寛永15)将軍徳川家光に拝謁。1641年(寛永18)父の死去により跡を継ぐ。1648年(慶安元)8月25日没。27才。法名「氏広院殿直心宗性大居士」。
松前広国の墓碑
松前広国
生 寛永8年 (1631年)
没 天和2年 (1682年)
1631年(寛永8)安広の次男として生まれる。八之助。仙台藩伊達家の家臣。白石城主片倉景長は実兄。父の隠居により1656年(明暦2)跡を継ぐ。伊達騒動で活躍。歌舞伎や浪曲の「松前鉄之助」は広国をモデルとしている。1682年(天和2)3月10日没。52才。法名「見桃院了源崇徹居士」。
松前安広の墓碑
松前安広
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文8年 (1668年)
1606年(慶長11)慶広の7男として生まれる。1623年(元和9)より伊達政宗に仕える。仙台松前家の祖。伊達家の重臣片倉重長の娘を妻とする。長男の重長は片倉家を継いでいる。1656年(明暦2)隠居。1668年(寛文8)7月8日没。63才。法名「大信院殿自体恕然居士」。
松前公広の墓碑
松前公広
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永18年 (1641年)
蝦夷地松前藩2代藩主。1598年(慶長3)盛広の長男として生まれる。1613年(慶長18)11月9日将軍徳川秀忠に15日に大御所家康に拝謁。祖父慶広の死により1617年(元和3)跡を継ぐ。1641年(寛永18)7月8日没。44才。法名「公広院殿渓雲宗愚大居士」。側面に「寛文元年十月十四日」とあり建立日と思われる。
山口直友妻の墓碑
山口直友妻
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
戸田一西の長女。間宮牛之助に嫁ぎ、戸田正家、八左衛門、正綱、権左衛門の4男を儲ける。のち、山口直友と再婚。直友との間に直治を儲ける。1644年(寛永21)1月17日没。法名「光壽院殿梅譽清春大姉」。墓石は正綱が母の為に建立。
南部利直妻(香林院)の墓碑
南部利直妻(香林院)
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
南部家重臣石井伊賀守直弥の妹。名は楽。南部利直に嫁ぎ、北直愛妻、政直、中野元康妻の1男2女を儲ける。1628年(寛永5)7月26日没。法名「香林院殿梅枝月公大禅定尼」。
北直継の墓碑
北直継
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
信愛の3男。南部信直の家老。信直より1字を賜い直継と名乗る。九戸政実の乱や大坂冬の陣に従う。1630年(寛永7)10月13日没。法名「雪窓好公大禅定門」。
八戸義長妻の墓碑
八戸義長妻
生 不明
没 不明
北宣継の娘。名は連。八戸義長に嫁ぎ、義論を儲ける。夫の没後戌千代(義論)の後見をする。法名「壽量院殿栄岳宗繁大姉」。墓石は、息子義論の養子彦市利戡の建立による。
八戸義長の墓碑
八戸義長
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄元年 (1688年)
遠野南部家2代当主。1641年(寛永18)7月直義の長男として生まれる。盛岡藩南部家筆頭家老として仕える。遠野領地の検地を行い、超過分の1部で附馬牛八戸家として弟義也に分知。1688年(元禄元)6月28日没。48才。法名「光徳院殿日山惠公大居士」。
八戸義論の墓碑
八戸義論
生 天和2年 (1682年)
没 元禄12年 (1699年)
遠野南部家3代当主。1682年(天和2)10月義長の次男として生まれる。父が1688年(元禄元)6月没したため跡を継ぐ。幼少ゆえ外祖父北宣継の干渉を受ける。1699年(元禄12)5月21日没。18才。法名「觀照院殿德眼義公大居士」。
八戸直義の墓碑
八戸直義
生 慶長6年 (1601年)
没 延宝3年 (1675年)
遠野南部家初代当主。1601年(慶長6)新田政広の子として生まれる。八戸氏の女当主清心尼の娘を娶り婿となる。1627年(寛永4)主君南部利直の命により八戸から遠野に移封となり、遠野南部家初代当主となる。1675年(延宝3)1月31日没。75才。法名「大桑院殿鐵洲源船大居士」。
八戸怡顔の墓碑
八戸怡顔
生 寛延4年 (1751年)
没 文化14年 (1817年)
遠野南部家8代当主。1751年(寛延4)8月義顔の次男として生まれる。父の死により1785年(天明5)3月跡を継ぐ。1806年(文化3)松平定信による「集古十種」作成に協力。1817年(文化14)10月6日没。67才。法名「峻德院殿哲勇仁舩大居士」。相続の問題により公式には10月26日に没したことになっている。
七戸直時の墓碑
七戸直時
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直勝の子。隼人正。南部信直の家老。1597年(慶長2)父の隠居により跡を継ぎ、七戸城主となり2千石を領す。(2千300石とも)1614年(慶長19)大坂冬の陣に主君信直に従い参戦。1647年(正保4)2月16日没。法名「瑞龍寺殿証山自公居士」。
石井善太夫の墓碑
石井善太夫
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
奥州南部氏の家臣。1626年(寛永3)南部利直が上洛したときに供奉。同年10月29日京都で没。法名「〇〇正善大禅定門」。墓石は1周忌に息子作十郎の建立による。
南部重直の墓碑
南部重直
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文4年 (1664年)
陸奥盛岡藩2代藩主。1606年(慶長11)3月利直の3男として生まれる。1632年(寛永9)父の死後跡を継ぐ。1636年(寛永13)参勤交代に遅れたため蟄居処分を受ける。1664年(寛文4)9月12日没。59才。法名「即性院殿三峯宗玄大居士」。
南部重信妻の墓碑
南部重信妻
生 不明
没 寛文11年 (1671年)
玉山秀久の娘。南部重信に嫁ぎ、重信との間に、七戸定信、行信、池田綱清妻の2男1女を儲ける。1671年(寛文11)10月14日没。法名「大智院殿心月妙印大姉」。
南部行信妻の墓碑
南部行信妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信の墓碑
南部実信
生 延宝4年 (1676年)
没 元禄13年 (1700年)
1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院)の墓碑
南部利直妻(源秀院)
生 天正9年 (1581年)
没 寛文3年 (1663年)
1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直の墓碑
南部利直
生 天正4年 (1576年)
没 寛永9年 (1632年)
陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎)の墓碑
南部利用(善太郎)
生 享和3年 (1803年)
没 文政4年 (1821年)
陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎)の墓碑
南部利用(吉次郎)
生 文化4年 (1807年)
没 文政4年 (1821年)
1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済の墓碑
南部利済
生 寛政9年 (1797年)
没 文政8年 (1825年)
陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音の墓碑
諏訪頼音
生 延宝8年 (1680年)
没 宝暦元年 (1751年)
1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻の墓碑
諏訪頼水妻
生 永禄10年 (1567年)
没 正保2年 (1645年)
1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水の墓碑
諏訪頼水
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永18年 (1641年)
信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠妻の墓碑
諏訪頼忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
向井氏。諏訪頼忠に嫁ぎ、頼水を生む。1627年(寛永4)9月2日没。法名「理昌院殿玉榮貞珠大姉」。墓石は息子頼水の建立による。
諏訪頼忠の墓碑
諏訪頼忠
生 天文5年 (1536年)
没 慶長11年 (1606年)
1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻の墓碑
諏訪忠誠妻
生 不明
没 天保13年 (1842年)
松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。
諏訪忠虎妻の墓碑
諏訪忠虎妻
生 万治2年 (1659年)
没 元禄16年 (1703年)
1659年(万治2)松平昌勝の娘として生まれる。1687年(貞享4)4月諏訪忠虎に嫁ぎ、右京、盛太郎、忠尋、勝之丞、助蔵の5男を生む。1703年(元禄16)8月4日没。45才。法名「玄珠院殿勝光如璨大姉」。墓石は夫忠虎の建立による。
諏訪忠虎の墓碑
諏訪忠虎
生 寛文3年 (1663年)
没 享保16年 (1731年)
信濃諏訪藩4代藩主。1663年(寛文3)3月忠晴の3男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。赤穂事件で討取られた吉良上野介の孫吉良義周の身柄を預かる。文化人で俳諧を宝井其角に学ぶ。1731年(享保16)7月2日没。69才。法名「洞虎院殿彰住闡幽大居士」。
諏訪忠粛妻の墓碑
諏訪忠粛妻
生 明和8年 (1771年)
没 天保2年 (1831年)
1771年(明和8)松平乗完の娘として生まれる。1785年(天明5)4月諏訪忠粛の側室となり忠恕を生む。1831年(天保2)11月12日没。62才。法名「真操院殿成圓理貞大姉」。墓石は息子忠恕の建立による。
諏訪忠粛の墓碑
諏訪忠粛
生 宝暦13年 (1763年)
没 文政5年 (1822年)
信濃諏訪藩7代藩主。1763年(宝暦13)忠厚の長男として生まれる。1782年(天明元)11月将軍徳川家治に拝謁。同年12月父の隠居により跡を継ぐ。1822年(文政5)6月27日没。60才。 法名「放光院殿普照道徳大居士」。
諏訪忠林妻の墓碑
諏訪忠林妻
生 享保3年 (1718年)
没 寛保3年 (1743年)
1718年(享保3)6月13日信濃諏訪藩4代藩主諏訪忠虎の娘として生まれる。1733年(享保18)11月分家の諏訪忠林に嫁ぐ。忠林との間に忠倫を儲ける。1743年(寛保3)11月7日没。26才。法名「雲臺院殿霊香慈薫大姉」。
諏訪忠林の墓碑
諏訪忠林
生 元禄16年 (1703年)
没 明和7年 (1770年)
信濃諏訪藩5代藩主。1703年(元禄16)頼篤の次男として生まれる。諏訪藩4代藩主忠虎の娘を娶り養子となり、忠虎死後に跡を継ぐ。詩人としての才能が高かったが、藩政改革がうまくいかずに逼迫。1770年(明和7)5月27日没。68才。法名「養賢院殿聖懿諦範大居士」。
諏訪忠晴妻の墓碑
諏訪忠晴妻
生 寛永18年 (1641年)
没 正徳2年 (1712年)
1641年(寛永18)内藤美興の娘として生まれる。内藤忠興の養女として1658年(明暦4)4月諏訪忠晴の正室となる。忠晴との間に、千代熊、萬助、忠虎、女子、女子の3男2女を儲ける。1712年(正徳2)9月9日没。72才。法名「長春院殿空室韶華大姉」。墓石は息子忠虎の建立による。
諏訪忠晴の墓碑
諏訪忠晴
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄8年 (1695年)
信濃諏訪藩3代藩主。1639年(寛永16)8月忠恒の長男として生まれる。1657年(明暦3)父の死により跡を継ぐ。延宝の飢饉には領内に死者が多数でる。1683年(天和3)高島城内にて蟄居中の徳川家康の6男松平忠輝が92才で死去。1695年(元禄8)3月2日没。57才。法名「乾龍院殿雄巌文頴大居士」。
諏訪忠恕の墓碑
諏訪忠恕
生 寛政12年 (1800年)
没 嘉永4年 (1851年)
信濃諏訪藩8代藩主。1800年(寛政12)10月忠粛の長男として生まれる。1815年(文化12)松平定信の娘を娶る。父の隠居により跡を継ぐ。藩政の再建に取り組むも、凶作や百姓一揆により悪化。1851年(嘉永4)5月2日没。52才。法名「泰俊院殿徳海義山大居士」。
諏訪忠恒娘の墓碑
諏訪忠恒娘
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
諏訪忠恒の2女。名は延。生年等詳細不明だが、長野県茅野市の頼岳寺にも墓が現存する。1651年(慶安4)1月24日没。(頼岳寺では1月22日没)法名「盛光院殿渓元怡清大姉」。
諏訪忠恒妻(永高院)の墓碑
諏訪忠恒妻(永高院)
生 不明
没 天和3年 (1683年)
小喜多氏。諏訪忠恒の側室で忠晴を生む。(寛政重修諸家譜では忠晴の母は忠恒正室の稲葉典通の娘月江院となっているが間違い)熱心な日蓮宗信者で諏訪の日蓮宗高国寺を再興する。1683年(天和3)1月1日没。法名「永高院殿天心日誠大姉」。
諏訪忠恒妻(月江院)の墓碑
諏訪忠恒妻(月江院)
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。
諏訪忠恒の墓碑
諏訪忠恒
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦3年 (1657年)
信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠尋の墓碑
諏訪忠尋
生 元禄8年 (1695年)
没 享保2年 (1717年)
1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠厚の墓碑
諏訪忠厚
生 延享3年 (1746年)
没 文化9年 (1812年)
信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠倫の墓碑
諏訪忠倫
生 元文5年 (1740年)
没 延享4年 (1747年)
1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
脇坂安秋妻の墓碑
脇坂安秋妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
諏訪頼久の娘。脇坂安秋に嫁ぐも子は出来ず。父や夫より早く1701年(元禄14)10月6日没。法名「瓊林院殿梅窓貞香大姉」。
南部利義妻の墓碑
南部利義妻
生 文政8年 (1825年)
没 弘化4年 (1847年)
1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
南部利済妻の墓碑
南部利済妻
生 享和3年 (1803年)
没 文政12年 (1829年)
1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
三戸信丞妻の墓碑
三戸信丞妻
生 天明4年 (1784年)
没 文政8年 (1825年)
1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
七戸舜信妻の墓碑
七戸舜信妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
七戸愛信の娘。母は赤沢半左衛門の娘。七戸舜信の妻となり、舜信との間に八戸信有を儲ける。1720年(享保5)8月25日没。法名「龜徳院殿江月玅照大姉」。
七戸舜信の墓碑
七戸舜信
生 天和2年 (1682年)
没 宝永3年 (1706年)
1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
赤井直正妻の墓碑
赤井直正妻
生 不明
没 天正3年 (1575年)
近衛稙家の娘。赤井直正に嫁ぎ1女を儲ける。1575年(天正3)8月21日没。法名「渓江院殿月下笑光大姉」。墓石の施主は夫直正。
赤井直正の墓碑
赤井直正
生 享禄2年 (1529年)
没 天正6年 (1578年)
1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
竹村嘉理の墓碑
竹村嘉理
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永8年 (1631年)
1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
竹村嘉勝の墓碑
竹村嘉勝
生 慶長5年 (1600年)
没 寛永18年 (1641年)
1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
永井直期妻の墓碑
永井直期妻
生 宝永5年 (1708年)
没 享保19年 (1734年)
1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
武田勝頼の墓碑
武田勝頼
生 天文15年 (1546年)
没 天正10年 (1582年)
1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
武田信玄の墓碑
武田信玄
生 大永元年 (1521年)
没 元亀4年 (1573年)
1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
桜庭統弧妻の墓碑
桜庭統弧妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
柳沢信鴻妻の墓碑
柳沢信鴻妻
生 不明
没 天明5年 (1785年)
村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
柳沢信鴻の墓碑
柳沢信鴻
生 享保9年 (1724年)
没 寛政4年 (1792年)
1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
松平清照妻の墓碑
松平清照妻
生 不明
没 寛保3年 (1743年)
安西意水の娘。松平清照に嫁ぎ、松平直常妻、牧野成春妻、忠雅の1男2女を儲ける。1743年(寛保3)10月25日没。法名「妙薫院殿戒雲慧香大姉」。
松平清照の墓碑
松平清照
生 承応元年 (1652年)
没 貞享3年 (1686年)
1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。
松平忠隆の墓碑
松平忠隆
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永9年 (1632年)
美濃加納藩3代藩主。1608年(慶長13)忠政の長男として生まれる。飛騨守。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。幼年のため祖父奥平信昌が後見人となり、信昌死後は祖母亀姫(徳川家康長女)が後見人となる。祖母亀姫死去のときは忠隆が喪主を務めたが、実際は叔父の松平忠明が仕切る。1632年(寛永9)1月5日没。25才。法名「實相院殿大林宗功大居士」。
松平忠翼妻の墓碑
松平忠翼妻
生 天明5年 (1785年)
没 文政3年 (1820年)
1785年(天明5)松平忠啓の娘として生まれる。名は周姫、国姫。松平忠和の養女として松平忠翼に嫁ぐ。1801年(享和元)6月長男忠堯を儲ける。1820年(文政3)1月10日没。36才。法名「顯徳院殿明禋成裕大姉」。
松平忠翼の墓碑
松平忠翼
生 安永9年 (1780年)
没 文政4年 (1821年)
奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩6代藩主。1780年(安永9)11月井伊直朗の次男として生まれる。松平忠和の養女を娶り、忠和の養子となる。1802年(享和2)忠和の死により家督を継ぐ。1821年(文政4)3月20日没。42才。法名「文明院殿厳恭道健大居士」。
松平忠彦妻の墓碑
松平忠彦妻
生 文化10年 (1813年)
没 万延元年 (1860年)
1813年(文化10)池田斉稷の娘として生まれる。名は繡子。はじめ池田斉衆と婚約するも早世。のち松平忠彦に嫁ぐ。1860年(万延元)閏3月27日没。48才。法名「勝徳院殿天桂壽考尼大姉」。
奥平昌鹿の墓碑
奥平昌鹿
生 延享元年 (1744年)
没 安永9年 (1780年)
豊前中津藩3代藩主。1744年(延享元)7月昌敦の長男として生まれる。1758年(宝暦8)父の死により跡を継ぐ。蘭学やオランダ語に夢中で職務怠慢な藩医前野良沢を庇い、藩内に蘭学を奨励。1780年(安永9)7月24日没。37才。法名「興隆院殿悟渓道本大居士」。
奥平昌高妻の墓碑
奥平昌高妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
奥平昌男の娘。島津重豪の次男昌高に嫁ぎ、昌高は奥平家の婿養子となる。昌高との間に子供が出来た記録はない。1801年(享和元)6月26日没。法名「本明院殿香室妙華大姉」。
奥平昌高の墓碑
奥平昌高
生 天明元年 (1781年)
没 安政2年 (1855年)
豊前中津藩5代藩主。1781年(天明元)11月島津重豪の次男として生まれる。1786年(天明6年)9月奥平昌男の末期養子として家督を継ぐ。1791年(寛政3)10月将軍徳川家斉に拝謁。実父の影響で蘭学が好きで自らオランダ語を学ぶ。シーボルトとも何度か交流している。1855年(安政2)6月10日没。75才。法名「龍徳院殿無方道応大居士」。
奥平昌章妻の墓碑
奥平昌章妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
奥平昌能の嫡女。五島盛勝の子昌章を婿として婚姻。昌章との間に、秋元喬房妻の1女を儲ける。1685年(貞享2)6月3日没。法名「真珠院殿圓室妙智大姉」。
奥平昌章の墓碑
奥平昌章
生 寛文8年 (1668年)
没 元禄8年 (1695年)
下野宇都宮藩主。1668年(寛文8)3月五島盛勝の次男として生まれる。1672年(寛文12)に山形藩主奥平昌能の末期養子となり、出羽山形藩2代藩主となる。1685年(貞享2)6月宇都宮藩に移封。1695年(元禄8)4月8日没。28才。法名「自性院殿真凉道如大居士」。
奥平昌男の墓碑
奥平昌男
生 宝暦13年 (1763年)
没 天明6年 (1786年)
豊前中津藩4代藩主。1763年(宝暦13)6月昌鹿の長男として生まれる。1780年(安永9)父の死により家督を継ぐ。天明の大飢饉や家臣に実権を奪われるなどで失意のまま1786年(天明6)3月21日没。24才。法名「春徳院殿何屋道云大居士」。
奥平昌猷の墓碑
奥平昌猷
生 文化10年 (1813年)
没 天保13年 (1842年)
豊前中津藩7代藩主。1813年(文化10)3月昌高の5男として生まれる。兄昌暢が没したため1833年(天保4)1月跡を継ぐ。家臣を登用して藩政改革を行う。1842年(天保13)9月17日没。30才。法名「潜竜院殿大淵道珍大居士」。
奥平昌暢の墓碑
奥平昌暢
生 文化6年 (1809年)
没 天保3年 (1832年)
豊前中津藩6代藩主。1809年(文化6)1月昌高の次男として生まれる。1825年(文政8)5月父の隠居により家督を継ぐ。1832年(天保3)11月30日没。24才。法名「探源院殿心厳道轍大居士」。
奥平昌敦の墓碑
奥平昌敦
生 享保9年 (1724年)
没 宝暦8年 (1758年)
豊前中津藩2代藩主。1724年(享保9)4月昌成の次男として生まれる。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。目安箱の設置や農政改革など藩政改革に尽力。1758年(宝暦8)9月26日没。35才。法名「方廣院殿雲峯道端大居士」。
奥平昌成の墓碑
奥平昌成
生 元禄7年 (1694年)
没 延享3年 (1746年)
豊前中津藩初代藩主。1694年(元禄7)11月昌章の次男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により2才で下野宇都宮藩主となる。1697年(元禄10)宮津藩へ移封。1703年(元禄16)9月将軍徳川綱吉に拝謁。1717年(享保2)2月1万石加増で豊前中津藩10万石に移封。1746年(延享3)11月14日没。53才。法名「龍源院殿徳翁道見大居士」。
南部重信の墓碑
南部重信
生 元和2年 (1616年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩3代藩主。1616年(元和2)5月利直の5男として生まれる。七戸家を継いだが、1664年(寛文4)盛岡藩主の兄重直が子無く没したため跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月家督を長男行信に譲って隠居する。1702年(元禄15)6月18日没。87才。法名「大源院殿雲山宗祥大居士」。
南部通信の墓碑
南部通信
生 寛文13年 (1673年)
没 享保元年 (1716年)
陸奥八戸藩3代藩主。1673年(寛文13)2月陸奥盛岡藩3代藩主重信の子として生まれる。従兄の直政の末期養子となり陸奥八戸藩主となる。教養が高く、藩の改革をして発展に貢献。1716年(享保元)8月24日没。44才。法名「三玄院殿法林徹證大居士」。
南部行信の墓碑
南部行信
生 寛永19年 (1642年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩4代藩主。1642年(寛永19)8月重信の長男として生まれる。1664年(寛文6)4月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月父の隠居により家督を継ぐ。砲術と馬術に優れ、儒教に深く傾倒。1702年(元禄15)10月11日没。61才。法名「徳雲院殿玉翁宗珊大居士」。
南部義堯の墓碑
南部義堯
生 寛政6年 (1794年)
没 文政13年 (1830年)
遠野南部家9代当主。1794年(寛政6)八戸義応の子として生まれる。遠野南部家の八戸怡顔が没すると跡を継ぐ。1829年(文政12)より南部姓となる。藩主南部利用(善太郎)、利済がそれぞれ将軍徳川家斉に拝謁した際に供をする。1830年(文政13)5月3日没。37才。法名「天真院殿覺實英性大居士」。
南部政直の墓碑
南部政直
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永元年 (1624年)
1599年(慶長4)利直の次男として生まれる。1613年(慶長18)花巻城主となる。南部家の重臣柏山明助を毒殺する際、明助を騙すため自らも毒を飲んで死亡。1624年(寛永元)10月23日没。26才。法名「海潮院殿天巌宗青大居士」。墓石は1周忌に建立。
南部広信の墓碑
南部広信
生 宝永3年 (1706年)
没 寛保元年 (1741年)
陸奥八戸藩4代藩主。1706年(宝永3)通信の長男として生まれる。1716年(享保元)10月父の死により跡を継ぐ。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)4月29日没。相続の都合で幕府には5月2日没としている。36才。法名「正見院殿覺雲宗智大居士」。
南部利雄の墓碑
南部利雄
生 享保10年 (1725年)
没 安永8年 (1779年)
陸奥盛岡藩8代藩主。1725年(享保10)利幹の長男として生まれる。1738年(元文3)10月南部利視の養子となる。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)5月利視の死により家督を継ぐ。宝暦の飢饉などにより財政が圧迫。1779年(安永8)12月11日没。55才。法名「養源院殿機翁宗鑑大居士」。
南部利謹の墓碑
南部利謹
生 延享3年 (1746年)
没 文化11年 (1814年)
1746年(延享3)利雄の長男として生まれる。1761年(宝暦11)2月将軍徳川家治に拝謁。素行に問題があり1774年(安永3)11月廃嫡となる。1814年(文化11)11月19日没。69才。法名「晋雲院殿天山恵祐大居士」。
南部利視の墓碑
南部利視
生 宝永5年 (1708年)
没 宝暦2年 (1752年)
陸奥盛岡藩7代藩主。1708年(宝永5)信恩の次男として生まれる。父5代藩主信恩の死後生まれたため、叔父利幹が6代藩主となる。のちに家督を継ぎ、8代将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)4月4日没。45才。法名「天量院殿宣山宗明大居士」。
南部利正の墓碑
南部利正
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥盛岡藩9代藩主。1752年(宝暦2)3月利視の6男として生まれる。始め南部信起の養子となる。1770年(明和7)4月将軍徳川家治に拝謁。1774年(安永3)12月盛岡藩南部利雄の養子となる。同月に再度徳川家治に拝謁。1780年(安永9)2月利雄の死により跡を継ぐ。1784年(天明4)5月25日没。33才。法名「義徳院殿南岳宗薫大居士」。
南部利敬の墓碑
南部利敬
生 天明2年 (1782年)
没 文政3年 (1820年)
陸奥盛岡藩10代藩主。1782年(天明2)利正の次男として生まれる。1784年(天明4)7月父の死により2才で家督を継ぐ。年齢を誤魔化し、幕府には1779年(安永8)生まれと届ける。1795年(寛政7)2月将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)6月3日没。39才。法名「神鼎院殿龍嶽宗文大居士」。
南部利康の墓碑
南部利康
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永8年 (1631年)
1608年(慶長13)利直の4男として生まれる。1626年(寛永3)に南直義の跡を継ぎ浅水城主となる。1631年(寛永8)11月21日没。24才。法名「龍巖薀公大禅定門」。
南部利幹の墓碑
南部利幹
生 元禄2年 (1689年)
没 享保10年 (1725年)
陸奥盛岡藩6代藩主。1689年(元禄2)行信の4男として生まれる。1706年(宝永3)1月兄の藩主信恩が死により、末期養子として家督を継ぐ。同年1月将軍徳川綱吉に拝謁。1725年(享保10)6月4日没。37才。法名「靈徳院殿雄山宗英大居士」。
南部信興の墓碑
南部信興
生 享保8年 (1723年)
没 安永2年 (1773年)
陸奥八戸藩5代藩主。1723年(享保8)広信の長男として生まれる。1740年(元文5)将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)父の死により家督を継ぐ。1773年(安永2)8月13日没。51才。法名「龍津院殿珠岩宗滉大居士」。
南部信房の墓碑
南部信房
生 明和2年 (1765年)
没 天保6年 (1835年)
 陸奥八戸藩7代藩主。1765年(明和2)6月信依の長男として生まれる。1780年(安永9)11月将軍徳川家治に拝謁。1781年(天明元)2月父の死により跡を継ぐ。1835年(天保6)5月12日没。71才。法名「仙溪院殿仁道宗壽大居士」。
南部信恩妻の墓碑
南部信恩妻
生 不明
没 享保20年 (1735年)
黒田伝兵衛定治の娘。名は康。南部信恩に嫁ぎ、昆(今)姫、女子、利視の1男2女を儲ける。1735年(享保20)5月29日没。法名「浄智院殿南窻妙薫大姉」。墓石は6月29日とある。
南部信恩の墓碑
南部信恩
生 延宝6年 (1678年)
没 宝永4年 (1707年)
陸奥盛岡藩5代藩主。1678年(延宝6)9月行信の3男として生まれる。1701年(元禄14)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1702年(元禄15)11月父の死により家督を継ぐ。1707年(宝永4)12月8日没。30才。法名「靈巖院殿了因義方大居士」。
南部信依の墓碑
南部信依
生 延享4年 (1747年)
没 天明元年 (1781年)
陸奥八戸藩6代藩主。1747年(延享4)信興の長男として生まれる。1762(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。1765年(明和2)父の隠居により跡を継ぐ。藩内に武芸を奨励。1781年(天明元)6月7日没。35才。法名「寶性院殿禪岩宗安大居士」。
北信愛の墓碑
北信愛
生 大永3年 (1523年)
没 慶長18年 (1613年)
1523年(大永3)致愛の嫡男として生まれる。南部氏に仕え家老職。1600年(慶長5)和賀忠親の一揆勢により居城花巻城を攻められるも撃退。1613年(慶長18)8月17日没。91才。法名「萬献院殿節叟忠公大居士」。
八戸義応の墓碑
八戸義応
生 宝暦10年 (1760年)
没 寛政7年 (1795年)
1760年(宝暦10)信彦の5男として生まれる。1786年(天明6)3月八戸怡顔の養子となる。怡顔の跡を継ぐことなく、1795年(寛政7)8月15日没。36才。法名「俊宗院殿英山量雄大居士」。
八戸竹之助の墓碑
八戸竹之助
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
八戸内記家2代。附馬牛(岩手県遠野市)領主。八戸義也(義長弟)の子。義也が1683年(天和3)没すると跡を継ぐ。1684年(貞享元)8月19日早世。法名「〇巖幻陽」。
八戸直義妻の墓碑
八戸直義妻
生 不明
没 万治4年 (1661年)
八戸直政の次女。母は清心尼。名は千代。八戸直義に嫁ぎ、義長を儲ける。1661年(万治4)7月25日没。法名「松光院殿天英馨香大禅定尼」。墓石施主は息子三五郎義長。
八戸利戡妻の墓碑
八戸利戡妻
生 延宝4年 (1676年)
没 享保4年 (1719年)
1676年(延宝4)南部重信の10女として生まれる。1690年(元禄3)2月11日八戸義倫に嫁ぐ。義倫没後、1699年(元禄12)7月山田(八戸)利戡と再婚。1719年(享保4)8月28日没。44才。法名「常穩院殿妙體心公大禪定尼」。
八戸信有妻の墓碑
八戸信有妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
山田利仲の長女。八戸利戡の妹。八戸信有に嫁ぎ、信彦を儲ける。1720年(享保5)7月29日没。法名「線針院殿密繡星公大禪定尼」。
八戸信有の墓碑
八戸信有
生 元禄15年 (1702年)
没 享保20年 (1735年)
遠野南部家5代当主。1702年(元禄15)5月七戸舜信の長男として生まれる。1712年(正徳2)八戸利戡の養子となり利戡の娘と婚約。1719年(享保4)12月藩主南部利幹の代理で将軍への年賀のため江戸に上府。1735年(享保20)6月4日没。34才。法名「定涼院殿仁君智通大居士」。
八戸信彦の墓碑
八戸信彦
生 享保5年 (1720年)
没 安永3年 (1774年)
遠野南部家6代当主。1720年(享保5)4月信有の長男として生まれる。父の死により1735年(享保20)6月跡を継ぐ。1745年(延享2)12月、前年に起きた遠野屋敷の火災の責任を取り隠居。1774年(安永3)7月11日没。55才。法名「霊應院殿憩無詠歸入道大居士」。
奥平信昌妻の墓碑
奥平信昌妻
生 永禄3年 (1560年)
没 寛永2年 (1625年)
1560年(永禄3)6月4日徳川家康の長女として駿府で生まれる。母は築山殿。名は亀姫。1576年(天正4)7月長篠の戦いのときに長篠城を守り通した奥平信昌に嫁ぐ。信昌の間に、家昌、松平家治、忠政、松平忠明、大久保忠常室の4男1女を儲ける。性格は母に似て強かったらしく、本多正純を失脚したのは亀姫が黒幕とされている。1625年(寛永2)5月27日没。66才。法名「盛徳院殿香林慈雲大姉」。
遠山長景の墓碑
遠山長景
生 天正12年 (1584年)
没 正保2年 (1645年)
1584年(天正12)方景の次男として生まれる。1615年(元和元)大坂夏の陣に参戦。1619年(元和5)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1638年(寛永15)9月跡を継ぐ。1645年(正保2)6月8日没。62才。法名「玄忠」。
遠山伊次の墓碑
遠山伊次
生 寛永3年 (1626年)
没 延宝6年 (1678年)
1626年(寛永3)長景の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1645年(正保2)12月跡を継ぐ。1678年(延宝6)8月3日没。53才。法名「大梁院殿」。
水野忠良の墓碑
水野忠良
生 天保5年 (1834年)
没 安政5年 (1858年)
駿河沼津藩5代藩主。1834年(天保5)8月忠義の5男として生まれる。1844年(天保15)兄の忠武の死により家督を継ぐ。外国船出没による沿岸警備に務めたり、旱魃などにより財政は逼迫。1858年(安政5)5月3日没。25才。法名「常徳院泰譽安然義道大居士」。
水野忠職妻(青陽院)の墓碑
水野忠職妻(青陽院)
生 元和2年 (1616年)
没 貞享3年 (1686年)
1616年(元和2)中川久盛の娘として生まれる。1635年(寛永12)5月水野忠職に嫁ぎ、某の1男を儲ける。1686年(貞享3)12月13日没。71才。法名「青陽院殿榮譽天光春良大法尼」。墓石は生前の1662年(寛文2)2月の建立による。水野忠直の生母とされているが、実は昇仙院殿が忠直実母である。
水野忠職妻(昇仙院)の墓碑
水野忠職妻(昇仙院)
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
信濃松本藩3代藩主水野忠直の母。1692年(元禄5)8月13日没。法名「昇仙院殿長譽映月妙允大姉」。忠直の母は中川久盛の娘(青陽院殿)とされているが、水野家菩提寺の松本市玄向寺は昇仙院殿を忠直母としていて墓石も残る。墓石の位置や大きさから身分の低い女性と思われ、中川久盛の娘(青陽院殿)を忠直の生母として幕府に届けたと思われる。墓石は水野忠直の建立による。
水野忠職の墓碑
水野忠職
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文8年 (1668年)
信濃松本藩2代藩主。1613年(慶長18)9月忠清の次男として生まれる。父の死後1647年(正保4)8月跡を継ぐ。江戸城の石垣普請の他、大坂城代を何回か務める。1668年(寛文8)6月26日没。56才。法名「道樹院信譽上昌玄向大居士」。
水野忠清妻の墓碑
水野忠清妻
生 天正5年 (1577年)
没 寛文10年 (1670年)
1577年(天正5)生まれ。小林氏の出で、前田利家の養女となり水野忠清の正室となる。忠清との間に忠次、京極高三室、山内忠直室、忠職、祖活の3男2女を儲ける。1670年(寛文10)4月2日没。94才。法名「福壽院殿性宣妙演尼大姉」。
水野忠清の墓碑
水野忠清
生 天正10年 (1582年)
没 正保4年 (1647年)
信濃松本藩初代藩主。1582年(天正10)忠重の4男として生まれる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いに徳川家康の命により扈従。大坂の両陣に参戦。夏の陣のときに青山忠俊と軍功を巡って争い閉門。家康の没する直前に閉門を解かれる。その後、加増を重ね、1642年(寛永19)に信濃松本にて7万石となる。1647年(正保4)5月28日没。66才。法名「真珠院殿廓譽全忠大居士」。
水野忠幹の墓碑
水野忠幹
生 元禄12年 (1699年)
没 享保8年 (1723年)
信濃松本藩5代藩主。1699年(元禄12)忠周の長男として生まれる。1709年(宝永6)将軍徳川家宣に拝謁。1718年(享保3)父が死去すると家督を継ぐ。目安箱を設置したり藩の財政改革に努める。1723年(享保8)5月10日没。25才。法名「徳本院殿心譽仁光大居士」。
水野元知の墓碑
水野元知
生 正保元年 (1644年)
没 延宝8年 (1680年)
上野安中藩2代藩主。1644年(正保元)元綱の次男として生まれる。1664年(寛文4)10月父の隠居により跡を継ぐ。1667年(寛文7)5月発狂して妻を斬りつけたために改易となる。1680年(延宝8)9月没。37才。法名「大遍院殿碧雲冲虚大居士」。
森川重俊の墓碑
森川重俊
生 天正12年 (1584年)
没 寛永9年 (1632年)
下総生実藩初代藩主。1584年(天正12)氏俊の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに従う。大久保忠隣の改易に連座して改易となるも、大坂の陣で活躍して復帰。1631年(寛永8)には老中となる。1632年(寛永9)1月24日に秀忠が亡くなると翌日25日に殉死。49才。法名「重俊院殿活國正英居士」。
本多純政の墓碑
本多純政
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
有馬直純の次男。1641年(寛永18)父より日向本庄にて采地を分け与えられる。同年8月将軍徳川家光に拝謁。1644年(正保元)病により領地を返上して京都に隠棲。1655年(明暦元)12月27日没。法名「崇福院殿僧譽還愚居士」。
有馬直純妻の墓碑
有馬直純妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶安2年 (1649年)
1595年(文禄4)本多忠政の娘として生まれる。母は松平信康の娘。名は国姫。曽祖父徳川家康の養女として堀忠俊に嫁ぐ。忠俊が改易後には、有馬直純に嫁ぐ。直純の間に、康純、本多政勝室、本多政勝養妹、秋元富朝室、純政の2男3女を儲ける。1649年(慶安2)2月29日没。55才。法名「榮壽院殿長譽秋岳大信尼」。
有馬康純妻の墓碑
有馬康純妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
阿部正澄の娘。阿部忠秋の養女として有馬康純に嫁ぐ。康純との間に、清純を儲ける。1645年(正保2)10月28日没。法名「妙禅院殿覚園日巖信女」。墓石は康純の建立による。
戸川安宣妻の墓碑
戸川安宣妻
生 承応2年 (1653年)
没 寛文6年 (1666年)
1653年(承応2)有馬康純の4女として生まれる。戸川安宣に嫁ぐ。1666年(寛文6)9月1日没。14才。法名「寶林院殿玉朗妙榮大姉」。墓石施主は父康純。
徳川頼宣の墓碑
徳川頼宣
生 慶長7年 (1602年)
没 寛文11年 (1671年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1602年(慶長7)3月家康の10男として生まれる。1603年(慶長8)常陸水戸にて20万石を与えられるが2才のため駿府の家康のもとで過ごす。1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。1619年(元和5)紀伊和歌山藩主となる。1671年(寛文11)1月10日没。70才。法名「南龍院殿顗永天晃大居士」。
小笠原長章妻の墓碑
小笠原長章妻
生 不明
没 寛文3年 (1663年)
水野忠職の次女。小笠原長章に嫁ぐ。1663年(寛文3)7月17日没。法名「陽玄院殿松譽華貞單信大姉」。
多田満仲の墓碑
多田満仲
生 不明
没 長徳3年 (997年)
源経基の長男として生まれる。969年(安和2)の安和の変では源高明の謀反を密告。藤原兼家のもと鎮守府将軍にまで出世。987年(永延元)出家。997年(長徳3)8月27日没。法名「覚信」。墓石には「右大臣源朝臣 仲光敬白 満仲法名覚信 天禄元年八月廿七日」とあることから、後裔の源仲光の建立であることがわかる。
北条氏貞の墓碑
北条氏貞
生 元禄16年 (1703年)
没 宝暦8年 (1758年)
河内狭山藩6代藩主。1703年(元禄16)氏朝の長男として生まれる。1714年(正徳4)8月将軍徳川家継に拝謁。1735年(享保20)父の死後家督を継ぐ。1758年(宝暦8)4月27日没。56才。法名「廣覚院殿信叟義堅大居士」。
北条氏直の墓碑
北条氏直
生 永禄5年 (1562年)
没 天正19年 (1591年)
1562年(永禄5)氏政の子として生まれる。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)氏政の隠居とともに家督を継ぐ。1582年(天正10)神流川の戦いで滝川一益を破り、甲斐国に進出。同地で徳川家康と長期間の合戦となるも和睦となり、家康の娘督姫が氏直に嫁ぐ。1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原合戦により敗北。氏直は家康の婿ということで命は助けられ高野山に入り謹慎。1591年(天正19)には赦免されるも同年11月4日没。30才。法名「松巌院殿大圓徹公大居士」。
北条氏朝の墓碑
北条氏朝
生 寛文9年 (1669年)
没 享保20年 (1735年)
河内狭山藩5代藩主。1669年(寛文9)氏利の5男として生まれる。1683年(天和3)3月北条氏治の養子となる。同年閏5月将軍徳川綱吉に拝謁。氏治の死により1696年(元禄9)7月跡を継ぐ。1735年(享保20)9月9日没。67才。法名「圓成院殿即証元領大居士」。
北条氏昉の墓碑
北条氏昉
生 宝暦10年 (1760年)
没 文化8年 (1811年)
河内狭山藩8代藩主。1760年(宝暦10)氏彦の長男として生まれる。1769年(明和6)父の死により家督を継ぐ。百姓一揆や天明の大飢饉で財政は悪化。1811年(文化8)1月16日没。52才。法名「願真院殿養叟宗安大居士」。
北条氏政の墓碑
北条氏政
生 天文7年 (1538年)
没 天正18年 (1590年)
1538年(天文7)氏康の次男として生まれる。小田原北条氏第4代目当主。妻は武田信玄の娘黄梅院。豊臣秀吉の上洛命令を無視したため、合戦となるも圧倒的な大軍の前に屈する。降伏後1590年(天正18)7月11日弟氏照と共に切腹。53才。法名「慈雲院殿勝岩傑公大居士」。
北条氏彦の墓碑
北条氏彦
生 寛保2年 (1742年)
没 明和6年 (1769年)
河内狭山藩7代藩主。1742年(寛保2)氏貞の長男として生まれる。父の死により1758年(宝暦8)6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家重に拝謁。1769年(明和6)4月27日没。28才。法名「琰光院殿鐡叟紹心大居士」。
北条氏喬の墓碑
北条氏喬
生 天明5年 (1785年)
没 弘化3年 (1846年)
河内狭山藩9代藩主。1785年(天明5)氏昉の長男として生まれる。1801年(享和元)10月父の隠居により家督を継ぐ。1837年(天保8)2月大塩平八郎の乱のときは大坂城の警備を務める。1846年(弘化3)7月8日没。62才。法名「敬雲院殿恭厳義良大居士」。