南部行信妻 生 不明没 貞享元年 (1684年) 毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信 生 延宝4年 (1676年)没 元禄13年 (1700年) 1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院) 生 天正9年 (1581年)没 寛文3年 (1663年) 1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直 生 天正4年 (1576年)没 寛永9年 (1632年) 陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎) 生 享和3年 (1803年)没 文政4年 (1821年) 陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎) 生 文化4年 (1807年)没 文政4年 (1821年) 1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済 生 寛政9年 (1797年)没 文政8年 (1825年) 陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音 生 延宝8年 (1680年)没 宝暦元年 (1751年) 1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻 生 永禄10年 (1567年)没 正保2年 (1645年) 1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水 生 元亀元年 (1570年)没 寛永18年 (1641年) 信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠 生 天文5年 (1536年)没 慶長11年 (1606年) 1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻 生 不明没 天保13年 (1842年) 松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。
諏訪忠虎妻 生 万治2年 (1659年)没 元禄16年 (1703年) 1659年(万治2)松平昌勝の娘として生まれる。1687年(貞享4)4月諏訪忠虎に嫁ぎ、右京、盛太郎、忠尋、勝之丞、助蔵の5男を生む。1703年(元禄16)8月4日没。45才。法名「玄珠院殿勝光如璨大姉」。墓石は夫忠虎の建立による。
諏訪忠虎 生 寛文3年 (1663年)没 享保16年 (1731年) 信濃諏訪藩4代藩主。1663年(寛文3)3月忠晴の3男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。赤穂事件で討取られた吉良上野介の孫吉良義周の身柄を預かる。文化人で俳諧を宝井其角に学ぶ。1731年(享保16)7月2日没。69才。法名「洞虎院殿彰住闡幽大居士」。
諏訪忠粛妻 生 明和8年 (1771年)没 天保2年 (1831年) 1771年(明和8)松平乗完の娘として生まれる。1785年(天明5)4月諏訪忠粛の側室となり忠恕を生む。1831年(天保2)11月12日没。62才。法名「真操院殿成圓理貞大姉」。墓石は息子忠恕の建立による。
諏訪忠粛 生 宝暦13年 (1763年)没 文政5年 (1822年) 信濃諏訪藩7代藩主。1763年(宝暦13)忠厚の長男として生まれる。1782年(天明元)11月将軍徳川家治に拝謁。同年12月父の隠居により跡を継ぐ。1822年(文政5)6月27日没。60才。 法名「放光院殿普照道徳大居士」。
諏訪忠林妻 生 享保3年 (1718年)没 寛保3年 (1743年) 1718年(享保3)6月13日信濃諏訪藩4代藩主諏訪忠虎の娘として生まれる。1733年(享保18)11月分家の諏訪忠林に嫁ぐ。忠林との間に忠倫を儲ける。1743年(寛保3)11月7日没。26才。法名「雲臺院殿霊香慈薫大姉」。
諏訪忠林 生 元禄16年 (1703年)没 明和7年 (1770年) 信濃諏訪藩5代藩主。1703年(元禄16)頼篤の次男として生まれる。諏訪藩4代藩主忠虎の娘を娶り養子となり、忠虎死後に跡を継ぐ。詩人としての才能が高かったが、藩政改革がうまくいかずに逼迫。1770年(明和7)5月27日没。68才。法名「養賢院殿聖懿諦範大居士」。
諏訪忠晴妻 生 寛永18年 (1641年)没 正徳2年 (1712年) 1641年(寛永18)内藤美興の娘として生まれる。内藤忠興の養女として1658年(明暦4)4月諏訪忠晴の正室となる。忠晴との間に、千代熊、萬助、忠虎、女子、女子の3男2女を儲ける。1712年(正徳2)9月9日没。72才。法名「長春院殿空室韶華大姉」。墓石は息子忠虎の建立による。
諏訪忠晴 生 寛永16年 (1639年)没 元禄8年 (1695年) 信濃諏訪藩3代藩主。1639年(寛永16)8月忠恒の長男として生まれる。1657年(明暦3)父の死により跡を継ぐ。延宝の飢饉には領内に死者が多数でる。1683年(天和3)高島城内にて蟄居中の徳川家康の6男松平忠輝が92才で死去。1695年(元禄8)3月2日没。57才。法名「乾龍院殿雄巌文頴大居士」。
諏訪忠恕 生 寛政12年 (1800年)没 嘉永4年 (1851年) 信濃諏訪藩8代藩主。1800年(寛政12)10月忠粛の長男として生まれる。1815年(文化12)松平定信の娘を娶る。父の隠居により跡を継ぐ。藩政の再建に取り組むも、凶作や百姓一揆により悪化。1851年(嘉永4)5月2日没。52才。法名「泰俊院殿徳海義山大居士」。
諏訪忠恒娘 生 不明没 慶安4年 (1651年) 諏訪忠恒の2女。名は延。生年等詳細不明だが、長野県茅野市の頼岳寺にも墓が現存する。1651年(慶安4)1月24日没。(頼岳寺では1月22日没)法名「盛光院殿渓元怡清大姉」。
諏訪忠恒妻(永高院) 生 不明没 天和3年 (1683年) 小喜多氏。諏訪忠恒の側室で忠晴を生む。(寛政重修諸家譜では忠晴の母は忠恒正室の稲葉典通の娘月江院となっているが間違い)熱心な日蓮宗信者で諏訪の日蓮宗高国寺を再興する。1683年(天和3)1月1日没。法名「永高院殿天心日誠大姉」。
諏訪忠恒妻(月江院) 生 不明没 寛文9年 (1669年) 稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。
諏訪忠恒 生 文禄4年 (1595年)没 明暦3年 (1657年) 信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠尋 生 元禄8年 (1695年)没 享保2年 (1717年) 1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠厚 生 延享3年 (1746年)没 文化9年 (1812年) 信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠倫 生 元文5年 (1740年)没 延享4年 (1747年) 1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
南部利義妻 生 文政8年 (1825年)没 弘化4年 (1847年) 1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
南部利済妻 生 享和3年 (1803年)没 文政12年 (1829年) 1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
三戸信丞妻 生 天明4年 (1784年)没 文政8年 (1825年) 1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
七戸舜信 生 天和2年 (1682年)没 宝永3年 (1706年) 1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
赤井直正 生 享禄2年 (1529年)没 天正6年 (1578年) 1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
竹村嘉理 生 永禄9年 (1566年)没 寛永8年 (1631年) 1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
竹村嘉勝 生 慶長5年 (1600年)没 寛永18年 (1641年) 1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
永井直期妻 生 宝永5年 (1708年)没 享保19年 (1734年) 1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
武田勝頼 生 天文15年 (1546年)没 天正10年 (1582年) 1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
武田信玄 生 大永元年 (1521年)没 元亀4年 (1573年) 1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
桜庭統弧妻 生 不明没 享保5年 (1720年) 南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
柳沢信鴻妻 生 不明没 天明5年 (1785年) 村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
柳沢信鴻 生 享保9年 (1724年)没 寛政4年 (1792年) 1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
松平清照 生 承応元年 (1652年)没 貞享3年 (1686年) 1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。
松平忠隆 生 慶長13年 (1608年)没 寛永9年 (1632年) 美濃加納藩3代藩主。1608年(慶長13)忠政の長男として生まれる。飛騨守。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。幼年のため祖父奥平信昌が後見人となり、信昌死後は祖母亀姫(徳川家康長女)が後見人となる。祖母亀姫死去のときは忠隆が喪主を務めたが、実際は叔父の松平忠明が仕切る。1632年(寛永9)1月5日没。25才。法名「實相院殿大林宗功大居士」。
松平忠翼妻 生 天明5年 (1785年)没 文政3年 (1820年) 1785年(天明5)松平忠啓の娘として生まれる。名は周姫、国姫。松平忠和の養女として松平忠翼に嫁ぐ。1801年(享和元)6月長男忠堯を儲ける。1820年(文政3)1月10日没。36才。法名「顯徳院殿明禋成裕大姉」。
松平忠翼 生 安永9年 (1780年)没 文政4年 (1821年) 奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩6代藩主。1780年(安永9)11月井伊直朗の次男として生まれる。松平忠和の養女を娶り、忠和の養子となる。1802年(享和2)忠和の死により家督を継ぐ。1821年(文政4)3月20日没。42才。法名「文明院殿厳恭道健大居士」。
松平忠彦妻 生 文化10年 (1813年)没 万延元年 (1860年) 1813年(文化10)池田斉稷の娘として生まれる。名は繡子。はじめ池田斉衆と婚約するも早世。のち松平忠彦に嫁ぐ。1860年(万延元)閏3月27日没。48才。法名「勝徳院殿天桂壽考尼大姉」。
奥平昌鹿 生 延享元年 (1744年)没 安永9年 (1780年) 豊前中津藩3代藩主。1744年(延享元)7月昌敦の長男として生まれる。1758年(宝暦8)父の死により跡を継ぐ。蘭学やオランダ語に夢中で職務怠慢な藩医前野良沢を庇い、藩内に蘭学を奨励。1780年(安永9)7月24日没。37才。法名「興隆院殿悟渓道本大居士」。
奥平昌高妻 生 不明没 享和元年 (1801年) 奥平昌男の娘。島津重豪の次男昌高に嫁ぎ、昌高は奥平家の婿養子となる。昌高との間に子供が出来た記録はない。1801年(享和元)6月26日没。法名「本明院殿香室妙華大姉」。
奥平昌高 生 天明元年 (1781年)没 安政2年 (1855年) 豊前中津藩5代藩主。1781年(天明元)11月島津重豪の次男として生まれる。1786年(天明6年)9月奥平昌男の末期養子として家督を継ぐ。1791年(寛政3)10月将軍徳川家斉に拝謁。実父の影響で蘭学が好きで自らオランダ語を学ぶ。シーボルトとも何度か交流している。1855年(安政2)6月10日没。75才。法名「龍徳院殿無方道応大居士」。
奥平昌章 生 寛文8年 (1668年)没 元禄8年 (1695年) 下野宇都宮藩主。1668年(寛文8)3月五島盛勝の次男として生まれる。1672年(寛文12)に山形藩主奥平昌能の末期養子となり、出羽山形藩2代藩主となる。1685年(貞享2)6月宇都宮藩に移封。1695年(元禄8)4月8日没。28才。法名「自性院殿真凉道如大居士」。
奥平昌男 生 宝暦13年 (1763年)没 天明6年 (1786年) 豊前中津藩4代藩主。1763年(宝暦13)6月昌鹿の長男として生まれる。1780年(安永9)父の死により家督を継ぐ。天明の大飢饉や家臣に実権を奪われるなどで失意のまま1786年(天明6)3月21日没。24才。法名「春徳院殿何屋道云大居士」。
奥平昌猷 生 文化10年 (1813年)没 天保13年 (1842年) 豊前中津藩7代藩主。1813年(文化10)3月昌高の5男として生まれる。兄昌暢が没したため1833年(天保4)1月跡を継ぐ。家臣を登用して藩政改革を行う。1842年(天保13)9月17日没。30才。法名「潜竜院殿大淵道珍大居士」。
奥平昌暢 生 文化6年 (1809年)没 天保3年 (1832年) 豊前中津藩6代藩主。1809年(文化6)1月昌高の次男として生まれる。1825年(文政8)5月父の隠居により家督を継ぐ。1832年(天保3)11月30日没。24才。法名「探源院殿心厳道轍大居士」。
奥平昌敦 生 享保9年 (1724年)没 宝暦8年 (1758年) 豊前中津藩2代藩主。1724年(享保9)4月昌成の次男として生まれる。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。目安箱の設置や農政改革など藩政改革に尽力。1758年(宝暦8)9月26日没。35才。法名「方廣院殿雲峯道端大居士」。
奥平昌成 生 元禄7年 (1694年)没 延享3年 (1746年) 豊前中津藩初代藩主。1694年(元禄7)11月昌章の次男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により2才で下野宇都宮藩主となる。1697年(元禄10)宮津藩へ移封。1703年(元禄16)9月将軍徳川綱吉に拝謁。1717年(享保2)2月1万石加増で豊前中津藩10万石に移封。1746年(延享3)11月14日没。53才。法名「龍源院殿徳翁道見大居士」。
南部重信 生 元和2年 (1616年)没 元禄15年 (1702年) 陸奥盛岡藩3代藩主。1616年(元和2)5月利直の5男として生まれる。七戸家を継いだが、1664年(寛文4)盛岡藩主の兄重直が子無く没したため跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月家督を長男行信に譲って隠居する。1702年(元禄15)6月18日没。87才。法名「大源院殿雲山宗祥大居士」。
南部通信 生 寛文13年 (1673年)没 享保元年 (1716年) 陸奥八戸藩3代藩主。1673年(寛文13)2月陸奥盛岡藩3代藩主重信の子として生まれる。従兄の直政の末期養子となり陸奥八戸藩主となる。教養が高く、藩の改革をして発展に貢献。1716年(享保元)8月24日没。44才。法名「三玄院殿法林徹證大居士」。
南部行信 生 寛永19年 (1642年)没 元禄15年 (1702年) 陸奥盛岡藩4代藩主。1642年(寛永19)8月重信の長男として生まれる。1664年(寛文6)4月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月父の隠居により家督を継ぐ。砲術と馬術に優れ、儒教に深く傾倒。1702年(元禄15)10月11日没。61才。法名「徳雲院殿玉翁宗珊大居士」。
南部義堯 生 寛政6年 (1794年)没 文政13年 (1830年) 遠野南部家9代当主。1794年(寛政6)八戸義応の子として生まれる。遠野南部家の八戸怡顔が没すると跡を継ぐ。1829年(文政12)より南部姓となる。藩主南部利用(善太郎)、利済がそれぞれ将軍徳川家斉に拝謁した際に供をする。1830年(文政13)5月3日没。37才。法名「天真院殿覺實英性大居士」。
南部政直 生 慶長4年 (1599年)没 寛永元年 (1624年) 1599年(慶長4)利直の次男として生まれる。1613年(慶長18)花巻城主となる。南部家の重臣柏山明助を毒殺する際、明助を騙すため自らも毒を飲んで死亡。1624年(寛永元)10月23日没。26才。法名「海潮院殿天巌宗青大居士」。墓石は1周忌に建立。
南部広信 生 宝永3年 (1706年)没 寛保元年 (1741年) 陸奥八戸藩4代藩主。1706年(宝永3)通信の長男として生まれる。1716年(享保元)10月父の死により跡を継ぐ。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)4月29日没。相続の都合で幕府には5月2日没としている。36才。法名「正見院殿覺雲宗智大居士」。
南部利雄 生 享保10年 (1725年)没 安永8年 (1779年) 陸奥盛岡藩8代藩主。1725年(享保10)利幹の長男として生まれる。1738年(元文3)10月南部利視の養子となる。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)5月利視の死により家督を継ぐ。宝暦の飢饉などにより財政が圧迫。1779年(安永8)12月11日没。55才。法名「養源院殿機翁宗鑑大居士」。
南部利謹 生 延享3年 (1746年)没 文化11年 (1814年) 1746年(延享3)利雄の長男として生まれる。1761年(宝暦11)2月将軍徳川家治に拝謁。素行に問題があり1774年(安永3)11月廃嫡となる。1814年(文化11)11月19日没。69才。法名「晋雲院殿天山恵祐大居士」。
南部利視 生 宝永5年 (1708年)没 宝暦2年 (1752年) 陸奥盛岡藩7代藩主。1708年(宝永5)信恩の次男として生まれる。父5代藩主信恩の死後生まれたため、叔父利幹が6代藩主となる。のちに家督を継ぎ、8代将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)4月4日没。45才。法名「天量院殿宣山宗明大居士」。
南部利正 生 宝暦2年 (1752年)没 天明4年 (1784年) 陸奥盛岡藩9代藩主。1752年(宝暦2)3月利視の6男として生まれる。始め南部信起の養子となる。1770年(明和7)4月将軍徳川家治に拝謁。1774年(安永3)12月盛岡藩南部利雄の養子となる。同月に再度徳川家治に拝謁。1780年(安永9)2月利雄の死により跡を継ぐ。1784年(天明4)5月25日没。33才。法名「義徳院殿南岳宗薫大居士」。
南部利敬 生 天明2年 (1782年)没 文政3年 (1820年) 陸奥盛岡藩10代藩主。1782年(天明2)利正の次男として生まれる。1784年(天明4)7月父の死により2才で家督を継ぐ。年齢を誤魔化し、幕府には1779年(安永8)生まれと届ける。1795年(寛政7)2月将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)6月3日没。39才。法名「神鼎院殿龍嶽宗文大居士」。
南部利康 生 慶長13年 (1608年)没 寛永8年 (1631年) 1608年(慶長13)利直の4男として生まれる。1626年(寛永3)に南直義の跡を継ぎ浅水城主となる。1631年(寛永8)11月21日没。24才。法名「龍巖薀公大禅定門」。
南部利幹 生 元禄2年 (1689年)没 享保10年 (1725年) 陸奥盛岡藩6代藩主。1689年(元禄2)行信の4男として生まれる。1706年(宝永3)1月兄の藩主信恩が死により、末期養子として家督を継ぐ。同年1月将軍徳川綱吉に拝謁。1725年(享保10)6月4日没。37才。法名「靈徳院殿雄山宗英大居士」。
南部信興 生 享保8年 (1723年)没 安永2年 (1773年) 陸奥八戸藩5代藩主。1723年(享保8)広信の長男として生まれる。1740年(元文5)将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)父の死により家督を継ぐ。1773年(安永2)8月13日没。51才。法名「龍津院殿珠岩宗滉大居士」。
南部信房 生 明和2年 (1765年)没 天保6年 (1835年) 陸奥八戸藩7代藩主。1765年(明和2)6月信依の長男として生まれる。1780年(安永9)11月将軍徳川家治に拝謁。1781年(天明元)2月父の死により跡を継ぐ。1835年(天保6)5月12日没。71才。法名「仙溪院殿仁道宗壽大居士」。
南部信恩妻 生 不明没 享保20年 (1735年) 黒田伝兵衛定治の娘。名は康。南部信恩に嫁ぎ、昆(今)姫、女子、利視の1男2女を儲ける。1735年(享保20)5月29日没。法名「浄智院殿南窻妙薫大姉」。墓石は6月29日とある。
南部信恩 生 延宝6年 (1678年)没 宝永4年 (1707年) 陸奥盛岡藩5代藩主。1678年(延宝6)9月行信の3男として生まれる。1701年(元禄14)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1702年(元禄15)11月父の死により家督を継ぐ。1707年(宝永4)12月8日没。30才。法名「靈巖院殿了因義方大居士」。
南部信依 生 延享4年 (1747年)没 天明元年 (1781年) 陸奥八戸藩6代藩主。1747年(延享4)信興の長男として生まれる。1762(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。1765年(明和2)父の隠居により跡を継ぐ。藩内に武芸を奨励。1781年(天明元)6月7日没。35才。法名「寶性院殿禪岩宗安大居士」。
北信愛 生 大永3年 (1523年)没 慶長18年 (1613年) 1523年(大永3)致愛の嫡男として生まれる。南部氏に仕え家老職。1600年(慶長5)和賀忠親の一揆勢により居城花巻城を攻められるも撃退。1613年(慶長18)8月17日没。91才。法名「萬献院殿節叟忠公大居士」。
八戸義応 生 宝暦10年 (1760年)没 寛政7年 (1795年) 1760年(宝暦10)信彦の5男として生まれる。1786年(天明6)3月八戸怡顔の養子となる。怡顔の跡を継ぐことなく、1795年(寛政7)8月15日没。36才。法名「俊宗院殿英山量雄大居士」。
八戸竹之助 生 不明没 貞享元年 (1684年) 八戸内記家2代。附馬牛(岩手県遠野市)領主。八戸義也(義長弟)の子。義也が1683年(天和3)没すると跡を継ぐ。1684年(貞享元)8月19日早世。法名「〇巖幻陽」。
八戸直義妻 生 不明没 万治4年 (1661年) 八戸直政の次女。母は清心尼。名は千代。八戸直義に嫁ぎ、義長を儲ける。1661年(万治4)7月25日没。法名「松光院殿天英馨香大禅定尼」。墓石施主は息子三五郎義長。
八戸利戡妻 生 延宝4年 (1676年)没 享保4年 (1719年) 1676年(延宝4)南部重信の10女として生まれる。1690年(元禄3)2月11日八戸義倫に嫁ぐ。義倫没後、1699年(元禄12)7月山田(八戸)利戡と再婚。1719年(享保4)8月28日没。44才。法名「常穩院殿妙體心公大禪定尼」。
八戸信有 生 元禄15年 (1702年)没 享保20年 (1735年) 遠野南部家5代当主。1702年(元禄15)5月七戸舜信の長男として生まれる。1712年(正徳2)八戸利戡の養子となり利戡の娘と婚約。1719年(享保4)12月藩主南部利幹の代理で将軍への年賀のため江戸に上府。1735年(享保20)6月4日没。34才。法名「定涼院殿仁君智通大居士」。
八戸信彦 生 享保5年 (1720年)没 安永3年 (1774年) 遠野南部家6代当主。1720年(享保5)4月信有の長男として生まれる。父の死により1735年(享保20)6月跡を継ぐ。1745年(延享2)12月、前年に起きた遠野屋敷の火災の責任を取り隠居。1774年(安永3)7月11日没。55才。法名「霊應院殿憩無詠歸入道大居士」。
奥平信昌妻 生 永禄3年 (1560年)没 寛永2年 (1625年) 1560年(永禄3)6月4日徳川家康の長女として駿府で生まれる。母は築山殿。名は亀姫。1576年(天正4)7月長篠の戦いのときに長篠城を守り通した奥平信昌に嫁ぐ。信昌の間に、家昌、松平家治、忠政、松平忠明、大久保忠常室の4男1女を儲ける。性格は母に似て強かったらしく、本多正純を失脚したのは亀姫が黒幕とされている。1625年(寛永2)5月27日没。66才。法名「盛徳院殿香林慈雲大姉」。
遠山長景 生 天正12年 (1584年)没 正保2年 (1645年) 1584年(天正12)方景の次男として生まれる。1615年(元和元)大坂夏の陣に参戦。1619年(元和5)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1638年(寛永15)9月跡を継ぐ。1645年(正保2)6月8日没。62才。法名「玄忠」。
遠山伊次 生 寛永3年 (1626年)没 延宝6年 (1678年) 1626年(寛永3)長景の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1645年(正保2)12月跡を継ぐ。1678年(延宝6)8月3日没。53才。法名「大梁院殿」。
水野忠良 生 天保5年 (1834年)没 安政5年 (1858年) 駿河沼津藩5代藩主。1834年(天保5)8月忠義の5男として生まれる。1844年(天保15)兄の忠武の死により家督を継ぐ。外国船出没による沿岸警備に務めたり、旱魃などにより財政は逼迫。1858年(安政5)5月3日没。25才。法名「常徳院泰譽安然義道大居士」。
水野忠職妻(青陽院) 生 元和2年 (1616年)没 貞享3年 (1686年) 1616年(元和2)中川久盛の娘として生まれる。1635年(寛永12)5月水野忠職に嫁ぎ、某の1男を儲ける。1686年(貞享3)12月13日没。71才。法名「青陽院殿榮譽天光春良大法尼」。墓石は生前の1662年(寛文2)2月の建立による。水野忠直の生母とされているが、実は昇仙院殿が忠直実母である。
水野忠職妻(昇仙院) 生 不明没 元禄5年 (1692年) 信濃松本藩3代藩主水野忠直の母。1692年(元禄5)8月13日没。法名「昇仙院殿長譽映月妙允大姉」。忠直の母は中川久盛の娘(青陽院殿)とされているが、水野家菩提寺の松本市玄向寺は昇仙院殿を忠直母としていて墓石も残る。墓石の位置や大きさから身分の低い女性と思われ、中川久盛の娘(青陽院殿)を忠直の生母として幕府に届けたと思われる。墓石は水野忠直の建立による。
水野忠職 生 慶長18年 (1613年)没 寛文8年 (1668年) 信濃松本藩2代藩主。1613年(慶長18)9月忠清の次男として生まれる。父の死後1647年(正保4)8月跡を継ぐ。江戸城の石垣普請の他、大坂城代を何回か務める。1668年(寛文8)6月26日没。56才。法名「道樹院信譽上昌玄向大居士」。
水野忠清妻 生 天正5年 (1577年)没 寛文10年 (1670年) 1577年(天正5)生まれ。小林氏の出で、前田利家の養女となり水野忠清の正室となる。忠清との間に忠次、京極高三室、山内忠直室、忠職、祖活の3男2女を儲ける。1670年(寛文10)4月2日没。94才。法名「福壽院殿性宣妙演尼大姉」。
水野忠清 生 天正10年 (1582年)没 正保4年 (1647年) 信濃松本藩初代藩主。1582年(天正10)忠重の4男として生まれる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いに徳川家康の命により扈従。大坂の両陣に参戦。夏の陣のときに青山忠俊と軍功を巡って争い閉門。家康の没する直前に閉門を解かれる。その後、加増を重ね、1642年(寛永19)に信濃松本にて7万石となる。1647年(正保4)5月28日没。66才。法名「真珠院殿廓譽全忠大居士」。
水野忠幹 生 元禄12年 (1699年)没 享保8年 (1723年) 信濃松本藩5代藩主。1699年(元禄12)忠周の長男として生まれる。1709年(宝永6)将軍徳川家宣に拝謁。1718年(享保3)父が死去すると家督を継ぐ。目安箱を設置したり藩の財政改革に努める。1723年(享保8)5月10日没。25才。法名「徳本院殿心譽仁光大居士」。
水野元知 生 正保元年 (1644年)没 延宝8年 (1680年) 上野安中藩2代藩主。1644年(正保元)元綱の次男として生まれる。1664年(寛文4)10月父の隠居により跡を継ぐ。1667年(寛文7)5月発狂して妻を斬りつけたために改易となる。1680年(延宝8)9月没。37才。法名「大遍院殿碧雲冲虚大居士」。
森川重俊 生 天正12年 (1584年)没 寛永9年 (1632年) 下総生実藩初代藩主。1584年(天正12)氏俊の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに従う。大久保忠隣の改易に連座して改易となるも、大坂の陣で活躍して復帰。1631年(寛永8)には老中となる。1632年(寛永9)1月24日に秀忠が亡くなると翌日25日に殉死。49才。法名「重俊院殿活國正英居士」。
本多純政 生 不明没 明暦元年 (1655年) 有馬直純の次男。1641年(寛永18)父より日向本庄にて采地を分け与えられる。同年8月将軍徳川家光に拝謁。1644年(正保元)病により領地を返上して京都に隠棲。1655年(明暦元)12月27日没。法名「崇福院殿僧譽還愚居士」。
有馬直純妻 生 文禄4年 (1595年)没 慶安2年 (1649年) 1595年(文禄4)本多忠政の娘として生まれる。母は松平信康の娘。名は国姫。曽祖父徳川家康の養女として堀忠俊に嫁ぐ。忠俊が改易後には、有馬直純に嫁ぐ。直純の間に、康純、本多政勝室、本多政勝養妹、秋元富朝室、純政の2男3女を儲ける。1649年(慶安2)2月29日没。55才。法名「榮壽院殿長譽秋岳大信尼」。
有馬康純妻 生 不明没 正保2年 (1645年) 阿部正澄の娘。阿部忠秋の養女として有馬康純に嫁ぐ。康純との間に、清純を儲ける。1645年(正保2)10月28日没。法名「妙禅院殿覚園日巖信女」。墓石は康純の建立による。
戸川安宣妻 生 承応2年 (1653年)没 寛文6年 (1666年) 1653年(承応2)有馬康純の4女として生まれる。戸川安宣に嫁ぐ。1666年(寛文6)9月1日没。14才。法名「寶林院殿玉朗妙榮大姉」。墓石施主は父康純。
徳川頼宣 生 慶長7年 (1602年)没 寛文11年 (1671年) 紀伊和歌山藩初代藩主。1602年(慶長7)3月家康の10男として生まれる。1603年(慶長8)常陸水戸にて20万石を与えられるが2才のため駿府の家康のもとで過ごす。1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。1619年(元和5)紀伊和歌山藩主となる。1671年(寛文11)1月10日没。70才。法名「南龍院殿顗永天晃大居士」。
多田満仲 生 不明没 長徳3年 (997年) 源経基の長男として生まれる。969年(安和2)の安和の変では源高明の謀反を密告。藤原兼家のもと鎮守府将軍にまで出世。987年(永延元)出家。997年(長徳3)8月27日没。法名「覚信」。墓石には「右大臣源朝臣 仲光敬白 満仲法名覚信 天禄元年八月廿七日」とあることから、後裔の源仲光の建立であることがわかる。
北条氏貞 生 元禄16年 (1703年)没 宝暦8年 (1758年) 河内狭山藩6代藩主。1703年(元禄16)氏朝の長男として生まれる。1714年(正徳4)8月将軍徳川家継に拝謁。1735年(享保20)父の死後家督を継ぐ。1758年(宝暦8)4月27日没。56才。法名「廣覚院殿信叟義堅大居士」。
北条氏直 生 永禄5年 (1562年)没 天正19年 (1591年) 1562年(永禄5)氏政の子として生まれる。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)氏政の隠居とともに家督を継ぐ。1582年(天正10)神流川の戦いで滝川一益を破り、甲斐国に進出。同地で徳川家康と長期間の合戦となるも和睦となり、家康の娘督姫が氏直に嫁ぐ。1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原合戦により敗北。氏直は家康の婿ということで命は助けられ高野山に入り謹慎。1591年(天正19)には赦免されるも同年11月4日没。30才。法名「松巌院殿大圓徹公大居士」。
北条氏朝 生 寛文9年 (1669年)没 享保20年 (1735年) 河内狭山藩5代藩主。1669年(寛文9)氏利の5男として生まれる。1683年(天和3)3月北条氏治の養子となる。同年閏5月将軍徳川綱吉に拝謁。氏治の死により1696年(元禄9)7月跡を継ぐ。1735年(享保20)9月9日没。67才。法名「圓成院殿即証元領大居士」。
北条氏昉 生 宝暦10年 (1760年)没 文化8年 (1811年) 河内狭山藩8代藩主。1760年(宝暦10)氏彦の長男として生まれる。1769年(明和6)父の死により家督を継ぐ。百姓一揆や天明の大飢饉で財政は悪化。1811年(文化8)1月16日没。52才。法名「願真院殿養叟宗安大居士」。
北条氏政 生 天文7年 (1538年)没 天正18年 (1590年) 1538年(天文7)氏康の次男として生まれる。小田原北条氏第4代目当主。妻は武田信玄の娘黄梅院。豊臣秀吉の上洛命令を無視したため、合戦となるも圧倒的な大軍の前に屈する。降伏後1590年(天正18)7月11日弟氏照と共に切腹。53才。法名「慈雲院殿勝岩傑公大居士」。
北条氏彦 生 寛保2年 (1742年)没 明和6年 (1769年) 河内狭山藩7代藩主。1742年(寛保2)氏貞の長男として生まれる。父の死により1758年(宝暦8)6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家重に拝謁。1769年(明和6)4月27日没。28才。法名「琰光院殿鐡叟紹心大居士」。
北条氏喬 生 天明5年 (1785年)没 弘化3年 (1846年) 河内狭山藩9代藩主。1785年(天明5)氏昉の長男として生まれる。1801年(享和元)10月父の隠居により家督を継ぐ。1837年(天保8)2月大塩平八郎の乱のときは大坂城の警備を務める。1846年(弘化3)7月8日没。62才。法名「敬雲院殿恭厳義良大居士」。
北条氏久 生 文化13年 (1816年)没 嘉永5年 (1852年) 河内狭山藩10代藩主。1816年(文化13)戸田氏庸の4男として生まれる。1840年(天保11)北条氏喬の婿養子となり、1842年(天保13)氏喬の隠居により家督を継ぐ。1852年(嘉永5)3月養子の氏燕に家督を譲り隠居。同年5月10日没。37才。法名「顕光院殿仁峯義賢大居士」。
行基 生 元号なし (668年)没 天平21年 (749年) 668年(天智天皇7)高志才智の子として生まれる。 682年(天武天皇11)15才で出家。飛鳥寺、薬師寺に入って法相宗を学ぶ。母の死後、諸国を行脚して布教。717年(養老元)僧尼令に違反したとされ弾圧を受ける。のちに弾圧は緩まり、740年(天平12)聖武天皇の依頼により東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力。745年(天平17)に朝廷より「大僧正」の位を受ける。749年(天平21)2月2日没。82才。
聖武天皇 生 大宝元年 (701年)没 天平勝宝8年 (756年) 第45代天皇。701年(大宝元)8月文武天皇の第一皇子として生まれる。724年(神亀元)2月即位する。729年(神亀6)2月長屋王の変で反対勢力を鎮圧。743年(天平15)5月墾田永年私財法を制定。749年(天平勝宝元)7月娘(孝謙天皇)に譲位。756年(天平勝宝8)5月2日崩御。56才。
米津政武 生 寛永15年 (1638年)没 宝永5年 (1708年) 1638年(寛永15)田盛の長男として生まれる。1644年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1684年(貞享元)3月跡を継ぐ。1698年(元禄11)11月隠居。1708年(宝永5)6月26日没。71才。法名「雲行院殿潤譽雨施澤翁大居士」。
米倉昌純 生 慶長19年 (1614年)没 宝永4年 (1707年) 1614年(慶長19)永時の3男として生まれる。政継とも。1628年(寛永5)父の遺領200石余を継ぎ、大番となる。1633年(寛永10)と1651年(慶安4)に各200石、計400石を加増される。組頭、小普請を務め、1684年(貞享元)7月隠居。1707年(宝永4)8月23日没。94才。法名「天真院殿〇性宗源居士」。妻と思われる法名もある。
米倉昌尹 生 寛永14年 (1637年)没 元禄12年 (1699年) 下野皆川藩初代藩主。1637年(寛永14)昌純の長男として生まれる。1645年(正保2)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1684年(貞享元)7月跡を継ぐ。600余石だったが加増を重ね、1696年(元禄9)3月若年寄となり1万石の大名となる。1699年(元禄12)1月にさらに5千石の加増を受ける。同年7月12日没。63才。法名「蔵林寺殿徳石道明大居士」。
秋月種春 生 慶長15年 (1610年)没 万治2年 (1659年) 日向高鍋藩2代藩主。1610年(慶長15)5月種貞の長男として生まれる。1613年(慶長18)3才のとき徳川家康に拝謁。1614年(慶長19)母方の祖父種長の死により跡を継ぐ。幼く家督を継いだため、家老たちの専横(上方下方騒動)が長く続く。1659年(万治2)10月15日没。50才。法名「大洋院殿古巌宗帆大居士」。墓石は1670年(万治3)8月21日息子種信の建立による。
秋月種信娘 生 不明没 延宝7年 (1679年) 秋月種信の娘。寛政諸では本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親を儲けるとある。墓石には1679年(延宝7)4月19日逝去、法名「智休院殿和䆫清心大姉」、為本堂源三郎悲母建立とある。寛政諸の源七郎伊親は1689年(元禄2)前後の生まれで墓石にある1679年(延宝7)の種信娘の没年と合わず。本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親ではなく源三郎(詳細不明)を生んだと思われる。
秋月種信妻 生 不明没 宝永2年 (1705年) 松浦隆信の娘。秋月種信に嫁ぎ、女子、本堂玄親妻、花房正矩妻、種恒、大森頼隆妻、種政、安部信峯妻、種封、種利、松浦鎮信養女、佐久間勝茲の5男6女を儲ける。1705年(宝永2)9月2日没。法名「長徳院殿松譽貞心榮壽大姉」。墓石は息子種政の建立による。
秋月種信 生 寛永8年 (1631年)没 元禄12年 (1699年) 日向高鍋藩3代藩主。1631年(寛永8)12月種春の長男として生まれる。1646(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の死により跡を継ぐ。家臣たちの綱紀粛正を行い上方下方騒動と呼ばれる騒動を終わらせる。1699年(元禄12)7月27日没。69才。法名「天澤院殿龍嶽宗雲大居士」。
石川義孝 生 万治2年 (1659年)没 宝永7年 (1710年) 山城淀藩2代藩主。 1659年(万治2)7月憲之の次男として生まれる。1674年(延宝2)将軍徳川家綱に拝謁。1706年(宝永3)2月の隠居により家督を継ぐ。1710年(宝永7)9月2日没。52才。法名「義孝院殿日意」。
真田信安妻 生 享保9年 (1724年)没 延享5年 (1748年) 1724年(享保9)4月13日前田利章の次女として生まれる。真田信安に嫁ぎ、建部政賢妻、松平忠恕妻の2女を儲ける。1748年(延享5)6月5日没。25才。法名「匡章院殿端心怡嚴大姉」。
水野忠直妻 生 承応2年 (1653年)没 貞享2年 (1685年) 1653年(承応2)鍋島光茂の娘として生まれる。母は上杉定勝の娘。名は岩姫。水野忠直に嫁ぎ、忠周、忠富、石川勝之妻の2男1女を儲ける。1685年(貞享2)4月19日没。33才。法名「柔軟院殿安譽光澤清心大姉」。
水野忠直 生 慶安5年 (1652年)没 正徳3年 (1713年) 信濃松本藩3代藩主。 1652年(慶安5)9月忠職の次男として生まれる。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。隣国より年貢が重く、1686年(貞享3)に貞享騒動という百姓一揆が起きている。1713年(正徳3)5月28日没。62才。法名「賢徳院大譽直生全提大居士」。
水野忠周 生 寛文13年 (1673年)没 享保3年 (1718年) 信濃松本藩4代藩主。1673年(寛文13)1月忠直の長男として生まれる。徳川綱吉の小姓となり、1713年(正徳3)父の死後家督を継ぐ。1718年(享保3)10月28日没。46才。法名「智徳院殿本蓮社清譽浄祐光阿大居士」。墓石は息子忠幹(忠茂)の建立による。
松平重忠妻 生 不明没 寛永12年 (1635年) 戸田忠次の娘。松平重忠に嫁ぎ、屋代忠正妻、松平重直妻の2女を儲ける。1635年(寛永12)8月29日没。法名「長昌院殿清誉法春大信女」。墓石には子息松平丹後守重直敬白とあるが、重直は娘婿にあたる。
松平重忠 生 元亀元年 (1570年)没 寛永3年 (1626年) 重勝の長男。1570年(元亀元)三河にて生まれる。徳川家に仕え、1612年(慶長17)父の跡を引継ぎ大番。1614年(慶長19)大坂冬の陣に従い、翌年の大坂夏の陣のときは伏見城を守った。1621年(元和7)父の遺領を継ぎ駿府城代を務める。同年出羽国上山に移り4万石を領した。1626年(寛永3)7月11日没。57才。法名「桐林院殿英誉長安大居士」。
戸田清堅 生 不明没 承応3年 (1654年) 三九郎清光の子。三河渥美生まれ。父が1575年(天正3)8月に諏訪原にて討死したときは、まだ生まれてなくお腹の中にいた。幼くして体が弱かったため、家を継がず。徳川家康に仕え、関ヶ原にも従った。戦後、先祖の地である三河の大津の地を賜る。その後、徳川頼宣の家臣となる。1654年(承応3)5月5日没。法名「雄山全威居士」。
弘法大師 生 宝亀5年 (774年)没 承和2年 (835年) 774年(宝亀5)佐伯田公の子として讃岐国で生まれる。真言宗の開祖。空海。国内で仏教を修行。803年(延暦23)最澄らとともに唐に渡る。806年(大同元)帰国。816年(弘仁7)6月嵯峨天皇から高野山が下賜され、真言宗の修禅の道場として開く。835年(承和2)3月21日入定。62才。高野山では弘法大師はまだ生きているとされているため、没年月日を入定日としている。
奥平昌能 生 寛永10年 (1633年)没 寛文12年 (1672年) 出羽山形藩初代藩主。1633年(寛永10)7月忠昌の長男として生まれる。1648年(正保4)徳川家綱の傅役となる。1668年(寛文8)家臣の対立による宇都宮興禅寺刃傷事件や家臣の殉死が起き、宇都宮から山形へ減封となる。1672年(寛文12)7月2日没。40才。法名「徳雲院殿奇峰道也大居士」。
奥平忠昌 生 慶長13年 (1608年)没 寛文8年 (1668年) 1608年(慶長13)家昌の長男として生まれる。1614年(慶長19)10月に父が亡くなると11月に跡を継ぎ、徳川秀忠から1字を賜わり忠昌と名乗る。1616年(元和2)3月病床の曾祖父徳川家康を見舞う。1668年(寛文8)2月19日没。61才。法名「玄光院殿海印道湛大居士」。
土屋陳直 生 元禄8年 (1695年)没 享保19年 (1734年) 常陸土浦藩3代藩主。1695年(元禄8)12月政直の4男として生まれる。1719年(享保4)5月父の隠居に伴い家督を継ぐ。大手御門番、奏者番、西の丸大手御門番などを務める。 1734年(享保19)1月16日没。40才。法名「霊鷲院殿顕応瑞英大居士」。
土屋英直 生 明和6年 (1769年)没 享和3年 (1803年) 常陸土浦藩7代藩主。1769年(明和6)11月篤直の3男として生まれる。1790年(寛政2)兄泰直の死去に伴い家督を継ぐ。1799年(寛政11)に土浦城内に藩校を設立。1803年(享和3)8月12日没。35才。法名「英哲院殿勛山義功大居士」。
土屋篤直 生 享保17年 (1732年)没 安永5年 (1776年) 常陸土浦藩4代藩主。1732年(享保17)6月陳直の次男として生まれる。1734年(享保19)父の死により家督を継ぐも幼いため一族土屋亮直の補佐を受ける。奏者番、寺社奉行などを務める。1776年(安永5)5月20日没。45才。法名「本覺院殿厳性遵義大居士」。
土屋直樹妻 生 不明没 貞享3年 (1686年) 寛政重修諸家譜では某氏とある。土屋直樹の妻で逵直を儲ける。1686年(貞享3)11月16日没。法名「清凉院殿○○妙春大姉」。墓石に「江戸土屋主税逵直公為御母儀造立之」とある。
土屋直樹 生 寛永11年 (1634年)没 延宝9年 (1681年) 上総久留里藩3代藩主。1634年(寛永11)利直の長男として生まれる。1675年(延宝3)に父により家督を継ぐ。1679年(延宝7)8月狂気を理由に改易。晩年は遠江国に領地を与えられた長男逵直のもとで過ごす。1681年(延宝9)6月30日没。48才。法名「定林院殿本岩宗徹居士」。
土屋泰直 生 明和5年 (1768年)没 寛政2年 (1790年) 常陸土浦藩6代藩主。1768年(明和5)3月篤直の次男として生まれる。1777年(安永6)兄で5代藩主寿直が死去したため跡を継ぐ。1783年(天明3)将軍徳川家治に拝謁。1790年(寛政2)5月12日没。23才。法名「純徳院殿善應義信大居士」。
土屋昭直 生 寛文7年 (1667年)没 元禄3年 (1690年) 1667年(寛文7)政直の次男として生まれる。1677年(延宝5)将軍徳川家綱に拝謁。1690年(元禄3)10月29日家督を継ぐことなく没した。24才。法名「崇峯院殿中岩玄庸居士」。
土屋数直 生 慶長13年 (1608年)没 延宝7年 (1679年) 常陸土浦藩初代藩主。1608年(慶長13)忠直の次男として生まれる。徳川家光の近習として仕える。その後、徳川家綱の御側衆となり出世、4万5千石の大名となる。幕府では老中を務める。1679年(延宝7)4月2日没。72才。法名「融相院殿寛翁道智大居士」。
土屋政直 生 寛永18年 (1641年)没 享保7年 (1722年) 常陸土浦藩2代藩主。 1641年(寛永18)2月数直の長男として生まれる。父の死後、土浦藩を継ぐが駿河田中藩に移封。その後土浦藩に復帰。大坂城代、京都所司代、老中を務め加増を続ける。 徳川4代将軍家綱から8代将軍吉宗まで使える。1722年(享保7)11月16日没。82才。法名「徳相院殿俊翁道耆大居士」。
土屋彦直 生 寛政10年 (1798年)没 弘化4年 (1847年) 常陸土浦藩9代藩主。1798年(寛政10)5月徳川治保の3男として生まれる。土屋寛直の養女(妹)を娶り家督を継ぐ。藩主となってからは天災などで財政が圧迫。1838年(天保9)12月眼病により家督を長男寅彦に譲る。1847年(弘化4)7月23日没。50才。法名「賢相院殿道譽拾山松翁大居士」。
土屋寛直 生 寛政7年 (1795年)没 文化7年 (1810年) 常陸土浦藩8代藩主。1795年(寛政7)9月英直の長男として生まれる。1803年(享和3)父の死により家督を継ぐ。1810年(文化7)10月15日没。16才。法名「祥善院殿徳倫元良大居士」。ただし、相続の関係から幕府には1811年(文化8)10月2日に没したと届けているため、墓石にはこちらの命日が刻まれている。
土屋定直 生 元禄2年 (1689年)没 宝永2年 (1705年) 1689年(元禄2)政直の3男として生まれる。1696年(元禄9)将軍徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)閏4月9日没。17才。法名「大慈院殿英叟義雄居士」。
土屋壽直 生 宝暦11年 (1761年)没 安永6年 (1777年) 常陸土浦藩5代藩主。1761年(宝暦11)5月篤直の長男として生まれる。父の死により1776年(安永5)家督を継ぐも1777年(安永6)7月19日没。17才。法名「俊良院殿彰善惟顕大居士」。
土屋之直 生 慶長16年 (1611年)没 延宝7年 (1679年) 1611年(慶長16)忠直の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え御手水番、御書院番などを務める。一時期閉門となるも1667年(寛文7)許され、御書院番、大番頭を務める。1679年(延宝7)8月14日没。69才。法名「恵明院殿月仙道秋居士」。
前田利治 生 元和4年 (1618年)没 万治3年 (1660年) 加賀大聖寺藩初代藩主。1618年(元和4)利常の3男として生まれる。父の隠居の際に加賀江沼郡にて7万石を与えられ大聖寺藩主となる。九谷焼を藩内に推奨。1660年(万治3)4月21日没。43才。法名「實性院殿機雲宗用大居士」。墓石は弟で跡を継いだ利明の建立による。
京極忠高妻 生 慶長7年 (1602年)没 寛永7年 (1630年) 1602年(慶長7)7月徳川秀忠の4女として生まれる。家康の孫。母はお江。3代将軍家光の姉。名は初姫。1606年(慶長11)京極忠高に嫁ぐ。夫婦仲は悪く、2人の間に子供は出来ず。1630年(寛永7)3月4日没。29才。法名「興安院殿豊誉天清陽山大禅定尼」。初姫が亡くなったとき忠高は相撲見物をしていたため、幕府は京極家の葬儀の臨席を許可しなかった。
京極高直 生 寛永9年 (1632年)没 寛文3年 (1663年) 丹後田辺藩2代藩主。 1632年(寛永9)11月高三の長男として生まれる。1636年(寛永13)父の死により跡を継ぐ。同じ一族の宮津藩京極高広と領土をめぐり争う。1663年(寛文3)1月7日没。32才。法名「法性院殿真郭道保大禅定門」。
京極高三 生 慶長12年 (1607年)没 寛永13年 (1636年) 丹後田辺藩初代藩主。1607年(慶長12)3月高知の3男として生まれる。1611年(慶長16)二条城で徳川家康と秀忠に拝謁。父の死後、遺領の一部を継いで田辺藩主となる。1636年(寛永13)9月13日没。30才。法名「惣泰院殿雲山道徹大禅定門」。
江崎利一 生 明治15年 (1882年)没 昭和55年 (1980年) 1882年(明治15)12月清七の子として佐賀県で生まれる。牡蠣エキスから抽出したグリコーゲンでの食品事業を拡大。栄養菓子グリコと両腕をあげてゴールインするパッケージデザインで有名な江崎グリコの創始者となる。1980年(昭和55)2月2日没。
大田原晴清 生 永禄10年 (1567年)没 寛永8年 (1631年) 下野大田原藩初代藩主。1567年(永禄10)縄清の子として生まれる。1590年(天正18)小田原城合戦のときに、豊臣秀吉に駿河国沼津で謁見。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方する。1631年(寛永8)2月5日没。65才。法名「奪勝院殿印国永金大居士」。
覚信尼 生 元仁元年 (1224年)没 弘安6年 (1283年) 1224年(元仁元)親鸞の末娘として生まれる。久我通光に仕え、兵衛督局と称す。日野広綱に嫁いで覚恵、光玉尼を生む。広綱没後、小野宮禅念に嫁ぎ唯善を生む。1272年(文永9)父の墓所でもある大谷廟堂を建立。1283年(弘安6)11月24日に没したといわれる。
石川貞清 生 不明没 寛永3年 (1626年) 光重の次男。光吉とも。豊臣秀吉に仕え尾張犬山城主。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは西軍に付いたため改易。京に隠棲して茶人として過ごす。1626年(寛永3)4月8日没。法名「雲岳宗林大居士」。墓石は1628年(寛永5)4月に宗玄、三郎四郎(重利)、八左衛門(宗甫)の3人の息子が施主となり建立。
熊谷直実 生 永治元年 (1141年)没 建永2年 (1207年) 1141年(永治元)2月直貞の子として生まれる。1159年(平治元)平治の乱では源義平に従う。その後平知盛に仕えるも、源頼朝が挙兵すると御家人となる。一ノ谷の戦いでは源義経の鵯越に従う。この合戦では、16才の平敦盛を討取る。息子と同じ年くらいの敦盛を討取ったことで武士をやめ、敦盛を高野山で供養、その後出家して法然の弟子となる。法力房蓮生と称し墓石にも蓮生法師とある。1207年(建永2)9月4日没。67才。
成田長泰 生 不明没 天正元年 (1573年) 親泰の子。武蔵忍城主で上杉憲政に仕える。その後、北条氏康と上杉謙信に仕えたり離反したりを繰り返す。1563年(永禄6)上杉謙信に忍城を攻められて、隠居。家督を息子氏長に譲る。1573年(天正元)12月17日没。法名「長泰寺殿」。
平敦盛 生 嘉応元年 (1169年)没 元暦元年 (1184年) 1169年(嘉応元)経盛の子として生まれる。笛の名手。1184年(元暦元)2月7日一ノ谷の戦いに参加。敗走中、敵の熊谷直実に呼び止められ引き返して戦うも討死。16才。法名「空顔璘●大居士」。(●は草冠に压)墓石は直実の建立による。
九条兼実 生 久安5年 (1149年)没 建永2年 (1207年) 1149年(久安5)藤原忠通の6男として生まれる。後白河天皇に仕え、後白河天皇(法皇)崩御後は、源頼朝に征夷大将軍を宣下するなど中心的な役割を果たすも後に失脚。出家して法然の浄土宗に帰依する。1207年(建永2)4月5日没。59才。法名「圓證」。
鷹司輔平妻 生 延享3年 (1746年)没 明和6年 (1769年) 1746年(延享3)8月10日毛利重就の次女として生まれる。名は佐代姫。1761年(宝暦11)2月鷹司輔平に嫁ぐ。輔平との間に、政熈、有栖川宮織仁親王妻、男子の2男1女を儲ける。1769年(明和6)4月29日没。24才。「妙池院殿青蓮慈薫大姉」。
鴻池直文妻 生 不明没 正保3年 (1646年) 鴻池直文の妻。名は花。墓石に鴻池又右衛門(之政)が見えることから、之政の母であると思われる。1646年(正保3)2月12日没。82才。法名「花嶽妙栄大姉」。
鴻池直文 生 元亀元年 (1570年)没 慶安3年 (1650年) 1570年(元亀元)12月18日尼子家の家臣山中鹿之助幸盛の長男として生まれる。本名は山中幸元。別所氏家臣黒田幸隆のもとで育つも、幸隆が豊臣氏に滅ぼされると、一族の山中信直を頼って伊丹へ落ちのびる。そこで酒造業を始め、清酒を初めて製造。1650年(慶安3)12月5日没。81才。法名「実相院一翁宗圓居士」。
鴻池善之妻 生 寛文4年 (1664年)没 元禄2年 (1689年) 1664年(寛文4)鴻池喜右衛門之宗の2女として生まれる。名は万。鴻池善七善之(之休の長男)に嫁ぐ。1689年(元禄2)3月20日没。26才。法名「梅林貞春大姉」。
鴻池之政 生 慶長2年 (1597年)没 寛文8年 (1668年) 1597年(慶長2)直文の3男として生まれる。又右衛門家初代。1617年(元和3)分家して酒造業を始める。1668年(寛文8)9月8日没。72才。法名「明叟久圓居士」。
鴻池之宗 生 寛永20年 (1643年)没 元禄9年 (1696年) 1643年(寛永20)山中善右衛門正成の次男として生まれる。喜右衛門。鴻池善右衛門家の2代当主。1663年(寛文3)家督を継ぐ。多くの大名に貸金業を行う。1696年(元禄9)5月2日没。54才。法名「篤峰了信居士」。
鴻池之安 生 慶安4年 (1651年)没 寛文9年 (1669年) 1651年(慶安4)善右衛門正成の6男として生まれる。五郎兵衛。北浜(大坂)の両替店を開業予定だったが1669年(寛文9)8月13日没。19才。法名「秋月圎澤居士」。北浜の両替店は兄喜右衛門之宗が引き継ぐ。
鴻池之休 生 寛永18年 (1641年)没 正徳2年 (1712年) 1641年(寛永18)山中善右衛門正成の長男として生まれる。又一郎、又右衛門。又右衛門家2代。正成を祖とする善右衛門家は弟之宗が継ぎ、之休は父の兄之政を祖とする又右衛門家を継ぐ。1712年(正徳2)4月13日没。72才。法名「圓鑑久意居士」。
毛利重就娘(涼光院) 生 明和4年 (1767年)没 安永3年 (1774年) 1767年(明和4)9月1日重就の8女として生まれる。名は多鶴姫。近衛久公と婚約が決まるも1774年(安永3)9月10日没。8才。法名「涼光院殿玉顔衍奇大童女」。
毛利重就娘(凌寒院) 生 宝暦12年 (1762年)没 安永2年 (1773年) 1762年(宝暦12)閏4月11日毛利重就の7女として生まれる。名は列姫。井伊直富と婚約するも、1773年(安永2)10月4日没。12才。法名「凌寒院殿幻梅衍香大童女」。
毛利治親妻(明善院) 生 不明没 寛政元年 (1789年) 小泉正利の娘。名は清浦。毛利治親に嫁ぎ、斉房、斉煕、細川興昶、煕載の4男を儲ける。1789年(寛政元)7月25日没。法名「明善院殿嚴譽光順大姉」。
有馬頼徸娘 生 元文3年 (1738年)没 寛延4年 (1751年) 1738年(元文3)有馬頼徸の長女として生まれる。名は幾代姫。丹羽高庸と婚約していたが嫁ぐことなく1751年(寛延4)4月25日没。14才。法名「長楊院殿玉臺妙輝大姉」。「幾代姫殿御袋立焉」と墓石にあるので、母(頼徸側室)の建立による。
有馬頼徸 生 正徳4年 (1714年)没 天明3年 (1783年) 筑後久留米藩7代藩主。1714年(正徳4)11月25日則維の5男として生まれる。1729年(享保14)父の隠居により家督を継ぐ。学問に励み、特に和算に優れ豊田文景という名で「拾璣算法」を著す。1783年(天明3)11月23日没。72才。法名「大慈院殿圓山道通大居士」。
有馬頼利 生 承応元年 (1652年)没 寛文8年 (1668年) 筑後久留米藩3代藩主。1652年(承応元)忠頼の長男として生まれる。父の死により1655年(承応4)家督を継ぐ。1668年(寛文8)6月24日没。17才。法名「霊源院殿賢峯道哲大居士」。
有馬忠頼 生 慶長8年 (1603年)没 明暦元年 (1655年) 筑後久留米藩2代藩主。1603年(慶長8)豊氏の子として生まれる。1637年(寛永14)父とともに島原の乱に参戦。1642年(寛永19)父の死後、家督を継ぐ。1655年(明暦元)3月20日没。53才。法名「瓊林院殿龍室道雄大居士」。
有馬則維妻(瑞源院) 生 不明没 元文2年 (1737年) 谷衛広の娘として生まれる。有馬則維に嫁ぎ、万千代、則矩、大次郎の3男を儲ける。1737年(元文2)5月19日没。63才。(56才とも)法名「瑞源院殿鳳臺慧璘大姉」。
有馬則維妻(清蓮院) 生 宝永6年 (1709年)没 宝暦元年 (1751年) 1709年(宝永6)生まれ。坂本氏。於茂勢の方。有馬則維に嫁ぐも子は出来ず。1751年(宝暦元)11月12日没。43才。法名「清蓮院殿淨體慧法大姉」。
有馬則維妻(慈海院) 生 元禄8年 (1695年)没 延享2年 (1745年) 1695年(元禄8)生まれ。柴田氏。於連の方。於礼濃の方。有馬則維に嫁ぎ、幾姫、則恵、国姫の1男2女を儲ける。1745年(延享2)5月7日没。51才。法名「慈海院殿梵室知音大姉」。
有馬則維 生 延宝2年 (1674年)没 元文3年 (1738年) 筑後久留米藩6代藩主。1674年(延宝2)3月石野則員の5男として生まれる。1684年(貞享元)旗本有馬則故の養子となる。1692年(元禄5)10月将軍徳川綱吉に拝謁。1706年(宝永3)4月久留米藩主頼旨の末期養子となり同年5月跡を継ぐ。1738年(元文3)4月1日没。65才。法名「梅巌院殿嗺翁道秀大居士」。
有馬則恵 生 享保5年 (1720年)没 元文3年 (1738年) 1720年(享保5)8月15日則維の7男として生まれる。宅之進。1738年(元文3)6月15日没。19才。法名「定林院殿奇峯宗雲大居士」。
山中道億 生 明暦元年 (1655年)没 元文元年 (1736年) 1655年(明暦元)12月秀重の子として生まれる。名は鴻池秀季とも。大坂商人にて、山中善兵衛家3代目。茶人でもある。1736年(元文元)9月6日没。82才。法名「萬峰道億居士」。
山中良元 生 寛永7年 (1630年)没 寛文6年 (1666年) 1630年(寛永7)元英の長男として生まれる。鴻池直文を祖とする鴻池村の本家である山中新右衛門家3代。1666年(寛文6)10月4日没。37才。法名「無参固徹居士」。
山中正代 生 不明没 正保4年 (1647年) 鴻池直文の5男。尼子の忠臣山中鹿之助の孫。与右衛門。父は伊丹で酒造業をしていて、正代は寛永年間に大坂で分家。1647年(正保4)8月15日没。法名「直傳宗入居士」。
山中元英 生 慶長10年 (1605年)没 寛文10年 (1670年) 1605年(慶長10)鴻池直文の7男として生まれる。父の酒造業山中家(鴻池屋)の跡を継ぎ、2代目山中新右衛門を名乗る。1670年(寛文10)11月27日没。66才。法名「涼山圓清居士」。
口羽就通 生 寛永10年 (1633年)没 元禄8年 (1695年) 1633年(寛永10)元良の3男として生まれる。長州毛利家に仕え1675年(延宝3)12月寄組となる。1695年(元禄8)10月21日没。63才。法名「良性直心居士」。墓石施主は息子八三郎元通。
佐竹義敦妻 生 延享2年 (1745年)没 文化7年 (1810年) 1745年(延享2)1月23日山内豊敷の娘として生まれる。1767年(明和4)2月佐竹義敦に嫁ぐ。義敦との間に、女子1女を儲ける。1810年(文化7)10月25日没。66才。法名「貞明院殿眞月清観大姉」。
佐竹義和妻 生 安永元年 (1772年)没 文化13年 (1816年) 1772年(安永元)11月26日堀田正順の娘として生まれる。名は鐡、彌。1793年(寛政5)2月佐竹義和に嫁ぐ。義和との間に、女子1女を儲ける。他の側室が儲けた女子(名は利瑳)を養女として前田斉泰と婚約するも、嫁ぐまえに早世。1816年(文化13)5月13日没。45才。法名「仙松院殿幽巖秀雲大姉」。
佐世長哲 生 享保元年 (1716年)没 元文元年 (1736年) 長州毛利家家臣。1716年(享保元)広玄の子として生まれる。毛利広規の娘と婚約するも1736年(元文元)8月1日没。21才。法名「月岑宗圓居士」。