南部利幹の墓碑
南部利幹
生 元禄2年 (1689年)
没 享保10年 (1725年)
陸奥盛岡藩6代藩主。1689年(元禄2)行信の4男として生まれる。1706年(宝永3)1月兄の藩主信恩が死により、末期養子として家督を継ぐ。同年1月将軍徳川綱吉に拝謁。1725年(享保10)6月4日没。37才。法名「靈徳院殿雄山宗英大居士」。
南部利康の墓碑
南部利康
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永8年 (1631年)
1608年(慶長13)利直の4男として生まれる。1626年(寛永3)に南直義の跡を継ぎ浅水城主となる。1631年(寛永8)11月21日没。24才。法名「龍巖薀公大禅定門」。
南部利敬の墓碑
南部利敬
生 天明2年 (1782年)
没 文政3年 (1820年)
陸奥盛岡藩10代藩主。1782年(天明2)利正の次男として生まれる。1784年(天明4)7月父の死により2才で家督を継ぐ。年齢を誤魔化し、幕府には1779年(安永8)生まれと届ける。1795年(寛政7)2月将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)6月3日没。39才。法名「神鼎院殿龍嶽宗文大居士」。
南部利正の墓碑
南部利正
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥盛岡藩9代藩主。1752年(宝暦2)3月利視の6男として生まれる。始め南部信起の養子となる。1770年(明和7)4月将軍徳川家治に拝謁。1774年(安永3)12月盛岡藩南部利雄の養子となる。同月に再度徳川家治に拝謁。1780年(安永9)2月利雄の死により跡を継ぐ。1784年(天明4)5月25日没。33才。法名「義徳院殿南岳宗薫大居士」。
南部利視の墓碑
南部利視
生 宝永5年 (1708年)
没 宝暦2年 (1752年)
陸奥盛岡藩7代藩主。1708年(宝永5)信恩の次男として生まれる。父5代藩主信恩の死後生まれたため、叔父利幹が6代藩主となる。のちに家督を継ぎ、8代将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)4月4日没。45才。法名「天量院殿宣山宗明大居士」。
南部利謹の墓碑
南部利謹
生 延享3年 (1746年)
没 文化11年 (1814年)
1746年(延享3)利雄の長男として生まれる。1761年(宝暦11)2月将軍徳川家治に拝謁。素行に問題があり1774年(安永3)11月廃嫡となる。1814年(文化11)11月19日没。69才。法名「晋雲院殿天山恵祐大居士」。
南部利雄の墓碑
南部利雄
生 享保10年 (1725年)
没 安永8年 (1779年)
陸奥盛岡藩8代藩主。1725年(享保10)利幹の長男として生まれる。1738年(元文3)10月南部利視の養子となる。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)5月利視の死により家督を継ぐ。宝暦の飢饉などにより財政が圧迫。1779年(安永8)12月11日没。55才。法名「養源院殿機翁宗鑑大居士」。
南部広信の墓碑
南部広信
生 宝永3年 (1706年)
没 寛保元年 (1741年)
陸奥八戸藩4代藩主。1706年(宝永3)通信の長男として生まれる。1716年(享保元)10月父の死により跡を継ぐ。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)4月29日没。相続の都合で幕府には5月2日没としている。36才。法名「正見院殿覺雲宗智大居士」。
南部政直の墓碑
南部政直
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永元年 (1624年)
1599年(慶長4)利直の次男として生まれる。1613年(慶長18)花巻城主となる。南部家の重臣柏山明助を毒殺する際、明助を騙すため自らも毒を飲んで死亡。1624年(寛永元)10月23日没。26才。法名「海潮院殿天巌宗青大居士」。墓石は1周忌に建立。
南部義堯の墓碑
南部義堯
生 寛政6年 (1794年)
没 文政13年 (1830年)
遠野南部家9代当主。1794年(寛政6)八戸義応の子として生まれる。遠野南部家の八戸怡顔が没すると跡を継ぐ。1829年(文政12)より南部姓となる。藩主南部利用(善太郎)、利済がそれぞれ将軍徳川家斉に拝謁した際に供をする。1830年(文政13)5月3日没。37才。法名「天真院殿覺實英性大居士」。
南部行信の墓碑
南部行信
生 寛永19年 (1642年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩4代藩主。1642年(寛永19)8月重信の長男として生まれる。1664年(寛文6)4月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月父の隠居により家督を継ぐ。砲術と馬術に優れ、儒教に深く傾倒。1702年(元禄15)10月11日没。61才。法名「徳雲院殿玉翁宗珊大居士」。
南部通信の墓碑
南部通信
生 寛文13年 (1673年)
没 享保元年 (1716年)
陸奥八戸藩3代藩主。1673年(寛文13)2月陸奥盛岡藩3代藩主重信の子として生まれる。従兄の直政の末期養子となり陸奥八戸藩主となる。教養が高く、藩の改革をして発展に貢献。1716年(享保元)8月24日没。44才。法名「三玄院殿法林徹證大居士」。
南部重信の墓碑
南部重信
生 元和2年 (1616年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩3代藩主。1616年(元和2)5月利直の5男として生まれる。七戸家を継いだが、1664年(寛文4)盛岡藩主の兄重直が子無く没したため跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月家督を長男行信に譲って隠居する。1702年(元禄15)6月18日没。87才。法名「大源院殿雲山宗祥大居士」。
奥平昌成の墓碑
奥平昌成
生 元禄7年 (1694年)
没 延享3年 (1746年)
豊前中津藩初代藩主。1694年(元禄7)11月昌章の次男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により2才で下野宇都宮藩主となる。1697年(元禄10)宮津藩へ移封。1703年(元禄16)9月将軍徳川綱吉に拝謁。1717年(享保2)2月1万石加増で豊前中津藩10万石に移封。1746年(延享3)11月14日没。53才。法名「龍源院殿徳翁道見大居士」。
奥平昌敦の墓碑
奥平昌敦
生 享保9年 (1724年)
没 宝暦8年 (1758年)
豊前中津藩2代藩主。1724年(享保9)4月昌成の次男として生まれる。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。目安箱の設置や農政改革など藩政改革に尽力。1758年(宝暦8)9月26日没。35才。法名「方廣院殿雲峯道端大居士」。
奥平昌暢の墓碑
奥平昌暢
生 文化6年 (1809年)
没 天保3年 (1832年)
豊前中津藩6代藩主。1809年(文化6)1月昌高の次男として生まれる。1825年(文政8)5月父の隠居により家督を継ぐ。1832年(天保3)11月30日没。24才。法名「探源院殿心厳道轍大居士」。
奥平昌猷の墓碑
奥平昌猷
生 文化10年 (1813年)
没 天保13年 (1842年)
豊前中津藩7代藩主。1813年(文化10)3月昌高の5男として生まれる。兄昌暢が没したため1833年(天保4)1月跡を継ぐ。家臣を登用して藩政改革を行う。1842年(天保13)9月17日没。30才。法名「潜竜院殿大淵道珍大居士」。
奥平昌男の墓碑
奥平昌男
生 宝暦13年 (1763年)
没 天明6年 (1786年)
豊前中津藩4代藩主。1763年(宝暦13)6月昌鹿の長男として生まれる。1780年(安永9)父の死により家督を継ぐ。天明の大飢饉や家臣に実権を奪われるなどで失意のまま1786年(天明6)3月21日没。24才。法名「春徳院殿何屋道云大居士」。
奥平昌章の墓碑
奥平昌章
生 寛文8年 (1668年)
没 元禄8年 (1695年)
下野宇都宮藩主。1668年(寛文8)3月五島盛勝の次男として生まれる。1672年(寛文12)に山形藩主奥平昌能の末期養子となり、出羽山形藩2代藩主となる。1685年(貞享2)6月宇都宮藩に移封。1695年(元禄8)4月8日没。28才。法名「自性院殿真凉道如大居士」。
奥平昌章妻の墓碑
奥平昌章妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
奥平昌能の嫡女。五島盛勝の子昌章を婿として婚姻。昌章との間に、秋元喬房妻の1女を儲ける。1685年(貞享2)6月3日没。法名「真珠院殿圓室妙智大姉」。
奥平昌高の墓碑
奥平昌高
生 天明元年 (1781年)
没 安政2年 (1855年)
豊前中津藩5代藩主。1781年(天明元)11月島津重豪の次男として生まれる。1786年(天明6年)9月奥平昌男の末期養子として家督を継ぐ。1791年(寛政3)10月将軍徳川家斉に拝謁。実父の影響で蘭学が好きで自らオランダ語を学ぶ。シーボルトとも何度か交流している。1855年(安政2)6月10日没。75才。法名「龍徳院殿無方道応大居士」。
奥平昌高妻の墓碑
奥平昌高妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
奥平昌男の娘。島津重豪の次男昌高に嫁ぎ、昌高は奥平家の婿養子となる。昌高との間に子供が出来た記録はない。1801年(享和元)6月26日没。法名「本明院殿香室妙華大姉」。
奥平昌鹿の墓碑
奥平昌鹿
生 延享元年 (1744年)
没 安永9年 (1780年)
豊前中津藩3代藩主。1744年(延享元)7月昌敦の長男として生まれる。1758年(宝暦8)父の死により跡を継ぐ。蘭学やオランダ語に夢中で職務怠慢な藩医前野良沢を庇い、藩内に蘭学を奨励。1780年(安永9)7月24日没。37才。法名「興隆院殿悟渓道本大居士」。
松平忠彦妻の墓碑
松平忠彦妻
生 文化10年 (1813年)
没 万延元年 (1860年)
1813年(文化10)池田斉稷の娘として生まれる。名は繡子。はじめ池田斉衆と婚約するも早世。のち松平忠彦に嫁ぐ。1860年(万延元)閏3月27日没。48才。法名「勝徳院殿天桂壽考尼大姉」。
松平忠翼の墓碑
松平忠翼
生 安永9年 (1780年)
没 文政4年 (1821年)
奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩6代藩主。1780年(安永9)11月井伊直朗の次男として生まれる。松平忠和の養女を娶り、忠和の養子となる。1802年(享和2)忠和の死により家督を継ぐ。1821年(文政4)3月20日没。42才。法名「文明院殿厳恭道健大居士」。
松平忠翼妻の墓碑
松平忠翼妻
生 天明5年 (1785年)
没 文政3年 (1820年)
1785年(天明5)松平忠啓の娘として生まれる。名は周姫、国姫。松平忠和の養女として松平忠翼に嫁ぐ。1801年(享和元)6月長男忠堯を儲ける。1820年(文政3)1月10日没。36才。法名「顯徳院殿明禋成裕大姉」。
松平忠隆の墓碑
松平忠隆
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永9年 (1632年)
美濃加納藩3代藩主。1608年(慶長13)忠政の長男として生まれる。飛騨守。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。幼年のため祖父奥平信昌が後見人となり、信昌死後は祖母亀姫(徳川家康長女)が後見人となる。祖母亀姫死去のときは忠隆が喪主を務めたが、実際は叔父の松平忠明が仕切る。1632年(寛永9)1月5日没。25才。法名「實相院殿大林宗功大居士」。
松平清照の墓碑
松平清照
生 承応元年 (1652年)
没 貞享3年 (1686年)
1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。
松平清照妻の墓碑
松平清照妻
生 不明
没 寛保3年 (1743年)
安西意水の娘。松平清照に嫁ぎ、松平直常妻、牧野成春妻、忠雅の1男2女を儲ける。1743年(寛保3)10月25日没。法名「妙薫院殿戒雲慧香大姉」。
柳沢信鴻の墓碑
柳沢信鴻
生 享保9年 (1724年)
没 寛政4年 (1792年)
1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
柳沢信鴻妻の墓碑
柳沢信鴻妻
生 不明
没 天明5年 (1785年)
村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
桜庭統弧妻の墓碑
桜庭統弧妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
武田信玄の墓碑
武田信玄
生 大永元年 (1521年)
没 元亀4年 (1573年)
1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
武田勝頼の墓碑
武田勝頼
生 天文15年 (1546年)
没 天正10年 (1582年)
1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
永井直期妻の墓碑
永井直期妻
生 宝永5年 (1708年)
没 享保19年 (1734年)
1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
竹村嘉勝の墓碑
竹村嘉勝
生 慶長5年 (1600年)
没 寛永18年 (1641年)
1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
竹村嘉理の墓碑
竹村嘉理
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永8年 (1631年)
1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
赤井直正の墓碑
赤井直正
生 享禄2年 (1529年)
没 天正6年 (1578年)
1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
赤井直正妻の墓碑
赤井直正妻
生 不明
没 天正3年 (1575年)
近衛稙家の娘。赤井直正に嫁ぎ1女を儲ける。1575年(天正3)8月21日没。法名「渓江院殿月下笑光大姉」。墓石の施主は夫直正。
七戸舜信の墓碑
七戸舜信
生 天和2年 (1682年)
没 宝永3年 (1706年)
1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
七戸舜信妻の墓碑
七戸舜信妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
七戸愛信の娘。母は赤沢半左衛門の娘。七戸舜信の妻となり、舜信との間に八戸信有を儲ける。1720年(享保5)8月25日没。法名「龜徳院殿江月玅照大姉」。
三戸信丞妻の墓碑
三戸信丞妻
生 天明4年 (1784年)
没 文政8年 (1825年)
1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
南部利済妻の墓碑
南部利済妻
生 享和3年 (1803年)
没 文政12年 (1829年)
1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
南部利義妻の墓碑
南部利義妻
生 文政8年 (1825年)
没 弘化4年 (1847年)
1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
脇坂安秋妻の墓碑
脇坂安秋妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
諏訪頼久の娘。脇坂安秋に嫁ぐも子は出来ず。父や夫より早く1701年(元禄14)10月6日没。法名「瓊林院殿梅窓貞香大姉」。
諏訪忠倫の墓碑
諏訪忠倫
生 元文5年 (1740年)
没 延享4年 (1747年)
1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
諏訪忠厚の墓碑
諏訪忠厚
生 延享3年 (1746年)
没 文化9年 (1812年)
信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠尋の墓碑
諏訪忠尋
生 元禄8年 (1695年)
没 享保2年 (1717年)
1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠恒の墓碑
諏訪忠恒
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦3年 (1657年)
信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠恒妻(月江院)の墓碑
諏訪忠恒妻(月江院)
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。