毛利斉熙妻の墓碑
毛利斉熙妻
生 寛政10年 (1798年)
没 安政3年 (1856年)
1798年(寛政10)池田治道の3女として生まれる。1810年(文化7)1月毛利斉熙に嫁ぐ。1856年(安政3)12月24日没。59才。法名「法鏡院殿真光恵明大姉」。
毛利吉元妻(法林院)の墓碑
毛利吉元妻(法林院)
生 貞享2年 (1685年)
没 宝暦11年 (1761年)
1685年(貞享2)池田綱政の次女として生まれる。吉元の間に、宗元、齋宮、元陳、島津綱豊妻の3男1女を儲ける。1761年(宝暦11)3月8日没。77才。法名「法林院殿壽昌浄榮大姉」。
毛利吉広の墓碑
毛利吉広
生 延宝元年 (1673年)
没 宝永4年 (1707年)
長州藩4代藩主。1673年(延宝元)1月12日綱広の次男として生まれる。右田毛利就信の養子となるも、兄吉就が子が無く没したため長州藩を継ぐ。徳川綱吉に拝謁して1字を賜い、吉広と名乗る。1707年(宝永4)10月13日没。35才。法名「青雲院殿徹山道照大居士」。
毛利吉広妻の墓碑
毛利吉広妻
生 元禄5年 (1692年)
没 元文4年 (1739年)
1692年(元禄5)鷹司輔信の次女として生まれる。名は小石姫。1703年(元禄16)9月吉広と結婚。吉広との間には子供が出来ず。1739年(元文4)8月22日没。48才。法名「養心院殿浄室負観大禅定尼」。
毛利治親の墓碑
毛利治親
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政3年 (1791年)
長州藩8代藩主。1754年(宝暦4)6月15日重就の4男として生まれる。10代将軍徳川家治から1字を与えられ治元と名乗る。(のちに治親に改名)1791年(寛政3)6月12日没。38才。法名「容徳院殿仁山応壽大居士」。
毛利治親妻(邦媛院)の墓碑
毛利治親妻(邦媛院)
生 宝暦6年 (1756年)
没 文化12年 (1815年)
1756年(宝暦6)徳川宗武の5女として生まれる。治親との間に美喜姫、多美姫の2女を儲ける。1815年(文化12)6月4日没。60才。法名「邦媛院殿壽山展興大姉」。
毛利宗広の墓碑
毛利宗広
生 享保2年 (1717年)
没 寛延4年 (1751年)
長州藩6代藩主。1717年(享保2)7月6日吉元の5男として生まれる。1727年(享保12)徳川吉宗より1字を賜り宗広と名乗る。父の死により1731年(享保16)10月跡を継ぐ。1751年(寛延4)2月4日没。25才。法名「観光院殿天倫常沢大居士」。
毛利宗広妻の墓碑
毛利宗広妻
生 享保7年 (1722年)
没 元文5年 (1740年)
1722年(享保7)越前松平宗昌の長女として生まれる。1738年(元文3)宗広と結婚。宗広との間に豊姫の1女を儲ける。1740年(元文5)3月7日没。19才。法名「融芳院殿宣譽現笑和光大姉」。
毛利吉元の墓碑
毛利吉元
生 延宝5年 (1677年)
没 享保16年 (1731年)
長州藩5代藩主。1677年(延宝5)8月24日綱元の長男として生まれる。毛利本家の吉広が亡くなると養嗣子となり本家を継ぐ。毛利家の支藩徳山藩毛利元次と揉め事を起し、幕府も介入して徳山藩は改易となる。(万役山事件)1731年(享保16)9月13日没。55才。法名「泰桓院殿仰岳浄高大居士」。
鴻池又市の墓碑
鴻池又市
生 不明
没 不明
鴻池又右衛門之休の4男。初め豆葉屋四郎右衛門の養子となるも、のちに実家に戻ったと思われる。法名「直翁玄指居士」。
佐世広玄の墓碑
佐世広玄
生 貞享2年 (1685年)
没 享保16年 (1731年)
長州毛利家家臣。1685年(貞享2)宣直の子として生まれる。伯父広長の養子となり跡を継ぐ。1731年(享保16)9月29日没。47才。法名「忠山宗節居士」。
佐世広玄妻の墓碑
佐世広玄妻
生 不明
没 宝暦3年 (1753年)
詳細不明なるも益田就高の娘と思われる。1753年(宝暦3)1月21日没。法名「眞〇院節操妙義大姉」。
佐世広長妻の墓碑
佐世広長妻
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
毛利就泰の長女。佐世広長に嫁ぐ。広長との間に子は出来ず。1712年(正徳2)2月27日没。法名「桂光院殿昌顔自久大姉」。夫広長は1714年(正徳4)に桂光院(山口市阿東地福上)で彼女の追善菩提を弔っている。
松平忠啓妻の墓碑
松平忠啓妻
生 宝暦5年 (1755年)
没 安永8年 (1779年)
1755年(宝暦5)2月28日毛利重就の6女として生まれる。名は澄姫。1775年(安永4)6月3日忍城主松平忠啓に嫁ぐ。忠啓との間に、男子1人を儲ける。1779年(安永8)6月29日没。25才。法名「蘭蕙院殿孤芳智秀大姉」。
勝田典愛妻の墓碑
勝田典愛妻
生 不明
没 正徳5年 (1715年)
矢島治太夫の長女。典愛との間に愛通の1男を儲ける。1715年(正徳5)5月14日没。法名「貞鏡院殿照誉法忍大姉」。墓石側面には「矢嶋氏治太夫藤原安貞嫡女」とある。
徳川秀忠妻①の墓碑
徳川秀忠妻①
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
浅井長政の3女として近江国小谷に生まれる。母は織田信長の妹お市の方。お江、小督、お江与ともいい崇源院は諡号。姉に淀殿、常高院がいる。豊臣秀吉の意向により佐治一成に嫁ぐ。一成が小牧長久手の戦いのときに秀吉に敵対したため、離縁。その後、秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁ぎ、女子(豊臣完子)を儲ける。秀勝が病没すると、徳川秀忠に再婚。秀忠との間に、千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の2男5女を儲ける。1626年(寛永3)9月15日没。法名「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。
土屋忠直①の墓碑
土屋忠直①
生 天正6年 (1578年)
没 慶長17年 (1612年)
上総久留里藩初代藩主。1578年(天正6)昌恒の長男として生まれる。父は武田家の家臣で武田家滅亡の時に殉じた。忠直は、母に連れられて駿河国に逃れ清見寺にて成長した。1588年(天正16)徳川家康が鷹狩のとき清見寺に立寄ったときに召される。翌年より家康3男秀忠の近習として仕える。1600年(慶長5)上田城攻めに従う。1602年(慶長7)上総久留里で2万石を与えらる。1612年(慶長17)3月24日没。35才。法名「圓覚寺殿琴窓淨閑大居士」。
土屋利直の墓碑
土屋利直
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝3年 (1675年)
上総久留里藩2代藩主。1607年(慶長12)忠直の長男として生まれる。1612年(慶長17)遺領を継ぎ、徳川家康に拝謁。大坂の陣のときには箱根を警備。1675年(延宝3)閏4月24日没。69才。法名「普乾院殿俊林道英大居士」。
土屋喬直の墓碑
土屋喬直
生 寛文6年 (1666年)
没 享保10年 (1725年)
1666年(寛文6)利直の3男として生まれる。幕府の寄合となる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1725年(享保10)8月23日没。60才。法名「鐡心院殿禪閑義透居士」。
土屋安直の墓碑
土屋安直
生 元禄12年 (1699年)
没 元文2年 (1737年)
1699年(元禄12)喬直の長男として生まれる。1710年(宝永7)9月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1725年(享保10)11月跡を継ぐ。1737年(元文2)8月1日没。39才。法名「嶺雲院殿蘆淵以白居士」。
土屋倫直の墓碑
土屋倫直
生 元禄15年 (1702年)
没 元文5年 (1740年)
1702年(元禄15)喬直の3男として生まれる。兄安直の養子となり、安直の死により1737年(元文2)11月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1740年(元文5)4月9日没。39才。法名「普光院殿本照了然居士」。
土屋易直の墓碑
土屋易直
生 享保10年 (1725年)
没 明和5年 (1768年)
1725年(享保10)亮直の次男として生まれる。倫直の養子となり、倫直の死により1740年(元文5)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。勤務を怠ることが多く出仕をめられるものち赦される。1768年(明和5)1月2日没。44才。法名「紹得院殿體然元空居士」。
土屋盛直の墓碑
土屋盛直
生 明和5年 (1768年)
没 寛政5年 (1793年)
1768年(明和5)渡邊寛綱の次男として生まれる。土屋匡直の養子となり、匡直の隠居により1793年(寛政5)4月跡を継ぐ。1793年(寛政5)8月4日没。26才。法名「正○院殿了道宗直居士」。
米倉宗継の墓碑
米倉宗継
生 不明
没 天正3年 (1575年)
武田信玄、勝頼に仕える。1552年(天文21)8月竹束を使い苅谷原城攻めを行う。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いで討死。
米倉忠継の墓碑
米倉忠継
生 天文2年 (1533年)
没 天正19年 (1591年)
1533年(天文2)宗継の長男として生まれる。武田家滅亡後、徳川家康の家臣となる。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1591年(天正19)4月20日没。59才。法名「放光院殿陵山殊元居士」。
米倉信継の墓碑
米倉信継
生 天文17年 (1548年)
没 寛永13年 (1636年)
1548年(天文17)宗継の次男として生まれる。兄忠継とともに家康に仕える。兄が没したとき、養子となり跡を継ぐ。関ヶ原の戦い、大坂の両陣に参戦。1636年(寛永13)4月8日没。89才。法名「米倉院殿無常道心居士」。
米倉永時の墓碑
米倉永時
生 不明
没 寛永元年 (1624年)
信継の長男。家康に仕え関ヶ原の戦いに従う。大久保長安の不正を調べるため佐渡島に赴く。1624年(寛永元)2月2日没。55才または56才。法名「大虚院殿天誉道普居士」。
有馬直純①の墓碑
有馬直純①
生 天正14年 (1586年)
没 寛永18年 (1641年)
1586年(天正14)晴信の長男として生まれる。1612年(慶長17)に父が岡本大八事件によって死罪となると、直純には罪が及ばず跡を継ぐ。1614年(慶長19)7月に日向延岡に転封。1637年(寛永14)旧領で起こった島原の乱に参戦。1641年(寛永18)4月25日没。56才。法名「松園院殿光山宗和大居士」。
水野忠成の墓碑
水野忠成
生 宝暦12年 (1762年)
没 天保5年 (1834年)
駿河沼津藩2代藩主。1762年(宝暦12)12月岡野知暁の次男として生まれる。1778年(安永7)水野忠隣の末期養子となる。1785年(天明5)水野忠友の養子となり、忠友の死後跡を継ぐ。将軍徳川家斉のもと老中首座となり、賄賂政治を行う。1834年(天保5)2月28日没。73才。法名「巍徳院殿光譽成榮融鑑大居士」。
水野忠武の墓碑
水野忠武
生 文政7年 (1824年)
没 天保15年 (1844年)
駿河沼津藩4代藩主。1824年(文政7)7月忠義の次男として生まれる。1842年(天保13)父の死により家督を継ぐ。1844年(天保15)7月10日没。21才。法名「恒徳院殿道誉赫然曜武大居士」。
水野忠友の墓碑
水野忠友
生 享保16年 (1731年)
没 享和2年 (1802年)
駿河沼津藩初代藩主。1731年(享保16)2月忠穀の長男として生まれる。田沼意次のもと老中まで出世する。しかし意次失脚により免職。その後、西丸老中となる。1802年(享和2)9月19日没。72才。法名「修徳院殿譲譽興仁懿翁大居士」。
水野忠義の墓碑
水野忠義
生 寛政4年 (1792年)
没 天保13年 (1842年)
駿河沼津藩3代藩主。1792年(寛政4)9月忠成の3男として生まれる。1834年(天保5)の父の死により跡を継ぐ。1842年(天保13)1月19日没。51才。法名「共徳院殿寛誉泰安義山大居士」。
馬場信房の墓碑
馬場信房
生 永正11年 (1514年)
没 天正3年 (1575年)
教来石信保の子。1514年(永正11)生まれ。美濃守。信春とも。武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕える。1572年(元亀3)三方原の戦いでは徳川家康を追い詰める。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いのとき討死。62才。法名「信翁乾忠居士」。
馬場昌房の墓碑
馬場昌房
生 不明
没 不明
信房の長男。信忠とも。父が討死した後に跡を継ぐ。1582年(天正10)信濃深志城で討死したとも、信濃牧之島城で討死したともいう。法名「蓮華院照山慈源大居士」。
本山彦一の墓碑
本山彦一
生 嘉永6年 (1853年)
没 昭和7年 (1932年)
1853年(嘉永6)8月熊本藩士本山四郎作の長男として生まれる。1854年(元治元)跡を継ぐ。明治になると実業家として活躍。大阪毎日新聞社に相談役として就任。社長の原敬が内務大臣に就任すると後任として社長となる。大阪毎日新聞社を全国紙まで発展させ、現在の毎日新聞の祖となる。1932年(昭和7)12月30日没。80才。法名「光月院雪操松陰大居士」。
稲富祐直①の墓碑
稲富祐直①
生 天文21年 (1552年)
没 慶長16年 (1611年)
1552年(天文21)直秀の子として生まれる。鉄砲の名手で稲富流砲術として有名。一色氏に仕え、のち細川忠興に仕える。1600年(慶長5)忠興妻ガラシャの警備をするが、ガラシャが自害すると逐電。忠興は激怒するも徳川家康が宥め、家康や家康4男松平忠吉に仕える。1611年(慶長16)2月6日没。法名「庸珠院殿泰譽榮閑一無居士」。
戸田忠能①の墓碑
戸田忠能①
生 天正14年 (1586年)
没 正保4年 (1647年)
1586年(天正14)三河生まれ。父は尊次。1598年(慶長3)13才のとき徳川家康に拝謁。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに父とともに従う。大坂冬の陣では2代将軍秀忠に従い、翌年の夏の陣では家康10男頼宣に従う。1647年(正保4)1月3日没。62才。法名「道林寺殿一機全通大居士」。
小笠原秀政妻①の墓碑
小笠原秀政妻①
生 天正4年 (1576年)
没 慶長12年 (1607年)
1576年(天正4)3月徳川家康の長男松平信康と織田信長の長女徳姫の子として生まれる。名は福姫、登久姫。1589年(天正17)8月小笠原秀政に嫁ぎ、蜂須賀至鎮室(敬台院)、忠脩、忠真、細川忠利室(保寿院)、忠知、松平重直、忠慶、長俊の6男2女を儲ける。1607年(慶長12)10月18日夫の領地信濃国飯田で没。32才。法名「峯高院殿高月峰譽智廓大禅定尼」。
秋元永朝の墓碑
秋元永朝
生 元文3年 (1738年)
没 文化7年 (1810年)
出羽山形藩2代藩主。1738年(元文3)4月上田義当の4男として生まれる。1760年(宝暦10)2月秋元凉朝の養子となり凉朝の隠居に伴い跡を継ぐ。1810年(文化7)7月9日没。73才。法名「大隆院殿慈寛永朝大居士」。
秋元永朝妻の墓碑
秋元永朝妻
生 不明
没 文政6年 (1823年)
牧野貞長の娘で、初め本多忠粛に嫁ぎ忠粛没後に永朝に嫁ぐ。永朝との間に久朝を儲ける。1823年(文政6)11月29日没。「長壽院殿慧光妙照大姉」。
秋元久朝の墓碑
秋元久朝
生 寛政4年 (1792年)
没 弘化4年 (1847年)
出羽山形藩3代藩主。1792年(寛政4)閏2月永朝の5男として生まれる。1839年(天保10)4月隠居。1847年(弘化4)10月19日没。56才。「享徳院殿哲明久朝大居士」。
上杉景勝①の墓碑
上杉景勝①
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治元)長尾政景の次男として生まれる。上杉謙信の養子となり、謙信死後相続争いで勝利して跡を継いだ。豊臣秀吉に従い、会津120万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのとき、西軍に付いたため戦後出羽米沢30万石に移封。大坂の陣のときは徳川方として出陣。1623年(元和9)3月20日没。法名「覺上院殿法印権大僧都宗心法印」。廟内には謙信と景勝の石碑がある。(2枚目の写真)
井伊直幸妻(本覺院)の墓碑
井伊直幸妻(本覺院)
生 不明
没 安永6年 (1777年)
江見氏。直幸との間に瀬与姫(世与姫・勢与姫)の1女を儲ける。1777年(安永6)10月10日没。法名「本覺院殿慧空妙性大姉」。
井伊直惟妻の墓碑
井伊直惟妻
生 不明
没 安永5年 (1776年)
堀部氏。直惟との間に大通寺真応妻、直幸の1男1女を儲ける。1776年(安永5)5月3日没。法名「壽慶院殿」。
松平康哉妻の墓碑
松平康哉妻
生 宝暦6年 (1756年)
没 安永6年 (1777年)
1756年(宝暦6)井伊直幸の娘として生まれる。世与姫。松平康哉に嫁ぐ。1777年(安永6)7月31日没。22才。法名「信源院殿輭誉蒙光貞温大姉」。
土方雄久①の墓碑
土方雄久①
生 天文22年 (1553年)
没 慶長13年 (1608年)
下総多古藩初代藩主。1553年(天文22)信治の子として生まれる。織田信雄に仕え1字を賜り雄久と名乗る。その後、豊臣秀吉に仕える。1599年(慶長4)徳川家康の暗殺疑惑により改易。その後、家康に仕える。1604年(慶長9)下総多古藩主となる。1608年(慶長13)11月12日没。56才。法名「功運建忠大居士」。
土方雄重の墓碑
土方雄重
生 文禄元年 (1592年)
没 寛永5年 (1628年)
陸奥窪田藩初代藩主。1592年(文禄元)雄久の次男として生まれる。父の死により1609年(慶長14)2月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1622年(元和8)9月加増移封により。陸奥窪田藩主となる。1628年(寛永5)12月29日没。37才。法名「雪江了寒大居士」。
土方雄次の墓碑
土方雄次
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝8年 (1680年)
陸奥窪田藩2代藩主。1611年(慶長16)雄重の長男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1629年(寛永6)2月跡を継ぐ。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)1月28日没。70才。法名「淨光院殿江月淨澄大居士」。
土方雄賀の墓碑
土方雄賀
生 不明
没 正徳元年 (1711年)
雄次の3男。1659年(万治2)7月将軍徳川家綱に拝謁。父の遺領のうち2千石を賜う。1695年(元禄8)12月隠居。1711年(正徳元)4月14日没。法名「慈景」。
土方保江の墓碑
土方保江
生 天和3年 (1683年)
没 延享2年 (1745年)
1683年(天和3)雄賀の子として生まれる。父の隠居により1695年(元禄8)12月跡を継ぐ。1696年(元禄9)8月将軍徳川綱吉に拝謁。1745年(延享2)2月12日没。63才。法名「日長」。