織田信長の墓碑
織田信長
生 天文3年 (1534年)
没 天正10年 (1582年)
1534年(天文3)5月信秀の次男として生まれる。尾張一国を統一後、1560年(永禄3)桶狭間で今川義元を討取る。その後、斉藤氏、浅井氏、朝倉氏、武田氏などを滅ぼす。1582年(天正10)6月2日、家臣明智光秀の謀反により死す。49才。法名「總見寺殿贈大相國一品泰巖大居士」。
織田信邦の墓碑
織田信邦
生 延享2年 (1745年)
没 天明3年 (1783年)
上野小幡藩7代藩主。1745年(延享2)信栄の4男として生まれる。1764年(明和元)7月小幡藩主織田信富の末期養子として家督を相続。同年8月将軍徳川家治に拝謁。明和事件の影響で1762年(明和4)8月幕府の命により隠居させられる。さらに出羽高畠藩に移封となる。1783年(天明3)7月8日没。39才。法名「淨翁院殿黙巖了然大居士」。墓石裏面では38才没となっている。
織田信良の墓碑
織田信良
生 天正12年 (1584年)
没 寛永3年 (1626年)
上野小幡藩初代藩主。1584年(天正12)信雄の4男として生まれる。母は木造具政の娘。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、父信雄は中立、兄秀雄は西軍に付いたが信良の動向は不明。また大坂の陣のときの動向も不明。父より、上野甘楽郡などで2万石を与えられ小幡藩初代藩主となる。1626年(寛永3)5月17日没。43才。法名「心芳院殿松巌浄清大居士」。
織田信美妻の墓碑
織田信美妻
生 寛政9年 (1797年)
没 文化13年 (1816年)
1797年(寛政9)大村純鎮の3女として生まれる。名は章姫。織田信美に嫁ぐ。1816年(文化13)5月4日没。20才。法名「守節院殿貞室妙璨大姉」。墓石は夫信美の建立による。墓石裏面に信美室、純鎮女、没年、享年などが刻まれている。
織田信美の墓碑
織田信美
生 寛政5年 (1793年)
没 天保7年 (1836年)
出羽高畠藩2代藩主。出羽天童藩初代藩主。1793年(寛政5)7月信浮の9男として生まれる。1810年(文化7)11月将軍徳川家斉に拝謁。1818年(文政元)12月父の死により家督を継ぐ。1836年(天保7)8月4日没。44才。法名「恭徳院殿清巖良義大居士」。
織田信盛の墓碑
織田信盛
生 寛文元年 (1661年)
没 貞享2年 (1685年)
1661年(寛文元)信久の長男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1685年(貞享2)6月15日没。25才。法名「霊源院殿皎厳凉潔大居士」。
織田信浮の墓碑
織田信浮
生 寛延4年 (1751年)
没 文政元年 (1818年)
出羽高畠藩初代藩主。1751年(寛延4)8月信栄の5男として生まれる。上野小幡藩7代藩主織田信邦が明和事件により蟄居となると、陸奥、出羽に転封のうえ家督を継ぐ。1768年(明和5)出羽高畠に陣屋を定める。1770年(明和7)11月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)11月19日没。68才。法名「瑞岡院殿徳巖俊峰大居士」。
織田信昌の墓碑
織田信昌
生 寛永2年 (1625年)
没 慶安3年 (1650年)
上野小幡藩2代藩主。1625年(寛永2)信良の次男として生まれる。翌年、父の死により2才で家督を継ぐ。1631年(寛永8)2月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)7月9日没。26才。法名「宝泰院殿節巌英忠大居士」。
織田信就の墓碑
織田信就
生 寛文元年 (1661年)
没 享保16年 (1731年)
上野小幡藩4代藩主。1661年(寛文元)信久の次男として生まれる。跡取りの兄信盛と弟信知(共に正室の子)が若く没したため嫡子となる。1694年(元禄7)将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)8月父の死により家督を継ぐ。1731年(享保16)6月10日没。71才。法名「乾瑞院殿亭巌元貞大居士」。
織田信富の墓碑
織田信富
生 享保8年 (1723年)
没 明和元年 (1764年)
上野小幡藩6代藩主。1723年(享保8)信就の7男として生まれる。1757年(宝暦7)12月兄信右の養子となる。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1759年(宝暦9)11月信右の隠居により跡を継ぐ。1764年(明和元)6月7日没。42才。法名「南溟院殿搏巖宗翼大居士」。
織田信右の墓碑
織田信右
生 正徳3年 (1713年)
没 宝暦12年 (1762年)
上野小幡藩5代藩主。1713年(正徳3)信就の4男として生まれる。1730年(享保15)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)7月父の死により家督を継ぐ。1762年(宝暦12)8月18日没。50才。法名「桃溪院殿仙巌宗壽大居士」。寛政重修諸家譜は1713年(正徳3)生まれの50才没、墓石裏面には1716年(享保元)8月生まれの47才没とある。
織田信久の墓碑
織田信久
生 寛永20年 (1643年)
没 正徳4年 (1714年)
上野小幡藩3代藩主。1643年(寛永20)高長の4男として生まれる。1650年(慶安3)9月従兄の信昌の末期養子として家督を相続、同年11月将軍徳川家光に拝謁。藩主として64年務める。1714年(正徳4)7月8日没。72才。法名「凌雲院殿嶮巌維峻大居士」。
筒井順慶の墓碑
筒井順慶
生 天文18年 (1549年)
没 天正12年 (1584年)
1549年(天文18)3月順昭の子として生まれる。1565年(永禄8)松永久秀により居城筒井城を追われるも1566年(永禄9)6月に奪還。1571年(元亀2)より織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)8月11日没。36才。法名「順慶法印」。
真田信音妻の墓碑
真田信音妻
生 不明
没 延宝9年 (1681年)
松平典信の娘。真田信音に嫁ぐ。1681年(延宝9)8月5日没。法名「芙蓉院殿香臺榮薫大姉」。墓石は弟信利の子、松平豊前守信庸の建立による。
浅野斉賢妻の墓碑
浅野斉賢妻
生 安永9年 (1780年)
没 寛政8年 (1796年)
1780年(安永9)7月有栖川織仁親王の第1王女として生まれる。母は鷹司輔平の娘。織子女王。浅野斉賢に嫁ぐ。1796年(寛政8)5月29日没。17才。法名「翺翔院」。妹の子に徳川慶喜がいる。墓石は父織仁親王が浅野家と交渉のうえ遺髪を埋めた塔である。
池田輝政の墓碑
池田輝政
生 永禄7年 (1564年)
没 慶長18年 (1613年)
1564年(永禄7)12月恒興の次男として生まれる。織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が徳川家康軍によって討ち取られると家督を継ぐ。その後秀吉の仲介により家康の次女督姫を娶る。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付き、戦後大幅に加増され播磨で52万石を領した。1613年(慶長18)1月25日没。50才。法名「国清院殿泰叟玄高大居士」。
池田忠継の墓碑
池田忠継
生 慶長4年 (1599年)
没 慶長20年 (1615年)
1599年(慶長4)2月輝政の5男として生まれる。母は徳川家康の次女督姫。1603年(慶長8)5才のとき備前国岡山で28万石を与えられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参陣。1615年(慶長20)2月23日没。17才。法名「龍峯寺殿雲臺元祥大居士」。
池田光政娘の墓碑
池田光政娘
生 正保2年 (1645年)
没 延宝7年 (1679年)
1645年(正保2)池田光政の娘として生まれる。名は六姫。1658年(万治元)池田由貞の元に嫁ぐ。しかし由貞は嫉妬深い六姫に耐えれず逐電。のち切腹。その後、滝川一宗と再婚。しかし夫の一宗が他の女性と一緒にいたため、夫を殺害。鬼姫と呼ばれたという。1679年(延宝7)12月25日没。35才。法名「成徳院殿見巖永性大禅定尼」。
松平頼重の墓碑
松平頼重
生 元和8年 (1622年)
没 元禄8年 (1695年)
1622年(元和8)7月徳川頼房の嫡男として生まれる。徳川光圀(水戸黄門)の兄。故有って頼房から堕胎を命じられたが、密かに三木之次夫妻に養育される。嫡男だったが家は弟光圀が継ぎ、次男扱いとなる。1642年(寛永19)讃岐高松で12万石。1695年(元禄8)4月12日没。74才。法名「龍雲院殿雄蓮社大譽孤峯源英大居士」。
松平康信妻の墓碑
松平康信妻
生 不明
没 不明
酒井忠勝(小浜)の娘。はじめ徳川忠長家臣の朝倉宣親に嫁ぎ、重正の1男を儲ける。のち松平康信に嫁ぎ、土屋政直妻の1女を儲ける。法名「長松院殿勝室元殊大姉」。
末吉利長の墓碑
末吉利長
生 正保4年 (1647年)
没 貞享3年 (1686年)
1647年(正保4)長明の子として生まれる。父の死により1653年(承応2)12月跡を継ぐ。1664年(寛文4)6月将軍徳川家綱に拝謁。1686年(貞享3)9月6日没。40才。法名「成等院殿松譽寒貞大居士」。墓石は息子勘太郎嘉于の建立による。寛政重修諸家譜の法名は「貞寒」とあるが墓石の「寒貞」が正しいと思われる。
末吉利方の墓碑
末吉利方
生 大永6年 (1526年)
没 慶長12年 (1607年)
1526年(大永6)平野行増の次男として生まれる。西末吉家の祖。平野郷の豪商として織田信長、豊臣秀吉に仕え、商業の他代官も兼ねる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1607年(慶長12)3月5日没。82才。法名「道鑑」。
木下延次妻の墓碑
木下延次妻
生 不明
没 慶安3年 (1650年)
里見忠義の次女。大久保忠常の養女となり、木下延次に嫁ぐ。延次との間に延知を儲ける。1650年(慶安3)1月20日没。法名「圓光院殿寶月貞璃大姉」。
有栖川宮韶仁親王の墓碑
有栖川宮韶仁親王
生 天明4年 (1784年)
没 弘化2年 (1845年)
有栖川宮7代当主。1784年(天明4)12月織仁親王の第2皇子として生まれる。1807年(文化4)光格天皇の猶子となる。1808年(文化5)親王宣下をする。1822年(文政5)に二品。1845年(弘化2)2月26日没。62才。法名「大功徳院」。
有栖川宮職仁親王の墓碑
有栖川宮職仁親王
生 正徳3年 (1713年)
没 享保元年 (1716年)
有栖川宮5代当主。1713年(正徳3)9月霊元天皇の第17皇子として生まれる。1716年(享保元)有栖川宮正仁親王が嗣子なく没したため有栖川宮家を継ぐ。歌道、書道に優れ、有栖川流書道を創始者となる。1769年(明和6)10月20日没。57才。法名「本朋圓心院」。
有栖川宮織仁親王の墓碑
有栖川宮織仁親王
生 宝暦3年 (1753年)
没 文政3年 (1820年)
有栖川宮6代当主。1753年(宝暦3)7月職仁親王の第7王子として生まれる。1762年(宝暦12)桃園天皇の猶子となる。1763年(宝暦13)親王宣下をする。1811年(文化8)に一品。1820年(文政3)2月19日没。68才。法名「文聚院」。
戸祭源兵衛の墓碑
戸祭源兵衛
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
名は定経。内田正信の家臣。主君正信が徳川家光に殉死すると、1651年(慶安4)4月20日源兵衛も殉死する。法名「一翁圓心居士」。
戸田種辰の墓碑
戸田種辰
生 宝永2年 (1705年)
没 天明2年 (1782年)
1705年(宝永2)松平信庸の4男として生まれる。戸田重澄の養子となる。1718年(享保3)7月将軍徳川吉宗に拝謁。翌年重澄の死により跡を継ぐ。小姓組の番頭、御書院の番頭、大番頭を務める。1782年(天明2)9月17日没。78才。法名「如雲」。
大森頼隆妻の墓碑
大森頼隆妻
生 明暦3年 (1657年)
没 天和2年 (1682年)
1657年(明暦3)秋月種信の4女として生まれる。大森頼隆に嫁ぎ、松千代、女子の1男1女を儲ける。1682年(天和2)7月5日没。26才。法名「月照院殿凉岩知清大姉」。
大森頼隆の墓碑
大森頼隆
生 明暦3年 (1657年)
没 宝永4年 (1707年)
1657年(明暦3)頼直の子として生まれる。1667年(寛文7)閏2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。1707年(宝永4)1月4日没。51才。法名「勇猛院殿心傳了空居士」。
土屋政直妻の墓碑
土屋政直妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
松平康信の娘。土屋政直に嫁ぎ、式部、照直の2男を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。法名「圓應院殿泰性妙恵大姉」。
内田正信の墓碑
内田正信
生 慶長18年 (1613年)
没 慶安4年 (1651年)
下野鹿沼藩初代藩主。1613年(慶長18)正世の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。家光のもとで出世、1649年(慶安2)8月下野で1万5千石を領す。1651年(慶安4)4月20日家光が没すると同日に殉死。39才。法名「理明院殿光徳徹宗大居士」。
佐久間実勝の墓碑
佐久間実勝
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永19年 (1642年)
1570年(元亀元)政実の子として生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え、のちに徳川幕府の旗本として仕える。1609年(慶長14)名古屋城築城の奉行となる。茶人として有名で、宗可流の開祖となり山隠宗可と号す。晩年は京都大徳寺内に寸松庵を建立して過ごす。1642年(寛永19)9月22日没。73才。法名「寸松庵山隠宗可居士」。
佐久間佐吉の墓碑
佐久間佐吉
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
詳細不明。墓石に「施主御内儀稲葉丹後守御息女」とあり妻は稲葉正勝の娘である。墓石によると、1641年(寛永18)1月18日没で法名「盡峯空縁禅定門」。寛政重修諸家譜に稲葉正勝の娘で佐久間佐吉の妻となった人物の記載はなく、さらに佐吉自身の記載もなく詳細不明。
青山幸成の墓碑
青山幸成
生 天正14年 (1586年)
没 寛永20年 (1643年)
1586年(天正14)忠成の4男として生まれる。徳川秀忠付の家臣となる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは木曽路の手前まで秀忠に従った。(木曽路が険しいため15才以下はそれより先は供奉させなかった)大坂冬の陣のときは直前に御勘気をこうむってながら、密かに参戦。夏の陣のときには御勘気を赦されており、家臣とともに活躍。1643年(寛永20)2月16日没。58才。法名「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」。
鍋島斉直の墓碑
鍋島斉直
生 安永9年 (1780年)
没 天保10年 (1839年)
肥前佐賀藩9代藩主。1780年(安永9)9月治茂の長男として生まれる。1805年(文化2)父の死により跡を継ぐ。将軍徳川家斉より1字を賜い、斉直と名乗る。1808年(文化5)長崎でフェートン号事件が起きると、長崎警備を怠っていたことで家臣数名切腹、斉直も100日の閉門となる。1839年(天保10)1月28日没。60才。法名「巍松院殿桂翁道栄大居士」。
鍋島忠直の墓碑
鍋島忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛永12年 (1635年)
1613年(慶長18)勝茂の4男として生まれる。1617年(元和3)3月将軍徳川秀忠に拝謁。4男だが母が徳川家康の養女のため跡取りとなる。秀忠より1字を賜い忠直と名乗る。跡を継ぐことなく1635年(寛永12)1月28日没。23才。法名「興国院殿敬英賢崇大居士」。
稲見主税の墓碑
稲見主税
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は稲見主膳成正とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、尼崎でその報を聞き旧恩に報いるため2月26日殉死した。法名「刄叟成銅居士」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。
福原熙賢の墓碑
福原熙賢
生 文化2年 (1805年)
没 天保7年 (1836年)
1805年(文化2)房純の長男として生まれる。主君毛利斉熙の1字を賜い、熙賢と名乗る。1836年(天保7)1月2日父が没するも、家督を継ぐことなく同年1月10日没。32才。法名「仁岳院殿湛源慧流大居士」。
福原房純妻の墓碑
福原房純妻
生 天明3年 (1783年)
没 天保7年 (1836年)
1783年(天明3)1月宍戸就年の長女として生まれる。名は於美年。福原房純に嫁ぎ、於美能、熙賢、宍戸元礼の2男1女を儲ける。1836年(天保7)1月2日に夫房純、同年1月12日に息子熙賢を亡くし、自身も同年12月8日没。54才。法名「淨體院殿保眞長養大姉」。
福原房純の墓碑
福原房純
生 明和9年 (1772年)
没 天保7年 (1836年)
1772年(明和9)毛利就馴の次男として生まれる。1791年(寛政3)5月福原就清の養子となる。同年8月就清が没すると同年11月跡を継ぐ。主君毛利斉房から1字を賜い、房純と名乗る。1836年(天保7)1月2日没。65才。法名「智徳院殿高巖義尚大居士」。
福原広頼の墓碑
福原広頼
生 天和3年 (1683年)
没 正徳4年 (1714年)
1683年(天和3)広俊の子として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。藩主毛利吉広より1字を賜い、広頼と名乗る。1714年(正徳4)3月11日没。32才。法名「英性院殿信岩宗雄居士」。
福原広門妻の墓碑
福原広門妻
生 享保20年 (1735年)
没 文化元年 (1804年)
1735年(享保20)毛利元雅の6女として生まれる。福原広門に嫁ぎ、就清、於亀槌、俊方、俊民の3男1女を儲ける。1804年(文化元)3月18日没。70才。法名「養壽院殿和室貞光大姉」。
福原広門の墓碑
福原広門
生 享保20年 (1735年)
没 寛政3年 (1791年)
1735年(享保20)3月元貞の長男として生まれる。父の死により1741年(寛保元)跡を継ぐ。1789年(天明9)隠居。1791年(寛政3)7月15日没。57才。法名「常在院殿月峯宗鑑居士」。
福原広泰の墓碑
福原広泰
生 元禄7年 (1694年)
没 享保10年 (1725年)
1694年(元禄7)5月広俊の末子として生まれる。はじめ毛利就詮の養子となる。家督を相続していた兄広頼が没したため、跡を継ぐ。1725年(享保10)4月11日没。32才。法名「性源院殿天峯道眞居士」。
福原広俊の墓碑
福原広俊
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄8年 (1695年)
1638年(寛永15)元俊の子として生まれる。主君毛利綱広より1字を賜い、広次を名乗り、後広俊と名乗る。1695年(元禄8)4月5日没。58才。法名「慈雲院殿乾底宗泉居士」。
福原就澄の墓碑
福原就澄
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄3年 (1690年)
1669年(寛文9)広俊の長男として生まれる。藩主毛利吉就から1字を賜ったと思われる。跡を継ぐことなく1690年(元禄3)8月18日没。22才。法名「心源院殿無外維安居士」。
福原就清の墓碑
福原就清
生 宝暦6年 (1756年)
没 寛政3年 (1791年)
1756年(宝暦6)6月広門の長男として生まれる。藩主毛利重就より1字を賜い、就郷(のち就清)と名乗る。父の隠居により1789年(寛政元)跡を継ぐ。1791年(寛政3)8月18日没。36才。法名「清風齋猗園信誓居士」。
神尾理介の墓碑
神尾理介
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は神野理助成通とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、同月18日殉死。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月17日に殉死とある。しかし墓石には「二月十八日」とあるので、こちらに従った。
浅野長矩の墓碑
浅野長矩
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄14年 (1701年)
播磨赤穂藩3代藩主。1667年(寛文7)8月長友の長男として生まれる。内匠頭。父の死により1675年(延宝3)3月跡を継ぐ。1701年(元禄14)3月14日勅使饗応役中、江戸城内にて吉良上野介に刃傷に及ぶ。激怒した将軍徳川綱吉により即日切腹となる。35才。法名「冷光院殿吹毛玄利大居士」。
池田仲庸の墓碑
池田仲庸
生 享保4年 (1719年)
没 宝暦8年 (1758年)
1719年(享保4)仲央の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)3月父の死により跡を継ぐ。1758年(宝暦8)6月12日没。40才。法名「青嶂院殿雲外弘庸大居士」。
池田仲央の墓碑
池田仲央
生 元禄5年 (1692年)
没 宝暦3年 (1753年)
1692年(元禄5)11月仲澄の次男として生まれる。1702年(元禄15)11月将軍徳川綱吉に拝謁。翌年9月父の隠居により跡を継ぐ。1753年(宝暦3)1月11日没。62才。法名「岌暾院殿活空徹玄大居士」。
武野紹鴎の墓碑
武野紹鴎
生 文亀2年 (1502年)
没 弘治元年 (1555年)
1502年(文亀2)信久の子として生まれる。連歌師、茶人。茶道は、千利休、今井宗久、津田宗達などを弟子として大きな影響を与える。1555年(弘治元)閏10月29日没。54才。法名「一閑紹鴎居士」。
武内宿禰の墓碑
武内宿禰
生 不明
没 不明
実在したかも疑問の古代の偉人。屋主忍男武雄心命の子。景行天皇から仁徳天皇の5代に仕えた忠臣。日本書記によると、景行天皇のときに棟梁之臣、成務天皇のときに大臣を務める。神功皇后のときに反乱を起こした忍熊皇子を破り、応神天皇のときに甘美内宿禰を破る。360才、295才、または280才で死亡したという。墓石は宗教家吉村長慶の建立による。
松平忠吉の墓碑
松平忠吉
生 天正8年 (1580年)
没 慶長12年 (1607年)
1580年(天正8)9月徳川家康の4男として生まれる。1592年(文禄元)武蔵忍城主となり10万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。戦後、美濃尾張で52万石となる。1607年(慶長12)3月5日没。28才。法名「性高院殿憲瑩玄伯大居士」。
松平定温妻の墓碑
松平定温妻
生 不明
没 寛延3年 (1750年)
池田仲央の娘。名は輝子。松平定温に嫁ぐ。1750年(寛延3)4月24日没。法名「光輪院殿貞譽正華亮仁大姉」。墓石は夫定温の建立による。「豫洲今治城主松平主水正定温」と墓石にあるが夫定温は伊予今治藩世嗣で城主として跡を継ぐ前に没している。
村越兵庫の墓碑
村越兵庫
生 不明
没 慶長5年 (1600年)
光勝の子。徳川家康に仕えるも勘気を被り、豊臣秀長、秀保に仕える。その後再び家康に仕える。1600年(慶長5)9月15日関ヶ原の戦いのときに、藤堂高虎に属して戦い討死。法名「照光院蘭月宗英大禅定門」。
村井長次妻の墓碑
村井長次妻
生 天正8年 (1580年)
没 寛永18年 (1641年)
1580年(天正8)5月7日前田利家の7女として生まれる。名は千世。1597年(慶長2)細川忠隆に嫁ぐものちに離縁。1605年(慶長10)前田家重臣の村井長次に嫁ぐ。1641年(寛永18)11月20日没。62才。法名「春高院殿昌慶」。墓石は1614年(慶長19)3月21日建立の逆修塔。のち、法名「春香院殿梅室昌薫大姉」となる。
本多正純の墓碑
本多正純
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永14年 (1637年)
1565年(永禄8)正信の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。大坂の両陣にも参戦。家康没後は2代将軍徳川秀忠の側近となるも、1622年(元和8)宇都宮城石垣の無断修理等の罪状嫌疑により失脚。晩年は出羽横手にて過ごす。1637年(寛永14)3月10日没。73才。法名「慧光院殿鐵顔宗智大居士」。
曽我部俊雄の墓碑
曽我部俊雄
生 明治6年 (1873年)
没 昭和24年 (1949年)
金剛流御詠歌の流祖。天野山金剛寺第76世座主。1873年(明治6)10月生まれ。1926年(大正15)4月金剛流詠歌団体を高野山大師教会内に設立する。金剛流御詠歌を編集、整備。現在も継続されている。1949年(昭和24)没。
岩沢半九郎の墓碑
岩沢半九郎
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は岩城平大夫成重ともある。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると殉死。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月19日に殉死とある。法名「清嚴勇心禅定門」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。墓石には主君の命日「二月十六日」が見える。
山本茂成の墓碑
山本茂成
生 永正12年 (1515年)
没 慶長5年 (1600年)
1515年(永正12)室正成の子として生まれる。父は三河牟呂城主だったが松平清康に攻められ自害。茂成は牧野家臣山本弥三郎茂門に引き取られる。本多百助信俊に属していたが、のち徳川家康に従う。家康長男信康に付属させられたが、信康自害後は隠棲。1600年(慶長5)7月3日没。86才。法名「星安長昌居士」。孫図書正春が紀伊徳川頼宣に仕え、恵運寺(和歌山市)を茂成のために建立している。墓石は茂成の4男唯右衛門等9人分の法名がある。
契沖の墓碑
契沖
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄14年 (1701年)
1640年(寛永17)下川元全の子として生まれる。真言宗の僧となり高野山にて阿闍梨を授けられる。歌人、国学者でもあり、万葉代匠記、和字正濫鈔などの作品を遺す。1701年(元禄14)1月25日没。62才。
大石良重の墓碑
大石良重
生 元和5年 (1619年)
没 天和3年 (1683年)
1619年(元和5)良勝の次男として生まれる。赤穂藩浅野長直に仕え家老職。1677年(延宝5)に兄良欽が没すると兄の子内蔵助良雄の後見人となる。1683年(天和3)5月18日没。法名「賢徳院殿義翁良達居士」。
伊東長貞妻の墓碑
伊東長貞妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
大久保教勝の娘。伊東長貞に嫁ぎ、長救、遠山友春妻、女子、縫殿之助、女子の2男3女を儲ける。1714年(正徳4)10月25日没。法名「舜功院殿成庵圓慈大姉」。墓石は息子信濃守長救の建立による。
伊東長貞の墓碑
伊東長貞
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄6年 (1693年)
備中岡田藩4代藩主。1643年(寛永20)長治の長男として生まれる。1654年(承応3)9月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1693年(元禄6)9月1日没。51才。法名「大僊院殿竺巖賢心大居士」。
伊東長裕の墓碑
伊東長裕
生 文化13年 (1816年)
没 万延元年 (1860年)
備中岡田藩9代藩主。1816年(文化13)5月長禎の長男として生まれる。1844年(天保15)4月将軍徳川家慶に拝謁。1850年(嘉永3)8月祖父長寛の死により跡を継ぐ。1860年(万延元)8月14日没。45才。法名「泰性院殿萬随義光大居士」。
伊東長治の墓碑
伊東長治
生 寛永5年 (1628年)
没 万治元年 (1658年)
備中岡田藩3代藩主。1628年(寛永5)長昌の長男として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1640年(寛永17)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月8日没。31才。 「興國院殿一関要無居士」。
今井宗薫の墓碑
今井宗薫
生 天文21年 (1552年)
没 寛永4年 (1627年)
1552年(天文21)宗久の子として生まれる。豊臣秀吉に御伽衆として仕える。秀吉死後は徳川家康に接近。家康の6男松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫との婚約を仲介。大坂冬の陣のときは大坂方に捕らえられる。織田有楽によって放たれ、高野山に逃れる。1627年(寛永4)4月11日没。76才。法名「天外宗薫」。
今井宗呑の墓碑
今井宗呑
生 不明
没 元和9年 (1623年)
宗薫の長男。彦八郎。大坂冬の陣のとき、大坂方に父とともに捕らえられる。織田有楽によって放たれ、父と高野山に逃れる。のち二条城にて父と徳川家康に拝謁。1623年(元和9)4月13日没。法名「不盡宗呑居士」。墓石は逆修塔。
今井宗久妻の墓碑
今井宗久妻
生 不明
没 文禄3年 (1594年)
詳細不明。夫と同じく茶の湯を嗜み、唐の時代の「茶経」を読破する。1594年(文禄3)7月5日没。法名「瑞松院春芳宗榮」。
今井宗久の墓碑
今井宗久
生 永正17年 (1520年)
没 文禄2年 (1593年)
1520年(永正17)氏高の子として生まれる。武野紹鴎に茶を学び、その娘を妻とする。紹鴎の遺産を巡り、武野宗瓦と争い織田信長の裁決により勝つ。織田信長、豊臣秀吉に従い、堺商人として活躍。茶会にも貢献。1593年(文禄2)8月5日没。74才。法名「壽林宗久居士」。
丹羽氏明の墓碑
丹羽氏明
生 寛文7年 (1667年)
没 貞享3年 (1686年)
美濃岩村藩4代藩主。1667年(寛文7)氏純の長男として生まれる。父の死により1674年(延宝2)11月26日跡を継ぐ。28日将軍徳川綱吉に拝謁。1686年(貞享3)3月2日没。20才。法名「徳雲道海大居士」。
丹羽氏定妻の墓碑
丹羽氏定妻
生 元和5年 (1619年)
没 元禄14年 (1701年)
1619年(元和5)高木正成の娘として生まれる。丹羽氏定に嫁ぎ、氏純を儲ける。1701年(元禄14)5月17日没。83才。法名「芳春院殿蘭室永秀大姉」。墓石は丹羽壱岐守氏音が曾祖母のために1701年(元禄14)7月15日に建立。
丹羽勘十郎の墓碑
丹羽勘十郎
生 不明
没 承応3年 (1654年)
氏定の次男。1653年(承応2)閏6月将軍徳川家綱に拝謁。1654年(承応3)7月12日没。法名「學翁良海大禅定門」。岐阜県恵那市岩村町殿町の大名墓地にも墓がある。
三浦為隆の墓碑
三浦為隆
生 万治2年 (1659年)
没 享保17年 (1732年)
紀州藩家老三浦家3代当主。1659年(万治2)為時の子として生まれる。父の死後家督を継ぎ家老職。1716年(享保元)紀州藩主徳川吉宗が将軍となると、幕臣として仕えるよう望まれるもこれを断る。1732年(享保17)11月8日没。74才。法名「清净心院湛然無相居士」。
三浦為脩妻の墓碑
三浦為脩妻
生 不明
没 文化13年 (1816年)
植村家道の娘。1779年(安永8)三浦為脩に嫁ぎ、為積を儲ける。1816年(文化13)2月4日没。法名「蓮池院智月妙浄大姉」。
三浦為脩の墓碑
三浦為脩
生 宝暦9年 (1759年)
没 寛政元年 (1789年)
紀州藩家老三浦家5代当主。1759年(宝暦9)4月徳川宗将の8男として生まれる。1760年(宝暦10)5月三浦為恭の養子となる。為恭の死により1775年(安永4)7月跡を継ぐ。1776年(安永5)9月将軍徳川家治に拝謁。1789年(寛政元)9月4日没。31才。法名「嚴淨土院義嶽慧了大居士」。
三浦為章の墓碑
三浦為章
生 享和3年 (1803年)
没 天保12年 (1841年)
紀州藩家老三浦家7代当主。1803年(享和3)4月為積の長男として生まれる。父の隠居により1823年(文政6)5月跡を継ぐ。1835年(天保6)5月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)3月2日没。39才。法名「紫金光院性覚円常大居士」。
三浦為積妻の墓碑
三浦為積妻
生 不明
没 天保7年 (1836年)
安藤直紀の娘。1798年(寛政10)三浦為積に嫁ぎ、為章を儲ける。1836年(天保7)6月2日没。法名「真珠院圓月妙映大姉」。
三浦為積の墓碑
三浦為積
生 天明元年 (1781年)
没 天保11年 (1840年)
紀州藩家老三浦家6代当主。1781年(天明元)9月為脩の長男として生まれる。1789年(寛政元)父の死により家督を継ぐ。1797年(寛政9)将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)隠居。1840年(天保11)8月15日没。60才。法名「金剛臺院義巖恵雄大居士」。
三浦為恭妻の墓碑
三浦為恭妻
生 不明
没 安永7年 (1778年)
三浦為隆の娘。1722年(享保7)中川家の為恭と結婚して三浦家の婿とする。1778年(安永7)5月12日没。法名「常往院心観宣議大姉」。
三浦為恭の墓碑
三浦為恭
生 宝永3年 (1706年)
没 安永4年 (1775年)
紀州藩家老三浦家4代当主。1706年(宝永3)中川元宣の子として生まれる。1722年(享保7)叔父三浦為隆の養子となる。1732年(享保17)跡を継ぐ。1733年(享保18)主君徳川宗直に従い、将軍徳川吉宗に拝謁。1775年(安永4)7月17日没。69才。法名「至徳行院觀山智同居士」。
三好政盛の墓碑
三好政盛
生 寛永元年 (1624年)
没 元禄12年 (1699年)
1624年(寛永元)直政の子として生まれる。母は明石全登の娘。1630年(寛永7)より徳川家光に仕える。1669年(寛文9)京都の東福門院和子のもとに使者となる。1699年(元禄12)2月15日没。76才。法名「崇徳院殿天誉月峯照和大居士」。
安部信賢妻の墓碑
安部信賢妻
生 不明
没 享保16年 (1731年)
青山忠重の娘。青山秘成の養女として安部信賢に嫁ぐ。信賢との間に信平を儲ける。1731年(享保16)1月13日没。法名「榮昌院殿桃林宗僊大姉」。墓石は息子信平(多宮)が母の為に建立。
安部信盛の墓碑
安部信盛
生 天正12年 (1584年)
没 延宝元年 (1673年)
武蔵岡部藩初代藩主。1584年(天正12)信勝の長男として生まれる。1599年(慶長4)伏見において徳川家康に謁見。1600年(慶長5)父の死により遺領を継ぎ、同年の上杉攻めでは本多正信に属して下野国小山まで参陣。加増を続け、信盛の代から大名となる。1673年(延宝元)11月27日没。90才。法名「龍徳院殿妙峯性都大居士」。
安部信操の墓碑
安部信操
生 寛政2年 (1790年)
没 文政8年 (1825年)
武蔵岡部藩9代藩主。1790年(寛政2)信亨の3男として生まれる。兄2人は早世したため嫡子となる。1806年(文化3)8月父の隠居により跡を継ぐ。1825年(文政8)4月29日没。36才。法名「高徳院殿義峰宗春大居士」。
安部信峯妻の墓碑
安部信峯妻
生 不明
没 元禄2年 (1689年)
墓石に「安部丹波守信峯妻」とあり、正室で秋月種信の娘と思われるも確証なし。1689年(元禄2)7月23日没。法名「覺樹院殿霊律宗湛大姉」。
安部信宝の墓碑
安部信宝
生 天保10年 (1839年)
没 文久3年 (1863年)
武蔵岡部藩12代藩主。1839年(天保10)信古の長男として生まれる。父の死により1842年(天保13)12月跡を継ぐ。1850年(嘉永3)3月将軍徳川家慶に拝謁。幕府より罪人の高島秋帆を預かる。1863年(文久3)4月10日没。25才。法名「蔵雲院殿忠巖全孝大居士」。
安部信孝の墓碑
安部信孝
生 不明
没 正保2年 (1645年)
信盛の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。御書院の番士、小姓組の組頭を務める。1645年(正保2)7月14日没。法名「大応院殿月峰洞雲居士」。
安部信古の墓碑
安部信古
生 文化12年 (1815年)
没 天保13年 (1842年)
武蔵岡部藩11代藩主。1815年(文化12)信操の4男として生まれる。1828年(文政11)兄で藩主信任が没したため、末期養子として跡を継ぐ。1831年(天保2)9月将軍徳川家斉に拝謁。1842年(天保13)10月7日没。28才。法名「義徳院殿廓山魯道大居士」。
安部信友妻の墓碑
安部信友妻
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
内藤忠政の娘。名は万。安部信友に嫁ぎ、信峯、信方の2男を儲ける。1693年(元禄6)5月9日没。法名「春光院殿長譽壽寶大姉」。墓石に「安部摂津守信友為妻女」とある。
安部信友の墓碑
安部信友
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄14年 (1701年)
武蔵岡部藩3代藩主。1638年(寛永15)信之の長男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。1678年(延宝6)4月父の隠居により家督を継ぐ。1701年(元禄14)3月8日没。64才。法名「乾徳院殿徹應宗證大居士」。
安部信允の墓碑
安部信允
生 享保13年 (1728年)
没 寛政10年 (1798年)
武蔵岡部藩7代藩主。1728年(享保13)信興の次男として生まれる。6代藩主信平の死去の際養子となり、1750年(寛延3)5月跡を継ぐ。同年6月将軍徳川家重に拝謁。1781年(天明元)9月隠居。1798年(寛政10)12月12日没。71才。法名「峻德院殿法雲義潤大居士」。
安部信任の墓碑
安部信任
生 文化6年 (1809年)
没 文政11年 (1828年)
武蔵岡部藩10代藩主。1809年(文化6)信操の長男として生まれる。父の死により1825年(文政8)跡を継ぐ。大坂加番を務む。1828年(文政11)4月10日没。法名「祐泉院殿彩雲蒼竜大居士」。
安部信亨の墓碑
安部信亨
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政5年 (1822年)
武蔵岡部藩8代藩主。1758年(宝暦8)信允の長男として生まれる。1775年(安永4)12月将軍徳川家治に拝謁。1806年(文化3)8月隠居。1822年(文政5)6月17日没。65才。法名「来震院殿灌渓道関大居士」。
黒田長溥の墓碑
黒田長溥
生 文化8年 (1811年)
没 明治20年 (1887年)
筑前福岡藩11代藩主。1811年(文化8)3月島津重豪の13男として生まれる。黒田斉清の娘を娶り養子となる。将軍徳川家斉から1字を賜い斉溥と名乗る(幕末まで)父重豪や養父斉清と同じく蘭癖が強く藩内に近代化を広める。1869年(明治2)2月隠居。1887年(明治20)3月7日没。77才。
黒田光之の墓碑
黒田光之
生 寛永5年 (1628年)
没 宝永4年 (1707年)
筑前福岡藩3代藩主。1628年(寛永5)5月忠之の長男として生まれる。1635年(寛永12)1月徳川家康の養女でもある祖母に連れられ将軍徳川家光に拝謁。1648年(慶安元)12月家光より1字を賜り光之と名乗る。父の死により1654年(承応3)4月跡を継ぐ。1688年(元禄元)12月隠居。1707年(宝永4)5月20日没。80才。法名「江龍院殿淳山宗真大居士」。
青木可一の墓碑
青木可一
生 寛永4年 (1627年)
没 寛永21年 (1644年)
1627年(寛永4)若狭小浜藩主酒井忠勝の3男として生まれる。1639年(寛永16)7月将軍徳川家光に拝謁。青木重兼の養子となる。家督を継ぐことなく1644年(寛永21)6月26日没。18才。法名「清巖院殿三衆一玄」。
青山一角の墓碑
青山一角
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
小浜酒井家の世嗣忠朝の家臣。忠朝が没すると1662年(寛文2)殉死。法名 「玄無雷菴居士」。墓石施主は忠朝の弟で小浜藩主酒井修理大夫忠直。
酒井重忠妻の墓碑
酒井重忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
松平忠輝家臣山田重辰の娘。酒井重忠に嫁ぎ、忠世、忠季、西尾忠永、忠正の4男を儲ける。1627年(寛永4)2月19日没。法名「臨川院殿實継良朴大姉」。
酒井重忠の墓碑
酒井重忠
生 天文18年 (1549年)
没 元和3年 (1617年)
上野厩橋藩初代藩主。1549年(天文18)正親の次男として生まれる。徳川家康に仕え、遠江掛川城攻め、姉川の戦い、小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。大坂の陣のときは、江戸城留守居役を務める。1617年(元和3)7月21日没。69才。法名「傑叟源英大禅定門」。
酒井正親の墓碑
酒井正親
生 大永元年 (1521年)
没 天正3年 (1575年)
1521年(大永元)清秀の子として生まれる。松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕える。家康初陣の寺部城攻めでは先鋒を務める。三方原の戦い、長篠の戦いにも従う。1575年(天正3)6月6日没。56才。法名「寶樹院殿繁林源昌大禅定門」。1624年(寛永元)12月3男忠利による建立の墓石には「酒井雅楽助殿忠光公」とあり、晩年は忠光を名乗っていたと思われる。
酒井忠経の墓碑
酒井忠経
生 元和8年 (1622年)
没 寛永17年 (1640年)
1622年(元和8)忠勝の次男として生まれる。1642年(寛永19)6月将軍徳川家光に拝謁。1640年(寛永17)8月17日没。19才。法名「達觀恵通大禪定門」。
酒井忠正の墓碑
酒井忠正
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦元年 (1655年)
1595年(文禄4)重忠の4男として生まれる。1607年(慶長12)より徳川秀忠に仕える。武蔵と下総で4500石を知行。1655年(明暦元)3月14日没。61才。法名「鷲峯院殿皓寒潭月大居士」。
酒井忠朝の墓碑
酒井忠朝
生 元和5年 (1619年)
没 寛文2年 (1662年)
1619年(元和5)忠勝の長男として生まれる。徳川家光の幕臣として活躍するも職を解かれ、1649年(慶安2)9月には廃嫡となる。1662年(寛文2)3月24日没。44才。法名「用運院殿擉立葉山大居士」。
酒井忠恆の墓碑
酒井忠恆
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
忠正の長男。与七郎。父に先立ちて1644年(寛永21)11月6日没。法名「月江院殿日州源果居士」。墓石は父酒井下総守忠正の建立による。
酒井忠勝(庄内)の墓碑
酒井忠勝(庄内)
生 文禄3年 (1594年)
没 正保4年 (1647年)
出羽庄内藩初代藩主。1594年(文禄3)家次の長男として生まれる。将軍徳川秀忠より1字を賜り忠勝と名乗る。大坂の両陣に参戦。父の死により1618年(元和4)4月跡を継ぐ。1622年(元和8)加増移封により出羽庄内藩主となる。1647年(正保4)10月17日没。54才。「成覺院殿眞譽道保達三大居士」。
酒井忠勝(小浜)娘の墓碑
酒井忠勝(小浜)娘
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
酒井忠勝(小浜)の娘。名は仙子。詳細不明。小浜市空印寺の酒井家墓地にも墓があることから、嫁ぐことなく没したと思われる。1636年(寛永13)6月13日没。法名「松岩院殿花桂宗心大姉」。
酒井忠勝(小浜)妻の墓碑
酒井忠勝(小浜)妻
生 天正12年 (1584年)
没 寛永18年 (1641年)
1584年(天正12)松平親能の娘として生まれる。祖母は徳川家康の妹市場姫。名は竹子。酒井忠勝に嫁ぎ、建部政長妻、松平康信妻、高木正俊妻、松平康政妻、堀田正盛妻、忠朝、都筑秀政妻、忠経、井伊直好妻、青木可一、忠直の4男7女を儲ける。1641年(寛永18)3月14日没。58才。法名「心光院殿星譽瓊琳周榮大姉」。墓石は息子忠朝の建立による。
酒井忠勝(小浜)の墓碑
酒井忠勝(小浜)
生 天正15年 (1587年)
没 寛文2年 (1662年)
若狭小浜藩初代藩主。1587年(天正15)6月忠利の長男として生まれる。1600年(慶長5)信州上田城攻めに父と従う。1624年(寛永元)老中となる。父の死により1627年(寛永4)11月跡を継ぐ。1634年(寛永11)閏7月加増移封により若狭小浜藩主となる。1656年(明暦2)5月隠居。1662年(寛文2)7月12日没。76才。法名「空印寺殿傑傳長英大居士」。
酒井忠利妻の墓碑
酒井忠利妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
鈴木重直の娘。酒井忠利に嫁ぎ、忠勝、忠吉、忠重、忠次の4男を儲ける。1620年(元和6)8月27日没。法名「寶鏡院殿桃嚴宗仙大禪定尼」。墓石は息子忠勝の建立による。
酒井忠利の墓碑
酒井忠利
生 永禄2年 (1559年)
没 寛永4年 (1627年)
武蔵川越藩初代藩主。1559年(永禄2)正親の3男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦いでは蟹江城攻めに参陣。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、徳川秀忠に従い信州上田城攻めに従軍。1627年(寛永4)11月14日没。69才。法名「廣徳院殿泰雲建康大居士」。
酒井忠久の墓碑
酒井忠久
生 慶長14年 (1609年)
没 寛永13年 (1636年)
1609年(慶長14)忠利の4男として生まれる。1627年(寛永4)11月父の遺領のうち千石を分かち賜う。1636年(寛永13)8月15日没。28才。法名「月桂院殿劔受宗刃居士」。墓石は弟の蔵人忠次の建立による。
都筑秀政妻の墓碑
都筑秀政妻
生 不明
没 慶安5年 (1652年)
酒井忠勝(小浜)の娘。名は弥子。忠勝の家臣都筑秀政に嫁ぎ、秀久を儲ける。1652年(慶安5)3月28日没。法名「光林院殿玉譽榮春」。
宇喜多秀家妻の墓碑
宇喜多秀家妻
生 天正2年 (1574年)
没 寛永11年 (1634年)
1574年(天正2)前田利家の4女として生まれる。名は豪姫。幼い頃より豊臣秀吉の養女となる。1588年(天正16)宇喜多秀家に嫁ぐ。秀家との間に、秀高、秀継、富田重家室、伏見宮貞清親王室の2男2女を儲ける。夫秀家は1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍に付いて改易となったため実家前田家に戻る。1634年(寛永11)5月23日没。61才。法名「樹正院殿命室寿光大禅定尼」。
豊臣鶴松の墓碑
豊臣鶴松
生 天正17年 (1589年)
没 天正19年 (1591年)
1589年(天正17)5月豊臣秀吉の長男として生まれる。母は浅井長政の娘淀君。病気勝ちで1591年(天正19)8月5日没。3才。法名 「祥雲院殿玉厳麟公神童」。墓石は浅野長政の建立による。
豊臣秀長妻の墓碑
豊臣秀長妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
1585年(天正13)9月豊臣秀長の正室となる。名は慶。秀長より長く生き、江戸時代には幕府より大和国内で2千石の化粧料を認められる。元和6年(1620年)没。法名「慈雲院芳室紹慶大姉」。墓石は1591年(天正19)5月7日建立の逆修塔。
豊臣秀長の墓碑
豊臣秀長
生 天文9年 (1540年)
没 天正19年 (1591年)
1540年(天文9)生まれる。兄の秀吉に仕える。長島一向一揆の戦い、但馬攻め、毛利攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻めなど秀吉の主要な合戦に参戦。1590年(天正18)小田原北条攻めのときは、病気のため留守居役となる。1591年(天正19)1月22日没。52才。法名「大光院殿春岳紹栄大居士」。
豊臣秀吉の墓碑
豊臣秀吉
生 天文6年 (1537年)
没 慶長3年 (1598年)
1537年(天文6)生まれる。はじめ松下之綱に仕え、のちに織田信長に仕える。身分は低いが織田家重臣まで出世。信長死後、明智光秀や柴田勝家などを討ち織田家中をまとめる。徳川家康を従えたあと、九州の島津氏や小田原北条氏などを攻め、全国統一を果たす。1598年(慶長3)8月18日没。62才。法名「国泰寺殿霊山俊龍大居士」。
結城秀康妻(清凉院)の墓碑
結城秀康妻(清凉院)
生 不明
没 寛永17年 (1640年)
中川一元の娘。結城秀康の側室となり松平忠直、忠昌を儲ける。1640年(寛永17)7月21日没。法名「清凉院殿久窓貞昌大姉」。墓石は息子忠昌の建立による。
結城秀康妻(月照院)の墓碑
結城秀康妻(月照院)
生 不明
没 慶安元年 (1648年)
三谷長基の娘。遊女であったが結城秀康が身請けして側室とする。秀康との間に毛利秀就妻、直政の1男1女を儲ける。1648年(慶安元)11月27日没。法名「月照院殿浄譽蒙光大信女」。
石井定右衛門の墓碑
石井定右衛門
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行300石。1634年(寛永11)牧弥七郎の上意討ちのとき忠勝の命で目付を務める。のち忠勝の勘気を受け浪人。1647年(正保4)10月忠勝が江戸で没し遺骸が庄内に運ばれると途中から従い、葬儀後の11月13日に殉死。法名「本光院日住」。
松平親定の墓碑
松平親定
生 不明
没 寛永元年 (1624年)
好景の次男。与五左衛門。系図に事跡不明とあるが、兄で深溝松平の当主となった伊忠に仕えたと思われる。その後も家忠、忠利に代々仕える。忠利が大坂の陣に出陣したときは、三河吉田城を守る。1624年(寛永元)5月26日没。法名「心貢源安禅定門」。
松平直政の墓碑
松平直政
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
1601年(慶長6)8月結城秀康の3男として生まれる。1611年(慶長16)4月兄忠直と二条城で祖父である徳川家康に拝謁。大坂の両陣に参戦して、夏の陣のときは活躍して家康より賞される。1616年(元和2)上総姉ヶ崎藩にて1万石。その後移封加増を重ね寛永15年(1638年)2月出雲松江藩にて18万6千石。1666年(寛文6)2月3日没。66才。法名「高眞院殿歓譽一空道善大居士」。
松平忠雄の墓碑
松平忠雄
生 延宝元年 (1673年)
没 享保21年 (1736年)
肥前島原藩2代藩主。1673年(延宝元)10月松平伊行の次男として生まれる。1686年(貞享3)7月松平忠房の養子となる。1691年(元禄4)9月将軍徳川綱吉に拝謁。忠房の隠居により1698年(元禄11)4月跡を継ぐ。1735年(享保20)12月隠居。1736年(享保21)2月7日没。64才。法名「瑞光院殿徳運源恭大居士」。
松平忠隆(額田)の墓碑
松平忠隆(額田)
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永4年 (1627年)
1596年(慶長元)家忠の5男として生まれる。徳川秀忠に仕える。兄忠一が大坂の陣で討死して子が無かったため、跡を継ぐ。三河国額田郡にて采地千石。1627年(寛永4)9月26日没。32才。法名「源峯大禅定門」。
松平忠貞の墓碑
松平忠貞
生 天正16年 (1588年)
没 元和5年 (1619年)
家忠の2男。1603年(慶長8)16才にて徳川家康に仕える。御所院番となり1610年(慶長15)10月三河国宝飯郡にて采地を賜る。1619年(元和5)6月24日、徳川秀忠に付き添い上洛したときに伏見城にて死去。32才。法名「龍雲源洞禅定門」。
松平忠房の墓碑
松平忠房
生 元和5年 (1619年)
没 元禄13年 (1700年)
肥前島原藩初代藩主。1619年(元和5)2月忠利の長男として生まれる。1623年(元和9)吉田城にて将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1632年(寛永9)8月跡を継ぐ。1669年(寛文9)6月加増移封により肥前島原藩主となる。1698年(元禄11)4月隠居。1700年(元禄13)10月1日没。82才。法名「興慶院殿泰雲源通大居士」。
松平忠実妻の墓碑
松平忠実妻
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
松平家忠の娘。松平忠実に嫁ぎ、伊耀、忠尚を儲ける。1636年(寛永13)10月11日没。法名「長松院殿明窓照鏡大禪定尼」。
松平忠一の墓碑
松平忠一
生 天正18年 (1590年)
没 慶長20年 (1615年)
家忠の3男。庄九郎。徳川秀忠に仕え御所院番。1615年(慶長20)5月7日大坂夏の陣のときに、敵の中に突撃して討死。26才。法名「○峰院殿籌山源勝居士」。
松平家忠妻の墓碑
松平家忠妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
水野忠分の次女。松平家忠に嫁ぎ、忠利、吉良義定妻、松平忠実妻、忠貞、忠一、忠重、忠隆、松平重成妻の5男3女を儲ける。1642年(寛永19)6月27日没。法名「照光院殿陽山貞春大姉」。墓石は逆修塔で1628年(寛永5)8月15日の建立による。
松平家忠の墓碑
松平家忠
生 弘治元年 (1555年)
没 慶長5年 (1600年)
1555年(弘治元)伊忠の長男として生まれる。徳川家康に仕え、長篠の戦い、高天神城攻めなどに従軍。城の普請や補修などにの土木にも活躍。1600年(慶長5)8月1日伏見城を守っていたが、小早川秀秋に攻められ切腹。46才。法名「慈雲院殿賀屋源慶大居士」。「家忠日記」の著者である。
村井長次の墓碑
村井長次
生 永禄11年 (1568年)
没 慶長18年 (1613年)
1568年(永禄11)長頼の子として生まれる。前田利家に父とともに仕え、利家の7女を妻とする。義母でもある芳春院お松が、人質として江戸に向かうときに従う。1613年(慶長18)11月7日没。46才。法名「好巌崇雪居士」。墓石施主は妻。
木下俊治妻の墓碑
木下俊治妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
松平忠利の娘。木下俊治に嫁ぐ。俊治との間には子供は出来ず。1637年(寛永14)9月14日没。法名「桂林院殿月輪息窓大姉」。
宇津木泰繁の墓碑
宇津木泰繁
生 元亀3年 (1572年)
没 寛永12年 (1635年)
宇津木家2代。1572年(元亀3)氏久の子として生まれる。幼名勝三郎。井伊直政に仕える。1591年(天正19)20才にて九戸一揆に出陣。砲術家でもあり、1614年(慶長19)9月稲富祐直から砲術伝授書を受けている。1635年(寛永12)1月没。64才。法名「長壽院雪庭」。
宇津木氏久の墓碑
宇津木氏久
生 不明
没 慶長13年 (1608年)
宇津木家初代。下総守。武田勝頼、北条氏直に仕える。氏直が没落すると本領の上野国玉村に隠棲。井伊直政より出仕の依頼があるもこれを断り、息子泰繁を代わりに出仕させる。1608年(慶長13)8月13日没。昔の文献によれば、墓石は「本國上〇國鹿島郡」「宇津木下總守」「慶長十三年八月十三日」が読み取れたというが、今は地輪の大部分が土中にて「本國」「宇津」程度しか読めない。
宇津木久豊の墓碑
宇津木久豊
生 不明
没 不明
宇津木家3代。泰繁の子。父と同じく井伊家に仕え、砲術家。1615年(元和元)7月伏見城にて徳川秀忠の砲術上覧に父とともに披露。晩年は禅髄を号す。法名「天徳院殿徹巖禅髄居士」。妻は河手良則と高瀬姫(井伊直政の姉)の次女。
宇津木久就の墓碑
宇津木久就
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
宇津木家6代。彦根藩井伊家家老。幼名弥平太。治部右衛門。久英の養子となる。久英の隠居により1734年(享保19)6月跡を継ぎ、井伊家の家老となる。御勝手方御倹約頭取を務む。1756年(宝暦6)11月6日没。法名「天秀院殿源峯紹俊居士」。
大政所の墓碑
大政所
生 永正13年 (1516年)
没 天正20年 (1592年)
木下弥右衛門、竹阿弥の妻。三好吉房妻、豊臣秀吉、秀長、徳川家康妻の母。息子秀吉の出世により1585年(天正13)従一位となり大政所と称する。1586年(天正14)徳川家康のもとへ人質(名目は娘の訪問)として赴く。1592年(天正20)7月22日没。77才。法名「青巌貞松」。墓石は1587年(天正15)6月21日建立の逆修塔。
佐々甚兵衛の墓碑
佐々甚兵衛
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行250石。1647年(正保4)10月忠勝が没して葬儀が終わると、11月13日に殉死。法名「松心貞忠禅定門」。
三好吉房妻の墓碑
三好吉房妻
生 天文3年 (1534年)
没 寛永2年 (1625年)
1534年(天文3)生まれ。名は智。豊臣秀吉の姉。三好吉房に嫁ぎ、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保を儲ける。3人の息子に先立たれ、夫も所領を没収されて改易となり、1596年(文禄5)1月に出家。1625年(寛永2)4月24日没。92才。法名「瑞龍院妙慧日秀尼」。墓石は1592年(天正20)5月7日建立の逆修塔。
万年与左衛門の墓碑
万年与左衛門
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行300石。1647年(正保4)10月忠勝が没して葬儀が終わると、11月13日に殉死。法名「光岸文瑞居士」。
結城秀康の墓碑
結城秀康
生 天正2年 (1574年)
没 慶長12年 (1607年)
越前福井藩初代藩主。1574年(天正2)2月徳川家康の次男として生まれる。1584年(天正12)豊臣秀吉のもとに人質(名目は養子)となる。1587年(天正15)島津攻めにて初陣。1590年(天正18)8月結城晴朝の養子となる。関ヶ原の戦い後、越前北ノ庄藩主(のちの福井藩)となる。1607年(慶長12)閏4月8日没。34才。法名「浄光院殿森巌道慰運正大居士」。石廟のなかには5基の宝篋印塔があり、そのうち1つが結城秀康のものである。
本多忠政妻の墓碑
本多忠政妻
生 天正5年 (1577年)
没 寛永3年 (1626年)
1577年(天正5)7月松平信康の次女として生まれる。名は熊姫。父方の祖父は徳川家康、母方の祖父は織田信長。家康の命令で本多忠政の正室となる。忠政との間に忠刻、政朝、忠義、有馬直純妻、小笠原忠真妻の3男2女を儲ける。1626年(寛永3)6月25日没。50才。法名「妙光院殿悟窓祐慶大姉」。
永見長次の墓碑
永見長次
生 天正14年 (1586年)
没 慶長12年 (1607年)
1586年(天正14)貞親の子として生まれる。右衛門。結城秀康に仕える。主君秀康が没すると1607年(慶長12)4月9日殉死。22才。法名「閑窓道有禅定門」。結城秀康石廟の中、左奥に長次宝篋印塔がある。墓石には「長見右馬」とある。
松平武雅の墓碑
松平武雅
生 宝永2年 (1705年)
没 享保13年 (1728年)
上野館林藩2代藩主。1705年(宝永2)義行の次男として生まれる。松平清方が1724年(享保9)1月に没すると同年4月養子となり、同月将軍徳川吉宗に拝謁。同年10月跡を継ぐ。1728年(享保13)7月28日没。24才。法名「顕徳院殿武雅大居士」。1769年(明和6)3月に武雅の遺爪を納めた爪塚。
松平信康の墓碑
松平信康
生 永禄2年 (1559年)
没 天正7年 (1579年)
1559年(永禄2)3月徳川家康の長男として生まれる。1575年(天正3)長篠の戦いに父とともに参戦。1579年(天正7)9月15日武田氏に内通したとして遠州二俣城にて切腹されられる。21才。法名「騰雲院殿隆岩長越大居士」。結城秀康石廟の中、左手前に信康宝篋印塔がある。
土屋昌春の墓碑
土屋昌春
生 不明
没 慶長12年 (1607年)
武田家の家臣金丸定光の子として生まれる。正明とも。結城秀康に仕え、越前大野で3万8千石を領す。主君秀康が没すると1607年(慶長12)4月11日殉死。法名「高岳宗心禅定門」。結城秀康石廟の中、右奥に昌春宝篋印塔がある。
内藤正重妻の墓碑
内藤正重妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
内藤正成の娘。内藤正重に嫁ぎ、正次、正吉の2男を儲ける。1620年(元和6)6月18日没。法名「安龍院殿月窻芳心大姉」。久喜市善宗寺の墓石の法名は「崟林院殿月窓芳心大姉」とある。
内藤正重の墓碑
内藤正重
生 天正6年 (1578年)
没 寛文3年 (1663年)
1578年(天正6)正貞の子として生まれる。1590年(天正18)より徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは御使番を務める。大坂の陣にも参戦。1631年(寛永8)2月祖父正成が治めていた武蔵栢間にて5千石を与えられる。1663年(寛文3)4月20日没。86才。法名「凉臺院圓誉善齊居士」。
内藤正範妻(明淨院)の墓碑
内藤正範妻(明淨院)
生 不明
没 安永8年 (1779年)
松平忠寄の娘。内藤正範に嫁ぎ、正弘を儲ける。1779年(安永8)10月11日没。法名「明淨院殿超誉恵光大姉」。
内藤正範の墓碑
内藤正範
生 延享4年 (1747年)
没 文化4年 (1807年)
1747年(延享4)政利の次男として生まれる。1769年(明和6)9月内藤正雄の末期養子となり跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1805年(文化2)駿府城代。1807年(文化4)3月29日没。61才。法名「譲徳院殿禮誉不捲興仁大居士」。
内藤正成の墓碑
内藤正成
生 享禄4年 (1531年)
没 慶長7年 (1602年)
忠郷の次男として生まれる。四郎左衛門。松平広忠、徳川家康に仕える。弓の名人で三河一向一揆のときは渡辺高綱を射殺。姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦い、長久手の戦い、小田原合戦など主要な戦いに従う。1602年(慶長7)4月12日没。76才。法名「天龍院殿源誉善宗大禅定門」。
内藤正弘妻(心眼院)の墓碑
内藤正弘妻(心眼院)
生 不明
没 寛政7年 (1795年)
松平直泰の娘。内藤正弘の後室となる。正弘との間に子は出来ず。1795年(寛政7)6月10日没。法名「心眼院殿開譽明了大姉」。
内藤正弘の墓碑
内藤正弘
生 安永5年 (1776年)
没 文政5年 (1822年)
1776年(安永5)正範の長男として生まれる。1813年(文化10)2月浦賀奉行となる。1822年(文政5)3月25日没。47才。法名「㳟寛院殿恤譽誠意豐㓛大居士」。
徳川仙千代の墓碑
徳川仙千代
生 文禄4年 (1595年)
没 慶長5年 (1600年)
1595年(文禄4)3月徳川家康の8男として生まれる。家康家臣の平岩親吉の養子となるも、1600年(慶長5)2月7日没。6才。法名「高岳院殿華窓林陽大童子」。結城秀康石廟の中、右手前に仙千代宝篋印塔がある。
酒井忠勝(庄内)妻(明法院)の墓碑
酒井忠勝(庄内)妻(明法院)
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
鳥居忠政の娘。酒井忠勝(庄内)に嫁ぎ、忠当を儲ける。1638年(寛永15)5月20日没。法名「明法院殿蘭室榮秋大姉」。墓石は1周忌の1639年(寛永16)の建立。
艶宮の墓碑
艶宮
生 安永7年 (1778年)
没 天明3年 (1783年)
1778年(安永7)7月伏見宮邦頼親王の第3王女として生まれる。1783年(天明3)12月21日没。6才。法名「蓮花光院」。
竹腰正信の墓碑
竹腰正信
生 天正19年 (1591年)
没 正保2年 (1645年)
1591年(天正19)1月正時の長男として生まれる。母は志水宗清の娘相応院。山城守。母の相応院(お亀の方)が徳川家康の側室となると家康に仕える。1607年(慶長12)に家康の9男義直(異父弟)に付けられ、尾張徳川家の附家老となる。美濃国今尾藩にて3万石を領した。1645年(正保2)4月30日没。55才。法名「正信院殿安誉道輝居士」。
石川康通の墓碑
石川康通
生 天文23年 (1554年)
没 慶長12年 (1607年)
1554年(天文23)家成の長男として生まれる。徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは尾張清洲城を守る。戦後、美濃大垣藩で5万石となる。1607年(慶長12)7月26日没。54才。法名「寶樹院殿華嶽宗英大居士」。
永見貞愛の墓碑
永見貞愛
生 天正2年 (1574年)
没 慶長9年 (1604年)
1574年(天正2)2月8日徳川家康の子として生まれる。。母は長勝院お万。家康の次男結城秀康と双子で生まれたが、双子腹は忌み嫌われていたため貞愛は家康の実子と認められなかった。永見右衛門貞親に引取られ、「永見」を名乗り、知立神社の神主となった。1604年(慶長9)11月16日没。31才。法名「積翁等善大居士」。石廟の中には2基の宝篋印塔と2基の五輪塔があり、1基の宝篋印塔が貞愛のものである。
松平隆政の墓碑
松平隆政
生 慶安元年 (1648年)
没 延宝元年 (1673年)
1648年(慶安元)7月直政の3男として生まれる。寛文6年(1666年)2月父が没すると、1万石を分知され松江藩の支藩母里藩の初代藩主となる。1673年(延宝元)2月4日没。26才。法名「徳翁院仁譽儀公勇哲大居士」。
松平昌勝妻の墓碑
松平昌勝妻
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
松平定行の3女。松平昌勝に嫁ぎ、綱昌を儲ける。1662年(寛文2)7月1日没。法名「専光院殿天譽霊月大姉」。
松平家乗の墓碑
松平家乗
生 天正3年 (1575年)
没 慶長19年 (1614年)
1575年(天正3)真乗の長男として生まれる。徳川家康家臣。1582年(天正10)父の死により8才で大給松平家を継ぐ。1587(天正15)家康より1字を賜り家乗と名乗る。小田原合戦に参陣、その後上野国那波にて1万石。1600年(慶長5)関ヶ原のときは三河吉田城を守る。戦後、美濃岩村藩2万石余。1614年(慶長19)2月19日没。40才。法名「大聖院殿乗誉道見禅定門」。墓石は7年忌の1620年(元和6)の建立。
徳山則秀の墓碑
徳山則秀
生 天文13年 (1544年)
没 慶長11年 (1606年)
1544年(天文13)貞孝の子として生まれる。織田信長に仕え、柴田勝家の与力となる。勝家が滅びると高野山に蟄居。その後、前田利家に仕える。1600年(慶長5)正月に徳川家康に召されて仕え5千石を領した。1606年(慶長11)11月21日没。63才。法名「青雲院殿二位法印秀現」。
岩上朝吉の墓碑
岩上朝吉
生 不明
没 不明
隠岐守朝堅の子。左京。越中守。徳川家康次男結城秀康に仕え4千石を領す。養子の左京吉次(山県昌景の孫)とともに大坂の陣に参戦。没年は不明。この墓石は1625年(寛永2)8月15日に自身の逆修墓として建立。法名「傑叟真英禅定門」。
尾上松之助の墓碑
尾上松之助
生 明治8年 (1875年)
没 大正15年 (1926年)
1875年(明治8)9月生まれる。本名中村鶴三。明治、大正期の歌舞伎役者、時代劇俳優、映画監督。5才のときに歌舞伎の初舞台。のちに時代劇俳優となり、大石内蔵助、水戸黄門、大久保彦左衛門、荒木又右衛門、堀部安兵衛、国定忠治、後藤又兵衛、清水次郎長、一心太助、猿飛佐助、柳生十兵衛など約千の映画に出演。1926年(大正15)9月11日没。
伏見宮邦頼親王妻の墓碑
伏見宮邦頼親王妻
生 宝暦9年 (1759年)
没 文政7年 (1824年)
1759年(宝暦9)松木宗美の娘として生まれる。伏見宮邦頼親王に嫁ぎ伏見宮貞敬親王、公澄親王を儲ける。1824年(文政7)6月13日没。66才。法名「清珠院祥室妙貞大姉」。
伏見宮邦頼親王の墓碑
伏見宮邦頼親王
生 享保18年 (1733年)
没 享和2年 (1802年)
伏見宮第18代当主。1733年(享保18)伏見宮貞建親王の第2王子として生まれる。1745年(延享2)12月桜町天皇の猶子となる。1774年(安永3)伏見宮家を継ぐ。1779年(安永8)後桃園天皇崩御のとき、邦頼親王による毒殺の疑いをかけられたが、のちに無実と判明。1802年(享和2)9月8日没。70才。法名「究竟覺院」。
伏見宮博義王の墓碑
伏見宮博義王
生 明治30年 (1897年)
没 昭和13年 (1938年)
1897年(明治30)12月伏見宮博恭王の子として生まれる。海軍兵学校入学。1928年(昭和3)12月海軍少佐、1933年(昭和8)海軍中佐に昇進。1937年(昭和12)黄浦江にて中国軍と戦い負傷。米内光政海軍大臣を通じ昭和天皇に負傷の報が伝えられる。1938年(昭和13)10月19日没。42才。死去とともに海軍大佐に進級。法名「大義勇院」。
徳川家康妻(相応院)の墓碑
徳川家康妻(相応院)
生 天正元年 (1573年)
没 寛永19年 (1642年)
1573年(天正元)志水宗清の娘として生まれる。初め竹腰正時に嫁ぎ正信を生み、その後石川光元に嫁ぎ光忠を生む。さらに再々婚で徳川家康の側室となり、仙千代と徳川義直を生む。2人の息子竹腰正信も石川光忠も家康の命により異父弟にあたる義直に仕える。1642年(寛永19)9月16日没。70才。法名「相應院殿信誉公安大禅尼」。
徳川家康妻(長勝院)の墓碑
徳川家康妻(長勝院)
生 天文17年 (1548年)
没 慶長12年 (1607年)
1548年(天文17)永見貞英の娘として生まれる。徳川家康正室築山殿の女中だったが家康の見初められ側室となる。家康の次男結城秀康を生む。このとき双子で永見貞愛を生むも家康の子としては認知されていない。1607年(慶長12)秀康が没すると出家。1620年(元和5)12月6日没。法名「長勝院松室妙裁大姉」。石廟の中には2基の宝篋印塔と2基の五輪塔があり、1基の宝篋印塔がお万のもので、秀康が母の為に逆修したものである。
稲葉雍通妻の墓碑
稲葉雍通妻
生 天明元年 (1781年)
没 文政3年 (1820年)
1781年(天明元)有馬頼貴の次女として生まれる。1797年(寛政9)2月稲葉雍通に嫁ぐ。雍通の間に、女子、尊通を儲ける。1820年(文政3)12月4日没。40才。法名「貞亮院殿眞常妙観大姉」。
稲葉観通妻の墓碑
稲葉観通妻
生 天保13年 (1842年)
没 元治元年 (1864年)
1842年(天保13)5月23日山内豊熈の3女として生まれる。名は鏸姫。1860年(万延元)12月稲葉観通に嫁ぐ。1864年(元治元)4月18日没。23才。法名「國清院殿節操貞壽大姉」。
稲葉知通妻の墓碑
稲葉知通妻
生 明暦3年 (1657年)
没 元禄6年 (1693年)
1657年(明暦3)溝口重雄の3女として生まれる。1675年(延宝3)7月稲葉知通に嫁ぎ、男子、恒通の2男を儲ける。1693年(元禄6)1月12日没。37才。法名「梅溪院殿清流幽香大姉」。
稲葉泰通妻の墓碑
稲葉泰通妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
牧野貞通の娘。稲葉泰通に嫁ぎ、弘通を儲ける。1801年(享和元)6月2日没。法名「清操院殿松岩元貞大姉」。
稲葉景通妻の墓碑
稲葉景通妻
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
有馬忠頼の娘。稲葉景通に嫁ぐも、子は出来ず。1693年(元禄6)6月18日没。法名「通玄院殿虚圓妙融大姉」。
稲葉弘通妻の墓碑
稲葉弘通妻
没 文政元年 (1818年)
津田氏。稲葉弘通の側室となり、侯通、雍通、女子、通臧、通度、細川利国妻、一柳末昭妻の4男3女を儲ける。1818年(文政元)8月2日没。法名「常照院殿靈應智鑑大姉」。
稲葉幾通妻の墓碑
稲葉幾通妻
生 不明
没 嘉永6年 (1853年)
奥平昌高の10女。名は錐子、サク姫。1834年(天保5)稲葉幾通に嫁ぐ。1853年(嘉永6)9月8日没。法名「誠感院殿圓淨自覺大姉」。
稲葉雍通の墓碑
稲葉雍通
生 安永3年 (1774年)
没 弘化4年 (1847年)
豊後臼杵藩11代藩主。 1774年(安永3)弘通の次男として生まれる。1792年(寛政4)10月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)9月父の隠居により家督を継ぐ。1820年(文政3)5月隠居。1847年(弘化4)9月18日没。74才。法名「本休院殿一心宗安大居士」。
稲葉通任の墓碑
稲葉通任
生 寛永3年 (1626年)
没 宝永7年 (1710年)
1626年(寛永3)一通の4男として生まれる。1635年(寛永12)11月将軍徳川家光に拝謁。幕臣となり、御書院の組頭、御持筒組の頭などを務める。1695年(元禄8)12月隠居。1710年(宝永7)1月9日没。85才。法名「玄照院殿一翁自徹居士」。
稲葉観通の墓碑
稲葉観通
生 天保10年 (1839年)
没 文久2年 (1862年)
豊後臼杵藩14代藩主。1839年(天保10)8月通孚の長男として生まれる。1844年(天保15)7月跡を継ぐ。幼いため、祖父の雍通が藩政を仕切る。雍通没後、義父山内容堂の影響で藩政を改革。1862年(文久2)閏8月4日没。24才。法名「本國院殿一軌宗範大居士」。
稲葉董通の墓碑
稲葉董通
生 宝永3年 (1706年)
没 元文2年 (1737年)
豊後臼杵藩8代藩主。1706年(宝永3)恒通の子として生まれる。1719年(享保4)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1720年(享保5)8月父の死により跡を継ぐ。1725年(享保10)はじめて臼杵の領地に入るも財政は悪化。1737年(元文2)1月17日没。32才。法名「本明院殿一源宗德大居士」。
稲葉泰通の墓碑
稲葉泰通
生 享保15年 (1730年)
没 明和5年 (1768年)
豊後臼杵藩9代藩主。1730年(享保15)7月董通の長男として生まれる。1737年(元文2)父の死により跡を継ぐ。1746年(延享3)3月将軍徳川家重に拝謁。1768年(明和5)7月2日没。39才。法名「本源院殿一水宗滴大居士」。
稲葉恒通の墓碑
稲葉恒通
生 元禄3年 (1690年)
没 享保5年 (1720年)
豊後臼杵藩7代藩主。1690年(元禄3)2月知通の次男として生まれる。1699年(元禄12)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1706年(宝永3)父の死により跡を継ぐ。1720年(享保5)6月25日没。31才。法名「本輪院殿一華宗厳大居士」。
稲葉弘通の墓碑
稲葉弘通
生 宝暦2年 (1752年)
没 文政元年 (1818年)
豊後臼杵藩10代藩主。1752年(宝暦2)泰通の長男として生まれる。1768年(明和5)父の死後は弟副通(正室の子。弘通は側室の子)が継ぐも、副通が将軍拝謁前に没したため、幕府には泰通の跡を弘通が継いだこととして届ける。1770年(明和7)2月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)10月28日没。67才。法名「本有院殿一円宗成大居士」。
稲葉幾通の墓碑
稲葉幾通
生 文化12年 (1815年)
没 天保14年 (1843年)
豊後臼杵藩13代藩主。1815年(文化12)3月雍通の子として生まれる。1821年(文政4)兄尊通の死により跡を継ぐ。幼年ゆえ先々代の藩主の父が後見。1843年(天保14)12月17日没。29才。法名「本誠院殿一寛宗仁大居士」。
稲葉尊通の墓碑
稲葉尊通
生 享和元年 (1801年)
没 文政4年 (1821年)
豊後臼杵藩12代藩主。1801年(享和元)2月雍通の子として生まれる。1820年(文政3)5月父の隠居により跡を継ぐ。1821年(文政4)10月17日没。21才。法名「本隆院殿一道宗成大居士」。
稲葉侯通の墓碑
稲葉侯通
生 安永元年 (1772年)
没 寛政元年 (1789年)
1772年(安永元)弘通の長男として生まれる。1789年(寛政元)7月8日父に先立ちて没。18才。法名「眞相院殿諦巖紹章大居士」。
溝口勝豊の墓碑
溝口勝豊
生 元禄15年 (1702年)
没 明和3年 (1766年)
1702年(元禄15)友勝の次男として生まれる。1716年(享保元)11月将軍徳川吉宗に拝謁。兄塡勝の死により1744年(延享元)8月跡を継ぐ。1766年(明和3)1月29日没。65才。法名「勝豊院殿大亮義倫居士」。
法然上人の墓碑
法然上人
生 長承2年 (1133年)
没 建暦2年 (1212年)
1133年(長承2)4月漆間時国の子として生まれる。天台宗比叡山延暦寺の源光のもとで修行。1175年(承安5)浄土宗を開く。1207年(承元元)浄土宗が危険視され、法然は讃岐、弟子の親鸞は越後に配流となる。1212年(建暦2)1月25日没。80才。源空上人とも称し、墓石には「源空」とある。
桑原為彬の墓碑
桑原為彬
生 宝暦2年 (1752年)
没 宝暦14年 (1764年)
1752年(宝暦2)高辻家長の次男として生まれる。大学頭。従五位下。桑原家の養子となる。1764年(宝暦14)1月30日没。13才。法名「登仙院」。
向井直宗の墓碑
向井直宗
生 慶長12年 (1607年)
没 正保元年 (1644年)
1607年(慶長12)忠勝の2男として生まれる。忠宗とも。1614年(慶長19)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1641年(寛永18)12月跡を継ぐ。1644年(正保元)6月17日没。38才。法名「崇安禅心居士」。
向井直則の墓碑
向井直則
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直宗の長男。右衛門太郎。父の死により1644年(正保元)12月跡を継ぐ。1647年(正保4)10月11日没。法名「玉洞院殿天瑞宗因信士」。
黒田隆庸の墓碑
黒田隆庸
生 延享元年 (1744年)
没 寛政12年 (1800年)
三奈木黒田家8代当主。1744年(延享元)一誠の子として生まれる。1762年(宝暦12)9月兄一興の死により跡を継ぐ。1777年(安永6)前藩主黒田継高の葬儀を主宰。1800年(寛政12)9月4日没。57才。法名「雲翔院殿絶巖宗倫居士」。
黒田綱政娘の墓碑
黒田綱政娘
生 元禄6年 (1693年)
没 宝永7年 (1710年)
1693年(元禄6)黒田綱政の娘として生まれる。名は久姫。上杉吉憲と婚約するも、婚儀まえの1710年(宝永7)5月14日没。18才。法名「寶乗院殿安性宗恬大姉」。
黒田綱政妻の墓碑
黒田綱政妻
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永5年 (1708年)
1662年(寛文2)立花忠茂の8女として生まれる。名は六姫、呂久姫。兄の鑑虎養女となり黒田綱政に嫁ぐ。綱政との間に、吉之、宣政、亀之助の3男を儲ける。1708年(宝永5)9月4日没。47才。法名「心空院殿元鏡負圓大姉」。新訂黒田家譜では享年52としている。
黒田清定の墓碑
黒田清定
生 安永7年 (1778年)
没 天保11年 (1840年)
三奈木黒田家9代当主。1778年(安永7)12月3日四宮義和の嫡男として生まれる。はじめ伊丹景弘の養子となる。1795年(寛政7)11月三奈木黒田隆庸の娘を妻として養子となる。隆庸の死により1800年(寛政12)11月跡を継ぐ。1840年(天保11)2月6日没。63才。法名「淨觀院殿恭翁紹篤居士」。
黒田吉之の墓碑
黒田吉之
生 天和2年 (1682年)
没 宝永7年 (1710年)
1682年(天和2)6月綱政の長男として生まれる。1691年(元禄4)2月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1710年(宝永7)7月3日没。29才。法名「 乾光院殿範雄道洪大居士」。