南部重信妻 生 不明没 寛文11年 (1671年) 玉山秀久の娘。南部重信に嫁ぎ、重信との間に、七戸定信、行信、池田綱清妻の2男1女を儲ける。1671年(寛文11)10月14日没。法名「大智院殿心月妙印大姉」。
南部行信妻 生 不明没 貞享元年 (1684年) 毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信 生 延宝4年 (1676年)没 元禄13年 (1700年) 1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院) 生 天正9年 (1581年)没 寛文3年 (1663年) 1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直 生 天正4年 (1576年)没 寛永9年 (1632年) 陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎) 生 享和3年 (1803年)没 文政4年 (1821年) 陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎) 生 文化4年 (1807年)没 文政4年 (1821年) 1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済 生 寛政9年 (1797年)没 文政8年 (1825年) 陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音 生 延宝8年 (1680年)没 宝暦元年 (1751年) 1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻 生 永禄10年 (1567年)没 正保2年 (1645年) 1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水 生 元亀元年 (1570年)没 寛永18年 (1641年) 信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠 生 天文5年 (1536年)没 慶長11年 (1606年) 1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻 生 不明没 天保13年 (1842年) 松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。
諏訪忠虎妻 生 万治2年 (1659年)没 元禄16年 (1703年) 1659年(万治2)松平昌勝の娘として生まれる。1687年(貞享4)4月諏訪忠虎に嫁ぎ、右京、盛太郎、忠尋、勝之丞、助蔵の5男を生む。1703年(元禄16)8月4日没。45才。法名「玄珠院殿勝光如璨大姉」。墓石は夫忠虎の建立による。
諏訪忠虎 生 寛文3年 (1663年)没 享保16年 (1731年) 信濃諏訪藩4代藩主。1663年(寛文3)3月忠晴の3男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。赤穂事件で討取られた吉良上野介の孫吉良義周の身柄を預かる。文化人で俳諧を宝井其角に学ぶ。1731年(享保16)7月2日没。69才。法名「洞虎院殿彰住闡幽大居士」。
諏訪忠粛妻 生 明和8年 (1771年)没 天保2年 (1831年) 1771年(明和8)松平乗完の娘として生まれる。1785年(天明5)4月諏訪忠粛の側室となり忠恕を生む。1831年(天保2)11月12日没。62才。法名「真操院殿成圓理貞大姉」。墓石は息子忠恕の建立による。
諏訪忠粛 生 宝暦13年 (1763年)没 文政5年 (1822年) 信濃諏訪藩7代藩主。1763年(宝暦13)忠厚の長男として生まれる。1782年(天明元)11月将軍徳川家治に拝謁。同年12月父の隠居により跡を継ぐ。1822年(文政5)6月27日没。60才。 法名「放光院殿普照道徳大居士」。
諏訪忠林妻 生 享保3年 (1718年)没 寛保3年 (1743年) 1718年(享保3)6月13日信濃諏訪藩4代藩主諏訪忠虎の娘として生まれる。1733年(享保18)11月分家の諏訪忠林に嫁ぐ。忠林との間に忠倫を儲ける。1743年(寛保3)11月7日没。26才。法名「雲臺院殿霊香慈薫大姉」。
諏訪忠林 生 元禄16年 (1703年)没 明和7年 (1770年) 信濃諏訪藩5代藩主。1703年(元禄16)頼篤の次男として生まれる。諏訪藩4代藩主忠虎の娘を娶り養子となり、忠虎死後に跡を継ぐ。詩人としての才能が高かったが、藩政改革がうまくいかずに逼迫。1770年(明和7)5月27日没。68才。法名「養賢院殿聖懿諦範大居士」。
諏訪忠晴妻 生 寛永18年 (1641年)没 正徳2年 (1712年) 1641年(寛永18)内藤美興の娘として生まれる。内藤忠興の養女として1658年(明暦4)4月諏訪忠晴の正室となる。忠晴との間に、千代熊、萬助、忠虎、女子、女子の3男2女を儲ける。1712年(正徳2)9月9日没。72才。法名「長春院殿空室韶華大姉」。墓石は息子忠虎の建立による。
諏訪忠晴 生 寛永16年 (1639年)没 元禄8年 (1695年) 信濃諏訪藩3代藩主。1639年(寛永16)8月忠恒の長男として生まれる。1657年(明暦3)父の死により跡を継ぐ。延宝の飢饉には領内に死者が多数でる。1683年(天和3)高島城内にて蟄居中の徳川家康の6男松平忠輝が92才で死去。1695年(元禄8)3月2日没。57才。法名「乾龍院殿雄巌文頴大居士」。
諏訪忠恕 生 寛政12年 (1800年)没 嘉永4年 (1851年) 信濃諏訪藩8代藩主。1800年(寛政12)10月忠粛の長男として生まれる。1815年(文化12)松平定信の娘を娶る。父の隠居により跡を継ぐ。藩政の再建に取り組むも、凶作や百姓一揆により悪化。1851年(嘉永4)5月2日没。52才。法名「泰俊院殿徳海義山大居士」。
諏訪忠恒娘 生 不明没 慶安4年 (1651年) 諏訪忠恒の2女。名は延。生年等詳細不明だが、長野県茅野市の頼岳寺にも墓が現存する。1651年(慶安4)1月24日没。(頼岳寺では1月22日没)法名「盛光院殿渓元怡清大姉」。
諏訪忠恒妻(永高院) 生 不明没 天和3年 (1683年) 小喜多氏。諏訪忠恒の側室で忠晴を生む。(寛政重修諸家譜では忠晴の母は忠恒正室の稲葉典通の娘月江院となっているが間違い)熱心な日蓮宗信者で諏訪の日蓮宗高国寺を再興する。1683年(天和3)1月1日没。法名「永高院殿天心日誠大姉」。
諏訪忠恒妻(月江院) 生 不明没 寛文9年 (1669年) 稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。
諏訪忠恒 生 文禄4年 (1595年)没 明暦3年 (1657年) 信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠尋 生 元禄8年 (1695年)没 享保2年 (1717年) 1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠厚 生 延享3年 (1746年)没 文化9年 (1812年) 信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠倫 生 元文5年 (1740年)没 延享4年 (1747年) 1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
南部利義妻 生 文政8年 (1825年)没 弘化4年 (1847年) 1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
南部利済妻 生 享和3年 (1803年)没 文政12年 (1829年) 1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
三戸信丞妻 生 天明4年 (1784年)没 文政8年 (1825年) 1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
七戸舜信 生 天和2年 (1682年)没 宝永3年 (1706年) 1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
赤井直正 生 享禄2年 (1529年)没 天正6年 (1578年) 1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
竹村嘉理 生 永禄9年 (1566年)没 寛永8年 (1631年) 1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
竹村嘉勝 生 慶長5年 (1600年)没 寛永18年 (1641年) 1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
永井直期妻 生 宝永5年 (1708年)没 享保19年 (1734年) 1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
武田勝頼 生 天文15年 (1546年)没 天正10年 (1582年) 1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
武田信玄 生 大永元年 (1521年)没 元亀4年 (1573年) 1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
桜庭統弧妻 生 不明没 享保5年 (1720年) 南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
柳沢信鴻妻 生 不明没 天明5年 (1785年) 村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
柳沢信鴻 生 享保9年 (1724年)没 寛政4年 (1792年) 1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
松平清照 生 承応元年 (1652年)没 貞享3年 (1686年) 1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。
松平忠隆 生 慶長13年 (1608年)没 寛永9年 (1632年) 美濃加納藩3代藩主。1608年(慶長13)忠政の長男として生まれる。飛騨守。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。幼年のため祖父奥平信昌が後見人となり、信昌死後は祖母亀姫(徳川家康長女)が後見人となる。祖母亀姫死去のときは忠隆が喪主を務めたが、実際は叔父の松平忠明が仕切る。1632年(寛永9)1月5日没。25才。法名「實相院殿大林宗功大居士」。
松平忠翼妻 生 天明5年 (1785年)没 文政3年 (1820年) 1785年(天明5)松平忠啓の娘として生まれる。名は周姫、国姫。松平忠和の養女として松平忠翼に嫁ぐ。1801年(享和元)6月長男忠堯を儲ける。1820年(文政3)1月10日没。36才。法名「顯徳院殿明禋成裕大姉」。
松平忠翼 生 安永9年 (1780年)没 文政4年 (1821年) 奥平松平家8代当主。伊勢桑名藩6代藩主。1780年(安永9)11月井伊直朗の次男として生まれる。松平忠和の養女を娶り、忠和の養子となる。1802年(享和2)忠和の死により家督を継ぐ。1821年(文政4)3月20日没。42才。法名「文明院殿厳恭道健大居士」。
松平忠彦妻 生 文化10年 (1813年)没 万延元年 (1860年) 1813年(文化10)池田斉稷の娘として生まれる。名は繡子。はじめ池田斉衆と婚約するも早世。のち松平忠彦に嫁ぐ。1860年(万延元)閏3月27日没。48才。法名「勝徳院殿天桂壽考尼大姉」。
奥平昌鹿 生 延享元年 (1744年)没 安永9年 (1780年) 豊前中津藩3代藩主。1744年(延享元)7月昌敦の長男として生まれる。1758年(宝暦8)父の死により跡を継ぐ。蘭学やオランダ語に夢中で職務怠慢な藩医前野良沢を庇い、藩内に蘭学を奨励。1780年(安永9)7月24日没。37才。法名「興隆院殿悟渓道本大居士」。
奥平昌高妻 生 不明没 享和元年 (1801年) 奥平昌男の娘。島津重豪の次男昌高に嫁ぎ、昌高は奥平家の婿養子となる。昌高との間に子供が出来た記録はない。1801年(享和元)6月26日没。法名「本明院殿香室妙華大姉」。
奥平昌高 生 天明元年 (1781年)没 安政2年 (1855年) 豊前中津藩5代藩主。1781年(天明元)11月島津重豪の次男として生まれる。1786年(天明6年)9月奥平昌男の末期養子として家督を継ぐ。1791年(寛政3)10月将軍徳川家斉に拝謁。実父の影響で蘭学が好きで自らオランダ語を学ぶ。シーボルトとも何度か交流している。1855年(安政2)6月10日没。75才。法名「龍徳院殿無方道応大居士」。
奥平昌章 生 寛文8年 (1668年)没 元禄8年 (1695年) 下野宇都宮藩主。1668年(寛文8)3月五島盛勝の次男として生まれる。1672年(寛文12)に山形藩主奥平昌能の末期養子となり、出羽山形藩2代藩主となる。1685年(貞享2)6月宇都宮藩に移封。1695年(元禄8)4月8日没。28才。法名「自性院殿真凉道如大居士」。
奥平昌男 生 宝暦13年 (1763年)没 天明6年 (1786年) 豊前中津藩4代藩主。1763年(宝暦13)6月昌鹿の長男として生まれる。1780年(安永9)父の死により家督を継ぐ。天明の大飢饉や家臣に実権を奪われるなどで失意のまま1786年(天明6)3月21日没。24才。法名「春徳院殿何屋道云大居士」。
奥平昌猷 生 文化10年 (1813年)没 天保13年 (1842年) 豊前中津藩7代藩主。1813年(文化10)3月昌高の5男として生まれる。兄昌暢が没したため1833年(天保4)1月跡を継ぐ。家臣を登用して藩政改革を行う。1842年(天保13)9月17日没。30才。法名「潜竜院殿大淵道珍大居士」。
奥平昌暢 生 文化6年 (1809年)没 天保3年 (1832年) 豊前中津藩6代藩主。1809年(文化6)1月昌高の次男として生まれる。1825年(文政8)5月父の隠居により家督を継ぐ。1832年(天保3)11月30日没。24才。法名「探源院殿心厳道轍大居士」。
奥平昌敦 生 享保9年 (1724年)没 宝暦8年 (1758年) 豊前中津藩2代藩主。1724年(享保9)4月昌成の次男として生まれる。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。目安箱の設置や農政改革など藩政改革に尽力。1758年(宝暦8)9月26日没。35才。法名「方廣院殿雲峯道端大居士」。
奥平昌成 生 元禄7年 (1694年)没 延享3年 (1746年) 豊前中津藩初代藩主。1694年(元禄7)11月昌章の次男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により2才で下野宇都宮藩主となる。1697年(元禄10)宮津藩へ移封。1703年(元禄16)9月将軍徳川綱吉に拝謁。1717年(享保2)2月1万石加増で豊前中津藩10万石に移封。1746年(延享3)11月14日没。53才。法名「龍源院殿徳翁道見大居士」。
南部重信 生 元和2年 (1616年)没 元禄15年 (1702年) 陸奥盛岡藩3代藩主。1616年(元和2)5月利直の5男として生まれる。七戸家を継いだが、1664年(寛文4)盛岡藩主の兄重直が子無く没したため跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月家督を長男行信に譲って隠居する。1702年(元禄15)6月18日没。87才。法名「大源院殿雲山宗祥大居士」。
南部通信 生 寛文13年 (1673年)没 享保元年 (1716年) 陸奥八戸藩3代藩主。1673年(寛文13)2月陸奥盛岡藩3代藩主重信の子として生まれる。従兄の直政の末期養子となり陸奥八戸藩主となる。教養が高く、藩の改革をして発展に貢献。1716年(享保元)8月24日没。44才。法名「三玄院殿法林徹證大居士」。
南部行信 生 寛永19年 (1642年)没 元禄15年 (1702年) 陸奥盛岡藩4代藩主。1642年(寛永19)8月重信の長男として生まれる。1664年(寛文6)4月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月父の隠居により家督を継ぐ。砲術と馬術に優れ、儒教に深く傾倒。1702年(元禄15)10月11日没。61才。法名「徳雲院殿玉翁宗珊大居士」。
南部義堯 生 寛政6年 (1794年)没 文政13年 (1830年) 遠野南部家9代当主。1794年(寛政6)八戸義応の子として生まれる。遠野南部家の八戸怡顔が没すると跡を継ぐ。1829年(文政12)より南部姓となる。藩主南部利用(善太郎)、利済がそれぞれ将軍徳川家斉に拝謁した際に供をする。1830年(文政13)5月3日没。37才。法名「天真院殿覺實英性大居士」。
南部政直 生 慶長4年 (1599年)没 寛永元年 (1624年) 1599年(慶長4)利直の次男として生まれる。1613年(慶長18)花巻城主となる。南部家の重臣柏山明助を毒殺する際、明助を騙すため自らも毒を飲んで死亡。1624年(寛永元)10月23日没。26才。法名「海潮院殿天巌宗青大居士」。墓石は1周忌に建立。
南部広信 生 宝永3年 (1706年)没 寛保元年 (1741年) 陸奥八戸藩4代藩主。1706年(宝永3)通信の長男として生まれる。1716年(享保元)10月父の死により跡を継ぐ。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)4月29日没。相続の都合で幕府には5月2日没としている。36才。法名「正見院殿覺雲宗智大居士」。
南部利雄 生 享保10年 (1725年)没 安永8年 (1779年) 陸奥盛岡藩8代藩主。1725年(享保10)利幹の長男として生まれる。1738年(元文3)10月南部利視の養子となる。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)5月利視の死により家督を継ぐ。宝暦の飢饉などにより財政が圧迫。1779年(安永8)12月11日没。55才。法名「養源院殿機翁宗鑑大居士」。
南部利謹 生 延享3年 (1746年)没 文化11年 (1814年) 1746年(延享3)利雄の長男として生まれる。1761年(宝暦11)2月将軍徳川家治に拝謁。素行に問題があり1774年(安永3)11月廃嫡となる。1814年(文化11)11月19日没。69才。法名「晋雲院殿天山恵祐大居士」。
南部利視 生 宝永5年 (1708年)没 宝暦2年 (1752年) 陸奥盛岡藩7代藩主。1708年(宝永5)信恩の次男として生まれる。父5代藩主信恩の死後生まれたため、叔父利幹が6代藩主となる。のちに家督を継ぎ、8代将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)4月4日没。45才。法名「天量院殿宣山宗明大居士」。
南部利正 生 宝暦2年 (1752年)没 天明4年 (1784年) 陸奥盛岡藩9代藩主。1752年(宝暦2)3月利視の6男として生まれる。始め南部信起の養子となる。1770年(明和7)4月将軍徳川家治に拝謁。1774年(安永3)12月盛岡藩南部利雄の養子となる。同月に再度徳川家治に拝謁。1780年(安永9)2月利雄の死により跡を継ぐ。1784年(天明4)5月25日没。33才。法名「義徳院殿南岳宗薫大居士」。
南部利敬 生 天明2年 (1782年)没 文政3年 (1820年) 陸奥盛岡藩10代藩主。1782年(天明2)利正の次男として生まれる。1784年(天明4)7月父の死により2才で家督を継ぐ。年齢を誤魔化し、幕府には1779年(安永8)生まれと届ける。1795年(寛政7)2月将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)6月3日没。39才。法名「神鼎院殿龍嶽宗文大居士」。
南部利康 生 慶長13年 (1608年)没 寛永8年 (1631年) 1608年(慶長13)利直の4男として生まれる。1626年(寛永3)に南直義の跡を継ぎ浅水城主となる。1631年(寛永8)11月21日没。24才。法名「龍巖薀公大禅定門」。
南部利幹 生 元禄2年 (1689年)没 享保10年 (1725年) 陸奥盛岡藩6代藩主。1689年(元禄2)行信の4男として生まれる。1706年(宝永3)1月兄の藩主信恩が死により、末期養子として家督を継ぐ。同年1月将軍徳川綱吉に拝謁。1725年(享保10)6月4日没。37才。法名「靈徳院殿雄山宗英大居士」。
南部信興 生 享保8年 (1723年)没 安永2年 (1773年) 陸奥八戸藩5代藩主。1723年(享保8)広信の長男として生まれる。1740年(元文5)将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)父の死により家督を継ぐ。1773年(安永2)8月13日没。51才。法名「龍津院殿珠岩宗滉大居士」。
南部信房 生 明和2年 (1765年)没 天保6年 (1835年) 陸奥八戸藩7代藩主。1765年(明和2)6月信依の長男として生まれる。1780年(安永9)11月将軍徳川家治に拝謁。1781年(天明元)2月父の死により跡を継ぐ。1835年(天保6)5月12日没。71才。法名「仙溪院殿仁道宗壽大居士」。
南部信恩妻 生 不明没 享保20年 (1735年) 黒田伝兵衛定治の娘。名は康。南部信恩に嫁ぎ、昆(今)姫、女子、利視の1男2女を儲ける。1735年(享保20)5月29日没。法名「浄智院殿南窻妙薫大姉」。墓石は6月29日とある。
南部信恩 生 延宝6年 (1678年)没 宝永4年 (1707年) 陸奥盛岡藩5代藩主。1678年(延宝6)9月行信の3男として生まれる。1701年(元禄14)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1702年(元禄15)11月父の死により家督を継ぐ。1707年(宝永4)12月8日没。30才。法名「靈巖院殿了因義方大居士」。
南部信依 生 延享4年 (1747年)没 天明元年 (1781年) 陸奥八戸藩6代藩主。1747年(延享4)信興の長男として生まれる。1762(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。1765年(明和2)父の隠居により跡を継ぐ。藩内に武芸を奨励。1781年(天明元)6月7日没。35才。法名「寶性院殿禪岩宗安大居士」。
北信愛 生 大永3年 (1523年)没 慶長18年 (1613年) 1523年(大永3)致愛の嫡男として生まれる。南部氏に仕え家老職。1600年(慶長5)和賀忠親の一揆勢により居城花巻城を攻められるも撃退。1613年(慶長18)8月17日没。91才。法名「萬献院殿節叟忠公大居士」。
八戸義応 生 宝暦10年 (1760年)没 寛政7年 (1795年) 1760年(宝暦10)信彦の5男として生まれる。1786年(天明6)3月八戸怡顔の養子となる。怡顔の跡を継ぐことなく、1795年(寛政7)8月15日没。36才。法名「俊宗院殿英山量雄大居士」。
八戸竹之助 生 不明没 貞享元年 (1684年) 八戸内記家2代。附馬牛(岩手県遠野市)領主。八戸義也(義長弟)の子。義也が1683年(天和3)没すると跡を継ぐ。1684年(貞享元)8月19日早世。法名「〇巖幻陽」。
八戸直義妻 生 不明没 万治4年 (1661年) 八戸直政の次女。母は清心尼。名は千代。八戸直義に嫁ぎ、義長を儲ける。1661年(万治4)7月25日没。法名「松光院殿天英馨香大禅定尼」。墓石施主は息子三五郎義長。
八戸利戡妻 生 延宝4年 (1676年)没 享保4年 (1719年) 1676年(延宝4)南部重信の10女として生まれる。1690年(元禄3)2月11日八戸義倫に嫁ぐ。義倫没後、1699年(元禄12)7月山田(八戸)利戡と再婚。1719年(享保4)8月28日没。44才。法名「常穩院殿妙體心公大禪定尼」。
八戸信有 生 元禄15年 (1702年)没 享保20年 (1735年) 遠野南部家5代当主。1702年(元禄15)5月七戸舜信の長男として生まれる。1712年(正徳2)八戸利戡の養子となり利戡の娘と婚約。1719年(享保4)12月藩主南部利幹の代理で将軍への年賀のため江戸に上府。1735年(享保20)6月4日没。34才。法名「定涼院殿仁君智通大居士」。
八戸信彦 生 享保5年 (1720年)没 安永3年 (1774年) 遠野南部家6代当主。1720年(享保5)4月信有の長男として生まれる。父の死により1735年(享保20)6月跡を継ぐ。1745年(延享2)12月、前年に起きた遠野屋敷の火災の責任を取り隠居。1774年(安永3)7月11日没。55才。法名「霊應院殿憩無詠歸入道大居士」。
奥平信昌妻 生 永禄3年 (1560年)没 寛永2年 (1625年) 1560年(永禄3)6月4日徳川家康の長女として駿府で生まれる。母は築山殿。名は亀姫。1576年(天正4)7月長篠の戦いのときに長篠城を守り通した奥平信昌に嫁ぐ。信昌の間に、家昌、松平家治、忠政、松平忠明、大久保忠常室の4男1女を儲ける。性格は母に似て強かったらしく、本多正純を失脚したのは亀姫が黒幕とされている。1625年(寛永2)5月27日没。66才。法名「盛徳院殿香林慈雲大姉」。
遠山長景 生 天正12年 (1584年)没 正保2年 (1645年) 1584年(天正12)方景の次男として生まれる。1615年(元和元)大坂夏の陣に参戦。1619年(元和5)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1638年(寛永15)9月跡を継ぐ。1645年(正保2)6月8日没。62才。法名「玄忠」。
遠山伊次 生 寛永3年 (1626年)没 延宝6年 (1678年) 1626年(寛永3)長景の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1645年(正保2)12月跡を継ぐ。1678年(延宝6)8月3日没。53才。法名「大梁院殿」。
水野忠良 生 天保5年 (1834年)没 安政5年 (1858年) 駿河沼津藩5代藩主。1834年(天保5)8月忠義の5男として生まれる。1844年(天保15)兄の忠武の死により家督を継ぐ。外国船出没による沿岸警備に務めたり、旱魃などにより財政は逼迫。1858年(安政5)5月3日没。25才。法名「常徳院泰譽安然義道大居士」。
水野忠職妻(青陽院) 生 元和2年 (1616年)没 貞享3年 (1686年) 1616年(元和2)中川久盛の娘として生まれる。1635年(寛永12)5月水野忠職に嫁ぎ、某の1男を儲ける。1686年(貞享3)12月13日没。71才。法名「青陽院殿榮譽天光春良大法尼」。墓石は生前の1662年(寛文2)2月の建立による。水野忠直の生母とされているが、実は昇仙院殿が忠直実母である。
水野忠職妻(昇仙院) 生 不明没 元禄5年 (1692年) 信濃松本藩3代藩主水野忠直の母。1692年(元禄5)8月13日没。法名「昇仙院殿長譽映月妙允大姉」。忠直の母は中川久盛の娘(青陽院殿)とされているが、水野家菩提寺の松本市玄向寺は昇仙院殿を忠直母としていて墓石も残る。墓石の位置や大きさから身分の低い女性と思われ、中川久盛の娘(青陽院殿)を忠直の生母として幕府に届けたと思われる。墓石は水野忠直の建立による。
水野忠職 生 慶長18年 (1613年)没 寛文8年 (1668年) 信濃松本藩2代藩主。1613年(慶長18)9月忠清の次男として生まれる。父の死後1647年(正保4)8月跡を継ぐ。江戸城の石垣普請の他、大坂城代を何回か務める。1668年(寛文8)6月26日没。56才。法名「道樹院信譽上昌玄向大居士」。
水野忠清妻 生 天正5年 (1577年)没 寛文10年 (1670年) 1577年(天正5)生まれ。小林氏の出で、前田利家の養女となり水野忠清の正室となる。忠清との間に忠次、京極高三室、山内忠直室、忠職、祖活の3男2女を儲ける。1670年(寛文10)4月2日没。94才。法名「福壽院殿性宣妙演尼大姉」。
水野忠清 生 天正10年 (1582年)没 正保4年 (1647年) 信濃松本藩初代藩主。1582年(天正10)忠重の4男として生まれる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いに徳川家康の命により扈従。大坂の両陣に参戦。夏の陣のときに青山忠俊と軍功を巡って争い閉門。家康の没する直前に閉門を解かれる。その後、加増を重ね、1642年(寛永19)に信濃松本にて7万石となる。1647年(正保4)5月28日没。66才。法名「真珠院殿廓譽全忠大居士」。
水野忠幹 生 元禄12年 (1699年)没 享保8年 (1723年) 信濃松本藩5代藩主。1699年(元禄12)忠周の長男として生まれる。1709年(宝永6)将軍徳川家宣に拝謁。1718年(享保3)父が死去すると家督を継ぐ。目安箱を設置したり藩の財政改革に努める。1723年(享保8)5月10日没。25才。法名「徳本院殿心譽仁光大居士」。
水野元知 生 正保元年 (1644年)没 延宝8年 (1680年) 上野安中藩2代藩主。1644年(正保元)元綱の次男として生まれる。1664年(寛文4)10月父の隠居により跡を継ぐ。1667年(寛文7)5月発狂して妻を斬りつけたために改易となる。1680年(延宝8)9月没。37才。法名「大遍院殿碧雲冲虚大居士」。
森川重俊 生 天正12年 (1584年)没 寛永9年 (1632年) 下総生実藩初代藩主。1584年(天正12)氏俊の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに従う。大久保忠隣の改易に連座して改易となるも、大坂の陣で活躍して復帰。1631年(寛永8)には老中となる。1632年(寛永9)1月24日に秀忠が亡くなると翌日25日に殉死。49才。法名「重俊院殿活國正英居士」。