本多忠籌妻 生 元文5年 (1740年)没 明和5年 (1768年) 1740年(元文5)松浦誠信の5女として生まれる。名は富子。1764年(明和元)9月本多忠籌に嫁ぐ。忠籌との間に忠雄、忠の2男を儲ける。1768年(明和5)5月15日没。29才。法名「瑤池院殿宝蓮紹香大姉」。
松浦久信妻 生 不明没 明暦2年 (1656年) 大村純忠の5女。父がキリシタンのためメンシアという洗礼名を持つ。松浦久信に嫁ぎ、隆信、信辰の2男を儲ける。1656年(明暦2)11月25日没。史料によってまちまちだが享年82~85才。法名「松東院殿月心宗玉大姉」。
松浦信清 生 慶長5年 (1600年)没 寛永元年 (1624年) 1600年(慶長5)久信の次男として生まれる。源太郎。成清とも。松浦豊後守信實の養子となる。1624年(寛永元)5月24日江浄寺(静岡市清水区)で自殺。25才。法名「龍光院涼雲道静」。江浄寺にも新しい墓(恋塚)があり、こちらでは法名「松源院法岸宗鉄大居士」とある。婚約を交わした春姫が兄隆信に取られそうになったため、江戸を無断で出奔。江浄寺で家臣により自殺させられたという。
松浦信貞 生 慶長14年 (1609年)没 元禄7年 (1694年) 1609年(慶長14)信正の長男として生まれる。1633年(寛永10)8月将軍徳川家光に拝謁。幕府の小姓組、勘定頭を務める。1682年(天和2)12月隠居。1694年(元禄7)8月22日没。86才。法名「芳性院殿蘭溪道秀居士」。
松浦政信 生 享保20年 (1735年)没 明和8年 (1771年) 1735年(享保20)誠信の3男として生まれる。兄2人が没したため嫡子となり、1757年(宝暦7)10月将軍徳川家重に拝謁。跡を継ぐことなく1771年(明和8)8月11日没。37才。法名「政功院殿蓬山宗丘大居士」。
松浦曜 生 文化9年 (1812年)没 安政5年 (1858年) 肥前平戸藩11代藩主。1812年(文化9)8月熈の長男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)閏1月父の隠居により家督を継ぐ。1858年(安政5)6月28日没。47才。法名「諦乗院殿得脱祥瑞大居士」。
松浦有信 生 宝永7年 (1710年)没 享保13年 (1728年) 肥前平戸藩7代藩主。1710年(宝永7)篤信の長男として生まれる。1722年(享保7)11月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1727年(享保12)閏1月跡を継ぐ。1728年(享保13)8月25日没。19才。法名「等覚院殿天麟英心大居士」。
松浦棟 生 正保3年 (1646年)没 正徳3年 (1713年) 肥前平戸藩5代藩主。1646年(正保3)9月重信の長男として生まれる。1656年(明暦2)8月将軍徳川家綱に拝謁。1689年(元禄2)7月父の隠居により家督を継ぐ。1713年(正徳3)9月22日没。68才。法名「雄香寺殿俊林宗英大居士」。
松浦清 生 宝暦10年 (1760年)没 天保12年 (1841年) 肥前平戸藩9代藩主。1760年(宝暦10)1月政信の長男として生まれる。号は静山。甲子夜話の著者。1774年(安永3)4月将軍徳川家治に拝謁。1775年(安永4)2月祖父誠信の隠居により跡を継ぐ。1806年(文化3)3男の熈に家督を譲り隠居。1841年(天保12)6月29日没。82才。法名「豊功院殿静山流水大居士」。
松浦熈 生 寛政3年 (1791年)没 慶応3年 (1867年) 肥前平戸藩10代藩主。1791年(寛政3)清の3男として生まれる。1803年(享和3)6月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1805年(文化2)6月跡を継ぐ。1841年(天保12)閏1月隠居。1867年(慶応3)6月27日没。77才。法名「龍瑞院殿乾乾観中大居士」。
松浦篤信 生 貞享元年 (1684年)没 宝暦6年 (1756年) 肥前平戸藩6代藩主。1684年(貞享元)7月重信の4男として生まれる。1696年(元禄9)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1713年(正徳3)2月兄の棟の隠居により家督を継ぐ。1727年(享保12)閏1月隠居。1756年(宝暦6)12月3日没。73才。法名「松英院殿逸巖俊翁大居士」。
松浦誠信 生 正徳元年 (1711年)没 安永8年 (1779年) 肥前平戸藩8代藩主。1711年(正徳元)篤信の次男として生まれる。1728年(享保13)8月7代藩主有信の養子となり、同年11月7日跡を継ぐ。同年11月15日将軍徳川吉宗に拝謁。1779年(安政8)4月29日没。69才。法名「誠嶽院殿英山紹俊大居士」。
松浦邦 生 享保17年 (1732年)没 宝暦7年 (1757年) 1732年(享保17)誠信の長男として生まれる。1744年(延享元)12月将軍徳川吉宗に拝謁。跡を継ぐことなく1757年(宝暦7)5月4日没。26才。法名「本覺院殿華林宗嚴大居士」。
松浦重信 生 元和8年 (1622年)没 元禄16年 (1703年) 肥前平戸藩4代藩主。1622年(元和8)3月隆信の長男として生まれる。1629年(寛永6)将軍徳川家光に拝謁。外国との交易を幕府の命により、長崎の出島のみとなったために財政が悪化。領内ではキリシタンの取締りを行う。1689年(元禄2)7月に隠居して、曾祖父と同じ鎮信を名乗る。1703年(元禄16)10月6日没。82才。法名「天祥院殿慶巖徳祐大居士」。
松浦重信妻 生 不明没 慶安2年 (1649年) 松平忠国の娘。寛永年間に松浦重信に嫁ぐ。重信との間に、棟、石川乗政妻の1男1女を儲ける。1649年(慶安2)9月7日没。法名「雲晴院殿高譽秋月大禅定尼」。
松浦長 生 寛文11年 (1671年)没 元禄5年 (1692年) 1671年(寛文11)棟の長男として生まれる。1686年(貞享3)将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて、1692年(元禄5)6月9日没。22才。法名「龍珠院殿大圓宗光居士」。
松浦隆信 生 天正19年 (1591年)没 寛永14年 (1637年) 肥前平戸藩3代藩主。1591年(天正19)久信の長男として生まれる。曾祖父の隆信(道可)と同名。1602年(慶長7)父の死により家督を継ぐ。1603年(慶長8)将軍徳川家康に拝謁。キリシタンだったが幕府の禁教令により棄教。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参陣するも向かう途中で戦いは終了、二条城で家康に拝謁。1637年(寛永14)5月24日没。47才。法名「正宗院殿向東宗陽居士」。
中島宗信 生 不明没 寛文9年 (1669年) 宗求の3男。伊勢守。伊達家の家臣。兄宗勝が没したため家督を継ぐ。1669年(寛文9)10月16日没。法名「正兵院殿」。墓石に「為中嶋伊勢守宗信御追善」とある。
九鬼隆常 生 正保3年 (1646年)没 元禄11年 (1698年) 丹波綾部藩2代藩主。1646年(正保3)隆季の長男として生まれる。1654年(承応3)将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1674年(延宝2)11月跡を継ぐ。1698年(元禄11)4月1日没。53才。法名「乾徳院殿仁嶽了賢大居士」。
井伊直中 生 明和3年 (1766年)没 天保2年 (1831年) 近江彦根藩14代藩主。1766年(明和3)6月直幸の6男として生まれる。1787年(天明7)10月将軍徳川家斉に拝謁。1789年(寛政元)4月父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)2月隠居。1831年(天保2)5月25日没。66才。法名「観徳院殿天寧広輝大居士」。
井伊直中妻(親光院) 生 明和8年 (1771年)没 天保7年 (1836年) 1771年(明和8)南部利正の娘として生まれる。名は豊姫、親姫。井伊直中に嫁ぎ、蜂須賀斉昌妻、直亮、秩姫の1男2女を儲ける。1836年(天保7)5月14日没。法名「親光院殿憲室龍華大姉」。
井伊直亮 生 寛政6年 (1794年)没 嘉永3年 (1850年) 近江彦根藩15代藩主。1794年(寛政6)6月直中の3男として生まれる。1812年(文化9)2月父の隠居により家督を継ぐ。1835年(天保6)大老に就任。軍隊を西洋式にしたり蘭学者を登用するなど開明的な政治を行う。1850年(嘉永3)10月1日没。57才。法名「天徳院殿真龍廓性大居士」。
井伊直亮妻 生 寛政8年 (1796年)没 文化13年 (1816年) 1796年(寛政8)松平頼儀の娘として生まれる。名は餐姫。井伊直亮に嫁ぐも子供は出来ず。1816年(文化13)2月28日没。法名「龍華院殿善法正因大姉」。
井伊直元 生 文化6年 (1809年)没 弘化3年 (1846年) 1809年(文化6)4月直中の11男として生まれる。1825年(文政8)4月兄で彦根藩主直亮の養子となる。家督を継ぐことなく1846年(弘化3)1月13日没。38才。法名「良性院殿真相元諦大居士」。
井伊直富 生 宝暦10年 (1760年)没 天明7年 (1787年) 1760年(宝暦10)8月直幸の3男として生まれる。1775年(安永4)将軍徳川家治に拝謁。1787年(天明7)7月12日父に先立って没。28才。法名「龍泉院殿恵天徳光大居士」。
井伊直富妻 生 明和7年 (1770年)没 天明7年 (1787年) 1770年(明和7)伊達重村の娘として生まれる。名は満姫詮子。1783年(天明3)井伊直富に嫁ぐ。直富が1787年(天明7)に若くして没したため、直富との間には子供が出来ず。1844年(弘化元)9月12日没。75才。法名「守眞院殿滿光貞詮大姉」。
井伊直幸 生 享保14年 (1729年)没 寛政元年 (1789年) 近江彦根藩13代藩主。1729年(享保14)7月直惟の次男として生まれる。叔父の直定の養子となり1755年(宝暦5)直定の隠居により跡を継ぐ。官位が上がり正四位上となり、1784年(天明4)11月には大老となる。1789年(寛政元)2月30日没。61才。法名「大魏院殿弥高文山大居士」。
井伊直弼 生 文化12年 (1815年)没 安政7年 (1860年) 近江彦根藩16代藩主。1815年(文化12)10月直中の14男として生まれる。15代藩主井伊直亮の養子となり、直亮の死後家督を継ぐ。江戸幕府の大老となり日米修好通商条約の締結や将軍の跡取り問題などを行う。政策に反対するものは厳しく罰したため(安政の大獄)、かえって反感を買い1860年(安政7)3月3日水戸浪士たちにより殺される。(桜田門外の変)46才。法名「宗観院殿桺暁覺翁大居士」。
井伊直恒 生 元禄6年 (1693年)没 宝永7年 (1710年) 近江彦根藩7代藩主。1693年(元禄6)3月直興の10男として生まれる。兄で藩主の直通が没したため1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。同月、将軍徳川綱吉に拝謁。同年10月5日没。18才。法名「圓成院殿徳巖道隣大居士」。
井伊直惟 生 元禄13年 (1700年)没 元文元年 (1736年) 近江彦根藩9代藩主。1700年(元禄13)5月直興の13男として生まれる。1711年(正徳元)10月将軍徳川家宣に拝謁。1714年(正徳4)2月父の隠居に伴い家督を継ぐ。1736年(元文元)6月4日没。37才。法名「泰源院海印指光大居士」。
井伊直政 生 永禄4年 (1561年)没 慶長7年 (1602年) 近江彦根藩初代藩主。1561年(永禄4)直親の子として生まれる。1575年(天正3)2月徳川家康に仕える。1576年(天正4)武田軍との対戦にて初めて出陣、以降家康のもとで戦や外交で活躍して徳川四天王の1人となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには、家康の4男であり娘婿の忠吉とともに出陣。戦の後半にて島津軍と戦い、負傷。1602年(慶長7)2月1日、関ヶ原の傷が原因で死去。42才。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。廟の中に宝篋印塔(写真)がある。
井伊直武 生 慶安3年 (1650年)没 元禄10年 (1697年) 遠江掛川藩2代藩主。1650年(慶安3)直好の長男として生まれる。1658年(万治元)3月将軍徳川家綱に拝謁。1672年(寛文12)父の死後、家督を継ぐ。1694年(元禄7)11月隠居。1697年(元禄10)6月8日没。48才。法名「原忠院殿高節元義大居士」。
井伊直武妻 生 不明没 享保7年 (1722年) 藤堂高次の娘。名は鶴姫。安藤重之の養女として井伊直武に嫁ぐ。直武との間に、小笠原信秀妻、直朝の1男1女を儲ける。1722年(享保7)10月4日没。法名「羪俊院殿禅山壽高大姉」。墓石は息子直朝の養子直矩の建立による。
井伊直清 生 寛政3年 (1791年)没 文化8年 (1811年) 1791年(寛政3)4月直中の長男として生まれる。病弱のため1805年(文化2)廃嫡となる。1811年(文化8)9月21日没。21才。法名「俊澤院殿等霖元洪大居士」。墓石は直清の代わり跡を継いだ弟直亮の建立による。
井伊直澄 生 寛永2年 (1625年)没 延宝4年 (1676年) 近江彦根藩4代藩主。1625年(寛永2)7月直孝の5男として生まれる。1634年(寛永11)2月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の死により跡を継ぐ。1668年(寛文8)より大老を務める。1676年(延宝4)1月3日没。52才。法名「玉龍院殿忠山源功大居士」。
井伊直禔 生 享保12年 (1727年)没 宝暦4年 (1754年) 近江彦根藩11代藩主。1727年(享保12)9月直惟の次男として生まれる。1737年(元文2)8月叔父直定の養子となり、同月将軍徳川吉宗に拝謁。1754年(宝暦4)6月直定の隠居により家督を継ぐ。急病により同年8月29日没。28才。法名「見性院殿観刹了因大居士」。
井伊直興 生 明暦2年 (1656年)没 享保2年 (1717年) 近江彦根藩5代藩主および第8代藩主。1656年(明暦2)3月直縄の長男として生まれる。井伊直澄の養子となり1676年(延宝4)の直澄の死により家督を継ぐ。1701年(元禄14)隠居。8男の直通に跡を継がせるも1710年(宝永7)7月に没し更に跡を継いだ10男直恒も同年10月没したため、再度藩主となる。1717年(享保2)4月20日没。62才。法名「長壽院殿覚翁知性大居士」。
井伊直通 生 元禄2年 (1689年)没 宝永7年 (1710年) 近江彦根藩6代藩主。1689年(元禄2)直興の8男として生まれる。1698年(元禄11)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1701年(元禄14)3月家督を継ぐ。1710年(宝永7)7月26日没。23才。法名「光照院殿天眞義空大居士」。
伊達宗村 生 享保3年 (1718年)没 宝暦6年 (1756年) 陸奥仙台藩6代藩主。1718年(享保3)5月吉村の4男として生まれる。1726年(享保11)1月将軍徳川吉宗に拝謁。1字を賜い宗村と名乗る。父の隠居により1743年(寛保3)7月跡を継ぐ。1756年(宝暦6)5月26日没。39才。法名「政徳院殿忠山浄信大居士」。
伊達宗清 生 慶長5年 (1600年)没 寛永11年 (1634年) 1600年(慶長5)政宗の3男として生まれる。河内守。1604年(慶長9)に飯坂宗康の養嗣子となるも後に伊達姓に戻る。陸奥黒川郡吉岡城主で3万5千石を領す。1634年(寛永11)7月22日没。35才。法名「天皇寺殿空巌長印大禅定門」。墓石に為御自身造立とあるが日付は没後の寛永十二年二月二十二日となっている。
伊達綱村 生 万治2年 (1659年)没 享保4年 (1719年) 陸奥仙台藩4代藩主。1659年(万治2)3月綱宗の長男として生まれる。伊達家中の対立により父が隠居したため2才で家督を継ぐ。1671年(寛文11)伊達騒動が起き綱村後見人の伊達宗勝などが罰せられるも仙台藩は存続。1719年(享保4)6月20日没。61才。法名「大年寺殿肯山全提大居士」。
伊達重村 生 寛保2年 (1742年)没 寛政8年 (1796年) 陸奥仙台藩7代藩主。1742年(寛保2)4月宗村の次男として生まれる。1756年(宝暦6)7月父の死により家督を継ぐ。家臣同士の争いや官位獲得のための費用により財政は悪化。1796年(寛政8)4月23日没。55才。法名「叡明院殿徹山玄機大居士」。
南直道 生 不明没 慶長11年 (1606年) 榊原康政の家臣。甚之丞。康政が1606年(慶長11)5月14日に没すると、16日に殉死。法名「腹誉道切禅定門」。墓石には読みにくいが「榊原式部大輔供奉 南甚之丞 〇誉道切 慶長十〇 五月〇四日」とある。
堀直時 生 元和2年 (1616年)没 寛永20年 (1643年) 越後村松藩初代藩主。1616年(元和2)直寄の次男として生まれる。1626年(寛永3)徳川秀忠と家光に拝謁。1639年(寛永16)父の遺領のち3万石を分け与えられる。1643年(寛永20)2月29日没。28才。法名「華徳院芳屋浄香大居士」。