佐竹義和妻の墓碑
佐竹義和妻
生 安永元年 (1772年)
没 文化13年 (1816年)
1772年(安永元)11月26日堀田正順の娘として生まれる。名は鐡、彌。1793年(寛政5)2月佐竹義和に嫁ぐ。義和との間に、女子1女を儲ける。他の側室が儲けた女子(名は利瑳)を養女として前田斉泰と婚約するも、嫁ぐまえに早世。1816年(文化13)5月13日没。45才。法名「仙松院殿幽巖秀雲大姉」。
佐世長哲の墓碑
佐世長哲
生 享保元年 (1716年)
没 元文元年 (1736年)
長州毛利家家臣。1716年(享保元)広玄の子として生まれる。毛利広規の娘と婚約するも1736年(元文元)8月1日没。21才。法名「月岑宗圓居士」。
佐世広長の墓碑
佐世広長
生 承応元年 (1652年)
没 享保2年 (1717年)
長州毛利家家臣。1652年(承応元)就説の長男として生まれる。1717年(享保2)6月4日没。66才。法名「仁叟宗英居士」。
佐世就説の墓碑
佐世就説
生 元和4年 (1618年)
没 延宝9年 (1681年)
長州毛利家家臣。1618年(元和4)元量の子として生まれる。母は尼子倫久の娘。1681年(延宝9)3月13日没。64才。法名「芳心院殿巖宗〇居士」。
亀井茲延妻の墓碑
亀井茲延妻
生 享保3年 (1718年)
没 元文6年 (1741年)
1718年(享保3)4月有馬則維の娘として生まれる。名は嘉代。稲葉董通の許嫁となるも嫁ぐまえに董通が1737年(元文2)没す。(寛政重修諸家譜には董通室とあるが結婚してない)1739年(元文4)9月亀井茲延の妻となる。1741年(元文6)1月24日没。24才。法名「成仙院殿壷岑貞玉大禅定尼」。
長井元房の墓碑
長井元房
生 不明
没 寛永2年 (1625年)
元為の子。毛利輝元に仕える。輝元から温情をかけられた逸話が残っていて、輝元が没すると1625年(寛永2)6月2日殉死。法名「閑叟紹玄居士」。山口県萩市の天樹院墓所の輝元墓の傍にも墓がある。
蘆名義勝妻の墓碑
蘆名義勝妻
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
京都より出羽角館の蘆名義勝に嫁ぐ。1630年(寛永7)3月7日没。法名「天桂院殿長薫大姉」。秋田県仙北市角館町の天寧寺にも墓がある。墓石は夫主計義勝の建立による。
蘆名盛俊の墓碑
蘆名盛俊
生 寛永8年 (1631年)
没 慶安4年 (1651年)
出羽角館蘆名氏2代。1631年(寛永8)義勝の子として生まれる。久保田藩佐竹家の重臣。1643年(寛永20)6月将軍徳川家光に拝謁。1651年(慶安4)6月10日没。21才。法名「廣猷院雄山宗英大禅定門」。墓石には「慶安四年七月廿日」とあるが建立日と思われる。墓石施主は息子千鶴丸。墓石には芦名千靏とある。
牧野成時の墓碑
牧野成時
生 寛文3年 (1663年)
没 貞享4年 (1687年)
1663年(寛文3)黒田用綱の4男として生まれる。1670年(寛文10)2月将軍徳川家綱に拝謁。1683年(天和3)1月牧野成貞の養子となり、その娘を妻とする。牧野家の跡を継ぐことなく1687年(貞享4)9月27日没。25才。法名「功泰院殿機應即全居士」。
牧野儀成の墓碑
牧野儀成
生 慶長11年 (1606年)
没 万治3年 (1660年)
1606年(慶長11)忠成の3男として生まれる。1627年(寛永4)大御所徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。御書院番、小姓組頭、御書院番頭を務める。1660年(万治3)3月5日没。55才。法名「要津院殿壁立鈍鐡居士」。
毛利重広の墓碑
毛利重広
生 享保21年 (1736年)
没 宝暦10年 (1760年)
1736年(享保21)2月25日有馬一準の次男として生まれる。毛利宗広の次女誠姫を娶り、長府藩7代藩主毛利重就の養子となる。1752年(宝暦2)4月9代将軍徳川家重に拝謁。跡を継ぐことなく1760年(宝暦10)6月19日没。25才。法名「隆徳院殿傑心傅英大居士」。
毛利重就娘(涼嶽院)の墓碑
毛利重就娘(涼嶽院)
生 宝暦2年 (1752年)
没 宝暦9年 (1759年)
1752年(宝暦2)11月15日重就の5女として生まれる。母は立花貞俶の娘。1759年(宝暦9)7月25日没。8才。法名「涼嶽院殿慧林玉芳大童女」。
毛利重就の墓碑
毛利重就
生 享保10年 (1725年)
没 寛政元年 (1789年)
長州藩7代藩主。1725年(享保10)匡広の10男として生まれる。1751年(宝暦元)2月長州藩6代藩主宗広の末期養子として跡を継ぐ。同4月、将軍徳川家重に拝謁。新田開発、塩田開発など藩の財政改革に取り組む。1782年(天明2)家督を4男の治親に譲り隠居。1789年(寛政元)10月7日没。65才。法名「英雲院殿祐山如靖大居士」。重就の読みは「しげたか」である。
毛利輝元の墓碑
毛利輝元
生 天文22年 (1553年)
没 寛永2年 (1625年)
1553年(天文22)1月隆元の長男として生まれる。祖父元就の跡を継ぎ、叔父吉川元春や小早川隆景の2人が輝元を補佐した。織田信長と敵対していたが、信長没後は豊臣秀吉に従う。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは西軍の総大将となったため大幅に減封される。1625年(寛永2)4月27日没。73才。法名「天樹院殿雲岩宗瑞大居士」。
毛利宗元の墓碑
毛利宗元
生 元禄16年 (1703年)
没 享保6年 (1721年)
長門長府藩4代藩主。元朝とも。 1703年(元禄16)1月19日吉元の長男として生まれる。祖父綱元の養子となり長府藩主となる。1717年(享保2)将軍徳川吉宗の御前で元服、1字を賜り宗元と名乗る。長州藩の嗣子となっていたが、跡を継ぐことなく1721年(享保6)4月19日没。19才。法名「祐巖院殿賢良浄雄大居士」。
大関高増妻の墓碑
大関高増妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
分部光信の娘。大関高増に嫁ぎ、屋代忠正妻、村上正尚妻、神尾守好妻、増親、清雲院尼、増栄、増公、増俊の4男4女を儲ける。1645年(正保2)6日22日没。法名「青松院殿茂林宗繁大姉」。
大関高増の墓碑
大関高増
生 慶長16年 (1611年)
没 正保3年 (1646年)
下野黒羽藩3代藩主。1611年(慶長16)政増の長男として生まれる。父の死により1616年(元和2)跡を継ぐ。同年将軍徳川秀忠に拝謁。1646年(正保3)8月21日没。36才。法名「法光院殿覺岑生鐡大居士」。墓石には1647年(正保4)3月とあるが、建立日と思われる。
大関政増の墓碑
大関政増
生 天正19年 (1591年)
没 元和2年 (1616年)
下野黒羽藩2代藩主。1591年(天正19)晴増の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川氏の人質として江戸に赴く。1605年(慶長10)叔父の大関資増から家督を譲られる。大坂の両陣にも参戦。1616年(元和2)5月30日没。26才。法名「顧岑道鑑大禅定門」。
大関増親の墓碑
大関増親
生 寛永12年 (1635年)
没 寛文2年 (1662年)
下野黒羽藩4代藩主。1635年(寛永12)高増の長男として生まれる。1643年(寛永20)7月将軍徳川家光に拝謁。1646年(正保3)11月父の死により家督を継ぐ。1662年(寛文2)4月1日没。28才。法名「正覺院殿傳心宗單大居士」。
大関増栄の墓碑
大関増栄
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄元年 (1688年)
下野黒羽藩5代藩主。1639年(寛永16)高増の次男として生まれる。幕府に仕え交代寄合となる。のちに兄で藩主増親の養子となり、家督を継ぐ。1662年(寛文2)7月将軍徳川家綱に拝謁。1688年(元禄元)12月13日没。50才。法名「本源院殿心印元証大居士」。
大関増恒の墓碑
大関増恒
生 貞享3年 (1686年)
没 宝暦9年 (1759年)
下野黒羽藩6代藩主。1686年(貞享3)11月増茂の長男として生まれる。1689年(元禄元)10月に父、同年12月に祖父増栄が亡くなったため、1689年(元禄2)1月跡を継ぐ。1696年(元禄9)10月将軍徳川綱吉に拝謁。1759年(宝暦9)1月20日没。74才。法名「慧日院殿義天得翁大居士」。
脇坂安董の墓碑
脇坂安董
生 明和4年 (1767年)
没 天保12年 (1841年)
播磨龍野藩8代藩主。1767年(明和4)6月安親の次男として生まれる。1784年(天明4)父の隠居により跡を継ぐ。幕府では寺社奉行、老中を務める。1803年(享和3)延命院事件と呼ばれる大奥も絡んだ事件を解決。1841年(天保12)閏1月23日没。75才。法名「蒼龍院殿君威安董大居士」。
脇坂安経の墓碑
脇坂安経
生 不明
没 寛永9年 (1632年)
安治の5男。兄安元の養子となる。1632年(寛永9)4月4日親族の備中松山藩池田家の遺領を巡り、池田長常と口論になり殺害される。法名「崇禅院殿機叟紹用大禅定門」。
脇坂安照妻の墓碑
脇坂安照妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
岡部直好の娘。脇坂安照に嫁ぎ、女子、安清の1男1女を儲ける。1714年(正徳4)10月20日没。法名「遊窓院殿締譽圓月大姉」。
脇坂安照の墓碑
脇坂安照
生 万治元年 (1658年)
没 享保7年 (1722年)
播磨龍野藩2代藩主。1658年(万治元)安政の5男として生まれる。1672年(寛文12)6月将軍徳川家綱に拝謁。1678年(延宝6)9月嫡子となり、父の隠居により1684年(貞享元)11月跡を継ぐ。1701年(元禄14)浅野長矩の赤穂城の受取役を務める。1709年(宝永6)11月隠居。1722年(享保7)9月19日没。65才。法名「玄要院殿一機幽水大居士」。
脇坂安治妻の墓碑
脇坂安治妻
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
西洞院宰相の娘。脇坂安治に嫁ぎ、安元を儲ける。1639年(寛永16)4月17日没。法名「玄昌院殿雲誉清自大禅定尼」。墓石には「寛永十六天七月廿七日」とあるが建立日と思われる。
脇坂安治の墓碑
脇坂安治
生 天文23年 (1554年)
没 寛永3年 (1626年)
1554年(天文23)安明の子として生まれる。浅井氏に属していたが後織田信長の家臣時代の豊臣秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人となる。小牧長久手の戦い、小田原合戦、朝鮮出兵などに参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは西軍に付き、戦中に東軍に寝返る。戦後所領安堵。1615年(元和元)隠居。1626年(寛永3)8月6日没。73才。法名「雲松寺殿平林安治大居士」。墓石は1612年(慶長17)8月建立の逆修塔。
脇坂安政妻の墓碑
脇坂安政妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
今井総十郎の娘。脇坂安政に嫁ぎ、伝次郎、加藤泰恒妻の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月9日没。法名「周光院殿堅譽妙清大信女」。
脇坂安政の墓碑
脇坂安政
生 寛永10年 (1633年)
没 元禄7年 (1694年)
播磨龍野藩初代藩主。1633年(寛永10)堀田正盛の次男として生まれる。1640年(寛永17)8月脇坂安元の養子となる。同年11月将軍徳川家光に拝謁。安元の死により1654年(承応3)3月跡を継ぐ。1672年(寛文12)5月移封により播磨龍野藩主となる。1694年(元禄7)4月20日没。62才。法名「東陽院大禅如水居士」。
脇坂安元妻の墓碑
脇坂安元妻
生 不明
没 明暦3年 (1657年)
石河光元の長女。脇坂安元に嫁ぐ。1657年(明暦3)8月1日没。法名「慶光院殿受譽榮久大姉」。墓石は1671年(寛文11)4月1日安元の養子安政(安吉)の建立による。
脇坂安元の墓碑
脇坂安元
生 天正12年 (1584年)
没 承応2年 (1653年)
信濃飯田藩初代藩主。1584年(天正12)3月安治の次男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは父とともに西軍に属するも、戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1617年(元和3)信濃飯田藩主となる。1653年(承応2)12月3日没。70才。法名「八雲院殿藤享安元大居士」。
福原親俊の墓碑
福原親俊
生 天保4年 (1833年)
没 安政5年 (1858年)
1833年(天保4)熙賢の長男として生まれる。父の死により1836年(天保7)跡を継ぐ。長州藩主毛利慶親より1字を賜い親俊と名乗る。1858(安政5)8月4日没。26才。法名「好謙齋道光宗貴居士」。
福原熙賢妻の墓碑
福原熙賢妻
生 文化8年 (1811年)
没 慶応元年 (1865年)
1811年(文化8)毛利広鎮の4女として生まれる。福原熙賢に嫁ぎ、親俊、女子の1男1女を儲ける。1865年(慶応元)7月10日没。55才。法名「真相院殿貞巖茂松大姉」。
福原広泰妻の墓碑
福原広泰妻
生 不明
没 享保10年 (1725年)
毛利就久の娘。福原広泰に嫁ぐ。広泰との間に子は出来ず。1725年(享保10)4月23日没。法名「玉龍院殿翆雲眞光大姉」。
福原就清妻の墓碑
福原就清妻
生 宝暦10年 (1760年)
没 文政6年 (1823年)
1760年(宝暦10)毛利広豊の娘として生まれる。福原就清の後室として嫁ぎ、少輔三郎の1男を儲ける。1823年(文政6)7月2日没。64才。法名「錬功院殿霞山養眞大姉」。
福原就俊の墓碑
福原就俊
生 不明
没 正保2年 (1645年)
元俊の子。父に先立ちて1645年(正保2)11月21日没。法名「暁雲院殿智光圓實居士」。家系に「未受譲先父卒」とあることから、嫡男だったが家督を継ぐ前に亡くなる。跡は弟広俊が継ぐ。
福原元貞妻の墓碑
福原元貞妻
生 正徳2年 (1712年)
没 明和9年 (1772年)
1712年(正徳2)福原元房の娘として生まれる。福原元貞に嫁ぎ、広門を儲ける。1772年(明和9)9月2日没。61才。法名「心鏡院殿瑞雲貞性大姉」。
福原元貞の墓碑
福原元貞
生 宝永5年 (1708年)
没 元文6年 (1741年)
1708年(宝永5)益田就賢の次男として生まれる。福原広泰の養子となり、1725年(享保10)6月跡を継ぐ。1741年(元文6)3月15日没。34才。法名「光宅院殿天寧崇祐大居士」。墓石は半分に割れており、手前の上部に「光宅・・」等が見え、奥の下部には「・・祐居士」等が見える。
福原元僴の墓碑
福原元僴
生 文化12年 (1815年)
没 元治元年 (1864年)
1815年(文化12)8月毛利広鎮の6男として生まれる。1851年(嘉永4)毛利家の家老になったときに福原家の家督を継ぐ。尊王攘夷派で、禁門の変のときに総大将を務める。幕府による第1次長州征伐が起こると、国司親相、益田親施とともに責任を取らせられ死罪となる。元僴は1864年(元治元)11月12日岩国の龍護寺で自害。50才。法名「隆文院殿頣堂全忠大居士」。
松平照信の墓碑
松平照信
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
康信の次男。1656年(明暦2)12月将軍徳川家綱に拝謁。松平重信の養子となりその娘を妻とする。1662年(寛文2)2月13日没。法名「勝譽資建居士」。
松平氏信妻の墓碑
松平氏信妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
久貝正世の娘。松平氏信に嫁ぎ、氏清、氏辰を儲ける。1685年(貞享2)5月26日没。法名「長昌院殿栄譽転壽大姉」。墓石は息子氏辰の建立による。
松平氏信の墓碑
松平氏信
生 慶長18年 (1613年)
没 天和3年 (1683年)
1613年(慶長18)家信の4男として生まれる。1635年(寛永12)11月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)9月徳川家綱付きとなる。1677年(延宝5)4月隠居。1683年(天和3)6月16日没。71才。法名「覺凉院殿菴窓道頓居士」。墓石は3男氏辰の建立による。
松平康信の墓碑
松平康信
生 慶長5年 (1600年)
没 天和2年 (1682年)
丹波篠山藩初代藩主。1600年(慶長5)家信の次男として生まれる。1609年(慶長14)将軍徳川秀忠に拝謁。大坂冬の陣では井上正就に属し、夏の陣では徳川頼宣に属して参戦。父の死により1638年(寛永15)5月跡を継ぐ。1649年(慶安2)7月加増移封により丹波篠山藩主となる。1682年(天和2)6月13日没。83才。法名「大安院殿徳誉道悟別峯大居士」。
松平家信の墓碑
松平家信
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永15年 (1638年)
1565年(永禄8)家忠の長男として生まれる。徳川家康に仕え、信州高島城攻め、小牧長久手の戦い、九戸一揆に参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城留守居役。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは病により息子康信を代わりに出陣させる。1638年(寛永15)1月14日没。74才。法名「常立院殿上誉露雪居士」。
松平典信妻の墓碑
松平典信妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
板倉重宗の娘。松平典信に嫁ぎ、松平光永妻、板倉重郷養女、戸田重恒妻、松平忠充妻、信利、松平氏辰妻、真田信音妻、信庸、永井直敬妻、松平近禎妻の2男8女を儲ける。1670年(寛文10)3月5日没。法名「専稱院殿長譽榮春大姉」。
松平典信の墓碑
松平典信
生 寛永6年 (1629年)
没 寛文12年 (1672年)
丹波篠山藩2代藩主。1629年(寛永6)康信の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)9月跡を継ぐ。1672年(寛文12)11月20日没。44才。法名「忠岸院殿松誉源榮居士」。
松平信志妻の墓碑
松平信志妻
生 不明
没 文政7年 (1824年)
松平信志に嫁ぎ、信豪、鏞次郎を儲ける。信豪の母は妾腹とあるので身分が低い女性と思われる。1824年(文政7)6月10日没。法名「瑶光院殿鏡譽月珊宜仙大姉」。墓石は息子英之助信豪の建立による。
松平信利の墓碑
松平信利
生 万治2年 (1659年)
没 延宝4年 (1676年)
丹波篠山藩3代藩主。1659年(万治2)典信の次男として生まれる。1667年(寛文7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1673年(延宝元)1月跡を継ぐ。1676年(延宝4)11月28日没。18才。法名「淨光院殿徹信法誉源受居士」。墓石は「施主孝子松平九十郎政信建」とあり跡を継いだ弟信庸(信建)の建立による。
有馬清純妻の墓碑
有馬清純妻
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
脇坂安政の娘。母は松平康映の娘。1678年(延宝6)6月10日有馬清純に嫁ぐ。清純との間に子は出来ず。1692年(元禄5)6月21日没。法名「慈光院殿玉岑圓明大姉」。
京極高之妻の墓碑
京極高之妻
生 不明
没 正徳6年 (1716年)
脇坂安村の娘。脇坂安照養女として京極高之に嫁ぐ。高之との間に、鍋之助を儲ける。1716年(正徳6) 4月23日没。法名「受教院殿妙榮自證大姉」。
井伊直経妻の墓碑
井伊直経妻
生 不明
没 安政5年 (1858年)
松平信志の娘。墓石に「紀伊守信忠妾腹娘」とあり信忠は信志に該当する。1828年(文政11)6月井伊直経に嫁ぐ。1858年(安政5)3月25日没。法名「淨信院殿天壽妙長大姉」。
金田徳光の墓碑
金田徳光
生 文久3年 (1863年)
没 大正8年 (1919年)
1863年(文久3)9月和田徳平の子として生まれる。堺の鉄工所に奉公していたとき主人の影響により弘法大師に信仰を持つようになる。修行を重ね1912年(大正元)御嶽教徳光大教会を設立し教祖となる。1919年(大正8)1月4日没。57才。諡号「天人海瑠璃彦命」。
里見忠義妻の墓碑
里見忠義妻
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
大久保忠常の娘。里見忠義に嫁ぎ、木下延由妻の1女を儲ける。(2女儲けた説有り)忠義が没すると、弟の大久保忠職のもとに戻る。1655年(明暦元)8月晦日没。法名「桃源院殿仙應妙壽大禅定尼」。墓石は、1661年(万治4)7回忌の建立による。
里見忠義の墓碑
里見忠義
生 文禄3年 (1594年)
没 元和8年 (1622年)
安房館山藩2代藩主。1594年(文禄3)義康の長男として生まれる。父の死により1603年(慶長8)跡を継ぐ。1606年(慶長11)将軍徳川秀忠の御前で元服、1字を賜り忠義と名乗る。1614年(慶長19)大久保忠隣事件に連座して改易。1622年(元和8)6月19日没。29才。法名「雲晴院殿心叟賢涼大居士」。墓石は33回忌の1654年(承応3)6月19日建立による。
西尾盛教の墓碑
西尾盛教
生 元和7年 (1621年)
没 万治元年 (1658年)
1621年(元和7)氏教の長男として生まれる。父の死により1633年(寛永10)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月7日没。38才。法名「善致院殿塞外道勇居士」。墓石には「十一月六日」とある。
西尾教次妻の墓碑
西尾教次妻
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
詳細不明。岐阜県揖斐郡揖斐川町の長源寺に夫教次と墓がある。1611年(慶長16)4月15日没。法名「清心院殿常林壽永大姉」。
西尾教次の墓碑
西尾教次
生 天正16年 (1588年)
没 慶長13年 (1608年)
1588年(天正16)木下吉隆の長男として生まれる。母方の祖父西尾光教の養子となる。跡を継ぐことなく1608年(慶長13)5月6日没。21才。法名「伊信院殿天廣圓證大居士」。
西尾忠篤の墓碑
西尾忠篤
生 嘉永3年 (1850年)
没 明治43年 (1910年)
遠江横須賀藩8代藩主。1850年(嘉永3)忠受の長男として生まれる。父の死により1861年(文久元)10月跡を継ぐ。戊辰戦争のときは新政府軍に従う。1884年(明治17)7月子爵。1910年(明治43)11月5日没。法名「潤徳院殿深信觀蓮自淨大居士」。
西尾忠永妻の墓碑
西尾忠永妻
生 不明
没 万治元年 (1658年)
「土浦史備考 第1巻に忠永公奥方」との記載有り。西尾吉次の娘と思われるも詳細不明。1658年(万治元)9月19日没。法名「正壽院殿香誉貞心大姉」。
西尾忠昭妻の墓碑
西尾忠昭妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
竹中重義の娘。西尾忠昭に嫁ぐも子は出来ず。1638年(寛永15)11月26日没。法名「除光院殿簾室明公大姉」。
西尾忠尚の墓碑
西尾忠尚
生 元禄2年 (1689年)
没 宝暦10年 (1760年)
遠江横須賀藩2代藩主。1689年(元禄2)忠成の4男として生まれる。1696年(元禄9)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1713年(正徳3)7月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を務める。1760年(宝暦10)3月10日没。72才。法名「高風院殿徳巖道樹大居士」。
西尾嘉教の墓碑
西尾嘉教
生 天正18年 (1590年)
没 元和9年 (1623年)
美濃揖斐藩2代藩主。1590年(天正18)木下吉隆の次男として生まれる。西尾光教の養子となっていた兄教次が亡くなったため、嘉教が養子となる。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。1615年(元和元)跡を継ぐ。1623年(元和9)4月2日没。34才。法名「理禪院殿玄香淨圓大居士」。
西尾包教の墓碑
西尾包教
生 寛永18年 (1641年)
没 正徳5年 (1715年)
1641年(寛永18)盛教の長男として生まれる。1652年(承応元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1715年(正徳5)3月16日没。75才。法名「通智院殿性孝全傑大居士」。
西尾光教妻の墓碑
西尾光教妻
生 不明
没 元和8年 (1622年)
詳細不明。岐阜県揖斐郡揖斐川町の松林寺に夫光教と墓がある。1622年(元和8)8月6日没。法名「常光院殿天香妙喜大姉」。
西尾光教の墓碑
西尾光教
生 天文12年 (1543年)
没 元和元年 (1615年)
美濃揖斐藩初代藩主。1543年(天文12)信光の子として生まれる。斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは岐阜城攻め、大垣城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1615年(元和元)11月19日没。73才。法名「常照院殿宗岳圓光大居士」。
華岡鹿城の墓碑
華岡鹿城
生 安永8年 (1779年)
没 文政10年 (1827年)
1779年(安永8)直道の4男として生まれる。良平とも。兄に有名な青洲がいる。京都の吉益南涯のもと医学を学ぶ。外科手術を得意として、医師番付で関脇とされる。1827年(文政10)4月28日没。49才。
織田信長の墓碑
織田信長
生 天文3年 (1534年)
没 天正10年 (1582年)
1534年(天文3)5月信秀の次男として生まれる。尾張一国を統一後、1560年(永禄3)桶狭間で今川義元を討取る。その後、斉藤氏、浅井氏、朝倉氏、武田氏などを滅ぼす。1582年(天正10)6月2日、家臣明智光秀の謀反により死す。49才。法名「總見寺殿贈大相國一品泰巖大居士」。
織田信邦の墓碑
織田信邦
生 延享2年 (1745年)
没 天明3年 (1783年)
上野小幡藩7代藩主。1745年(延享2)信栄の4男として生まれる。1764年(明和元)7月小幡藩主織田信富の末期養子として家督を相続。同年8月将軍徳川家治に拝謁。明和事件の影響で1762年(明和4)8月幕府の命により隠居させられる。さらに出羽高畠藩に移封となる。1783年(天明3)7月8日没。39才。法名「淨翁院殿黙巖了然大居士」。墓石裏面では38才没となっている。
織田信良の墓碑
織田信良
生 天正12年 (1584年)
没 寛永3年 (1626年)
上野小幡藩初代藩主。1584年(天正12)信雄の4男として生まれる。母は木造具政の娘。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、父信雄は中立、兄秀雄は西軍に付いたが信良の動向は不明。また大坂の陣のときの動向も不明。父より、上野甘楽郡などで2万石を与えられ小幡藩初代藩主となる。1626年(寛永3)5月17日没。43才。法名「心芳院殿松巌浄清大居士」。
織田信美妻の墓碑
織田信美妻
生 寛政9年 (1797年)
没 文化13年 (1816年)
1797年(寛政9)大村純鎮の3女として生まれる。名は章姫。織田信美に嫁ぐ。1816年(文化13)5月4日没。20才。法名「守節院殿貞室妙璨大姉」。墓石は夫信美の建立による。墓石裏面に信美室、純鎮女、没年、享年などが刻まれている。
織田信美の墓碑
織田信美
生 寛政5年 (1793年)
没 天保7年 (1836年)
出羽高畠藩2代藩主。出羽天童藩初代藩主。1793年(寛政5)7月信浮の9男として生まれる。1810年(文化7)11月将軍徳川家斉に拝謁。1818年(文政元)12月父の死により家督を継ぐ。1836年(天保7)8月4日没。44才。法名「恭徳院殿清巖良義大居士」。
織田信盛の墓碑
織田信盛
生 寛文元年 (1661年)
没 貞享2年 (1685年)
1661年(寛文元)信久の長男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1685年(貞享2)6月15日没。25才。法名「霊源院殿皎厳凉潔大居士」。
織田信浮の墓碑
織田信浮
生 寛延4年 (1751年)
没 文政元年 (1818年)
出羽高畠藩初代藩主。1751年(寛延4)8月信栄の5男として生まれる。上野小幡藩7代藩主織田信邦が明和事件により蟄居となると、陸奥、出羽に転封のうえ家督を継ぐ。1768年(明和5)出羽高畠に陣屋を定める。1770年(明和7)11月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)11月19日没。68才。法名「瑞岡院殿徳巖俊峰大居士」。
織田信昌の墓碑
織田信昌
生 寛永2年 (1625年)
没 慶安3年 (1650年)
上野小幡藩2代藩主。1625年(寛永2)信良の次男として生まれる。翌年、父の死により2才で家督を継ぐ。1631年(寛永8)2月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)7月9日没。26才。法名「宝泰院殿節巌英忠大居士」。
織田信就の墓碑
織田信就
生 寛文元年 (1661年)
没 享保16年 (1731年)
上野小幡藩4代藩主。1661年(寛文元)信久の次男として生まれる。跡取りの兄信盛と弟信知(共に正室の子)が若く没したため嫡子となる。1694年(元禄7)将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)8月父の死により家督を継ぐ。1731年(享保16)6月10日没。71才。法名「乾瑞院殿亭巌元貞大居士」。
織田信富の墓碑
織田信富
生 享保8年 (1723年)
没 明和元年 (1764年)
上野小幡藩6代藩主。1723年(享保8)信就の7男として生まれる。1757年(宝暦7)12月兄信右の養子となる。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1759年(宝暦9)11月信右の隠居により跡を継ぐ。1764年(明和元)6月7日没。42才。法名「南溟院殿搏巖宗翼大居士」。
織田信右の墓碑
織田信右
生 正徳3年 (1713年)
没 宝暦12年 (1762年)
上野小幡藩5代藩主。1713年(正徳3)信就の4男として生まれる。1730年(享保15)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)7月父の死により家督を継ぐ。1762年(宝暦12)8月18日没。50才。法名「桃溪院殿仙巌宗壽大居士」。寛政重修諸家譜は1713年(正徳3)生まれの50才没、墓石裏面には1716年(享保元)8月生まれの47才没とある。
織田信久の墓碑
織田信久
生 寛永20年 (1643年)
没 正徳4年 (1714年)
上野小幡藩3代藩主。1643年(寛永20)高長の4男として生まれる。1650年(慶安3)9月従兄の信昌の末期養子として家督を相続、同年11月将軍徳川家光に拝謁。藩主として64年務める。1714年(正徳4)7月8日没。72才。法名「凌雲院殿嶮巌維峻大居士」。
筒井順慶の墓碑
筒井順慶
生 天文18年 (1549年)
没 天正12年 (1584年)
1549年(天文18)3月順昭の子として生まれる。1565年(永禄8)松永久秀により居城筒井城を追われるも1566年(永禄9)6月に奪還。1571年(元亀2)より織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)8月11日没。36才。法名「順慶法印」。
真田信音妻の墓碑
真田信音妻
生 不明
没 延宝9年 (1681年)
松平典信の娘。真田信音に嫁ぐ。1681年(延宝9)8月5日没。法名「芙蓉院殿香臺榮薫大姉」。墓石は弟信利の子、松平豊前守信庸の建立による。
浅野斉賢妻の墓碑
浅野斉賢妻
生 安永9年 (1780年)
没 寛政8年 (1796年)
1780年(安永9)7月有栖川織仁親王の第1王女として生まれる。母は鷹司輔平の娘。織子女王。浅野斉賢に嫁ぐ。1796年(寛政8)5月29日没。17才。法名「翺翔院」。妹の子に徳川慶喜がいる。墓石は父織仁親王が浅野家と交渉のうえ遺髪を埋めた塔である。
池田輝政の墓碑
池田輝政
生 永禄7年 (1564年)
没 慶長18年 (1613年)
1564年(永禄7)12月恒興の次男として生まれる。織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が徳川家康軍によって討ち取られると家督を継ぐ。その後秀吉の仲介により家康の次女督姫を娶る。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付き、戦後大幅に加増され播磨で52万石を領した。1613年(慶長18)1月25日没。50才。法名「国清院殿泰叟玄高大居士」。
池田忠継の墓碑
池田忠継
生 慶長4年 (1599年)
没 慶長20年 (1615年)
1599年(慶長4)2月輝政の5男として生まれる。母は徳川家康の次女督姫。1603年(慶長8)5才のとき備前国岡山で28万石を与えられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参陣。1615年(慶長20)2月23日没。17才。法名「龍峯寺殿雲臺元祥大居士」。
池田光政娘の墓碑
池田光政娘
生 正保2年 (1645年)
没 延宝7年 (1679年)
1645年(正保2)池田光政の娘として生まれる。名は六姫。1658年(万治元)池田由貞の元に嫁ぐ。しかし由貞は嫉妬深い六姫に耐えれず逐電。のち切腹。その後、滝川一宗と再婚。しかし夫の一宗が他の女性と一緒にいたため、夫を殺害。鬼姫と呼ばれたという。1679年(延宝7)12月25日没。35才。法名「成徳院殿見巖永性大禅定尼」。
松平頼重の墓碑
松平頼重
生 元和8年 (1622年)
没 元禄8年 (1695年)
1622年(元和8)7月徳川頼房の嫡男として生まれる。徳川光圀(水戸黄門)の兄。故有って頼房から堕胎を命じられたが、密かに三木之次夫妻に養育される。嫡男だったが家は弟光圀が継ぎ、次男扱いとなる。1642年(寛永19)讃岐高松で12万石。1695年(元禄8)4月12日没。74才。法名「龍雲院殿雄蓮社大譽孤峯源英大居士」。
松平康信妻の墓碑
松平康信妻
生 不明
没 不明
酒井忠勝(小浜)の娘。はじめ徳川忠長家臣の朝倉宣親に嫁ぎ、重正の1男を儲ける。のち松平康信に嫁ぎ、土屋政直妻の1女を儲ける。法名「長松院殿勝室元殊大姉」。
末吉利長の墓碑
末吉利長
生 正保4年 (1647年)
没 貞享3年 (1686年)
1647年(正保4)長明の子として生まれる。父の死により1653年(承応2)12月跡を継ぐ。1664年(寛文4)6月将軍徳川家綱に拝謁。1686年(貞享3)9月6日没。40才。法名「成等院殿松譽寒貞大居士」。墓石は息子勘太郎嘉于の建立による。寛政重修諸家譜の法名は「貞寒」とあるが墓石の「寒貞」が正しいと思われる。
末吉利方の墓碑
末吉利方
生 大永6年 (1526年)
没 慶長12年 (1607年)
1526年(大永6)平野行増の次男として生まれる。西末吉家の祖。平野郷の豪商として織田信長、豊臣秀吉に仕え、商業の他代官も兼ねる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1607年(慶長12)3月5日没。82才。法名「道鑑」。
木下延次妻の墓碑
木下延次妻
生 不明
没 慶安3年 (1650年)
里見忠義の次女。大久保忠常の養女となり、木下延次に嫁ぐ。延次との間に延知を儲ける。1650年(慶安3)1月20日没。法名「圓光院殿寶月貞璃大姉」。
有栖川宮韶仁親王の墓碑
有栖川宮韶仁親王
生 天明4年 (1784年)
没 弘化2年 (1845年)
有栖川宮7代当主。1784年(天明4)12月織仁親王の第2皇子として生まれる。1807年(文化4)光格天皇の猶子となる。1808年(文化5)親王宣下をする。1822年(文政5)に二品。1845年(弘化2)2月26日没。62才。法名「大功徳院」。
有栖川宮職仁親王の墓碑
有栖川宮職仁親王
生 正徳3年 (1713年)
没 享保元年 (1716年)
有栖川宮5代当主。1713年(正徳3)9月霊元天皇の第17皇子として生まれる。1716年(享保元)有栖川宮正仁親王が嗣子なく没したため有栖川宮家を継ぐ。歌道、書道に優れ、有栖川流書道を創始者となる。1769年(明和6)10月20日没。57才。法名「本朋圓心院」。
有栖川宮織仁親王の墓碑
有栖川宮織仁親王
生 宝暦3年 (1753年)
没 文政3年 (1820年)
有栖川宮6代当主。1753年(宝暦3)7月職仁親王の第7王子として生まれる。1762年(宝暦12)桃園天皇の猶子となる。1763年(宝暦13)親王宣下をする。1811年(文化8)に一品。1820年(文政3)2月19日没。68才。法名「文聚院」。
戸祭源兵衛の墓碑
戸祭源兵衛
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
名は定経。内田正信の家臣。主君正信が徳川家光に殉死すると、1651年(慶安4)4月20日源兵衛も殉死する。法名「一翁圓心居士」。
戸田種辰の墓碑
戸田種辰
生 宝永2年 (1705年)
没 天明2年 (1782年)
1705年(宝永2)松平信庸の4男として生まれる。戸田重澄の養子となる。1718年(享保3)7月将軍徳川吉宗に拝謁。翌年重澄の死により跡を継ぐ。小姓組の番頭、御書院の番頭、大番頭を務める。1782年(天明2)9月17日没。78才。法名「如雲」。
大森頼隆妻の墓碑
大森頼隆妻
生 明暦3年 (1657年)
没 天和2年 (1682年)
1657年(明暦3)秋月種信の4女として生まれる。大森頼隆に嫁ぎ、松千代、女子の1男1女を儲ける。1682年(天和2)7月5日没。26才。法名「月照院殿凉岩知清大姉」。
大森頼隆の墓碑
大森頼隆
生 明暦3年 (1657年)
没 宝永4年 (1707年)
1657年(明暦3)頼直の子として生まれる。1667年(寛文7)閏2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。1707年(宝永4)1月4日没。51才。法名「勇猛院殿心傳了空居士」。
土屋政直妻の墓碑
土屋政直妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
松平康信の娘。土屋政直に嫁ぎ、式部、照直の2男を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。法名「圓應院殿泰性妙恵大姉」。
内田正信の墓碑
内田正信
生 慶長18年 (1613年)
没 慶安4年 (1651年)
下野鹿沼藩初代藩主。1613年(慶長18)正世の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。家光のもとで出世、1649年(慶安2)8月下野で1万5千石を領す。1651年(慶安4)4月20日家光が没すると同日に殉死。39才。法名「理明院殿光徳徹宗大居士」。
佐久間実勝の墓碑
佐久間実勝
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永19年 (1642年)
1570年(元亀元)政実の子として生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え、のちに徳川幕府の旗本として仕える。1609年(慶長14)名古屋城築城の奉行となる。茶人として有名で、宗可流の開祖となり山隠宗可と号す。晩年は京都大徳寺内に寸松庵を建立して過ごす。1642年(寛永19)9月22日没。73才。法名「寸松庵山隠宗可居士」。
佐久間佐吉の墓碑
佐久間佐吉
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
詳細不明。墓石に「施主御内儀稲葉丹後守御息女」とあり妻は稲葉正勝の娘である。墓石によると、1641年(寛永18)1月18日没で法名「盡峯空縁禅定門」。寛政重修諸家譜に稲葉正勝の娘で佐久間佐吉の妻となった人物の記載はなく、さらに佐吉自身の記載もなく詳細不明。