黒田清定の墓碑
黒田清定
生 安永7年 (1778年)
没 天保11年 (1840年)
三奈木黒田家9代当主。1778年(安永7)12月3日四宮義和の嫡男として生まれる。はじめ伊丹景弘の養子となる。1795年(寛政7)11月三奈木黒田隆庸の娘を妻として養子となる。隆庸の死により1800年(寛政12)11月跡を継ぐ。1840年(天保11)2月6日没。63才。法名「淨觀院殿恭翁紹篤居士」。
黒田吉之の墓碑
黒田吉之
生 天和2年 (1682年)
没 宝永7年 (1710年)
1682年(天和2)6月綱政の長男として生まれる。1691年(元禄4)2月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1710年(宝永7)7月3日没。29才。法名「 乾光院殿範雄道洪大居士」。
黒田一誠の墓碑
黒田一誠
生 正徳3年 (1713年)
没 天明7年 (1787年)
三奈木黒田家6代当主。1713年(正徳3)一利の子として生まれる。父の隠居により1734年(享保19)5月跡を継ぐ。1754年(宝暦4)5月藩主黒田継高より隠居を命じられる。1787年(天明7)5月2日没。75才。法名「月谿院殿適齊道機居士」。
黒田一興の墓碑
黒田一興
生 元文4年 (1739年)
没 宝暦12年 (1762年)
三奈木黒田家7代当主。1739年(元文4)5月10日一誠の長男として生まれる。父の隠居により1754年(宝暦4)5月跡を継ぐ。1762年(宝暦12)8月5日没。24才。法名「全昌院殿英嵓道偉居士」。学を好み、武芸も怠らずとある。
青山忠雄妻の墓碑
青山忠雄妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
真田信政の6女。1670年(寛文10)「青山家に御引越ナリ」と記録があることから、この時青山忠雄に嫁いだと思われる。1684年(貞享元)4月21日没。法名「綠芳院殿珠林義明大姉」。長野市の善光寺にも墓があり、こちらの法名は「緑芳院殿樹林惟馨大姉」とある。
長連房の墓碑
長連房
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
藤堂監物初代。高連の子。前田家重臣で一族の長氏の元に居たが、のちに藤堂高虎に仕える。大坂夏の陣のときに江戸留守居役を命じられるも、戦いに参戦。高虎の怒りに触れ蟄居となる。のち妹で高虎室松寿院のとりなしにより赦される。1631年(寛永8)5月8日没。法名「無○宗哲居士」。
藤堂高重の墓碑
藤堂高重
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
高虎の子。1625年(寛永2)5月大御所徳川秀忠が高虎邸に訪問した際、馬1匹を賜う。1631年(寛永8)4月10日没。法名「寳樹院殿淨岸仙峯居士」。
藤堂市右衛門の墓碑
藤堂市右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
高次の子。母は長生院。高久の兄。1636年(寛永13)6月13日早世。法名「了云院殿智性」。
藤堂信直の墓碑
藤堂信直
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
藤堂監物2代。長連房の子。連房の妹は藤堂高虎の妻(松寿院)となり高次を生む。信直も父と同じく藤堂家に仕え、藤堂姓を賜う。1672年(寛文12)11月18日没。法名「喜屋宗歓居士」。墓石は1637年(寛永14)8月15日建立の逆修塔。
細川有孝の墓碑
細川有孝
生 延宝4年 (1676年)
没 享保18年 (1733年)
肥後宇土藩2代藩主。1676年(延宝4)行孝の3男として生まれる。1684年(貞享元)7月将軍徳川綱吉に拝謁。父の死により1690年(元禄3)8月跡を継ぐ。1703年(元禄16)9月隠居。1733年(享保18)6月19日没。58才。法名「 泰立院殿通峯宗貫大居士」。
篠原一由妻の墓碑
篠原一由妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶長19年 (1614年)
1595年(文禄4)9月前田利家の10女として生まれる。名は保智姫。徳川家康の5男武田信吉と婚約するも信吉が没したため、前田家家臣の篠原一由に嫁ぐ。一由との間に岩松を儲ける。1614年(慶長19)6月24日没。20才。法名「清妙院殿華萼貞香大姉」。なお、母は利家の側室隆興院(岩)だが、墓石は利家の正室で義母芳春院(まつ)が施主として建立。「芳春院殿御内〇岩為息女菩提」と墓石にある。
篠原一由の墓碑
篠原一由
生 不明
没 慶長20年 (1615年)
一孝の長男。父と同じく前田利家に仕える。前田家の重臣で、主君利家の娘を正室とする。父に先立ちて1615年(慶長20)4月26日没。法名「月江宗心居士」。墓石は父一孝の建立による。
稲葉貞通の墓碑
稲葉貞通
生 天文15年 (1546年)
没 慶長8年 (1603年)
豊後臼杵藩初代藩主。1546年(天文15)良通の次男として生まれる。美濃斉藤家に仕え、のち織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に仕え、小田原合戦や朝鮮出兵に参陣。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは西軍に属すも岐阜城落城後は東軍に加担。1603年(慶長8)9月3日没。58才。法名「智勝院殿一等玄規大居士」。
稲葉良通の墓碑
稲葉良通
生 永正12年 (1515年)
没 天正16年 (1588年)
1515年(永正12)通則の子として生まれる。別名一鉄。美濃斉藤氏の家臣であったが織田信長に内応して仕える。1570年(元亀元)姉川の戦いのときに活躍。信長没後は豊臣秀吉に従う。1588年(天正16)11月19日没。74才。法名「清光院殿一鐵宗勢大居士」。
稲葉知通の墓碑
稲葉知通
生 承応元年 (1652年)
没 宝永3年 (1706年)
豊後臼杵藩6代藩主。1652年(承応元)信通の3男として生まれる。1681年(天和元)11月兄景通の養子となる。翌年2月将軍徳川綱吉に拝謁。1694年(元禄7)7月景通の死により跡を継ぐ。1706年(宝永3)4月15日没。55才。法名「本霊院殿一嶽宗泰大居士」。
稲葉景通の墓碑
稲葉景通
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄7年 (1694年)
豊後臼杵藩5代藩主。1639年(寛永16)4月信通の長男として生まれる。1646年(正保3)5月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1673年(延宝元)8月跡を継ぐ。1694年(元禄7)閏5月20日没。56才。法名「本光院殿一空宗眞大居士」。
稲葉典通の墓碑
稲葉典通
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永3年 (1626年)
豊後臼杵藩2代藩主。1566年(永禄9)貞通の長男として生まれる。織田信長に仕え、信長没後は豊臣秀吉に仕える。1587年(天正15)秀吉の機嫌を損ねて伊勢国朝熊に蟄居。のちに豊臣秀勝、秀次に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは岐阜城の織田秀信に従っていたが、岐阜城落城後東軍に味方。1626年(寛永3)11月19日没。61才。法名「廣嚴院殿一以恕心大居士」。
稲葉信通の墓碑
稲葉信通
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文13年 (1673年)
豊後臼杵藩4代藩主。1608年(慶長13)4月一通の長男として生まれる。1623年(元和9)7月将軍宣下のため上洛した徳川家光に拝謁。父の死により1641年(寛永18)11月跡を継ぐ。1673年(寛文13)6月24日没。66才。法名「本覺院殿一関宗如大居士」。
稲葉一通の墓碑
稲葉一通
生 天正15年 (1587年)
没 寛永18年 (1641年)
豊後臼杵藩3代藩主。1587年(天正15)6月典通の長男として生まれる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に父と参陣するも途中で大坂城は落城。そのまま大坂に向かい徳川家康、秀忠に拝謁。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1641年(寛永18)8月16日没。55才。法名「長江院殿一雲宗岫大居士」。
甲斐庄正述の墓碑
甲斐庄正述
生 不明
没 万治3年 (1660年)
正房の子。某年、父の跡を継ぐ。御書院番、御堀の普請奉行、長崎奉行を務める。郡崩れと呼ばれる肥前大村藩の隠れキリシタンに対応、処罰を担当する。1660年(万治3)6月5日没。法名「淨智院殿徳峰性仁居士」。
甲斐庄正親の墓碑
甲斐庄正親
生 不明
没 元禄3年 (1690年)
正述の子。1648年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1660年(万治3)12月跡を継ぐ。1680年(延宝8)8月から江戸南町奉行。奉行勤務を3度賞され加増も重ねる。有名な「八百屋お七」を裁く。1690年(元禄3)12月15日没。法名「法昌院殿心了大安居士」。
甲斐庄正永の墓碑
甲斐庄正永
生 寛文元年 (1661年)
没 享保2年 (1717年)
1661年(寛文元)正親の長男として生まれる。父の死により1691年(元禄4)7月跡を継ぐ。目付、普請奉行を務める。1708年(宝永5)小奉行に降格。1717年(享保2)3月4日没。57才。法名「成安院殿鐵山性心居士」。
田沼意次の墓碑
田沼意次
生 享保4年 (1719年)
没 天明8年 (1788年)
1719年(享保4)7月意行の長男として生まれる。1732年(享保17)7月将軍徳川吉宗に拝謁。のちの将軍家重の小姓となる。家重のときに600石から1万石の大名に出世。次の将軍家治のときにも出世を重ね5万7千石を領す。老中にもなるが家治死後に失脚。1788年(天明8)7月24日没。70才。法名「隆興院殿耆山良英大居士」。墓石には「隆興院殿歯塔」とある。
浅野長晟の墓碑
浅野長晟
生 天正14年 (1586年)
没 寛永9年 (1632年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1586年(天正14)1月長政の次男として生まれる。父、兄とともに豊臣秀吉に仕える。のち徳川家康の小姓となる。兄幸長が没すると家康の意向もあり跡を継ぐ。大坂の両陣にも参戦して活躍。戦後、家康の3女振姫と婚姻。1632年(寛永9)9月3日没。47才。法名「自得院殿洞雲宗仙大居士」。
浅野長政の墓碑
浅野長政
生 天文16年 (1547年)
没 慶長16年 (1611年)
1547年(天文16)安井重継の長男として生まれる。浅野長勝の娘を娶り養子となる。織田信長の弓衆として仕え、豊臣秀吉と義兄弟となる。信長の命で秀吉付となり以後秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦い、島津攻め、北条攻めに従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1611年(慶長16)4月7日没。65才。法名「傳正院殿功山道忠大居士」。
浅野幸長妻の墓碑
浅野幸長妻
生 不明
没 元和2年 (1616年)
池田恒興の娘。浅野幸長に嫁ぎ、松平忠昌妻、松平忠直妻の2女を儲ける。1616年 (元和2)12月17日没。法名「慶雲院殿栄春宗久大姉」。
浅野幸長の墓碑
浅野幸長
生 天正4年 (1576年)
没 慶長18年 (1613年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1576年(天正4)長政の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え1590年(天正18)小田原合戦にて初陣。文禄の役、慶長の役では朝鮮に渡り参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担して本戦に参戦。1613年(慶長18)8月25日没。38才。法名「清光院殿春翁宗雲大居士」。
橋本則綱妻の墓碑
橋本則綱妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
但馬垣屋氏の出身。長連房の養女として橋本則綱に嫁ぐ。夫とともに藤堂高虎夫人の松寿院付きとなる。1654年(承応3)3月11日没。法名「松応院南補妙泉禅定尼」。墓石に「正保四年(1647年)六月十五日」とあるが、逆修の建立日と思われる。
橋本則綱の墓碑
橋本則綱
生 天文23年 (1554年)
没 寛永7年 (1630年)
1554年(天文23)生まれ。藤堂高虎の妻(松寿院)の縁故により1599年(慶長4)より高虎に仕える。松寿院付きとなり、関ヶ原の戦いのときは大坂の屋敷、大坂の両陣のときは江戸の屋敷に詰める。1630年(寛永7)2月29日没。77才。法名「微妙院殿実山用眞禅定門」。
柴田康能妻の墓碑
柴田康能妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
朝倉高興の娘。柴田康能に嫁ぎ、康端を儲ける。1670年(寛文10)5月14日没。法名「長江院殿松室貞壽大姉」。墓石は1694年(元禄7)3月7日の建立による。
柴田康明妻の墓碑
柴田康明妻
生 不明
没 天和3年 (1683年)
某氏。柴田康明に嫁ぎ、康能、山田康継の2男を儲ける。1683年(天和3)5月7日没。法名「琳昌院殿暁譽受法大姉」。墓石に「元禄七龍集甲戌三月七日終焉」とあるが、終焉→建之の誤記。横の柴田康能妻の墓石は「元禄七龍集甲戌三月七日建之」とあるので、康能妻とこの康明妻は同じ日に建立されている。なお墓石には「命日天和三癸亥年五月七日」もある。
柴田康明の墓碑
柴田康明
生 慶長19年 (1614年)
没 延宝8年 (1680年)
1614年(慶長19)康長の次男として生まれる。1631年(寛永8)12月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1636年(寛永13)9月遺領のうち700石を賜う。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)11月28日没。67才。法名「泰安院殿堅譽相入大居士」。
松平直恒妻の墓碑
松平直恒妻
生 明和8年 (1771年)
没 寛政元年 (1789年)
1771年(明和8)伊達村候の8女として生まれる。名は富。花山院中納言愛徳と婚約するも破談。1789年(寛政元)4月松平直恒に嫁ぐ。同年9月14日没。19才。法名「桂林院殿真月良光大姉」。
松平忠政の墓碑
松平忠政
生 天正8年 (1580年)
没 慶長19年 (1614年)
1580年(天正8)奥平信昌の3男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。摂津守。1597年(慶長2)菅沼定利の養子となり上野国吉井2万石を継ぐ。父信昌の隠居により1602年(慶長7)跡を継いで美濃国加納で10万石を領す。1614年(慶長19)7月2日没。35才。法名「光國院殿雄山英公大居士」。
松下連昌妻の墓碑
松下連昌妻
生 不明
没 不明
松下長尹の娘。松下連昌に嫁ぎ、常慶の1男を儲ける。法名「蘭窓求〇大禅定尼」。墓石に「遠刕濱松庄松下常慶御悲母」と命日なのか「十月十八日」が読める。
松下連昌の墓碑
松下連昌
生 永正15年 (1518年)
没 天正17年 (1589年)
1518年(永正15)安秀の子として生まれる。遠州浜松にて徳川家康に拝謁して家臣となる。1589年(天正17)11月24日没。72才。法名 「善叟慶積庵主」。
松下常慶妻の墓碑
松下常慶妻
生 不明
没 不明
墓石に「松下常慶御内儀」とある。詳細は不明だが、重綱を儲けた落合蔵主の娘と思われる。法名「花屋妙長大禅定尼」。逆修の文字も見える。
松下常慶の墓碑
松下常慶
生 永禄元年 (1558年)
没 寛永元年 (1624年)
1558年(永禄元)連綱の4男として生まれる。名は安綱。徳川家康に仕え、主に諜報活動や身辺警護で活躍。1624年(寛永元)7月13日没。67才。法名「松林院殿仙壽笑安大居士」。
本多忠義の墓碑
本多忠義
生 慶長7年 (1602年)
没 延宝4年 (1676年)
1602年(慶長7)忠政の3男として生まれる。1615年(元和元)徳川家康に拝謁、大坂の陣に供奉することを許される。同年5月7日敵の首を取る。1626年(寛永3)播磨にて4万石。1639年(寛永16)遠江掛川藩7万石、1644年(正保元)越後村上藩10万石、1649年(慶安2)陸奥白河藩12万石と移封加増。1676年(延宝4)9月26日没。75才。法名「大信院殿本譽忠義居士」。
川口正家妻の墓碑
川口正家妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
紫波氏。南部信直の家臣川口正家に嫁ぐ。正家との間に、正康、内堀某妻、千種某妻、大釜某妻、南部直房妻(霊松院)の1男4女を儲ける。1684年(貞享元)没。法名「耕雲院殿清月妙林大姉」。墓石は1679年(延宝7)3月28日建立の逆修塔。
小川政吉の墓碑
小川政吉
生 慶長11年 (1606年)
没 慶安元年 (1648年)
1606年(慶長11)天野政勝の子として生まれる。1614年(慶長19)将軍徳川秀忠に拝謁。1615年(元和元)徳川家光付きとなり、小姓となる。このとき秀忠の命により母方の小川姓を名乗る。1648年(慶安元)4月13日没。43才。法名「雪渓院殿壽山建勝」。墓石は1652年(慶安5)6月13日息子藤十郎(藤助康真のことか)の建立による。
奥村栄明の墓碑
奥村栄明
生 永禄11年 (1568年)
没 元和6年 (1620年)
1568年(永禄11)永福の長男として生まれる。前田利家に仕え、1584年(天正12)佐々成政による末森城の戦いのときは、父とともに城を守り通す。1590年(天正18)小田原合戦に従う。1599年(慶長4)父の隠居により家督を継ぐ。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)5月20日没。53才。法名「清雲院葉山久変居士」。
南部直政の墓碑
南部直政
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄12年 (1699年)
陸奥八戸藩2代藩主。1661年(寛文元)5月直房の長男として生まれる。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。同年将軍徳川家綱に拝謁。1699年(元禄12)3月16日没。39才。法名「天祥院殿月潤宗眞大居士」。
南部直常の墓碑
南部直常
生 寛文3年 (1663年)
没 延宝8年 (1680年)
1663年(寛文3)1月15日直房の次男として生まれる。1680年(延宝8)6月22日没。18才。法名「天岸院殿江嶽宗雲大居士」。墓石に施主齢松院とあるが、齢松院は母である霊松院のことである。
南部利直妻(仙壽院)の墓碑
南部利直妻(仙壽院)
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝元年 (1673年)
1604年(慶長9)中里正吉の娘として生まれる。南部利直に嫁ぎ、直房を設ける。1673年(延宝元)10月25日没。法名「仙壽院殿松嶺妙閑尼大姉」。70才。墓石は孫直政が7年忌追善供養のために建立。
南部信真の墓碑
南部信真
生 安永9年 (1780年)
没 弘化3年 (1846年)
陸奥八戸藩8代藩主。1780年(安永9)2月信依の3男として生まれる。1795年(寛政7)9月兄信房の養子となる。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1796年(寛政8)2月信房の隠居により家督を継ぐ。1846年(弘化3)12月29日没。67才。法名「惇徳院殿仁峯榮大居士」。
前田長種妻の墓碑
前田長種妻
生 永禄2年 (1559年)
没 元和2年 (1616年)
1559年(永禄2)6月前田利家の長女として生まれる。母は芳春院。名は幸。前田長種に嫁ぎ、直知、長時、溝口善勝妻の2男1女を儲ける。1616年(元和2)4月18日没。58才。法名「春桂院殿月照利犀大姉」。
前田利長妻の墓碑
前田利長妻
生 天正2年 (1574年)
没 元和9年 (1623年)
1574年(天正2)織田信長の4女として生まれる。1581年(天正9)前田利長に嫁ぐ。利長との間に子供は出来ず。1614年(慶長19)夫が没すると、剃髪して玉泉院と称した。1623年(元和9)2月24日没。50才。法名「玉泉院殿松厳永寿大姉」。
前田利長の墓碑
前田利長
生 永禄5年 (1562年)
没 慶長19年 (1614年)
加賀藩初代藩主。1562年(永禄5)1月利家の長男として生まれる。織田信長、豊臣秀吉に仕える。父の死後、豊臣政権下で五大老となる。徳川家康に謀反の容疑をかけられるも母を人質に出して服従。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは東軍に味方。1614年(慶長19)5月20日没。53才。法名「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。
久世熊之丞の墓碑
久世熊之丞
生 宝暦8年 (1758年)
没 明和9年 (1772年)
1758年(宝暦8)3月広明の4男として生まれる。はじめ虎五郎。1760年(宝暦10)7月熊之丞と改名。1772年(明和9)9月2日没。15才。法名「如法院殿觀月日理居士」。
馬場武右衛門の墓碑
馬場武右衛門
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄の家臣。左手鉄砲組。直寄が死ぬ直前の1639年(寛永16)6月8日に、馬場武右衛門が殉死しないように書かれた書状が残る。しかし直寄が1639年(寛永16)6月29日没すると、7月6日殉死。法名「大甫念佛」。
野瀬右近の墓碑
野瀬右近
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄の筆頭家老。名は氏長。直寄の弟直忠の娘を妻として、1万5千石を領す。主君直寄が1639年(寛永16)6月29日に没すると、初七日にあたる7月5日殉死。法名「開鐡一無居士」。
米田是長の墓碑
米田是長
生 元和4年 (1618年)
没 延宝8年 (1680年)
1618年(元和4)是季の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。1622年(元和8)に父と熊本藩細川家に帰参。1640年(寛永17)6月より家老職。1677年(延宝5)11月隠居。1680年(延宝8)7月4日没。63才。法名「瑞雲院殿泰嶺住安大居士」。
米田是福妻の墓碑
米田是福妻
生 享保9年 (1724年)
没 天明4年 (1784年)
1724年(享保9)細川宣紀の娘として生まれる。名は衛世。1784年(天明4)2月6日没。61才。法名「壽鏡院殿當臺妙相大姉」。
米田是福の墓碑
米田是福
生 享保4年 (1719年)
没 安永4年 (1775年)
1719年(享保4)是直の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。1742年(寛保2)8月主君細川宣紀の娘を娶る。父の隠居により1746年(延享3)跡を継ぐ。1774年(安永3)12月隠居。1775年(安永4)8月14日没。57才。法名「齊光院殿仁榮芳渚大居士」。
米田是春の墓碑
米田是春
生 元禄4年 (1691年)
没 延享5年 (1748年)
熊本藩細川家の家老。1691年(元禄4)是庸の子として生まれる。父の死により1712年(正徳2)2月跡を継ぐ。1746年(延享3)6月隠居。1748年(延享5)1月29日没。58才。法名「良嚴院殿要堅耕雲居士」。
米田是季の墓碑
米田是季
生 天正14年 (1586年)
没 明暦4年 (1658年)
1586年(天正14)求政の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。長岡監物とも。細川家に仕え関ケ原の戦いに参戦。1607年(慶長12)細川忠興と反りが合わず浪人となる。大坂の陣のときは豊臣方として戦う。戦後浪人。1622年(元和8)再び細川家に帰参、家老となる。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1658年(明暦4)1月8日没。73才。法名「雲祥院殿仁勇紹寛居士」。
村田仁兵衛の墓碑
村田仁兵衛
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄に仕え400石。主君直寄が1639年(寛永16)6月29日に没すると、7月7日殉死。法名「心甫道安」。
堀直香の墓碑
堀直香
生 正保2年 (1645年)
没 寛文9年 (1669年)
1645年(正保2)直常の子として生まれる。宮内。1669年(寛文9)10月29日没。25才。法名「越覺玄超居士」。
堀直為妻の墓碑
堀直為妻
生 不明
没 天明5年 (1785年)
詳細不明。堀直為に嫁ぎ、直堯を儲ける。1785年(天明5)10月10日没。法名「是心院殿智峯妙空大姉」。直堯の母は妾腹女とあることから身分の低い女性と思われる。
堀直為の墓碑
堀直為
生 元禄11年 (1698年)
没 寛保3年 (1743年)
越後村松藩4代藩主。1698年(元禄11)10月直利の次男として生まれる。1708年(宝永5)4月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1711年(正徳元)9月跡を継ぐ。1740年(元文5)2月隠居。1743年(寛保3)3月23日没。46才。法名「鐡翁院殿祖透儀關大居士」。
堀直泰の墓碑
堀直泰
生 元文3年 (1738年)
没 安永8年 (1779年)
1738年(元文3)直堯の長男として生まれる。1754年(宝暦4)閏2月将軍徳川家重に拝謁。家督を継ぐことなく1779年(安永8)6月2日没。42才。「淨禪院殿觀空了夢大居士」。寛政重修諸家譜では6月2日没だが、墓石には「安永八年五月晦日寂」とある。
堀直次妻の墓碑
堀直次妻
生 元和6年 (1620年)
没 貞享元年 (1684年)
1620年(元和6)土井利勝の娘として生まれる。1630年(寛永7)11才のとき堀直次に嫁ぐ。直次との間に、直定、堀直吉妻の1男1女を儲ける。1684年(貞享元)8月6日没。65才。法名「隆崇院殿珠林満貞大姉」。
堀直次の墓碑
堀直次
生 慶長19年 (1614年)
没 寛永15年 (1638年)
越後村上藩2代藩主。1614年(慶長19)直寄の長男として生まれる。父の隠居により1636年(寛永13)跡を継ぐ。1638年(寛永15)7月17日没。25才。法名「中證院殿月窓全清」。
堀直政の墓碑
堀直政
生 天文16年 (1547年)
没 慶長13年 (1608年)
1547年(天文16)奥田直純の子として生まれる。従弟の堀秀政に仕える。秀政が越前北之庄城主となると奥田姓から堀姓とする。長久手の戦い、小田原合戦に従軍。1608年(慶長13)2月26日没。62才。法名「千手院殿傑山道英大居士」。
堀直寄の墓碑
堀直寄
生 天正5年 (1577年)
没 寛永16年 (1639年)
越後村上藩初代藩主。1577年(天正5)直政の次男として生まれる。豊臣秀吉の家臣として仕える。のち堀秀治、忠俊に仕える。主君忠俊、兄直次と家督のことで対立、徳川家康により忠俊と直次は改易、直寄も減封となる。大坂の両陣に参戦、戦後加増を重ねる。1639年(寛永16)6月29日没。63才。法名「凌雲院殿鉄団宗釘大居士」。
堀直定の墓碑
堀直定
生 寛永13年 (1636年)
没 寛永19年 (1642年)
越後村上藩3代藩主。1636年(寛永13)直次の長男として生まれる。1638年(寛永15)父直次、1639年(寛永16)祖父直寄が没したため跡を継ぐ。1642年(寛永19)3月2日没。7才。法名「春陽院殿梅臺清銕」。越後村上藩堀家は断絶となる。
堀直堯の墓碑
堀直堯
生 正徳5年 (1715年)
没 天明5年 (1785年)
越後村松藩5代藩主。1715年(正徳5)直為の長男として生まれる。1733年(享保18)9月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1740年(元文5)2月跡を継ぐ。1785年(天明5)10月29日没。71才。法名「松巖院殿俊徳日休大居士」。墓石には「天明五年十月廿五日寂」とある。
堀直吉妻の墓碑
堀直吉妻
生 不明
没 延宝5年 (1677年)
堀直次の娘。堀直吉に嫁ぎ、直利を儲ける。1677年(延宝5)5月12日没。法名「栄寿院殿光月浄心大姉」。
堀直吉の墓碑
堀直吉
生 寛永14年 (1637年)
没 延宝4年 (1676年)
越後村松藩2代藩主。1637年(寛永14)直時の長男として生まれる。父の死により1643年(寛永20)跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家光に拝謁。1676年(延宝4)10月15日没。40才。法名「出障院殿観雪芳空大居士」。
堀直利の墓碑
堀直利
生 万治元年 (1658年)
没 享保元年 (1716年)
越後村松藩3代藩主。1658年(万治元)直吉の子として生まれる。1665年(寛文5)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1676年(延宝4)12月跡を継ぐ。1711年(正徳元)9月隠居。1716年(享保元)7月10日没。59才。法名「禪慧院殿義天保壽大居士」。
三吉隆亮の墓碑
三吉隆亮
生 不明
没 天正16年 (1588年)
致高の子。大内義隆に仕え、1字を賜り、隆亮と名乗る。妹が毛利元就の妻となっていることより、後に毛利氏に従う。尼子氏との戦いに参戦。1588年(天正16)5月16日没。法名「峻功院陽巖常慶大禅定門」。墓石は1558年(永禄元)3月建立の逆修塔。家臣祝勘左衛門を取次として高野山小坂坊に逆修を行う書状が残る。撮影禁止区間(御廟橋の先)にも三吉隆亮の2つ目の墓碑がある。
黒田隼三郎の墓碑
黒田隼三郎
生 安永元年 (1772年)
没 安永6年 (1777年)
1772年(安永元)12月治之の長男として生まれる。母は鈴木氏。1777年(安永6)9月25日没。6才。法名「眞常院殿玉峯宗琇大童子」。
黒田長重妻の墓碑
黒田長重妻
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄6年 (1693年)
1667年(寛文7)黒田光之の次女として生まれる。名は富貴姫。黒田長重に嫁ぎ、長軌を儲ける。1693年(元禄6)8月14日没。27才。法名「勝眞院殿月巖宗照大姉」。
黒田長溥妻の墓碑
黒田長溥妻
生 文政2年 (1819年)
没 嘉永4年 (1851年)
1819年(文政2)黒田斉清の長女として生まれる。名は純姫墨子。1822年(文政5)島津家の長溥と婚姻、長溥は黒田家に婿入りとなる。1851年(嘉永4)6月17日没。33才。法名「昌光院殿久巖妙映大姉」。
黒田長清妻(定香院)の墓碑
黒田長清妻(定香院)
生 延宝8年 (1680年)
没 宝永3年 (1706年)
1680年(延宝8)小笠原長勝の2女として生まれる。名は伊予。1698年(元禄11)黒田長清に嫁ぎ、継高、某の2男を儲ける。1706年(宝永3)9月27日没。27才。法名「定香院殿通寂宗倫大姉」。姉(長勝の長女)も同じ黒田長清に嫁いでいたが1696年(元禄9)に没している。黒田家譜によると遺髪を納めたとある。
黒田長清の墓碑
黒田長清
生 寛文7年 (1667年)
没 享保5年 (1720年)
1667年(寛文7)6月光之の4男として生まれる。1682年(天和2)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1688年(元禄元)12月筑前直方藩で5万石を分知される。黒田本家の藩主宣政が病弱により、長清が後見人となる。1720年(享保5)2月23日没。54才。法名「龍湫院殿瑞林道祥大居士」。
黒田重政娘の墓碑
黒田重政娘
生 宝暦11年 (1761年)
没 明和8年 (1771年)
1761年(宝暦11)黒田重政の娘として生まれる。名はお屋世。黒田継高の養女となり、黒田治之の許嫁となるも、1771年(明和8)8月10日没。11才。法名「眞如院殿月峰妙輝大姉」。
黒田重政妻の墓碑
黒田重政妻
生 享保18年 (1733年)
没 文化5年 (1808年)
1733年(享保18)島津継豊の娘として生まれる。名は菊姫。黒田重政に嫁ぎ、黒田治之室、女子、男子の1男2女を儲ける。1808年(文化5)3月17日没。76才。法名「眞含院殿實高慈清大禅定尼」。
黒田重政の墓碑
黒田重政
生 元文2年 (1737年)
没 宝暦12年 (1762年)
1737年(元文2)継高の次男として生まれる。1748年(寛延元)1月将軍徳川家重に拝謁。家重より1字を賜り重政と名乗る。兄春千代が早世したため世子扱いだったが、跡を継ぐことなく1762年(宝暦12)7月14日没。26才。法名「瑛光院殿瑞嶽紹鳳大居士」。
黒田継高娘の墓碑
黒田継高娘
生 宝暦9年 (1759年)
没 天明4年 (1784年)
1759年(宝暦9)黒田継高の娘として生まれる。母は鷲尾隆照娘。厚姫。1784年(天明4)没。25才。法名「玉臺院殿桂輪素光大姉」。
黒田治高の墓碑
黒田治高
生 宝暦4年 (1754年)
没 天明2年 (1782年)
筑前福岡藩8代藩主。1754年(宝暦4)5月京極高慶の7男として生まれる。1781年(天明元)11月危篤状態の黒田治之の養子となり、1782年(天明2)2月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1字を賜り治高と名乗る。1782年(天明2)8月21日没。29才。法名「龍雲院殿徳巖道俊大禅定門」。幕府には10月24日没と届けている。
黒田治之妻の墓碑
黒田治之妻
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政3年 (1820年)
1758年(宝暦8)榊原政永の娘として生まれる。名は幸姫。黒田治之に嫁ぐ。1820年(文政3)11月24日没。63才。法名「瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼」。
黒田斉清妻の墓碑
黒田斉清妻
生 寛政5年 (1793年)
没 天保10年 (1839年)
1793年(寛政5)二条治孝の娘として生まれる。名は徳姫。黒田斉清に嫁ぎ、黒田長溥妻の1女を儲ける。1839年(天保10)12月20日没。47才。法名「寶林院殿」。
畔柳寿学の墓碑
畔柳寿学
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
徳川家康の家臣で、代官、奉行などを務める。土木技術者・建築家としても活躍。陰陽師も兼ねた特殊技術者。彦坂光正、友野宗善とともに、駿府の町づくりに貢献し、「駿府城下町造り三奉行」と呼ばれる。ほか、岡崎市の大樹寺や土呂八幡宮などを再建。1626年(寛永3)閏4月5日没。法名「○照院殿傅叟壽学居士」。
本多豊後の墓碑
本多豊後
生 寛永4年 (1627年)
没 寛永15年 (1638年)
1627年(寛永4)忠利の4男として生まれる。母は井上正就の娘。1638年(寛永15)12月27日没。12才。法名「光雲院殿登巖秀哲」。
本多彌太郎の墓碑
本多彌太郎
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
忠利の3男。母は井上正就の娘。1638年(寛永15)12月26日没。法名「源相院殿琢宝永玉大禅定門」。翌日27日には弟豊後(忠利4男)も亡くなっている。
本多康紀の墓碑
本多康紀
生 天正7年 (1579年)
没 元和9年 (1623年)
1579年(天正7)康重の長男として生まれる。徳川家康より1字を賜り康紀と名乗る。大坂両の陣に出陣。1615年(元和元)5月7日の夏の陣のときに、兜の眉間を鉄砲で打ち砕かれるも死を免れた。この日、康紀の軍勢で210の首を取る。1623年(元和9)9月25日没。45才。法名「諦琳院殿雄山道策大居士」。
内藤忠重の墓碑
内藤忠重
生 天正14年 (1586年)
没 承応2年 (1653年)
志摩鳥羽藩初代藩主。1586年(天正14)忠政の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠のもと上田城攻めに従う。1610年(慶長15)より徳川家光に付けられ、大坂の陣のときは茶臼山の徳川家康本陣に使者として赴く。忠勤の功により1633年(寛永10)志摩国鳥羽3万5千石を与えられる。1653年(承応2)4月23日没。68才。法名「善龍院殿空安了源大禅定門」。墓石は長男忠種の建立による。
内藤忠種の墓碑
内藤忠種
生 寛文12年 (1672年)
没 享保3年 (1718年)
1672年(寛文12)忠通の子として生まれる。1683年(天和3)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1690年(元禄3)父の遺領を継ぐ。1718年(享保3)8月2日没。47才。法名「眞性院殿高譽圓量大禅定門」。
内藤忠次の墓碑
内藤忠次
生 正保2年 (1645年)
没 宝永元年 (1704年)
1645年(正保2)忠政の長男として生まれる。1656年(明暦2)7月将軍徳川家綱に拝謁。長男だが病により跡を継がず、弟忠勝が跡を継いだ。1704年(宝永元)5月25日没。60才。法名「涼法院殿覺翁圓心居士」。
内藤忠政の墓碑
内藤忠政
生 元和3年 (1617年)
没 寛文13年 (1673年)
志摩鳥羽藩2代藩主。1617年(元和3)忠重の長男として生まれる。1627年(寛永4)4月将軍徳川家光に拝謁。1653年(承応2)6月父の死により跡を継ぐ。1673年(寛文13)7月12日没。57才。法名「智洞院殿性誉覚木大禅定門」。
内藤忠勝の墓碑
内藤忠勝
生 承応3年 (1654年)
没 延宝8年 (1680年)
志摩鳥羽藩3代藩主。1654年(承応3)忠政の次男として生まれる。1656年(明暦2)7月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)徳川家綱の77日法要のとき増上寺にて永井尚長を刺殺したため同年6月27日切腹を命じられた。27才。法名「淨邦院殿行譽直心大禅定門」。
内藤休明の墓碑
内藤休明
生 元禄14年 (1701年)
没 享保16年 (1731年)
1701年(元禄14)忠種の子として生まれる。1717年(享保2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1718年(享保3)父の死により跡を継ぐ。1731年(享保16)8月24日没。31才。法名「覺峰院殿正譽秋光月閑大禅定門」。
黒田忠之妻の墓碑
黒田忠之妻
生 慶長7年 (1602年)
没 延宝5年 (1677年)
1602年(慶長7)坪坂十右衛門の娘として生まれる。黒田忠之に嫁ぎ、光之、之勝の2男を儲ける。1677年(延宝5)7月16日没。76才。法名「養照院殿松巖永壽大姉」。
黒田宣政妻の墓碑
黒田宣政妻
生 貞享2年 (1685年)
没 元文5年 (1740年)
1685年(貞享2)南部行信の娘として生まれる。名は艶姫。南部信恩の養女となり、黒田宣政に嫁ぐ。宣政との間に子供は出来ず。1740年(元文5)12月11日没。56才。法名「瑞嶺院殿香雲妙薫大姉」。
黒田光之妻の墓碑
黒田光之妻
生 寛永4年 (1627年)
没 寛文8年 (1668年)
1627年(寛永4)小笠原忠真の長女として生まれる。名は壱姫。1647年(正保4)黒田光之の正室となり、光之との間に酒井忠挙妻、綱之、市之助、綱政、長清の4男1女を儲ける。1668(寛文8)1月9日没。42才。法名「寶光院殿元壽妙長大姉」。墓石は1周忌に夫光之の建立による。
松平直矩妻の墓碑
松平直矩妻
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文3年 (1663年)
1642年(寛永19)松平直政の長女として生まれる。名は駒姫。松平直矩に嫁ぐも子供は出来なかった。1663(寛文3)1月29日没。22才。法名「樹芳院殿花屋理春大姉」。
松平忠昌の墓碑
松平忠昌
生 慶長2年 (1597年)
没 正保2年 (1645年)
越前福井藩3代藩主。1597年(慶長2)12月結城秀康の次男として生まれる。徳川家康の孫。家康側室の英勝院お勝の方の猶子となり、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。大坂の陣に兄忠直とともに参戦。忠直が乱行等で改易となると福井藩主となる。1645年(正保2)8月1日没。49才。法名「隆芳院殿郭翁貞真大居士」。家臣7名が殉死している。
松平光通妻の墓碑
松平光通妻
生 寛永13年 (1636年)
没 寛文11年 (1671年)
1636年(寛永13)12月松平光長の娘として生まれる。名は国姫。松平光通のもとに嫁ぎ、鍋島綱茂妻、女子の2女を儲ける。1671年(寛文11)3月28日跡継ぎになる男児を生めなかったことや夫婦仲の悪化により自殺。36才。法名「清池院殿法譽性龍大禅定尼」。