酒井忠勝(小浜)の墓碑
酒井忠勝(小浜)
生 天正15年 (1587年)
没 寛文2年 (1662年)
若狭小浜藩初代藩主。1587年(天正15)6月忠利の長男として生まれる。1600年(慶長5)信州上田城攻めに父と従う。1624年(寛永元)老中となる。父の死により1627年(寛永4)11月跡を継ぐ。1634年(寛永11)閏7月加増移封により若狭小浜藩主となる。1656年(明暦2)5月隠居。1662年(寛文2)7月12日没。76才。法名「空印寺殿傑傳長英大居士」。
酒井忠勝(小浜)妻の墓碑
酒井忠勝(小浜)妻
生 天正12年 (1584年)
没 寛永18年 (1641年)
1584年(天正12)松平親能の娘として生まれる。祖母は徳川家康の妹市場姫。名は竹子。酒井忠勝に嫁ぎ、建部政長妻、松平康信妻、高木正俊妻、松平康政妻、堀田正盛妻、忠朝、都筑秀政妻、忠経、井伊直好妻、青木可一、忠直の4男7女を儲ける。1641年(寛永18)3月14日没。58才。法名「心光院殿星譽瓊琳周榮大姉」。墓石は息子忠朝の建立による。
酒井忠勝(小浜)娘の墓碑
酒井忠勝(小浜)娘
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
酒井忠勝(小浜)の娘。名は仙子。詳細不明。小浜市空印寺の酒井家墓地にも墓があることから、嫁ぐことなく没したと思われる。1636年(寛永13)6月13日没。法名「松岩院殿花桂宗心大姉」。
酒井忠勝(庄内)の墓碑
酒井忠勝(庄内)
生 文禄3年 (1594年)
没 正保4年 (1647年)
出羽庄内藩初代藩主。1594年(文禄3)家次の長男として生まれる。将軍徳川秀忠より1字を賜り忠勝と名乗る。大坂の両陣に参戦。父の死により1618年(元和4)4月跡を継ぐ。1622年(元和8)加増移封により出羽庄内藩主となる。1647年(正保4)10月17日没。54才。「成覺院殿眞譽道保達三大居士」。
酒井忠恆の墓碑
酒井忠恆
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
忠正の長男。与七郎。父に先立ちて1644年(寛永21)11月6日没。法名「月江院殿日州源果居士」。墓石は父酒井下総守忠正の建立による。
酒井忠朝の墓碑
酒井忠朝
生 元和5年 (1619年)
没 寛文2年 (1662年)
1619年(元和5)忠勝の長男として生まれる。徳川家光の幕臣として活躍するも職を解かれ、1649年(慶安2)9月には廃嫡となる。1662年(寛文2)3月24日没。44才。法名「用運院殿擉立葉山大居士」。
酒井忠正の墓碑
酒井忠正
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦元年 (1655年)
1595年(文禄4)重忠の4男として生まれる。1607年(慶長12)より徳川秀忠に仕える。武蔵と下総で4500石を知行。1655年(明暦元)3月14日没。61才。法名「鷲峯院殿皓寒潭月大居士」。
酒井忠経の墓碑
酒井忠経
生 元和8年 (1622年)
没 寛永17年 (1640年)
1622年(元和8)忠勝の次男として生まれる。1642年(寛永19)6月将軍徳川家光に拝謁。1640年(寛永17)8月17日没。19才。法名「達觀恵通大禪定門」。
酒井正親の墓碑
酒井正親
生 大永元年 (1521年)
没 天正3年 (1575年)
1521年(大永元)清秀の子として生まれる。松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕える。家康初陣の寺部城攻めでは先鋒を務める。三方原の戦い、長篠の戦いにも従う。1575年(天正3)6月6日没。56才。法名「寶樹院殿繁林源昌大禅定門」。1624年(寛永元)12月3男忠利による建立の墓石には「酒井雅楽助殿忠光公」とあり、晩年は忠光を名乗っていたと思われる。
酒井重忠の墓碑
酒井重忠
生 天文18年 (1549年)
没 元和3年 (1617年)
上野厩橋藩初代藩主。1549年(天文18)正親の次男として生まれる。徳川家康に仕え、遠江掛川城攻め、姉川の戦い、小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。大坂の陣のときは、江戸城留守居役を務める。1617年(元和3)7月21日没。69才。法名「傑叟源英大禅定門」。
酒井重忠妻の墓碑
酒井重忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
松平忠輝家臣山田重辰の娘。酒井重忠に嫁ぎ、忠世、忠季、西尾忠永、忠正の4男を儲ける。1627年(寛永4)2月19日没。法名「臨川院殿實継良朴大姉」。
青山一角の墓碑
青山一角
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
小浜酒井家の世嗣忠朝の家臣。忠朝が没すると1662年(寛文2)殉死。法名 「玄無雷菴居士」。墓石施主は忠朝の弟で小浜藩主酒井修理大夫忠直。
青木可一の墓碑
青木可一
生 寛永4年 (1627年)
没 寛永21年 (1644年)
1627年(寛永4)若狭小浜藩主酒井忠勝の3男として生まれる。1639年(寛永16)7月将軍徳川家光に拝謁。青木重兼の養子となる。家督を継ぐことなく1644年(寛永21)6月26日没。18才。法名「清巖院殿三衆一玄」。
黒田光之の墓碑
黒田光之
生 寛永5年 (1628年)
没 宝永4年 (1707年)
筑前福岡藩3代藩主。1628年(寛永5)5月忠之の長男として生まれる。1635年(寛永12)1月徳川家康の養女でもある祖母に連れられ将軍徳川家光に拝謁。1648年(慶安元)12月家光より1字を賜り光之と名乗る。父の死により1654年(承応3)4月跡を継ぐ。1688年(元禄元)12月隠居。1707年(宝永4)5月20日没。80才。法名「江龍院殿淳山宗真大居士」。
黒田長溥の墓碑
黒田長溥
生 文化8年 (1811年)
没 明治20年 (1887年)
筑前福岡藩11代藩主。1811年(文化8)3月島津重豪の13男として生まれる。黒田斉清の娘を娶り養子となる。将軍徳川家斉から1字を賜い斉溥と名乗る(幕末まで)父重豪や養父斉清と同じく蘭癖が強く藩内に近代化を広める。1869年(明治2)2月隠居。1887年(明治20)3月7日没。77才。
安部信亨の墓碑
安部信亨
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政5年 (1822年)
武蔵岡部藩8代藩主。1758年(宝暦8)信允の長男として生まれる。1775年(安永4)12月将軍徳川家治に拝謁。1806年(文化3)8月隠居。1822年(文政5)6月17日没。65才。法名「来震院殿灌渓道関大居士」。
安部信任の墓碑
安部信任
生 文化6年 (1809年)
没 文政11年 (1828年)
武蔵岡部藩10代藩主。1809年(文化6)信操の長男として生まれる。父の死により1825年(文政8)跡を継ぐ。大坂加番を務む。1828年(文政11)4月10日没。法名「祐泉院殿彩雲蒼竜大居士」。
安部信允の墓碑
安部信允
生 享保13年 (1728年)
没 寛政10年 (1798年)
武蔵岡部藩7代藩主。1728年(享保13)信興の次男として生まれる。6代藩主信平の死去の際養子となり、1750年(寛延3)5月跡を継ぐ。同年6月将軍徳川家重に拝謁。1781年(天明元)9月隠居。1798年(寛政10)12月12日没。71才。法名「峻德院殿法雲義潤大居士」。
安部信友の墓碑
安部信友
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄14年 (1701年)
武蔵岡部藩3代藩主。1638年(寛永15)信之の長男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。1678年(延宝6)4月父の隠居により家督を継ぐ。1701年(元禄14)3月8日没。64才。法名「乾徳院殿徹應宗證大居士」。
安部信友妻の墓碑
安部信友妻
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
内藤忠政の娘。名は万。安部信友に嫁ぎ、信峯、信方の2男を儲ける。1693年(元禄6)5月9日没。法名「春光院殿長譽壽寶大姉」。墓石に「安部摂津守信友為妻女」とある。
安部信古の墓碑
安部信古
生 文化12年 (1815年)
没 天保13年 (1842年)
武蔵岡部藩11代藩主。1815年(文化12)信操の4男として生まれる。1828年(文政11)兄で藩主信任が没したため、末期養子として跡を継ぐ。1831年(天保2)9月将軍徳川家斉に拝謁。1842年(天保13)10月7日没。28才。法名「義徳院殿廓山魯道大居士」。
安部信孝の墓碑
安部信孝
生 不明
没 正保2年 (1645年)
信盛の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。御書院の番士、小姓組の組頭を務める。1645年(正保2)7月14日没。法名「大応院殿月峰洞雲居士」。
安部信宝の墓碑
安部信宝
生 天保10年 (1839年)
没 文久3年 (1863年)
武蔵岡部藩12代藩主。1839年(天保10)信古の長男として生まれる。父の死により1842年(天保13)12月跡を継ぐ。1850年(嘉永3)3月将軍徳川家慶に拝謁。幕府より罪人の高島秋帆を預かる。1863年(文久3)4月10日没。25才。法名「蔵雲院殿忠巖全孝大居士」。
安部信峯妻の墓碑
安部信峯妻
生 不明
没 元禄2年 (1689年)
墓石に「安部丹波守信峯妻」とあり、正室で秋月種信の娘と思われるも確証なし。1689年(元禄2)7月23日没。法名「覺樹院殿霊律宗湛大姉」。
安部信操の墓碑
安部信操
生 寛政2年 (1790年)
没 文政8年 (1825年)
武蔵岡部藩9代藩主。1790年(寛政2)信亨の3男として生まれる。兄2人は早世したため嫡子となる。1806年(文化3)8月父の隠居により跡を継ぐ。1825年(文政8)4月29日没。36才。法名「高徳院殿義峰宗春大居士」。
安部信盛の墓碑
安部信盛
生 天正12年 (1584年)
没 延宝元年 (1673年)
武蔵岡部藩初代藩主。1584年(天正12)信勝の長男として生まれる。1599年(慶長4)伏見において徳川家康に謁見。1600年(慶長5)父の死により遺領を継ぎ、同年の上杉攻めでは本多正信に属して下野国小山まで参陣。加増を続け、信盛の代から大名となる。1673年(延宝元)11月27日没。90才。法名「龍徳院殿妙峯性都大居士」。
安部信賢妻の墓碑
安部信賢妻
生 不明
没 享保16年 (1731年)
青山忠重の娘。青山秘成の養女として安部信賢に嫁ぐ。信賢との間に信平を儲ける。1731年(享保16)1月13日没。法名「榮昌院殿桃林宗僊大姉」。墓石は息子信平(多宮)が母の為に建立。
三好政盛の墓碑
三好政盛
生 寛永元年 (1624年)
没 元禄12年 (1699年)
1624年(寛永元)直政の子として生まれる。母は明石全登の娘。1630年(寛永7)より徳川家光に仕える。1669年(寛文9)京都の東福門院和子のもとに使者となる。1699年(元禄12)2月15日没。76才。法名「崇徳院殿天誉月峯照和大居士」。
三浦為恭の墓碑
三浦為恭
生 宝永3年 (1706年)
没 安永4年 (1775年)
紀州藩家老三浦家4代当主。1706年(宝永3)中川元宣の子として生まれる。1722年(享保7)叔父三浦為隆の養子となる。1732年(享保17)跡を継ぐ。1733年(享保18)主君徳川宗直に従い、将軍徳川吉宗に拝謁。1775年(安永4)7月17日没。69才。法名「至徳行院觀山智同居士」。
三浦為恭妻の墓碑
三浦為恭妻
生 不明
没 安永7年 (1778年)
三浦為隆の娘。1722年(享保7)中川家の為恭と結婚して三浦家の婿とする。1778年(安永7)5月12日没。法名「常往院心観宣議大姉」。
三浦為積の墓碑
三浦為積
生 天明元年 (1781年)
没 天保11年 (1840年)
紀州藩家老三浦家6代当主。1781年(天明元)9月為脩の長男として生まれる。1789年(寛政元)父の死により家督を継ぐ。1797年(寛政9)将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)隠居。1840年(天保11)8月15日没。60才。法名「金剛臺院義巖恵雄大居士」。
三浦為積妻の墓碑
三浦為積妻
生 不明
没 天保7年 (1836年)
安藤直紀の娘。1798年(寛政10)三浦為積に嫁ぎ、為章を儲ける。1836年(天保7)6月2日没。法名「真珠院圓月妙映大姉」。
三浦為章の墓碑
三浦為章
生 享和3年 (1803年)
没 天保12年 (1841年)
紀州藩家老三浦家7代当主。1803年(享和3)4月為積の長男として生まれる。父の隠居により1823年(文政6)5月跡を継ぐ。1835年(天保6)5月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)3月2日没。39才。法名「紫金光院性覚円常大居士」。
三浦為脩の墓碑
三浦為脩
生 宝暦9年 (1759年)
没 寛政元年 (1789年)
紀州藩家老三浦家5代当主。1759年(宝暦9)4月徳川宗将の8男として生まれる。1760年(宝暦10)5月三浦為恭の養子となる。為恭の死により1775年(安永4)7月跡を継ぐ。1776年(安永5)9月将軍徳川家治に拝謁。1789年(寛政元)9月4日没。31才。法名「嚴淨土院義嶽慧了大居士」。
三浦為脩妻の墓碑
三浦為脩妻
生 不明
没 文化13年 (1816年)
植村家道の娘。1779年(安永8)三浦為脩に嫁ぎ、為積を儲ける。1816年(文化13)2月4日没。法名「蓮池院智月妙浄大姉」。
三浦為隆の墓碑
三浦為隆
生 万治2年 (1659年)
没 享保17年 (1732年)
紀州藩家老三浦家3代当主。1659年(万治2)為時の子として生まれる。父の死後家督を継ぎ家老職。1716年(享保元)紀州藩主徳川吉宗が将軍となると、幕臣として仕えるよう望まれるもこれを断る。1732年(享保17)11月8日没。74才。法名「清净心院湛然無相居士」。
丹羽勘十郎の墓碑
丹羽勘十郎
生 不明
没 承応3年 (1654年)
氏定の次男。1653年(承応2)閏6月将軍徳川家綱に拝謁。1654年(承応3)7月12日没。法名「學翁良海大禅定門」。岐阜県恵那市岩村町殿町の大名墓地にも墓がある。
丹羽氏定妻の墓碑
丹羽氏定妻
生 元和5年 (1619年)
没 元禄14年 (1701年)
1619年(元和5)高木正成の娘として生まれる。丹羽氏定に嫁ぎ、氏純を儲ける。1701年(元禄14)5月17日没。83才。法名「芳春院殿蘭室永秀大姉」。墓石は丹羽壱岐守氏音が曾祖母のために1701年(元禄14)7月15日に建立。
丹羽氏明の墓碑
丹羽氏明
生 寛文7年 (1667年)
没 貞享3年 (1686年)
美濃岩村藩4代藩主。1667年(寛文7)氏純の長男として生まれる。父の死により1674年(延宝2)11月26日跡を継ぐ。28日将軍徳川綱吉に拝謁。1686年(貞享3)3月2日没。20才。法名「徳雲道海大居士」。
今井宗久の墓碑
今井宗久
生 永正17年 (1520年)
没 文禄2年 (1593年)
1520年(永正17)氏高の子として生まれる。武野紹鴎に茶を学び、その娘を妻とする。紹鴎の遺産を巡り、武野宗瓦と争い織田信長の裁決により勝つ。織田信長、豊臣秀吉に従い、堺商人として活躍。茶会にも貢献。1593年(文禄2)8月5日没。74才。法名「壽林宗久居士」。
今井宗久妻の墓碑
今井宗久妻
生 不明
没 文禄3年 (1594年)
詳細不明。夫と同じく茶の湯を嗜み、唐の時代の「茶経」を読破する。1594年(文禄3)7月5日没。法名「瑞松院春芳宗榮」。
今井宗呑の墓碑
今井宗呑
生 不明
没 元和9年 (1623年)
宗薫の長男。彦八郎。大坂冬の陣のとき、大坂方に父とともに捕らえられる。織田有楽によって放たれ、父と高野山に逃れる。のち二条城にて父と徳川家康に拝謁。1623年(元和9)4月13日没。法名「不盡宗呑居士」。墓石は逆修塔。
今井宗薫の墓碑
今井宗薫
生 天文21年 (1552年)
没 寛永4年 (1627年)
1552年(天文21)宗久の子として生まれる。豊臣秀吉に御伽衆として仕える。秀吉死後は徳川家康に接近。家康の6男松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫との婚約を仲介。大坂冬の陣のときは大坂方に捕らえられる。織田有楽によって放たれ、高野山に逃れる。1627年(寛永4)4月11日没。76才。法名「天外宗薫」。
伊東長治の墓碑
伊東長治
生 寛永5年 (1628年)
没 万治元年 (1658年)
備中岡田藩3代藩主。1628年(寛永5)長昌の長男として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1640年(寛永17)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月8日没。31才。 「興國院殿一関要無居士」。
伊東長裕の墓碑
伊東長裕
生 文化13年 (1816年)
没 万延元年 (1860年)
備中岡田藩9代藩主。1816年(文化13)5月長禎の長男として生まれる。1844年(天保15)4月将軍徳川家慶に拝謁。1850年(嘉永3)8月祖父長寛の死により跡を継ぐ。1860年(万延元)8月14日没。45才。法名「泰性院殿萬随義光大居士」。
伊東長貞の墓碑
伊東長貞
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄6年 (1693年)
備中岡田藩4代藩主。1643年(寛永20)長治の長男として生まれる。1654年(承応3)9月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1693年(元禄6)9月1日没。51才。法名「大僊院殿竺巖賢心大居士」。
伊東長貞妻の墓碑
伊東長貞妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
大久保教勝の娘。伊東長貞に嫁ぎ、長救、遠山友春妻、女子、縫殿之助、女子の2男3女を儲ける。1714年(正徳4)10月25日没。法名「舜功院殿成庵圓慈大姉」。墓石は息子信濃守長救の建立による。
大石良重の墓碑
大石良重
生 元和5年 (1619年)
没 天和3年 (1683年)
1619年(元和5)良勝の次男として生まれる。赤穂藩浅野長直に仕え家老職。1677年(延宝5)に兄良欽が没すると兄の子内蔵助良雄の後見人となる。1683年(天和3)5月18日没。法名「賢徳院殿義翁良達居士」。
契沖の墓碑
契沖
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄14年 (1701年)
1640年(寛永17)下川元全の子として生まれる。真言宗の僧となり高野山にて阿闍梨を授けられる。歌人、国学者でもあり、万葉代匠記、和字正濫鈔などの作品を遺す。1701年(元禄14)1月25日没。62才。
山本茂成の墓碑
山本茂成
生 永正12年 (1515年)
没 慶長5年 (1600年)
1515年(永正12)室正成の子として生まれる。父は三河牟呂城主だったが松平清康に攻められ自害。茂成は牧野家臣山本弥三郎茂門に引き取られる。本多百助信俊に属していたが、のち徳川家康に従う。家康長男信康に付属させられたが、信康自害後は隠棲。1600年(慶長5)7月3日没。86才。法名「星安長昌居士」。孫図書正春が紀伊徳川頼宣に仕え、恵運寺(和歌山市)を茂成のために建立している。墓石は茂成の4男唯右衛門等9人分の法名がある。
岩沢半九郎の墓碑
岩沢半九郎
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は岩城平大夫成重ともある。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると殉死。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月19日に殉死とある。法名「清嚴勇心禅定門」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。墓石には主君の命日「二月十六日」が見える。
曽我部俊雄の墓碑
曽我部俊雄
生 明治6年 (1873年)
没 昭和24年 (1949年)
金剛流御詠歌の流祖。天野山金剛寺第76世座主。1873年(明治6)10月生まれ。1926年(大正15)4月金剛流詠歌団体を高野山大師教会内に設立する。金剛流御詠歌を編集、整備。現在も継続されている。1949年(昭和24)没。
本多正純の墓碑
本多正純
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永14年 (1637年)
1565年(永禄8)正信の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。大坂の両陣にも参戦。家康没後は2代将軍徳川秀忠の側近となるも、1622年(元和8)宇都宮城石垣の無断修理等の罪状嫌疑により失脚。晩年は出羽横手にて過ごす。1637年(寛永14)3月10日没。73才。法名「慧光院殿鐵顔宗智大居士」。
村井長次妻の墓碑
村井長次妻
生 天正8年 (1580年)
没 寛永18年 (1641年)
1580年(天正8)5月7日前田利家の7女として生まれる。名は千世。1597年(慶長2)細川忠隆に嫁ぐものちに離縁。1605年(慶長10)前田家重臣の村井長次に嫁ぐ。1641年(寛永18)11月20日没。62才。法名「春高院殿昌慶」。墓石は1614年(慶長19)3月21日建立の逆修塔。のち、法名「春香院殿梅室昌薫大姉」となる。
村越兵庫の墓碑
村越兵庫
生 不明
没 慶長5年 (1600年)
光勝の子。徳川家康に仕えるも勘気を被り、豊臣秀長、秀保に仕える。その後再び家康に仕える。1600年(慶長5)9月15日関ヶ原の戦いのときに、藤堂高虎に属して戦い討死。法名「照光院蘭月宗英大禅定門」。
松平定温妻の墓碑
松平定温妻
生 不明
没 寛延3年 (1750年)
池田仲央の娘。名は輝子。松平定温に嫁ぐ。1750年(寛延3)4月24日没。法名「光輪院殿貞譽正華亮仁大姉」。墓石は夫定温の建立による。「豫洲今治城主松平主水正定温」と墓石にあるが夫定温は伊予今治藩世嗣で城主として跡を継ぐ前に没している。
松平忠吉の墓碑
松平忠吉
生 天正8年 (1580年)
没 慶長12年 (1607年)
1580年(天正8)9月徳川家康の4男として生まれる。1592年(文禄元)武蔵忍城主となり10万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。戦後、美濃尾張で52万石となる。1607年(慶長12)3月5日没。28才。法名「性高院殿憲瑩玄伯大居士」。
武内宿禰の墓碑
武内宿禰
生 不明
没 不明
実在したかも疑問の古代の偉人。屋主忍男武雄心命の子。景行天皇から仁徳天皇の5代に仕えた忠臣。日本書記によると、景行天皇のときに棟梁之臣、成務天皇のときに大臣を務める。神功皇后のときに反乱を起こした忍熊皇子を破り、応神天皇のときに甘美内宿禰を破る。360才、295才、または280才で死亡したという。墓石は宗教家吉村長慶の建立による。
武野紹鴎の墓碑
武野紹鴎
生 文亀2年 (1502年)
没 弘治元年 (1555年)
1502年(文亀2)信久の子として生まれる。連歌師、茶人。茶道は、千利休、今井宗久、津田宗達などを弟子として大きな影響を与える。1555年(弘治元)閏10月29日没。54才。法名「一閑紹鴎居士」。
池田仲央の墓碑
池田仲央
生 元禄5年 (1692年)
没 宝暦3年 (1753年)
1692年(元禄5)11月仲澄の次男として生まれる。1702年(元禄15)11月将軍徳川綱吉に拝謁。翌年9月父の隠居により跡を継ぐ。1753年(宝暦3)1月11日没。62才。法名「岌暾院殿活空徹玄大居士」。
池田仲庸の墓碑
池田仲庸
生 享保4年 (1719年)
没 宝暦8年 (1758年)
1719年(享保4)仲央の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)3月父の死により跡を継ぐ。1758年(宝暦8)6月12日没。40才。法名「青嶂院殿雲外弘庸大居士」。
浅野長矩の墓碑
浅野長矩
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄14年 (1701年)
播磨赤穂藩3代藩主。1667年(寛文7)8月長友の長男として生まれる。内匠頭。父の死により1675年(延宝3)3月跡を継ぐ。1701年(元禄14)3月14日勅使饗応役中、江戸城内にて吉良上野介に刃傷に及ぶ。激怒した将軍徳川綱吉により即日切腹となる。35才。法名「冷光院殿吹毛玄利大居士」。
神尾理介の墓碑
神尾理介
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は神野理助成通とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、同月18日殉死。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月17日に殉死とある。しかし墓石には「二月十八日」とあるので、こちらに従った。
福原就清の墓碑
福原就清
生 宝暦6年 (1756年)
没 寛政3年 (1791年)
1756年(宝暦6)6月広門の長男として生まれる。藩主毛利重就より1字を賜い、就郷(のち就清)と名乗る。父の隠居により1789年(寛政元)跡を継ぐ。1791年(寛政3)8月18日没。36才。法名「清風齋猗園信誓居士」。
福原就澄の墓碑
福原就澄
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄3年 (1690年)
1669年(寛文9)広俊の長男として生まれる。藩主毛利吉就から1字を賜ったと思われる。跡を継ぐことなく1690年(元禄3)8月18日没。22才。法名「心源院殿無外維安居士」。
福原広俊の墓碑
福原広俊
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄8年 (1695年)
1638年(寛永15)元俊の子として生まれる。主君毛利綱広より1字を賜い、広次を名乗り、後広俊と名乗る。1695年(元禄8)4月5日没。58才。法名「慈雲院殿乾底宗泉居士」。
福原広泰の墓碑
福原広泰
生 元禄7年 (1694年)
没 享保10年 (1725年)
1694年(元禄7)5月広俊の末子として生まれる。はじめ毛利就詮の養子となる。家督を相続していた兄広頼が没したため、跡を継ぐ。1725年(享保10)4月11日没。32才。法名「性源院殿天峯道眞居士」。
福原広門の墓碑
福原広門
生 享保20年 (1735年)
没 寛政3年 (1791年)
1735年(享保20)3月元貞の長男として生まれる。父の死により1741年(寛保元)跡を継ぐ。1789年(天明9)隠居。1791年(寛政3)7月15日没。57才。法名「常在院殿月峯宗鑑居士」。
福原広門妻の墓碑
福原広門妻
生 享保20年 (1735年)
没 文化元年 (1804年)
1735年(享保20)毛利元雅の6女として生まれる。福原広門に嫁ぎ、就清、於亀槌、俊方、俊民の3男1女を儲ける。1804年(文化元)3月18日没。70才。法名「養壽院殿和室貞光大姉」。
福原広頼の墓碑
福原広頼
生 天和3年 (1683年)
没 正徳4年 (1714年)
1683年(天和3)広俊の子として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。藩主毛利吉広より1字を賜い、広頼と名乗る。1714年(正徳4)3月11日没。32才。法名「英性院殿信岩宗雄居士」。
福原房純の墓碑
福原房純
生 明和9年 (1772年)
没 天保7年 (1836年)
1772年(明和9)毛利就馴の次男として生まれる。1791年(寛政3)5月福原就清の養子となる。同年8月就清が没すると同年11月跡を継ぐ。主君毛利斉房から1字を賜い、房純と名乗る。1836年(天保7)1月2日没。65才。法名「智徳院殿高巖義尚大居士」。
福原房純妻の墓碑
福原房純妻
生 天明3年 (1783年)
没 天保7年 (1836年)
1783年(天明3)1月宍戸就年の長女として生まれる。名は於美年。福原房純に嫁ぎ、於美能、熙賢、宍戸元礼の2男1女を儲ける。1836年(天保7)1月2日に夫房純、同年1月12日に息子熙賢を亡くし、自身も同年12月8日没。54才。法名「淨體院殿保眞長養大姉」。
福原熙賢の墓碑
福原熙賢
生 文化2年 (1805年)
没 天保7年 (1836年)
1805年(文化2)房純の長男として生まれる。主君毛利斉熙の1字を賜い、熙賢と名乗る。1836年(天保7)1月2日父が没するも、家督を継ぐことなく同年1月10日没。32才。法名「仁岳院殿湛源慧流大居士」。
稲見主税の墓碑
稲見主税
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は稲見主膳成正とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、尼崎でその報を聞き旧恩に報いるため2月26日殉死した。法名「刄叟成銅居士」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。
鍋島忠直の墓碑
鍋島忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛永12年 (1635年)
1613年(慶長18)勝茂の4男として生まれる。1617年(元和3)3月将軍徳川秀忠に拝謁。4男だが母が徳川家康の養女のため跡取りとなる。秀忠より1字を賜い忠直と名乗る。跡を継ぐことなく1635年(寛永12)1月28日没。23才。法名「興国院殿敬英賢崇大居士」。
鍋島斉直の墓碑
鍋島斉直
生 安永9年 (1780年)
没 天保10年 (1839年)
肥前佐賀藩9代藩主。1780年(安永9)9月治茂の長男として生まれる。1805年(文化2)父の死により跡を継ぐ。将軍徳川家斉より1字を賜い、斉直と名乗る。1808年(文化5)長崎でフェートン号事件が起きると、長崎警備を怠っていたことで家臣数名切腹、斉直も100日の閉門となる。1839年(天保10)1月28日没。60才。法名「巍松院殿桂翁道栄大居士」。
青山幸成の墓碑
青山幸成
生 天正14年 (1586年)
没 寛永20年 (1643年)
1586年(天正14)忠成の4男として生まれる。徳川秀忠付の家臣となる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは木曽路の手前まで秀忠に従った。(木曽路が険しいため15才以下はそれより先は供奉させなかった)大坂冬の陣のときは直前に御勘気をこうむってながら、密かに参戦。夏の陣のときには御勘気を赦されており、家臣とともに活躍。1643年(寛永20)2月16日没。58才。法名「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」。
佐久間佐吉の墓碑
佐久間佐吉
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
詳細不明。墓石に「施主御内儀稲葉丹後守御息女」とあり妻は稲葉正勝の娘である。墓石によると、1641年(寛永18)1月18日没で法名「盡峯空縁禅定門」。寛政重修諸家譜に稲葉正勝の娘で佐久間佐吉の妻となった人物の記載はなく、さらに佐吉自身の記載もなく詳細不明。
佐久間実勝の墓碑
佐久間実勝
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永19年 (1642年)
1570年(元亀元)政実の子として生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え、のちに徳川幕府の旗本として仕える。1609年(慶長14)名古屋城築城の奉行となる。茶人として有名で、宗可流の開祖となり山隠宗可と号す。晩年は京都大徳寺内に寸松庵を建立して過ごす。1642年(寛永19)9月22日没。73才。法名「寸松庵山隠宗可居士」。
内田正信の墓碑
内田正信
生 慶長18年 (1613年)
没 慶安4年 (1651年)
下野鹿沼藩初代藩主。1613年(慶長18)正世の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。家光のもとで出世、1649年(慶安2)8月下野で1万5千石を領す。1651年(慶安4)4月20日家光が没すると同日に殉死。39才。法名「理明院殿光徳徹宗大居士」。
土屋政直妻の墓碑
土屋政直妻
生 不明
没 寛文7年 (1667年)
松平康信の娘。土屋政直に嫁ぎ、式部、照直の2男を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。法名「圓應院殿泰性妙恵大姉」。
大森頼隆の墓碑
大森頼隆
生 明暦3年 (1657年)
没 宝永4年 (1707年)
1657年(明暦3)頼直の子として生まれる。1667年(寛文7)閏2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。1707年(宝永4)1月4日没。51才。法名「勇猛院殿心傳了空居士」。
大森頼隆妻の墓碑
大森頼隆妻
生 明暦3年 (1657年)
没 天和2年 (1682年)
1657年(明暦3)秋月種信の4女として生まれる。大森頼隆に嫁ぎ、松千代、女子の1男1女を儲ける。1682年(天和2)7月5日没。26才。法名「月照院殿凉岩知清大姉」。
戸田種辰の墓碑
戸田種辰
生 宝永2年 (1705年)
没 天明2年 (1782年)
1705年(宝永2)松平信庸の4男として生まれる。戸田重澄の養子となる。1718年(享保3)7月将軍徳川吉宗に拝謁。翌年重澄の死により跡を継ぐ。小姓組の番頭、御書院の番頭、大番頭を務める。1782年(天明2)9月17日没。78才。法名「如雲」。
戸祭源兵衛の墓碑
戸祭源兵衛
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
名は定経。内田正信の家臣。主君正信が徳川家光に殉死すると、1651年(慶安4)4月20日源兵衛も殉死する。法名「一翁圓心居士」。
有栖川宮織仁親王の墓碑
有栖川宮織仁親王
生 宝暦3年 (1753年)
没 文政3年 (1820年)
有栖川宮6代当主。1753年(宝暦3)7月職仁親王の第7王子として生まれる。1762年(宝暦12)桃園天皇の猶子となる。1763年(宝暦13)親王宣下をする。1811年(文化8)に一品。1820年(文政3)2月19日没。68才。法名「文聚院」。
有栖川宮職仁親王の墓碑
有栖川宮職仁親王
生 正徳3年 (1713年)
没 享保元年 (1716年)
有栖川宮5代当主。1713年(正徳3)9月霊元天皇の第17皇子として生まれる。1716年(享保元)有栖川宮正仁親王が嗣子なく没したため有栖川宮家を継ぐ。歌道、書道に優れ、有栖川流書道を創始者となる。1769年(明和6)10月20日没。57才。法名「本朋圓心院」。
有栖川宮韶仁親王の墓碑
有栖川宮韶仁親王
生 天明4年 (1784年)
没 弘化2年 (1845年)
有栖川宮7代当主。1784年(天明4)12月織仁親王の第2皇子として生まれる。1807年(文化4)光格天皇の猶子となる。1808年(文化5)親王宣下をする。1822年(文政5)に二品。1845年(弘化2)2月26日没。62才。法名「大功徳院」。
木下延次妻の墓碑
木下延次妻
生 不明
没 慶安3年 (1650年)
里見忠義の次女。大久保忠常の養女となり、木下延次に嫁ぐ。延次との間に延知を儲ける。1650年(慶安3)1月20日没。法名「圓光院殿寶月貞璃大姉」。
末吉利方の墓碑
末吉利方
生 大永6年 (1526年)
没 慶長12年 (1607年)
1526年(大永6)平野行増の次男として生まれる。西末吉家の祖。平野郷の豪商として織田信長、豊臣秀吉に仕え、商業の他代官も兼ねる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1607年(慶長12)3月5日没。82才。法名「道鑑」。
末吉利長の墓碑
末吉利長
生 正保4年 (1647年)
没 貞享3年 (1686年)
1647年(正保4)長明の子として生まれる。父の死により1653年(承応2)12月跡を継ぐ。1664年(寛文4)6月将軍徳川家綱に拝謁。1686年(貞享3)9月6日没。40才。法名「成等院殿松譽寒貞大居士」。墓石は息子勘太郎嘉于の建立による。寛政重修諸家譜の法名は「貞寒」とあるが墓石の「寒貞」が正しいと思われる。
松平康信妻の墓碑
松平康信妻
生 不明
没 不明
酒井忠勝(小浜)の娘。はじめ徳川忠長家臣の朝倉宣親に嫁ぎ、重正の1男を儲ける。のち松平康信に嫁ぎ、土屋政直妻の1女を儲ける。法名「長松院殿勝室元殊大姉」。
松平頼重の墓碑
松平頼重
生 元和8年 (1622年)
没 元禄8年 (1695年)
1622年(元和8)7月徳川頼房の嫡男として生まれる。徳川光圀(水戸黄門)の兄。故有って頼房から堕胎を命じられたが、密かに三木之次夫妻に養育される。嫡男だったが家は弟光圀が継ぎ、次男扱いとなる。1642年(寛永19)讃岐高松で12万石。1695年(元禄8)4月12日没。74才。法名「龍雲院殿雄蓮社大譽孤峯源英大居士」。
池田光政娘の墓碑
池田光政娘
生 正保2年 (1645年)
没 延宝7年 (1679年)
1645年(正保2)池田光政の娘として生まれる。名は六姫。1658年(万治元)池田由貞の元に嫁ぐ。しかし由貞は嫉妬深い六姫に耐えれず逐電。のち切腹。その後、滝川一宗と再婚。しかし夫の一宗が他の女性と一緒にいたため、夫を殺害。鬼姫と呼ばれたという。1679年(延宝7)12月25日没。35才。法名「成徳院殿見巖永性大禅定尼」。
池田忠継の墓碑
池田忠継
生 慶長4年 (1599年)
没 慶長20年 (1615年)
1599年(慶長4)2月輝政の5男として生まれる。母は徳川家康の次女督姫。1603年(慶長8)5才のとき備前国岡山で28万石を与えられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参陣。1615年(慶長20)2月23日没。17才。法名「龍峯寺殿雲臺元祥大居士」。
池田輝政の墓碑
池田輝政
生 永禄7年 (1564年)
没 慶長18年 (1613年)
1564年(永禄7)12月恒興の次男として生まれる。織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が徳川家康軍によって討ち取られると家督を継ぐ。その後秀吉の仲介により家康の次女督姫を娶る。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付き、戦後大幅に加増され播磨で52万石を領した。1613年(慶長18)1月25日没。50才。法名「国清院殿泰叟玄高大居士」。
浅野斉賢妻の墓碑
浅野斉賢妻
生 安永9年 (1780年)
没 寛政8年 (1796年)
1780年(安永9)7月有栖川織仁親王の第1王女として生まれる。母は鷹司輔平の娘。織子女王。浅野斉賢に嫁ぐ。1796年(寛政8)5月29日没。17才。法名「翺翔院」。妹の子に徳川慶喜がいる。墓石は父織仁親王が浅野家と交渉のうえ遺髪を埋めた塔である。
真田信音妻の墓碑
真田信音妻
生 不明
没 延宝9年 (1681年)
松平典信の娘。真田信音に嫁ぐ。1681年(延宝9)8月5日没。法名「芙蓉院殿香臺榮薫大姉」。墓石は弟信利の子、松平豊前守信庸の建立による。
筒井順慶の墓碑
筒井順慶
生 天文18年 (1549年)
没 天正12年 (1584年)
1549年(天文18)3月順昭の子として生まれる。1565年(永禄8)松永久秀により居城筒井城を追われるも1566年(永禄9)6月に奪還。1571年(元亀2)より織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)8月11日没。36才。法名「順慶法印」。
織田信久の墓碑
織田信久
生 寛永20年 (1643年)
没 正徳4年 (1714年)
上野小幡藩3代藩主。1643年(寛永20)高長の4男として生まれる。1650年(慶安3)9月従兄の信昌の末期養子として家督を相続、同年11月将軍徳川家光に拝謁。藩主として64年務める。1714年(正徳4)7月8日没。72才。法名「凌雲院殿嶮巌維峻大居士」。
織田信右の墓碑
織田信右
生 正徳3年 (1713年)
没 宝暦12年 (1762年)
上野小幡藩5代藩主。1713年(正徳3)信就の4男として生まれる。1730年(享保15)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)7月父の死により家督を継ぐ。1762年(宝暦12)8月18日没。50才。法名「桃溪院殿仙巌宗壽大居士」。寛政重修諸家譜は1713年(正徳3)生まれの50才没、墓石裏面には1716年(享保元)8月生まれの47才没とある。
織田信富の墓碑
織田信富
生 享保8年 (1723年)
没 明和元年 (1764年)
上野小幡藩6代藩主。1723年(享保8)信就の7男として生まれる。1757年(宝暦7)12月兄信右の養子となる。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1759年(宝暦9)11月信右の隠居により跡を継ぐ。1764年(明和元)6月7日没。42才。法名「南溟院殿搏巖宗翼大居士」。
織田信就の墓碑
織田信就
生 寛文元年 (1661年)
没 享保16年 (1731年)
上野小幡藩4代藩主。1661年(寛文元)信久の次男として生まれる。跡取りの兄信盛と弟信知(共に正室の子)が若く没したため嫡子となる。1694年(元禄7)将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)8月父の死により家督を継ぐ。1731年(享保16)6月10日没。71才。法名「乾瑞院殿亭巌元貞大居士」。
織田信昌の墓碑
織田信昌
生 寛永2年 (1625年)
没 慶安3年 (1650年)
上野小幡藩2代藩主。1625年(寛永2)信良の次男として生まれる。翌年、父の死により2才で家督を継ぐ。1631年(寛永8)2月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)7月9日没。26才。法名「宝泰院殿節巌英忠大居士」。
織田信浮の墓碑
織田信浮
生 寛延4年 (1751年)
没 文政元年 (1818年)
出羽高畠藩初代藩主。1751年(寛延4)8月信栄の5男として生まれる。上野小幡藩7代藩主織田信邦が明和事件により蟄居となると、陸奥、出羽に転封のうえ家督を継ぐ。1768年(明和5)出羽高畠に陣屋を定める。1770年(明和7)11月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)11月19日没。68才。法名「瑞岡院殿徳巖俊峰大居士」。
織田信盛の墓碑
織田信盛
生 寛文元年 (1661年)
没 貞享2年 (1685年)
1661年(寛文元)信久の長男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1685年(貞享2)6月15日没。25才。法名「霊源院殿皎厳凉潔大居士」。
織田信美の墓碑
織田信美
生 寛政5年 (1793年)
没 天保7年 (1836年)
出羽高畠藩2代藩主。出羽天童藩初代藩主。1793年(寛政5)7月信浮の9男として生まれる。1810年(文化7)11月将軍徳川家斉に拝謁。1818年(文政元)12月父の死により家督を継ぐ。1836年(天保7)8月4日没。44才。法名「恭徳院殿清巖良義大居士」。
織田信美妻の墓碑
織田信美妻
生 寛政9年 (1797年)
没 文化13年 (1816年)
1797年(寛政9)大村純鎮の3女として生まれる。名は章姫。織田信美に嫁ぐ。1816年(文化13)5月4日没。20才。法名「守節院殿貞室妙璨大姉」。墓石は夫信美の建立による。墓石裏面に信美室、純鎮女、没年、享年などが刻まれている。
織田信良の墓碑
織田信良
生 天正12年 (1584年)
没 寛永3年 (1626年)
上野小幡藩初代藩主。1584年(天正12)信雄の4男として生まれる。母は木造具政の娘。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、父信雄は中立、兄秀雄は西軍に付いたが信良の動向は不明。また大坂の陣のときの動向も不明。父より、上野甘楽郡などで2万石を与えられ小幡藩初代藩主となる。1626年(寛永3)5月17日没。43才。法名「心芳院殿松巌浄清大居士」。
織田信邦の墓碑
織田信邦
生 延享2年 (1745年)
没 天明3年 (1783年)
上野小幡藩7代藩主。1745年(延享2)信栄の4男として生まれる。1764年(明和元)7月小幡藩主織田信富の末期養子として家督を相続。同年8月将軍徳川家治に拝謁。明和事件の影響で1762年(明和4)8月幕府の命により隠居させられる。さらに出羽高畠藩に移封となる。1783年(天明3)7月8日没。39才。法名「淨翁院殿黙巖了然大居士」。墓石裏面では38才没となっている。
織田信長の墓碑
織田信長
生 天文3年 (1534年)
没 天正10年 (1582年)
1534年(天文3)5月信秀の次男として生まれる。尾張一国を統一後、1560年(永禄3)桶狭間で今川義元を討取る。その後、斉藤氏、浅井氏、朝倉氏、武田氏などを滅ぼす。1582年(天正10)6月2日、家臣明智光秀の謀反により死す。49才。法名「總見寺殿贈大相國一品泰巖大居士」。
華岡鹿城の墓碑
華岡鹿城
生 安永8年 (1779年)
没 文政10年 (1827年)
1779年(安永8)直道の4男として生まれる。良平とも。兄に有名な青洲がいる。京都の吉益南涯のもと医学を学ぶ。外科手術を得意として、医師番付で関脇とされる。1827年(文政10)4月28日没。49才。
西尾光教の墓碑
西尾光教
生 天文12年 (1543年)
没 元和元年 (1615年)
美濃揖斐藩初代藩主。1543年(天文12)信光の子として生まれる。斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは岐阜城攻め、大垣城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1615年(元和元)11月19日没。73才。法名「常照院殿宗岳圓光大居士」。
西尾光教妻の墓碑
西尾光教妻
生 不明
没 元和8年 (1622年)
詳細不明。岐阜県揖斐郡揖斐川町の松林寺に夫光教と墓がある。1622年(元和8)8月6日没。法名「常光院殿天香妙喜大姉」。
西尾包教の墓碑
西尾包教
生 寛永18年 (1641年)
没 正徳5年 (1715年)
1641年(寛永18)盛教の長男として生まれる。1652年(承応元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1715年(正徳5)3月16日没。75才。法名「通智院殿性孝全傑大居士」。
西尾嘉教の墓碑
西尾嘉教
生 天正18年 (1590年)
没 元和9年 (1623年)
美濃揖斐藩2代藩主。1590年(天正18)木下吉隆の次男として生まれる。西尾光教の養子となっていた兄教次が亡くなったため、嘉教が養子となる。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。1615年(元和元)跡を継ぐ。1623年(元和9)4月2日没。34才。法名「理禪院殿玄香淨圓大居士」。
西尾忠尚の墓碑
西尾忠尚
生 元禄2年 (1689年)
没 宝暦10年 (1760年)
遠江横須賀藩2代藩主。1689年(元禄2)忠成の4男として生まれる。1696年(元禄9)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1713年(正徳3)7月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を務める。1760年(宝暦10)3月10日没。72才。法名「高風院殿徳巖道樹大居士」。
西尾忠昭妻の墓碑
西尾忠昭妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
竹中重義の娘。西尾忠昭に嫁ぐも子は出来ず。1638年(寛永15)11月26日没。法名「除光院殿簾室明公大姉」。
西尾忠永妻の墓碑
西尾忠永妻
生 不明
没 万治元年 (1658年)
「土浦史備考 第1巻に忠永公奥方」との記載有り。西尾吉次の娘と思われるも詳細不明。1658年(万治元)9月19日没。法名「正壽院殿香誉貞心大姉」。
西尾忠篤の墓碑
西尾忠篤
生 嘉永3年 (1850年)
没 明治43年 (1910年)
遠江横須賀藩8代藩主。1850年(嘉永3)忠受の長男として生まれる。父の死により1861年(文久元)10月跡を継ぐ。戊辰戦争のときは新政府軍に従う。1884年(明治17)7月子爵。1910年(明治43)11月5日没。法名「潤徳院殿深信觀蓮自淨大居士」。
西尾教次の墓碑
西尾教次
生 天正16年 (1588年)
没 慶長13年 (1608年)
1588年(天正16)木下吉隆の長男として生まれる。母方の祖父西尾光教の養子となる。跡を継ぐことなく1608年(慶長13)5月6日没。21才。法名「伊信院殿天廣圓證大居士」。
西尾教次妻の墓碑
西尾教次妻
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
詳細不明。岐阜県揖斐郡揖斐川町の長源寺に夫教次と墓がある。1611年(慶長16)4月15日没。法名「清心院殿常林壽永大姉」。
西尾盛教の墓碑
西尾盛教
生 元和7年 (1621年)
没 万治元年 (1658年)
1621年(元和7)氏教の長男として生まれる。父の死により1633年(寛永10)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月7日没。38才。法名「善致院殿塞外道勇居士」。墓石には「十一月六日」とある。
里見忠義の墓碑
里見忠義
生 文禄3年 (1594年)
没 元和8年 (1622年)
安房館山藩2代藩主。1594年(文禄3)義康の長男として生まれる。父の死により1603年(慶長8)跡を継ぐ。1606年(慶長11)将軍徳川秀忠の御前で元服、1字を賜り忠義と名乗る。1614年(慶長19)大久保忠隣事件に連座して改易。1622年(元和8)6月19日没。29才。法名「雲晴院殿心叟賢涼大居士」。墓石は33回忌の1654年(承応3)6月19日建立による。
里見忠義妻の墓碑
里見忠義妻
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
大久保忠常の娘。里見忠義に嫁ぎ、木下延由妻の1女を儲ける。(2女儲けた説有り)忠義が没すると、弟の大久保忠職のもとに戻る。1655年(明暦元)8月晦日没。法名「桃源院殿仙應妙壽大禅定尼」。墓石は、1661年(万治4)7回忌の建立による。
金田徳光の墓碑
金田徳光
生 文久3年 (1863年)
没 大正8年 (1919年)
1863年(文久3)9月和田徳平の子として生まれる。堺の鉄工所に奉公していたとき主人の影響により弘法大師に信仰を持つようになる。修行を重ね1912年(大正元)御嶽教徳光大教会を設立し教祖となる。1919年(大正8)1月4日没。57才。諡号「天人海瑠璃彦命」。
井伊直経妻の墓碑
井伊直経妻
生 不明
没 安政5年 (1858年)
松平信志の娘。墓石に「紀伊守信忠妾腹娘」とあり信忠は信志に該当する。1828年(文政11)6月井伊直経に嫁ぐ。1858年(安政5)3月25日没。法名「淨信院殿天壽妙長大姉」。
京極高之妻の墓碑
京極高之妻
生 不明
没 正徳6年 (1716年)
脇坂安村の娘。脇坂安照養女として京極高之に嫁ぐ。高之との間に、鍋之助を儲ける。1716年(正徳6) 4月23日没。法名「受教院殿妙榮自證大姉」。
有馬清純妻の墓碑
有馬清純妻
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
脇坂安政の娘。母は松平康映の娘。1678年(延宝6)6月10日有馬清純に嫁ぐ。清純との間に子は出来ず。1692年(元禄5)6月21日没。法名「慈光院殿玉岑圓明大姉」。
松平信利の墓碑
松平信利
生 万治2年 (1659年)
没 延宝4年 (1676年)
丹波篠山藩3代藩主。1659年(万治2)典信の次男として生まれる。1667年(寛文7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1673年(延宝元)1月跡を継ぐ。1676年(延宝4)11月28日没。18才。法名「淨光院殿徹信法誉源受居士」。墓石は「施主孝子松平九十郎政信建」とあり跡を継いだ弟信庸(信建)の建立による。
松平信志妻の墓碑
松平信志妻
生 不明
没 文政7年 (1824年)
松平信志に嫁ぎ、信豪、鏞次郎を儲ける。信豪の母は妾腹とあるので身分が低い女性と思われる。1824年(文政7)6月10日没。法名「瑶光院殿鏡譽月珊宜仙大姉」。墓石は息子英之助信豪の建立による。
松平典信の墓碑
松平典信
生 寛永6年 (1629年)
没 寛文12年 (1672年)
丹波篠山藩2代藩主。1629年(寛永6)康信の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)9月跡を継ぐ。1672年(寛文12)11月20日没。44才。法名「忠岸院殿松誉源榮居士」。
松平典信妻の墓碑
松平典信妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
板倉重宗の娘。松平典信に嫁ぎ、松平光永妻、板倉重郷養女、戸田重恒妻、松平忠充妻、信利、松平氏辰妻、真田信音妻、信庸、永井直敬妻、松平近禎妻の2男8女を儲ける。1670年(寛文10)3月5日没。法名「専稱院殿長譽榮春大姉」。
松平家信の墓碑
松平家信
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永15年 (1638年)
1565年(永禄8)家忠の長男として生まれる。徳川家康に仕え、信州高島城攻め、小牧長久手の戦い、九戸一揆に参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城留守居役。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは病により息子康信を代わりに出陣させる。1638年(寛永15)1月14日没。74才。法名「常立院殿上誉露雪居士」。
松平康信の墓碑
松平康信
生 慶長5年 (1600年)
没 天和2年 (1682年)
丹波篠山藩初代藩主。1600年(慶長5)家信の次男として生まれる。1609年(慶長14)将軍徳川秀忠に拝謁。大坂冬の陣では井上正就に属し、夏の陣では徳川頼宣に属して参戦。父の死により1638年(寛永15)5月跡を継ぐ。1649年(慶安2)7月加増移封により丹波篠山藩主となる。1682年(天和2)6月13日没。83才。法名「大安院殿徳誉道悟別峯大居士」。
松平氏信の墓碑
松平氏信
生 慶長18年 (1613年)
没 天和3年 (1683年)
1613年(慶長18)家信の4男として生まれる。1635年(寛永12)11月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)9月徳川家綱付きとなる。1677年(延宝5)4月隠居。1683年(天和3)6月16日没。71才。法名「覺凉院殿菴窓道頓居士」。墓石は3男氏辰の建立による。
松平氏信妻の墓碑
松平氏信妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
久貝正世の娘。松平氏信に嫁ぎ、氏清、氏辰を儲ける。1685年(貞享2)5月26日没。法名「長昌院殿栄譽転壽大姉」。墓石は息子氏辰の建立による。
松平照信の墓碑
松平照信
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
康信の次男。1656年(明暦2)12月将軍徳川家綱に拝謁。松平重信の養子となりその娘を妻とする。1662年(寛文2)2月13日没。法名「勝譽資建居士」。
福原元僴の墓碑
福原元僴
生 文化12年 (1815年)
没 元治元年 (1864年)
1815年(文化12)8月毛利広鎮の6男として生まれる。1851年(嘉永4)毛利家の家老になったときに福原家の家督を継ぐ。尊王攘夷派で、禁門の変のときに総大将を務める。幕府による第1次長州征伐が起こると、国司親相、益田親施とともに責任を取らせられ死罪となる。元僴は1864年(元治元)11月12日岩国の龍護寺で自害。50才。法名「隆文院殿頣堂全忠大居士」。
福原元貞の墓碑
福原元貞
生 宝永5年 (1708年)
没 元文6年 (1741年)
1708年(宝永5)益田就賢の次男として生まれる。福原広泰の養子となり、1725年(享保10)6月跡を継ぐ。1741年(元文6)3月15日没。34才。法名「光宅院殿天寧崇祐大居士」。墓石は半分に割れており、手前の上部に「光宅・・」等が見え、奥の下部には「・・祐居士」等が見える。
福原元貞妻の墓碑
福原元貞妻
生 正徳2年 (1712年)
没 明和9年 (1772年)
1712年(正徳2)福原元房の娘として生まれる。福原元貞に嫁ぎ、広門を儲ける。1772年(明和9)9月2日没。61才。法名「心鏡院殿瑞雲貞性大姉」。
福原就俊の墓碑
福原就俊
生 不明
没 正保2年 (1645年)
元俊の子。父に先立ちて1645年(正保2)11月21日没。法名「暁雲院殿智光圓實居士」。家系に「未受譲先父卒」とあることから、嫡男だったが家督を継ぐ前に亡くなる。跡は弟広俊が継ぐ。
福原就清妻の墓碑
福原就清妻
生 宝暦10年 (1760年)
没 文政6年 (1823年)
1760年(宝暦10)毛利広豊の娘として生まれる。福原就清の後室として嫁ぎ、少輔三郎の1男を儲ける。1823年(文政6)7月2日没。64才。法名「錬功院殿霞山養眞大姉」。
福原広泰妻の墓碑
福原広泰妻
生 不明
没 享保10年 (1725年)
毛利就久の娘。福原広泰に嫁ぐ。広泰との間に子は出来ず。1725年(享保10)4月23日没。法名「玉龍院殿翆雲眞光大姉」。
福原熙賢妻の墓碑
福原熙賢妻
生 文化8年 (1811年)
没 慶応元年 (1865年)
1811年(文化8)毛利広鎮の4女として生まれる。福原熙賢に嫁ぎ、親俊、女子の1男1女を儲ける。1865年(慶応元)7月10日没。55才。法名「真相院殿貞巖茂松大姉」。
福原親俊の墓碑
福原親俊
生 天保4年 (1833年)
没 安政5年 (1858年)
1833年(天保4)熙賢の長男として生まれる。父の死により1836年(天保7)跡を継ぐ。長州藩主毛利慶親より1字を賜い親俊と名乗る。1858(安政5)8月4日没。26才。法名「好謙齋道光宗貴居士」。
脇坂安元の墓碑
脇坂安元
生 天正12年 (1584年)
没 承応2年 (1653年)
信濃飯田藩初代藩主。1584年(天正12)3月安治の次男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは父とともに西軍に属するも、戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1617年(元和3)信濃飯田藩主となる。1653年(承応2)12月3日没。70才。法名「八雲院殿藤享安元大居士」。
脇坂安元妻の墓碑
脇坂安元妻
生 不明
没 明暦3年 (1657年)
石河光元の長女。脇坂安元に嫁ぐ。1657年(明暦3)8月1日没。法名「慶光院殿受譽榮久大姉」。墓石は1671年(寛文11)4月1日安元の養子安政(安吉)の建立による。
脇坂安政の墓碑
脇坂安政
生 寛永10年 (1633年)
没 元禄7年 (1694年)
播磨龍野藩初代藩主。1633年(寛永10)堀田正盛の次男として生まれる。1640年(寛永17)8月脇坂安元の養子となる。同年11月将軍徳川家光に拝謁。安元の死により1654年(承応3)3月跡を継ぐ。1672年(寛文12)5月移封により播磨龍野藩主となる。1694年(元禄7)4月20日没。62才。法名「東陽院大禅如水居士」。
脇坂安政妻の墓碑
脇坂安政妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
今井総十郎の娘。脇坂安政に嫁ぎ、伝次郎、加藤泰恒妻の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月9日没。法名「周光院殿堅譽妙清大信女」。