戸田氏英の墓碑
戸田氏英
生 享保14年 (1729年)
没 明和5年 (1768年)
美濃大垣藩6代藩主。1729年(享保14)12月氏長の次男として生まれる。1735年(享保20)10月父の死により跡を継ぐ。1740年(元文5)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1768年(明和5)4月23日没。40才。法名「崇眞院殿徳譽興善大居士」。
戸田氏西の墓碑
戸田氏西
生 寛永4年 (1627年)
没 貞享元年 (1684年)
美濃大垣藩3代藩主。1627年(寛永4)11月氏信の長男として生まれる。1671年(寛文11)家督を継ぐ。家臣の首切りや藩財政の立て直しのための節約などの藩政改革を行うも成功はしなかった。1684年(貞享元)6月7日没。58才。法名「高稱院殿清譽江自大居士」。
戸田氏西妻の墓碑
戸田氏西妻
生 不明
没 元禄16年 (1703年)
内藤忠政の娘。戸田氏西に嫁ぎ、氏定、氏成の2男を儲ける。 1703年(元禄16)12月23日没。法名「貞凉院殿光誉理教法雲大姉」。
戸田氏鉄の墓碑
戸田氏鉄
生 天正4年 (1576年)
没 承応4年 (1655年)
美濃大垣藩初代藩主。1576年(天正4)3月一西の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。大坂の両陣のときは居城である近江膳所城を守る。戦後、摂津尼崎5万石を与えられ、1635年(寛永12)7月に美濃大垣10万石へ加増移封。1655年(承応4)2月14日没。80才。法名「覺岸院殿長誉常閑大居士」。墓石は息子氏信の建立による。
戸田氏鉄妻の墓碑
戸田氏鉄妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
戸田康長の娘。母は徳川家康の異父妹松姫。戸田氏鉄に嫁ぎ、板倉重宗妻、氏信、本多正勝妻、氏経、松平忠国妻、頼鉄、氏照、利鉄の5男2女を儲ける。1654年(承応3)12月23日没。「心譽壽栄大姉」。
戸田氏長の墓碑
戸田氏長
生 貞享4年 (1687年)
没 享保20年 (1735年)
美濃大垣藩5代藩主。1687年(貞享4)11月氏定の次男として生まれる。1697年(元禄10)11才のときに徳川綱吉に拝謁。1723年(享保8)4月父が職を辞したため跡を継ぐ。1735年(享保20)8月10日没。49才。法名「享澤院殿乾誉徹元大居士」。
松平定信の墓碑
松平定信
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政12年 (1829年)
陸奥白河藩3代藩主。1758年(宝暦8)12月徳川宗武の7男として生まれる。1774年(安永3)3月松平定邦の養子となりその娘を妻とする。1775年(安永4)閏12月将軍徳川家治に拝謁。11代将軍徳川家斉のもとで老中首座を務め「寛政の改革」を行う。1829年(文政12)5月13日没。72才。法名「守國院殿崇蓮社天誉保徳樂翁大居士」。
松平忠吉妻の墓碑
松平忠吉妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
井伊直政の長女。徳川家康の4男松平忠吉に嫁ぐ。忠吉との間に、梅貞大童子の1男を儲ける。忠吉没後は実家に戻る。1627年(寛永4)9月28日没。法名「清泉院殿覚窓榮正大姉」。
松平忠敏の墓碑
松平忠敏
生 寛文12年 (1672年)
没 元禄8年 (1695年)
1672年(寛文12)忠継の長男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父の忠継が病弱のため、祖父忠倶の跡継ぎとなるも、1695年(元禄8)12月7日没。24才。法名「心源院殿蓮譽寂然道法大居士」。
松村監物の墓碑
松村監物
生 不明
没 寛永10年 (1633年)
堀尾家の家臣。主君堀尾忠晴が1633年(寛永10)9月24日に没すると2日後の26日に殉死。法名「大恕玄忠居士」。
水野勝種の墓碑
水野勝種
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄10年 (1697年)
備後福山藩4代藩主。1661年(寛文元)5月勝貞の長男として生まれる。1663年(寛文3)父の死により3才で家督を継ぐ。1668年(寛文8)9月将軍徳川家綱に拝謁。1697年(元禄10)8月23日没。37才。法名「萬輝院殿忠嶽全功大居士」。
水野勝貞妻の墓碑
水野勝貞妻
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
野瀬氏。水野勝貞の妻となり、女子、勝種の1男1女を儲ける。1679年(延宝7)7月2日没。法名「永久院殿」。墓石に「水野美作守勝慶之母堂」とあり勝慶とは勝種の前名である。
石川廉勝妻の墓碑
石川廉勝妻
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
堀尾忠晴の娘。石川宗十郎廉勝に嫁ぎ憲之を儲ける。1634年(寛永11)4月27日没。法名「法光院殿全心玄貞大姉」。墓石施主は夫石川宗十郎とある。
大道寺為久の墓碑
大道寺為久
生 寛永2年 (1625年)
没 延宝2年 (1674年)
1625年(寛永2)津軽信枚の子として生まれる。1640年(寛永17)大道寺直秀の娘と婚姻、家督を継ぐ。1647年(正保4)兄で藩主津軽信義を隠居させようとするも失敗、蟄居となる。のち許され家老職となる。1674年(延宝2)2月23日没。50才。法名「圓通院殿盛叟英堅巨居士」。
大道寺繁清の墓碑
大道寺繁清
生 明暦3年 (1657年)
没 元禄14年 (1701年)
1657年(明暦3)為久の子として生まれる。津軽信政に仕え家老職。妻は主君信政の妹。1701年(元禄14)8月27日没。45才。法名「眞乗院殿湛然無怕居士」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
大道寺繁清妻の墓碑
大道寺繁清妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
津軽信義の娘。伊与。大道寺繁清に嫁ぎ、直聴を儲ける。1701年(元禄14)2月4日没。法名「慶壽院殿徳窓妙善大姉」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
津軽信寧の墓碑
津軽信寧
生 元文2年 (1737年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥弘前藩7代藩主。1737年(元文2)信著の長男として生まれる。1753年(宝暦3)2月将軍徳川家重に拝謁。1784年(天明4)閏1月2日没。48才。法名「戒香院殿梅溪常薫大居士」。
津軽信明の墓碑
津軽信明
生 宝暦10年 (1760年)
没 寛政3年 (1791年)
陸奥弘前藩8代藩主。1760年(宝暦10)信寧の長男として生まれる。1766年(安永5)3月将軍徳川家治に拝謁。1784年(天明4)2月父の死により跡を継ぐ。天明の大飢饉により財政は悪化したため、藩内の改革を行う。1791年(寛政3)7月6日没。32才。法名「體孝院殿眞境普照大居士」。
津軽信義の墓碑
津軽信義
生 元和5年 (1619年)
没 明暦元年 (1655年)
陸奥弘前藩3代藩主。1619年(元和5)1月信枚の長男として生まれる。母は石田三成の3女辰姫。1631年(寛永8)父の死により跡を継ぐ。同年4月将軍徳川家光に拝謁。信義を強制隠居させる正保の騒動が起き、一族や家臣を粛清。1655年(明暦元)11月25日没。37才。法名「桂光院殿雪峯宗瑞大居士」。
津軽信順の墓碑
津軽信順
生 寛政12年 (1800年)
没 文久2年 (1862年)
陸奥弘前藩10代藩主。1800年(寛政12)3月寧親の次男として生まれる。1811年(文化8)1月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月父の隠居により跡を継ぐ。放蕩三昧な藩主のため家老高倉盛隆が諫死するも効果がなく、また素行が悪いため幕府から逼塞処分を受ける。1862年(文久2)10月14日没。63才。法名「寛廣院殿深達了義大居士」。
津軽寧親の墓碑
津軽寧親
生 明和2年 (1765年)
没 天保4年 (1833年)
陸奥弘前藩9代藩主。1765年(明和2)1月著高の長男として生まれる。1778年(安永7)5月黒石津軽家の家督を継ぐ。1791年(寛政3)8月本家藩主津軽信明が死去したため、本家の跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月に隠居。以後は俳句に没頭。1833年(天保4)6月14日没。69才。法名「上仙院殿権大僧都桃翁舜訽」。
津軽為信の墓碑
津軽為信
生 天文19年 (1550年)
没 慶長12年 (1607年)
陸奥弘前藩初代藩主。1550年(天文19)1月大浦守信の子として生まれる。南部氏より独立をして、豊臣秀吉に従う。1590年(天正18)秀吉の北条攻めのときは駿河国まで赴き、本領安堵の朱印を賜う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには徳川家康に味方。1607年(慶長12)12月5日没。58才。法名「瑞祥院殿天室梁棟大居士」。
津軽為信妻の墓碑
津軽為信妻
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
大浦為則の娘。名は阿保良、戌姫、お福。1567年(永禄10)津軽為信に嫁ぐ。為信の間に子は出来なかった。1628年(寛永5)4月29日没。法名「仙洞院殿即庵貞心大姉」。
津軽為信娘の墓碑
津軽為信娘
生 不明
没 元和8年 (1622年)
津軽為信の娘。信枚の妹。1622年(元和8)9月23日没。法名「東泉院殿清光恵林大姉」。墓石に「津輕越中守殿為御妹也」とある。青森県弘前市の貞昌寺にも墓がある。
津軽為永の墓碑
津軽為永
生 承応3年 (1654年)
没 延宝4年 (1676年)
1654年(承応3)信義の子として生まれる。親族の津軽為節の養子となり、1672(寛文12)19才のときに家督を継ぐ。1676年(延宝4)4月28日没。23才。法名「真性院殿繁庵常昌大居士」。
津軽順承の墓碑
津軽順承
生 寛政12年 (1800年)
没 元治2年 (1865年)
陸奥弘前藩11代藩主。1800年(寛政12)1月大河内信明の3男として生まれる。1821年(文政4)6月黒石藩津軽親足の養子となる。1839年(天保10)5月弘前藩主信順の隠居に伴い跡を継ぐ。1859年(安政6)2月隠居して俳句を楽しみ、梅翁という俳号を名乗る。1865年(元治2)2月5日没。66才。法名「政徳院殿修道幻光大居士」。
亀井政直妻の墓碑
亀井政直妻
生 正保2年 (1645年)
没 寛文3年 (1663年)
1645年(正保2)山内忠直の娘として生まれる。山内忠豊の養女となり亀井政直に嫁ぐ。1663年(寛文3)6月20日没。(19日説有)19才。法名「淨照院殿鏡室清光大姉」。墓石は1周忌の1664年(寛文4)6月20日に建立による。
五島盛尚の墓碑
五島盛尚
生 元禄8年 (1695年)
没 明和5年 (1768年)
肥前富江領3代領主。1695年(元禄8)盛朗の長男として生まれる。1711年(正徳元)4月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1726年(享保11)10月跡を継ぐ。1765年(明和2)12月隠居。1768年(明和5)3月2日没。74才。法名「大乗院殿頊明良圓大居士」。
五島盛峰の墓碑
五島盛峰
生 享保11年 (1726年)
没 安永2年 (1773年)
肥前富江領4代領主。1726年(享保11)盛尚の長男として生まれる。1752年(宝暦2)12月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1765年(明和2)12月跡を継ぐ。1773年(安永2)4月4日没。48才。法名「雄安院殿㯮禪良峯大居士」。
五島盛恭の墓碑
五島盛恭
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政元年 (1789年)
肥前富江領5代領主。1754年(宝暦4)盛道の4男として生まれる。1772年(安永元)12月将軍徳川家治に拝謁。時期は不明だが五島盛峰の養子となっており、1773年(安永2)7月盛峰の死により跡を継ぐ。1789年(寛政元)7月29日没。36才。法名「單傳院殿直心良機大居士」。墓石は息子兵次郎運龍の建立による。
五島盛朗の墓碑
五島盛朗
生 延宝5年 (1677年)
没 享保11年 (1726年)
肥前富江領2代領主。1677年(延宝5)盛清の長男として生まれる。父の死により1679年(延宝7)12月3才で跡を継ぐ。1683年(天和3)8月将軍徳川家綱に拝謁。1726年(享保11)7月18日没。50才。法名「瑞雲寺殿常山良真大居士」。墓石は息子修理盛尚の建立による。
五島運龍の墓碑
五島運龍
生 安永9年 (1780年)
没 天保15年 (1844年)
肥前富江領6代領主。1780年(安永9)盛恭の子として生まれる。父の死により1789年(寛政元)11月跡を継ぐ。1795年(寛政7)12月将軍徳川家斉に拝謁。1844年(天保15)9月6日没。65才。法名「瑞鳳院殿恭運良興大居士」。
伊達周宗の墓碑
伊達周宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文化6年 (1809年)
陸奥仙台藩9代藩主。1796年(寛政8)3月斉村の長男として生まれる。同年4月に祖父重村、同年7月父斉村が死去したため1才未満で跡を継ぐ。同時に将軍徳川家斉の3女綾姫と婚約。綾姫が没したため1806年(文化3)家斉の11女浅姫と婚約。1812年(文化9)2月疱瘡のため家督を弟斉宗に譲る。結婚することも将軍に拝謁することもなく同年4月24日没。17才。法名「青龍院殿紹山隆公大居士」。実際には、1809年(文化6)1月4日に14才で没してたらしい。
伊達宗信の墓碑
伊達宗信
生 慶長8年 (1603年)
没 寛永4年 (1627年)
1603年(慶長8)政宗の6男として生まれる。幼名吉松丸。1627年(寛永4)8月8日没。25才。法名「高照院殿外天洞雲大居士」。
伊達宗倫の墓碑
伊達宗倫
生 寛永17年 (1640年)
没 寛文10年 (1670年)
1640年(寛永17)4月忠宗の5男として生まれる。兄の五郎吉が登米伊達家を継いでいたが没したため宗倫が継ぐ。領内の新田開発を行い石高は上がったが、涌谷伊達家の宗重と領地の境界線問題で争うこととなる。1670年(寛文10)2月10日没。31才。法名「高臺院殿天山宗清大禅定門」。墓石は1682年(天和2)養子の大蔵村直が13回忌に建立。
伊達宗倫妻の墓碑
伊達宗倫妻
生 寛永15年 (1638年)
没 延宝5年 (1677年)
1638年(寛永15)白石宗貞の2女として生まれる。伊達宗倫に嫁ぐ。 1677年(延宝5)7月15日没。40才。法名「霊光院殿桂臺裔中大姉」。墓石は宗倫の養子の大蔵村直が1682年(天和2)7回忌に建立。(ただし7回忌だと延宝6年没となる)
伊達宗高の墓碑
伊達宗高
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永3年 (1626年)
1607年(慶長12)政宗の7男として生まれる。1626年(寛永3)閏4月徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。1626年(寛永3)8月17日没。20才。法名「龍島院殿涼山英清大居士」。家臣10人が殉死している。
伊達斉宗の墓碑
伊達斉宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文政2年 (1819年)
陸奥仙台藩10代藩主。1796年(寛政8)9月斉村の次男として生まれる。1812年(文化9)兄周宗の隠居(実は周宗は没していた)により家督を継ぐ。1819年(文政2)5月24日没。24才。法名「廣徳院殿英山元高大居士」。
伊達斉村の墓碑
伊達斉村
生 安永3年 (1774年)
没 寛政8年 (1796年)
陸奥仙台藩8代藩主。1774年(安永3)12月重村の次男として生まれる。1787年(天明7)将軍徳川家斉から1字を与えられ斉村と名乗る。1790年(寛政2)父の隠居により家督を相続。1796年(寛政8)7月27日没。23才。法名「永慶院殿桂山蘭榮大居士」。幕府には相続の都合で8月12日死去と届けている。
伊達斉義の墓碑
伊達斉義
生 寛政10年 (1798年)
没 文政10年 (1827年)
陸奥仙台藩11代藩主。1798年(寛政10)3月田村村資の4男として生まれる。1819年(文政2)4月仙台藩主伊達斉宗が亡くなったときに、斉宗娘と婚約して婿養子という形で藩主となる。同年8月将軍徳川家斉に拝謁。1827年(文政10)11月27日没。30才。法名「曹源院殿正山榮因大居士」。
伊達斉邦の墓碑
伊達斉邦
生 文化14年 (1817年)
没 天保12年 (1841年)
陸奥仙台藩12代藩主。1817年(文化14)9月宗充の長男として生まれる。1827年(文政10)1月仙台藩主斉義の婿養子となる。1828年(文政11)斉義の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)7月24日没。25才。法名「慈雲院殿龍山真珠大居士」。
伊達輝宗の墓碑
伊達輝宗
生 天文13年 (1544年)
没 天正13年 (1585年)
1544年(天文13)9月晴宗の次男として生まれる。1565年(永禄8)父の隠居により家督を継ぐ。家中をまとめ、遠藤基信を登用して外交を行わせる。1585年(天正13)10月8日陸奥二本松城主畠山義継が降伏後、輝宗の居城に訪れたときに義継と家臣に拉致される。二本松領付近まできたときに、味方の伊達勢に撃たれて義継共々死亡。法名「覚範寺殿性山受心大居士」。
伊達輝宗妻の墓碑
伊達輝宗妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
最上義守の娘として生まれる。名は義姫。伊達輝宗に嫁ぎ、政宗、小次郎、女、女の2男2女を儲ける。1588年(天正16)息子政宗と兄義光が合戦となると、戦場に輿で乗り込み両軍の停戦を行う。1594年(文禄3)伊達家から出奔して、実家の最上家に戻る。1622年(元和8)に最上家が改易となると仙台の政宗を頼る。1623年(元和9)7月17日没。法名「花窓久栄尼大姉」。墓石は逆修塔。
奥山兼清の墓碑
奥山兼清
生 元亀2年 (1571年)
没 元和2年 (1616年)
1571年(元亀2)目々沢常基の長男として生まれる。伊達政宗に仕え、人取橋の戦いや朝鮮出兵に従う。大坂の陣にも参戦。夏の陣の道明寺の戦いでは首を取る活躍をする。1616年(元和2)2月6日没。46才。墓石に「奥刕政宗内奥山出羽守為兼清・・」と没年月日が刻まれている。享年は40才の説もある。
山内一豊の墓碑
山内一豊
生 天文14年 (1545年)
没 慶長10年 (1605年)
土佐藩初代藩主。1545年(天文14)盛豊の3男として生まれる。豊臣秀吉に仕え姉川の戦い、播磨三木城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に従い、戦後土佐国を与えられる。1605年(慶長10)9月20日没。61才。法名「大通院殿心峯宗傳大居士」。
山内忠直の墓碑
山内忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文7年 (1667年)
土佐中村藩初代藩主。1613年(慶長18)9月忠義の次男として生まれる。1656年(明暦2)父の隠居の際、土佐中村にて3万石を与えられる。1667年(寛文7)6月9日没。55才。法名「顕徳院殿傑岩宗英大居士」。
山内忠義妻の墓碑
山内忠義妻
生 文禄4年 (1595年)
没 寛永9年 (1632年)
1595年(文禄4)松平定勝の次女として生まれる。名は阿姫。1605年(慶長10)徳川家康の養女として山内忠義に嫁ぐ。忠義との間に、忠豊、松下長綱妻、忠直の2男1女を儲ける。1632年(寛永9)2月13日没。38才。法名「光照院殿泰譽皓月大姉」。
島津綱久の墓碑
島津綱久
生 寛永9年 (1632年)
没 寛文13年 (1673年)
1632年(寛永9)4月光久の長男として生まれる。1651年(慶安4)将軍徳川家綱より一字を賜り綱久と名乗る。1673年(寛文13)2月19日父に先立ちて没。42才。法名「泰清院殿關山良無大居士」。
川勝広有の墓碑
川勝広有
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文13年 (1673年)
1631年(寛永8)広尚の子として生まれる。1644年(正保元)14才のとき徳川家光に拝謁。小姓組、西城御書院番士、奉行などを務める。1673年(寛文13)9月3日没。43才。法名「寂照院殿桂岸蒼秋居士」。
白石宗貞の墓碑
白石宗貞
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永21年 (1644年)
1597年(慶長2)宗直の長男として生まれる。登米伊達家2代当主。伊達政宗、忠宗に仕える。父宗直は伊達姓を許されたものの政宗の勘気を被り伊達姓を剥奪されていたが、1640年(寛永17)藩主忠宗より宗貞に再び伊達姓を与えられる。1644年(寛永21)4月11日没。48才。法名「長秀院殿茂林昌繁大居士」。墓石施主は長女の夫で養子となった五郎吉。