本多俊政の墓碑
本多俊政
生 不明
没 慶長15年 (1610年)
利久の長男。豊臣秀長、秀保に仕える。秀保死後、豊臣秀吉の直臣となり紀州で代官を務める。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付く。その時、俊政が不在であった居城高取城が西軍に攻められたが家臣だけで守り通す。1610年(慶長15)閏2月8日没。法名「利生院殿月秀阿春大禅定門」。
本多忠栄の墓碑
本多忠栄
生 享保8年 (1723年)
没 安永7年 (1778年)
三河西端領5代領主。1723年(享保8)忠統の4男として生まれる。1742年(寛保2)8月将軍徳川吉宗に拝謁。本多忠敝の養子となり、忠敝の死により1745年(延享2)12月跡を継ぐ。1778年(安永7)10月20日没。56才。法名「心光院殿本譽寂然常照大居士」。他数名の法名もあるが、詳細不明。
松平勝隆の墓碑
松平勝隆
生 天正17年 (1589年)
没 寛文6年 (1666年)
上総佐貫藩初代藩主。1589年(天正17)重勝の5男として生まれる。徳川家康の家臣鳥居元忠のもとで成長する。1610年(慶長15)家康に拝謁。その後家康に仕え、大番頭。大坂の両陣に従う。1666年(寛文6)2月3日没。78才。法名「本誓院殿然誉覚雲大居士」。
松平忠刻妻の墓碑
松平忠刻妻
生 享保11年 (1726年)
没 享和元年 (1801年)
1726年(享保11)酒井忠寄の娘として生まれる。松平忠刻に嫁ぐ。忠刻との間に子は出来ず。1801年(享和元)7月16日没。76才。法名「清暁院殿法巖栄身尼大姉」。
松平忠功の墓碑
松平忠功
生 宝暦6年 (1756年)
没 文政13年 (1830年)
奥平松平家6代当主。伊勢桑名藩4代藩主。1756年(宝暦6)徳川宗将の6男として生まれる。1783年(天明3)松平忠啓の養子となり、その娘を妻とする。忠啓の死により1787年(天明7)1月跡を継ぐ。同年2月将軍徳川家斉に拝謁。1830年(文政13)7月29日没。75才。法名「大乗院殿融明慈證大居士」。
松平忠和の墓碑
松平忠和
生 宝暦9年 (1759年)
没 享和2年 (1802年)
奥平松平家7代当主。伊勢桑名藩5代藩主。1759年(宝暦9)8月紀州藩主徳川宗将の9男として生まれる。1793年(寛政5)9月異母兄で桑名藩主松平忠功の養子となる。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。同月忠功の隠居により跡を継ぐ。1802年(享和2)5月10日没。44才。法名「遊心院殿無擬了空大居士」。
松平忠堯妻の墓碑
松平忠堯妻
生 文化2年 (1805年)
没 天保12年 (1841年)
1805年(文化2)伏見宮貞敬親王の第2王女として生まれる。韶子女王。松平忠堯に嫁ぐ。1841年(天保12)6月27日没。37才。法名「寶雲院殿奇峯妙麗大姉」。
松平忠堯の墓碑
松平忠堯
生 享和元年 (1801年)
没 元治元年 (1864年)
奥平松平家9代当主。武蔵忍藩初代藩主。1801年(享和元)6月忠翼の長男として生まれる。父の死により1821年(文政4)伊勢桑名藩主を継ぐ。1823年(文政6)3月三方領知替えにより武蔵忍藩主となる。1864年(元治元)8月14日没。64才。法名「大休院殿仙翁道間大居士」。
松平忠張の墓碑
松平忠張
生 享保5年 (1720年)
没 元文3年 (1738年)
1720年(享保5)忠雅の長男として生まれる。1734年(享保19)10月将軍徳川吉宗に拝謁。跡を継ぐことなく1738年(元文3)4月19日没。19才。法名「乾龍院殿圓應元通大居士」。
松平忠彦の墓碑
松平忠彦
生 文化2年 (1805年)
没 天保12年 (1841年)
奥平松平家10代当主。武蔵忍藩2代藩主。1805年(文化2)9月忠翼の3男として生まれる。兄忠堯の養子となり、1838年(天保9)兄の隠居により家督を継ぐ。1841年(天保12)3月27日没。37才。法名「惇宗院殿道嶽功顯大居士」。墓石は弟忠国の建立による。
松平忠雅妻の墓碑
松平忠雅妻
生 貞享4年 (1687年)
没 元文2年 (1737年)
1687年(貞享4)4月毛利綱広の娘として生まれる。名は類子。松平忠雅に嫁ぎ、女子、忠張の1男1女を儲ける。1737年(元文2)3月25日没。51才。法名「淨徳院殿仁相智好大姉」。
松平重勝の墓碑
松平重勝
生 天文18年 (1549年)
没 元和6年 (1620年)
1549年(天文18)重吉の4男として生まれる。徳川家康に従い、長篠、長久手の戦いに従う。のち、家康の6男忠輝の家老となり、越後にて2万石を領した。忠輝が罪を犯し蟄居となると、秀忠に仕え下総関宿にて2万6千石を賜る。1619年(元和5)遠江横須賀に移り、駿府城の城代を兼務する。1620年(元和6)12月14日没。72才。法名「松岳院殿雄譽助白大禅定門」。
松平重治の墓碑
松平重治
生 寛永19年 (1642年)
没 貞享2年 (1685年)
上総佐貫藩2代藩主。1642年(寛永19)品川高如の次男として生まれる。1652年(承応元)6月松平勝隆の養子となる。1662年(寛文2)9月勝隆の隠居により家督を継ぐ。1684年(貞享元)11月幕府の掟を破り不当な所為を理由に改易。会津にお預かりとなる。1685年(貞享2)8月2日没。44才。法名「松統院殿住誉安山心蓮大居士」。
松平頼渡妻の墓碑
松平頼渡妻
生 不明
没 享保21年 (1736年)
松平忠雅の娘。1726年(享保11)9月松平頼渡に嫁ぎ、幸姫、成姫、頼邑の1男2女を儲ける。1736年(享保21)1月19日没。法名「霊心院殿天室慈明大姉」。
福島正之の墓碑
福島正之
生 天正13年 (1585年)
没 慶長6年 (1601年)
1585年(天正13)別所重宗の7男として生まれる。福島正則(母の弟または兄)の養子となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。1608年(慶長13)没したと伝えられてるも、三原市宗光寺過去帳に慶長六年五月五日没、藝藩通志に「慶長辛丑(1601年)、沒す」とあり、墓石には1601年(慶長6)4月5日没、とある。おそらく墓石が正しいと思われる。法名「宗光寺殿天英宗光大禅定門」。
秋月種春妻の墓碑
秋月種春妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
佐久間勝之の娘。1662年(寛文2)12月秋月種春に嫁ぎ、六條有縄妻(離縁)、種信、女子、半之丞の2男2女を儲ける。1660年(万治3)12月28日没。法名「龍海院殿心月珠泉大姉」。墓石は1周忌に息子種信の建立による。
秋月種美妻の墓碑
秋月種美妻
生 不明
没 宝暦7年 (1757年)
黒田長貞の次女。秋月種美に嫁ぎ、種茂、女子、亀三郎の2男1女を儲ける。1757年(宝暦7)6月9日没。法名「心華院殿明巖玄珠大姉」。墓石は夫種美の建立による。
秋田俊季の墓碑
秋田俊季
生 慶長3年 (1598年)
没 慶安2年 (1649年)
陸奥三春藩初代藩主。1598年(慶長3)実季の長男として生まれる。大坂の両陣に父とともに参戦。1630年(寛永7)に父が幕府により蟄居を命じられると、常陸宍戸藩5万石を継ぐ。1645年(正保2)陸奥三春藩に5万千石で加増移封となる。1649年(慶安2)1月3日没。52才。法名「真如院殿実岩常固大居士」。
秋田俊季妻の墓碑
秋田俊季妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
松平信吉の娘。秋田俊季に嫁ぎ、盛季、季久、新庄直長妻、植村忠朝妻の2男2女を儲ける。1660年(万治3)3月8日没。法名「永壽院殿真譽春覺照法大信女」。墓石は息子盛季の建立により、「俊季公後室」とある
秋田就季の墓碑
秋田就季
生 寛文11年 (1671年)
没 正徳5年 (1715年)
1671年(寛文11)輝季の長男として生まれる。1680年(延宝8)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1715年(正徳5)6月4日没。45才。法名「大通院殿心源自性大居士」。
秋田盛季の墓碑
秋田盛季
生 元和6年 (1620年)
没 延宝4年 (1676年)
陸奥三春藩2代藩主。1620年(元和6)俊季の長男として生まれる。父の死により1649年(慶安2)5月跡を継ぐ。その際、5千石を弟季久に分け与え陸奥三春藩5万石となる。1676年(延宝4)1月13日没。57才。法名「陽雲院殿龍天蒼松大居士」。
秋田輝季の墓碑
秋田輝季
生 慶安2年 (1649年)
没 享保5年 (1720年)
陸奥三春藩3代藩主。1649年(慶安2)盛季の次男として生まれる。1658年(万治元)7月将軍徳川家綱に拝謁。1676年(延宝4)3月父の死により跡を継ぐ。1715年(正徳5)12月隠居。1720年(享保5)9月19日没。72才。法名「乾元院殿剛山瑞陽大居士」。
秋田頼季の墓碑
秋田頼季
生 元禄9年 (1696年)
没 寛保3年 (1743年)
陸奥三春藩4代藩主。1696年(元禄9)荒木高村の子として生まれる。秋田季豊の養子となり跡を継ぐ。1714年(正徳4)5月将軍徳川家継に拝謁。1715年(正徳5)7月秋田輝季の養子となる。同年12月輝季の隠居により三春藩を継ぐ。1730年(享保15)お家騒動により閉門処分となるも、数ヶ月後許される。1743年(寛保3)6月1日没。48才。法名「廣運院殿俊徳玄明大居士」。
稲垣昭央の墓碑
稲垣昭央
生 享保12年 (1727年)
没 寛政2年 (1790年)
志摩鳥羽藩2代藩主。1727年(享保12)昭辰の子として生まれる。1745年(延享2)6月昭賢の養子となる。同年9月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)1月跡を継ぐ。1790年(寛政2)5月17日没。64才。法名「高陽院殿禅山照林大居士」。
稲垣昭賢の墓碑
稲垣昭賢
生 元禄11年 (1698年)
没 宝暦2年 (1752年)
志摩鳥羽藩初代藩主。1698年(元禄11)4月重富の長男として生まれる。1708年(宝永5)将軍徳川綱吉に拝謁。1710年(宝永7)父の死により下野烏山藩2代藩主となる。1725年(享保10)10月志摩鳥羽藩に移封。1752年(宝暦2)12月29日没。55才。法名「泰政院殿華嶽英山大居士」。
稲垣重富の墓碑
稲垣重富
生 延宝元年 (1673年)
没 宝永7年 (1710年)
下野烏山藩初代藩主。1673年(延宝元)重昭の長男として生まれる。1683年(天和3)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1688年(貞享5)父の隠居により刈谷藩主となる。その後上総大多喜藩、下野烏山藩に移封。1710年(宝永7)4月17日没。38才。法名「淸灮院心安榮達大居士」。
稲垣重昭の墓碑
稲垣重昭
生 寛永13年 (1636年)
没 元禄16年 (1703年)
三河刈谷藩2代藩主。1636年(寛永13)重昌の長男として生まれる。1647年(正保4)10月将軍徳川家光に拝謁。1654年(承応3)祖父重綱の死により跡を継ぐ。1703年(元禄16)6月19日没。68才。法名「寂照院殿岳翁空山大居士」。
稲垣重綱の墓碑
稲垣重綱
生 天正11年 (1583年)
没 承応3年 (1654年)
三河刈谷藩初代藩主。1583年(天正11)長茂の長男として生まれる。1600年(慶長5)徳川秀忠の上田城攻めに従う。1612年(慶長17)父の死により上野伊勢崎藩主を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣では酒井家次に属して戦う。戦後、加増され越後藤井藩主。1651年(慶安4)三河刈谷に移封。1654年(承応3)1月8日没。72才。法名「法性院殿光岳宗本居士」。
稲垣長以の墓碑
稲垣長以
生 寛延2年 (1749年)
没 文政6年 (1823年)
志摩鳥羽藩3代藩主。1749年(寛延2)1月昭央の長男として生まれる。1767年(明和4)4月将軍徳川家治に拝謁。1773年(安永2)7月父の隠居により家督を継ぐ。1794年(寛政6)11月隠居。1823年(文政6)5月14日没。75才。法名「太玄院殿覺天道光大居士」。
稲垣長剛の墓碑
稲垣長剛
生 文化4年 (1807年)
没 弘化4年 (1847年)
志摩鳥羽藩5代藩主。1807年(文化4)8月長続の4男として生まれる。1819年(文政2)3月父の死により家督を継ぐ。1842年(天保13)5月隠居。1847年(弘化4)2月14日没。41才。法名「大應院殿全達天眞大居士」。
稲垣長明の墓碑
稲垣長明
生 文政13年 (1830年)
没 慶応2年 (1866年)
志摩鳥羽藩6代藩主。1830年(文政13)5月長剛の長男として生まれる。1842年(天保13)5月父の隠居により跡を継ぐ。1864年(元治元)禁門の変では幕府側として参陣。1866年(慶応2)第2次長州征伐に参陣しようとするも病となり、同年9月29日没。37才。法名「徳巖院殿義運全忠大居士」。
稲垣長続の墓碑
稲垣長続
生 安永元年 (1772年)
没 文政元年 (1818年)
志摩鳥羽藩4代藩主。1772年(安永元)榊原政永の6男として生まれる。1787年(天明7)2月稲垣長以の娘を妻として養子となる。1790年(寛政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。長以の隠居により1794年(寛政6)11月跡を継ぐ。1818年(文政元)12月29日没。47才。法名「霊鷲院殿義山天忠大居士」。
稲葉重通の墓碑
稲葉重通
生 不明
没 慶長3年 (1598年)
稲葉貞通の長男。庶子ゆえ別に家を興す。織田信長、のち豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦いに参戦。父の死後美濃清水城主で1万2千石を領す。小田原合戦にも従う。姪の福(春日局)を養女として稲葉正成に嫁がせる。1598年(慶長3)10月3日没。法名「慈泉院殿呂翁俊尚大居士」。
酒井忠豊の墓碑
酒井忠豊
生 慶安2年 (1649年)
没 延宝4年 (1676年)
1649年(慶安2)忠重の次男として生まれる。1663年(寛文3)11月将軍徳川家綱に拝謁。1665年(寛文5)11月父とともに改易となる。1669年(寛文9)2月赦免される。1676年(延宝4)5月29日没。28才。法名「眞譽廓賢居士」。
酒井忠重の墓碑
酒井忠重
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
1601年(慶長6)家次の3男として生まれる。1615年(元和元)徳川家康と将軍秀忠に拝謁。領民との争い、本家庄内藩主の家督相続問題など素行が悪く、庄内藩からは絶縁される。旗本の依田照冬との争いがきったけで1665年(寛文5)改易。1666年(寛文6)9月18日夜盗に襲われ没。66才。法名「光岳院殿鏡誉宗圓大居士」。
岡部行隆の墓碑
岡部行隆
生 元和3年 (1617年)
没 貞享4年 (1687年)
和泉岸和田藩2代藩主。1617年(元和3)宣勝の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。1661年(寛文元)10月父の隠居により跡を継ぐ。そのとき5千石を弟高成、2千石を弟豊明に分け与え、岸和田藩は5万3千石となる。1687年(貞享4)12月25日没。71才。法名「最乗院殿仁叟常慶大居士」。
岡部長盛の墓碑
岡部長盛
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永9年 (1632年)
1568年(永禄11)正綱の長男として生まれる。徳川家康に仕え、1584年(天正12)小牧・長久手の戦いに従う。蟹江城攻めでは滝川一益の甥を生捕る。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、下野黒羽城を守備。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは丹波亀山城を守備。1632年(寛永9)11月2日没。65才。法名「雄心寺殿全室久要大居士」。墓石は1周忌に息子宣勝の建立による。
岡部長盛妻の墓碑
岡部長盛妻
生 不明
没 寛永6年 (1629年)
松平康元の娘。岡部長盛に嫁ぎ、宣勝、織田信則妻、加藤泰興妻、興賢、長政、寺沢堅高妻、大久保教勝妻の3男4女を儲ける。1629年(寛永6)7月3日没。法名「洞仙院殿梅溪宗孝大姉」。
植村家久の墓碑
植村家久
生 宝暦2年 (1752年)
没 安永7年 (1778年)
大和高取藩7代藩主。1752年(宝暦2)1月家道の長男として生まれる。1767年(明和4)5月父の死により跡を継ぐ。1768年(明和5)3月将軍徳川家治に拝謁。1778年(安永7)12月2日没。27才。法名「諦観院殿頓悟宗圓大居士」。
植村家利の墓碑
植村家利
生 宝暦9年 (1759年)
没 安永7年 (1778年)
大和高取藩8代藩主。1759年(宝暦9)9月家道の4男として生まれる。1778年(安永7)兄で家督を継いでいた家久が没したため、翌年跡を継ぐ。1785年(天明5)8月24日没。27才。法名「到岸院殿観山道勇大居士」。遊女と入水自殺だったため、幕府には病死として届けた。
植村家包の墓碑
植村家包
生 宝永7年 (1710年)
没 元文3年 (1738年)
大和高取藩5代藩主。1710年(宝永7)政広の長男として生まれる。1725年(享保10)11月父の跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1729年(享保14)大和高取藩植村家敬の養子となる。1731年(享保16)10月家敬の死により跡を継ぐ。1738年(元文3)8月13日没。29才。法名「遍縁院殿實應性遍大居士」。
植村家政の墓碑
植村家政
生 天正17年 (1589年)
没 慶安3年 (1650年)
大和高取藩初代藩主。1589年(天正17)家次の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。徳川秀忠に付けられ小姓となる。大坂の両陣に参戦。1640年(寛永17)大和高取藩にて2万5千石の大名となる。1650年(慶安3)閏10月23日没。62才。法名「本真院殿了學日栄大居士」。なお、他家では徳川家康の1字である「家」を憚り名乗るのを避けたが、植村家のみ代々「家」を名乗るのを認められた。
植村家敬の墓碑
植村家敬
生 延宝8年 (1680年)
没 享保16年 (1731年)
大和高取藩4代藩主。1680年(延宝8)政成の長男として生まれる。1696年(元禄9)3月3代藩主家言の養子となり跡を継ぐ。同年5月将軍徳川綱吉に拝謁。1731年(享保16)8月21日没。52才。法名「正善院殿仁岳道義大居士」。
植村家次の墓碑
植村家次
生 永禄10年 (1567年)
没 慶長4年 (1599年)
1567年(永禄10)家存の子として生まれる。徳川家康の長男松平信康に仕え、信康切腹後は流浪する。のち榊原康政の推挙により家康に仕える。1584年(天正12)長久手の戦いでは首を取る手柄をたてる。1599年(慶長4)10月11日没。33才。法名「正覚院殿一山宗泉大居士」。墓石は1626年(寛永3)10月13日に息子家政の建立による。
植村家理の墓碑
植村家理
生 不明
没 不明
大和高取藩10代藩主家教の長男。大和高取藩11代藩主植村家貴(父の弟)の養子となるも、家を継ぐことなく没す。法名「天祐院殿日新圓證大居士」。
植村家興の墓碑
植村家興
生 天保6年 (1835年)
没 嘉永6年 (1853年)
大和高取藩12代藩主。1835年(天保6)大村純昌の11男として生まれる。兄純顕の養子となるも、後に植村家貴の養子となる。1853年(嘉永6)4月家貴の死により跡を継ぐ。同年7月17日没。19才。法名「映顕院殿彰感圓通大居士」。
植村家言の墓碑
植村家言
生 寛文3年 (1663年)
没 元禄9年 (1696年)
大和高取藩3代藩主。1663年(寛文3)家貞の次男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。1687年(貞享4)8月父の隠居により跡を継ぐ。1696年(元禄9)3月18日没。34才。法名「高性院殿幽山素玄大居士」。
植村家貞の墓碑
植村家貞
生 元和4年 (1618年)
没 元禄3年 (1690年)
大和高取藩2代藩主。1618年(元和4)家政の3男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)父の死により跡を継ぐ。1658年(万治元)7月所領のうち3千石を弟政春に分け与える。1690年(元禄3)4月14日没。73才。法名「泰祥院殿一峯空顯大居士」。
植村家貴の墓碑
植村家貴
生 文化4年 (1807年)
没 嘉永6年 (1853年)
大和高取藩11代藩主。1807年(文化4)2月家長の4男として生まれる。1824年(文政7)兄で藩主家教の養子となる。1848年(嘉永元)5月兄の隠居により跡を継ぐ。1853年(嘉永6)2月23日没。47才。法名「徳現院殿淨雲普光大居士」。
植村家道の墓碑
植村家道
生 享保15年 (1730年)
没 明和4年 (1767年)
大和高取藩6代藩主。1730年(享保15)家敬の4男として生まれる。1738年(元文3)8月植村家包の養子となり跡を継ぐ。1745年(延享2)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1767年(明和4)3月18日没。38才。法名「等覺院殿観道性應大居士」。