井伊直元 生 文化6年 (1809年)没 弘化3年 (1846年) 1809年(文化6)4月直中の11男として生まれる。1825年(文政8)4月兄で彦根藩主直亮の養子となる。家督を継ぐことなく1846年(弘化3)1月13日没。38才。法名「良性院殿真相元諦大居士」。
井伊直亮妻 生 寛政8年 (1796年)没 文化13年 (1816年) 1796年(寛政8)松平頼儀の娘として生まれる。名は餐姫。井伊直亮に嫁ぐも子供は出来ず。1816年(文化13)2月28日没。法名「龍華院殿善法正因大姉」。
井伊直亮 生 寛政6年 (1794年)没 嘉永3年 (1850年) 近江彦根藩15代藩主。1794年(寛政6)6月直中の3男として生まれる。1812年(文化9)2月父の隠居により家督を継ぐ。1835年(天保6)大老に就任。軍隊を西洋式にしたり蘭学者を登用するなど開明的な政治を行う。1850年(嘉永3)10月1日没。57才。法名「天徳院殿真龍廓性大居士」。
井伊直中妻(親光院) 生 明和8年 (1771年)没 天保7年 (1836年) 1771年(明和8)南部利正の娘として生まれる。名は豊姫、親姫。井伊直中に嫁ぎ、蜂須賀斉昌妻、直亮、秩姫の1男2女を儲ける。1836年(天保7)5月14日没。法名「親光院殿憲室龍華大姉」。
井伊直中 生 明和3年 (1766年)没 天保2年 (1831年) 近江彦根藩14代藩主。1766年(明和3)6月直幸の6男として生まれる。1787年(天明7)10月将軍徳川家斉に拝謁。1789年(寛政元)4月父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)2月隠居。1831年(天保2)5月25日没。66才。法名「観徳院殿天寧広輝大居士」。
九鬼隆常 生 正保3年 (1646年)没 元禄11年 (1698年) 丹波綾部藩2代藩主。1646年(正保3)隆季の長男として生まれる。1654年(承応3)将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1674年(延宝2)11月跡を継ぐ。1698年(元禄11)4月1日没。53才。法名「乾徳院殿仁嶽了賢大居士」。
中島宗信 生 不明没 寛文9年 (1669年) 宗求の3男。伊勢守。伊達家の家臣。兄宗勝が没したため家督を継ぐ。1669年(寛文9)10月16日没。法名「正兵院殿」。墓石に「為中嶋伊勢守宗信御追善」とある。
松浦隆信 生 天正19年 (1591年)没 寛永14年 (1637年) 肥前平戸藩3代藩主。1591年(天正19)久信の長男として生まれる。曾祖父の隆信(道可)と同名。1602年(慶長7)父の死により家督を継ぐ。1603年(慶長8)将軍徳川家康に拝謁。キリシタンだったが幕府の禁教令により棄教。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参陣するも向かう途中で戦いは終了、二条城で家康に拝謁。1637年(寛永14)5月24日没。47才。法名「正宗院殿向東宗陽居士」。
松浦長 生 寛文11年 (1671年)没 元禄5年 (1692年) 1671年(寛文11)棟の長男として生まれる。1686年(貞享3)将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて、1692年(元禄5)6月9日没。22才。法名「龍珠院殿大圓宗光居士」。
松浦重信妻 生 不明没 慶安2年 (1649年) 松平忠国の娘。寛永年間に松浦重信に嫁ぐ。重信との間に、棟、石川乗政妻の1男1女を儲ける。1649年(慶安2)9月7日没。法名「雲晴院殿高譽秋月大禅定尼」。
松浦重信 生 元和8年 (1622年)没 元禄16年 (1703年) 肥前平戸藩4代藩主。1622年(元和8)3月隆信の長男として生まれる。1629年(寛永6)将軍徳川家光に拝謁。外国との交易を幕府の命により、長崎の出島のみとなったために財政が悪化。領内ではキリシタンの取締りを行う。1689年(元禄2)7月に隠居して、曾祖父と同じ鎮信を名乗る。1703年(元禄16)10月6日没。82才。法名「天祥院殿慶巖徳祐大居士」。
松浦邦 生 享保17年 (1732年)没 宝暦7年 (1757年) 1732年(享保17)誠信の長男として生まれる。1744年(延享元)12月将軍徳川吉宗に拝謁。跡を継ぐことなく1757年(宝暦7)5月4日没。26才。法名「本覺院殿華林宗嚴大居士」。
松浦誠信 生 正徳元年 (1711年)没 安永8年 (1779年) 肥前平戸藩8代藩主。1711年(正徳元)篤信の次男として生まれる。1728年(享保13)8月7代藩主有信の養子となり、同年11月7日跡を継ぐ。同年11月15日将軍徳川吉宗に拝謁。1779年(安政8)4月29日没。69才。法名「誠嶽院殿英山紹俊大居士」。
松浦篤信 生 貞享元年 (1684年)没 宝暦6年 (1756年) 肥前平戸藩6代藩主。1684年(貞享元)7月重信の4男として生まれる。1696年(元禄9)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1713年(正徳3)2月兄の棟の隠居により家督を継ぐ。1727年(享保12)閏1月隠居。1756年(宝暦6)12月3日没。73才。法名「松英院殿逸巖俊翁大居士」。
松浦熈 生 寛政3年 (1791年)没 慶応3年 (1867年) 肥前平戸藩10代藩主。1791年(寛政3)清の3男として生まれる。1803年(享和3)6月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1805年(文化2)6月跡を継ぐ。1841年(天保12)閏1月隠居。1867年(慶応3)6月27日没。77才。法名「龍瑞院殿乾乾観中大居士」。
松浦清 生 宝暦10年 (1760年)没 天保12年 (1841年) 肥前平戸藩9代藩主。1760年(宝暦10)1月政信の長男として生まれる。号は静山。甲子夜話の著者。1774年(安永3)4月将軍徳川家治に拝謁。1775年(安永4)2月祖父誠信の隠居により跡を継ぐ。1806年(文化3)3男の熈に家督を譲り隠居。1841年(天保12)6月29日没。82才。法名「豊功院殿静山流水大居士」。
松浦棟 生 正保3年 (1646年)没 正徳3年 (1713年) 肥前平戸藩5代藩主。1646年(正保3)9月重信の長男として生まれる。1656年(明暦2)8月将軍徳川家綱に拝謁。1689年(元禄2)7月父の隠居により家督を継ぐ。1713年(正徳3)9月22日没。68才。法名「雄香寺殿俊林宗英大居士」。
松浦有信 生 宝永7年 (1710年)没 享保13年 (1728年) 肥前平戸藩7代藩主。1710年(宝永7)篤信の長男として生まれる。1722年(享保7)11月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1727年(享保12)閏1月跡を継ぐ。1728年(享保13)8月25日没。19才。法名「等覚院殿天麟英心大居士」。
松浦曜 生 文化9年 (1812年)没 安政5年 (1858年) 肥前平戸藩11代藩主。1812年(文化9)8月熈の長男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)閏1月父の隠居により家督を継ぐ。1858年(安政5)6月28日没。47才。法名「諦乗院殿得脱祥瑞大居士」。
松浦政信 生 享保20年 (1735年)没 明和8年 (1771年) 1735年(享保20)誠信の3男として生まれる。兄2人が没したため嫡子となり、1757年(宝暦7)10月将軍徳川家重に拝謁。跡を継ぐことなく1771年(明和8)8月11日没。37才。法名「政功院殿蓬山宗丘大居士」。
松浦信貞 生 慶長14年 (1609年)没 元禄7年 (1694年) 1609年(慶長14)信正の長男として生まれる。1633年(寛永10)8月将軍徳川家光に拝謁。幕府の小姓組、勘定頭を務める。1682年(天和2)12月隠居。1694年(元禄7)8月22日没。86才。法名「芳性院殿蘭溪道秀居士」。
松浦信清 生 慶長5年 (1600年)没 寛永元年 (1624年) 1600年(慶長5)久信の次男として生まれる。源太郎。成清とも。松浦豊後守信實の養子となる。1624年(寛永元)5月24日江浄寺(静岡市清水区)で自殺。25才。法名「龍光院涼雲道静」。江浄寺にも新しい墓(恋塚)があり、こちらでは法名「松源院法岸宗鉄大居士」とある。婚約を交わした春姫が兄隆信に取られそうになったため、江戸を無断で出奔。江浄寺で家臣により自殺させられたという。
松浦久信妻 生 不明没 明暦2年 (1656年) 大村純忠の5女。父がキリシタンのためメンシアという洗礼名を持つ。松浦久信に嫁ぎ、隆信、信辰の2男を儲ける。1656年(明暦2)11月25日没。史料によってまちまちだが享年82~85才。法名「松東院殿月心宗玉大姉」。
本多忠籌妻 生 元文5年 (1740年)没 明和5年 (1768年) 1740年(元文5)松浦誠信の5女として生まれる。名は富子。1764年(明和元)9月本多忠籌に嫁ぐ。忠籌との間に忠雄、忠の2男を儲ける。1768年(明和5)5月15日没。29才。法名「瑤池院殿宝蓮紹香大姉」。
香川春継 生 天文14年 (1545年)没 元和5年 (1619年) 1545年(天文14)光景の次男として生まれる。毛利元就に仕え、のちに吉川元春に仕える。豊臣秀吉の九州征伐のときは吉川軍の一員として豊前香春嶽城を攻撃。関ヶ原の戦い後、吉川広家が周防岩国へと移ると従う。1619年(元和5)7月22日没。75才。法名「籌勝院殿幹翁英秀居士」。
酒井忠行妻 生 不明没 延宝5年 (1677年) 徳川家康の異父弟松平定勝の娘。母は奥平貞友の娘。名は菊姫。酒井忠行に嫁ぎ、忠清、忠能を儲ける。1677年(延宝5)8月9日没。法名「光壽院殿真譽松安宝玉大姉」。父定勝より嫁入りのときに嫁入り道具として持たせた「鳴神兼定」が今も現存している。
酒井忠行 生 慶長4年 (1599年)没 寛永13年 (1636年) 1599年(慶長4)忠世の子として生まれる。徳川秀忠に仕え、1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。翌年の大坂夏の陣では手柄をたてる。秀忠の死後は家光に仕えるも、江戸城西の丸の失火の責任を取り父とともに謹慎。父の死後は、遺領を継ぎ厩橋藩主となる。1636年(寛永13)11月17日没。38才。法名「松岸院殿雪窓玖白居士」。
酒井忠清妻 生 不明没 延宝4年 (1676年) 姉小路公景の娘。酒井忠清に嫁ぎ、千姫、松平頼常妻、水野勝種妻、中川久通妻、加藤泰恒妻、忠寛、松平信庸妻、與志姫、石姫、萬千代、藤堂高久養女の2男9女を儲ける。1676年(延宝4)12月11日没。法名「清岸院殿浄譽光安心大法信女」。
酒井忠世 生 元亀3年 (1572年)没 寛永13年 (1636年) 1572年(元亀3)6月重忠の長男として生まれる。徳川家康、秀忠、家光に仕える。1590年(天正18)武蔵国川越で5千石を与えられ秀忠の家老となる。1600年(慶長5)上田城攻めに秀忠に従い参陣。大坂の両陣にも参陣。1634年(寛永11)忠世の守る江戸城西丸が火災を起こし、一時職務を止められた。1636年(寛永13)3月19日没。65才。法名「隆興院殿前拾遺發向源真大居士」。
豊臣秀頼 生 文禄2年 (1593年)没 慶長20年 (1615年) 1593年(文禄2)8月秀吉の3男として生まれる。秀吉の死後、家督を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、西軍の総大将毛利輝元の保護下にあり家臣の一部も関ヶ原本戦に参陣。1614年(慶長19)方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発。1615年(慶長20)5月8日大坂城にて自害。23才。法名「帰寂山高陽寺殿秀山大居士」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
能勢信重 生 不明没 承応3年 (1654年) 惣左衛門の子。兵右衛門。長岡藩主牧野忠成(初代)の家臣。200石。忠成が1654年(承応3)12月16日死去すると同月26日殉死。主君と同じ没年月日の1654年(承応3)12月16日が刻まれている。
直江兼続妻 生 弘治3年 (1557年)没 寛永14年 (1637年) 1557年(弘治3)直江景綱の娘として生まれる。名はお船の方。直江信綱(長尾藤九郎)と婚姻、婿として直江家を継がせる。信綱が家臣の争いで殺害されると、上杉景勝の命により直江兼続(樋口兼続)と婚姻。景明、本多政重妻の1男1女を儲ける。1637年(寛永14)1月4日没。81才。法名「宝林院殿月桂貞心大姉」。墓石は上杉定勝の建立による。
皆川隆庸 生 天正9年 (1581年)没 正保2年 (1645年) 常陸府中藩2代藩主。1581年(天正9)広照の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従う。1609年(慶長14)父が松平忠輝と対立したため、父とともに改易。大坂の両陣に井伊直孝に属して参戦。1623年(元和9)に父とともに赦免される。父の隠居により1625年(寛永2)跡を継ぐ。1645年(正保2)2月5日没。65才。法名「一陽院殿春厳紹智大居士」。
皆川秀隆 生 寛永3年 (1626年)没 明暦3年 (1657年) 常陸府中藩代藩主。1626年(寛永3)隆庸の次男として生まれる。父の遺領のうち5千石を与えられ寄合になる。1657年(明暦3)6月18日没。32才。法名「自性院殿法山凉説居士」。墓石施主は息子左京広隆による。
皆川成郷 生 寛永元年 (1624年)没 正保2年 (1645年) 常陸府中藩3代藩主。1624年(寛永元)隆庸の長男として生まれる。父の死により1645年(正保2)5月21日跡を継ぐも同年6月4日没。15日間の短い藩主であった。22才。法名「迎涼院殿南室紹清大居士」。墓石側面に「正保二年七月四日」とあり没後1ヶ月に建立されたと思われる。
皆川庸清 生 宝暦11年 (1761年)没 享和2年 (1802年) 1761年(宝暦11)斉秀の子として生まれる。父の死により1779年(安永8)9月跡を継ぐ。1782年(天明2)12月将軍徳川家治に拝謁。1802年(享和2)3月21日没。42才。法名「高徳院殿瑞巌良祥大居士」。女性の法名「良壽院殿真譽貞節大姉」、側面に1835年(天保6)6月22日寂とあり妻と思われる。墓石は1803年(享和3)息子皆川森之助庸郡の建立。
皆川広照 生 天文17年 (1548年)没 寛永4年 (1627年) 常陸府中藩初代藩主。1548年(天文17)下野皆川城主俊宗の次男として生まれる。1576年(天正4)兄広勝の死により跡を継ぐ。北条氏・上杉氏と敵対、従属を繰り返す。徳川家康に誼を通じ、1590年(天正18)小田原合戦のときは北条氏を裏切り家康に投降。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは家康に味方。家康の6男松平忠輝の家老となるも、忠輝と対立して改易。1623年(元和9)赦免され常陸府中にて1万石となる。1627年(寛永4)12月22日没。80才。法名「三清院殿善翁慶勝大居士」。
牧野忠成(初代) 生 天正9年 (1581年)没 承応3年 (1654年) 越後長岡藩初代藩主。1581年(天正9)康成の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従い信州上田城を攻める。大坂の両陣に参戦。1654年(承応3)12月16日没。74才。法名「寶性院殿仙譽月卦正心大居士」。
牧野忠成(2代) 生 寛永12年 (1635年)没 延宝2年 (1674年) 越後長岡藩2代藩主。祖父で初代藩主と同名。後忠成。1635年(寛永12)光成の長男として生まれる。1639年(寛永16)将軍徳川家光に拝謁。祖父初代忠成が没した後、将軍徳川家綱の判断により跡を継ぐ。1674年(延宝2)5月27日没。40才。法名「超雄院殿尊󠄁誉利岳乗見大居士」。
豊臣秀吉妻 生 不明没 慶長20年 (1615年) 浅井長政の娘。母は織田信長の妹。名は淀君。1573年(天正元)小谷城で父長政が自害したときは母とともに城を脱出。1583年(天正11)北の庄城で義父柴田勝家と母が自害したときも城を脱出。豊臣秀吉に嫁ぎ、鶴松と秀頼の2男を儲ける。1615年(慶長20)5月8日徳川家康により大坂城を攻められ自害。法名「大虞院殿英岩大禅定尼」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
水野貞利 生 不明没 安永8年 (1779年) 政勝の子。1775年(安永4)9才のとき徳川家基の御伽小姓となる。1779年(安永8)家基が没したため将軍徳川家治の小姓となる。1844年(天保15)3月2日没。法名「歓祥院殿鳳林玉鳴大居士」。
水野政勝 生 享保19年 (1734年)没 天明6年 (1786年) 1734年(享保19)忠英の子として生まれる。1743年(寛保3)徳川家治の御伽小姓となる。家治が将軍になると御小姓組の番頭となる。家治から小袖、八丈織、書などを賜う。1786年(天明6)10月24日没。53才。法名「賢性院殿仁淵義信大居士」。
水野勝貞 生 寛永2年 (1625年)没 寛文2年 (1662年) 備後福山藩3代藩主。1625年(寛永2)6月勝俊の次男として生まれる。1638年(寛永15)島原の乱に祖父勝成、父勝俊に従い参戦。1639年(寛永16)12月将軍徳川家光に拝謁。1655年(明暦元)5月父の死により跡を継ぐ。1662年(寛文2)10月29日没。38才。法名「源光院殿傑山宗英大居士」。
水谷勝隆 生 慶長2年 (1597年)没 寛文4年 (1664年) 備中松山藩初代藩主。1597年(慶長2)勝俊の長男として京に生まれる。徳川家康の家臣。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、西軍の人質になるとこを乳母とともに逃れた。大坂の両陣には酒井家次の陣に属して参戦。1664年(寛文4)閏5月3日没。68才。法名「大龍寺殿鐵山全性大居士」。
水谷勝美 生 寛文3年 (1663年)没 元禄6年 (1693年) 備中松山藩3代藩主。1663年(寛文3)勝宗の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。1693年(元禄6)10月6日没。31才。法名「隆昌寺殿天山全長大居士」。子がいなく勝美を最後に水谷家は改易となる。
水谷勝宗妻 生 不明没 寛文12年 (1672年) 青山幸成の娘。水谷勝宗に嫁ぎ、勝美、平山常時妻の1男1女を儲ける。1672年(寛文12)没。法名「曹渓院殿吉〇永〇大姉」。墓石は息子犬千代(勝美)の建立による。
水谷勝宗 生 元和9年 (1623年)没 元禄2年 (1689年) 備中松山藩2代藩主。1623年(元和9)勝隆の長男として生まれる。1664年(寛文4)父の死により後を継ぐ。1684年(貞享元)外様大名から譜代大名となる。備中松山城を改築、現在も当時の姿で現存。1689年(元禄2)2月19日没。67才。法名「栄興院殿健岑全勇大居士」。
毛利熊之助 生 明暦3年 (1657年)没 寛文3年 (1663年) 1657年(明暦3)就詮の長男として生まれる。1663年(寛文3)8月7日没。7才。法名「桂岩幻枝」。墓石は1679年(延宝7)母(吉川広正の5女法泉院)の建立による。「吉見氏熊之助之墓」とあるが、熊之助の大野毛利家の祖は吉見氏であり、その縁により吉見姓を称したと思われる。
橋本正高 生 不明没 天授6年 (1380年) 南北朝時代の武士で、南朝方の楠木正成の一族。土丸城を中心に泉南地域で足利幕府方と戦う。1380年(天授6)7月17日北朝方と戦い討死。法名「高名院殿興國義勇正高大居士」。
梶原政景 生 天文17年 (1548年)没 元和9年 (1623年) 1548年(天文17)太田資正の次男として生まれる。足利義氏に仕える。後、佐竹義重、義宣に仕える。佐竹家が関ヶ原の後に秋田に減封となると、結城秀康に仕える。秀康没後は、秀康の子松平忠直に仕え大坂の陣に従軍。1623年(元和9)10月8日没。76才。法名「東光院殿悦叟道喜居士」。墓石は逆修塔で1610年(慶長15)7月20日の建立による。
松浦良 生 寛政2年 (1790年)没 文化11年 (1814年) 肥前平戸新田藩7代藩主。1790年(寛政2)義信の子として生まれる。1803年(享和3)平戸新田藩主の矩が没したとき、婿養子となり跡を継ぐ。1814年(文化11)12月5日没。25才。法名「廣徳院殿孤峯有隣大居士」。
松浦矩 生 明和5年 (1768年)没 享和3年 (1803年) 肥前平戸新田藩6代藩主。1768年(明和5)宝の子として生まれる。父の死により1783年(天明3)7月跡を継ぐ。1785年(天明5)11月将軍徳川家治に拝謁。1803年(享和3)4月19日没。36才。法名「寛量院殿義山宗勇大居士」。
松平鶴松 生 寛文10年 (1670年)没 延宝2年 (1674年) 1670年(寛文10)9月忠弘の4男として生まれる。側室の子だが、忠弘正室天眼院の子として育てられる。しかし1674年(延宝2)7月1日没。5才。法名「寂浄院殿一相是○」。初代忠明(祖父)、2代忠弘(父)も幼名を鶴松と名乗っていたことから跡継ぎとして期待されていたと思われる。
松平忠明妻 生 不明没 万治3年 (1660年) 小出吉政の娘。松平忠明に嫁ぐも子供は出来ず。他の側室が生んだ忠弘、清道の養母となる。1660年(万治3)2月27日没。法名「慶壽院殿花岳玉榮大姉」。墓石は義理の息子清良(忠弘)の建立による。
松平忠明 生 天正11年 (1583年)没 寛永21年 (1644年) 奥平松平家初代当主。1583年(天正11)奥平信昌の4男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。1588年(天正16)兄家治とともに家康の養子となり松平姓となる。1592年(文禄元)兄家治が没したため家督を継ぐ。関ヶ原の戦いや大坂の陣に参戦。1644年(寛永21)3月25日没。62才。法名「天祥院心巌玄鐡大居士」。
松平忠弘 生 寛永8年 (1631年)没 元禄13年 (1700年) 奥平松平家2代当主。1631年(寛永8)11月忠明の長男として生まれる。父の死により1644年(寛永21)播磨姫路藩18万石を継ぐ。うち3万石を弟清道に分知。出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩と転封。白河藩主のときに家臣の紛争により減封のうえ再度出羽山形藩10万石となる。1700年(元禄13)5月16日没。70才。法名「楞伽院殿端翁道嚴大居士」。
松平忠啓 生 延享3年 (1746年)没 天明6年 (1786年) 奥平松平家5代当主。伊勢桑名藩3代藩主。1746年(延享3)12月忠刻の次男として生まれる。1771年(明和8)6月父の隠居により家督を継ぐ。自然災害、百姓一揆、飢饉により財政が悪化。1786年(天明6)12月10日没。41才。法名「崇巌院殿功運道惇大居士」。
松平忠功妻 生 明和2年 (1765年)没 寛政3年 (1791年) 1765年(明和2)9月松平忠啓の娘として生まれる。名は久仁姫。徳川宗将の7男松平忠功と結婚して忠功を婿養子として迎える。忠功との間には子供は出来ず。1791年(寛政3)3月13日没。27才。法名「桃仙院殿花溪妙鮮大禅定尼」。
松平忠刻 生 享保2年 (1717年)没 天明2年 (1782年) 奥平松平家4代当主。伊勢桑名藩2代藩主。1717年(享保2)忠雅の3男として生まれる。1738年(元文3)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。1771年(明和8)病気により隠居。1782年(天明2)12月27日没。66才。法名「龍光院殿天山宗見大居士」。
松平定経 生 寛永7年 (1630年)没 寛文10年 (1670年) 1630年(寛永7)定房の子として生まれる。1644年(正保元)将軍徳川家光に拝謁。家督を相続することなく1670年(寛文10)5月11日没。41才。法名「崇峯院殿清誉光安須和大居士」。
成瀬正虎 生 文禄3年 (1594年)没 寛文3年 (1663年) 1594年(文禄3)正成の長男として生まれる。初め徳川家康の3男秀忠の小姓として仕えていたが1614年(慶長19)大坂冬の陣のときに、家康の命令で家康の9男義直に仕えるようになり、翌年の大坂夏の陣のときは義直の先鋒となった。1632年(寛永10)義直の子光友が徳川家光に拝謁したときに、家光より刀を賜る。1663年(寛文3)5月9日没。70才。法名「乾龍院一岳宗無居士」。
徳川頼職 生 延宝8年 (1680年)没 宝永2年 (1705年) 紀伊和歌山藩4代藩主。1680年(延宝8)1月光貞の3男として生まれる。はじめ越前高森藩主。のちに病気となった兄綱教の養子となり、1705年(宝永2)5月兄の死により跡を継ぐ。同年8月には父が没す。同年9月8日没。26才。法名「深覺院殿贈相公三品圓巌真常大居士」。
徳川綱教 生 寛文5年 (1665年)没 宝永2年 (1705年) 紀伊和歌山藩3代藩主。1665年(寛文5)8月光貞の長男として生まれる。1698年(元禄11)父の隠居により家督を継ぐ。徳川綱吉の娘を娶り、将軍候補でもあったが1705年(宝永2)5月18日没。41才。法名「高林院殿三品前黄門雲峯浄空大居士」。
徳川宗直 生 天和2年 (1682年)没 宝暦7年 (1757年) 紀伊和歌山藩6代藩主。1682年(天和2)7月松平頼純の子として生まれる。1711年(正徳元)11月父の跡を継いで伊予西条藩主となる。従弟の和歌山藩主徳川吉宗が将軍となったため1716年(正徳6)に跡を継ぐ。1757年(宝暦7)7月2日没。76才。法名「大慧院殿普観徹性台大居士」。
徳川宗将 生 享保5年 (1720年)没 明和2年 (1765年) 紀伊和歌山藩7代藩主。1720年(享保5)2月宗直の長男として生まれる。1757年(宝暦7)8月父の死後跡を継ぐ。仏教に帰依して高野山にも多額の寄付をする。1765年(明和2)2月25日没。46才。法名「菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士」。
徳川光貞 生 寛永3年 (1626年)没 宝永2年 (1705年) 紀伊和歌山藩2代藩主。1626年(寛永3)12月頼宣の長男として生まれる。1633年(寛永10)9月将軍徳川家光より1字を与えられ光貞と名乗る。1667年(寛文7)に父の隠居により家督を継ぐ。1705年(宝永2)8月8日没。80才。法名「清渓院殿二品前亜相源泉尊義對山大居士」。
庵原朝昌 生 弘治2年 (1556年)没 寛永17年 (1640年) 1556年(弘治2)朝綱の子として生まれる。今川氏真に仕え、のち武田勝頼、戸田勝隆に仕える。勝隆家臣時代に朝鮮出兵に参戦。1596年(慶長元)井伊直政に仕えるも直政と諍いを起こし出奔。1601年(慶長6)井伊家に帰参。木俣家に次ぐ次席家老となる。大坂夏の陣では木村重成を討取る。1639年(寛永16)隠居。1640年(寛永17)5月2日没。法名「長壽院殿實山宗心居士」。
大村純尹 生 寛文4年 (1664年)没 正徳2年 (1712年) 肥前大村藩5代藩主。1664年(寛文4)純長の次男として生まれる。1676年(延宝4)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1706年(宝永3)10月跡を継ぐ。1712年(正徳2)10月14日没。49才。法名「寛長院殿徳山日廣大居士」。
土方雄興 生 寛政11年 (1799年)没 天保9年 (1838年) 伊勢菰野藩10代藩主。1799年(寛政11)1月義苗の長男として生まれる。1816年(文化13)8月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1835年(天保6)1月跡を継ぐ。1838年(天保9)7月2日没。40才。法名「見龍院殿懿徳同応大居士」。
土方雄嘉 生 文政12年 (1829年)没 安政5年 (1858年) 伊勢菰野藩11代藩主。1829年(文政12)雄興の長男として生まれる。父の死により1838年(天保9)8月跡を継ぐ。1844年(弘化元)8月将軍徳川家慶に拝謁。1858年(安政5)8月28日没。30才。法名「寛裕院殿天然自得大居士」。
土方義苗 生 安永7年 (1778年)没 弘化2年 (1845年) 伊勢菰野藩9代藩主。1778年(安永7)5月木下俊直の次男として生まれる。1782年(天明2)5才で土方雄貞の末期養子として跡を継ぐ。藩内の改革を行い成功させる。1835年(天保6)1月隠居。1845年(弘化2)6月28日没。68才。法名「霊光院殿一灯自照大居士」。
吉川経賢 生 寛政3年 (1791年)没 文化3年 (1806年) 周防岩国藩9代藩主。1791年(寛政3)11月経忠の長男として生まれる。父の没後、1803年(享和3)7月跡を継ぐ。1806年(文化3)12月26日没。16才。法名「文恭院殿徳巌道馨大居士」。
吉川経章 生 寛政6年 (1794年)没 天保14年 (1843年) 周防岩国藩11代藩主。1794年(寛政6)11月経忠の3男として生まれる。1836年(天保7)11月兄経礼が没すると、翌年跡を継ぐ。1843年(天保14)11月19日没。50才。法名「亮功院殿英山道雄大居士」。
吉川経礼 生 寛政5年 (1793年)没 天保7年 (1836年) 周防岩国藩10代藩主。1793年(寛政5)11月経忠の次男として生まれる。1806年(文化3)12月兄経賢が没すると翌年3月跡を継ぐ。1836年(天保7)11月26日没。44才。法名「謙光院殿慈雲藤蔭大居士」。
吉川経永 生 正徳4年 (1714年)没 明和元年 (1764年) 周防岩国藩6代藩主。1714年(正徳4)10月広逵の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぐ。家老吉川外記の専制政治や百姓一揆、火災、旱魃などが相次ぎ財政は傾く。1764年(明和元)10月13日没。51才。法名「遍照院真誉蓮光華岸大禅定門」。
吉川経忠 生 明和3年 (1766年)没 享和3年 (1803年) 周防岩国藩8代藩主。1766年(明和3)2月経倫の長男として生まれる。1792年(寛政4)父の隠居により家督を継ぐ。藩の財政改革を行うも1803年(享和3)5月30日没。38才。法名「紹徳院殿孝運祖澤大居士」。
吉川経倫娘 生 安永2年 (1773年)没 天明2年 (1782年) 1773年(安永2)経倫の次女として生まれる。名は篤子、順子。1782年(天明2)8月3日没。10才。法名「真如院殿無相妙顔大童女」。
吉川経倫妻 生 宝暦5年 (1755年)没 安永5年 (1776年) 1755年(宝暦5)一柳末栄の娘として生まれる。名は多芽姫。吉川経倫に嫁ぎ、経忠を儲ける。なお、経忠は別の女(高木氏)が生んだ説もある。経忠の生年が1766年(明和3)なので、多芽姫が12才で生んだこととなる。経倫の側室高木氏が経忠を生むも、正室の多芽姫の子とした可能性が高いと思われる。1776年(安永5)5月18日没。22才。法名「華厳院殿梅玉妙聯大姉」。
吉川経倫 生 延享3年 (1746年)没 享和3年 (1803年) 周防岩国藩7代藩主。1746年(延享3)5月毛利広豊の9男として生まれる。吉川経永の養子となり、1764年(明和元)経永の死により家督を継ぐ。水害や火災などで財政難で苦しむ。1803年(享和3)9月7日没。58才。法名「大乗院即心圓通大居士」。
吉川広逵 生 元禄8年 (1695年)没 正徳5年 (1715年) 周防岩国藩5代藩主。1695年(元禄8)7月広紀の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぎ、家臣達が後見人となり補佐。1715年(正徳5)6月19日没。21才。法名「涼雲院殿玉顔元鮮大居士」。
吉川広紀 生 明暦4年 (1658年)没 元禄9年 (1696年) 周防岩国藩4代藩主。1658年(明暦4)3月広嘉の長男として生まれる。1679年(延宝7)父の死により家督を継ぐ。財政が豊かで、財政難の主筋毛利家とは家格問題もあり悪化。1696年(元禄9)7月13日没。39才。法名「普恩院殿徳峯祖天大居士」。
吉川広正娘 生 寛永3年 (1626年)没 承応3年 (1654年) 1626年(寛永3)吉川広正の5女として生まれる。母は毛利輝元の長女。名は虎子。毛利秀就の養女となる。未婚のまま1654年(承応3)10月18日没。29才。法名「養源院殿正譽貞心大姉」。東京都江東区心行寺にも墓があり、そこでは吉川監物殿(広嘉)内室となっているが、広嘉内室ではなく、広嘉妹である。
吉川広正妻 生 慶長5年 (1600年)没 正保元年 (1644年) 1600年(慶長5)毛利輝元の長女として生まれる。名は竹姫。1616年(元和2)7月吉川広正の正室となり、徳大寺公信室、広嘉、就紀の2男1女を儲ける。1644年(正保元)9月10日没。45才。法名「高玄院殿超誉誉珠英大姉」。墓石は息子広嘉の建立による。
吉川広正 生 慶長6年 (1601年)没 寛文6年 (1666年) 周防岩国藩2代藩主。1601年(慶長6)2月広家の長男として生まれる。1614年(慶長19)徳川家康、秀忠に拝謁。紙の製造を行ったり、新田開発を行う。1663年(寛文3)8月家督を長男広嘉に譲り隠居。1666年(寛文6)5月5日没。66才。法名「淨性院殿鐵堂宗閑大居士」。
吉川広嘉 生 元和7年 (1621年)没 延宝7年 (1679年) 周防岩国藩3代藩主。1621年(元和7)7月広正の長男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光に拝謁。1663年(寛文3)8月父の隠居により家督を継ぐ。広嘉が自ら研究、監督して城下に木造アーチの錦帯橋を架橋する。1679年(延宝7)8月16日没。59才。法名「玄真院殿快巌如心大居士」。
吉川就紀 生 元和8年 (1622年)没 寛永20年 (1643年) 1622年(元和8)10月広正の次男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光と大御所徳川秀忠に拝謁。江戸にて徳川家の人質となる。1643年(寛永20)6月6日没。自殺したという。22才。法名「宗源院殿一覺鐵心大禅定門」。墓石は1646年(正保3)6月6日の建立による。
吉川元長 生 天文17年 (1548年)没 天正15年 (1587年) 1548年(天文17)元春の長男として生まれる。尼子氏の月山富田城の戦いにおいて初陣。1582年(天正10)12月父の隠居により跡を継ぐ。1585年(天正13)豊臣秀吉による四国攻めに参戦。秀吉の九州平定にも参戦。1587年(天正15)6月5日陣中で没。40才。法名「万徳院前礼部中翁空山大居士」。
吉川元春 生 享禄3年 (1530年)没 天正14年 (1586年) 1530年(享禄3)毛利元就の次男として生まれる。吉川興経の養子となり跡を継ぐ。厳島の戦い、月山富田城の戦いに参戦。父元就、兄隆元、兄の子輝元の3代を弟小早川隆景と共に支え毛利の両川と称された。毛利家が豊臣秀吉に従うようになると、家督を息子元長に譲る。1586年(天正14)隠居の身であったが秀吉の要請で九州平定に参戦。同年11月15日豊前小倉城で没。57才。法名「随浪院殿海翁正恵大居士」。
今田経高 生 大永5年 (1525年)没 慶長9年 (1604年) 1525年(大永5)吉川経世の次男として生まれる。1541年(天文9)毛利元就の家臣吉川興経に従い吉田郡山城攻めに参戦。吉川元春、元長、広家に仕える。1604年(慶長9)5月24日没。80才。法名「天叟寺殿天叟正運居士」。
井伊直幸妻(量壽院) 生 不明没 享和3年 (1803年) 大武氏。井伊直幸に嫁ぎ、俊姫、直中の1男1女を儲ける。1803年(享和3)12月8日没。法名「量壽院殿抴玉貫之大姉」。井伊直弼の祖母にあたる。
井伊直定 生 元禄15年 (1702年)没 宝暦4年 (1754年) 近江彦根藩10代、12代藩主。1702年(元禄15)2月直興の14男として生まれる。1735年(享保20)兄直惟の隠居により跡を継ぐ。1754年(宝暦4)6月直惟の子直禔に家督を譲るも同年8月直禔が没したため、再度藩主となる。1760年(宝暦10)2月8日没。59才。法名「天祥院殿泰山定公大居士」。
井伊直孝娘 生 不明没 元禄6年 (1693年) 井伊直孝の娘。母は春光院。名は亀姫。1677年(延宝5)亀姫が父の菩提を弔うため豪徳寺(東京都世田谷区)に仏殿を建立。1693年(元禄6)5月18日没。法名「掃雲院殿無染了心大姉」。墓石は弟直澄の息子直興が伯母のために建立。