戸田氏英の墓碑
戸田氏英
生 享保14年 (1729年)
没 明和5年 (1768年)
美濃大垣藩6代藩主。1729年(享保14)12月氏長の次男として生まれる。1735年(享保20)10月父の死により跡を継ぐ。1740年(元文5)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1768年(明和5)4月23日没。40才。法名「崇眞院殿徳譽興善大居士」。
戸田氏西の墓碑
戸田氏西
生 寛永4年 (1627年)
没 貞享元年 (1684年)
美濃大垣藩3代藩主。1627年(寛永4)11月氏信の長男として生まれる。1671年(寛文11)家督を継ぐ。家臣の首切りや藩財政の立て直しのための節約などの藩政改革を行うも成功はしなかった。1684年(貞享元)6月7日没。58才。法名「高稱院殿清譽江自大居士」。
戸田氏西妻の墓碑
戸田氏西妻
生 不明
没 元禄16年 (1703年)
内藤忠政の娘。戸田氏西に嫁ぎ、氏定、氏成の2男を儲ける。 1703年(元禄16)12月23日没。法名「貞凉院殿光誉理教法雲大姉」。
戸田氏鉄の墓碑
戸田氏鉄
生 天正4年 (1576年)
没 承応4年 (1655年)
美濃大垣藩初代藩主。1576年(天正4)3月一西の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。大坂の両陣のときは居城である近江膳所城を守る。戦後、摂津尼崎5万石を与えられ、1635年(寛永12)7月に美濃大垣10万石へ加増移封。1655年(承応4)2月14日没。80才。法名「覺岸院殿長誉常閑大居士」。墓石は息子氏信の建立による。
戸田氏鉄妻の墓碑
戸田氏鉄妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
戸田康長の娘。母は徳川家康の異父妹松姫。戸田氏鉄に嫁ぎ、板倉重宗妻、氏信、本多正勝妻、氏経、松平忠国妻、頼鉄、氏照、利鉄の5男2女を儲ける。1654年(承応3)12月23日没。「心譽壽栄大姉」。
戸田氏長の墓碑
戸田氏長
生 貞享4年 (1687年)
没 享保20年 (1735年)
美濃大垣藩5代藩主。1687年(貞享4)11月氏定の次男として生まれる。1697年(元禄10)11才のときに徳川綱吉に拝謁。1723年(享保8)4月父が職を辞したため跡を継ぐ。1735年(享保20)8月10日没。49才。法名「享澤院殿乾誉徹元大居士」。
松平定信の墓碑
松平定信
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政12年 (1829年)
陸奥白河藩3代藩主。1758年(宝暦8)12月徳川宗武の7男として生まれる。1774年(安永3)3月松平定邦の養子となりその娘を妻とする。1775年(安永4)閏12月将軍徳川家治に拝謁。11代将軍徳川家斉のもとで老中首座を務め「寛政の改革」を行う。1829年(文政12)5月13日没。72才。法名「守國院殿崇蓮社天誉保徳樂翁大居士」。
松平忠吉妻の墓碑
松平忠吉妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
井伊直政の長女。徳川家康の4男松平忠吉に嫁ぐ。忠吉との間に、梅貞大童子の1男を儲ける。忠吉没後は実家に戻る。1627年(寛永4)9月28日没。法名「清泉院殿覚窓榮正大姉」。
松平忠敏の墓碑
松平忠敏
生 寛文12年 (1672年)
没 元禄8年 (1695年)
1672年(寛文12)忠継の長男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父の忠継が病弱のため、祖父忠倶の跡継ぎとなるも、1695年(元禄8)12月7日没。24才。法名「心源院殿蓮譽寂然道法大居士」。
松村監物の墓碑
松村監物
生 不明
没 寛永10年 (1633年)
堀尾家の家臣。主君堀尾忠晴が1633年(寛永10)9月24日に没すると2日後の26日に殉死。法名「大恕玄忠居士」。
水野勝種の墓碑
水野勝種
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄10年 (1697年)
備後福山藩4代藩主。1661年(寛文元)5月勝貞の長男として生まれる。1663年(寛文3)父の死により3才で家督を継ぐ。1668年(寛文8)9月将軍徳川家綱に拝謁。1697年(元禄10)8月23日没。37才。法名「萬輝院殿忠嶽全功大居士」。
水野勝貞妻の墓碑
水野勝貞妻
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
野瀬氏。水野勝貞の妻となり、女子、勝種の1男1女を儲ける。1679年(延宝7)7月2日没。法名「永久院殿」。墓石に「水野美作守勝慶之母堂」とあり勝慶とは勝種の前名である。
石川廉勝妻の墓碑
石川廉勝妻
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
堀尾忠晴の娘。石川宗十郎廉勝に嫁ぎ憲之を儲ける。1634年(寛永11)4月27日没。法名「法光院殿全心玄貞大姉」。墓石施主は夫石川宗十郎とある。
大道寺為久の墓碑
大道寺為久
生 寛永2年 (1625年)
没 延宝2年 (1674年)
1625年(寛永2)津軽信枚の子として生まれる。1640年(寛永17)大道寺直秀の娘と婚姻、家督を継ぐ。1647年(正保4)兄で藩主津軽信義を隠居させようとするも失敗、蟄居となる。のち許され家老職となる。1674年(延宝2)2月23日没。50才。法名「圓通院殿盛叟英堅巨居士」。
大道寺繁清の墓碑
大道寺繁清
生 明暦3年 (1657年)
没 元禄14年 (1701年)
1657年(明暦3)為久の子として生まれる。津軽信政に仕え家老職。妻は主君信政の妹。1701年(元禄14)8月27日没。45才。法名「眞乗院殿湛然無怕居士」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
大道寺繁清妻の墓碑
大道寺繁清妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
津軽信義の娘。伊与。大道寺繁清に嫁ぎ、直聴を儲ける。1701年(元禄14)2月4日没。法名「慶壽院殿徳窓妙善大姉」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
津軽信寧の墓碑
津軽信寧
生 元文2年 (1737年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥弘前藩7代藩主。1737年(元文2)信著の長男として生まれる。1753年(宝暦3)2月将軍徳川家重に拝謁。1784年(天明4)閏1月2日没。48才。法名「戒香院殿梅溪常薫大居士」。
津軽信明の墓碑
津軽信明
生 宝暦10年 (1760年)
没 寛政3年 (1791年)
陸奥弘前藩8代藩主。1760年(宝暦10)信寧の長男として生まれる。1766年(安永5)3月将軍徳川家治に拝謁。1784年(天明4)2月父の死により跡を継ぐ。天明の大飢饉により財政は悪化したため、藩内の改革を行う。1791年(寛政3)7月6日没。32才。法名「體孝院殿眞境普照大居士」。
津軽信義の墓碑
津軽信義
生 元和5年 (1619年)
没 明暦元年 (1655年)
陸奥弘前藩3代藩主。1619年(元和5)1月信枚の長男として生まれる。母は石田三成の3女辰姫。1631年(寛永8)父の死により跡を継ぐ。同年4月将軍徳川家光に拝謁。信義を強制隠居させる正保の騒動が起き、一族や家臣を粛清。1655年(明暦元)11月25日没。37才。法名「桂光院殿雪峯宗瑞大居士」。
津軽信順の墓碑
津軽信順
生 寛政12年 (1800年)
没 文久2年 (1862年)
陸奥弘前藩10代藩主。1800年(寛政12)3月寧親の次男として生まれる。1811年(文化8)1月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月父の隠居により跡を継ぐ。放蕩三昧な藩主のため家老高倉盛隆が諫死するも効果がなく、また素行が悪いため幕府から逼塞処分を受ける。1862年(文久2)10月14日没。63才。法名「寛廣院殿深達了義大居士」。
津軽寧親の墓碑
津軽寧親
生 明和2年 (1765年)
没 天保4年 (1833年)
陸奥弘前藩9代藩主。1765年(明和2)1月著高の長男として生まれる。1778年(安永7)5月黒石津軽家の家督を継ぐ。1791年(寛政3)8月本家藩主津軽信明が死去したため、本家の跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月に隠居。以後は俳句に没頭。1833年(天保4)6月14日没。69才。法名「上仙院殿権大僧都桃翁舜訽」。
津軽為信の墓碑
津軽為信
生 天文19年 (1550年)
没 慶長12年 (1607年)
陸奥弘前藩初代藩主。1550年(天文19)1月大浦守信の子として生まれる。南部氏より独立をして、豊臣秀吉に従う。1590年(天正18)秀吉の北条攻めのときは駿河国まで赴き、本領安堵の朱印を賜う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには徳川家康に味方。1607年(慶長12)12月5日没。58才。法名「瑞祥院殿天室梁棟大居士」。
津軽為信妻の墓碑
津軽為信妻
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
大浦為則の娘。名は阿保良、戌姫、お福。1567年(永禄10)津軽為信に嫁ぐ。為信の間に子は出来なかった。1628年(寛永5)4月29日没。法名「仙洞院殿即庵貞心大姉」。
津軽為信娘の墓碑
津軽為信娘
生 不明
没 元和8年 (1622年)
津軽為信の娘。信枚の妹。1622年(元和8)9月23日没。法名「東泉院殿清光恵林大姉」。墓石に「津輕越中守殿為御妹也」とある。青森県弘前市の貞昌寺にも墓がある。
津軽為永の墓碑
津軽為永
生 承応3年 (1654年)
没 延宝4年 (1676年)
1654年(承応3)信義の子として生まれる。親族の津軽為節の養子となり、1672(寛文12)19才のときに家督を継ぐ。1676年(延宝4)4月28日没。23才。法名「真性院殿繁庵常昌大居士」。
津軽順承の墓碑
津軽順承
生 寛政12年 (1800年)
没 元治2年 (1865年)
陸奥弘前藩11代藩主。1800年(寛政12)1月大河内信明の3男として生まれる。1821年(文政4)6月黒石藩津軽親足の養子となる。1839年(天保10)5月弘前藩主信順の隠居に伴い跡を継ぐ。1859年(安政6)2月隠居して俳句を楽しみ、梅翁という俳号を名乗る。1865年(元治2)2月5日没。66才。法名「政徳院殿修道幻光大居士」。
亀井政直妻の墓碑
亀井政直妻
生 正保2年 (1645年)
没 寛文3年 (1663年)
1645年(正保2)山内忠直の娘として生まれる。山内忠豊の養女となり亀井政直に嫁ぐ。1663年(寛文3)6月20日没。(19日説有)19才。法名「淨照院殿鏡室清光大姉」。墓石は1周忌の1664年(寛文4)6月20日に建立による。
五島盛尚の墓碑
五島盛尚
生 元禄8年 (1695年)
没 明和5年 (1768年)
肥前富江領3代領主。1695年(元禄8)盛朗の長男として生まれる。1711年(正徳元)4月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1726年(享保11)10月跡を継ぐ。1765年(明和2)12月隠居。1768年(明和5)3月2日没。74才。法名「大乗院殿頊明良圓大居士」。
五島盛峰の墓碑
五島盛峰
生 享保11年 (1726年)
没 安永2年 (1773年)
肥前富江領4代領主。1726年(享保11)盛尚の長男として生まれる。1752年(宝暦2)12月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1765年(明和2)12月跡を継ぐ。1773年(安永2)4月4日没。48才。法名「雄安院殿㯮禪良峯大居士」。
五島盛恭の墓碑
五島盛恭
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政元年 (1789年)
肥前富江領5代領主。1754年(宝暦4)盛道の4男として生まれる。1772年(安永元)12月将軍徳川家治に拝謁。時期は不明だが五島盛峰の養子となっており、1773年(安永2)7月盛峰の死により跡を継ぐ。1789年(寛政元)7月29日没。36才。法名「單傳院殿直心良機大居士」。墓石は息子兵次郎運龍の建立による。
五島盛朗の墓碑
五島盛朗
生 延宝5年 (1677年)
没 享保11年 (1726年)
肥前富江領2代領主。1677年(延宝5)盛清の長男として生まれる。父の死により1679年(延宝7)12月3才で跡を継ぐ。1683年(天和3)8月将軍徳川家綱に拝謁。1726年(享保11)7月18日没。50才。法名「瑞雲寺殿常山良真大居士」。墓石は息子修理盛尚の建立による。
五島運龍の墓碑
五島運龍
生 安永9年 (1780年)
没 天保15年 (1844年)
肥前富江領6代領主。1780年(安永9)盛恭の子として生まれる。父の死により1789年(寛政元)11月跡を継ぐ。1795年(寛政7)12月将軍徳川家斉に拝謁。1844年(天保15)9月6日没。65才。法名「瑞鳳院殿恭運良興大居士」。
伊達周宗の墓碑
伊達周宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文化6年 (1809年)
陸奥仙台藩9代藩主。1796年(寛政8)3月斉村の長男として生まれる。同年4月に祖父重村、同年7月父斉村が死去したため1才未満で跡を継ぐ。同時に将軍徳川家斉の3女綾姫と婚約。綾姫が没したため1806年(文化3)家斉の11女浅姫と婚約。1812年(文化9)2月疱瘡のため家督を弟斉宗に譲る。結婚することも将軍に拝謁することもなく同年4月24日没。17才。法名「青龍院殿紹山隆公大居士」。実際には、1809年(文化6)1月4日に14才で没してたらしい。
伊達宗信の墓碑
伊達宗信
生 慶長8年 (1603年)
没 寛永4年 (1627年)
1603年(慶長8)政宗の6男として生まれる。幼名吉松丸。1627年(寛永4)8月8日没。25才。法名「高照院殿外天洞雲大居士」。
伊達宗倫の墓碑
伊達宗倫
生 寛永17年 (1640年)
没 寛文10年 (1670年)
1640年(寛永17)4月忠宗の5男として生まれる。兄の五郎吉が登米伊達家を継いでいたが没したため宗倫が継ぐ。領内の新田開発を行い石高は上がったが、涌谷伊達家の宗重と領地の境界線問題で争うこととなる。1670年(寛文10)2月10日没。31才。法名「高臺院殿天山宗清大禅定門」。墓石は1682年(天和2)養子の大蔵村直が13回忌に建立。
伊達宗倫妻の墓碑
伊達宗倫妻
生 寛永15年 (1638年)
没 延宝5年 (1677年)
1638年(寛永15)白石宗貞の2女として生まれる。伊達宗倫に嫁ぐ。 1677年(延宝5)7月15日没。40才。法名「霊光院殿桂臺裔中大姉」。墓石は宗倫の養子の大蔵村直が1682年(天和2)7回忌に建立。(ただし7回忌だと延宝6年没となる)
伊達宗高の墓碑
伊達宗高
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永3年 (1626年)
1607年(慶長12)政宗の7男として生まれる。1626年(寛永3)閏4月徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。1626年(寛永3)8月17日没。20才。法名「龍島院殿涼山英清大居士」。家臣10人が殉死している。
伊達斉宗の墓碑
伊達斉宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文政2年 (1819年)
陸奥仙台藩10代藩主。1796年(寛政8)9月斉村の次男として生まれる。1812年(文化9)兄周宗の隠居(実は周宗は没していた)により家督を継ぐ。1819年(文政2)5月24日没。24才。法名「廣徳院殿英山元高大居士」。
伊達斉村の墓碑
伊達斉村
生 安永3年 (1774年)
没 寛政8年 (1796年)
陸奥仙台藩8代藩主。1774年(安永3)12月重村の次男として生まれる。1787年(天明7)将軍徳川家斉から1字を与えられ斉村と名乗る。1790年(寛政2)父の隠居により家督を相続。1796年(寛政8)7月27日没。23才。法名「永慶院殿桂山蘭榮大居士」。幕府には相続の都合で8月12日死去と届けている。
伊達斉義の墓碑
伊達斉義
生 寛政10年 (1798年)
没 文政10年 (1827年)
陸奥仙台藩11代藩主。1798年(寛政10)3月田村村資の4男として生まれる。1819年(文政2)4月仙台藩主伊達斉宗が亡くなったときに、斉宗娘と婚約して婿養子という形で藩主となる。同年8月将軍徳川家斉に拝謁。1827年(文政10)11月27日没。30才。法名「曹源院殿正山榮因大居士」。
伊達斉邦の墓碑
伊達斉邦
生 文化14年 (1817年)
没 天保12年 (1841年)
陸奥仙台藩12代藩主。1817年(文化14)9月宗充の長男として生まれる。1827年(文政10)1月仙台藩主斉義の婿養子となる。1828年(文政11)斉義の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)7月24日没。25才。法名「慈雲院殿龍山真珠大居士」。
伊達輝宗の墓碑
伊達輝宗
生 天文13年 (1544年)
没 天正13年 (1585年)
1544年(天文13)9月晴宗の次男として生まれる。1565年(永禄8)父の隠居により家督を継ぐ。家中をまとめ、遠藤基信を登用して外交を行わせる。1585年(天正13)10月8日陸奥二本松城主畠山義継が降伏後、輝宗の居城に訪れたときに義継と家臣に拉致される。二本松領付近まできたときに、味方の伊達勢に撃たれて義継共々死亡。法名「覚範寺殿性山受心大居士」。
伊達輝宗妻の墓碑
伊達輝宗妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
最上義守の娘として生まれる。名は義姫。伊達輝宗に嫁ぎ、政宗、小次郎、女、女の2男2女を儲ける。1588年(天正16)息子政宗と兄義光が合戦となると、戦場に輿で乗り込み両軍の停戦を行う。1594年(文禄3)伊達家から出奔して、実家の最上家に戻る。1622年(元和8)に最上家が改易となると仙台の政宗を頼る。1623年(元和9)7月17日没。法名「花窓久栄尼大姉」。墓石は逆修塔。
奥山兼清の墓碑
奥山兼清
生 元亀2年 (1571年)
没 元和2年 (1616年)
1571年(元亀2)目々沢常基の長男として生まれる。伊達政宗に仕え、人取橋の戦いや朝鮮出兵に従う。大坂の陣にも参戦。夏の陣の道明寺の戦いでは首を取る活躍をする。1616年(元和2)2月6日没。46才。墓石に「奥刕政宗内奥山出羽守為兼清・・」と没年月日が刻まれている。享年は40才の説もある。
山内一豊の墓碑
山内一豊
生 天文14年 (1545年)
没 慶長10年 (1605年)
土佐藩初代藩主。1545年(天文14)盛豊の3男として生まれる。豊臣秀吉に仕え姉川の戦い、播磨三木城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に従い、戦後土佐国を与えられる。1605年(慶長10)9月20日没。61才。法名「大通院殿心峯宗傳大居士」。
山内忠直の墓碑
山内忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文7年 (1667年)
土佐中村藩初代藩主。1613年(慶長18)9月忠義の次男として生まれる。1656年(明暦2)父の隠居の際、土佐中村にて3万石を与えられる。1667年(寛文7)6月9日没。55才。法名「顕徳院殿傑岩宗英大居士」。
山内忠義妻の墓碑
山内忠義妻
生 文禄4年 (1595年)
没 寛永9年 (1632年)
1595年(文禄4)松平定勝の次女として生まれる。名は阿姫。1605年(慶長10)徳川家康の養女として山内忠義に嫁ぐ。忠義との間に、忠豊、松下長綱妻、忠直の2男1女を儲ける。1632年(寛永9)2月13日没。38才。法名「光照院殿泰譽皓月大姉」。
島津綱久の墓碑
島津綱久
生 寛永9年 (1632年)
没 寛文13年 (1673年)
1632年(寛永9)4月光久の長男として生まれる。1651年(慶安4)将軍徳川家綱より一字を賜り綱久と名乗る。1673年(寛文13)2月19日父に先立ちて没。42才。法名「泰清院殿關山良無大居士」。
川勝広有の墓碑
川勝広有
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文13年 (1673年)
1631年(寛永8)広尚の子として生まれる。1644年(正保元)14才のとき徳川家光に拝謁。小姓組、西城御書院番士、奉行などを務める。1673年(寛文13)9月3日没。43才。法名「寂照院殿桂岸蒼秋居士」。
白石宗貞の墓碑
白石宗貞
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永21年 (1644年)
1597年(慶長2)宗直の長男として生まれる。登米伊達家2代当主。伊達政宗、忠宗に仕える。父宗直は伊達姓を許されたものの政宗の勘気を被り伊達姓を剥奪されていたが、1640年(寛永17)藩主忠宗より宗貞に再び伊達姓を与えられる。1644年(寛永21)4月11日没。48才。法名「長秀院殿茂林昌繁大居士」。墓石施主は長女の夫で養子となった五郎吉。
佐藤吉信の墓碑
佐藤吉信
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永13年 (1636年)
1608年(慶長13)向岩孫助の子として生まれる。内膳。伊達政宗に仕える。佐藤甚十郎と改名。出世して2千石を与えられる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。29才。法名「法得紹隆禅定門」。杉山理兵衛が吉信に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
入生田元康の墓碑
入生田元康
生 天正5年 (1577年)
没 寛永13年 (1636年)
1577年(天正5)成定の子として生まれる。三右衛門。16才のときに伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日に殉死。60才。法名「功翁知全禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤三右衛門の墓碑
加藤三右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
名は賀藤とも。伊達政宗家臣石田与純に仕える。1636年(寛永13) 与純が主君政宗に殉死すると、三右衛門も殉死。法名「梁岫元棟禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤昌吉の墓碑
加藤昌吉
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
備前池田家の家臣七太夫の子。十三郎。同僚を殺害したため、備前を離れ宇和島伊達秀宗に仕える。のち伊達政宗の近習となる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。23才。(21才とも)法名「説庭良宣禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
南政吉の墓碑
南政吉
生 元和元年 (1615年)
没 寛永13年 (1636年)
1615年(元和元)惣右衛門の子として生まれる。次郎吉。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)5月24日政宗が没すると同日殉死。22才。法名「清隠浄光禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
喜斎の墓碑
喜斎
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永13年 (1636年)
1562年(永禄5)生まれ。岡崎喜斎とも伝わるも詳細不明。1636年(寛永13)6月20日仏眼寺にて伊達政宗に殉死。75才。法名「悦嶂道観禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
大槻定安の墓碑
大槻定安
生 天正4年 (1576年)
没 寛永13年 (1636年)
1576年(天正4)生まれ。喜右衛門。伊達政宗に仕える。大坂夏の陣で首を取る。1636年(寛永13)6月19日殉死。61才。法名「天岑周徳禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小平元成の墓碑
小平元成
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。太郎左衛門。伊達政宗に仕える。京都伏見にて町人を斬ったため、政宗の命で高野山に逃れる。のちに名を武石仁右衛門として陸奥国に戻る。のちに政宗に再仕。1636年(寛永13) 6月19日自宅にて殉死。63才。法名「怡心道悦禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小野時村の墓碑
小野時村
生 天正14年 (1586年)
没 寛永13年 (1636年)
1586年(天正14)生まれ。二左衛門。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。51才。法名「涼窓受蔭禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
桑折綱長の墓碑
桑折綱長
生 元亀2年 (1571年)
没 寛永13年 (1636年)
1571年(元亀2)生まれ。豊後。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。66才。法名「竹友祟賢禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
矢目常重の墓碑
矢目常重
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。伊兵衛。伊達政宗に仕え、大坂の陣に従う。政宗が没すると1636年(寛永13)6月7日仙台覚範寺にて殉死。63才。法名「堅室道固禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
石田与純の墓碑
石田与純
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
1589年(天正17)大波大膳の次男として生まれる。将監。伊達政宗に仕える。石田豊前宗朝の娘を娶り婿となる。1636年(寛永13)6月21日に殉死。48才。法名「信澤道傳禅定門」。青柳伝右衛門と加藤三右衛門が与純に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
茂庭兼綱の墓碑
茂庭兼綱
生 文禄2年 (1593年)
没 寛永13年 (1636年)
1593年(文禄2)斎藤孫左衛門の子として生まれる。采女。中畠兵次の婿となり伊達政宗に仕える。茂庭綱元によって茂庭の姓を名乗る。1636年(寛永13)6月20日殉死。44才。法名「叟善昌因禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
菅野重虎の墓碑
菅野重虎
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永13年 (1636年)
1596年(慶長元)生まれ。正(勝)左衛門。重成とも。伊達政宗に火縄銃薬込役として仕える。政宗から拝領したという黒漆五枚胴具足が今に残る。1636年(寛永13)6月20日殉死。41才。法名「芳叔久聯禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
青木友重の墓碑
青木友重
生 慶長10年 (1605年)
没 寛永13年 (1636年)
1605年(慶長10)生まれ。戸田氏の出身。忠五郎。伊達政宗に小姓として仕える。青木源七郎の娘を娶り青木家を継ぐ。1636年(寛永13)6月20日に殉死。32才。法名「圓岫了規禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
仙石久信の墓碑
仙石久信
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄12年 (1699年)
1638年(寛永15)久邦の子として生まれる。1648年(慶安元)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。その際、6千石のうち千石を弟久尚に分け与える。1699年(元禄12)1月5日没。62才。法名「圓光院殿普岳常照居士」。
保科正重の墓碑
保科正重
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
正直の次男。冷遇されていたらしく詳細不明。晩年は異母弟正貞のもとに寄せていたと思われ、正貞の領地である千葉県木更津市の選擇寺にも墓がある。1636年(寛永13)8月23日没。法名「鳳桐院殿月光玄白大禅定門」。
内藤信良妻の墓碑
内藤信良妻
生 不明
没 不明
奥平忠昌の長女。名はミネ姫。内藤信良の正室となる。子を儲けることなく没す。法名「恵照院殿寂然宗空大禅定尼」。
内藤重頼の墓碑
内藤重頼
生 寛永5年 (1628年)
没 元禄3年 (1690年)
1628年(寛永5)正勝の長男として生まれる。1630年(寛永7)父が没すると遺領1万5千石を没収され5千石を相続。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。順調に加増を重ね3万3千石を領す。1687年(貞享4)京都所司代となる。1690年(元禄3)11月27日没。63才。法名「無著院殿然譽常光存空大居士」。
吉田良連娘の墓碑
吉田良連娘
生 不明
没 天保15年 (1844年)
吉田良連の3女。鷹司任子(徳川家定妻)に年寄役として仕える。通称勘解由小路。1844年(天保15)5月没。法名「功〇院殿熏譽昭和清均大姉」。膳所本多家墓域にあることから、母は本多康伴の娘と思われる。
奥平家昌の墓碑
奥平家昌
生 天正5年 (1577年)
没 慶長19年 (1614年)
下野宇都宮藩初代藩主。1577年(天正5)信昌の長男として生まれる。祖父徳川家康から1字を賜い家昌と名乗る。1601年(慶長6)下野宇都宮で10万石を与えれる。1614年(慶長19)10月10日没。38才。法名「六通院殿天眼道高大禅定門」。
奥平忠昌妻の墓碑
奥平忠昌妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
鳥居忠政の3女。奥平忠昌に嫁ぎ、内藤信良妻、最上義智妻、昌能、由良頼繁妻の1男3女を儲ける。1642年(寛永19)4月4日没。法名「桂嶽院殿少室香林大禅定尼」。
安藤重之の墓碑
安藤重之
生 元和9年 (1623年)
没 寛永18年 (1641年)
1623年(元和9)重長の長男として生まれる。跡を継ぐことなく1641年(寛永18)11月12日没。19才。法名「浄本院殿清譽理覺大禅定門」。墓石施主は息子伊勢千代(重博)。
安藤重信の墓碑
安藤重信
生 弘治3年 (1557年)
没 元和7年 (1621年)
上野高崎藩初代藩主。1557年(弘治3)基能の次男として生まれる。徳川家康に仕え1584年(天正12)長久手の戦いのときは兜首1つを獲った。後、家康3男秀忠に仕え、1600年(慶長5)真田昌幸の籠る上田城攻めに参戦。他、大坂の陣にも参戦。大久保忠隣、福島正則の所領没収のときに使者を務めている。1621年(元和7)6月29日没。65才。法名「栖岸院殿釋良善大居士」。
安藤重博の墓碑
安藤重博
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄11年 (1698年)
備中松山藩初代藩主。1640年(寛永17)重之の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。祖父重長の死により1657年(明暦3)11月上野高崎藩3代藩主となる。1695年(元禄8)5月備中松山に加増移封。1698年(元禄11)8月9日没。59才。法名「定慧院殿不漚覺海大居士」。
安藤重長の墓碑
安藤重長
生 慶長5年 (1600年)
没 明暦3年 (1657年)
上野高崎藩2代藩主。1600年(慶長5)本多正盛の長男として生まれる。母は安藤重信の娘。祖父重信の跡を継ぐ。1609年(慶長14)徳川家康に拝謁。徳川秀忠付となり、大坂の両陣に従い、夏の陣のときは首2つを取る。1632年(寛永9)改易となった徳川忠長を居城高崎城に預かる。1657年(明暦3)9月29日没。58才。法名「良峯院殿前京兆司録天誉泰翁居士」。
彦坂元正の墓碑
彦坂元正
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
光景の子。小刑部。徳川家康に仕え、代官、町奉行を務める。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは小荷駄奉行。領地の農民に訴えられ、さらに貢金を私物化したため改易となる。1634年(寛永11)1月8日没。法名「聚林居士」。墓石には、彦坂市兵衛(詳細不明)の名も見える。
彦坂吉成の墓碑
彦坂吉成
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
宗有の子。平九郎。吉家とも。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。大坂代官、倉敷代官など代官職を務む。1669年(寛文9)10月26日没。法名「法弓院殿」。
徳川治宝の墓碑
徳川治宝
生 明和8年 (1771年)
没 嘉永5年 (1852年)
紀伊和歌山藩10代藩主。1771年(明和8)6月重倫の次男として生まれる。将軍徳川家治より1字を賜い治宝と名乗る。大叔父で9代藩主治貞が没すると1789年(寛政元)10月跡を継ぐ。1824年(文政7)隠居。1852年(嘉永5)12月7日没。82才。法名「舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公」。
徳川茂承の墓碑
徳川茂承
生 天保15年 (1844年)
没 明治39年 (1906年)
紀伊和歌山藩14代藩主。1844年(天保15)1月松平頼学の6男として生まれる。1858年(安政5)に紀伊和歌山藩13代藩主慶福(家茂)が将軍になったため、14代藩主として跡を継ぐ。幕府崩壊後は、和歌山藩知事となる。1906年(明治39)8月20日没。63才。法名「慈承院殿剛健日純大居士」。
徳川頼倫の墓碑
徳川頼倫
生 明治5年 (1872年)
没 大正14年 (1925年)
紀州徳川家15代当主。1872年(明治5)6月慶頼の6男として生まれる。1880年(明治13)2月紀州徳川茂承の養子になる。1906年(明治39)8月家督を相続、貴族院議員となる。日本図書館協会総裁に就任したり、南方熊楠を支援するなど多方面に活躍。1925年(大正14)5月19日没。52才。法名「樹徳院殿●城高節大居士」。(●は臤に虎)
明智光秀の墓碑
明智光秀
生 不明
没 天正10年 (1582年)
生年不明。朝倉義景に仕え、その後足利義昭に仕える。義昭が没落すると織田信長に仕え重臣となる。1582年(天正10)6月2日主君信長を討つ。(本能寺の変)しかし、同じ信長の重臣豊臣秀吉と戦い(山崎の戦い)敗れ、同年6月13日落ち延びる途中土民に襲われ殺される。法名「秀岳院宗光禅定門」。この墓石にはかなり以前より法名等が全く読めないが光秀の墓と伝わっているので、正確には「伝明智光秀墓」である。
最上義智妻の墓碑
最上義智妻
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文4年 (1664年)
1642年(寛永19)奥平忠昌の娘として生まれる。名はてい。最上義智に嫁ぐ。1664年(寛文4)閏5月24日没。23才。法名「智光院殿槐窓壽貞大禅定尼」。
本多俊次の墓碑
本多俊次
生 文禄4年 (1595年)
没 寛文8年 (1668年)
近江膳所藩2代藩主。1595年(文禄4)康俊の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。大坂の陣に父とともに参戦。夏の陣のときには自ら槍を持ち首を取った。1621年(元和7)父の死去により家督を継ぐ。1668年(寛文8)8月11日没。74才。法名「専光院殿信蓮社深誉浄有大居士」。
本多俊次妻の墓碑
本多俊次妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
小田部統房の娘。立花宗茂の養女となり本多俊次に嫁ぐ。俊次の間に、康長、牧野光成妻、康将、忠顕、忠隆、俊正の4男1女を儲ける。1668年(寛文8)11月没。法名「崇安院殿明誉壽光大姉」。墓石施主は息子兵部少輔康将。
本多康俊の墓碑
本多康俊
生 永禄12年 (1569年)
没 元和7年 (1621年)
1569年(永禄12)酒井忠次の次男として生まれる。母は松平清康の娘碓井姫。徳川家康に仕え、幼少時は織田信長への人質となる。本多忠次の養子となり跡を継ぐ。関ケ原の戦い、大坂夏の陣に参戦して、近江国膳所で3万石を与えられる。1621年(元和7)2月7日没。53才。法名「梅香院英誉輝厳緑崇大居士」。墓石は息子下総守俊次と美作守忠相の建立による。
松平信一妻の墓碑
松平信一妻
生 不明
没 元和5年 (1619年)
松平好景の娘。松平信一に嫁ぎ、久清、大久保康忠妻、石川織部妻の1男2女を儲ける。1619年(元和5)10月28日没。法名「嶽雄院殿俊譽惣貞清大姉」。墓石は1643年(寛永20)10月28日の25回忌に信一の孫山城守忠国の建立による。
松平信吉妻の墓碑
松平信吉妻
生 不明
没 承応2年 (1653年)
松平信一の娘。松平信吉に嫁ぎ、忠国、忠晴、秋田俊季妻、忠秋、信治の4男1女を儲ける。1653年(承応2)6日23日没。法名「崇龍院殿華雄貞信大禅定尼」。墓石は息子山城守忠勝(忠国)の建立による。
松平光和の墓碑
松平光和
生 延享元年 (1744年)
没 安永4年 (1775年)
信濃松本藩4代藩主。1744年(延享元)光雄の6男として生まれる。兄光徳の養子となり1759年(宝暦9)3月跡を継ぐ。同月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)7月24日没。32才。法名「泰量院殿義範勇見大居士」。
松平光年の墓碑
松平光年
生 天明元年 (1781年)
没 天保8年 (1837年)
信濃松本藩7代藩主。1781年(天明元)光悌の子として生まれる。1794年(寛政6)2月松平光行の養子となる。同年4月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)光行の隠居により跡を継ぐ。1837年(天保8)2月4日没。57才。法名「神龍院殿大光啓雲大居士」。
松平光徳の墓碑
松平光徳
生 元文元年 (1736年)
没 宝暦9年 (1759年)
信濃松本藩3代藩主。1736年(元文元)光雄の長男として生まれる。1749年(寛延2)5月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1756年(宝暦6)閏11月跡を継ぐ。1759年(宝暦9)1月8日没。24才。法名「壷春院殿洞外義仙大居士」。
松平光悌の墓碑
松平光悌
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明6年 (1786年)
信濃松本藩5代藩主。1752年(宝暦2)光雄の8男として生まれる。兄光和の隠居により1774年(安永3)12月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1786年(天明6)6月21日没。35才。法名「本覺院殿則道了規大居士」。
松平光行の墓碑
松平光行
生 明和3年 (1766年)
没 天保10年 (1839年)
信濃松本藩6代藩主。1766年(明和3)戸田光為の4男として生まれる。松平光悌の養子となり娘を妻とする。光悌の死により1786年(天明6)8月跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)隠居して竹翁と号す。1839年(天保10)12月14日没。74才。法名「瑞光院殿祥巖道麟大居士」。
松平光領の墓碑
松平光領
生 文化12年 (1815年)
没 天保12年 (1841年)
1815年(文化12)4月光年の4男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。信濃松本藩主松平光庸の養子となっていたが、跡を継ぐことなく1841年(天保12)6月24日没。27才。
松平忠国の墓碑
松平忠国
生 慶長2年 (1597年)
没 万治2年 (1659年)
1597年(慶長2)8月17日藤井松平信吉の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川家康、秀忠に拝謁。1609年(慶長14)12月22日秀忠の御前で元服。1615年(元和元)5月7日大坂夏の陣で首を獲る手柄を立てる。1649年(慶安2)播磨明石城を与えられ7万石を領した。1659年(万治2)2月20日没。63才。法名「浄源院殿雲誉崇安道覚大居士」。墓石は息子日向守信之の建立による。
松平昌勝の墓碑
松平昌勝
生 寛永13年 (1636年)
没 元禄6年 (1693年)
越前松岡藩初代藩主。1636年(寛永13)3月忠昌の長男として生まれる。父の死後、5万石を分知され越前松岡藩主となる。父の福井藩を継ぐことが出来なかったが、息子3人が福井藩主となっている。1693年(元禄6)7月27日没。58才。法名「見性院殿鐵關了無大居士」。
溝口助勝の墓碑
溝口助勝
生 慶長16年 (1611年)
没 寛永13年 (1636年)
1611年(慶長16)善勝の次男として生まれる。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)遺領のうち3千石を相続する。1636年(寛永13)5月24日没。26才。法名「昌運東繁居士」。
溝口善勝の墓碑
溝口善勝
生 天正12年 (1584年)
没 寛永11年 (1634年)
越後沢海藩初代藩主。1584年(天正12)秀勝の次男として生まれる。1601年(慶長6)徳川家康に拝謁。のちに徳川秀忠に仕える。2千石を領していたが、1610年(慶長15)父の遺領のうち1万2千石を分与され越後沢海藩1万4千石の大名となる。大坂の両陣では、土井利勝に属して参陣。1634年(寛永11)5月2日没。 51才。法名「利性院殿大岳道徹大居士」。
溝口善勝妻の墓碑
溝口善勝妻
生 不明
没 不明
前田長種の娘。溝口善勝に嫁ぎ、政勝、助勝、安勝、信勝の4男を儲ける。法名「慶春院殿〇岳妙〇大姉」。墓石は逆修塔。
溝口宣勝の墓碑
溝口宣勝
生 天正10年 (1582年)
没 寛永5年 (1628年)
越後新発田藩2代藩主。1582年(天正10)秀勝の長男として生まれる。父の死により跡を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは松平忠輝に属して戦う。1628年(寛永5)10月29日没。47才。法名「松嶽寺殿傑岑善英大居士」。
溝口宣勝妻の墓碑
溝口宣勝妻
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
 堀秀政の娘。溝口宣勝に嫁ぎ、宣直、宣秋、宣俊、宣知、溝口政勝妻、長谷川正尚妻、徳永昌勝妻の3男3女を儲ける。1641年(寛永18)10月29日没。法名「長壽院殿寶屋慶延大姉」。墓石は1628年(寛永5)11月21日建立の逆修塔。
溝口宣直の墓碑
溝口宣直
生 慶長10年 (1605年)
没 延宝4年 (1676年)
越後新発田藩3代藩主。1605年(慶長10)宣勝の長男として生まれる。1611年(慶長16)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1672年(寛文12)9月隠居。1676年(延宝4)11月22日没。72才。法名「寒光院殿禅林味歇大居士」。
溝口政勝の墓碑
溝口政勝
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文10年 (1670年)
越後沢海藩2代藩主。1608年(慶長13)善勝の長男として生まれる。1622年(元和8)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)跡を継ぐ。その際、弟2人に4千石を分知したため沢海藩は1万石となる。1670年(寛文10)1月28日没。63才。法名「清香院殿恵観浄智大居士」。
溝口重雄の墓碑
溝口重雄
生 寛永10年 (1633年)
没 宝永5年 (1708年)
越後新発田藩4代藩主。1633年(寛永10)宣直の長男として生まれる。1640年(寛永17)10月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1672年(寛文12)9月跡を継ぐ。1706年(宝永3)7月隠居。1708年(宝永5)9月4日没。76才。法名「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
石田三成の墓碑
石田三成
生 永禄3年 (1560年)
没 慶長5年 (1600年)
1560年(永禄3)正継の3男として生まれる。近江長浜城主時代の豊臣秀吉に見出され仕える。文官奉行として頭角を現し豊臣政権下で五奉行となる。1600年(慶長5)9月関ヶ原の戦いのときは、徳川家康と戦うも敗れる。戦後、捕縛され同年10月1日六条河原で斬首となる。41才。法名「江東院正軸因公大禅定門」。墓石は1590年(天正18)3月18日逆修として建てられ法名「宗應」とある。
秋月種弘の墓碑
秋月種弘
生 貞享4年 (1687年)
没 宝暦3年 (1753年)
日向高鍋藩5代藩主。1687年(貞享4)11月種政の長男として生まれる。1700年(元禄13)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。1753年(宝暦3)7月21日没。67才。法名「瑞應院殿恵山宗定大居士」。
秋月種弘妻の墓碑
秋月種弘妻
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
柴垣氏の出にて、秋月種弘の妻となる。種弘との間に種美を儲ける。1756年(宝暦6)8月26日没。法名「凉照院殿桂輪貞香大姉」。墓石は息子佐渡守種美の建立による。
秋月種恒の墓碑
秋月種恒
生 承応3年 (1654年)
没 寛文11年 (1671年)
1654年(承応3)種信の長男として生まれる。1669年(寛文9)6月将軍徳川家綱に拝謁。父に先立ちて1671年(寛文11)10月10日没。18才。法名「松嶽院殿温室宗良居士」。
秋月種政の墓碑
秋月種政
生 万治元年 (1658年)
没 正徳6年 (1716年)
日向高鍋藩4代藩主。1658年(万治元)5月種信の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1689年(元禄2)2月跡を継ぐ。1710年(宝永7)閏8月隠居。1716年(正徳6)閏2月26日没。59才。法名「天祐院殿慶嶽宗善公大居士」。
秋月種政妻の墓碑
秋月種政妻
生 不明
没 享保19年 (1734年)
松浦棟の娘。秋月種政に嫁ぎ、種弘、脇坂安清妻、女子、女子の1男3女を儲ける。1734年(享保19)4月14日没。法名「正眼院殿心體了悟尼大姉」。墓石は息子長門守種弘の建立による。
荒尾隆重の墓碑
荒尾隆重
生 不明
没 元和3年 (1617年)
善次の3男。池田輝政の家臣。輝政没後は兄の成房とともに忠継の家老職となる。兄の成房は但馬守、隆重は志摩守を代々称した。1614年(慶長19)大坂の陣に出陣。1617年(元和3)7月11日没。法名「桂林院殿月峯浄心大居士」。
三浦高連の墓碑
三浦高連
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
初代五郎右衛門。今川氏真に仕え、のちに兄安久とともに井伊直政に仕える。長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従う。直政の娘が德川家康4男松平忠吉に嫁いだときに従い、忠吉の家臣となる。忠吉没後は井伊家に戻る。1611年(慶長16)7月29日没。法名「安祥院殿臺覚浄蓮居士」。墓石は2代目五郎右衛門高則の建立による。法名「清正院殿花覚妙蓮居士」もあるも高連の妻と思われる。墓石は為父母とあること、花や妙は女性の法名にあるのが一般的であることから妙蓮居士は妙蓮大姉の誤記と推察。
丹羽光重の墓碑
丹羽光重
生 元和7年 (1621年)
没 元禄14年 (1701年)
陸奥二本松藩初代藩主。1621年(元和7)12月長重の3男として生まれる。母は織田信長の娘。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1637年(寛永14)4月跡を継ぐ。1643年(寛永20)7月陸奥二本松藩へ移封。1679年(延宝7)4月隠居。1701年(元禄14)4月11日没。81才。法名「慈明院殿補闕玉峰大居士」。
丹羽長次の墓碑
丹羽長次
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄11年 (1698年)
陸奥二本松藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1653年(承応2)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1679年(延宝7)4月跡を継ぐ。1698年(元禄11)6月26日没。56才。法名「興國院殿節山麟功大居士」。
丹羽長重の墓碑
丹羽長重
生 元亀2年 (1571年)
没 慶長5年 (1600年)
陸奥白河藩初代藩主。1571年(元亀2)長秀の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦。父の死後跡を継ぐが、相次ぐ不祥事により123万石から4万石まで大幅な減封となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍の前田利長と戦い、戦後領地没収となる。のち大名に復帰、晩年は陸奥白河藩10万700石を領す。1637年(寛永14)閏3月6日没。67才。法名「大隣寺殿桀俊浄英大居士」。
久野宗俊の墓碑
久野宗俊
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永3年 (1706年)
紀州藩家老久野家3代当主。1643年(寛永20)宗晴の子として生まれる。父の死により1649年(慶安2)10月跡を継ぐ。1654年(承応3)田丸城代となる。1706年(宝永3)4月27日没。64才。法名「常立院殿信譽大圓大居士」。
久野宗晴の墓碑
久野宗晴
生 慶長14年 (1609年)
没 慶安2年 (1649年)
紀州藩家老久野家2代当主。1609年(慶長14)宗成の子として生まれる。紀州藩主徳川頼宣に仕える。父の死により1626年(寛永3)跡を継ぎ田丸城代となる。1649年(慶安2)6月1日没。41才。法名「長照院殿月峯宗閑居士」。
久野昌純の墓碑
久野昌純
生 天明7年 (1787年)
没 文政6年 (1823年)
紀州藩家老久野家7代当主。1787年(天明7)輝純の子として生まれる。父の死により1811年(文化8)2月跡を継ぐ。1823年(文政6)7月24日没。37才。法名「光徳院殿仁誉本空禮純大居士」。
久野輝純の墓碑
久野輝純
生 延享2年 (1745年)
没 文化8年 (1811年)
紀州藩家老久野家6代当主。1745年(延享2)俊純の子として生まれる。父の死により1773年(安永2)跡を継ぐ。1811年(文化8)1月20日没。67才。法名「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
伊奈忠常の墓碑
伊奈忠常
生 慶安元年 (1648年)
没 延宝8年 (1680年)
1648年(慶安元)忠克の長男として生まれる。父の死により1665年(寛文5)12月跡を継ぐ。翌年3月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)1月4日没。33才。法名「法性院殿空譽徹真大居士」。
伊奈忠篤の墓碑
伊奈忠篤
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄10年 (1697年)
1669年(寛文9)忠常の長男として生まれる。1679年(延宝7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1680年(延宝8)9月関東代官を継ぐ。1697年(元禄10)10月19日没。29才。法名「法玄院殿本譽覺真大居士」。
伊奈忠順の墓碑
伊奈忠順
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
忠常の次男。はじめ稲葉正篤の養子となる。兄忠篤の子が早世したため養子となり跡を継ぐ。1698年(元禄11)江戸永代橋を創架。1707年(宝永4)富士山噴火のときは災害対策の最高責任者として活躍。1712年(正徳2)2月29日没。法名「嶺頂院殿松譽哲翁大居士」。
内藤信成の墓碑
内藤信成
生 天文14年 (1545年)
没 慶長17年 (1612年)
1545年(天文14)嶋田景信の次男として生まれる。徳川家康の異母弟との説もある。内藤清長の養子となり、家康に仕える。丸根砦攻め、三河一向一揆、掛川城攻め、三方原の戦い、長篠の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)近江長浜城主となり4万石を領す。1612年(慶長17)7月24日没。68才。法名「法善寺殿陽竹宗賢大居士」。
内藤信正の墓碑
内藤信正
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永3年 (1626年)
摂津高槻藩主。1568年(永禄11)信成の長男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、九戸一揆、関ヶ原の戦いに参戦。1615年(元和元)閏6月摂津高槻城主となり5万石を領す。1626年(寛永3)4月28日没。59才。法名「光徳院殿善壽宗覚大禅定門」。
内藤信正妻の墓碑
内藤信正妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
石川康通の娘。内藤信正に嫁ぎ、信照を儲ける。1660年(万治3)3月24日没。法名「雲照院立譽宗建大信女」。墓石に「奥州高野郡棚倉城主内藤豊前守源朝臣信照 御袋方逆修建立之」とあり逆修塔である。没年月日も刻まれてるが、この部分のみ没後に刻まれたと思われる。
内藤信照の墓碑
内藤信照
生 文禄元年 (1592年)
没 寛文5年 (1665年)
陸奥棚倉藩初代藩主。1592年(文禄元)信正の長男として生まれる。多病ゆえ弟信武が嫡子となるも、1619年(元和5)信武が没したため嫡子となる。1626年(寛永3)跡を継ぐ。1627年(寛永4)陸奥棚倉藩に移封。1665年(寛文5)1月19日没。74才。法名「清淨院長岳良榮哲春大禅定門」。多病とあるも長生きをしている。
内藤信良の墓碑
内藤信良
生 寛永2年 (1625年)
没 元禄8年 (1695年)
陸奥棚倉藩2代藩主。1625年(寛永2)信照の長男として生まれる。1633年(寛永10)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1665年(寛文5)跡を継ぐ。1674年(延宝2)11月隠居。1695年(元禄8)7月23日没。71才。法名「寶岸院殿静挙供安大禅定門」。
大岡忠愛の墓碑
大岡忠愛
生 文化4年 (1807年)
没 安政4年 (1857年)
 三河西大平藩6代藩主。1807年(文化4)忠移の長男として生まれる。1828年(文政11)父の隠居により跡を継ぐ。1857年(安政4)10月5日没。51才。法名「徳光院殿永譽忠愛巍山大居士」。墓石側面には1857年(安政4)8月28日とあるので没したのが8月28日、後継ぎ(弟が相続)の関係で幕府に届けた没日が10月5日と思われる。
宍戸八助の墓碑
宍戸八助
生 宝永5年 (1708年)
没 正徳5年 (1715年)
1708年(宝永5)1月広隆の次男として生まれる。1715年(正徳5)11月22日没。8才。法名「梅梢院殿雲庭自白禅童子」。
宍戸就年の墓碑
宍戸就年
生 寛延2年 (1749年)
没 文政9年 (1826年)
1749年(寛延2)広周の次男として生まれる。父の藩内の失脚により1761年(宝暦11)跡を継ぐ。主君毛利重就より1字を賜い就年と名乗る。1826年(文政9)1月2日没。78才。法名「齢運院殿仁翁良壽大居士」。
宍戸就年妻の墓碑
宍戸就年妻
生 不明
没 文化12年 (1815年)
星坂正為の娘で矢野紀以の養女として宍戸就年に嫁ぐ。就年との間に、親朝を儲ける。1815年(文化12)2月17日没。法名「桺線院殿天室淨錦大姉」。墓石に「防州三尾宍戸美濃就年室」とある。
宍戸就延の墓碑
宍戸就延
生 寛永20年 (1643年)
没 享保7年 (1722年)
1643年(寛永20)2月熊谷元実の3男として生まれる。宍戸家を継いだ実兄宍戸就附が嫡男なく没したため、その跡を継ぐ。1722年(享保7)7月16日没。80才。法名「徳光院殿空峯心等大居士」。
宍戸就延妻の墓碑
宍戸就延妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
毛利就嘉の娘。宍戸就延に嫁ぎ、弥三郎、福原広頼妻、宍戸広隆妻の1男2女を儲ける。1714年(正徳4)3月26日没。法名「廣徳院殿鏡月慈光大姉」。
宍戸就附の墓碑
宍戸就附
生 寛永12年 (1635年)
没 延宝4年 (1676年)
1635年(寛永12)5月熊谷元実の長男として生まれる。伯父宍戸就尚が没したときその娘を娶り跡を継ぐ。毛利一門として家老職。毛利秀就、綱広に仕える。1676年(延宝4)12月14日没。42才。法名「立徳院殿外翁宗格居士」。
宍戸就附妻の墓碑
宍戸就附妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
宍戸就尚の娘。宍戸(熊谷)就附を婿養子として結婚。就附との間に、毛利定道妻、益田就高妻、毛利広矩妻、毛利就久妻の4女を儲ける。1665年(寛文5)8月14日没。法名「心鏡院殿妙照月清大姉」。
宍戸広周の墓碑
宍戸広周
生 享保5年 (1720年)
没 安永元年 (1772年)
1720年(享保5)熊谷元貞の次男として生まれる。宍戸広隆が没すると養子となり跡を継ぐ。藩主毛利宗広より1字を賜い、広満(のち広周)と名乗る。1772年(安永元)9月2日没。53才。法名「国樹院殿楨郷枯淡大居士」。墓石は1780年(安永9)9月の建立による。
宍戸広周妻の墓碑
宍戸広周妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
毛利元連の娘。宍戸広周に嫁ぎ、四郎、志道就良妻、内藤栄勝妻、女子の1男3女を儲ける。1801年(享和元)9月16日没。法名「恭性院殿永真本敬大姉」。
宍戸広隆の墓碑
宍戸広隆
生 貞享3年 (1686年)
没 元文元年 (1736年)
1686年(貞享3)熊谷就実の長男として生まれる。藩主毛利吉広より1字を賜り広隆と名乗る。1722年(享保7)叔父宍戸就延の死により跡を継ぐ。1736年(元文元)11月5日没。51才。法名「天心院殿義翁尊孝大居士」。墓石は養子宍戸広周の建立による。
宍戸広隆妻の墓碑
宍戸広隆妻
生 不明
没 享保15年 (1730年)
宍戸就延の次女。宍戸広隆に嫁ぎ、婿とする。広隆との間に、孫四郎、八助、竹次郎、女子の3男1女を儲ける。1730年(享保15)12月12日没。法名「恵光院殿寒月智照大姉」。
宍戸親朝の墓碑
宍戸親朝
生 安永元年 (1772年)
没 天保2年 (1831年)
1772年(安永元)就年の長男として生まれる。主君毛利治親より1字を賜り親朝と名乗る。1811年(文化8)藩主毛利斉熙に従い将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1818年(文政元)跡を継ぐ。1831年(天保2)8月24日没。60才。法名「大隆院殿孝運常觀大居士」。
宍戸親朝妻の墓碑
宍戸親朝妻
生 不明
没 文政5年 (1822年)
梅園実縄の娘で毛利就任の養女として宍戸親朝に嫁ぐ。親朝との間に、元礼を儲ける。1822年(文政5)9月4日没。法名「瓊琳院殿寶室貞盤大姉」。墓石に「宍戸主計親朝室」とある。
山名時義の墓碑
山名時義
生 貞和2年 (1346年)
没 康応元年 (1389年)
1346年(貞和2)山名時氏の5男として生まれる。南朝方に味方をしていたが、幕府方に帰参。1363年(貞治2)将軍足利義詮に拝謁。1376年(永和2)兄師義の死により家督を継ぐ。但馬守護のほか備後守護も担い11ヶ国を領有、「六分一殿」と称される。1389年(康応元)5月4日没。44才。法名「圓通寺殿大等宗均大禅定門」。墓石は1404年(応永11)5月4日の建立による。
山浦清麿の墓碑
山浦清麿
生 文化10年 (1813年)
没 嘉永7年 (1854年)
1813年(文化10)3月昌友の次男として生まれる。源清麿とも。信州上田藩主真田幸貫の命により江戸に行き、刀工として活躍。水心子正秀、大慶直胤とともに「江戸三作」と呼ばれる。1854年(嘉永7)11月14日自殺。42才。法名「大道院義心居士」。
徳川斉彊の墓碑
徳川斉彊
生 文政3年 (1820年)
没 嘉永2年 (1849年)
紀伊和歌山藩12代藩主。 1820年(文政3)4月家斉の21男として生まれる。1827年(文政10)清水徳川家を継ぐ。1834年(天保5) 元服のとき将軍で父でもある家斉から1字を賜り斉彊と名乗る。1846年(弘化3)和歌山藩主で兄でもある斉順が死去すると紀伊徳川家を継ぐ。1849年(嘉永2)3月1日没。30才。法名「憲章院殿至徳道光大居士」。
徳川斉順の墓碑
徳川斉順
生 享和元年 (1801年)
没 弘化3年 (1846年)
紀伊和歌山藩11代藩主。 1801年(享和元)9月家斉の7男として生まれる。1805年(文化2)11月清水徳川家を継ぐ。1815年(文化12)2月元服のとき父で将軍の家斉から1字を賜り斉順と名乗る。1824年(文政7)6月和歌山藩主となる。1846年(弘化3)5月8日没。46才。法名「顯龍院殿恭譲圓輝大居士」。
徳川治貞の墓碑
徳川治貞
生 享保13年 (1728年)
没 寛政元年 (1789年)
紀伊和歌山藩9代藩主。 1728年(享保13)2月宗直の次男として生まれる。1741年(寛保元)松平頼邑の養子となる。1775年(安永4)紀伊和歌山藩8代藩主徳川重倫が隠居すると養子となり跡を継ぐ。10代将軍徳川家治より1字を賜い治貞と名乗る。1789年(寛政元)10月26日没。62才。法名「香嚴院殿心齋圓通大居士」。
徳川重倫の墓碑
徳川重倫
生 延享3年 (1746年)
没 文政12年 (1829年)
紀伊和歌山藩8代藩主。 1746年(延享3)2月宗将の次男として生まれる。 1755年(宝暦5)11月元服のとき将軍徳川家重より1字を賜り重倫と名乗る。1765年(明和2)20才で藩主になり30才で隠居。隠居生活を54年以上送り、1829年(文政12)6月2日没。84才。法名「観自在院殿太眞大居士」。
戸沢正庸の墓碑
戸沢正庸
生 寛文4年 (1664年)
没 元文5年 (1740年)
出羽新庄藩3代藩主。1664年(寛文4)5月戸沢家重臣楢岡友清の4男として生まれる。1686年(貞享3)5月藩主戸沢正誠の養子となる。同年6月将軍徳川綱吉に拝謁。正誠の隠居により1710年(宝永7)2月跡を継ぐ。1740年(元文5)12月27日没。77才。法名「源徳院殿龐山常隆大居士」。
有馬豊氏の墓碑
有馬豊氏
生 永禄12年 (1569年)
没 寛永19年 (1642年)
筑後久留米藩初代藩主。1569年(永禄12)則頼の次男として生まれる。豊臣秀吉に仕え遠江横須賀で3万石を領す。のち徳川家康に仕え家康養女を妻とする。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)閏12月筑後久留米にて21万石を与えられる。1642年(寛永19)閏9月30日没。74才。法名「春林院殿如夢道長大居士」。
本多忠勝の墓碑
本多忠勝
生 天文17年 (1548年)
没 慶長15年 (1610年)
1548年(天文17)2月忠高の長男として生まれる。幼い時より徳川家康に仕え、大高城兵糧入れ、三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。徳川四天王の1人。1610年(慶長15)10月18日没。63才。法名「西岸寺殿長譽良信居士」。
本多忠勝妻の墓碑
本多忠勝妻
生 不明
没 慶長18年 (1613年)
松平玄鉄(阿知和右衛門玄鉄)の娘。1569年(永禄12)10月徳川家康が媒酌人となり本多忠勝に嫁ぐ。忠勝との間に小松姫(真田信之室)、奥平信昌室、忠政、忠朝、本多信之室の2男3女を儲けた。1613年(慶長18)9月14日没。法名「見性院殿蓮譽光信大姉」。
本多忠政の墓碑
本多忠政
生 天正3年 (1575年)
没 寛永8年 (1631年)
1575年(天正3)忠勝の長男として生まれる。1590年(天正18)小田原合戦のときは父忠勝に従い岩槻城を攻めた。そのとき敵の妹尾下総守を討取る。この功績で秀吉から腰刀を賜った。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属して上田城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1631年(寛永8)8月10日没。57才。法名「大乾院殿秋譽長岳道悟大居士」。
本多忠盈の墓碑
本多忠盈
生 享保17年 (1732年)
没 明和4年 (1767年)
石見浜田藩2代藩主。1732年(享保17)真田信弘の6男として生まれる。1759年(宝暦9)7月本多忠敞の養子となり、その娘を妻とする。同年閏8月跡を継ぎ、将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)閏9月16日没。36才。法名「元徳院殿仁譽智興永崇大居士」。
本多政信の墓碑
本多政信
生 寛永11年 (1634年)
没 寛文2年 (1662年)
1634年(寛永11)政朝の3男として生まれる。本多政勝の養子となり、1644年(正保元)11月将軍徳川家光に拝謁。1653年(承応2)10月大和国内にて1万石を領す。1662年(寛文2)4月20日没。29才。法名「覺了院殿英真哲翁居士」。
松平乗寿の墓碑
松平乗寿
生 慶長5年 (1600年)
没 承応3年 (1654年)
1600年(慶長5)生まれ。大給松平家乗の長男。1614年(慶長19)父の死により遺領を継ぐ。のち徳川家康、秀忠に拝謁。大坂の陣のときには、稲葉正成、遠藤慶隆、稲葉方通、平岡頼資、妻木頼忠たちの美濃衆の組頭となり出陣。美濃国岩村2万余石から遠江国浜松3万6千石、さらに上野国館林6万余石と加増を重ねた。1654年(承応3)1月26日没。55才。法名「源高院殿忠蓮社深譽道徹居士」。
松平乗寿妻の墓碑
松平乗寿妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
赤城氏。松平乗寿の側室となり、乗久、石川乗政の2男を儲ける。1651年(慶安4)1月27日没。法名「了泉院殿春誉雲覚貞法大信女」。越前国丹生郡朝日村志、成田市史等では了仙院殿」としている。墓石は息子石川乗政の建立による。
松平信之の墓碑
松平信之
生 寛永8年 (1631年)
没 貞享3年 (1686年)
下総古河藩初代藩主。1631年(寛永8)忠国の次男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1659年(万治2)4月播磨明石藩主を継ぐ。1679年(延宝7)大和郡山藩に移封。1685年(貞享2)老中となり、下総古河藩へ加増移封。1686年(貞享3)7月22日没。56才。法名「長昌院殿窓譽江月圓榮大居士」。
松平忠良妻(圓明院)の墓碑
松平忠良妻(圓明院)
生 不明
没 元和6年 (1620年)
酒井家次の娘。松平忠良に嫁ぎ、金田房能妻、黒田忠之妻、松平直政妻、佐久間勝友妻、忠憲の1男4女を儲ける。1620年(元和6)4月9日没。法名「圓明院殿花岳貞心大禅定尼」。
松平忠重の墓碑
松平忠重
生 不明
没 寛永2年 (1625年)
深溝松平家忠の4男。三郎兵衛。高野山の墓石より下総国生まれ、とあるので父家忠が下総国を治め始めた文禄期以降に生まれたことになる。紀伊徳川頼宣に仕える。1625年(寛永2)6月3日没。法名「金邦源真居士」。妻は諏訪頼水の娘。
松平忠重妻の墓碑
松平忠重妻
生 不明
没 不明
諏訪頼水の娘。松平忠重に嫁ぐ。法名「梅香春清禅定尼」。墓石は1625年(寛永2)8月15日建立の逆修塔。「和哥山松平三郎兵衛内儀逆修」「信州諏訪因幡守息女」が刻まれている。
益田就宣妻の墓碑
益田就宣妻
生 元和8年 (1622年)
没 寛文2年 (1662年)
1622年(元和8)吉川広家の長女として生まれる。名は今子。益田就宣の正室となる。就宣との間に、徳子、百子、毛利元勝妻、竹松、千太郎の2男3女を儲ける。1662年(寛文2)7月8日没。41才。法名「法雲院殿寂照理空大姉」。墓石に「吉川蔵人藤原廣家」が読める。
藤堂高次妻(松林院)の墓碑
藤堂高次妻(松林院)
生 不明
没 宝永4年 (1707年)
平井十郎右衛門の娘。名は於光。藤堂高次に嫁ぎ、堯円妻、高睦の1男1女を儲ける。1707年(宝永4)1月27日没。法名「松林院殿智月妙光大姉」。
藤堂高次妻(長生院)の墓碑
藤堂高次妻(長生院)
生 不明
没 貞享4年 (1687年)
多羅尾光量の娘。名は振。藤堂高次に嫁ぎ、市右衛門、勘姫、高久、高通の3男1女を儲ける。1687年(貞享4)4月21日没。法名「長生院殿仙嶽栄壽大姉」。墓石は逆修塔。
豊臣朝臣茂勝の墓碑
豊臣朝臣茂勝
生 不明
没 不明
「豊臣朝臣茂勝逆修」と「峕慶長三年七月十一日」が読める。1598年(慶長3)時点で「茂勝」を名乗っていた人物は横浜茂勝と加藤嘉明が該当するが、両人とも豊臣姓を下賜された記録がない。どちらかの逆修墓であると思われるが確証を得ず。
酒井了次の墓碑
酒井了次
生 慶長11年 (1606年)
没 寛永12年 (1635年)
1606年(慶長11)家次の5男として生まれる。讒言により藩主で兄忠勝から高野山へ蟄居を命じられるも、山を下り幕府に訴える。これにより今度は庄内藩領内に幽閉となる。1635年(寛永12)5月11日没。30才。法名「弘誓院殿応譽貞感居士」。墓石は1周忌に酒井宮内(忠勝か)の建立による。
酒井家次の墓碑
酒井家次
生 永禄7年 (1564年)
没 元和4年 (1618年)
1564年(永禄7)忠次の長男として生まれる。徳川家康に1字を賜い、家次と名乗る。1575年(天正3)長篠の戦いのときは父に従い鳶巣山を攻める。父の隠居により1588年(天正16)10月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1616年(元和2)加増移封により越後高田藩10万石。1618年(元和4)3月15日没。55才。法名「梅林院殿圓譽宗慶大居士」。
酒井家次妻の墓碑
酒井家次妻
生 不明
没 慶安2年 (1649年)
榊原正吉の娘。酒井家次に嫁ぎ、忠勝、直次の2男を儲ける。鶴岡城二之丸に住んでいたことより二ノ丸殿と称す。1649年(慶安2)12月15日没。法名「福聚院殿法誉昌清貞感大姉」。墓石は逆修塔。
酒井左衛門次郎の墓碑
酒井左衛門次郎
生 不明
没 正保2年 (1645年)
庄内藩主酒井忠勝弟民部政時の長男。父政時は庄内藩家臣柴谷武右衛門の養子となっていたが、政時、武右衛門が相次いで没したため、酒井姓に戻す。1645年(正保2)9月3日没。法名「雲光院殿智月晴圓居士」。
酒井忠予の墓碑
酒井忠予
生 明暦3年 (1657年)
没 享保20年 (1735年)
出羽松山藩2代藩主。1657年(明暦3)忠恒の長男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)10月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1732年(享保17)11月隠居。1735年(享保20)12月16日没。79才。法名「詠鏡院殿勝譽起清遊園大居士」。
酒井忠予娘の墓碑
酒井忠予娘
生 不明
没 元禄9年 (1696年)
酒井忠予の娘。1696年(元禄9)8月16日に早世。法名「淨林院殿寶譽清安秋榮大信女」。墓石は母(忠予妻)の建立による。
酒井忠恒の墓碑
酒井忠恒
生 寛永16年 (1639年)
没 延宝3年 (1675年)
出羽松山藩初代藩主。1639年(寛永16)忠勝の3男として生まれる。父の遺領のうち2万石を分知され出羽松山藩主となる。1648年(慶安元)2月将軍徳川家光に拝謁。1675年(延宝3)8月6日没。37才。法名「光顔院殿覚譽道専受法大居士」。
酒井忠辰の墓碑
酒井忠辰
生 元禄13年 (1700年)
没 宝永6年 (1709年)
1700年(元禄13)忠真の長男として生まれる。1708年(宝永5)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1709年(宝永6)1月19日没。10才。法名「寶林院殿陽山香心大童子」。
酒井直次の墓碑
酒井直次
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永8年 (1631年)
1596年(慶長元)家次の次男として生まれる。1622年(元和8)兄忠勝が出羽庄内藩に加増移封となると、1万2千石を分知され出羽左沢藩主となる。1631年(寛永8)3月10日没。36才。法名「慈光院殿凉譽琳清大居士」。
酒井直次妻の墓碑
酒井直次妻
生 不明
没 不明
酒井直次の妻。墓石に「生国三州」とあり、鳥居忠政の娘と思われる。法名「永壽院殿淨譽華屋清薫大信女」。墓石は逆修塔。1631年(寛永8)8月15日と墓石にあるが、建立日か没年月日か不明。
飯塚綱重の墓碑
飯塚綱重
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治2)貞重の子として生まれる。佐野昌綱、宗綱、北条氏忠に仕える。その後、常陸国に至り佐竹義宣に仕える。1602年(慶長7)徳川家康に仕える。1614年(慶長19)大坂冬の陣には土井利勝に属して参戦。1623年(元和9)5月21日没。68才。法名「寶山盛印居士」。
飯塚綱重妻の墓碑
飯塚綱重妻
生 不明
没 不明
墓石に「生國下野佐野住飯塚〇〇平朝臣綱重簾中」とあるので、佐野周防守家臣高瀬紀伊豊友の娘と思われる。飯塚綱重に嫁ぎ、忠重を儲ける。法名「妙金禅尼」。墓石は1625年(寛永2)8月建立の逆修塔。
香宗我部親泰の墓碑
香宗我部親泰
生 天文12年 (1543年)
没 文禄2年 (1593年)
1543年(天文12)長宗我部国親の3男として生まれる。香宗我部親秀の養子となり兄長宗我部元親の家臣として戦いに参加して活躍。他国の大名との外交も行う。1593年(文禄2)12月21日没。51才。法名「瑞松院殿明彭孤仙大禅定門」。
高木正剛の墓碑
高木正剛
生 安永2年 (1773年)
没 天保5年 (1834年)
河内丹南藩10代藩主。1773年(安永2)松平忠福の次男として生まれる。1781年(天明元)5月高木正直の養子となり娘を娶る。同年6月跡を継ぐ。1791年(寛政3)2月将軍徳川家斉に拝謁。1834年(天保5)7月5日没。62才。法名「良弘院殿建譽秀道常葉大居士」。
高木正恒の墓碑
高木正恒
生 正徳4年 (1714年)
没 寛保3年 (1743年)
河内丹南藩7代藩主。1714年(正徳4)板倉重行の次男として生まれる。1719年(享保4)11月高木正陳の養子となる。1728年(享保13)2月将軍徳川吉宗に拝謁。正陳の死により1741年(寛保元)4月跡を継ぐ。1743年(寛保3)6月4日没。30才。法名「法源院殿圓誉智寛道應居士」。
高木正成の墓碑
高木正成
生 天正15年 (1587年)
没 寛永12年 (1635年)
河内丹南藩2代藩主。1587年(天正15)正次の長男として生まれる。徳川家康に仕える。信州上田城攻め、大坂の両陣に参陣。父の死により、1631年(寛永8)3月跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月2日没。49才。法名「釋道向」。墓石は息子善次郎正弘の建立による。
高木正明の墓碑
高木正明
生 享和3年 (1803年)
没 明治2年 (1869年)
河内丹南藩11代藩主。1803年(享和3)閏1月正剛の長男として生まれる。1819年(文政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1826年(文政9)10月跡を継ぐ。1848年(嘉永元)8月隠居。1869年(明治2)9月13日没。67才。法名「智覺院殿見融通照〇翁大居士」。
高木正次の墓碑
高木正次
生 永禄6年 (1563年)
没 寛永7年 (1630年)
河内丹南藩初代藩主。1563年(永禄6)清秀の3男として生まれる。1582年(天正10)より徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠に属して上田城攻めに参陣。大坂夏の陣に参陣して戦功をたてる。1630年(寛永7)11月30日没。68才。法名「釋浄照」。
高木正直の墓碑
高木正直
生 宝暦6年 (1756年)
没 天明元年 (1781年)
河内丹南藩9代藩主。1756年(宝暦6)酒井忠与の4男として生まれる。1777年(安永6)1月高木正弼の長女を娶り養子となる。同年12月将軍徳川家治に拝謁。正弼の死により1780年(安永9)11月跡を継ぐ。1781年(天明元)5月26日没。26才。法名「圓淨院殿英誉義光亮純大居士」。
高木正豊の墓碑
高木正豊
生 寛文2年 (1662年)
没 延宝9年 (1681年)
河内丹南藩5代藩主。1662年(寛文2)正盛の長男として生まれる。母は板倉重矩の娘。父の死により1670年(寛文10)4月跡を継ぐ。同年5月将軍徳川家綱に拝謁。1681年(延宝9)5月12日没。20才。法名「峯穹院殿堅譽意仙居士」。
高木正陳の墓碑
高木正陳
生 寛文5年 (1665年)
没 元文6年 (1741年)
河内丹南藩6代藩主。1665年(寛文5)正盛の次男として生まれる。1681年(天和元)5月河内丹南藩5代藩主正豊の養子となり、同年7月跡を継ぐ。同月将軍徳川綱吉に拝謁。1741年(元文6)2月5日没。77才。法名「元亨院殿乾譽學黌性久大居士」。墓石は孫の主水正弼の建立による。
伊東祐丕の墓碑
伊東祐丕
生 寛政9年 (1797年)
没 文化11年 (1814年)
日向飫肥藩12代藩主。1797年(寛政9)閏7月祐鐘の次男として生まれる。1812年(文化9)6月兄祐民の死により跡を継ぐ。1814年(文化11)8月14日没。18才。法名「玄徳院殿三要宗心大居士」。
伊東祐久の墓碑
伊東祐久
生 慶長14年 (1609年)
没 明暦3年 (1657年)
日向飫肥藩3代藩主。1609年(慶長14)7月祐慶の長男として生まれる。1620年(元和6)将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)5月父の死により家督を継ぐ。1637年(寛永14)島原の乱に出陣。1657年(明暦3)10月27日没。49才。法名「慈雲院殿玄龍大居士」。
伊東祐久妻の墓碑
伊東祐久妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
滝川法直の娘。伊東祐久に嫁ぎ、祐次、鶴千代、女子、祐春、祐実の4男1女を儲ける。1645年(正保2)3月12日没。法名「養華院殿圓光理春大禅定尼」。墓石は1671年(寛文11)4月12日息子出雲守祐実の建立による。
伊東祐之の墓碑
伊東祐之
生 享保12年 (1727年)
没 延享元年 (1744年)
日向飫肥藩7代藩主。 1727年(享保12)5月祐永の9男として生まれる。1739年(元文4)3月父の死により家督を継ぐ。1742年(寛保2)10月将軍徳川吉宗に拝謁。1744年(延享元)9月2日没。18才。法名「天受院殿仁空義眞大居士」。
伊東祐兵の墓碑
伊東祐兵
生 永禄2年 (1559年)
没 慶長5年 (1600年)
日向飫肥藩初代藩主。 1559年(永禄2)1月義祐の3男として生まれる。1577年(天正5)島津氏の攻撃により城を奪われ大友宗麟のもとに逃げる。しかし宗麟も耳川の戦いで島津氏に大敗。祐兵は伊予国の大内氏を頼る。のち、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従う。秀吉が島津征伐をしたのち、日向国を与えられ旧領に復帰。1600年(慶長5)10月11日没。42才。法名「報恩寺殿心関宗安大禅定門」。
伊東祐兵妻の墓碑
伊東祐兵妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
伊東義益の娘。阿虎の方。伊東祐兵に嫁ぎ、伊東祐平妻、祐慶、成瀬正武妻、滝川法直妻、祐寿の2男3女を儲ける。1637年(寛永14)3月4日没。法名「松壽院殿正巌慶因尼大姉」。
伊東祐実の墓碑
伊東祐実
生 寛永21年 (1644年)
没 享保8年 (1723年)
日向飫肥藩5代藩主。 1644年(寛永21)1月祐久の4男として生まれる。1661年(寛文元)6月兄祐由の養子となる。同年8月兄の死により跡を継ぐ。同年閏8月将軍徳川家綱に拝謁。1714年(正徳4)4月祐永に家督を譲って隠居。1723年(享保8)9月18日没。80才。法名「洞林院殿佺叟丹心大居士」。
伊東祐実妻(槐巖院)の墓碑
伊東祐実妻(槐巖院)
生 明暦2年 (1656年)
没 元禄6年 (1693年)
1656年(明暦2)鍋島光茂の娘として生まれる。春姫。伊東祐実に嫁ぐも子供は出来なかった。1693年(元禄6)5月22日没。(墓石は23日とある)法名「槐巖院殿慈蔭貞凉大禪定尼」。墓石は祐実の子駿河守祐崇(母は土岐頼泰の娘)の建立による。
伊東祐実妻(龍珠院)の墓碑
伊東祐実妻(龍珠院)
生 不明
没 延宝3年 (1675年)
秋田盛季の娘。於子々。伊東祐実に嫁ぎ1女を儲ける。1675年(延宝3)9月7日没。法名「龍珠院殿宗玄妙猷大姉」。墓石は1677年(延宝5)3月26日夫祐実の建立による。
伊東祐崇妻の墓碑
伊東祐崇妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
分部信政の娘。伊東祐崇の妻。1698年(元禄11)6月4日没。法名「眞照院殿清鏡圓智大姉」。
伊東祐慶の墓碑
伊東祐慶
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
日向飫肥藩2代藩主。1589年(天正17)6月祐兵の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方する。同年、父の死により跡を継ぐ。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは出陣するも戦場に着く前に戦が終わったため領地に引き返す。1636年(寛永13)4月4日没。48才。法名「東禅寺殿泰雲玄興大居士」。
伊東祐慶妻の墓碑
伊東祐慶妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
佐藤隆勝の娘。伊東祐慶の妻。1638年(寛永15)9月13日没。法名「良昌院殿法源妙応大姉」。墓石施主は義理の息子大和守祐久。
伊東祐民の墓碑
伊東祐民
生 寛政4年 (1792年)
没 文化9年 (1812年)
日向飫肥藩11代藩主。1792年(寛政4)2月祐鐘の長男として生まれる。1798年(寛政10)父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)6月29日没。21才。法名「泰梁院殿通峯玄津大居士」。
伊東祐永の墓碑
伊東祐永
生 元禄4年 (1691年)
没 元文4年 (1739年)
日向飫肥藩6代藩主。1691年(元禄4)祐信の子として生まれる。祐実の養子となる。1707年(宝永4)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)4月祐実の隠居により家督を継ぐ。1739年(元文4)1月14日没。49才。法名「玄証院殿霊鑑自覺大居士」。
伊東祐由の墓碑
伊東祐由
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文元年 (1661年)
日向飫肥藩4代藩主。1631年(寛永8)1月祐久の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。1657年(明暦3)12月父の死により跡を継ぐ。1661年(寛文元)6月13日没。31才。法名「法泉院殿瑞雲宗鳳大居士」。