有馬氏倫の墓碑
有馬氏倫
生 寛文8年 (1668年)
没 享保20年 (1735年)
伊勢西条藩初代藩主。1668年(寛文8)義景の長男として生まれる。紀州藩主徳川吉宗に仕え吉宗が将軍になると幕臣となる。1735年(享保20)12月12日没。68才。法名「法源院殿洞雲義徹居士」。
有馬氏貞の墓碑
有馬氏貞
生 文化9年 (1812年)
没 天保4年 (1833年)
上総五井藩4代藩主。1812年(文化9)久保の長男として生まれる。1814年(文化11)父の死により家督を継ぐ。1830年(文政13)9月日光祭祀奉行となる。1833年(天保4)1月28日没。22才。法名「本源院殿心海義性大居士」。
有馬久保の墓碑
有馬久保
生 安永8年 (1779年)
没 文化11年 (1814年)
上総五井藩3代藩主。1779年(安永8)加納久周の次男として生まれる。有馬氏保の婿養子として跡を継ぐ。1794年(寛政6)8月将軍徳川家斉に拝謁。1814年(文化11)7月16日没。36才。法名「龍光院殿寶岳義鎭大居士」。
有馬氏保の墓碑
有馬氏保
生 宝暦12年 (1762年)
没 寛政2年 (1790年)
上総五井藩2代藩主。1762年(宝暦12)牧野忠寛の次男として生まれる。1783年(天明3)9月有馬氏恕の末期養子となり跡を継ぐ。1790年(寛政2)7月29日没。29才。法名「龍湫院殿浄應義雲大居士」。
有馬氏恕の墓碑
有馬氏恕
生 宝暦11年 (1761年)
没 天明3年 (1783年)
上総五井藩初代藩主。1761年(宝暦11)堀親長の次男として生まれる。13才にて有馬氏房の養子となり跡を継ぐ。1775年(安永4)4月徳川家治に拝謁。1783年(天明3)9月26日没。23才。法名「孔昭院殿徳英義音大居士」。
矢嶋茂堅の墓碑
矢嶋茂堅
生 慶安2年 (1649年)
没 延宝5年 (1677年)
1649年(慶安2)立花忠茂の5男として生まれる。幼名喜之助。立花家家臣矢嶋俊行の養子となる。1677年(延宝5)9月1日没。29才。法名「大音院殿貞譽松雲行和大居士」。
前田利常の墓碑
前田利常
生 文禄2年 (1593年)
没 万治元年 (1658年)
加賀藩2代藩主。1593年(文禄2)11月25日利家の4男として生まれる。兄利長の養子となり、2代将軍徳川秀忠の娘珠姫を妻に迎える。1605年(慶長10)6月加賀藩主となる。大坂冬の陣では真田丸を攻めるも敗退。夏の陣では松平忠直軍に次ぐ首級をあげる活躍をする。1658年(万治元)10月12日没。66才。法名「微妙院殿一峯克乾大居士」。
前田綱紀妻の墓碑
前田綱紀妻
生 慶安元年 (1648年)
没 寛文6年 (1666年)
1648年(慶安元)1月12日保科正之の4女として生まれる。母はお志保の方。名は摩須姫。1658年(万治元)6月11才で前田綱紀に嫁ぐ。1666(寛文6)4月24日没。19才。法名「松嶺院殿信嶽宗正大姉」。
前田光高妻の墓碑
前田光高妻
生 寛永4年 (1627年)
没 明暦2年 (1656年)
1627年(寛永4)5月23日徳川頼房の4女として生まれる。名は大姫。3代将軍徳川家光の養女となり前田光高に嫁ぐ。光高との間に綱紀、万菊丸を儲ける。1656年(明暦2)9月23日没。30才。法名「清泰院殿法譽性榮大姉」。
前田光高の墓碑
前田光高
生 元和元年 (1615年)
没 正保2年 (1645年)
加賀藩3代藩主。1615年(元和元)11月利常の長男として生まれる。母は徳川秀忠の2女天徳院。1639年(寛永16)父の隠居に伴い家督を継ぐ。1645年(正保2)4月5日酒井忠勝に招かれた茶会の席で急死。31才。法名「陽廣院殿將巌天良大居士」。
黒田長舒妻(大圓院)の墓碑
黒田長舒妻(大圓院)
生 明和6年 (1769年)
没 寛政3年 (1791年)
1769年(明和6)松平忠啓の娘として生まれる。名は美須子。黒田長舒に嫁ぎ、長韶を儲ける。1791年(寛政3)8月14日没。23才。法名「大圓院殿徳相智鏡大姉」。
黒田長舒妻(慈明院)の墓碑
黒田長舒妻(慈明院)
生 安永4年 (1775年)
没 天保元年 (1830年)
1775年(安永4)山内豊雍の娘として生まれる。名は采子。1783年(天明3)3月上杉顕孝と婚約するも、顕孝は早世。のち黒田長舒の後室となる。1830年(天保元)12月20日没。56才。法名「慈明院殿普光清陰大姉」。
黒田長邦妻の墓碑
黒田長邦妻
生 享保16年 (1731年)
没 寛延3年 (1750年)
1731年(享保16)黒田継高の娘として生まれる。名は正姫。1750年(寛延3)9月黒田長邦に嫁ぎ、松平近貞妻、保科正卒妻、長恵、山崎義俊妻の1男3女を儲ける。1758年(宝暦8)1月12日没。28才。法名「玉津院殿天質妙香大姉」。
黒田長貞妻の墓碑
黒田長貞妻
生 元禄15年 (1702年)
没 安永7年 (1778年)
1702年(元禄15)11月15日上杉綱憲の娘として生まれる。名は豊姫。1718年(享保3)4月黒田長貞に嫁ぎ、女子(加藤泰温婚約)、長邦、秋月種美妻、長通、酒井忠聴、信助の4男2女を儲ける。1778年(安永7)11月26日没。77才。法名「瑞耀院殿歡譽祐榮大姉」。上杉鷹山の祖母にあたる。
黒田長清妻(霊相院)の墓碑
黒田長清妻(霊相院)
生 不明
没 元禄9年 (1696年)
小笠原長清の長女。1695年(元禄8)黒田長清に嫁ぐ。1696年(元禄9)2月22日没。法名「霊相院殿貞岳智純大姉」。のち、妹(長勝の2女)も同じ黒田長清に嫁いでいる。黒田家譜に「高野山赤松院に遺髪を収めらる」とある。
黒田長興妻の墓碑
黒田長興妻
生 寛永6年 (1629年)
没 貞享元年 (1684年)
1629年(寛永6)11月19日佐竹義隆の長女として生まれる。名は亀子。1647年(正保4)19才で黒田長興の継室として嫁ぎ、小笠原長祐妻、小笠原真方妻、犬万、長重、黒田一貫妻の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)8月11日江戸にて没。56才。法名「法流院殿華嶽宗心大姉」。
黒田長軌妻の墓碑
黒田長軌妻
生 元禄2年 (1689年)
没 享保16年 (1731年)
1689年(元禄2)6月20日佐竹義處の8女として生まれる。(3女は死体として生まれているので7女扱いされているときもある)名は久。1707年(宝永4)7月黒田長軌に嫁ぐも、子は出来ず。1731年(享保16)7月10日没。43才。法名「養眞院殿松屋宗秀大姉」。墓石は長軌の養子黒田甲斐守長治が義母のために建立。※秋月黒田家墓石7基のなか、この墓石のみ正面が逆となっている。
高橋紹運の墓碑
高橋紹運
生 天文17年 (1548年)
没 天正14年 (1586年)
1548年(天文17)9月吉弘鑑理の次男として生まれる。大友宗麟に仕え、命にて高橋家を継ぐ。同じ大友家臣の立花道雪からの要請で長男宗茂を道雪養子とする。1586年(天正14)薩摩の島津家侵攻のときは岩屋城を守るも7月27日落城、自害して果てる。39才。法名「天叟寺殿性海紹運大居士」。
永田秀次郎の墓碑
永田秀次郎
生 明治9年 (1876年)
没 昭和18年 (1943年)
1876年(明治9)7月生まれる。1923年(大正12)東京市長となり、同年に起こった関東大震災の復興に尽力。広田内閣で拓務大臣、 阿部内閣で鉄道大臣を務める。政治家の他、俳句や随筆でも永田青嵐という名で活躍。1943年(昭和18)9月17日没。68才。法名「大觀院殿秀峯圓通青嵐大居士」。
立花鑑一の墓碑
立花鑑一
生 宝暦12年 (1762年)
没 寛政5年 (1793年)
1762 年(宝暦 12)鑑通の4男として生まれる。立花茂雅の養子となるも兄たちが亡くなったり家督相続を放棄したため本家に戻る。1789 年(寛政元)徳川家斉に拝謁。本家の跡を継ぐことなく 1793 年(寛政5)8月9日に没す。32 才。法名「懿孝院殿仁峰宗譲」。
伊達村年の墓碑
伊達村年
生 宝永2年 (1705年)
没 享保20年 (1735年)
伊予宇和島藩4代藩主。1705年(宝永2)1月16日宗贇の3男として生まれる。1711年(宝永8)父の死により跡を継ぐ。1735年(享保20)5月28日参勤交代の途中播磨加古川にて急死。31才。法名「泰雲院殿宗山紹沢大居士」。正室は本家仙台藩主伊達吉村の3女富姫。
伊達秀宗妻の墓碑
伊達秀宗妻
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永7年 (1630年)
1598年(慶長3)井伊直政の娘として生まれる。名は亀。1609年(慶長14)徳川家康の命にて伊達秀宗に嫁ぐ。秀宗との間に宗實、宗時と女子3人の5人の子供を儲ける。1630年(寛永7)8月7日没。33才。法名「桂林院殿西巖妙智」。
伊達秀宗の墓碑
伊達秀宗
生 天正19年 (1591年)
没 明暦4年 (1658年)
伊予宇和島藩初代藩主。1591年(天正19)9月25日政宗の長男として生まれる。豊臣秀吉の人質となるも秀吉のもとで元服、1字を与えられ秀宗と名乗る。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の人質となり、家康家臣井伊直政の娘を娶る。大坂の陣のあと伊予宇和島藩主となる。1658年(明暦4)6月8日没。法名「等覺寺殿頂山紹玄大居士」。墓石は1周忌の1659年(万治2)6月8日、3男宗利によって建立。
伊達宗贇の墓碑
伊達宗贇
生 寛文5年 (1665年)
没 宝永8年 (1711年)
伊予宇和島藩3代藩主。1665年(寛文5)1月15日綱宗の3男として生まれる。初め石川宗弘の養子となる。1684年(貞享元)3月伊予宇和島藩主伊達宗利の次女を娶り婿養子となる。1711年(宝永8)2月18日没。47才。法名「大玄院殿天山紹光大居士」。
鶴田浩二の墓碑
鶴田浩二
生 大正13年 (1924年)
没 昭和62年 (1987年)
1924年(大正13)生まれ。本名は小野榮一。昭和を代表する映画俳優で歌手でもある。兵庫県西宮市出生で母に連れられ静岡県浜松市で幼少期を過ごす。14才のとき高田浩吉の劇団に入団。1949年(昭和24)初主演。その後、数々の映画がヒットして大スターとなる。1987年(昭和62)6月16日没。62才。法名「鶴峰院栄誉誠純悟道大居士」。
伊達宗利の墓碑
伊達宗利
生 寛永11年 (1634年)
没 宝永5年 (1708年)
伊予宇和島藩2代藩主。1634年(寛永11)12月18日秀宗の3男として生まれる。父の隠居により1657年(明暦3)7月家督を継ぐ。1708年(宝永5)12月21日没。75才。法名「天梁院殿賢山紹徳大居士」。墓石は1720年(享保5)12月21日の建立。
伊達宗時の墓碑
伊達宗時
生 元和元年 (1615年)
没 承応2年 (1653年)
1615年(元和元)1月24日秀宗の次男として生まれる。母は井伊直政の娘。1622年(元和8)兄宗実と2代将軍徳川秀忠に拝謁。宗実が病弱なため宗時が世継ぎとされていたが、1653年(承応2)5月29日父に先立ち没。39才。墓石に法名「霊雲院殿岑山宗可大居士」とあるが、伊達家御歴代事記によると「嶺雲院殿凉山宗可大居士」とある。墓石は父秀宗の建立による。
伊達綱宗の墓碑
伊達綱宗
生 寛永17年 (1640年)
没 正徳元年 (1711年)
陸奥仙台藩3代藩主。1640年(寛永17)8月8日忠宗の6男として生まれる。1654年(承応3)元服して、将軍徳川家綱から1字を拝領して綱宗と名乗る。放蕩三昧のため幕命により21才で隠居させられる。1711年(正徳元)6月4日没。72才。法名「見性院殿雄山全威大居士」。
朝倉景垙の墓碑
朝倉景垙
生 大永6年 (1526年)
没 永禄7年 (1564年)
1526年(大永6)景紀の子として生まれる。一族の朝倉義景に仕える。1564年(永禄7)9月2日加賀出陣の際、朝倉景鏡と口論となり自殺。39才。法名「日峰宗慧禅定門」。景垙の生年は不明とされているが、墓石に「三十九歳」とあり逆算して判明。
島津久方の墓碑
島津久方
生 元禄5年 (1692年)
没 享保4年 (1719年)
宮之城島津家7代当主。1692年(元禄5)2月綱貴の5男として生まれる。宮之城島津家の島津久洪の養子となり、1701年(元禄14)久洪の死により跡を継ぐ。1719年(享保4)5月20日没。28才。法名「玄光院殿活山道機大居士」。
島津久洪の墓碑
島津久洪
生 寛文2年 (1662年)
没 元禄14年 (1701年)
宮之城島津家6代当主。1662年(寛文2)1月久竹の子して生まれる。1666年(寛文8)将軍徳川家綱に拝謁。1693年(元禄6)父の死により家督を継ぐ。1701年(元禄14)7月16日没。40才。法名「寂照院殿天〇宗義大居士」。
島津久竹の墓碑
島津久竹
生 寛永12年 (1635年)
没 元禄6年 (1693年)
宮之城島津家5代当主。1635年(寛永12)久通の次男として生まれる。1648年(慶安元)4月将軍徳川家光に拝謁。1672年(寛文12)父の隠居により跡を継ぐ。1681年(延宝9)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1693年(元禄6)10月16日没。59才。法名「玄英大居士」。
島津久元の墓碑
島津久元
生 天正9年 (1581年)
没 寛永20年 (1643年)
宮之城島津家2代当主。忠長の次男。新納忠真の養子となる。薩摩島津家の家臣にて1600年(慶長5)関ケ原の戦いに参戦。1609年(慶長14)に兄が死去したため島津家に戻り家督を継ぐ。1621年(元和7)島津家久の命で、正室の新納忠増の娘と離縁させられ家久の妹を娶る。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1643年(寛永20)6月13日没。63才。法名「鉄心宗昆大居士」。
古内重広①の墓碑
古内重広①
生 天正16年 (1588年)
没 万治元年 (1658年)
1588年(天正16)国分盛重の末子として生まれる。主膳正。伊達政宗、忠宗に仕える。1615年(慶長20)大坂夏の陣で活躍。忠宗の没した1658年(万治元)7月12日に自宅にて殉死。70才。法名「景嘯院殿仁岩怱徳居士」。1枚目の墓石には主君忠宗の1周忌にあたる万治二己亥七月十二日が刻まれている。2枚目の墓石は4回忌の建立で万治四年七月十二日とある。
宇喜多直家の墓碑
宇喜多直家
生 不明
没 天正11年 (1583年)
備前の戦国大名。戦国三大梟雄の1人に数えられる。浦上宗景に仕え、謀略を尽くし敵対勢力を倒したことで有名。のち浦上氏より独立。最終的には織田信長に従う。没年月日は諸説あるが、墓石に1583年(天正11)7月9日とあるので、これが没年月日と思われる。法名「涼雲星友」。
最上家親①の墓碑
最上家親①
生 天正10年 (1582年)
没 元和3年 (1617年)
1582年(天正10)義光の次男として生まれる。1594年(文禄3)から徳川家康の近侍として仕える。その後家康から1字を授かり家親と名乗る。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに参陣。1617年(元和3)3月6日没。36才。法名「盛廣院殿安景長公大禅定門」。奥之院には家親の墓が4基有る。
毛利房裕の墓碑
毛利房裕
生 宝暦9年 (1759年)
没 文化9年 (1812年)
吉敷毛利家11代当主。1759年(宝暦9)就貞の次男として生まれる。1812年(文化9)4月2日没。法名「大龍院殿眠山玄公大居士」。
毛利包詮の墓碑
毛利包詮
生 明和9年 (1772年)
没 文化元年 (1804年)
吉敷毛利家10代当主。1772年(明和9)就将の次男として生まれる。1804年(文化元)7月25日没。法名「大覺院殿慈觀日曜大居士」。
毛利房直の墓碑
毛利房直
生 天明5年 (1785年)
没 享和3年 (1803年)
吉敷毛利家4代当主。1636年(寛永13)元法の次男として生まれる。吉敷毛利元包の養子となり1671年(寛文11)元包の隠居により吉敷毛利家を継ぐ。毛利本家の綱広、吉就、吉広、吉元の一門重臣として仕える。1709年(宝永6)12月15日没。74才。法名「凌雲院殿義山道忠大居士」。
毛利就兼の墓碑
毛利就兼
生 宝暦7年 (1757年)
没 寛政3年 (1791年)
吉敷毛利家8代当主。1757年(宝暦7)右田毛利広定の次男として生まれる。1791年(寛政3)12月3日没。法名「廓照院殿功嶽紹薫大居士」。
毛利就将の墓碑
毛利就将
生 延享3年 (1746年)
没 寛政9年 (1797年)
吉敷毛利家7代当主。1746年(延享3)元直の長男として生まれる。1797年(寛政9)7月16日没。法名「大雄院殿仁壽日譲大居士」。
毛利元直の墓碑
毛利元直
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦3年 (1753年)
吉敷毛利家6代当主。1716年(享保元)広包の子として生まれる。長州藩の一門家老。長州藩主毛利吉元より1字を賜い、元直と名乗る。1753年(宝暦3)4月19日没。38才。法名「大慈院殿勇岳元直月深大居士」。
毛利広包の墓碑
毛利広包
生 元禄11年 (1698年)
没 元文2年 (1737年)
吉敷毛利家5代当主。1698年(元禄11)就直の5男として生まれる。1737年(元文2)4月23日没。法名「本光院殿徹照日源大居士」。
毛利就直の墓碑
毛利就直
生 寛永13年 (1636年)
没 宝永6年 (1709年)
吉敷毛利家4代当主。1636年(寛永13)元法の次男として生まれる。吉敷毛利元包の養子となり1671年(寛文11)元包の隠居により吉敷毛利家を継ぐ。毛利本家の綱広、吉就、吉広、吉元の一門重臣として仕える。1709年(宝永6)12月15日没。74才。法名「凌雲院殿義山道忠大居士」。
毛利元包の墓碑
毛利元包
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝4年 (1676年)
吉敷毛利家3代当主。1607年(慶長12)元鎮の子として生まれる。1676年(延宝4)4月7日没。法名「慈光院殿在天道自大居士」。
勝田典愛の墓碑
勝田典愛
生 不明
没 享保元年 (1716年)
内藤氏。矢島治太夫(矢嶋次大夫)義充の長女を娶り養子となる。勝田玄哲の娘を養い妹とする。彼女は後に矢島治太夫の養女として徳川家宣の妻(月光院)となる。1716年(享保元)8月29日没。法名「徹心院殿高山法雲大居士」。妻と合葬墓。
前田玄以の墓碑
前田玄以
生 天文8年 (1539年)
没 慶長7年 (1602年)
丹波亀山藩初代藩主。1539年(天文8)基光の子として生まれる。織田信長、信忠に仕える。のち豊臣秀吉に仕え豊臣政権下で五奉行の1人となる。1602年(慶長7)5月20日没。法名「徳善院殿天涼以公大居士」。墓石には「慶長七年三月八日」があり、死ぬ約2ヶ月半前に建立されたと思われる。
島津斉興①の墓碑
島津斉興①
生 寛政3年 (1791年)
没 安政6年 (1859年)
薩摩藩10代藩主。1791年(寛政3)11月斉宣の長男として生まれる。1804年(文化元)10月将軍徳川家斉より1字を賜い斉興と名乗る。父の隠居により1809年(文化6)6月跡を継ぐ。祖父重豪が1833年(天保4)没すると藩内の大改革を実施。跡取り問題で長男斉彬派と5男久光派が争うお由羅騒動が起きるも幕府の介入により解決、斉興は隠居となる。1859年(安政6)9月12日没。法名「金剛定院殿明覺亮忍大居士」。1839年(天保10)に自身の毛髪を納めて建立した墓。
島津重豪の墓碑
島津重豪
生 延享2年 (1745年)
没 天保4年 (1833年)
薩摩藩8代藩主。1745年(延享2)11月重年の長男として生まれる。1833年(天保4)1月15日没。法名「大信院殿栄翁如證大居士」。墓石には、没日と5日差の「天保四年正月廿日終焉」とある。
島津重年の墓碑
島津重年
生 享保14年 (1729年)
没 宝暦5年 (1755年)
薩摩藩7代藩主。1729年(享保14)2月継豊の次男として生まれる。加治木の島津久季の養子となり、加治木島津家4代当主となる。1749年(寛延2)7月兄宗信の死去により薩摩藩の当主となる。1753年(宝暦3)に幕府より、木曽三川の治水工事を命じられ犠牲者や多額の費用が発生。1755年(宝暦5)6月16日没。27才。法名「圓徳院殿覚満良義大居士」。