土方雄嘉の墓碑
土方雄嘉
生 文政12年 (1829年)
没 安政5年 (1858年)
伊勢菰野藩11代藩主。1829年(文政12)雄興の長男として生まれる。父の死により1838年(天保9)8月跡を継ぐ。1844年(弘化元)8月将軍徳川家慶に拝謁。1858年(安政5)8月28日没。30才。法名「寛裕院殿天然自得大居士」。
土方雄興の墓碑
土方雄興
生 寛政11年 (1799年)
没 天保9年 (1838年)
伊勢菰野藩10代藩主。1799年(寛政11)1月義苗の長男として生まれる。1816年(文化13)8月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1835年(天保6)1月跡を継ぐ。1838年(天保9)7月2日没。40才。法名「見龍院殿懿徳同応大居士」。
大村純尹の墓碑
大村純尹
生 寛文4年 (1664年)
没 正徳2年 (1712年)
肥前大村藩5代藩主。1664年(寛文4)純長の次男として生まれる。1676年(延宝4)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1706年(宝永3)10月跡を継ぐ。1712年(正徳2)10月14日没。49才。法名「寛長院殿徳山日廣大居士」。
庵原朝昌の墓碑
庵原朝昌
生 弘治2年 (1556年)
没 寛永17年 (1640年)
1556年(弘治2)朝綱の子として生まれる。今川氏真に仕え、のち武田勝頼、戸田勝隆に仕える。勝隆家臣時代に朝鮮出兵に参戦。1596年(慶長元)井伊直政に仕えるも直政と諍いを起こし出奔。1601年(慶長6)井伊家に帰参。木俣家に次ぐ次席家老となる。大坂夏の陣では木村重成を討取る。1639年(寛永16)隠居。1640年(寛永17)5月2日没。法名「長壽院殿實山宗心居士」。
徳川光貞の墓碑
徳川光貞
生 寛永3年 (1626年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1626年(寛永3)12月頼宣の長男として生まれる。1633年(寛永10)9月将軍徳川家光より1字を与えられ光貞と名乗る。1667年(寛文7)に父の隠居により家督を継ぐ。1705年(宝永2)8月8日没。80才。法名「清渓院殿二品前亜相源泉尊義對山大居士」。
徳川宗将の墓碑
徳川宗将
生 享保5年 (1720年)
没 明和2年 (1765年)
紀伊和歌山藩7代藩主。1720年(享保5)2月宗直の長男として生まれる。1757年(宝暦7)8月父の死後跡を継ぐ。仏教に帰依して高野山にも多額の寄付をする。1765年(明和2)2月25日没。46才。法名「菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士」。
徳川宗直の墓碑
徳川宗直
生 天和2年 (1682年)
没 宝暦7年 (1757年)
紀伊和歌山藩6代藩主。1682年(天和2)7月松平頼純の子として生まれる。1711年(正徳元)11月父の跡を継いで伊予西条藩主となる。従弟の和歌山藩主徳川吉宗が将軍となったため1716年(正徳6)に跡を継ぐ。1757年(宝暦7)7月2日没。76才。法名「大慧院殿普観徹性台大居士」。
徳川綱教の墓碑
徳川綱教
生 寛文5年 (1665年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩3代藩主。1665年(寛文5)8月光貞の長男として生まれる。1698年(元禄11)父の隠居により家督を継ぐ。徳川綱吉の娘を娶り、将軍候補でもあったが1705年(宝永2)5月18日没。41才。法名「高林院殿三品前黄門雲峯浄空大居士」。
徳川頼職の墓碑
徳川頼職
生 延宝8年 (1680年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩4代藩主。1680年(延宝8)1月光貞の3男として生まれる。はじめ越前高森藩主。のちに病気となった兄綱教の養子となり、1705年(宝永2)5月兄の死により跡を継ぐ。同年8月には父が没す。同年9月8日没。26才。法名「深覺院殿贈相公三品圓巌真常大居士」。
成瀬正虎の墓碑
成瀬正虎
生 文禄3年 (1594年)
没 寛文3年 (1663年)
1594年(文禄3)正成の長男として生まれる。初め徳川家康の3男秀忠の小姓として仕えていたが1614年(慶長19)大坂冬の陣のときに、家康の命令で家康の9男義直に仕えるようになり、翌年の大坂夏の陣のときは義直の先鋒となった。1632年(寛永10)義直の子光友が徳川家光に拝謁したときに、家光より刀を賜る。1663年(寛文3)5月9日没。70才。法名「乾龍院一岳宗無居士」。
松平定経の墓碑
松平定経
生 寛永7年 (1630年)
没 寛文10年 (1670年)
1630年(寛永7)定房の子として生まれる。1644年(正保元)将軍徳川家光に拝謁。家督を相続することなく1670年(寛文10)5月11日没。41才。法名「崇峯院殿清誉光安須和大居士」。
松平忠刻の墓碑
松平忠刻
生 享保2年 (1717年)
没 天明2年 (1782年)
奥平松平家4代当主。伊勢桑名藩2代藩主。1717年(享保2)忠雅の3男として生まれる。1738年(元文3)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。1771年(明和8)病気により隠居。1782年(天明2)12月27日没。66才。法名「龍光院殿天山宗見大居士」。
松平忠功妻の墓碑
松平忠功妻
生 明和2年 (1765年)
没 寛政3年 (1791年)
1765年(明和2)9月松平忠啓の娘として生まれる。名は久仁姫。徳川宗将の7男松平忠功と結婚して忠功を婿養子として迎える。忠功との間には子供は出来ず。1791年(寛政3)3月13日没。27才。法名「桃仙院殿花溪妙鮮大禅定尼」。
松平忠啓の墓碑
松平忠啓
生 延享3年 (1746年)
没 天明6年 (1786年)
奥平松平家5代当主。伊勢桑名藩3代藩主。1746年(延享3)12月忠刻の次男として生まれる。1771年(明和8)6月父の隠居により家督を継ぐ。自然災害、百姓一揆、飢饉により財政が悪化。1786年(天明6)12月10日没。41才。法名「崇巌院殿功運道惇大居士」。
松平忠弘の墓碑
松平忠弘
生 寛永8年 (1631年)
没 元禄13年 (1700年)
奥平松平家2代当主。1631年(寛永8)11月忠明の長男として生まれる。父の死により1644年(寛永21)播磨姫路藩18万石を継ぐ。うち3万石を弟清道に分知。出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩と転封。白河藩主のときに家臣の紛争により減封のうえ再度出羽山形藩10万石となる。1700年(元禄13)5月16日没。70才。法名「楞伽院殿端翁道嚴大居士」。
松平忠明の墓碑
松平忠明
生 天正11年 (1583年)
没 寛永21年 (1644年)
奥平松平家初代当主。1583年(天正11)奥平信昌の4男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。1588年(天正16)兄家治とともに家康の養子となり松平姓となる。1592年(文禄元)兄家治が没したため家督を継ぐ。関ヶ原の戦いや大坂の陣に参戦。1644年(寛永21)3月25日没。62才。法名「天祥院心巌玄鐡大居士」。
松平忠明妻の墓碑
松平忠明妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
小出吉政の娘。松平忠明に嫁ぐも子供は出来ず。他の側室が生んだ忠弘、清道の養母となる。1660年(万治3)2月27日没。法名「慶壽院殿花岳玉榮大姉」。墓石は義理の息子清良(忠弘)の建立による。
松平鎌之助の墓碑
松平鎌之助
生 寛政3年 (1791年)
没 寛政9年 (1797年)
1791年(寛政3)忠和の長男として生まれる。1797年(寛政9)8月14日没。7才。法名「馨顔院殿徳祖幻明童子」。
松平鶴松の墓碑
松平鶴松
生 寛文10年 (1670年)
没 延宝2年 (1674年)
1670年(寛文10)9月忠弘の4男として生まれる。側室の子だが、忠弘正室天眼院の子として育てられる。しかし1674年(延宝2)7月1日没。5才。法名「寂浄院殿一相是○」。初代忠明(祖父)、2代忠弘(父)も幼名を鶴松と名乗っていたことから跡継ぎとして期待されていたと思われる。
松浦矩の墓碑
松浦矩
生 明和5年 (1768年)
没 享和3年 (1803年)
肥前平戸新田藩6代藩主。1768年(明和5)宝の子として生まれる。父の死により1783年(天明3)7月跡を継ぐ。1785年(天明5)11月将軍徳川家治に拝謁。1803年(享和3)4月19日没。36才。法名「寛量院殿義山宗勇大居士」。
松浦良の墓碑
松浦良
生 寛政2年 (1790年)
没 文化11年 (1814年)
肥前平戸新田藩7代藩主。1790年(寛政2)義信の子として生まれる。1803年(享和3)平戸新田藩主の矩が没したとき、婿養子となり跡を継ぐ。1814年(文化11)12月5日没。25才。法名「廣徳院殿孤峯有隣大居士」。
梶原政景の墓碑
梶原政景
生 天文17年 (1548年)
没 元和9年 (1623年)
1548年(天文17)太田資正の次男として生まれる。足利義氏に仕える。後、佐竹義重、義宣に仕える。佐竹家が関ヶ原の後に秋田に減封となると、結城秀康に仕える。秀康没後は、秀康の子松平忠直に仕え大坂の陣に従軍。1623年(元和9)10月8日没。76才。法名「東光院殿悦叟道喜居士」。墓石は逆修塔で1610年(慶長15)7月20日の建立による。
橋本正高の墓碑
橋本正高
生 不明
没 天授6年 (1380年)
南北朝時代の武士で、南朝方の楠木正成の一族。土丸城を中心に泉南地域で足利幕府方と戦う。1380年(天授6)7月17日北朝方と戦い討死。法名「高名院殿興國義勇正高大居士」。
毛利就詮妻の墓碑
毛利就詮妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
吉川広正の5女。名は長姫。毛利就詮に嫁ぎ、長男熊之助を儲ける。後に離縁。1695年(元禄8)6月22日没。法名「法泉院殿霊谷妙應大禅尼」。
毛利熊之助の墓碑
毛利熊之助
生 明暦3年 (1657年)
没 寛文3年 (1663年)
1657年(明暦3)就詮の長男として生まれる。1663年(寛文3)8月7日没。7才。法名「桂岩幻枝」。墓石は1679年(延宝7)母(吉川広正の5女法泉院)の建立による。「吉見氏熊之助之墓」とあるが、熊之助の大野毛利家の祖は吉見氏であり、その縁により吉見姓を称したと思われる。
水谷勝宗の墓碑
水谷勝宗
生 元和9年 (1623年)
没 元禄2年 (1689年)
備中松山藩2代藩主。1623年(元和9)勝隆の長男として生まれる。1664年(寛文4)父の死により後を継ぐ。1684年(貞享元)外様大名から譜代大名となる。備中松山城を改築、現在も当時の姿で現存。1689年(元禄2)2月19日没。67才。法名「栄興院殿健岑全勇大居士」。
水谷勝宗妻の墓碑
水谷勝宗妻
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
青山幸成の娘。水谷勝宗に嫁ぎ、勝美、平山常時妻の1男1女を儲ける。1672年(寛文12)没。法名「曹渓院殿吉〇永〇大姉」。墓石は息子犬千代(勝美)の建立による。
水谷勝美の墓碑
水谷勝美
生 寛文3年 (1663年)
没 元禄6年 (1693年)
備中松山藩3代藩主。1663年(寛文3)勝宗の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。1693年(元禄6)10月6日没。31才。法名「隆昌寺殿天山全長大居士」。子がいなく勝美を最後に水谷家は改易となる。
水谷勝隆の墓碑
水谷勝隆
生 慶長2年 (1597年)
没 寛文4年 (1664年)
備中松山藩初代藩主。1597年(慶長2)勝俊の長男として京に生まれる。徳川家康の家臣。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、西軍の人質になるとこを乳母とともに逃れた。大坂の両陣には酒井家次の陣に属して参戦。1664年(寛文4)閏5月3日没。68才。法名「大龍寺殿鐵山全性大居士」。
水野勝貞の墓碑
水野勝貞
生 寛永2年 (1625年)
没 寛文2年 (1662年)
備後福山藩3代藩主。1625年(寛永2)6月勝俊の次男として生まれる。1638年(寛永15)島原の乱に祖父勝成、父勝俊に従い参戦。1639年(寛永16)12月将軍徳川家光に拝謁。1655年(明暦元)5月父の死により跡を継ぐ。1662年(寛文2)10月29日没。38才。法名「源光院殿傑山宗英大居士」。
水野政勝の墓碑
水野政勝
生 享保19年 (1734年)
没 天明6年 (1786年)
1734年(享保19)忠英の子として生まれる。1743年(寛保3)徳川家治の御伽小姓となる。家治が将軍になると御小姓組の番頭となる。家治から小袖、八丈織、書などを賜う。1786年(天明6)10月24日没。53才。法名「賢性院殿仁淵義信大居士」。
水野貞利の墓碑
水野貞利
生 不明
没 安永8年 (1779年)
政勝の子。1775年(安永4)9才のとき徳川家基の御伽小姓となる。1779年(安永8)家基が没したため将軍徳川家治の小姓となる。1844年(天保15)3月2日没。法名「歓祥院殿鳳林玉鳴大居士」。
豊臣秀吉妻の墓碑
豊臣秀吉妻
生 不明
没 慶長20年 (1615年)
浅井長政の娘。母は織田信長の妹。名は淀君。1573年(天正元)小谷城で父長政が自害したときは母とともに城を脱出。1583年(天正11)北の庄城で義父柴田勝家と母が自害したときも城を脱出。豊臣秀吉に嫁ぎ、鶴松と秀頼の2男を儲ける。1615年(慶長20)5月8日徳川家康により大坂城を攻められ自害。法名「大虞院殿英岩大禅定尼」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
牧野忠成(2代)の墓碑
牧野忠成(2代)
生 寛永12年 (1635年)
没 延宝2年 (1674年)
越後長岡藩2代藩主。祖父で初代藩主と同名。後忠成。1635年(寛永12)光成の長男として生まれる。1639年(寛永16)将軍徳川家光に拝謁。祖父初代忠成が没した後、将軍徳川家綱の判断により跡を継ぐ。1674年(延宝2)5月27日没。40才。法名「超雄院殿尊󠄁誉利岳乗見大居士」。
牧野忠成(初代)の墓碑
牧野忠成(初代)
生 天正9年 (1581年)
没 承応3年 (1654年)
 越後長岡藩初代藩主。1581年(天正9)康成の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従い信州上田城を攻める。大坂の両陣に参戦。1654年(承応3)12月16日没。74才。法名「寶性院殿仙譽月卦正心大居士」。
田中吉政妻の墓碑
田中吉政妻
生 不明
没 不明
墓石に「為田中筑後守殿御簾中逆修」「慶長十四年己酉二月十八日」の2行のみある。田中吉政の妻が、夫吉政の命日に合わせ逆修塔を建立。この妻の詳細不明。
皆川広照の墓碑
皆川広照
生 天文17年 (1548年)
没 寛永4年 (1627年)
常陸府中藩初代藩主。1548年(天文17)下野皆川城主俊宗の次男として生まれる。1576年(天正4)兄広勝の死により跡を継ぐ。北条氏・上杉氏と敵対、従属を繰り返す。徳川家康に誼を通じ、1590年(天正18)小田原合戦のときは北条氏を裏切り家康に投降。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは家康に味方。家康の6男松平忠輝の家老となるも、忠輝と対立して改易。1623年(元和9)赦免され常陸府中にて1万石となる。1627年(寛永4)12月22日没。80才。法名「三清院殿善翁慶勝大居士」。
皆川庸清の墓碑
皆川庸清
生 宝暦11年 (1761年)
没 享和2年 (1802年)
1761年(宝暦11)斉秀の子として生まれる。父の死により1779年(安永8)9月跡を継ぐ。1782年(天明2)12月将軍徳川家治に拝謁。1802年(享和2)3月21日没。42才。法名「高徳院殿瑞巌良祥大居士」。女性の法名「良壽院殿真譽貞節大姉」、側面に1835年(天保6)6月22日寂とあり妻と思われる。墓石は1803年(享和3)息子皆川森之助庸郡の建立。
皆川成郷の墓碑
皆川成郷
生 寛永元年 (1624年)
没 正保2年 (1645年)
常陸府中藩3代藩主。1624年(寛永元)隆庸の長男として生まれる。父の死により1645年(正保2)5月21日跡を継ぐも同年6月4日没。15日間の短い藩主であった。22才。法名「迎涼院殿南室紹清大居士」。墓石側面に「正保二年七月四日」とあり没後1ヶ月に建立されたと思われる。
皆川秀隆の墓碑
皆川秀隆
生 寛永3年 (1626年)
没 明暦3年 (1657年)
常陸府中藩代藩主。1626年(寛永3)隆庸の次男として生まれる。父の遺領のうち5千石を与えられ寄合になる。1657年(明暦3)6月18日没。32才。法名「自性院殿法山凉説居士」。墓石施主は息子左京広隆による。
皆川隆庸の墓碑
皆川隆庸
生 天正9年 (1581年)
没 正保2年 (1645年)
常陸府中藩2代藩主。1581年(天正9)広照の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従う。1609年(慶長14)父が松平忠輝と対立したため、父とともに改易。大坂の両陣に井伊直孝に属して参戦。1623年(元和9)に父とともに赦免される。父の隠居により1625年(寛永2)跡を継ぐ。1645年(正保2)2月5日没。65才。法名「一陽院殿春厳紹智大居士」。
直江兼続妻の墓碑
直江兼続妻
生 弘治3年 (1557年)
没 寛永14年 (1637年)
1557年(弘治3)直江景綱の娘として生まれる。名はお船の方。直江信綱(長尾藤九郎)と婚姻、婿として直江家を継がせる。信綱が家臣の争いで殺害されると、上杉景勝の命により直江兼続(樋口兼続)と婚姻。景明、本多政重妻の1男1女を儲ける。1637年(寛永14)1月4日没。81才。法名「宝林院殿月桂貞心大姉」。墓石は上杉定勝の建立による。
能勢信重の墓碑
能勢信重
生 不明
没 承応3年 (1654年)
惣左衛門の子。兵右衛門。長岡藩主牧野忠成(初代)の家臣。200石。忠成が1654年(承応3)12月16日死去すると同月26日殉死。主君と同じ没年月日の1654年(承応3)12月16日が刻まれている。
豊臣秀頼の墓碑
豊臣秀頼
生 文禄2年 (1593年)
没 慶長20年 (1615年)
1593年(文禄2)8月秀吉の3男として生まれる。秀吉の死後、家督を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、西軍の総大将毛利輝元の保護下にあり家臣の一部も関ヶ原本戦に参陣。1614年(慶長19)方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発。1615年(慶長20)5月8日大坂城にて自害。23才。法名「帰寂山高陽寺殿秀山大居士」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
酒井忠世の墓碑
酒井忠世
生 元亀3年 (1572年)
没 寛永13年 (1636年)
1572年(元亀3)6月重忠の長男として生まれる。徳川家康、秀忠、家光に仕える。1590年(天正18)武蔵国川越で5千石を与えられ秀忠の家老となる。1600年(慶長5)上田城攻めに秀忠に従い参陣。大坂の両陣にも参陣。1634年(寛永11)忠世の守る江戸城西丸が火災を起こし、一時職務を止められた。1636年(寛永13)3月19日没。65才。法名「隆興院殿前拾遺發向源真大居士」。
酒井忠清妻の墓碑
酒井忠清妻
生 不明
没 延宝4年 (1676年)
姉小路公景の娘。酒井忠清に嫁ぎ、千姫、松平頼常妻、水野勝種妻、中川久通妻、加藤泰恒妻、忠寛、松平信庸妻、與志姫、石姫、萬千代、藤堂高久養女の2男9女を儲ける。1676年(延宝4)12月11日没。法名「清岸院殿浄譽光安心大法信女」。
酒井忠行の墓碑
酒井忠行
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永13年 (1636年)
1599年(慶長4)忠世の子として生まれる。徳川秀忠に仕え、1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。翌年の大坂夏の陣では手柄をたてる。秀忠の死後は家光に仕えるも、江戸城西の丸の失火の責任を取り父とともに謹慎。父の死後は、遺領を継ぎ厩橋藩主となる。1636年(寛永13)11月17日没。38才。法名「松岸院殿雪窓玖白居士」。
酒井忠行妻の墓碑
酒井忠行妻
生 不明
没 延宝5年 (1677年)
徳川家康の異父弟松平定勝の娘。母は奥平貞友の娘。名は菊姫。酒井忠行に嫁ぎ、忠清、忠能を儲ける。1677年(延宝5)8月9日没。法名「光壽院殿真譽松安宝玉大姉」。父定勝より嫁入りのときに嫁入り道具として持たせた「鳴神兼定」が今も現存している。
酒井親本妻の墓碑
酒井親本妻
生 不明
没 寛保2年 (1742年)
秋田輝季の娘。名は勝姫。上野前橋藩8代藩主酒井親本に嫁ぐ。親本との間に子供は出来ず。1742年(寛保2)10月7日没。法名「養真院殿華屋貞顔大姉」。
香川春継の墓碑
香川春継
生 天文14年 (1545年)
没 元和5年 (1619年)
1545年(天文14)光景の次男として生まれる。毛利元就に仕え、のちに吉川元春に仕える。豊臣秀吉の九州征伐のときは吉川軍の一員として豊前香春嶽城を攻撃。関ヶ原の戦い後、吉川広家が周防岩国へと移ると従う。1619年(元和5)7月22日没。75才。法名「籌勝院殿幹翁英秀居士」。