堀田一継妻の墓碑
堀田一継妻
生 不明
没 不明
父は不明だが、大坂の陣で討死した薄田兼相の妹。堀田一継に嫁ぎ、一通を儲ける。法名「圓鏡院殿眞如妙室大姉」。
堀田一継の墓碑
堀田一継
生 天文19年 (1550年)
没 寛永7年 (1630年)
1550年(天文19)一縄の子として生まれる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは妻子を西軍に人質として捕らえられるも家康に従い参戦。大坂の両陣にも従う。1630年(寛永7)6月25日没。81才。法名「一珊宗月大居士」。
内藤信輝妻の墓碑
内藤信輝妻
生 延宝5年 (1677年)
没 寛保2年 (1742年)
1677年(延宝5)蜂須賀隆重の3女として生まれる。名は菊。相良頼真に嫁ぐ予定だったが、頼真が没したため内藤信輝に嫁ぐ。信輝との間に、ヒサ、トミ、信積、モト、男子の2男3女を儲ける。1742年(寛保2)12月29日没。66才。法名「霊灮院殿正眼淨空大道人」。
内藤信清の墓碑
内藤信清
生 寛文4年 (1664年)
没 貞享5年 (1688年)
1664年(寛文4)信光の3男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1688年(貞享5)8月17日没。25才。法名「體量院殿性譽心含大居士」。
内藤信広妻の墓碑
内藤信広妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
三宅康信の娘。内藤信広に嫁ぎ、信広との間に、信光、信雪、信直の3男を儲ける。1651年(慶安4)12月20日没。法名「自照院殿長譽良壽大姉」。
内藤信広の墓碑
内藤信広
生 文禄元年 (1592年)
没 慶安2年 (1649年)
1592年(文禄元)信成の次男として生まれる。徳川秀忠に仕え、大坂の両陣に参戦。大坂夏の陣では首1つを取る。加増を重ね1万5千石を領す。しかし、配下にキリシタンがいたことで7千石を削られる。1649年(慶安2)3月15日没。58才。法名「浄閑大信士」。
内藤信光の墓碑
内藤信光
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝3年 (1675年)
1611年(慶長16)信広の長男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川秀忠に拝謁。1650年(慶安3)8月父の遺領を継ぐ。1675年(延宝3)5月23日没。65才。法名「洞暁院殿覚誉善閑大信士」。「大信士」という法名はかなり珍しい。
五代五兵衛の墓碑
五代五兵衛
生 嘉永元年 (1848年)
没 大正2年 (1913年)
1848年(嘉永元)播磨屋五兵衛の長男として生まれる。1864年(文久4)失明。盲人実業家として活躍。兎の飼育、土地売買、湯屋などの事業を行う。1900年(明治33)私財で大阪盲唖院を開校。現在も聴覚支援学校や視覚支援学校として受け継がれている。1913年(大正2)9月12日没。66才。
植村政春の墓碑
植村政春
生 元和7年 (1621年)
没 寛文11年 (1671年)
1621年(元和7)家政の4男として生まれる。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。幕臣として、御小姓の番頭、御書院の番頭などを務む。1671年(寛文11)5月15日没。51才。法名「暁覚院殿正譽宗哲居士」。
植村家長の墓碑
植村家長
生 宝暦4年 (1754年)
没 文政11年 (1828年)
大和高取藩9代藩主。1754年(宝暦4)家道の次男として生まれる。1785年(天明5)9月自殺した弟家利の跡を継ぎ藩主となる。同年11月将軍徳川家治に拝謁。1825年(文政8)70過ぎの高齢で老中格となる。1828年(文政11)10月12日没。75才。法名「淨徳院殿顯誠有隣大居士」。
植村家道妻の墓碑
植村家道妻
生 不明
没 宝暦5年 (1755年)
植村家道の妻。墓石側面に「家長実母」とあり、家道との間に、家長を儲けたことがわかる。寛政重修諸家譜には家長母は某氏とあり、詳細不明。1755年(宝暦5)6月26日没。法名「智郎院殿妙貞日受大姉」。
植村家道の墓碑
植村家道
生 享保15年 (1730年)
没 明和4年 (1767年)
大和高取藩6代藩主。1730年(享保15)家敬の4男として生まれる。1738年(元文3)8月植村家包の養子となり跡を継ぐ。1745年(延享2)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1767年(明和4)3月18日没。38才。法名「等覺院殿観道性應大居士」。
植村家貴の墓碑
植村家貴
生 文化4年 (1807年)
没 嘉永6年 (1853年)
大和高取藩11代藩主。1807年(文化4)2月家長の4男として生まれる。1824年(文政7)兄で藩主家教の養子となる。1848年(嘉永元)5月兄の隠居により跡を継ぐ。1853年(嘉永6)2月23日没。47才。法名「徳現院殿淨雲普光大居士」。
植村家貞の墓碑
植村家貞
生 元和4年 (1618年)
没 元禄3年 (1690年)
大和高取藩2代藩主。1618年(元和4)家政の3男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)父の死により跡を継ぐ。1658年(万治元)7月所領のうち3千石を弟政春に分け与える。1690年(元禄3)4月14日没。73才。法名「泰祥院殿一峯空顯大居士」。
植村家言の墓碑
植村家言
生 寛文3年 (1663年)
没 元禄9年 (1696年)
大和高取藩3代藩主。1663年(寛文3)家貞の次男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。1687年(貞享4)8月父の隠居により跡を継ぐ。1696年(元禄9)3月18日没。34才。法名「高性院殿幽山素玄大居士」。
植村家興の墓碑
植村家興
生 天保6年 (1835年)
没 嘉永6年 (1853年)
大和高取藩12代藩主。1835年(天保6)大村純昌の11男として生まれる。兄純顕の養子となるも、後に植村家貴の養子となる。1853年(嘉永6)4月家貴の死により跡を継ぐ。同年7月17日没。19才。法名「映顕院殿彰感圓通大居士」。
植村家理の墓碑
植村家理
生 不明
没 不明
大和高取藩10代藩主家教の長男。大和高取藩11代藩主植村家貴(父の弟)の養子となるも、家を継ぐことなく没す。法名「天祐院殿日新圓證大居士」。
植村家次の墓碑
植村家次
生 永禄10年 (1567年)
没 慶長4年 (1599年)
1567年(永禄10)家存の子として生まれる。徳川家康の長男松平信康に仕え、信康切腹後は流浪する。のち榊原康政の推挙により家康に仕える。1584年(天正12)長久手の戦いでは首を取る手柄をたてる。1599年(慶長4)10月11日没。33才。法名「正覚院殿一山宗泉大居士」。墓石は1626年(寛永3)10月13日に息子家政の建立による。
植村家敬の墓碑
植村家敬
生 延宝8年 (1680年)
没 享保16年 (1731年)
大和高取藩4代藩主。1680年(延宝8)政成の長男として生まれる。1696年(元禄9)3月3代藩主家言の養子となり跡を継ぐ。同年5月将軍徳川綱吉に拝謁。1731年(享保16)8月21日没。52才。法名「正善院殿仁岳道義大居士」。
植村家政の墓碑
植村家政
生 天正17年 (1589年)
没 慶安3年 (1650年)
大和高取藩初代藩主。1589年(天正17)家次の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。徳川秀忠に付けられ小姓となる。大坂の両陣に参戦。1640年(寛永17)大和高取藩にて2万5千石の大名となる。1650年(慶安3)閏10月23日没。62才。法名「本真院殿了學日栄大居士」。なお、他家では徳川家康の1字である「家」を憚り名乗るのを避けたが、植村家のみ代々「家」を名乗るのを認められた。
植村家包の墓碑
植村家包
生 宝永7年 (1710年)
没 元文3年 (1738年)
大和高取藩5代藩主。1710年(宝永7)政広の長男として生まれる。1725年(享保10)11月父の跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1729年(享保14)大和高取藩植村家敬の養子となる。1731年(享保16)10月家敬の死により跡を継ぐ。1738年(元文3)8月13日没。29才。法名「遍縁院殿實應性遍大居士」。
植村家利の墓碑
植村家利
生 宝暦9年 (1759年)
没 安永7年 (1778年)
大和高取藩8代藩主。1759年(宝暦9)9月家道の4男として生まれる。1778年(安永7)兄で家督を継いでいた家久が没したため、翌年跡を継ぐ。1785年(天明5)8月24日没。27才。法名「到岸院殿観山道勇大居士」。遊女と入水自殺だったため、幕府には病死として届けた。
植村家久の墓碑
植村家久
生 宝暦2年 (1752年)
没 安永7年 (1778年)
大和高取藩7代藩主。1752年(宝暦2)1月家道の長男として生まれる。1767年(明和4)5月父の死により跡を継ぐ。1768年(明和5)3月将軍徳川家治に拝謁。1778年(安永7)12月2日没。27才。法名「諦観院殿頓悟宗圓大居士」。
岡部長盛妻の墓碑
岡部長盛妻
生 不明
没 寛永6年 (1629年)
松平康元の娘。岡部長盛に嫁ぎ、宣勝、織田信則妻、加藤泰興妻、興賢、長政、寺沢堅高妻、大久保教勝妻の3男4女を儲ける。1629年(寛永6)7月3日没。法名「洞仙院殿梅溪宗孝大姉」。
岡部長盛の墓碑
岡部長盛
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永9年 (1632年)
1568年(永禄11)正綱の長男として生まれる。徳川家康に仕え、1584年(天正12)小牧・長久手の戦いに従う。蟹江城攻めでは滝川一益の甥を生捕る。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、下野黒羽城を守備。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは丹波亀山城を守備。1632年(寛永9)11月2日没。65才。法名「雄心寺殿全室久要大居士」。墓石は1周忌に息子宣勝の建立による。
岡部行隆の墓碑
岡部行隆
生 元和3年 (1617年)
没 貞享4年 (1687年)
和泉岸和田藩2代藩主。1617年(元和3)宣勝の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。1661年(寛文元)10月父の隠居により跡を継ぐ。そのとき5千石を弟高成、2千石を弟豊明に分け与え、岸和田藩は5万3千石となる。1687年(貞享4)12月25日没。71才。法名「最乗院殿仁叟常慶大居士」。
酒井忠重の墓碑
酒井忠重
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
1601年(慶長6)家次の3男として生まれる。1615年(元和元)徳川家康と将軍秀忠に拝謁。領民との争い、本家庄内藩主の家督相続問題など素行が悪く、庄内藩からは絶縁される。旗本の依田照冬との争いがきったけで1665年(寛文5)改易。1666年(寛文6)9月18日夜盗に襲われ没。66才。法名「光岳院殿鏡誉宗圓大居士」。
酒井忠豊の墓碑
酒井忠豊
生 慶安2年 (1649年)
没 延宝4年 (1676年)
1649年(慶安2)忠重の次男として生まれる。1663年(寛文3)11月将軍徳川家綱に拝謁。1665年(寛文5)11月父とともに改易となる。1669年(寛文9)2月赦免される。1676年(延宝4)5月29日没。28才。法名「眞譽廓賢居士」。
稲葉重通の墓碑
稲葉重通
生 不明
没 慶長3年 (1598年)
稲葉貞通の長男。庶子ゆえ別に家を興す。織田信長、のち豊臣秀吉に仕え、小牧長久手の戦いに参戦。父の死後美濃清水城主で1万2千石を領す。小田原合戦にも従う。姪の福(春日局)を養女として稲葉正成に嫁がせる。1598年(慶長3)10月3日没。法名「慈泉院殿呂翁俊尚大居士」。
稲垣長続の墓碑
稲垣長続
生 安永元年 (1772年)
没 文政元年 (1818年)
志摩鳥羽藩4代藩主。1772年(安永元)榊原政永の6男として生まれる。1787年(天明7)2月稲垣長以の娘を妻として養子となる。1790年(寛政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。長以の隠居により1794年(寛政6)11月跡を継ぐ。1818年(文政元)12月29日没。47才。法名「霊鷲院殿義山天忠大居士」。
稲垣長明の墓碑
稲垣長明
生 文政13年 (1830年)
没 慶応2年 (1866年)
志摩鳥羽藩6代藩主。1830年(文政13)5月長剛の長男として生まれる。1842年(天保13)5月父の隠居により跡を継ぐ。1864年(元治元)禁門の変では幕府側として参陣。1866年(慶応2)第2次長州征伐に参陣しようとするも病となり、同年9月29日没。37才。法名「徳巖院殿義運全忠大居士」。
稲垣長剛の墓碑
稲垣長剛
生 文化4年 (1807年)
没 弘化4年 (1847年)
志摩鳥羽藩5代藩主。1807年(文化4)8月長続の4男として生まれる。1819年(文政2)3月父の死により家督を継ぐ。1842年(天保13)5月隠居。1847年(弘化4)2月14日没。41才。法名「大應院殿全達天眞大居士」。
稲垣長以の墓碑
稲垣長以
生 寛延2年 (1749年)
没 文政6年 (1823年)
志摩鳥羽藩3代藩主。1749年(寛延2)1月昭央の長男として生まれる。1767年(明和4)4月将軍徳川家治に拝謁。1773年(安永2)7月父の隠居により家督を継ぐ。1794年(寛政6)11月隠居。1823年(文政6)5月14日没。75才。法名「太玄院殿覺天道光大居士」。
稲垣重綱の墓碑
稲垣重綱
生 天正11年 (1583年)
没 承応3年 (1654年)
三河刈谷藩初代藩主。1583年(天正11)長茂の長男として生まれる。1600年(慶長5)徳川秀忠の上田城攻めに従う。1612年(慶長17)父の死により上野伊勢崎藩主を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣では酒井家次に属して戦う。戦後、加増され越後藤井藩主。1651年(慶安4)三河刈谷に移封。1654年(承応3)1月8日没。72才。法名「法性院殿光岳宗本居士」。
稲垣重昭の墓碑
稲垣重昭
生 寛永13年 (1636年)
没 元禄16年 (1703年)
三河刈谷藩2代藩主。1636年(寛永13)重昌の長男として生まれる。1647年(正保4)10月将軍徳川家光に拝謁。1654年(承応3)祖父重綱の死により跡を継ぐ。1703年(元禄16)6月19日没。68才。法名「寂照院殿岳翁空山大居士」。
稲垣重富の墓碑
稲垣重富
生 延宝元年 (1673年)
没 宝永7年 (1710年)
下野烏山藩初代藩主。1673年(延宝元)重昭の長男として生まれる。1683年(天和3)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1688年(貞享5)父の隠居により刈谷藩主となる。その後上総大多喜藩、下野烏山藩に移封。1710年(宝永7)4月17日没。38才。法名「淸灮院心安榮達大居士」。
稲垣昭賢の墓碑
稲垣昭賢
生 元禄11年 (1698年)
没 宝暦2年 (1752年)
志摩鳥羽藩初代藩主。1698年(元禄11)4月重富の長男として生まれる。1708年(宝永5)将軍徳川綱吉に拝謁。1710年(宝永7)父の死により下野烏山藩2代藩主となる。1725年(享保10)10月志摩鳥羽藩に移封。1752年(宝暦2)12月29日没。55才。法名「泰政院殿華嶽英山大居士」。
稲垣昭央の墓碑
稲垣昭央
生 享保12年 (1727年)
没 寛政2年 (1790年)
志摩鳥羽藩2代藩主。1727年(享保12)昭辰の子として生まれる。1745年(延享2)6月昭賢の養子となる。同年9月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)1月跡を継ぐ。1790年(寛政2)5月17日没。64才。法名「高陽院殿禅山照林大居士」。
秋田頼季の墓碑
秋田頼季
生 元禄9年 (1696年)
没 寛保3年 (1743年)
陸奥三春藩4代藩主。1696年(元禄9)荒木高村の子として生まれる。秋田季豊の養子となり跡を継ぐ。1714年(正徳4)5月将軍徳川家継に拝謁。1715年(正徳5)7月秋田輝季の養子となる。同年12月輝季の隠居により三春藩を継ぐ。1730年(享保15)お家騒動により閉門処分となるも、数ヶ月後許される。1743年(寛保3)6月1日没。48才。法名「廣運院殿俊徳玄明大居士」。
秋田輝季の墓碑
秋田輝季
生 慶安2年 (1649年)
没 享保5年 (1720年)
陸奥三春藩3代藩主。1649年(慶安2)盛季の次男として生まれる。1658年(万治元)7月将軍徳川家綱に拝謁。1676年(延宝4)3月父の死により跡を継ぐ。1715年(正徳5)12月隠居。1720年(享保5)9月19日没。72才。法名「乾元院殿剛山瑞陽大居士」。
秋田盛季の墓碑
秋田盛季
生 元和6年 (1620年)
没 延宝4年 (1676年)
陸奥三春藩2代藩主。1620年(元和6)俊季の長男として生まれる。父の死により1649年(慶安2)5月跡を継ぐ。その際、5千石を弟季久に分け与え陸奥三春藩5万石となる。1676年(延宝4)1月13日没。57才。法名「陽雲院殿龍天蒼松大居士」。
秋田就季の墓碑
秋田就季
生 寛文11年 (1671年)
没 正徳5年 (1715年)
1671年(寛文11)輝季の長男として生まれる。1680年(延宝8)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1715年(正徳5)6月4日没。45才。法名「大通院殿心源自性大居士」。
秋田俊季妻の墓碑
秋田俊季妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
松平信吉の娘。秋田俊季に嫁ぎ、盛季、季久、新庄直長妻、植村忠朝妻の2男2女を儲ける。1660年(万治3)3月8日没。法名「永壽院殿真譽春覺照法大信女」。墓石は息子盛季の建立により、「俊季公後室」とある
秋田俊季の墓碑
秋田俊季
生 慶長3年 (1598年)
没 慶安2年 (1649年)
陸奥三春藩初代藩主。1598年(慶長3)実季の長男として生まれる。大坂の両陣に父とともに参戦。1630年(寛永7)に父が幕府により蟄居を命じられると、常陸宍戸藩5万石を継ぐ。1645年(正保2)陸奥三春藩に5万千石で加増移封となる。1649年(慶安2)1月3日没。52才。法名「真如院殿実岩常固大居士」。
秋月種美妻の墓碑
秋月種美妻
生 不明
没 宝暦7年 (1757年)
黒田長貞の次女。秋月種美に嫁ぎ、種茂、女子、亀三郎の2男1女を儲ける。1757年(宝暦7)6月9日没。法名「心華院殿明巖玄珠大姉」。墓石は夫種美の建立による。
秋月種春妻の墓碑
秋月種春妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
佐久間勝之の娘。1662年(寛文2)12月秋月種春に嫁ぎ、六條有縄妻(離縁)、種信、女子、半之丞の2男2女を儲ける。1660年(万治3)12月28日没。法名「龍海院殿心月珠泉大姉」。墓石は1周忌に息子種信の建立による。
福島正之の墓碑
福島正之
生 天正13年 (1585年)
没 慶長6年 (1601年)
1585年(天正13)別所重宗の7男として生まれる。福島正則(母の弟または兄)の養子となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。1608年(慶長13)没したと伝えられてるも、三原市宗光寺過去帳に慶長六年五月五日没、藝藩通志に「慶長辛丑(1601年)、沒す」とあり、墓石には1601年(慶長6)4月5日没、とある。おそらく墓石が正しいと思われる。法名「宗光寺殿天英宗光大禅定門」。
松平頼渡妻の墓碑
松平頼渡妻
生 不明
没 享保21年 (1736年)
松平忠雅の娘。1726年(享保11)9月松平頼渡に嫁ぎ、幸姫、成姫、頼邑の1男2女を儲ける。1736年(享保21)1月19日没。法名「霊心院殿天室慈明大姉」。
松平重治の墓碑
松平重治
生 寛永19年 (1642年)
没 貞享2年 (1685年)
上総佐貫藩2代藩主。1642年(寛永19)品川高如の次男として生まれる。1652年(承応元)6月松平勝隆の養子となる。1662年(寛文2)9月勝隆の隠居により家督を継ぐ。1684年(貞享元)11月幕府の掟を破り不当な所為を理由に改易。会津にお預かりとなる。1685年(貞享2)8月2日没。44才。法名「松統院殿住誉安山心蓮大居士」。
松平重勝の墓碑
松平重勝
生 天文18年 (1549年)
没 元和6年 (1620年)
1549年(天文18)重吉の4男として生まれる。徳川家康に従い、長篠、長久手の戦いに従う。のち、家康の6男忠輝の家老となり、越後にて2万石を領した。忠輝が罪を犯し蟄居となると、秀忠に仕え下総関宿にて2万6千石を賜る。1619年(元和5)遠江横須賀に移り、駿府城の城代を兼務する。1620年(元和6)12月14日没。72才。法名「松岳院殿雄譽助白大禅定門」。
松平忠雅妻の墓碑
松平忠雅妻
生 貞享4年 (1687年)
没 元文2年 (1737年)
1687年(貞享4)4月毛利綱広の娘として生まれる。名は類子。松平忠雅に嫁ぎ、女子、忠張の1男1女を儲ける。1737年(元文2)3月25日没。51才。法名「淨徳院殿仁相智好大姉」。
松平忠彦の墓碑
松平忠彦
生 文化2年 (1805年)
没 天保12年 (1841年)
奥平松平家10代当主。武蔵忍藩2代藩主。1805年(文化2)9月忠翼の3男として生まれる。兄忠堯の養子となり、1838年(天保9)兄の隠居により家督を継ぐ。1841年(天保12)3月27日没。37才。法名「惇宗院殿道嶽功顯大居士」。墓石は弟忠国の建立による。
松平忠張の墓碑
松平忠張
生 享保5年 (1720年)
没 元文3年 (1738年)
1720年(享保5)忠雅の長男として生まれる。1734年(享保19)10月将軍徳川吉宗に拝謁。跡を継ぐことなく1738年(元文3)4月19日没。19才。法名「乾龍院殿圓應元通大居士」。
松平忠堯の墓碑
松平忠堯
生 享和元年 (1801年)
没 元治元年 (1864年)
奥平松平家9代当主。武蔵忍藩初代藩主。1801年(享和元)6月忠翼の長男として生まれる。父の死により1821年(文政4)伊勢桑名藩主を継ぐ。1823年(文政6)3月三方領知替えにより武蔵忍藩主となる。1864年(元治元)8月14日没。64才。法名「大休院殿仙翁道間大居士」。
松平忠堯妻の墓碑
松平忠堯妻
生 文化2年 (1805年)
没 天保12年 (1841年)
1805年(文化2)伏見宮貞敬親王の第2王女として生まれる。韶子女王。松平忠堯に嫁ぐ。1841年(天保12)6月27日没。37才。法名「寶雲院殿奇峯妙麗大姉」。
松平忠和の墓碑
松平忠和
生 宝暦9年 (1759年)
没 享和2年 (1802年)
奥平松平家7代当主。伊勢桑名藩5代藩主。1759年(宝暦9)8月紀州藩主徳川宗将の9男として生まれる。1793年(寛政5)9月異母兄で桑名藩主松平忠功の養子となる。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。同月忠功の隠居により跡を継ぐ。1802年(享和2)5月10日没。44才。法名「遊心院殿無擬了空大居士」。
松平忠功の墓碑
松平忠功
生 宝暦6年 (1756年)
没 文政13年 (1830年)
奥平松平家6代当主。伊勢桑名藩4代藩主。1756年(宝暦6)徳川宗将の6男として生まれる。1783年(天明3)松平忠啓の養子となり、その娘を妻とする。忠啓の死により1787年(天明7)1月跡を継ぐ。同年2月将軍徳川家斉に拝謁。1830年(文政13)7月29日没。75才。法名「大乗院殿融明慈證大居士」。
松平忠刻妻の墓碑
松平忠刻妻
生 享保11年 (1726年)
没 享和元年 (1801年)
1726年(享保11)酒井忠寄の娘として生まれる。松平忠刻に嫁ぐ。忠刻との間に子は出来ず。1801年(享和元)7月16日没。76才。法名「清暁院殿法巖栄身尼大姉」。
松平勝隆の墓碑
松平勝隆
生 天正17年 (1589年)
没 寛文6年 (1666年)
上総佐貫藩初代藩主。1589年(天正17)重勝の5男として生まれる。徳川家康の家臣鳥居元忠のもとで成長する。1610年(慶長15)家康に拝謁。その後家康に仕え、大番頭。大坂の両陣に従う。1666年(寛文6)2月3日没。78才。法名「本誓院殿然誉覚雲大居士」。
本多忠栄の墓碑
本多忠栄
生 享保8年 (1723年)
没 安永7年 (1778年)
三河西端領5代領主。1723年(享保8)忠統の4男として生まれる。1742年(寛保2)8月将軍徳川吉宗に拝謁。本多忠敝の養子となり、忠敝の死により1745年(延享2)12月跡を継ぐ。1778年(安永7)10月20日没。56才。法名「心光院殿本譽寂然常照大居士」。他数名の法名もあるが、詳細不明。
本多俊政の墓碑
本多俊政
生 不明
没 慶長15年 (1610年)
利久の長男。豊臣秀長、秀保に仕える。秀保死後、豊臣秀吉の直臣となり紀州で代官を務める。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付く。その時、俊政が不在であった居城高取城が西軍に攻められたが家臣だけで守り通す。1610年(慶長15)閏2月8日没。法名「利生院殿月秀阿春大禅定門」。
徳川家宣妻の墓碑
徳川家宣妻
生 貞享2年 (1685年)
没 宝暦2年 (1752年)
1685年(貞享2)江戸浅草唯念寺住職勝田玄哲の娘として生まれる。名は喜世、後に左京局。徳川家宣の御殿に出仕しているうちに家宣に見初められ側室となる。1709年(宝永6)家宣が将軍となると同年家継(7代将軍)を生む。家宣没後は月光院と号す。1714年(正徳4)月光院付きの江島(絵島)が起こした江島生島事件が発生。1752年(宝暦2)9月19日没。68才。法名「月光院殿理譽清玉智天大禅定尼」。
市川団十郎の墓碑
市川団十郎
生 万治3年 (1660年)
没 宝永元年 (1704年)
1660年(万治3)堀越重蔵の長男として生まれる。本名堀越十郎。歌舞伎界を代表する役者で初代市川海老蔵 、市川段十郎 、初代市川團十郎を名乗る。1704年(元禄17)2月19日公演中に同じ役者の生島半六に舞台上で刺殺される。この墓石は七代目市川團十郎が1830年(文政13)に再建したもの。
奥平信昌の墓碑
奥平信昌
生 弘治元年 (1555年)
没 元和元年 (1615年)
美濃加納藩初代藩主。1555年(弘治元)貞能の長男として生まれる。武田信玄に従っていたが、信玄没後は徳川家康に従う。長篠の戦いのときは、長篠城に籠城。寡兵で武田軍の攻撃を耐え、戦後家康の長女亀姫と婚姻。小牧長久手の戦い、小田原合戦、関ヶ原の戦いに従軍。1615年(元和元)3月14日没。61才。法名「久昌院殿泰雲道安大居士」。墓石は3周忌に4男清匡(忠明)によって建立。
大久保忠知妻の墓碑
大久保忠知妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
稲垣長茂の娘。大久保忠知に嫁ぎ、忠高、忠信の2男を儲ける。1685年(貞享2)7月9日没。法名「通善院殿〇葉理双大姉」。墓石は息子佐渡守忠高の建立による。
多賀谷重経の墓碑
多賀谷重経
生 永禄元年 (1558年)
没 元和4年 (1618年)
1558年(永禄元)政経の子として生まれる。結城晴朝から独立するため活動するも1590年(天正18)小田原合戦後、豊臣秀吉の命で結城家を継いだ秀康の傘下となる。しかし、すぐ佐竹氏の傘下へ転じる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは西軍に付いたため改易。1618年(元和4)11月9日没。61才。法名「覺心祥圓大居士」。
北條氏重妻の墓碑
北條氏重妻
生 不明
没 万治2年 (1659年)
杉原伯耆守長房の長女。北条氏重に嫁ぐ。1659年(万治2)7月5日没。法名「證心院殿自安妙體大姉」。氏重妻はこの證心院殿以外不明だが、墓石に「氏重公後室」とあるので氏重には先妻がいたことがわかる。墓石には「杉原耆伯守息女」とあり、誤字と思われるが伯と耆が逆になっている。
北條氏重の墓碑
北條氏重
生 文禄4年 (1595年)
没 万治元年 (1658年)
1595年(文禄4)保科正直の4男として生まれる。母は徳川家康の異父妹多劫。1611年(慶長16)家康、秀忠の命により北条氏勝の養子となる。大坂の陣に参戦。下総国関宿城主、駿河国田中城主などを経て、1648年(慶安元)遠江掛川藩にて3万石となる。1658年(万治元)10月1日没。64才。法名「長盛院殿泉巖玄清大居士」。
初代豊澤團平の墓碑
初代豊澤團平
生 文政11年 (1828年)
没 明治31年 (1898年)
1828年(文政11)生まれ。本名加古仁兵衛。文楽義太夫節三味線の名手。1839年(天保10)三代目豊澤廣助に入門。文楽座や彦六座で活躍。1898年(明治31)4月1日没。法名「大達糸道居士」。
内藤正友の墓碑
内藤正友
生 寛文3年 (1663年)
没 正徳元年 (1711年)
信濃岩村田藩初代藩主。1663年(寛文3)正勝の長男として生まれる。1674年(延宝2)7月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1694年(元禄7)10月跡を継ぐ。1703年(元禄16)8月移封により信濃岩村田藩主となる。1711年(正徳元)8月17日没。49才。法名「瑞雲院殿天譽英龍大居士」。
内藤正勝妻の墓碑
内藤正勝妻
生 不明
没 元禄9年 (1696年)
内藤政次の娘。内藤正勝に嫁ぎ、正友を儲ける。1696年(元禄9)6月12日没。法名「清久院殿安譽養壽大姉」。
内藤政次の墓碑
内藤政次
生 慶長7年 (1602年)
没 寛文10年 (1670年)
1602年(慶長7)忠政の4男として生まれる。1620年(元和6)12月徳川家光に拝謁。翌年御書院番。1641年(寛永18)8月生まれたばかりの徳川家綱付となる。500石から加増を重ね5千石まで出世。1670年(寛文10)7月29日没。69才。法名「善樹院殿法誉清傳大信士」。
佐久間安長の墓碑
佐久間安長
生 慶長16年 (1611年)
没 寛永9年 (1632年)
信濃飯山藩2代藩主。1611年(慶長16)安政の次男として生まれる。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1632年(寛永9)4月12日没。22才。法名「多福院殿蓮雲宗光大居士」。
佐久間安次の墓碑
佐久間安次
生 寛永7年 (1630年)
没 寛永15年 (1638年)
信濃飯山藩3代藩主。1630年(寛永7)安長の長男として生まれる。父の死により1632年(寛永9)8月3才で跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月将軍徳川家光に拝謁。1638年(寛永15)11月20日没。9才。法名「大雄院殿徳用宗麟大禅定門」。
佐久間安政の墓碑
佐久間安政
生 弘治元年 (1555年)
没 寛永4年 (1627年)
信濃飯山藩初代藩主。1555年(弘治元)盛次の次男として生まれる。織田信長に仕え佐久間信盛に属し、のち柴田勝家に属す。1583年(天正11)賤ヶ岳の戦い後は紀州に落ち延びる。のち北条氏に仕えるも、北条氏滅亡後は、蒲生氏郷に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方。1627年(寛永4)4月25日没。73才。法名「徳翁院殿功岸玄忠大居士」。
二代豊澤團平の墓碑
二代豊澤團平
生 安政5年 (1858年)
没 大正10年 (1921年)
1858年(安政5)植畑豊七の次男として生まれる。本名植畑九市。文楽義太夫節三味線の名手。初代豊澤團平に入門。師匠團平と言い争いとなり、一時期師弟関係が解除されていたが、後に和解。1907年(明治40)6月二代豊澤團平を襲名。1921年(大正10)5月5日没。64才。法名「慈音院釋團平居士」。
久留正秀の墓碑
久留正秀
生 元禄9年 (1696年)
没 享保19年 (1734年)
1696年(元禄9)正清の次男として生まれる。1714年(正徳4)5月将軍徳川家継に拝謁。父の隠居により1726年(享保11)4月跡を継ぐ。1734年(享保19)3月18日没。39才。法名「其心院殿靜譽寂室一無居士」。
久留正清の墓碑
久留正清
生 慶安4年 (1651年)
没 享保12年 (1727年)
1651年(慶安4)正親の3男として生まれる。兄正直の死により1680年(延宝8)12月跡を継ぐ。水野家預かりの赤穂浪士が切腹の際、目付として派遣される。1725年(享保10)9月隠居。1727年(享保12)6月14日没。77才。法名「天〇院暁譽丘翁凮山大居士」。
久留島通春の墓碑
久留島通春
生 慶長12年 (1607年)
没 承応4年 (1655年)
豊後森藩2代藩主。1607年(慶長12)来島長親の長男として生まれる。父の死により1612年(慶長17)跡を継ぎ、徳川家康、秀忠に拝謁。1616年(元和2)来島を久留島に改める。1655年(承応4)2月11日没。49才。法名「安祥院殿泰雲健康大居士」。
中根正成の墓碑
中根正成
生 天正15年 (1587年)
没 寛文11年 (1671年)
1587年(天正15)正重の長男として生まれる。1599年(慶長4)より徳川秀忠に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは15才未満のため上野坂本まで従軍となる。大坂の両陣にも参戦、夏の陣のときは怪我を負いながら首を取る。1659年(万治2)2月隠居。1671年(寛文11)9月4日没。85才。法名「松譽貞翁宗閑居士」。
中根正弘の墓碑
中根正弘
生 不明
没 延宝5年 (1677年)
正吉の3男。吉兵衛。徳川綱吉に仕え、小姓組の番頭を務める。1677年(延宝5)3月21日没。法名「華岳院殿法巖圓徹居士」。
中根正勝の墓碑
中根正勝
生 慶長10年 (1605年)
没 延宝7年 (1679年)
1605年(慶長10)正成の長男として生まれる。1617年(元和3)徳川家光に拝謁、小姓となる。父の隠居により1659年(万治2)2月跡を継ぐ。1673年(延宝元)3月隠居。1679年(延宝7)8月6日没。75才。法名「淨保居士」。
一柳直高妻の墓碑
一柳直高妻
生 不明
没 不明
詳細不明。墓石に「一柳監物直盛公為昌林栄繁大姉悲母」とあることから、一柳直高に嫁ぎ直盛を儲けたことがわかる。
一柳直頼の墓碑
一柳直頼
生 慶長7年 (1602年)
没 正保2年 (1645年)
1602年(慶長7)直盛の3男として生まれる。大坂の両陣のときは人質として江戸にいる。1618年(元和4)6月将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)11月父の遺領のうち1万石を賜う。1645年(正保2)4月28日没。44才。法名「佛心寺殿機岳宗活大禅定門」。
一柳直盛の墓碑
一柳直盛
生 永禄7年 (1564年)
没 寛永13年 (1636年)
1564年(永禄7)直高の次男として生まれる。兄直末とともに豊臣秀吉に仕え、鳥取城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦いに従軍。1590年(天正18)山中城攻めのとき兄が討死すると代わりに指揮を取る。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは東軍に味方。大坂の両陣にも参戦。1636年(寛永13)6月伊予西条藩主となる。同年8月19日没。73才。法名「多宝院殿心空思斎大居士」。
一柳直末の墓碑
一柳直末
生 天文15年 (1546年)
没 天正18年 (1590年)
1546年(天文15)直高の長男として生まれる。1570年(元亀元)より豊臣秀吉に仕え、秀吉の甥三好秀次に付けられる。1584年(天正12)小牧長久手の戦いに参戦。1590年(天正18)3月29日山中城攻めのときに討死。45才。法名「大通院殿天叟長運大禅定門」。
相馬貞胤娘の墓碑
相馬貞胤娘
生 延宝6年 (1678年)
没 正徳4年 (1714年)
1678年(延宝6)2月相馬貞胤の長女として生まれる。名は亀。1692年(元禄5)北条氏朝と婚約。1696年(元禄9)年4月離縁、実家に戻る。1714年(正徳4)12月22日没。37才。法名「菱光院殿香室貞鑑大姉」。墓石施主は、相馬讃岐守清胤(尊胤)による。
相馬貞胤妻の墓碑
相馬貞胤妻
生 寛文2年 (1662年)
没 貞享3年 (1686年)
1662年(寛文2)板倉重矩の娘として生まれる。於梅の方。相馬貞胤に嫁ぎ、北条氏朝妻(名は亀)の1女を儲ける。1686年(貞享3)5月4日没。25才。法名「凉徳院殿花窓秀蓮大姉禅定尼」。墓石は貞胤の弟昌胤の建立による。
相馬貞胤の墓碑
相馬貞胤
生 万治2年 (1659年)
没 延宝7年 (1679年)
陸奥相馬中村藩4代藩主。1659年(万治2)5月忠胤の長男として生まれる。1668年(寛文8)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1673年(延宝元)12月跡を継ぐ。1679年(延宝7)11月23日没。21才。法名「光明院殿瓊巖周英大居士」。
相馬義胤(蒼霄院)妻の墓碑
相馬義胤(蒼霄院)妻
生 永禄7年 (1564年)
没 元和4年 (1618年)
 1564年(永禄7)三分一所義景(長江盛景)の娘として生まれる。深谷御前、おきた御方。相馬義胤(蒼霄院)に嫁ぎ、利胤、岩城貞隆妻、及胤の2男1女を儲ける。関ヶ原の戦いの後、人質として江戸で過ごす。1618年(元和4)8月11日没。55才。法名「月潭妙秋大禅定尼」。
相馬義胤(巴陵院)妻の墓碑
相馬義胤(巴陵院)妻
生 不明
没 正保4年 (1647年)
内藤忠重の娘。1635年(寛永12)相馬義胤(巴陵院)に嫁ぎ、亀、千松の2女を儲ける。1647年(正保4)3月6日没。法名「聖衆院殿花岳宗心大禅定尼」。墓石には内藤家から相馬家に従った久米半右衛門の名も見える。
相馬義胤(巴陵院)の墓碑
相馬義胤(巴陵院)
生 元和5年 (1619年)
没 慶安4年 (1651年)
陸奥相馬中村藩2代藩主。1619年(元和5)利胤の長男として生まれる。父の死により1625年(寛永2)10月跡を継ぐ。1629年(寛永6)5月将軍徳川家光に拝謁。1651年(慶安4)3月5日没。33才。法名「巴陵院殿月海霜剱大居士」。
相馬祥胤の墓碑
相馬祥胤
生 明和2年 (1765年)
没 文化13年 (1816年)
陸奥相馬中村藩9代藩主。1765年(明和2)恕胤の3男として生まれる。年齢を誤魔化し幕府には1761年(宝暦11)生まれと届ける。1777年(安永6)将軍徳川家治に拝謁。1783年(天明3)12月父の隠居により跡を継ぐ。1816年(文化13)6月20日没。52才。法名「岹嶢院殿泰雲巨嶽大居士」。
相馬樹胤の墓碑
相馬樹胤
生 天明元年 (1781年)
没 天保10年 (1839年)
陸奥相馬中村藩10代藩主。1781年(天明元)11月祥胤の長男として生まれる。1798年(寛政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。1801年(享和元)3月父の隠居により家督を継ぐ。1813年(文化10)隠居。1839年(天保10)9月7日没。59才。法名「大隆院殿英巖徳雄大居士」。
相馬昌胤妻の墓碑
相馬昌胤妻
生 元和8年 (1622年)
没 延宝2年 (1674年)
1622年(元和8)常陸額田藩主松平頼元の娘として生まれる。名は多禰姫。松平主膳正信利の妻となるも1674年(延宝2)信利が没したため、1680(延宝8)年12月13日相馬昌胤と再婚。昌胤の間に相馬叙胤妻、於勝の2女を儲ける。1711年(正徳元)年6月4日没。53才。法名「本立院殿卓然貞高大姉」。墓石の施主は昌胤の子清胤(尊胤)。
相馬昌胤の墓碑
相馬昌胤
生 寛文元年 (1661年)
没 享保13年 (1728年)
陸奥相馬中村藩5代藩主。1661年(寛文元)忠胤の次男として生まれる。1679年(延宝7)11月兄で藩主の貞胤の養子となり、翌月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1701年(元禄14)2月隠居。1728年(享保13)10月6日没。68才。法名「建徳院殿勢誉峻岩孔照大居士」。
相馬恕胤の墓碑
相馬恕胤
生 享保20年 (1735年)
没 寛政3年 (1791年)
陸奥相馬中村藩8代藩主。1735年(享保20)徳胤の長男として生まれる。1751年(宝暦元)2月将軍徳川家重に拝謁。祖父尊胤の隠居により1765年(明和2)5月跡を継ぐ。1783年(天明3)12月隠居。1791年(寛政3)9月14日没。57才。法名「高峻院殿徳應雲巖大居士」。
相馬忠胤娘の墓碑
相馬忠胤娘
生 寛文5年 (1665年)
没 貞享元年 (1684年)
1665年(寛文5)6月相馬忠胤の長女として生まれる。名は於奈阿。1678年(延宝6)12月佐竹義長の妻となる。翌年離婚。1684(貞享元)12月5日没。法名「寒光院殿雪窓貞白大姉」。
相馬忠胤妻の墓碑
相馬忠胤妻
生 不明
没 延宝2年 (1674年)
相馬義胤の長女。亀姫。佐竹義處と婚約していたが、解消。相馬忠胤(土屋氏)の正室となり、忠胤の間に、貞胤、昌胤、佐竹義長室、女子、女子の2男3女を儲ける。1674年(延宝2)2月10日没。法名「圓照院殿月堂壽桂大姉」。
相馬忠胤の墓碑
相馬忠胤
生 寛永14年 (1637年)
没 延宝元年 (1673年)
陸奥相馬中村藩3代藩主。1637年(寛永14)土屋利直の次男として生まれる。1651年(慶安4)相馬義胤の養子となりその娘を妻とする。1652年(承応元)2月跡を継ぐ。1673年(延宝元)11月2日没。37才。法名「廣徳院殿方山貞義大居士」。
相馬徳胤の墓碑
相馬徳胤
生 元禄15年 (1702年)
没 宝暦2年 (1752年)
1702年(元禄15)2月叙胤の3男として生まれる。1714年(正徳4)7月将軍徳川家継に拝謁。尊胤の養子となるも跡を継ぐことなく1752年(宝暦2)5月15日没。51才。法名「洞嶽院殿別宗覺天大居士」。
相馬尊胤妻の墓碑
相馬尊胤妻
生 不明
没 明和7年 (1770年)
本多康慶の娘。名は丈姫。1717年(享保2)2月相馬尊胤に嫁ぐ。尊胤の間に子供は出来ず。1770年(明和7)11月2日没。法名「實相院殿操譽貞光妙英大姉」。墓石は恕胤(尊胤の弟徳胤の子)の建立による。
相馬尊胤の墓碑
相馬尊胤
生 元禄9年 (1696年)
没 明和9年 (1772年)
 陸奥相馬中村藩7代藩主。1696年(元禄9)昌胤の次男として生まれる。義兄(昌胤婿養子)叙胤の養子となる。1708年(宝永5)将軍徳川綱吉に拝謁。1709年(宝永6)養父叙胤の隠居により跡を継ぐ。1772年(明和9)4月6日没。77才。法名「壽高院殿仁譽廉節瑞巖大居士」。
相馬叙胤妻の墓碑
相馬叙胤妻
生 天和元年 (1681年)
没 享保5年 (1720年)
1681年(天和元)9月相馬昌胤の長女として生まれる。名は品姫。父の意向により、佐竹家の叙胤を婿に迎えるため1697年(元禄10)1月婚姻。叙胤との間に次郎、延壽丸、鍋千代、徳胤、於由の4男1女を儲ける。1720年(享保5)3月23日没。40才。法名「保壽院殿慈僊榮祐大姉」。墓石に「施主相馬讃岐守尊胤為養母」とあるが、尊胤は叙胤の跡を継いだ品姫の異母弟にあたる。
相馬叙胤の墓碑
相馬叙胤
生 延宝5年 (1677年)
没 宝永8年 (1711年)
陸奥相馬中村藩6代藩主。1677年(延宝5)4月佐竹義處の次男として生まれる。1692年(元禄5)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1696年(元禄9)7月相馬昌胤の婿養子となる。1701年(元禄14)2月昌胤の隠居により跡を継ぐ。1711年(宝永8)4月20日没。35才。法名「香雲院殿靉翁玄靆大居士」。
相馬利胤妻の墓碑
相馬利胤妻
生 天正14年 (1586年)
没 寛文5年 (1665年)
1586年(天正14)岡田元次の次女として生まれる。土屋忠直の異父妹。将軍徳川秀忠の養女となり、1601年(慶長6)相馬利胤に嫁ぐ。利胤の間に、於安、義胤(巴陵院)の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月30日没。80才。法名「長松院殿蘭榮惠秀大禅定尼」。
相馬利胤の墓碑
相馬利胤
生 天正9年 (1581年)
没 寛永2年 (1625年)
陸奥相馬中村藩初代藩主。1581年(天正9)義胤の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは中立で、戦後所領を一旦没収されるものちに安堵される。1611年(慶長16)居城を相馬中村城に移す。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。1625年(寛永2)9月10日没。45才。法名「二照院殿日璨杲公大居士」。墓石は息子の虎之助(義胤)が1626年(寛永3)7月10日に建立。
寺沢堅高妻の墓碑
寺沢堅高妻
生 不明
没 延宝8年 (1680年)
相馬利胤の娘。寺沢堅高に嫁ぐも、堅高が島原の乱の責任を取らされた後、実家の相馬家に戻る。なお堅高との間には子供は出来なかった。江戸の八丁堀に屋敷に在住。1680年(延宝8)12月23日陸奥中村にて没。法名「松岩院殿梅月景蘂大姉禅定尼」。墓石は弟義胤の孫で陸奥相馬中村藩5代藩主昌胤の建立による。墓石にある法名の「大姉禅定尼」は極めて珍しい。
伊東祐隆の墓碑
伊東祐隆
生 宝永7年 (1710年)
没 宝暦7年 (1757年)
日向飫肥藩8代藩主。1710年(宝永7)祐永の3男として生まれる。1744年(延享元)12月異母弟祐之の死により跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1757年(宝暦7)8月18日没。48才。法名「慈廣院殿節山玄義大居士」。
伊東祐鐘の墓碑
伊東祐鐘
生 明和9年 (1772年)
没 寛政10年 (1798年)
日向飫肥藩10代藩主。 1772年(明和9)4月祐福の長男として生まれる。1781年(天明元)父の死により跡を継ぐ。1788年(天明8)2月将軍徳川家斉に拝謁。1798年(寛政10)2月14日没。27才。法名「崇賢院殿洽岳仁融大居士」。
伊東祐福の墓碑
伊東祐福
生 享保20年 (1735年)
没 天明元年 (1781年)
日向飫肥藩9代藩主。1735年(享保20)祐隆の長男として生まれる。1752年(宝暦2)4月将軍徳川家重に拝謁。1757年(宝暦7)父の死により家督を継ぐ。1781年(天明元)7月20日没。47才。法名「廣徳院殿大安道樹大居士」。
伊東祐由の墓碑
伊東祐由
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文元年 (1661年)
日向飫肥藩4代藩主。1631年(寛永8)1月祐久の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。1657年(明暦3)12月父の死により跡を継ぐ。1661年(寛文元)6月13日没。31才。法名「法泉院殿瑞雲宗鳳大居士」。
伊東祐永の墓碑
伊東祐永
生 元禄4年 (1691年)
没 元文4年 (1739年)
日向飫肥藩6代藩主。1691年(元禄4)祐信の子として生まれる。祐実の養子となる。1707年(宝永4)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)4月祐実の隠居により家督を継ぐ。1739年(元文4)1月14日没。49才。法名「玄証院殿霊鑑自覺大居士」。
伊東祐民の墓碑
伊東祐民
生 寛政4年 (1792年)
没 文化9年 (1812年)
日向飫肥藩11代藩主。1792年(寛政4)2月祐鐘の長男として生まれる。1798年(寛政10)父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)6月29日没。21才。法名「泰梁院殿通峯玄津大居士」。
伊東祐慶妻の墓碑
伊東祐慶妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
佐藤隆勝の娘。伊東祐慶の妻。1638年(寛永15)9月13日没。法名「良昌院殿法源妙応大姉」。墓石施主は義理の息子大和守祐久。
伊東祐慶の墓碑
伊東祐慶
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
日向飫肥藩2代藩主。1589年(天正17)6月祐兵の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方する。同年、父の死により跡を継ぐ。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは出陣するも戦場に着く前に戦が終わったため領地に引き返す。1636年(寛永13)4月4日没。48才。法名「東禅寺殿泰雲玄興大居士」。
伊東祐崇妻の墓碑
伊東祐崇妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
分部信政の娘。伊東祐崇の妻。1698年(元禄11)6月4日没。法名「眞照院殿清鏡圓智大姉」。
伊東祐実妻(龍珠院)の墓碑
伊東祐実妻(龍珠院)
生 不明
没 延宝3年 (1675年)
秋田盛季の娘。於子々。伊東祐実に嫁ぎ1女を儲ける。1675年(延宝3)9月7日没。法名「龍珠院殿宗玄妙猷大姉」。墓石は1677年(延宝5)3月26日夫祐実の建立による。
伊東祐実妻(槐巖院)の墓碑
伊東祐実妻(槐巖院)
生 明暦2年 (1656年)
没 元禄6年 (1693年)
1656年(明暦2)鍋島光茂の娘として生まれる。春姫。伊東祐実に嫁ぐも子供は出来なかった。1693年(元禄6)5月22日没。(墓石は23日とある)法名「槐巖院殿慈蔭貞凉大禪定尼」。墓石は祐実の子駿河守祐崇(母は土岐頼泰の娘)の建立による。
伊東祐実の墓碑
伊東祐実
生 寛永21年 (1644年)
没 享保8年 (1723年)
日向飫肥藩5代藩主。 1644年(寛永21)1月祐久の4男として生まれる。1661年(寛文元)6月兄祐由の養子となる。同年8月兄の死により跡を継ぐ。同年閏8月将軍徳川家綱に拝謁。1714年(正徳4)4月祐永に家督を譲って隠居。1723年(享保8)9月18日没。80才。法名「洞林院殿佺叟丹心大居士」。
伊東祐兵妻の墓碑
伊東祐兵妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
伊東義益の娘。阿虎の方。伊東祐兵に嫁ぎ、伊東祐平妻、祐慶、成瀬正武妻、滝川法直妻、祐寿の2男3女を儲ける。1637年(寛永14)3月4日没。法名「松壽院殿正巌慶因尼大姉」。
伊東祐兵の墓碑
伊東祐兵
生 永禄2年 (1559年)
没 慶長5年 (1600年)
日向飫肥藩初代藩主。 1559年(永禄2)1月義祐の3男として生まれる。1577年(天正5)島津氏の攻撃により城を奪われ大友宗麟のもとに逃げる。しかし宗麟も耳川の戦いで島津氏に大敗。祐兵は伊予国の大内氏を頼る。のち、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従う。秀吉が島津征伐をしたのち、日向国を与えられ旧領に復帰。1600年(慶長5)10月11日没。42才。法名「報恩寺殿心関宗安大禅定門」。
伊東祐之の墓碑
伊東祐之
生 享保12年 (1727年)
没 延享元年 (1744年)
日向飫肥藩7代藩主。 1727年(享保12)5月祐永の9男として生まれる。1739年(元文4)3月父の死により家督を継ぐ。1742年(寛保2)10月将軍徳川吉宗に拝謁。1744年(延享元)9月2日没。18才。法名「天受院殿仁空義眞大居士」。
伊東祐久妻の墓碑
伊東祐久妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
滝川法直の娘。伊東祐久に嫁ぎ、祐次、鶴千代、女子、祐春、祐実の4男1女を儲ける。1645年(正保2)3月12日没。法名「養華院殿圓光理春大禅定尼」。墓石は1671年(寛文11)4月12日息子出雲守祐実の建立による。
伊東祐久の墓碑
伊東祐久
生 慶長14年 (1609年)
没 明暦3年 (1657年)
日向飫肥藩3代藩主。1609年(慶長14)7月祐慶の長男として生まれる。1620年(元和6)将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)5月父の死により家督を継ぐ。1637年(寛永14)島原の乱に出陣。1657年(明暦3)10月27日没。49才。法名「慈雲院殿玄龍大居士」。
伊東祐丕の墓碑
伊東祐丕
生 寛政9年 (1797年)
没 文化11年 (1814年)
日向飫肥藩12代藩主。1797年(寛政9)閏7月祐鐘の次男として生まれる。1812年(文化9)6月兄祐民の死により跡を継ぐ。1814年(文化11)8月14日没。18才。法名「玄徳院殿三要宗心大居士」。
高木正陳の墓碑
高木正陳
生 寛文5年 (1665年)
没 元文6年 (1741年)
河内丹南藩6代藩主。1665年(寛文5)正盛の次男として生まれる。1681年(天和元)5月河内丹南藩5代藩主正豊の養子となり、同年7月跡を継ぐ。同月将軍徳川綱吉に拝謁。1741年(元文6)2月5日没。77才。法名「元亨院殿乾譽學黌性久大居士」。墓石は孫の主水正弼の建立による。
高木正豊の墓碑
高木正豊
生 寛文2年 (1662年)
没 延宝9年 (1681年)
河内丹南藩5代藩主。1662年(寛文2)正盛の長男として生まれる。母は板倉重矩の娘。父の死により1670年(寛文10)4月跡を継ぐ。同年5月将軍徳川家綱に拝謁。1681年(延宝9)5月12日没。20才。法名「峯穹院殿堅譽意仙居士」。
高木正直の墓碑
高木正直
生 宝暦6年 (1756年)
没 天明元年 (1781年)
河内丹南藩9代藩主。1756年(宝暦6)酒井忠与の4男として生まれる。1777年(安永6)1月高木正弼の長女を娶り養子となる。同年12月将軍徳川家治に拝謁。正弼の死により1780年(安永9)11月跡を継ぐ。1781年(天明元)5月26日没。26才。法名「圓淨院殿英誉義光亮純大居士」。
高木正次の墓碑
高木正次
生 永禄6年 (1563年)
没 寛永7年 (1630年)
河内丹南藩初代藩主。1563年(永禄6)清秀の3男として生まれる。1582年(天正10)より徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠に属して上田城攻めに参陣。大坂夏の陣に参陣して戦功をたてる。1630年(寛永7)11月30日没。68才。法名「釋浄照」。
高木正明の墓碑
高木正明
生 享和3年 (1803年)
没 明治2年 (1869年)
河内丹南藩11代藩主。1803年(享和3)閏1月正剛の長男として生まれる。1819年(文政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1826年(文政9)10月跡を継ぐ。1848年(嘉永元)8月隠居。1869年(明治2)9月13日没。67才。法名「智覺院殿見融通照〇翁大居士」。
高木正成の墓碑
高木正成
生 天正15年 (1587年)
没 寛永12年 (1635年)
河内丹南藩2代藩主。1587年(天正15)正次の長男として生まれる。徳川家康に仕える。信州上田城攻め、大坂の両陣に参陣。父の死により、1631年(寛永8)3月跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月2日没。49才。法名「釋道向」。墓石は息子善次郎正弘の建立による。
高木正恒の墓碑
高木正恒
生 正徳4年 (1714年)
没 寛保3年 (1743年)
河内丹南藩7代藩主。1714年(正徳4)板倉重行の次男として生まれる。1719年(享保4)11月高木正陳の養子となる。1728年(享保13)2月将軍徳川吉宗に拝謁。正陳の死により1741年(寛保元)4月跡を継ぐ。1743年(寛保3)6月4日没。30才。法名「法源院殿圓誉智寛道應居士」。
高木正剛の墓碑
高木正剛
生 安永2年 (1773年)
没 天保5年 (1834年)
河内丹南藩10代藩主。1773年(安永2)松平忠福の次男として生まれる。1781年(天明元)5月高木正直の養子となり娘を娶る。同年6月跡を継ぐ。1791年(寛政3)2月将軍徳川家斉に拝謁。1834年(天保5)7月5日没。62才。法名「良弘院殿建譽秀道常葉大居士」。
香宗我部親泰の墓碑
香宗我部親泰
生 天文12年 (1543年)
没 文禄2年 (1593年)
1543年(天文12)長宗我部国親の3男として生まれる。香宗我部親秀の養子となり兄長宗我部元親の家臣として戦いに参加して活躍。他国の大名との外交も行う。1593年(文禄2)12月21日没。51才。法名「瑞松院殿明彭孤仙大禅定門」。
飯塚綱重妻の墓碑
飯塚綱重妻
生 不明
没 不明
墓石に「生國下野佐野住飯塚〇〇平朝臣綱重簾中」とあるので、佐野周防守家臣高瀬紀伊豊友の娘と思われる。飯塚綱重に嫁ぎ、忠重を儲ける。法名「妙金禅尼」。墓石は1625年(寛永2)8月建立の逆修塔。
飯塚綱重の墓碑
飯塚綱重
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治2)貞重の子として生まれる。佐野昌綱、宗綱、北条氏忠に仕える。その後、常陸国に至り佐竹義宣に仕える。1602年(慶長7)徳川家康に仕える。1614年(慶長19)大坂冬の陣には土井利勝に属して参戦。1623年(元和9)5月21日没。68才。法名「寶山盛印居士」。
酒井直次妻の墓碑
酒井直次妻
生 不明
没 不明
酒井直次の妻。墓石に「生国三州」とあり、鳥居忠政の娘と思われる。法名「永壽院殿淨譽華屋清薫大信女」。墓石は逆修塔。1631年(寛永8)8月15日と墓石にあるが、建立日か没年月日か不明。
酒井直次の墓碑
酒井直次
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永8年 (1631年)
1596年(慶長元)家次の次男として生まれる。1622年(元和8)兄忠勝が出羽庄内藩に加増移封となると、1万2千石を分知され出羽左沢藩主となる。1631年(寛永8)3月10日没。36才。法名「慈光院殿凉譽琳清大居士」。
酒井忠辰の墓碑
酒井忠辰
生 元禄13年 (1700年)
没 宝永6年 (1709年)
1700年(元禄13)忠真の長男として生まれる。1708年(宝永5)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1709年(宝永6)1月19日没。10才。法名「寶林院殿陽山香心大童子」。
酒井忠恒の墓碑
酒井忠恒
生 寛永16年 (1639年)
没 延宝3年 (1675年)
出羽松山藩初代藩主。1639年(寛永16)忠勝の3男として生まれる。父の遺領のうち2万石を分知され出羽松山藩主となる。1648年(慶安元)2月将軍徳川家光に拝謁。1675年(延宝3)8月6日没。37才。法名「光顔院殿覚譽道専受法大居士」。
酒井忠予娘の墓碑
酒井忠予娘
生 不明
没 元禄9年 (1696年)
酒井忠予の娘。1696年(元禄9)8月16日に早世。法名「淨林院殿寶譽清安秋榮大信女」。墓石は母(忠予妻)の建立による。
酒井忠予の墓碑
酒井忠予
生 明暦3年 (1657年)
没 享保20年 (1735年)
出羽松山藩2代藩主。1657年(明暦3)忠恒の長男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)10月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1732年(享保17)11月隠居。1735年(享保20)12月16日没。79才。法名「詠鏡院殿勝譽起清遊園大居士」。
酒井左衛門次郎の墓碑
酒井左衛門次郎
生 不明
没 正保2年 (1645年)
庄内藩主酒井忠勝弟民部政時の長男。父政時は庄内藩家臣柴谷武右衛門の養子となっていたが、政時、武右衛門が相次いで没したため、酒井姓に戻す。1645年(正保2)9月3日没。法名「雲光院殿智月晴圓居士」。
酒井家次妻の墓碑
酒井家次妻
生 不明
没 慶安2年 (1649年)
榊原正吉の娘。酒井家次に嫁ぎ、忠勝、直次の2男を儲ける。鶴岡城二之丸に住んでいたことより二ノ丸殿と称す。1649年(慶安2)12月15日没。法名「福聚院殿法誉昌清貞感大姉」。墓石は逆修塔。
酒井家次の墓碑
酒井家次
生 永禄7年 (1564年)
没 元和4年 (1618年)
1564年(永禄7)忠次の長男として生まれる。徳川家康に1字を賜い、家次と名乗る。1575年(天正3)長篠の戦いのときは父に従い鳶巣山を攻める。父の隠居により1588年(天正16)10月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1616年(元和2)加増移封により越後高田藩10万石。1618年(元和4)3月15日没。55才。法名「梅林院殿圓譽宗慶大居士」。
酒井了次の墓碑
酒井了次
生 慶長11年 (1606年)
没 寛永12年 (1635年)
1606年(慶長11)家次の5男として生まれる。讒言により藩主で兄忠勝から高野山へ蟄居を命じられるも、山を下り幕府に訴える。これにより今度は庄内藩領内に幽閉となる。1635年(寛永12)5月11日没。30才。法名「弘誓院殿応譽貞感居士」。墓石は1周忌に酒井宮内(忠勝か)の建立による。
豊臣朝臣茂勝の墓碑
豊臣朝臣茂勝
生 不明
没 不明
「豊臣朝臣茂勝逆修」と「峕慶長三年七月十一日」が読める。1598年(慶長3)時点で「茂勝」を名乗っていた人物は横浜茂勝と加藤嘉明が該当するが、両人とも豊臣姓を下賜された記録がない。どちらかの逆修墓であると思われるが確証を得ず。
藤堂高次妻(長生院)の墓碑
藤堂高次妻(長生院)
生 不明
没 貞享4年 (1687年)
多羅尾光量の娘。名は振。藤堂高次に嫁ぎ、市右衛門、勘姫、高久、高通の3男1女を儲ける。1687年(貞享4)4月21日没。法名「長生院殿仙嶽栄壽大姉」。墓石は逆修塔。
藤堂高次妻(松林院)の墓碑
藤堂高次妻(松林院)
生 不明
没 宝永4年 (1707年)
平井十郎右衛門の娘。名は於光。藤堂高次に嫁ぎ、堯円妻、高睦の1男1女を儲ける。1707年(宝永4)1月27日没。法名「松林院殿智月妙光大姉」。
益田就宣妻の墓碑
益田就宣妻
生 元和8年 (1622年)
没 寛文2年 (1662年)
1622年(元和8)吉川広家の長女として生まれる。名は今子。益田就宣の正室となる。就宣との間に、徳子、百子、毛利元勝妻、竹松、千太郎の2男3女を儲ける。1662年(寛文2)7月8日没。41才。法名「法雲院殿寂照理空大姉」。墓石に「吉川蔵人藤原廣家」が読める。
松平忠重妻の墓碑
松平忠重妻
生 不明
没 不明
諏訪頼水の娘。松平忠重に嫁ぐ。法名「梅香春清禅定尼」。墓石は1625年(寛永2)8月15日建立の逆修塔。「和哥山松平三郎兵衛内儀逆修」「信州諏訪因幡守息女」が刻まれている。
松平忠重の墓碑
松平忠重
生 不明
没 寛永2年 (1625年)
深溝松平家忠の4男。三郎兵衛。高野山の墓石より下総国生まれ、とあるので父家忠が下総国を治め始めた文禄期以降に生まれたことになる。紀伊徳川頼宣に仕える。1625年(寛永2)6月3日没。法名「金邦源真居士」。妻は諏訪頼水の娘。
松平忠良妻(圓明院)の墓碑
松平忠良妻(圓明院)
生 不明
没 元和6年 (1620年)
酒井家次の娘。松平忠良に嫁ぎ、金田房能妻、黒田忠之妻、松平直政妻、佐久間勝友妻、忠憲の1男4女を儲ける。1620年(元和6)4月9日没。法名「圓明院殿花岳貞心大禅定尼」。
松平信之の墓碑
松平信之
生 寛永8年 (1631年)
没 貞享3年 (1686年)
下総古河藩初代藩主。1631年(寛永8)忠国の次男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1659年(万治2)4月播磨明石藩主を継ぐ。1679年(延宝7)大和郡山藩に移封。1685年(貞享2)老中となり、下総古河藩へ加増移封。1686年(貞享3)7月22日没。56才。法名「長昌院殿窓譽江月圓榮大居士」。
松平乗寿妻の墓碑
松平乗寿妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
赤城氏。松平乗寿の側室となり、乗久、石川乗政の2男を儲ける。1651年(慶安4)1月27日没。法名「了泉院殿春誉雲覚貞法大信女」。越前国丹生郡朝日村志、成田市史等では了仙院殿」としている。墓石は息子石川乗政の建立による。
松平乗寿の墓碑
松平乗寿
生 慶長5年 (1600年)
没 承応3年 (1654年)
1600年(慶長5)生まれ。大給松平家乗の長男。1614年(慶長19)父の死により遺領を継ぐ。のち徳川家康、秀忠に拝謁。大坂の陣のときには、稲葉正成、遠藤慶隆、稲葉方通、平岡頼資、妻木頼忠たちの美濃衆の組頭となり出陣。美濃国岩村2万余石から遠江国浜松3万6千石、さらに上野国館林6万余石と加増を重ねた。1654年(承応3)1月26日没。55才。法名「源高院殿忠蓮社深譽道徹居士」。
本多政信の墓碑
本多政信
生 寛永11年 (1634年)
没 寛文2年 (1662年)
1634年(寛永11)政朝の3男として生まれる。本多政勝の養子となり、1644年(正保元)11月将軍徳川家光に拝謁。1653年(承応2)10月大和国内にて1万石を領す。1662年(寛文2)4月20日没。29才。法名「覺了院殿英真哲翁居士」。
本多忠盈の墓碑
本多忠盈
生 享保17年 (1732年)
没 明和4年 (1767年)
石見浜田藩2代藩主。1732年(享保17)真田信弘の6男として生まれる。1759年(宝暦9)7月本多忠敞の養子となり、その娘を妻とする。同年閏8月跡を継ぎ、将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)閏9月16日没。36才。法名「元徳院殿仁譽智興永崇大居士」。
本多忠政の墓碑
本多忠政
生 天正3年 (1575年)
没 寛永8年 (1631年)
1575年(天正3)忠勝の長男として生まれる。1590年(天正18)小田原合戦のときは父忠勝に従い岩槻城を攻めた。そのとき敵の妹尾下総守を討取る。この功績で秀吉から腰刀を賜った。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属して上田城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1631年(寛永8)8月10日没。57才。法名「大乾院殿秋譽長岳道悟大居士」。
本多忠勝妻の墓碑
本多忠勝妻
生 不明
没 慶長18年 (1613年)
松平玄鉄(阿知和右衛門玄鉄)の娘。1569年(永禄12)10月徳川家康が媒酌人となり本多忠勝に嫁ぐ。忠勝との間に小松姫(真田信之室)、奥平信昌室、忠政、忠朝、本多信之室の2男3女を儲けた。1613年(慶長18)9月14日没。法名「見性院殿蓮譽光信大姉」。
本多忠勝の墓碑
本多忠勝
生 天文17年 (1548年)
没 慶長15年 (1610年)
1548年(天文17)2月忠高の長男として生まれる。幼い時より徳川家康に仕え、大高城兵糧入れ、三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。徳川四天王の1人。1610年(慶長15)10月18日没。63才。法名「西岸寺殿長譽良信居士」。
有馬豊氏の墓碑
有馬豊氏
生 永禄12年 (1569年)
没 寛永19年 (1642年)
筑後久留米藩初代藩主。1569年(永禄12)則頼の次男として生まれる。豊臣秀吉に仕え遠江横須賀で3万石を領す。のち徳川家康に仕え家康養女を妻とする。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)閏12月筑後久留米にて21万石を与えられる。1642年(寛永19)閏9月30日没。74才。法名「春林院殿如夢道長大居士」。
戸沢正庸の墓碑
戸沢正庸
生 寛文4年 (1664年)
没 元文5年 (1740年)
出羽新庄藩3代藩主。1664年(寛文4)5月戸沢家重臣楢岡友清の4男として生まれる。1686年(貞享3)5月藩主戸沢正誠の養子となる。同年6月将軍徳川綱吉に拝謁。正誠の隠居により1710年(宝永7)2月跡を継ぐ。1740年(元文5)12月27日没。77才。法名「源徳院殿龐山常隆大居士」。
徳川重倫の墓碑
徳川重倫
生 延享3年 (1746年)
没 文政12年 (1829年)
紀伊和歌山藩8代藩主。 1746年(延享3)2月宗将の次男として生まれる。 1755年(宝暦5)11月元服のとき将軍徳川家重より1字を賜り重倫と名乗る。1765年(明和2)20才で藩主になり30才で隠居。隠居生活を54年以上送り、1829年(文政12)6月2日没。84才。法名「観自在院殿太眞大居士」。
徳川治貞の墓碑
徳川治貞
生 享保13年 (1728年)
没 寛政元年 (1789年)
紀伊和歌山藩9代藩主。 1728年(享保13)2月宗直の次男として生まれる。1741年(寛保元)松平頼邑の養子となる。1775年(安永4)紀伊和歌山藩8代藩主徳川重倫が隠居すると養子となり跡を継ぐ。10代将軍徳川家治より1字を賜い治貞と名乗る。1789年(寛政元)10月26日没。62才。法名「香嚴院殿心齋圓通大居士」。
徳川斉順の墓碑
徳川斉順
生 享和元年 (1801年)
没 弘化3年 (1846年)
紀伊和歌山藩11代藩主。 1801年(享和元)9月家斉の7男として生まれる。1805年(文化2)11月清水徳川家を継ぐ。1815年(文化12)2月元服のとき父で将軍の家斉から1字を賜り斉順と名乗る。1824年(文政7)6月和歌山藩主となる。1846年(弘化3)5月8日没。46才。法名「顯龍院殿恭譲圓輝大居士」。
徳川斉彊の墓碑
徳川斉彊
生 文政3年 (1820年)
没 嘉永2年 (1849年)
紀伊和歌山藩12代藩主。 1820年(文政3)4月家斉の21男として生まれる。1827年(文政10)清水徳川家を継ぐ。1834年(天保5) 元服のとき将軍で父でもある家斉から1字を賜り斉彊と名乗る。1846年(弘化3)和歌山藩主で兄でもある斉順が死去すると紀伊徳川家を継ぐ。1849年(嘉永2)3月1日没。30才。法名「憲章院殿至徳道光大居士」。
山浦清麿の墓碑
山浦清麿
生 文化10年 (1813年)
没 嘉永7年 (1854年)
1813年(文化10)3月昌友の次男として生まれる。源清麿とも。信州上田藩主真田幸貫の命により江戸に行き、刀工として活躍。水心子正秀、大慶直胤とともに「江戸三作」と呼ばれる。1854年(嘉永7)11月14日自殺。42才。法名「大道院義心居士」。
山名時義の墓碑
山名時義
生 貞和2年 (1346年)
没 康応元年 (1389年)
1346年(貞和2)山名時氏の5男として生まれる。南朝方に味方をしていたが、幕府方に帰参。1363年(貞治2)将軍足利義詮に拝謁。1376年(永和2)兄師義の死により家督を継ぐ。但馬守護のほか備後守護も担い11ヶ国を領有、「六分一殿」と称される。1389年(康応元)5月4日没。44才。法名「圓通寺殿大等宗均大禅定門」。墓石は1404年(応永11)5月4日の建立による。
宍戸親朝妻の墓碑
宍戸親朝妻
生 不明
没 文政5年 (1822年)
梅園実縄の娘で毛利就任の養女として宍戸親朝に嫁ぐ。親朝との間に、元礼を儲ける。1822年(文政5)9月4日没。法名「瓊琳院殿寶室貞盤大姉」。墓石に「宍戸主計親朝室」とある。
宍戸親朝の墓碑
宍戸親朝
生 安永元年 (1772年)
没 天保2年 (1831年)
1772年(安永元)就年の長男として生まれる。主君毛利治親より1字を賜り親朝と名乗る。1811年(文化8)藩主毛利斉熙に従い将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1818年(文政元)跡を継ぐ。1831年(天保2)8月24日没。60才。法名「大隆院殿孝運常觀大居士」。
宍戸広隆妻の墓碑
宍戸広隆妻
生 不明
没 享保15年 (1730年)
宍戸就延の次女。宍戸広隆に嫁ぎ、婿とする。広隆との間に、孫四郎、八助、竹次郎、女子の3男1女を儲ける。1730年(享保15)12月12日没。法名「恵光院殿寒月智照大姉」。
宍戸広隆の墓碑
宍戸広隆
生 貞享3年 (1686年)
没 元文元年 (1736年)
1686年(貞享3)熊谷就実の長男として生まれる。藩主毛利吉広より1字を賜り広隆と名乗る。1722年(享保7)叔父宍戸就延の死により跡を継ぐ。1736年(元文元)11月5日没。51才。法名「天心院殿義翁尊孝大居士」。墓石は養子宍戸広周の建立による。
宍戸広周妻の墓碑
宍戸広周妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
毛利元連の娘。宍戸広周に嫁ぎ、四郎、志道就良妻、内藤栄勝妻、女子の1男3女を儲ける。1801年(享和元)9月16日没。法名「恭性院殿永真本敬大姉」。
宍戸広周の墓碑
宍戸広周
生 享保5年 (1720年)
没 安永元年 (1772年)
1720年(享保5)熊谷元貞の次男として生まれる。宍戸広隆が没すると養子となり跡を継ぐ。藩主毛利宗広より1字を賜い、広満(のち広周)と名乗る。1772年(安永元)9月2日没。53才。法名「国樹院殿楨郷枯淡大居士」。墓石は1780年(安永9)9月の建立による。
宍戸就附妻の墓碑
宍戸就附妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
宍戸就尚の娘。宍戸(熊谷)就附を婿養子として結婚。就附との間に、毛利定道妻、益田就高妻、毛利広矩妻、毛利就久妻の4女を儲ける。1665年(寛文5)8月14日没。法名「心鏡院殿妙照月清大姉」。
宍戸就附の墓碑
宍戸就附
生 寛永12年 (1635年)
没 延宝4年 (1676年)
1635年(寛永12)5月熊谷元実の長男として生まれる。伯父宍戸就尚が没したときその娘を娶り跡を継ぐ。毛利一門として家老職。毛利秀就、綱広に仕える。1676年(延宝4)12月14日没。42才。法名「立徳院殿外翁宗格居士」。
宍戸就延妻の墓碑
宍戸就延妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
毛利就嘉の娘。宍戸就延に嫁ぎ、弥三郎、福原広頼妻、宍戸広隆妻の1男2女を儲ける。1714年(正徳4)3月26日没。法名「廣徳院殿鏡月慈光大姉」。
宍戸就延の墓碑
宍戸就延
生 寛永20年 (1643年)
没 享保7年 (1722年)
1643年(寛永20)2月熊谷元実の3男として生まれる。宍戸家を継いだ実兄宍戸就附が嫡男なく没したため、その跡を継ぐ。1722年(享保7)7月16日没。80才。法名「徳光院殿空峯心等大居士」。
宍戸就年妻の墓碑
宍戸就年妻
生 不明
没 文化12年 (1815年)
星坂正為の娘で矢野紀以の養女として宍戸就年に嫁ぐ。就年との間に、親朝を儲ける。1815年(文化12)2月17日没。法名「桺線院殿天室淨錦大姉」。墓石に「防州三尾宍戸美濃就年室」とある。
宍戸就年の墓碑
宍戸就年
生 寛延2年 (1749年)
没 文政9年 (1826年)
1749年(寛延2)広周の次男として生まれる。父の藩内の失脚により1761年(宝暦11)跡を継ぐ。主君毛利重就より1字を賜い就年と名乗る。1826年(文政9)1月2日没。78才。法名「齢運院殿仁翁良壽大居士」。
宍戸八助の墓碑
宍戸八助
生 宝永5年 (1708年)
没 正徳5年 (1715年)
1708年(宝永5)1月広隆の次男として生まれる。1715年(正徳5)11月22日没。8才。法名「梅梢院殿雲庭自白禅童子」。
大岡忠愛の墓碑
大岡忠愛
生 文化4年 (1807年)
没 安政4年 (1857年)
 三河西大平藩6代藩主。1807年(文化4)忠移の長男として生まれる。1828年(文政11)父の隠居により跡を継ぐ。1857年(安政4)10月5日没。51才。法名「徳光院殿永譽忠愛巍山大居士」。墓石側面には1857年(安政4)8月28日とあるので没したのが8月28日、後継ぎ(弟が相続)の関係で幕府に届けた没日が10月5日と思われる。
内藤信良の墓碑
内藤信良
生 寛永2年 (1625年)
没 元禄8年 (1695年)
陸奥棚倉藩2代藩主。1625年(寛永2)信照の長男として生まれる。1633年(寛永10)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1665年(寛文5)跡を継ぐ。1674年(延宝2)11月隠居。1695年(元禄8)7月23日没。71才。法名「寶岸院殿静挙供安大禅定門」。
内藤信照の墓碑
内藤信照
生 文禄元年 (1592年)
没 寛文5年 (1665年)
陸奥棚倉藩初代藩主。1592年(文禄元)信正の長男として生まれる。多病ゆえ弟信武が嫡子となるも、1619年(元和5)信武が没したため嫡子となる。1626年(寛永3)跡を継ぐ。1627年(寛永4)陸奥棚倉藩に移封。1665年(寛文5)1月19日没。74才。法名「清淨院長岳良榮哲春大禅定門」。多病とあるも長生きをしている。
内藤信正妻の墓碑
内藤信正妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
石川康通の娘。内藤信正に嫁ぎ、信照を儲ける。1660年(万治3)3月24日没。法名「雲照院立譽宗建大信女」。墓石に「奥州高野郡棚倉城主内藤豊前守源朝臣信照 御袋方逆修建立之」とあり逆修塔である。没年月日も刻まれてるが、この部分のみ没後に刻まれたと思われる。
内藤信正の墓碑
内藤信正
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永3年 (1626年)
摂津高槻藩主。1568年(永禄11)信成の長男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、九戸一揆、関ヶ原の戦いに参戦。1615年(元和元)閏6月摂津高槻城主となり5万石を領す。1626年(寛永3)4月28日没。59才。法名「光徳院殿善壽宗覚大禅定門」。
内藤信成の墓碑
内藤信成
生 天文14年 (1545年)
没 慶長17年 (1612年)
1545年(天文14)嶋田景信の次男として生まれる。徳川家康の異母弟との説もある。内藤清長の養子となり、家康に仕える。丸根砦攻め、三河一向一揆、掛川城攻め、三方原の戦い、長篠の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)近江長浜城主となり4万石を領す。1612年(慶長17)7月24日没。68才。法名「法善寺殿陽竹宗賢大居士」。
伊奈忠順の墓碑
伊奈忠順
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
忠常の次男。はじめ稲葉正篤の養子となる。兄忠篤の子が早世したため養子となり跡を継ぐ。1698年(元禄11)江戸永代橋を創架。1707年(宝永4)富士山噴火のときは災害対策の最高責任者として活躍。1712年(正徳2)2月29日没。法名「嶺頂院殿松譽哲翁大居士」。
伊奈忠篤の墓碑
伊奈忠篤
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄10年 (1697年)
1669年(寛文9)忠常の長男として生まれる。1679年(延宝7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1680年(延宝8)9月関東代官を継ぐ。1697年(元禄10)10月19日没。29才。法名「法玄院殿本譽覺真大居士」。
伊奈忠常の墓碑
伊奈忠常
生 慶安元年 (1648年)
没 延宝8年 (1680年)
1648年(慶安元)忠克の長男として生まれる。父の死により1665年(寛文5)12月跡を継ぐ。翌年3月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)1月4日没。33才。法名「法性院殿空譽徹真大居士」。
久野輝純の墓碑
久野輝純
生 延享2年 (1745年)
没 文化8年 (1811年)
紀州藩家老久野家6代当主。1745年(延享2)俊純の子として生まれる。父の死により1773年(安永2)跡を継ぐ。1811年(文化8)1月20日没。67才。法名「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
久野昌純の墓碑
久野昌純
生 天明7年 (1787年)
没 文政6年 (1823年)
紀州藩家老久野家7代当主。1787年(天明7)輝純の子として生まれる。父の死により1811年(文化8)2月跡を継ぐ。1823年(文政6)7月24日没。37才。法名「光徳院殿仁誉本空禮純大居士」。
久野宗晴の墓碑
久野宗晴
生 慶長14年 (1609年)
没 慶安2年 (1649年)
紀州藩家老久野家2代当主。1609年(慶長14)宗成の子として生まれる。紀州藩主徳川頼宣に仕える。父の死により1626年(寛永3)跡を継ぎ田丸城代となる。1649年(慶安2)6月1日没。41才。法名「長照院殿月峯宗閑居士」。
久野宗俊の墓碑
久野宗俊
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永3年 (1706年)
紀州藩家老久野家3代当主。1643年(寛永20)宗晴の子として生まれる。父の死により1649年(慶安2)10月跡を継ぐ。1654年(承応3)田丸城代となる。1706年(宝永3)4月27日没。64才。法名「常立院殿信譽大圓大居士」。
丹羽長重の墓碑
丹羽長重
生 元亀2年 (1571年)
没 慶長5年 (1600年)
陸奥白河藩初代藩主。1571年(元亀2)長秀の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦。父の死後跡を継ぐが、相次ぐ不祥事により123万石から4万石まで大幅な減封となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍の前田利長と戦い、戦後領地没収となる。のち大名に復帰、晩年は陸奥白河藩10万700石を領す。1637年(寛永14)閏3月6日没。67才。法名「大隣寺殿桀俊浄英大居士」。
丹羽長次の墓碑
丹羽長次
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄11年 (1698年)
陸奥二本松藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1653年(承応2)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1679年(延宝7)4月跡を継ぐ。1698年(元禄11)6月26日没。56才。法名「興國院殿節山麟功大居士」。
丹羽光重の墓碑
丹羽光重
生 元和7年 (1621年)
没 元禄14年 (1701年)
陸奥二本松藩初代藩主。1621年(元和7)12月長重の3男として生まれる。母は織田信長の娘。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1637年(寛永14)4月跡を継ぐ。1643年(寛永20)7月陸奥二本松藩へ移封。1679年(延宝7)4月隠居。1701年(元禄14)4月11日没。81才。法名「慈明院殿補闕玉峰大居士」。
三浦高連の墓碑
三浦高連
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
初代五郎右衛門。今川氏真に仕え、のちに兄安久とともに井伊直政に仕える。長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従う。直政の娘が德川家康4男松平忠吉に嫁いだときに従い、忠吉の家臣となる。忠吉没後は井伊家に戻る。1611年(慶長16)7月29日没。法名「安祥院殿臺覚浄蓮居士」。墓石は2代目五郎右衛門高則の建立による。法名「清正院殿花覚妙蓮居士」もあるも高連の妻と思われる。墓石は為父母とあること、花や妙は女性の法名にあるのが一般的であることから妙蓮居士は妙蓮大姉の誤記と推察。