植村家道妻 生 不明没 宝暦5年 (1755年) 植村家道の妻。墓石側面に「家長実母」とあり、家道との間に、家長を儲けたことがわかる。寛政重修諸家譜には家長母は某氏とあり、詳細不明。1755年(宝暦5)6月26日没。法名「智郎院殿妙貞日受大姉」。
植村家長 生 宝暦4年 (1754年)没 文政11年 (1828年) 大和高取藩9代藩主。1754年(宝暦4)家道の次男として生まれる。1785年(天明5)9月自殺した弟家利の跡を継ぎ藩主となる。同年11月将軍徳川家治に拝謁。1825年(文政8)70過ぎの高齢で老中格となる。1828年(文政11)10月12日没。75才。法名「淨徳院殿顯誠有隣大居士」。
植村政春 生 元和7年 (1621年)没 寛文11年 (1671年) 1621年(元和7)家政の4男として生まれる。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。幕臣として、御小姓の番頭、御書院の番頭などを務む。1671年(寛文11)5月15日没。51才。法名「暁覚院殿正譽宗哲居士」。
五代五兵衛 生 嘉永元年 (1848年)没 大正2年 (1913年) 1848年(嘉永元)播磨屋五兵衛の長男として生まれる。1864年(文久4)失明。盲人実業家として活躍。兎の飼育、土地売買、湯屋などの事業を行う。1900年(明治33)私財で大阪盲唖院を開校。現在も聴覚支援学校や視覚支援学校として受け継がれている。1913年(大正2)9月12日没。66才。
内藤信光 生 慶長16年 (1611年)没 延宝3年 (1675年) 1611年(慶長16)信広の長男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川秀忠に拝謁。1650年(慶安3)8月父の遺領を継ぐ。1675年(延宝3)5月23日没。65才。法名「洞暁院殿覚誉善閑大信士」。「大信士」という法名はかなり珍しい。
内藤信広 生 文禄元年 (1592年)没 慶安2年 (1649年) 1592年(文禄元)信成の次男として生まれる。徳川秀忠に仕え、大坂の両陣に参戦。大坂夏の陣では首1つを取る。加増を重ね1万5千石を領す。しかし、配下にキリシタンがいたことで7千石を削られる。1649年(慶安2)3月15日没。58才。法名「浄閑大信士」。
内藤信清 生 寛文4年 (1664年)没 貞享5年 (1688年) 1664年(寛文4)信光の3男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1688年(貞享5)8月17日没。25才。法名「體量院殿性譽心含大居士」。
内藤信輝妻 生 延宝5年 (1677年)没 寛保2年 (1742年) 1677年(延宝5)蜂須賀隆重の3女として生まれる。名は菊。相良頼真に嫁ぐ予定だったが、頼真が没したため内藤信輝に嫁ぐ。信輝との間に、ヒサ、トミ、信積、モト、男子の2男3女を儲ける。1742年(寛保2)12月29日没。66才。法名「霊灮院殿正眼淨空大道人」。
堀田一継 生 天文19年 (1550年)没 寛永7年 (1630年) 1550年(天文19)一縄の子として生まれる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは妻子を西軍に人質として捕らえられるも家康に従い参戦。大坂の両陣にも従う。1630年(寛永7)6月25日没。81才。法名「一珊宗月大居士」。
堀田一輝 生 寛永6年 (1629年)没 宝永2年 (1705年) 1629年(寛永6)一通の4男として生まれる。1635年(寛永12)4月将軍徳川家光に拝謁。兄3人が早世のため1640年(寛永17)跡を継ぐ。下館城や甲府城の守衛を務め、1662年(寛文2)定消火(火消役)となる。1699年(元禄12)2月隠居。1705年(宝永2)4月8日没。77才。法名「雲窓院殿知見頓消大居士」。
堀田一通 生 天正14年 (1586年)没 寛永16年 (1639年) 1586年(天正14)一継の子として生まれる。徳川秀忠に仕える。父の隠居により1625年(寛永2)跡を継ぐ。1639年(寛永16)11月15日没。54才。法名「超億了然大居士」。
堀田一通妻 生 不明没 寛永13年 (1636年) 寛政重修諸家譜によると某氏とあり詳細不明。堀田一通に嫁ぎ、一輝を儲ける。1636年(寛永13)6月15日没。法名「聯芳院殿円心妙荷大姉」。墓石は「堀田河内守為実母建立」とあり息子河内守一輝のが母のために建立。
堀親智 生 寛永5年 (1628年)没 寛文6年 (1666年) 1628年(寛永5)親良の3男として生まれる。父親良の遺領のうち下野那須郡にて3千石を分知される。1666年(寛文6)8月24日没。39才。法名「天桂院殿瑞溪宗雲居士」。
小笠原政信 生 慶長12年 (1607年)没 寛永17年 (1640年) 下総古河藩2代藩主。1607年(慶長12)信之の長男として生まれる。父の死により1614年(慶長19)跡を継ぐ。同年7月徳川家康に拝謁。大坂夏の陣のときは近江佐和山城を守り、冬の陣のときは伏見城を守る。1640年(寛永17)7月2日没。34才。法名「圭山瑞雲居士」。
小笠原貞信 生 寛永8年 (1631年)没 正徳4年 (1714年) 1631年(寛永8)高木貞勝の長男として生まれる。小笠原政信の養子となりその娘を妻とする。1640年(寛永17)2月将軍徳川家光に拝謁。政信の死により、同年9月跡を継ぐ。2度の移封があり、下総関宿藩から美濃高須藩、さらに幕末まで続く越前勝山藩初代藩主となる。1714年(正徳4)6月17日没。84才。法名「眞光院殿鐡梁一玄大居士」。
小笠原貞信娘 生 寛文2年 (1662年)没 宝永4年 (1707年) 1662年(寛文2)11月25日小笠原貞信の娘として高須に生まれる。秋山吉兵衛に嫁ぐも、離別。離別後は父の領地越前勝山に居住。1707年(宝永4)12月12日没。46才。法名「貞壽院殿専譽心郭順称大姉」。
曽我助元 生 貞享3年 (1686年)没 享保19年 (1734年) 1686年(貞享3)助興の次男として生まれる。1692年(元禄5)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1709年(宝永6)10月跡を継ぐ。1734年(享保19)12月7日没。49才。法名「了悟院殿白峯鰲雪大居士」。
曽我助興 生 寛永15年 (1638年)没 享保12年 (1727年) 1638年(寛永15)包助の3男として生まれる。1654年(承応3)6月将軍徳川家綱に拝謁。1688年(元禄元)12月親戚の遠山安速の不祥事に連座するも、同月中に許される。1709年(宝永6)10月隠居。1727年(享保12)8月14日没。90才。法名「瑞雲玉庭大居士」。
本多利長 生 寛永12年 (1635年)没 元禄5年 (1692年) 1635年(寛永12)忠利の6男として生まれる。1641年(寛永18)12月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1645年(正保2)閏5月遠江横須賀藩主を継ぐ。1682年(天和2)2月領内の政治が良くないとのことで領地没収となる。のち出羽村山にて1万石を与えられる。1692年(元禄5)12月16日没。58才。法名「廣徳院殿仁譽嶺山道勇大居士」。
本多忠利 生 慶長5年 (1600年)没 正保2年 (1645年) 1600年(慶長5)康紀の長男として生まれる。徳川秀忠より、1字を賜り忠利と名乗る。1615年(元和元)大坂夏の陣では、16才にして首を討取る。1623年(元和9)父の死後、跡を継ぐ。1645年(正保2)2月10日没。46才。法名「仁廣院殿勇宣道智居士」。
松平伊耀妻 生 不明没 貞享3年 (1686年) 柴田康長の娘。松平伊耀に嫁ぎ、女子、忠利、忠益の2男1女を儲ける。1686年(貞享3)3月3日没。法名「永松院殿梅室壽香大姉」。墓石は息子忠益の建立による。
松平信吉 生 寛永13年 (1636年)没 明暦元年 (1655年) 1636年(寛永13)重信の子として生まれる。1636年(寛永13)3月将軍徳川家光に拝謁。小姓組。1655年(明暦元)5月29日父に先立ちて没。20才。法名「枩樹院殿光廓天心大禅定門」。定信とも名乗り、墓石には「松平半丞殿定信御追善」とある。墓石施主は父丹後守重信による。
松平忠利 生 寛永6年 (1629年)没 寛文5年 (1665年) 1629年(寛永6)伊燿の長男として生まれる。五井松平。1639年(寛永16)9月11才のときに将軍徳川家光に拝謁。1665年(寛文5)2月14日没。37才。法名「霊山源空大居士」。
松平忠利娘 生 寛文元年 (1661年)没 延宝3年 (1675年) 1661年(寛文元)松平忠利の嫡女として生まれる。1675年(延宝3)11月17日没。15才。法名「寒光院殿弧月宗雲大姉」。墓石は祖母永松院(柴田康長娘)の建立による。寛政重修諸家譜には忠利娘の記載は無いが、墓石に「松平氏主水正忠利 嫡女十有五而葬」とある。
松平忠実 生 天正13年 (1585年)没 慶安5年 (1652年) 1585年(天正13)伊昌の長男として生まれる。1598年(慶長3)徳川秀忠より1字を賜い忠実と名乗る。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。1616年(元和2)2月徳川家康より密命を受け伏見城に3年間滞在。1652年(慶安5)8月23日没。68才。法名「松〇院殿一宗源無大居士」。
毛利高丘 生 享保13年 (1728年)没 宝暦10年 (1760年) 豊後佐伯藩7代藩主。1728年(享保13)高通の長男として生まれる。祖父高慶の隠居により1742年(寛保2)8月跡を継ぐ。1744年(延享元)2月将軍徳川吉宗に拝謁。1760年(宝暦10)6月16日没。33才。法名「蘭陵院殿香山全性大居士」。
毛利高久 生 寛文7年 (1667年)没 享保元年 (1716年) 豊後佐伯藩5代藩主。1667年(寛文7)久留島通清の4男として生まれる。毛利高重の死去の際養子となり、1682年(天和2)6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川綱吉に拝謁。1716年(享保元)4月16日没。50才。法名「南昌院殿泰雲紹慶大居士」。
毛利高慶 生 延宝3年 (1675年)没 寛保3年 (1743年) 豊後佐伯藩6代藩主。1675年(延宝3)久留島通清の6男として生まれる。1688年(元禄元)7月毛利高久(実は実兄)の養子となる。同年9月将軍徳川綱吉に拝謁。1699年(元禄12)5月高久の隠居により跡を継ぐ。1743年(寛保3)9月13日没。69才。法名「源林院殿了山恵覺大居士」。
毛利高慶妻 生 延宝7年 (1679年)没 正徳4年 (1714年) 1679年(延宝7)宗義真の6女として生まれる。松平忠敏の妻となるも1695年(元禄8)忠敏が没したため死別。その後毛利高慶の妻となり、高通の1男を儲ける。1714年(正徳4)10月1日没。36才。法名「源智院殿淨修了因大姉」。墓石に「毛利周防守藤原高定妻」とあるが、高定は高慶の前名。
毛利高標 生 宝暦5年 (1755年)没 享和元年 (1801年) 豊後佐伯藩8代藩主。1755年(宝暦5)高丘の次男として生まれる。父の死により1760年(宝暦10)8月跡を継ぐ。徹底した倹約令や200石以上の家臣の半減を行い藩政改革に努める。藩校四教堂や佐伯文庫なども開設して、佐伯藩の中興の祖となる。1801年(享和元)8月6日没。47才。法名「寛龍院殿仁嶽玄機大居士」。
毛利高泰 生 文化12年 (1815年)没 明治2年 (1869年) 豊後佐伯藩11代藩主。1815年(文化12)高翰の長男として生まれる。父の隠居により1832年(天保3)5月跡を継ぐ。1862年(文久2)隠居。1869年(明治2)9月1日没。55才。法名「泰雲院殿義山紹興大居士」。
毛利高直 生 寛永8年 (1631年)没 寛文4年 (1664年) 豊後佐伯藩3代藩主。1631年(寛永8)高成の長男として生まれる。父の死により1633年(寛永10)2月跡を継ぐ。相続時、一族の森吉安が毛利高明(父の弟)を推すお家騒動が起きるも、家督は高直が継ぐことになる。1664年(寛文4)8月3日没。34才。法名「長川院殿法雲宗海大居士」。
毛利高直妻 生 不明没 元禄3年 (1690年) 牧野信成の娘。毛利高直に嫁ぐ。高直との間に子は生まれず。のち離縁して、大久保忠兼の妻となる。1690年(元禄3)4月16日没。法名「自照院殿霊應宗鑒大姉」。墓石は孫(血の繋がらない)高久が祖母のために建立。
毛利高翰 生 寛政7年 (1795年)没 嘉永5年 (1852年) 豊後佐伯藩10代藩主。1795年(寛政7)5月高誠の長男として生まれる。1812年(文久2)5月父の隠居により跡を継ぐ。藩内において学問を奨励。また本2万冊を江戸幕府に寄贈している。1852年(嘉永5)4月26日没。58才。法名「成徳院殿仁濟義弘大居士」。
毛利高誠 生 安永4年 (1775年)没 文政12年 (1829年) 豊後佐伯藩9代藩主。1775年(安永4)高標の長男として生まれる。1792年(寛政4)7月将軍徳川家斉に拝謁。父の死により1801年(享和元)9月跡を継ぐ。藩内では改革するも大規模な百姓一揆が起きている。1829年(文政12)7月26日没。55才。法名「寛洪院殿祇山紹敬大居士」。
毛利高重 生 寛文2年 (1662年)没 天和2年 (1682年) 豊後佐伯藩4代藩主。1662年(寛文2)高直の長男として生まれる。父の死により1664年(寛文4)11月3才で跡を継ぐ。1669年(寛文9)4月将軍徳川家綱に拝謁。1682年(天和2)4月7日没。21才。法名「竹林院殿高重雲嶽大居士」。
都筑云成 生 天正10年 (1582年)没 慶安2年 (1649年) 1582年(天正10)為政の子として生まれる。本多家の家臣だったが、命により1603年(慶長8)松平忠直の家臣となる。大坂の両陣に従う。1617年(元和3)再び本多忠政の家臣となり、6千石。1649年(慶安2)6月13日没。68才。法名「石翁英金居士」。
酒井忠助 生 寛文元年 (1661年)没 享保8年 (1723年) 1661年(寛文元)忠経の3男として生まれる。1698年(元禄11)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により同年12月跡を継ぐ。1715年(正徳5)7月隠居。1723年(享保8)7月26日没。63才。法名「安楽院殿乾〇有山大居士」。
酒井忠吉 生 天正17年 (1589年)没 寛文3年 (1663年) 1589年(天正17)忠利の次男として生まれる。1601年(慶長6)より徳川秀忠に仕える。1615年(元和元)大坂夏の陣に参戦。1627年(寛永4)11月父の遺領のうち3千石を賜い合わせて4千石となる。さらに1633年(寛永10)4月加恩により計7千石となる。1662年(寛文2)11月隠居。1663年(寛文3)5月6日没。75才。法名「法林院殿宗山高心大居士」。
阿部重次妻 生 慶長8年 (1603年)没 元和7年 (1621年) 1603年(慶長8)三浦重成の娘として生まれる。名は於セン。阿部重次に嫁ぐも子は出来ず。1621年(元和7)4月8日没。19才。法名「清台院殿淨譽妙薫大禅定尼」。
高木貞勝妻 生 文禄4年 (1595年)没 延宝元年 (1673年) 1595年(文禄4)小笠原貞信之の次女として生まれる。高木貞勝に嫁ぎ、小笠原貞信を儲ける。1673年(延宝元)2月21日没。79才。法名「定照院殿春岳桂林大姉」。系図では貞照院殿とある。墓石には延宝二とあることから1周忌に建立された墓である。
鳥居忠則 生 正保3年 (1646年)没 元禄2年 (1689年) 信濃高遠藩2代藩主。1646年(正保3)忠春の長男として生まれる。1659年(万治2)12月将軍徳川家綱に拝謁。1689年(元禄2)6月家臣高坂権兵衛の不祥事により閉門。同年7月23日没。44才。法名「諦了院殿天高幽淵大居士」。
松平輝徳 生 文政3年 (1820年)没 天保11年 (1840年) 上野高崎藩7代藩主。1820年(文政3)11月信弥の次男として生まれる。高崎藩6代藩主松平輝承の死により、1839年(天保10)9月養子なり跡を継ぐ。1840年(天保11)8月14日没。21才。法名「文孝院殿義山道勇大居士」。
松平輝規 生 天和2年 (1682年)没 宝暦6年 (1756年) 上野高崎藩2代藩主。1682年(天和2)信定の10男として生まれる。1715年(正徳5)2月松平輝貞の養子となる。同年3月将軍徳川家継に拝謁。輝貞の隠居により1745年(延享2)12月跡を継ぐ。1749年(寛延2)2月隠居。1756年(宝暦6)2月29日没。75才。法名「成善院殿真獨玅観大居士」。
松平輝貞 生 寛文5年 (1665年)没 延享4年 (1747年) 上野高崎藩初代藩主。1665年(寛文5)輝綱の6男として生まれる。1672年(寛文12)2月父の遺領のうち5千石を賜る。1675年(延宝3)10月将軍徳川家綱に拝謁。1691年(元禄4)松平信興の養子となり跡を継ぐ。1730年(享保15)老中格。1745年(延享2)12月隠居。4代将軍家綱から10代将軍家治まで仕える。1747年(延享4)9月14日没。83才。法名「天休院殿節翁道義大居士」。
中山信正 生 文禄3年 (1594年)没 延宝5年 (1677年) 常陸松岡藩2代藩主。1594年(文禄3)1月信吉の長男として生まれる。信政とも。徳川秀忠に仕え、大坂の両陣に従う。1628年(寛永5)より水戸藩主徳川頼房に仕える。父の死により1642年(寛永19)跡を継ぐ。1651年(慶安4)隠居。(墓石には慶安五請以致仕とある)1677年(延宝5)10月28日没。84才。法名「風軒」。
佛海上人 生 文政11年 (1828年)没 明治36年 (1903年) 1828年(文政11)5月生まれる。俗姓は近藤庄次郎。1845年(弘化2)出家。厳しい修行を行い、布教のほか貧民救済を行う。1903年(明治36)3月20日没。76才。没したあと観音寺(新潟県村上市)にて即身仏となるため入定。日本最後の即身仏(ミイラ)で、観音寺でお参りができる。
加藤貞泰 生 天正8年 (1580年)没 元和9年 (1623年) 伊予大洲藩初代藩主。1580年(天正8)光泰の長男として生まれる。父と同じく豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは始め石田三成に加担するも、途中から徳川家康に従う。大坂の両陣にも参戦。1617年(元和3)伊予大洲藩にて6万石。1623年(元和9)5月22日没。44才。法名「大峯院殿英叟雄公大居士」。
土井利重 生 正保4年 (1647年)没 延宝元年 (1673年) 下総古河藩3代藩主。1647年(正保4)利隆の長男として生まれる。父の隠居により1658年(万治元)9月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家綱に拝謁。1673年(延宝元)10月17日没。27才。法名「浄運院殿願誉清岸汲心大居士」。
土岐頼相 生 寛延3年 (1750年)没 明和元年 (1764年) 1750年(寛延3)1月定経の長男として生まれる。藤次郎。跡を継ぐことなく1764年(明和元)8月31日没。15才。法名「韜光院殿實相紹幽大居士」。土岐家の家系図では定経の兄頼煕の子で、定経の養子となったとされている。
土岐頼稔 生 元禄8年 (1695年)没 延享元年 (1744年) 上野沼田藩初代藩主。1695年(元禄8)2月頼殷の長男として生まれる。1708年(宝永5)4月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1713年(正徳3)7月跡を継ぐ。1734年(享保19)6月京都所司代、1742年(寛保2)6月老中を務める。1744年(延享元)9月12日没。50才。法名「乾光院殿真岩道如大居士」。
塚田正家 生 不明没 寛永12年 (1635年) 木工助。稲葉正勝の家臣。主君正勝が没すると一周忌の1635年(寛永12)1月25日に殉死。法名「高節宗勇居士」。墓石には主君の命日「寛永十一年正月廿五日」が刻まれている。
大久保教勝 生 慶長18年 (1613年)没 天和2年 (1682年) 1613年(慶長18)教隆の長男として生まれる。1631年(寛永8)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1643年(寛永20)12月跡を継ぐ。1681年(天和元)8月隠居。1682年(天和2)7月12日没。70才。法名「高涼院殿法山廓道大居士」。
大久保教隆 生 天正14年 (1586年)没 寛永20年 (1643年) 1586年(天正14)忠隣の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え1600年(慶長5)上杉景勝征伐に従う。このとき15才。弱年ゆえ、関ヶ原に向かう途中で江戸に引き返した。父忠隣の罪に連座して、川越の天海のもとに蟄居。1628年(寛永5)許される。1643年(寛永20)10月15日没。58才。法名「霊光院殿明室紹哲居士」。
大草公利 生 慶長15年 (1610年)没 延宝7年 (1679年) 1610年(慶長15)公信の子として生まれる。1617年(元和3)徳川家光に仕え、1620年(元和6)からは将軍徳川秀忠に仕え、1632年(寛永9)からは再び家光に仕える。1679年(延宝7)6月12日没。70才。法名「寶性院〇誉稱宅大禅定門」。墓石は孫の長四郎公英の建立による。
大草利忠 生 慶安2年 (1649年)没 延宝6年 (1678年) 1649年(慶安2)公利の次男として生まれる。1670年(寛文10)11月将軍徳川家綱に拝謁。御小姓の番士を務める。父に先立ちて1678年(延宝6)5月1日没。30才。法名「空嚴院殿寶譽玄樹大禅定門」。墓石は子の長四郎公英の建立による。
日根野吉明 生 天正15年 (1587年)没 明暦2年 (1656年) 1587年(天正15)高吉の長男として生まれる。父の死により1600年(慶長5)跡を継ぐ。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に加担。しかし祖父が中立だったことなどで1602年(慶長7)所領を減らされ下野壬生藩1万900石に移封。のち、豊後府内藩主となり2万石。1656年(明暦2)3月26日没。70才。法名「溪松院殿月峰淨覺大居士」。
日根野弘就 生 不明没 慶長7年 (1602年) 美濃の斉藤道三、義龍、龍興に仕える。1555年(弘治元)義龍の弟孫四郎と喜平次兄弟を義龍の命で殺害。斉藤家滅亡後は今川氏真に仕え、今川家滅亡後は浅井家に仕え、さらに長島一向一揆に参加。長島一向一揆が鎮圧されると、織田信長に仕える。信長没後は、秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、朝鮮出兵に参戦。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、中立または西軍に付いたとされる。晩年は出家。1602年(慶長7)5月28日没。法名「空見法印」。
日根野高吉 生 不明没 慶長5年 (1600年) 弘就の子。美濃斉藤氏に仕える。その後、織田信長、豊臣秀吉に仕える。1590年(天正18)小田原合戦のときは山中城攻めで功があり、戦後信濃諏訪郡で3万7千石を賜い高島城主となる。1600年(慶長5)徳川家康の上杉景勝征伐に従い先手を命じられるも、6月26日高島城において没す。法名「鑑照院殿鐡叟玄心大居士」。
松下幸之助 生 明治27年 (1894年)没 平成元年 (1989年) 1894年(明治27)11月生まれ。電球用のソケットの製造と販売を妻と弟の3人で始める。1918年(大正7)松下電気器具製作所(現在のパナソニックホールディングス)を大阪市で創立。事業の拡大により大阪府門真市に移転。1961年(昭和36)会長職。1989年(平成元)4月27日没。96才。法名「光雲院釋眞幸」。浅草の雷門を私財で再建するなど社会貢献も行っている。
松平定直妻 生 寛文7年 (1667年)没 元禄2年 (1689年) 1667年(寛文7)9月稲葉正往の娘として生まれる。松平定直(伊予松山藩4代藩主)に嫁ぎ、定仲を儲ける。1689年(元禄2)2月3日没。23才。法名「正心院殿節巖松貞大姉」。墓石正面に生年月日、法名、没年月日がある。
松平重則 生 天正3年 (1575年)没 寛永18年 (1641年) 1575年(天正3)重勝の3男として生まれる。1598年(慶長3)召されて徳川秀忠に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは秀忠に従い信州上田城攻めに参加。1641年(寛永18)12月27日没。62才。法名「松巖院殿憲譽珠宝大居士」。
松平重則妻 生 不明没 寛永17年 (1640年) 墓石に「松平出雲守立 姉菩提」とある。出雲守は勝隆であり、勝隆が姉の菩提のために建立したことがわかる。姉とは下野皆川藩初代藩主松平重則の妻に該当する。1640年(寛永17)9日22日没。法名「勢光院殿念誉壽正大姉」。
松平重勝妻 生 不明没 寛永5年 (1628年) 鳥居忠吉の娘。松平重勝に嫁ぎ、重忠、重長、重則、重信、勝隆、岩瀬氏興妻の5男1女を儲ける。1628年(寛永5)11月3日没。法名「稱光院殿〇〇壽球大姉」。稱光院殿は松平重則の正室との記載があるが、墓石に「松平大隅守殿 同出雲守御母儀為菩提」とあり大隅守重則と出雲守勝隆の母の菩提のためで、重勝の妻であることがわかる。
柴田康長 生 天正15年 (1587年)没 寛永13年 (1636年) 1587年(天正15)康忠の子として生まれる。1593年(文禄2)徳川家康に拝謁。このとき家康の仰せにより徳川秀忠に仕える。1600年(慶長5)上田城攻めでは本多正信に属す。1613年(慶長18)家臣との確執により改易。大坂の陣の際、伊達政宗に属して忍んで参陣。1623年(元和9)赦される。1636年(寛永13)6月22日没。50才。法名「蓮光院殿琳誉月船大居士」。
稲葉正勝 生 慶長2年 (1597年)没 寛永11年 (1634年) 相模小田原藩初代藩主。1597年(慶長2)正成の3男として生まれる。母は春日局。徳川家光に小姓として仕える。順調に出世を重ね1632年(寛永9)11月相模小田原にて8万5千石を賜う。1634年(寛永11)1月25日没。38才。法名「養源寺殿古隠紹太大居士」。
稲葉正往妻 生 慶安元年 (1648年)没 寛文7年 (1667年) 1648年(慶安元)5月3日保科正之の5女として生まれる。名は石。1661年(寛文元)11月稲葉正往に嫁ぐ。正往との間に、松平定直妻の1女を儲ける。1667年(寛文7)9月22日没。20才。法名「本性院殿了岳真空大姉」。
稲葉正成 生 元亀2年 (1571年)没 寛永5年 (1628年) 1571年(元亀2)林政秀の子として生まれる。稲葉重通の婿養子となる。重通の娘が死去すると、重通の姪である春日局を娶る。小早川秀秋の家臣となり、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、秀秋を東軍に寝返らせる事に尽力。後、松平忠昌の家老となる。故ありて松平家を去り浪人となるも、1627年(寛永4)下野真岡藩にて2万石を与えられる。1628年(寛永5)9月17日没。58才。法名「現龍院殿輝宗道範大居士」。
織田長好 生 元和3年 (1617年)没 慶安4年 (1651年) 1617年(元和3)頼長の長男として生まれる。祖父有楽と同じく茶人で有楽流を継ぐ。1620年(元和6)父頼長、1621年(元和7)祖父有楽が没すると、跡を継ぐことなく茶人として過ごす。1651年(慶安4)5月20日没。35才。法名「長好寺殿極厳空八」。墓石は逆修塔。
里見景佐 生 不明没 元和6年 (1620年) 東根氏で東根景佐とも。最上義光に仕える。武将でもあり、連歌も嗜む。連歌は里村玄仍、昌琢に習う。最上家の一族でもあり重臣で、息子親宜は義光の娘を娶る。1620年(元和6)12月24日没。法名「劫外院殿雪山寒公大居士」。
高井直重 生 不明没 元和9年 (1623年) 貞重の次男。伊織。父と同じく徳川頼宣に仕える。頼宣が間宮久弥を手討にした際、これを諫める。1623年(元和9)2月25日、日光参拝のさい旅籠にて松平康信と喧嘩となり果てる。法名「〇公居士」。墓石には「高井伊折(織)」とある。
高力忠房 生 天正12年 (1584年)没 明暦元年 (1655年) 肥前島原藩初代藩主。1584年(天正12)正長の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川秀忠の御前で元服。1600年(慶長5)信州上田城攻めに従う。大坂の両陣に参戦、戦後遠江浜松3万石へ加増移封。島原の乱でも活躍し、1639年(寛永16)4月肥前島原へ移封。1655年(明暦元)12月11日没。72才。法名「禅林院殿傑山道榮大居士」。
高力忠房妻 生 天正19年 (1591年)没 正保4年 (1647年) 1591年(天正19)真田信之の長女として生まれる。母は小松姫。高力忠房に嫁ぎ、高長、長房、政房、小川正久妻の3男1女を儲ける。1647年(正保4)7月27日没。57才。法名「光岳院殿知庵榮照大姉」。
高力民部 生 不明没 明暦2年 (1656年) 寛政重修諸家譜に該当する人物の記載はないが、真田家親族法名の中に「陽光院殿梅岩道野居士 明暦2年9月17日 高力民部」とある。(没月が墓石と7ヶ月違う)真田家親族ゆえ、高力忠房(妻が真田信之娘)の子供または孫と思われる。1656年(明暦2)2月17日没。法名「陽光院殿梅巌道野大居士」。没年月日は墓石に従った。
鳥居元忠 生 天文8年 (1539年)没 慶長5年 (1600年) 1539年(天文8)忠吉の3男として生まれる。幼少より徳川家康に仕える。家康初陣の寺部城攻めから、大高城兵糧入れ、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどに従軍。関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで城を守るも、西軍の宇喜多、小早川、島津、大谷等に攻められ1600年(慶長5)8月1日討死。62才。法名「龍見院賀岳宗慶大禅定門」。
鳥居忠恒 生 慶長9年 (1604年)没 寛永13年 (1636年) 出羽山形藩2代藩主。1604年(慶長9)忠政の長男として生まれる。1628年(寛永5)父の死により跡を継ぐ。1636年(寛永13)7月7日没。33才。法名「孝徳寺殿鐵山玄心大居士」。
鳥居忠政 生 永禄9年 (1566年)没 寛永5年 (1628年) 出羽山形藩初代藩主。1566年(永禄9)元忠の次男として生まれる。徳川家康に仕え、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いでは首を取る手柄をたてる。1600年(慶長5)父元忠が討死すると跡を継ぐ。1602年(慶長7)陸奥磐城で10万石を領す。大坂の陣の時は江戸城の留守居役。1622年(元和8)出羽山形22万石に移封。1628年(寛永5)9月5日没。63才。法名「俊岳院殿峯山玉雄大居士」。
鳥居忠春 生 寛永元年 (1624年)没 寛文3年 (1663年) 信濃高遠藩初代藩主。1624年(寛永元)忠政の3男として生まれる。兄忠恒が没すると鳥居家は改易となるも、過去の功績により忠春に信濃高遠藩3万200石を与える。1636年(寛永13)9月将軍徳川家光に拝謁。暴君だったため、侍医の松谷寿覚に斬られその傷がもとで1663年(寛文3)8月1日没。40才。法名「本光院殿覚林宗知大居士」。
中川久忠 生 元禄10年 (1697年)没 寛保2年 (1742年) 豊後岡藩6代藩主。1697年(元禄10)2月久通の3男として生まれる。1709年(宝永6)7月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1710年(宝永7)4月跡を継ぐ。1742年(寛保2)10月13日没。46才。法名「通玄院殿雲外了山大居士」。
中川久恒 生 寛永18年 (1641年)没 元禄8年 (1695年) 豊後岡藩4代藩主。1641年(寛永18)7月久清の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1666年(寛文6)4月跡を継ぐ。1695年(元禄8)6月15日没。55才。法名「寶淨院殿榮松久山大居士」。
中川久慶 生 宝永5年 (1708年)没 寛保3年 (1743年) 豊後岡藩7代藩主。1708年(宝永5)3月浅野綱長の4男として生まれる。1737年(元文2)閏11月中川久忠の養子となり、その娘を妻とする。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。久忠の死により1742年(寛保2)12月跡を継ぐ。1743年(寛保3)10月30日没。36才。法名「巍然院殿鐵心如山大居士」。
中川久持 生 明和8年 (1771年)没 寛政10年 (1798年) 豊後岡藩9代藩主。1771年(明和8)久徳の次男として生まれる。1789年(寛政元)1月将軍徳川家斉に拝謁。祖父久貞の死により1790年(寛政2)7月跡を継ぐ。1798年(寛政10)9月18日没。28才。法名「巖祇院殿日新敬山大居士」。
中川久盛 生 文禄3年 (1594年)没 承応2年 (1653年) 豊後岡藩2代藩主。1594年(文禄3)7月秀成の長男として生まれる。1607年(慶長12)父とともに将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1612年(慶長17)跡を継ぐ。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参戦。1653年(承応2)3月8日没。60才。法名「法臺院殿心鐵宗安大居士」。
中川久盛室 生 慶長7年 (1602年)没 元禄2年 (1689年) 1602年(慶長7)徳川家康の異父弟松平定勝の娘として生まれる。母は奥平貞友の娘。1608年(慶長13)家康の命により中川久盛に嫁ぐ。久盛の間に、水野忠職室の1女を儲ける。寛政重修諸家譜では久清を生んだことになっているが、実は別の室が母。1689年(元禄2)2月25日没。88才。法名「光顕院殿心連社専譽」。
中川久通 生 寛文3年 (1663年)没 宝永7年 (1710年) 豊後岡藩5代藩主。1663年(寛文3)5月久恒の長男として生まれる。1672年(寛文12)4月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1695年(元禄8)8月跡を継ぐ。1710年(宝永7)2月28日没。48才。法名「天眞院殿元良貞山大居士」。
中川秀成 生 元亀元年 (1570年)没 慶長17年 (1612年) 豊後岡藩初代藩主。1570年(元亀元)清秀の次男として生まれる。1592年(文禄元)兄秀政が朝鮮で鷹狩り中に敵に殺されると、所領を半分にされたが跡を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは家臣が東軍の丹後田辺城攻めに参戦。しかし西軍の臼杵城主太田一吉を攻撃するなどしたため、戦後所領安堵。1612年(慶長17)8月14日没。43才。法名「碧雲寺殿圓翁宗鑑大禅定門」。
中川資重 生 不明没 寛永8年 (1631年) 資政の子。父と同じく豊後岡藩中川家の老職。1613年(慶長18)父の隠居により跡を継ぐ。1631年(寛永8)9月1日没。法名「恵〇院真月〇〇居士」。墓石は嫡子清六の建立による。