荒尾隆重の墓碑
荒尾隆重
生 不明
没 元和3年 (1617年)
善次の3男。池田輝政の家臣。輝政没後は兄の成房とともに忠継の家老職となる。兄の成房は但馬守、隆重は志摩守を代々称した。1614年(慶長19)大坂の陣に出陣。1617年(元和3)7月11日没。法名「桂林院殿月峯浄心大居士」。
秋月種政妻の墓碑
秋月種政妻
生 不明
没 享保19年 (1734年)
松浦棟の娘。秋月種政に嫁ぎ、種弘、脇坂安清妻、女子、女子の1男3女を儲ける。1734年(享保19)4月14日没。法名「正眼院殿心體了悟尼大姉」。墓石は息子長門守種弘の建立による。
秋月種政の墓碑
秋月種政
生 万治元年 (1658年)
没 正徳6年 (1716年)
日向高鍋藩4代藩主。1658年(万治元)5月種信の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1689年(元禄2)2月跡を継ぐ。1710年(宝永7)閏8月隠居。1716年(正徳6)閏2月26日没。59才。法名「天祐院殿慶嶽宗善公大居士」。
秋月種恒の墓碑
秋月種恒
生 承応3年 (1654年)
没 寛文11年 (1671年)
1654年(承応3)種信の長男として生まれる。1669年(寛文9)6月将軍徳川家綱に拝謁。父に先立ちて1671年(寛文11)10月10日没。18才。法名「松嶽院殿温室宗良居士」。
秋月種弘妻の墓碑
秋月種弘妻
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
柴垣氏の出にて、秋月種弘の妻となる。種弘との間に種美を儲ける。1756年(宝暦6)8月26日没。法名「凉照院殿桂輪貞香大姉」。墓石は息子佐渡守種美の建立による。
秋月種弘の墓碑
秋月種弘
生 貞享4年 (1687年)
没 宝暦3年 (1753年)
日向高鍋藩5代藩主。1687年(貞享4)11月種政の長男として生まれる。1700年(元禄13)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。1753年(宝暦3)7月21日没。67才。法名「瑞應院殿恵山宗定大居士」。
石田三成の墓碑
石田三成
生 永禄3年 (1560年)
没 慶長5年 (1600年)
1560年(永禄3)正継の3男として生まれる。近江長浜城主時代の豊臣秀吉に見出され仕える。文官奉行として頭角を現し豊臣政権下で五奉行となる。1600年(慶長5)9月関ヶ原の戦いのときは、徳川家康と戦うも敗れる。戦後、捕縛され同年10月1日六条河原で斬首となる。41才。法名「江東院正軸因公大禅定門」。墓石は1590年(天正18)3月18日逆修として建てられ法名「宗應」とある。
溝口重雄の墓碑
溝口重雄
生 寛永10年 (1633年)
没 宝永5年 (1708年)
越後新発田藩4代藩主。1633年(寛永10)宣直の長男として生まれる。1640年(寛永17)10月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1672年(寛文12)9月跡を継ぐ。1706年(宝永3)7月隠居。1708年(宝永5)9月4日没。76才。法名「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
溝口政勝の墓碑
溝口政勝
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文10年 (1670年)
越後沢海藩2代藩主。1608年(慶長13)善勝の長男として生まれる。1622年(元和8)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)跡を継ぐ。その際、弟2人に4千石を分知したため沢海藩は1万石となる。1670年(寛文10)1月28日没。63才。法名「清香院殿恵観浄智大居士」。
溝口宣直の墓碑
溝口宣直
生 慶長10年 (1605年)
没 延宝4年 (1676年)
越後新発田藩3代藩主。1605年(慶長10)宣勝の長男として生まれる。1611年(慶長16)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1672年(寛文12)9月隠居。1676年(延宝4)11月22日没。72才。法名「寒光院殿禅林味歇大居士」。
溝口宣勝妻の墓碑
溝口宣勝妻
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
 堀秀政の娘。溝口宣勝に嫁ぎ、宣直、宣秋、宣俊、宣知、溝口政勝妻、長谷川正尚妻、徳永昌勝妻の3男3女を儲ける。1641年(寛永18)10月29日没。法名「長壽院殿寶屋慶延大姉」。墓石は1628年(寛永5)11月21日建立の逆修塔。
溝口宣勝の墓碑
溝口宣勝
生 天正10年 (1582年)
没 寛永5年 (1628年)
越後新発田藩2代藩主。1582年(天正10)秀勝の長男として生まれる。父の死により跡を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは松平忠輝に属して戦う。1628年(寛永5)10月29日没。47才。法名「松嶽寺殿傑岑善英大居士」。
溝口善勝妻の墓碑
溝口善勝妻
生 不明
没 不明
前田長種の娘。溝口善勝に嫁ぎ、政勝、助勝、安勝、信勝の4男を儲ける。法名「慶春院殿〇岳妙〇大姉」。墓石は逆修塔。
溝口善勝の墓碑
溝口善勝
生 天正12年 (1584年)
没 寛永11年 (1634年)
越後沢海藩初代藩主。1584年(天正12)秀勝の次男として生まれる。1601年(慶長6)徳川家康に拝謁。のちに徳川秀忠に仕える。2千石を領していたが、1610年(慶長15)父の遺領のうち1万2千石を分与され越後沢海藩1万4千石の大名となる。大坂の両陣では、土井利勝に属して参陣。1634年(寛永11)5月2日没。 51才。法名「利性院殿大岳道徹大居士」。
溝口助勝の墓碑
溝口助勝
生 慶長16年 (1611年)
没 寛永13年 (1636年)
1611年(慶長16)善勝の次男として生まれる。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)遺領のうち3千石を相続する。1636年(寛永13)5月24日没。26才。法名「昌運東繁居士」。
松平昌勝の墓碑
松平昌勝
生 寛永13年 (1636年)
没 元禄6年 (1693年)
越前松岡藩初代藩主。1636年(寛永13)3月忠昌の長男として生まれる。父の死後、5万石を分知され越前松岡藩主となる。父の福井藩を継ぐことが出来なかったが、息子3人が福井藩主となっている。1693年(元禄6)7月27日没。58才。法名「見性院殿鐵關了無大居士」。
松平忠国の墓碑
松平忠国
生 慶長2年 (1597年)
没 万治2年 (1659年)
1597年(慶長2)8月17日藤井松平信吉の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川家康、秀忠に拝謁。1609年(慶長14)12月22日秀忠の御前で元服。1615年(元和元)5月7日大坂夏の陣で首を獲る手柄を立てる。1649年(慶安2)播磨明石城を与えられ7万石を領した。1659年(万治2)2月20日没。63才。法名「浄源院殿雲誉崇安道覚大居士」。墓石は息子日向守信之の建立による。
松平光領の墓碑
松平光領
生 文化12年 (1815年)
没 天保12年 (1841年)
1815年(文化12)4月光年の4男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。信濃松本藩主松平光庸の養子となっていたが、跡を継ぐことなく1841年(天保12)6月24日没。27才。
松平光行の墓碑
松平光行
生 明和3年 (1766年)
没 天保10年 (1839年)
信濃松本藩6代藩主。1766年(明和3)戸田光為の4男として生まれる。松平光悌の養子となり娘を妻とする。光悌の死により1786年(天明6)8月跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)隠居して竹翁と号す。1839年(天保10)12月14日没。74才。法名「瑞光院殿祥巖道麟大居士」。
松平光悌の墓碑
松平光悌
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明6年 (1786年)
信濃松本藩5代藩主。1752年(宝暦2)光雄の8男として生まれる。兄光和の隠居により1774年(安永3)12月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1786年(天明6)6月21日没。35才。法名「本覺院殿則道了規大居士」。
松平光徳の墓碑
松平光徳
生 元文元年 (1736年)
没 宝暦9年 (1759年)
信濃松本藩3代藩主。1736年(元文元)光雄の長男として生まれる。1749年(寛延2)5月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1756年(宝暦6)閏11月跡を継ぐ。1759年(宝暦9)1月8日没。24才。法名「壷春院殿洞外義仙大居士」。
松平光年の墓碑
松平光年
生 天明元年 (1781年)
没 天保8年 (1837年)
信濃松本藩7代藩主。1781年(天明元)光悌の子として生まれる。1794年(寛政6)2月松平光行の養子となる。同年4月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)光行の隠居により跡を継ぐ。1837年(天保8)2月4日没。57才。法名「神龍院殿大光啓雲大居士」。
松平光和の墓碑
松平光和
生 延享元年 (1744年)
没 安永4年 (1775年)
信濃松本藩4代藩主。1744年(延享元)光雄の6男として生まれる。兄光徳の養子となり1759年(宝暦9)3月跡を継ぐ。同月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)7月24日没。32才。法名「泰量院殿義範勇見大居士」。
松平信吉妻の墓碑
松平信吉妻
生 不明
没 承応2年 (1653年)
松平信一の娘。松平信吉に嫁ぎ、忠国、忠晴、秋田俊季妻、忠秋、信治の4男1女を儲ける。1653年(承応2)6日23日没。法名「崇龍院殿華雄貞信大禅定尼」。墓石は息子山城守忠勝(忠国)の建立による。
松平信一妻の墓碑
松平信一妻
生 不明
没 元和5年 (1619年)
松平好景の娘。松平信一に嫁ぎ、久清、大久保康忠妻、石川織部妻の1男2女を儲ける。1619年(元和5)10月28日没。法名「嶽雄院殿俊譽惣貞清大姉」。墓石は1643年(寛永20)10月28日の25回忌に信一の孫山城守忠国の建立による。
本多康俊の墓碑
本多康俊
生 永禄12年 (1569年)
没 元和7年 (1621年)
1569年(永禄12)酒井忠次の次男として生まれる。母は松平清康の娘碓井姫。徳川家康に仕え、幼少時は織田信長への人質となる。本多忠次の養子となり跡を継ぐ。関ケ原の戦い、大坂夏の陣に参戦して、近江国膳所で3万石を与えられる。1621年(元和7)2月7日没。53才。法名「梅香院英誉輝厳緑崇大居士」。墓石は息子下総守俊次と美作守忠相の建立による。
本多俊次妻の墓碑
本多俊次妻
生 不明
没 寛文8年 (1668年)
小田部統房の娘。立花宗茂の養女となり本多俊次に嫁ぐ。俊次の間に、康長、牧野光成妻、康将、忠顕、忠隆、俊正の4男1女を儲ける。1668年(寛文8)11月没。法名「崇安院殿明誉壽光大姉」。墓石施主は息子兵部少輔康将。
本多俊次の墓碑
本多俊次
生 文禄4年 (1595年)
没 寛文8年 (1668年)
近江膳所藩2代藩主。1595年(文禄4)康俊の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。大坂の陣に父とともに参戦。夏の陣のときには自ら槍を持ち首を取った。1621年(元和7)父の死去により家督を継ぐ。1668年(寛文8)8月11日没。74才。法名「専光院殿信蓮社深誉浄有大居士」。
最上義智妻の墓碑
最上義智妻
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文4年 (1664年)
1642年(寛永19)奥平忠昌の娘として生まれる。名はてい。最上義智に嫁ぐ。1664年(寛文4)閏5月24日没。23才。法名「智光院殿槐窓壽貞大禅定尼」。
明智光秀の墓碑
明智光秀
生 不明
没 天正10年 (1582年)
生年不明。朝倉義景に仕え、その後足利義昭に仕える。義昭が没落すると織田信長に仕え重臣となる。1582年(天正10)6月2日主君信長を討つ。(本能寺の変)しかし、同じ信長の重臣豊臣秀吉と戦い(山崎の戦い)敗れ、同年6月13日落ち延びる途中土民に襲われ殺される。法名「秀岳院宗光禅定門」。この墓石にはかなり以前より法名等が全く読めないが光秀の墓と伝わっているので、正確には「伝明智光秀墓」である。
徳川頼倫の墓碑
徳川頼倫
生 明治5年 (1872年)
没 大正14年 (1925年)
紀州徳川家15代当主。1872年(明治5)6月慶頼の6男として生まれる。1880年(明治13)2月紀州徳川茂承の養子になる。1906年(明治39)8月家督を相続、貴族院議員となる。日本図書館協会総裁に就任したり、南方熊楠を支援するなど多方面に活躍。1925年(大正14)5月19日没。52才。法名「樹徳院殿●城高節大居士」。(●は臤に虎)
徳川茂承の墓碑
徳川茂承
生 天保15年 (1844年)
没 明治39年 (1906年)
紀伊和歌山藩14代藩主。1844年(天保15)1月松平頼学の6男として生まれる。1858年(安政5)に紀伊和歌山藩13代藩主慶福(家茂)が将軍になったため、14代藩主として跡を継ぐ。幕府崩壊後は、和歌山藩知事となる。1906年(明治39)8月20日没。63才。法名「慈承院殿剛健日純大居士」。
徳川治宝の墓碑
徳川治宝
生 明和8年 (1771年)
没 嘉永5年 (1852年)
紀伊和歌山藩10代藩主。1771年(明和8)6月重倫の次男として生まれる。将軍徳川家治より1字を賜い治宝と名乗る。大叔父で9代藩主治貞が没すると1789年(寛政元)10月跡を継ぐ。1824年(文政7)隠居。1852年(嘉永5)12月7日没。82才。法名「舜恭院殿一品前亜相大光正受源恭公」。
彦坂吉成の墓碑
彦坂吉成
生 不明
没 寛文9年 (1669年)
宗有の子。平九郎。吉家とも。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。大坂代官、倉敷代官など代官職を務む。1669年(寛文9)10月26日没。法名「法弓院殿」。
彦坂元正の墓碑
彦坂元正
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
光景の子。小刑部。徳川家康に仕え、代官、町奉行を務める。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは小荷駄奉行。領地の農民に訴えられ、さらに貢金を私物化したため改易となる。1634年(寛永11)1月8日没。法名「聚林居士」。墓石には、彦坂市兵衛(詳細不明)の名も見える。
安藤重長の墓碑
安藤重長
生 慶長5年 (1600年)
没 明暦3年 (1657年)
上野高崎藩2代藩主。1600年(慶長5)本多正盛の長男として生まれる。母は安藤重信の娘。祖父重信の跡を継ぐ。1609年(慶長14)徳川家康に拝謁。徳川秀忠付となり、大坂の両陣に従い、夏の陣のときは首2つを取る。1632年(寛永9)改易となった徳川忠長を居城高崎城に預かる。1657年(明暦3)9月29日没。58才。法名「良峯院殿前京兆司録天誉泰翁居士」。
安藤重博の墓碑
安藤重博
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄11年 (1698年)
備中松山藩初代藩主。1640年(寛永17)重之の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。祖父重長の死により1657年(明暦3)11月上野高崎藩3代藩主となる。1695年(元禄8)5月備中松山に加増移封。1698年(元禄11)8月9日没。59才。法名「定慧院殿不漚覺海大居士」。
安藤重信の墓碑
安藤重信
生 弘治3年 (1557年)
没 元和7年 (1621年)
上野高崎藩初代藩主。1557年(弘治3)基能の次男として生まれる。徳川家康に仕え1584年(天正12)長久手の戦いのときは兜首1つを獲った。後、家康3男秀忠に仕え、1600年(慶長5)真田昌幸の籠る上田城攻めに参戦。他、大坂の陣にも参戦。大久保忠隣、福島正則の所領没収のときに使者を務めている。1621年(元和7)6月29日没。65才。法名「栖岸院殿釋良善大居士」。
安藤重之の墓碑
安藤重之
生 元和9年 (1623年)
没 寛永18年 (1641年)
1623年(元和9)重長の長男として生まれる。跡を継ぐことなく1641年(寛永18)11月12日没。19才。法名「浄本院殿清譽理覺大禅定門」。墓石施主は息子伊勢千代(重博)。
奥平忠昌妻の墓碑
奥平忠昌妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
鳥居忠政の3女。奥平忠昌に嫁ぎ、内藤信良妻、最上義智妻、昌能、由良頼繁妻の1男3女を儲ける。1642年(寛永19)4月4日没。法名「桂嶽院殿少室香林大禅定尼」。
奥平家昌の墓碑
奥平家昌
生 天正5年 (1577年)
没 慶長19年 (1614年)
下野宇都宮藩初代藩主。1577年(天正5)信昌の長男として生まれる。祖父徳川家康から1字を賜い家昌と名乗る。1601年(慶長6)下野宇都宮で10万石を与えれる。1614年(慶長19)10月10日没。38才。法名「六通院殿天眼道高大禅定門」。
吉田良連娘の墓碑
吉田良連娘
生 不明
没 天保15年 (1844年)
吉田良連の3女。鷹司任子(徳川家定妻)に年寄役として仕える。通称勘解由小路。1844年(天保15)5月没。法名「功〇院殿熏譽昭和清均大姉」。膳所本多家墓域にあることから、母は本多康伴の娘と思われる。
内藤重頼の墓碑
内藤重頼
生 寛永5年 (1628年)
没 元禄3年 (1690年)
1628年(寛永5)正勝の長男として生まれる。1630年(寛永7)父が没すると遺領1万5千石を没収され5千石を相続。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。順調に加増を重ね3万3千石を領す。1687年(貞享4)京都所司代となる。1690年(元禄3)11月27日没。63才。法名「無著院殿然譽常光存空大居士」。
内藤信良妻の墓碑
内藤信良妻
生 不明
没 不明
奥平忠昌の長女。名はミネ姫。内藤信良の正室となる。子を儲けることなく没す。法名「恵照院殿寂然宗空大禅定尼」。
保科正重の墓碑
保科正重
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
正直の次男。冷遇されていたらしく詳細不明。晩年は異母弟正貞のもとに寄せていたと思われ、正貞の領地である千葉県木更津市の選擇寺にも墓がある。1636年(寛永13)8月23日没。法名「鳳桐院殿月光玄白大禅定門」。
仙石久信の墓碑
仙石久信
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄12年 (1699年)
1638年(寛永15)久邦の子として生まれる。1648年(慶安元)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。その際、6千石のうち千石を弟久尚に分け与える。1699年(元禄12)1月5日没。62才。法名「圓光院殿普岳常照居士」。
青木友重の墓碑
青木友重
生 慶長10年 (1605年)
没 寛永13年 (1636年)
1605年(慶長10)生まれ。戸田氏の出身。忠五郎。伊達政宗に小姓として仕える。青木源七郎の娘を娶り青木家を継ぐ。1636年(寛永13)6月20日に殉死。32才。法名「圓岫了規禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
菅野重虎の墓碑
菅野重虎
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永13年 (1636年)
1596年(慶長元)生まれ。正(勝)左衛門。重成とも。伊達政宗に火縄銃薬込役として仕える。政宗から拝領したという黒漆五枚胴具足が今に残る。1636年(寛永13)6月20日殉死。41才。法名「芳叔久聯禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
茂庭兼綱の墓碑
茂庭兼綱
生 文禄2年 (1593年)
没 寛永13年 (1636年)
1593年(文禄2)斎藤孫左衛門の子として生まれる。采女。中畠兵次の婿となり伊達政宗に仕える。茂庭綱元によって茂庭の姓を名乗る。1636年(寛永13)6月20日殉死。44才。法名「叟善昌因禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
石田与純の墓碑
石田与純
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
1589年(天正17)大波大膳の次男として生まれる。将監。伊達政宗に仕える。石田豊前宗朝の娘を娶り婿となる。1636年(寛永13)6月21日に殉死。48才。法名「信澤道傳禅定門」。青柳伝右衛門と加藤三右衛門が与純に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
矢目常重の墓碑
矢目常重
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。伊兵衛。伊達政宗に仕え、大坂の陣に従う。政宗が没すると1636年(寛永13)6月7日仙台覚範寺にて殉死。63才。法名「堅室道固禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
桑折綱長の墓碑
桑折綱長
生 元亀2年 (1571年)
没 寛永13年 (1636年)
1571年(元亀2)生まれ。豊後。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。66才。法名「竹友祟賢禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小野時村の墓碑
小野時村
生 天正14年 (1586年)
没 寛永13年 (1636年)
1586年(天正14)生まれ。二左衛門。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。51才。法名「涼窓受蔭禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小平元成の墓碑
小平元成
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。太郎左衛門。伊達政宗に仕える。京都伏見にて町人を斬ったため、政宗の命で高野山に逃れる。のちに名を武石仁右衛門として陸奥国に戻る。のちに政宗に再仕。1636年(寛永13) 6月19日自宅にて殉死。63才。法名「怡心道悦禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
大槻定安の墓碑
大槻定安
生 天正4年 (1576年)
没 寛永13年 (1636年)
1576年(天正4)生まれ。喜右衛門。伊達政宗に仕える。大坂夏の陣で首を取る。1636年(寛永13)6月19日殉死。61才。法名「天岑周徳禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
喜斎の墓碑
喜斎
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永13年 (1636年)
1562年(永禄5)生まれ。岡崎喜斎とも伝わるも詳細不明。1636年(寛永13)6月20日仏眼寺にて伊達政宗に殉死。75才。法名「悦嶂道観禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
南政吉の墓碑
南政吉
生 元和元年 (1615年)
没 寛永13年 (1636年)
1615年(元和元)惣右衛門の子として生まれる。次郎吉。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)5月24日政宗が没すると同日殉死。22才。法名「清隠浄光禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤昌吉の墓碑
加藤昌吉
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
備前池田家の家臣七太夫の子。十三郎。同僚を殺害したため、備前を離れ宇和島伊達秀宗に仕える。のち伊達政宗の近習となる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。23才。(21才とも)法名「説庭良宣禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤三右衛門の墓碑
加藤三右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
名は賀藤とも。伊達政宗家臣石田与純に仕える。1636年(寛永13) 与純が主君政宗に殉死すると、三右衛門も殉死。法名「梁岫元棟禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
入生田元康の墓碑
入生田元康
生 天正5年 (1577年)
没 寛永13年 (1636年)
1577年(天正5)成定の子として生まれる。三右衛門。16才のときに伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日に殉死。60才。法名「功翁知全禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
佐藤吉信の墓碑
佐藤吉信
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永13年 (1636年)
1608年(慶長13)向岩孫助の子として生まれる。内膳。伊達政宗に仕える。佐藤甚十郎と改名。出世して2千石を与えられる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。29才。法名「法得紹隆禅定門」。杉山理兵衛が吉信に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
白石宗貞の墓碑
白石宗貞
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永21年 (1644年)
1597年(慶長2)宗直の長男として生まれる。登米伊達家2代当主。伊達政宗、忠宗に仕える。父宗直は伊達姓を許されたものの政宗の勘気を被り伊達姓を剥奪されていたが、1640年(寛永17)藩主忠宗より宗貞に再び伊達姓を与えられる。1644年(寛永21)4月11日没。48才。法名「長秀院殿茂林昌繁大居士」。墓石施主は長女の夫で養子となった五郎吉。
川勝広有の墓碑
川勝広有
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文13年 (1673年)
1631年(寛永8)広尚の子として生まれる。1644年(正保元)14才のとき徳川家光に拝謁。小姓組、西城御書院番士、奉行などを務める。1673年(寛文13)9月3日没。43才。法名「寂照院殿桂岸蒼秋居士」。
島津綱久の墓碑
島津綱久
生 寛永9年 (1632年)
没 寛文13年 (1673年)
1632年(寛永9)4月光久の長男として生まれる。1651年(慶安4)将軍徳川家綱より一字を賜り綱久と名乗る。1673年(寛文13)2月19日父に先立ちて没。42才。法名「泰清院殿關山良無大居士」。
山内忠義妻の墓碑
山内忠義妻
生 文禄4年 (1595年)
没 寛永9年 (1632年)
1595年(文禄4)松平定勝の次女として生まれる。名は阿姫。1605年(慶長10)徳川家康の養女として山内忠義に嫁ぐ。忠義との間に、忠豊、松下長綱妻、忠直の2男1女を儲ける。1632年(寛永9)2月13日没。38才。法名「光照院殿泰譽皓月大姉」。
山内忠直の墓碑
山内忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文7年 (1667年)
土佐中村藩初代藩主。1613年(慶長18)9月忠義の次男として生まれる。1656年(明暦2)父の隠居の際、土佐中村にて3万石を与えられる。1667年(寛文7)6月9日没。55才。法名「顕徳院殿傑岩宗英大居士」。
山内一豊の墓碑
山内一豊
生 天文14年 (1545年)
没 慶長10年 (1605年)
土佐藩初代藩主。1545年(天文14)盛豊の3男として生まれる。豊臣秀吉に仕え姉川の戦い、播磨三木城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に従い、戦後土佐国を与えられる。1605年(慶長10)9月20日没。61才。法名「大通院殿心峯宗傳大居士」。
奥山兼清の墓碑
奥山兼清
生 元亀2年 (1571年)
没 元和2年 (1616年)
1571年(元亀2)目々沢常基の長男として生まれる。伊達政宗に仕え、人取橋の戦いや朝鮮出兵に従う。大坂の陣にも参戦。夏の陣の道明寺の戦いでは首を取る活躍をする。1616年(元和2)2月6日没。46才。墓石に「奥刕政宗内奥山出羽守為兼清・・」と没年月日が刻まれている。享年は40才の説もある。
伊達輝宗妻の墓碑
伊達輝宗妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
最上義守の娘として生まれる。名は義姫。伊達輝宗に嫁ぎ、政宗、小次郎、女、女の2男2女を儲ける。1588年(天正16)息子政宗と兄義光が合戦となると、戦場に輿で乗り込み両軍の停戦を行う。1594年(文禄3)伊達家から出奔して、実家の最上家に戻る。1622年(元和8)に最上家が改易となると仙台の政宗を頼る。1623年(元和9)7月17日没。法名「花窓久栄尼大姉」。墓石は逆修塔。
伊達輝宗の墓碑
伊達輝宗
生 天文13年 (1544年)
没 天正13年 (1585年)
1544年(天文13)9月晴宗の次男として生まれる。1565年(永禄8)父の隠居により家督を継ぐ。家中をまとめ、遠藤基信を登用して外交を行わせる。1585年(天正13)10月8日陸奥二本松城主畠山義継が降伏後、輝宗の居城に訪れたときに義継と家臣に拉致される。二本松領付近まできたときに、味方の伊達勢に撃たれて義継共々死亡。法名「覚範寺殿性山受心大居士」。
伊達斉邦の墓碑
伊達斉邦
生 文化14年 (1817年)
没 天保12年 (1841年)
陸奥仙台藩12代藩主。1817年(文化14)9月宗充の長男として生まれる。1827年(文政10)1月仙台藩主斉義の婿養子となる。1828年(文政11)斉義の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)7月24日没。25才。法名「慈雲院殿龍山真珠大居士」。
伊達斉義の墓碑
伊達斉義
生 寛政10年 (1798年)
没 文政10年 (1827年)
陸奥仙台藩11代藩主。1798年(寛政10)3月田村村資の4男として生まれる。1819年(文政2)4月仙台藩主伊達斉宗が亡くなったときに、斉宗娘と婚約して婿養子という形で藩主となる。同年8月将軍徳川家斉に拝謁。1827年(文政10)11月27日没。30才。法名「曹源院殿正山榮因大居士」。
伊達斉村の墓碑
伊達斉村
生 安永3年 (1774年)
没 寛政8年 (1796年)
陸奥仙台藩8代藩主。1774年(安永3)12月重村の次男として生まれる。1787年(天明7)将軍徳川家斉から1字を与えられ斉村と名乗る。1790年(寛政2)父の隠居により家督を相続。1796年(寛政8)7月27日没。23才。法名「永慶院殿桂山蘭榮大居士」。幕府には相続の都合で8月12日死去と届けている。
伊達斉宗の墓碑
伊達斉宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文政2年 (1819年)
陸奥仙台藩10代藩主。1796年(寛政8)9月斉村の次男として生まれる。1812年(文化9)兄周宗の隠居(実は周宗は没していた)により家督を継ぐ。1819年(文政2)5月24日没。24才。法名「廣徳院殿英山元高大居士」。
伊達宗高の墓碑
伊達宗高
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永3年 (1626年)
1607年(慶長12)政宗の7男として生まれる。1626年(寛永3)閏4月徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。1626年(寛永3)8月17日没。20才。法名「龍島院殿涼山英清大居士」。家臣10人が殉死している。
伊達宗倫妻の墓碑
伊達宗倫妻
生 寛永15年 (1638年)
没 延宝5年 (1677年)
1638年(寛永15)白石宗貞の2女として生まれる。伊達宗倫に嫁ぐ。 1677年(延宝5)7月15日没。40才。法名「霊光院殿桂臺裔中大姉」。墓石は宗倫の養子の大蔵村直が1682年(天和2)7回忌に建立。(ただし7回忌だと延宝6年没となる)
伊達宗倫の墓碑
伊達宗倫
生 寛永17年 (1640年)
没 寛文10年 (1670年)
1640年(寛永17)4月忠宗の5男として生まれる。兄の五郎吉が登米伊達家を継いでいたが没したため宗倫が継ぐ。領内の新田開発を行い石高は上がったが、涌谷伊達家の宗重と領地の境界線問題で争うこととなる。1670年(寛文10)2月10日没。31才。法名「高臺院殿天山宗清大禅定門」。墓石は1682年(天和2)養子の大蔵村直が13回忌に建立。
伊達宗信の墓碑
伊達宗信
生 慶長8年 (1603年)
没 寛永4年 (1627年)
1603年(慶長8)政宗の6男として生まれる。幼名吉松丸。1627年(寛永4)8月8日没。25才。法名「高照院殿外天洞雲大居士」。
伊達周宗の墓碑
伊達周宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文化6年 (1809年)
陸奥仙台藩9代藩主。1796年(寛政8)3月斉村の長男として生まれる。同年4月に祖父重村、同年7月父斉村が死去したため1才未満で跡を継ぐ。同時に将軍徳川家斉の3女綾姫と婚約。綾姫が没したため1806年(文化3)家斉の11女浅姫と婚約。1812年(文化9)2月疱瘡のため家督を弟斉宗に譲る。結婚することも将軍に拝謁することもなく同年4月24日没。17才。法名「青龍院殿紹山隆公大居士」。実際には、1809年(文化6)1月4日に14才で没してたらしい。
五島運龍の墓碑
五島運龍
生 安永9年 (1780年)
没 天保15年 (1844年)
肥前富江領6代領主。1780年(安永9)盛恭の子として生まれる。父の死により1789年(寛政元)11月跡を継ぐ。1795年(寛政7)12月将軍徳川家斉に拝謁。1844年(天保15)9月6日没。65才。法名「瑞鳳院殿恭運良興大居士」。
五島盛朗の墓碑
五島盛朗
生 延宝5年 (1677年)
没 享保11年 (1726年)
肥前富江領2代領主。1677年(延宝5)盛清の長男として生まれる。父の死により1679年(延宝7)12月3才で跡を継ぐ。1683年(天和3)8月将軍徳川家綱に拝謁。1726年(享保11)7月18日没。50才。法名「瑞雲寺殿常山良真大居士」。墓石は息子修理盛尚の建立による。
五島盛恭の墓碑
五島盛恭
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政元年 (1789年)
肥前富江領5代領主。1754年(宝暦4)盛道の4男として生まれる。1772年(安永元)12月将軍徳川家治に拝謁。時期は不明だが五島盛峰の養子となっており、1773年(安永2)7月盛峰の死により跡を継ぐ。1789年(寛政元)7月29日没。36才。法名「單傳院殿直心良機大居士」。墓石は息子兵次郎運龍の建立による。
五島盛峰の墓碑
五島盛峰
生 享保11年 (1726年)
没 安永2年 (1773年)
肥前富江領4代領主。1726年(享保11)盛尚の長男として生まれる。1752年(宝暦2)12月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1765年(明和2)12月跡を継ぐ。1773年(安永2)4月4日没。48才。法名「雄安院殿㯮禪良峯大居士」。
五島盛尚の墓碑
五島盛尚
生 元禄8年 (1695年)
没 明和5年 (1768年)
肥前富江領3代領主。1695年(元禄8)盛朗の長男として生まれる。1711年(正徳元)4月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1726年(享保11)10月跡を継ぐ。1765年(明和2)12月隠居。1768年(明和5)3月2日没。74才。法名「大乗院殿頊明良圓大居士」。
亀井政直妻の墓碑
亀井政直妻
生 正保2年 (1645年)
没 寛文3年 (1663年)
1645年(正保2)山内忠直の娘として生まれる。山内忠豊の養女となり亀井政直に嫁ぐ。1663年(寛文3)6月20日没。(19日説有)19才。法名「淨照院殿鏡室清光大姉」。墓石は1周忌の1664年(寛文4)6月20日に建立による。
津軽順承の墓碑
津軽順承
生 寛政12年 (1800年)
没 元治2年 (1865年)
陸奥弘前藩11代藩主。1800年(寛政12)1月大河内信明の3男として生まれる。1821年(文政4)6月黒石藩津軽親足の養子となる。1839年(天保10)5月弘前藩主信順の隠居に伴い跡を継ぐ。1859年(安政6)2月隠居して俳句を楽しみ、梅翁という俳号を名乗る。1865年(元治2)2月5日没。66才。法名「政徳院殿修道幻光大居士」。
津軽為永の墓碑
津軽為永
生 承応3年 (1654年)
没 延宝4年 (1676年)
1654年(承応3)信義の子として生まれる。親族の津軽為節の養子となり、1672(寛文12)19才のときに家督を継ぐ。1676年(延宝4)4月28日没。23才。法名「真性院殿繁庵常昌大居士」。
津軽為信娘の墓碑
津軽為信娘
生 不明
没 元和8年 (1622年)
津軽為信の娘。信枚の妹。1622年(元和8)9月23日没。法名「東泉院殿清光恵林大姉」。墓石に「津輕越中守殿為御妹也」とある。青森県弘前市の貞昌寺にも墓がある。
津軽為信妻の墓碑
津軽為信妻
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
大浦為則の娘。名は阿保良、戌姫、お福。1567年(永禄10)津軽為信に嫁ぐ。為信の間に子は出来なかった。1628年(寛永5)4月29日没。法名「仙洞院殿即庵貞心大姉」。
津軽為信の墓碑
津軽為信
生 天文19年 (1550年)
没 慶長12年 (1607年)
陸奥弘前藩初代藩主。1550年(天文19)1月大浦守信の子として生まれる。南部氏より独立をして、豊臣秀吉に従う。1590年(天正18)秀吉の北条攻めのときは駿河国まで赴き、本領安堵の朱印を賜う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには徳川家康に味方。1607年(慶長12)12月5日没。58才。法名「瑞祥院殿天室梁棟大居士」。
津軽寧親の墓碑
津軽寧親
生 明和2年 (1765年)
没 天保4年 (1833年)
陸奥弘前藩9代藩主。1765年(明和2)1月著高の長男として生まれる。1778年(安永7)5月黒石津軽家の家督を継ぐ。1791年(寛政3)8月本家藩主津軽信明が死去したため、本家の跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月に隠居。以後は俳句に没頭。1833年(天保4)6月14日没。69才。法名「上仙院殿権大僧都桃翁舜訽」。
津軽信順の墓碑
津軽信順
生 寛政12年 (1800年)
没 文久2年 (1862年)
陸奥弘前藩10代藩主。1800年(寛政12)3月寧親の次男として生まれる。1811年(文化8)1月将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)4月父の隠居により跡を継ぐ。放蕩三昧な藩主のため家老高倉盛隆が諫死するも効果がなく、また素行が悪いため幕府から逼塞処分を受ける。1862年(文久2)10月14日没。63才。法名「寛廣院殿深達了義大居士」。
津軽信義の墓碑
津軽信義
生 元和5年 (1619年)
没 明暦元年 (1655年)
陸奥弘前藩3代藩主。1619年(元和5)1月信枚の長男として生まれる。母は石田三成の3女辰姫。1631年(寛永8)父の死により跡を継ぐ。同年4月将軍徳川家光に拝謁。信義を強制隠居させる正保の騒動が起き、一族や家臣を粛清。1655年(明暦元)11月25日没。37才。法名「桂光院殿雪峯宗瑞大居士」。
津軽信明の墓碑
津軽信明
生 宝暦10年 (1760年)
没 寛政3年 (1791年)
陸奥弘前藩8代藩主。1760年(宝暦10)信寧の長男として生まれる。1766年(安永5)3月将軍徳川家治に拝謁。1784年(天明4)2月父の死により跡を継ぐ。天明の大飢饉により財政は悪化したため、藩内の改革を行う。1791年(寛政3)7月6日没。32才。法名「體孝院殿眞境普照大居士」。
津軽信寧の墓碑
津軽信寧
生 元文2年 (1737年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥弘前藩7代藩主。1737年(元文2)信著の長男として生まれる。1753年(宝暦3)2月将軍徳川家重に拝謁。1784年(天明4)閏1月2日没。48才。法名「戒香院殿梅溪常薫大居士」。
大道寺繁清妻の墓碑
大道寺繁清妻
生 不明
没 元禄14年 (1701年)
津軽信義の娘。伊与。大道寺繁清に嫁ぎ、直聴を儲ける。1701年(元禄14)2月4日没。法名「慶壽院殿徳窓妙善大姉」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
大道寺繁清の墓碑
大道寺繁清
生 明暦3年 (1657年)
没 元禄14年 (1701年)
1657年(明暦3)為久の子として生まれる。津軽信政に仕え家老職。妻は主君信政の妹。1701年(元禄14)8月27日没。45才。法名「眞乗院殿湛然無怕居士」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
大道寺為久の墓碑
大道寺為久
生 寛永2年 (1625年)
没 延宝2年 (1674年)
1625年(寛永2)津軽信枚の子として生まれる。1640年(寛永17)大道寺直秀の娘と婚姻、家督を継ぐ。1647年(正保4)兄で藩主津軽信義を隠居させようとするも失敗、蟄居となる。のち許され家老職となる。1674年(延宝2)2月23日没。50才。法名「圓通院殿盛叟英堅巨居士」。
石川廉勝妻の墓碑
石川廉勝妻
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
堀尾忠晴の娘。石川宗十郎廉勝に嫁ぎ憲之を儲ける。1634年(寛永11)4月27日没。法名「法光院殿全心玄貞大姉」。墓石施主は夫石川宗十郎とある。
水野勝貞妻の墓碑
水野勝貞妻
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
野瀬氏。水野勝貞の妻となり、女子、勝種の1男1女を儲ける。1679年(延宝7)7月2日没。法名「永久院殿」。墓石に「水野美作守勝慶之母堂」とあり勝慶とは勝種の前名である。
水野勝種の墓碑
水野勝種
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄10年 (1697年)
備後福山藩4代藩主。1661年(寛文元)5月勝貞の長男として生まれる。1663年(寛文3)父の死により3才で家督を継ぐ。1668年(寛文8)9月将軍徳川家綱に拝謁。1697年(元禄10)8月23日没。37才。法名「萬輝院殿忠嶽全功大居士」。
松村監物の墓碑
松村監物
生 不明
没 寛永10年 (1633年)
堀尾家の家臣。主君堀尾忠晴が1633年(寛永10)9月24日に没すると2日後の26日に殉死。法名「大恕玄忠居士」。
松平忠敏の墓碑
松平忠敏
生 寛文12年 (1672年)
没 元禄8年 (1695年)
1672年(寛文12)忠継の長男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父の忠継が病弱のため、祖父忠倶の跡継ぎとなるも、1695年(元禄8)12月7日没。24才。法名「心源院殿蓮譽寂然道法大居士」。
松平忠吉妻の墓碑
松平忠吉妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
井伊直政の長女。徳川家康の4男松平忠吉に嫁ぐ。忠吉との間に、梅貞大童子の1男を儲ける。忠吉没後は実家に戻る。1627年(寛永4)9月28日没。法名「清泉院殿覚窓榮正大姉」。
松平定信の墓碑
松平定信
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政12年 (1829年)
陸奥白河藩3代藩主。1758年(宝暦8)12月徳川宗武の7男として生まれる。1774年(安永3)3月松平定邦の養子となりその娘を妻とする。1775年(安永4)閏12月将軍徳川家治に拝謁。11代将軍徳川家斉のもとで老中首座を務め「寛政の改革」を行う。1829年(文政12)5月13日没。72才。法名「守國院殿崇蓮社天誉保徳樂翁大居士」。
戸田氏長の墓碑
戸田氏長
生 貞享4年 (1687年)
没 享保20年 (1735年)
美濃大垣藩5代藩主。1687年(貞享4)11月氏定の次男として生まれる。1697年(元禄10)11才のときに徳川綱吉に拝謁。1723年(享保8)4月父が職を辞したため跡を継ぐ。1735年(享保20)8月10日没。49才。法名「享澤院殿乾誉徹元大居士」。
戸田氏鉄妻の墓碑
戸田氏鉄妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
戸田康長の娘。母は徳川家康の異父妹松姫。戸田氏鉄に嫁ぎ、板倉重宗妻、氏信、本多正勝妻、氏経、松平忠国妻、頼鉄、氏照、利鉄の5男2女を儲ける。1654年(承応3)12月23日没。「心譽壽栄大姉」。
戸田氏鉄の墓碑
戸田氏鉄
生 天正4年 (1576年)
没 承応4年 (1655年)
美濃大垣藩初代藩主。1576年(天正4)3月一西の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。大坂の両陣のときは居城である近江膳所城を守る。戦後、摂津尼崎5万石を与えられ、1635年(寛永12)7月に美濃大垣10万石へ加増移封。1655年(承応4)2月14日没。80才。法名「覺岸院殿長誉常閑大居士」。墓石は息子氏信の建立による。
戸田氏西妻の墓碑
戸田氏西妻
生 不明
没 元禄16年 (1703年)
内藤忠政の娘。戸田氏西に嫁ぎ、氏定、氏成の2男を儲ける。 1703年(元禄16)12月23日没。法名「貞凉院殿光誉理教法雲大姉」。
戸田氏西の墓碑
戸田氏西
生 寛永4年 (1627年)
没 貞享元年 (1684年)
美濃大垣藩3代藩主。1627年(寛永4)11月氏信の長男として生まれる。1671年(寛文11)家督を継ぐ。家臣の首切りや藩財政の立て直しのための節約などの藩政改革を行うも成功はしなかった。1684年(貞享元)6月7日没。58才。法名「高稱院殿清譽江自大居士」。
戸田氏英の墓碑
戸田氏英
生 享保14年 (1729年)
没 明和5年 (1768年)
美濃大垣藩6代藩主。1729年(享保14)12月氏長の次男として生まれる。1735年(享保20)10月父の死により跡を継ぐ。1740年(元文5)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1768年(明和5)4月23日没。40才。法名「崇眞院殿徳譽興善大居士」。
戸田氏春の墓碑
戸田氏春
生 寛永11年 (1634年)
没 寛文12年 (1672年)
1634年(寛永11)氏信の3男として生まれる。1641年(寛永18)11月徳川家綱の小姓となる。1651年(慶安4)8月従五位下摂津守を叙任。1672年(寛文12)9月11日没。39才。法名「〇性院殿本譽教然大禅定門」。
戸田氏教の墓碑
戸田氏教
生 宝暦4年 (1754年)
没 文化3年 (1806年)
美濃大垣藩7代藩主。1754年(宝暦4)松平武元の5男として生まれる。1768(明和5)4月戸田氏英の養子となり同年6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家治に拝謁。1790年(寛政2)老中となり1803年(享和3)老中首座となる。1806年(文化3)4月26日没。53才。法名「壽徳院殿圓譽教山大居士」。
戸田氏彬の墓碑
戸田氏彬
生 天保2年 (1831年)
没 慶応元年 (1865年)
美濃大垣藩10代藩主。1831年(天保2)5月氏正の長男として生まれる。1846年(弘化3)11月将軍徳川家慶に拝謁。1864年(元治元)7月蛤御門の変では長州軍と戦い軍功をたてる。第2次長州征伐にも参戦。1865年(慶応元)8月8日没。35才。法名「大顕院殿仁譽義勇大居士」。
戸田氏庸の墓碑
戸田氏庸
生 安永9年 (1780年)
没 天保12年 (1841年)
美濃大垣藩8代藩主。1780年(安永9)氏教の長男として生まれる。1796年(寛政8)5月将軍徳川家斉に拝謁。1806年(文化3)4月父の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)3月19日没。62才。法名「泰嶽院殿霊譽瑞雲大居士」。
戸田氏定の墓碑
戸田氏定
生 明暦3年 (1657年)
没 享保18年 (1733年)
美濃大垣藩4代藩主。1657年(明暦3)3月氏西の長男として生まれる。1684年(貞享元)父の死後、家督を継ぐ。播磨赤穂藩主浅野長矩が刃傷沙汰をおこしたとき、母方の従弟にあたるため一時出仕を止められる。1723年(享保8)4月次男氏長に家督を譲り隠居。1733年(享保18)7月23日没。77才。法名「霊臺院殿瑞譽松巖大居士」。
戸田氏利の墓碑
戸田氏利
生 寛永16年 (1639年)
没 寛文12年 (1672年)
1639年(寛永16)氏信の4男として生まれる。内蔵允。氏親とも。祖父氏鉄により育てられる。1672年(寛文12)3月28日没。34才。法名「天清院殿春山嶺月大信士」。
戸田氏信の墓碑
戸田氏信
生 慶長4年 (1599年)
没 天和元年 (1681年)
美濃大垣藩2代藩主。1599年(慶長4)11月氏鉄の長男として生まれる。7才のときに徳川家康に拝謁。1651年(慶安4)11月父氏鉄の隠居のより家督を継ぐ。1681年(天和元)11月14日没。83才。法名「真林院殿天誉逸閑大居士」。
宇喜多忠家の墓碑
宇喜多忠家
生 天文2年 (1533年)
没 慶長14年 (1609年)
1533年(天文2)宇喜多興家の子として生まれる。兄直家に仕える。1578年(天正6)毛利氏による播磨上月城攻めのときは、兄に代わって従軍。兄の死後は兄の子秀家を補佐。1599年(慶長4)宇喜多騒動と呼ばれる家中の騒動が起きると隠居。1609年(慶長14)没。77才。法名「安津」。墓石には「備前国浮田七郎兵衛入道 為安津忠家逆修也 慶長四年」とあり、隠居したときに逆修塔を建立している。
大久保教業の墓碑
大久保教業
生 文化5年 (1808年)
没 文政13年 (1830年)
1808年(文化5)教孝の長男として生まれる。家督を相続することなく1830年(文政13)8月8日没。23才。法名「慈明院殿秋岳道諦大居士」。
大久保教寛の墓碑
大久保教寛
生 明暦3年 (1657年)
没 元文2年 (1737年)
駿河松長藩初代藩主。1657年(明暦3)忠朝の次男として生まれる。1675年(延宝3)6月将軍徳川家綱に拝謁。1706年(宝永3)10月加増により駿河松長藩主となる。1730年(享保15)11月隠居。1737年(元文2)12月17日没。81才。法名「虎山院殿武林崇勇大居士」。
大久保忠顕の墓碑
大久保忠顕
生 宝暦5年 (1755年)
没 享和3年 (1803年)
相模小田原藩6代藩主。1755年(宝暦5)忠由の長男として生まれる。父の死により1769年(明和6)11月跡を継ぐ。1774年(安永3)10月将軍徳川家治に拝謁。1796年(寛政8)1月隠居。1803年(享和3)8月8日没。49才。法名「亨泰院殿慎常了善大居士」。
大久保忠興の墓碑
大久保忠興
生 正徳3年 (1713年)
没 明和元年 (1764年)
相模小田原藩4代藩主。1713年(正徳3)忠方の長男として生まれる。1727年(享保12)4月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1732年(享保17)11月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1764年(明和元)10月29日没。52才。法名「大雲院殿仙巖了潤大居士」。
大久保忠脩の墓碑
大久保忠脩
生 文化7年 (1810年)
没 天保2年 (1831年)
1810年(文化7)6月忠真の長男として生まれる。家督を継ぐことなく1831年(天保2)11月9日父より先に没。22才。法名「敬順院殿愼行了性大居士」。
大久保忠真の墓碑
大久保忠真
生 安永7年 (1778年)
没 天保8年 (1837年)
相模小田原藩7代藩主。1778年(安永7)忠顕の長男として生まれる。父の死により1796年(寛政8)1月跡を継ぐ。藩政改革に農民の二宮尊徳を登用。幕府では老中を務める。1837年(天保8)3月9日没。60才。法名「彰道院殿欽承良顯大居士」。
大久保忠方の墓碑
大久保忠方
生 元禄5年 (1692年)
没 享保17年 (1732年)
相模小田原藩3代藩主。1692年(元禄5)6月忠増の6男として生まれる。1704年(宝永元)11月将軍徳川綱吉に拝謁。仰せにより柳沢吉保の養女を正室とする。父の死により1713年(正徳3)9月跡を継ぐ。1732年(享保17)10月3日没。41才。法名「現成院殿圓山了智大居士」。
大久保忠愨の墓碑
大久保忠愨
生 文政12年 (1829年)
没 安政6年 (1859年)
相模小田原藩8代藩主。1829年(文政12)忠脩の長男として生まれる。父が若くして没したため1837年(天保8)3月祖父忠真の跡を継ぐ。1859年(安政6)9月27日没。31才。法名「有道院殿好學正儀大居士」。
大久保忠常妻の墓碑
大久保忠常妻
生 天正10年 (1582年)
没 寛永20年 (1643年)
1582年(天正10)奥平信昌の娘として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。大久保忠常に嫁ぎ、忠常との間に、里見忠義室、本多重能室、片桐貞昌室、忠職の1男3女を儲ける。1643年(寛永20)4月26日没。62才。法名「永久院殿梅陽栄玉大姉」。
堀尾民部の墓碑
堀尾民部
生 不明
没 元和6年 (1620年)
揖斐勘左衛門詮信の子。母は堀尾吉晴の姉。宮内少輔。名は一信。母方の姓を名乗り、堀尾家の重臣となる。1620年(元和6)3月6日没。法名「寶山榮真大居士」。墓石は息子采女一明の建立による。
堀尾政家の墓碑
堀尾政家
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
頼母助。堀尾家の重臣。詳細は不明だが、堀尾正秀と息子佐兵衛が頼母を名乗っているので当人かその一族であろう。1636年(寛永13)8月27日没。法名「切岩」。
堀尾忠氏の墓碑
堀尾忠氏
生 天正6年 (1578年)
没 慶長9年 (1604年)
出雲松江藩初代藩主。1578年(天正6)吉晴の次男として生まれる。1599年(慶長4)父の隠居により遠江浜松城主12万石を相続する。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときに徳川家康に付き、戦後出雲松江藩24万石となる。1604年(慶長9)8月4日没。27才。法名「忠光寺殿天岫世球大居士」。
堀尾忠晴の墓碑
堀尾忠晴
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永10年 (1633年)
出雲松江藩2代藩主。 1599年(慶長4)忠氏の長男として生まれる。1604年(慶長9)父の死により跡を継ぐも、幼かったため祖父吉晴が後見する。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参戦。1633年(寛永10)9月20日没。35才。法名「圓城院殿高賢宗肖大居士」。
堀尾吉晴の墓碑
堀尾吉晴
生 天文12年 (1543年)
没 慶長16年 (1611年)
1543年(天文12)泰晴の長男として生まれる。織田信安に仕え、のちに織田信長に仕える。豊臣秀吉の傘下として付属され、信長没後も秀吉に仕える。一時期豊臣秀次の付宿老を務める。豊臣政権下では中老職。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1611年(慶長16)6月17日没。69才。法名「法雲院殿松庭世栢大居士」。墓石は1607年(慶長12)4月建立の逆修塔で「松庭世栢居士」とある。
堀尾勘解由の墓碑
堀尾勘解由
生 不明
没 慶長13年 (1608年)
野々村(堀尾)河内守の子。母は堀尾吉晴の娘。1608年(慶長13)12月5日没。法名「桂岩院殿祥雲世瑞大居士」。勘解由を堀尾家当主としようと、父河内守が御家騒動を起こし父とともに死罪となった、ともあるが最近の研究で御家騒動自体がなかったとされている。
坂崎直盛の墓碑
坂崎直盛
生 不明
没 元和2年 (1616年)
宇喜多忠家の子。父の兄宇喜多秀家に仕える。秀家没後は秀家に仕えた。秀家とは仲が悪く関ケ原の戦いのときは、主君の敵である東軍に味方。1615年(元和元)大坂夏の陣のときに家康の孫娘千姫の救出したが、この件で幕府と対立。1616年(元和2)9月11日自殺した。法名「正法寺殿一峰玄秀大居士」。
土井利剛の墓碑
土井利剛
生 元文4年 (1739年)
没 安永2年 (1773年)
1739年(元文4)8月久世広武の4男として生まれる。土井利里の養子となる。1765年(明和2)将軍徳川家治に拝謁。利里の跡を継ぐことなく1773年(安永2)4月30日没。法名「演徳院殿乗誉金臺寛剛居士」。
井伊直陽の墓碑
井伊直陽
生 正徳4年 (1714年)
没 享保17年 (1732年)
越後与板藩2代藩主。1714年(正徳4)直矩の長男として生まれる。1728年(享保13)9月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)2月父の隠居により跡を継ぐ。1732年(享保17)10月14日没。19才。法名「凌霄院殿松巌淨秀大居士」。
井伊直縄妻の墓碑
井伊直縄妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
桜居氏の出。井伊直縄の妻となり、直興を儲ける。1698年(元禄11)8月15日没。法名「圓臺院殿大通智鏡大姉」。墓石に「江州彦根城主井伊掃郶頭直興公御非母御追為」とある。
井伊直縄の墓碑
井伊直縄
生 元和8年 (1622年)
没 明暦4年 (1658年)
1622年(元和8)直孝の4男として生まれる。直時とも。1634年(寛永11)2月将軍徳川家光に拝謁。彦根藩の世嗣であったが、跡を継ぐことなく1658年(明暦4)4月20日没。37才。法名「廣度院殿圓照宗智大禅定門」。
井伊直経の墓碑
井伊直経
生 寛政11年 (1799年)
没 安政3年 (1856年)
 越後与板藩8代藩主。1799年(寛政11)1月直朗の7男として生まれる。1826年(文政9)直暉(父の養子で7代藩主)の養子となり翌年7月跡を継ぐ。1856年(安政3)6月30日没。58才。法名「泰量院殿全機真彰大居士」。
井伊直矩の墓碑
井伊直矩
生 元禄6年 (1693年)
没 寛保2年 (1742年)
越後与板藩初代藩主。1693年(元禄6)直興の4男として生まれる。1705年(宝永2)遠江掛川藩3代主井伊直朝が病気で失心となったため、養子となり跡を継ぐ。その時移封となり、越後与板藩主となる。1706年(宝永3)1月将軍徳川吉宗に拝謁。1742年(寛保2)3月19日没。50才。法名「光煕院殿花岳淨桃大居士」。
井伊直滋妻の墓碑
井伊直滋妻
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
井伊直勝の娘。母は受法院殿。井伊直滋に嫁ぐ。臺花山生西寺(東京都文京区小日向)が江戸の牛込津久戸から小日向に移転のときに出資する。1655年(明暦元)6月13日没。法名「生信院殿臺花法玉大姉」。臺花山生西寺の「臺花」は彼女の法名より名付けられた。墓石は義父井伊直孝の建立による。
井伊直朝の墓碑
井伊直朝
生 延宝8年 (1680年)
没 正徳5年 (1715年)
遠江掛川藩3代藩主。1680年(延宝8)直武の長男として生まれる。1690年(元禄3)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1694年(元禄7)11月跡を継ぐ。乱心を理由に所領減となり隠居となる。1715年(正徳5)7月15日没。36才。法名「温良院殿恭徳宜謙大居士」。
井伊直朗の墓碑
井伊直朗
生 延享4年 (1747年)
没 文政2年 (1819年)
越後与板藩6代藩主。1747年(延享4)直存の3男として生まれる。1760年(宝暦10)12月兄直郡の養子となり、翌年2月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)7月将軍徳川家治に拝謁。1819年(文政2)12月20日没。73才。法名「大信院殿雪翁真覲大居士」。妻は田沼意次の次女。
井伊直暉の墓碑
井伊直暉
生 寛政3年 (1791年)
没 文政9年 (1826年)
越後与板藩7代藩主。1791年(寛政3)11月直広の長男として生まれる。父が与板藩井伊家に婿に入り跡を継ぐ予定だったが没したため、直暉が藩主井伊直朗の養子となる。1820年(文政3)2月直朗の死により跡を継ぐ。1826年(文政9)5月24日没。36才。法名「嶺雲院殿徳應杲岳大居士」。
井伊直政妻の墓碑
井伊直政妻
生 不明
没 寛永6年 (1629年)
松平康親の娘。徳川家康の養女となり井伊直政に嫁ぐ。直政の間に、松平忠吉(家康4男)妻、直勝、伊達秀宗妻の1男2女を儲けた。1629年(寛永6)7月3日没。法名「東梅院殿臺誉崇玉大姉」。始め東梅院と号していたが、のち唐梅院に改める。
井伊直寛の墓碑
井伊直寛
生 元和2年 (1616年)
没 寛文4年 (1664年)
直孝の2男。1634年(寛永11)2月将軍徳川家光に拝謁。1664年(寛文4)4月7日没。49才。法名「龍滄院殿快顔良将大禅定門」。幼い時より病者であったという。
井伊直孝妻(香雲院)の墓碑
井伊直孝妻(香雲院)
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
木下長嘯子勝俊の娘。井伊直孝に嫁ぎ、直寛を儲ける。1628年(寛永5)10月1日京都において没。法名「香雲院殿花岳理栄大姉」。長嘯子新集では香雪院殿華岳理栄大姉とある。墓石に「江刕彦根井伊犬靏 為母」とあり犬靏は直寛のことである。
井伊直存の墓碑
井伊直存
生 享保3年 (1718年)
没 宝暦10年 (1760年)
越後与板藩4代藩主。1718年(享保3)松平忠雅の5男として生まれる。1735年(享保20)4月井伊直員の死の直前に養子となり同年5月跡を継ぐ。同年6月将軍徳川吉宗が病気のため、代わりに徳川家重に拝謁。1760年(宝暦10)9月20日没。43才。法名「桂岳院殿徹心道馨大居士」。
井伊直好妻の墓碑
井伊直好妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
酒井忠勝(小浜)の娘。井伊直好に嫁ぐも子は出来ず夫より先に没す。1637年(寛永14)9月24日没。法名「長生院殿白顔宗清大姉」。
井伊直好の墓碑
井伊直好
生 元和4年 (1618年)
没 寛文12年 (1672年)
遠江掛川藩初代藩主。1618年(元和4)直勝の長男として生まれる。1624年(寛永元)将軍徳川秀忠に拝謁。父の隠居により跡を継ぎ上野安中藩藩主となる。1645年(正保2)三河西尾藩に加増移封。1659年(万治2)遠江掛川藩に移封。1672年(寛文12)1月6日没。55才。法名「大勝院殿日頼春果大居士」。
井伊直員の墓碑
井伊直員
生 正徳5年 (1715年)
没 享保20年 (1735年)
越後与板藩3代藩主。1715年(正徳5)5月木俣守吉の長男として生まれる。1732年(享保17)10月井伊直陽の養子となり、同年12月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1735年(享保20)4月5日没。21才。法名「霊機院殿俊巖宗英大居士」。
井伊直勝の墓碑
井伊直勝
生 天正18年 (1590年)
没 寛文2年 (1662年)
上野安中藩初代藩主。1590年(天正18)直政の長男として生まれる。徳川家康、秀忠、家光に仕える。1602年(慶長7)父の死により近江上野両国の遺領18万石を継ぐ。大坂の陣では多病の為、同い年生まれの弟直考がかわりに出陣した。1615年(元和元)2月多病を理由に家督を弟の直考に譲り、上野国安中にて3万石を領する。1662年(寛文2)7月11日遠江掛川城で没。73才。法名「雲光院殿月山了照大居士」。
上田重安の墓碑
上田重安
生 永禄6年 (1563年)
没 慶安3年 (1650年)
1563年(永禄6)重元の子として生まれる。丹羽長秀に仕え、本能寺の変後に津田信澄を討ち首を取る。のち豊臣秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍に付いたため領地を没収される。蜂須賀家政のもとにいたが、妻の親戚浅野家の家老として仕える。大坂の両陣に参戦。1650年(慶安3)5月1日没。88才。法名「清涼院殿上林宗箇大居士」。文化人でもあり、宗箇という号で有名。茶道では上田宗箇流の祖である。
蜂須賀至鎮の墓碑
蜂須賀至鎮
生 天正14年 (1586年)
没 元和6年 (1620年)
1586年(天正14)1月家政の長男として生まれる。父とともに豊臣秀吉に仕え秀吉没後は徳川家康に近づき、1600年(慶長5)小笠原秀政の娘敬台院(家康の養女で曾孫)を妻とする。同年の関ケ原の戦いでは東軍に付く。大坂の陣でも徳川方として活躍。1620年(元和6)2月26日没。35才。法名「峻徳院殿心岳義傳大居士」。
蜂須賀正勝の墓碑
蜂須賀正勝
生 大永6年 (1526年)
没 天正14年 (1586年)
1526年(大永6)正利の子として生まれる。小六、彦右衛門。織田信清、織田信賢、斉藤道三、織田信長に仕える。後、信長より秀吉の与力として仕える。秀吉のもとで、三木城攻め、鳥取城攻め、高松城攻め、小牧・長久手の戦いに従う。1586年(天正14)5月22日没。61才。法名「福聚院殿良岩浄張大居士」。
織田長種妻の墓碑
織田長種妻
生 不明
没 寛文6年 (1666年)
小出三尹の娘。織田長種に嫁ぎ、秀一を儲ける。1666年(寛文6)3月17日没。法名「羪春院殿南溪宗湘大姉」。
織田長種の墓碑
織田長種
生 元和3年 (1617年)
没 寛永20年 (1643年)
大和柳本藩2代藩主。1617年(元和3)尚長の長男として生まれる。1638年(寛永15)3月家督を継ぎ、同年6月将軍徳川家光に拝謁。1643年(寛永20)9月8日没。27才。法名「真源院殿泰室華公大禅定門」。
織田長恒の墓碑
織田長恒
生 元文4年 (1739年)
没 明和3年 (1766年)
大和柳本藩9代藩主。1739年(元文4)信方の5男として生まれる。1761年(宝暦11)11月兄秀賢の養子となる。1762年(宝暦12)1月将軍徳川家治に拝謁。1766年(明和3)8月20日没。28才。法名「享徳院殿謙光宗流大居士」。
織田秀賢の墓碑
織田秀賢
生 享保13年 (1728年)
没 天明4年 (1784年)
大和柳本藩8代藩主。 1728年(享保13)8月信方の長男として生まれる。1741(寛保元)10月父の死により家督を継ぐ。1743年(寛保3)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1784年(天明4)11月16日没。57才。法名「圓證院殿覺應義正大居士」。
織田秀親娘の墓碑
織田秀親娘
生 不明
没 享保3年 (1718年)
織田秀親の娘。墓石側面に「和州城上郡柳本前領守織田氏監物秀親女俗名夂女之塔」とある。1718年(享保3)9月28日没。法名「到光院殿直譽清心大姉」。
織田秀親の墓碑
織田秀親
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永6年 (1709年)
大和柳本藩4代藩主。 1662年(寛文2)11月秀一の長男として生まれる。徳川綱吉の葬儀のとき、朝廷からの使者の饗応役となる。同役の前田利昌に嫌がらせをしたため、1709年(宝永6)2月16日利昌と家老木村九左衛門によって刺し殺される。48才。法名「祥灮院殿椿岑宗久大居士」。
織田秀行の墓碑
織田秀行
生 元禄10年 (1697年)
没 享保11年 (1726年)
大和柳本藩6代藩主。1697年(元禄10)7月秀親の4男として生まれる。1719年(享保4)2月叔父成純の養嗣子となる。1724年(享保9)12月成純の隠居により跡を継ぐ。1726年(享保11)6月18日没。30才。法名「巖光院殿本照宗然大居士」。
織田秀綿妻の墓碑
織田秀綿妻
生 明和5年 (1768年)
没 寛政10年 (1798年)
1768年(明和5)間部詮央の長女として生まれる。母は朽木玄綱の娘。名は菊子、喜久。1790年(寛政2)織田秀綿に嫁ぎ、女子、女子、信陽、恒次郎の2男2女を儲ける。1798年(寛政10)12月4日没。31才。法名「圭心院殿春臺智光大姉」。
織田秀綿の墓碑
織田秀綿
生 宝暦6年 (1756年)
没 文化3年 (1806年)
大和柳本藩10代藩主。1756年(宝暦6)2月秀賢の3男として生まれる。幕府には9代藩主長恒の長男として届ける。1766年(明和3)10月長恒の死去により家督を継ぐ。1771年(明和8)7月将軍徳川家治に拝謁。1806年(文化3)9月20日没。51才。法名「法光院殿通山宗貫大居士」。
織田秀一妻の墓碑
織田秀一妻
生 不明
没 享保6年 (1721年)
詳細不明。織田秀一の妻となり、秀親を儲ける。1721年(享保6)4月2日没。法名「春東院殿松譽貞保大姉」。墓石側面に「前柳本守護平姓織田氏監物秀親公實母之塔也」とある。
織田秀一の墓碑
織田秀一
生 寛永16年 (1639年)
没 貞享4年 (1687年)
大和柳本藩3代藩主。1639年(寛永16)長種の長男として生まれる。1643年(寛永20)12月父の死により家督を継ぐ。1644年(寛永21)11月将軍徳川家光に拝謁。1687年(貞享4)8月3日没。49才。法名「圓常院殿梅嶺指月居士」。
織田成純妻の墓碑
織田成純妻
生 不明
没 享保17年 (1732年)
土方豊高の娘。織田成純に嫁ぐ。成純との間には子供が出来ず。1732年(享保17)10月2日没。法名「慈福院殿圓室妙鏡大姉」。
織田成純の墓碑
織田成純
生 延宝4年 (1676年)
没 享保14年 (1729年)
 大和柳本藩5代藩主。1676年(延宝4)6月秀一の次男として生まれる。1688年(貞享5)7月兄秀親の養子となる。1709年(宝永6)4月秀親が刺殺されると跡を継ぐ。1724年(享保9)12月に隠居。1729年(享保14)11月2日没。54才。法名「龍徳院殿圓巖宗澄大居士」。
織田尚長の墓碑
織田尚長
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永14年 (1637年)
 大和柳本藩初代藩主。1596年(慶長元)織田有楽の5男として生まれる。1614年(慶長19)大坂冬の陣の和睦のとき、豊臣家から徳川家に人質に出される。1615年(元和元)8月父より領地を与えられ、大和柳本藩を立藩。1637年(寛永14)11月3日没。42才。法名「林泉院殿雲巌宗光大居士」。
織田信方妻の墓碑
織田信方妻
生 正徳3年 (1713年)
没 宝暦5年 (1755年)
1713年(正徳3)8月土方豊義の娘として生まれる。1730年(享保15)織田信方に嫁ぐ。信方との間に、松平定静妻、寅之助、女子、徳之助、吉次郎、長恒の4男2女を儲ける。1755年(宝暦5)10月2日没。43才。法名「春灮院殿寶珠妙眞大姉」。
織田信方の墓碑
織田信方
生 宝永7年 (1710年)
没 寛保元年 (1741年)
大和柳本藩7代藩主。1710年(宝永7)信清の3男として生まれる。1726年(享保11)8月藩主秀行の末期養子として家督を相続する。同年8月将軍吉宗に拝謁。1741年(寛保元)8月13日没。32才。法名「峯徳院殿普光宗知大居士」。
水野重央の墓碑
水野重央
生 元亀元年 (1570年)
没 元和7年 (1621年)
紀伊新宮藩初代藩主。1570年(元亀元)忠分の3男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。1608年(慶長13)家康の子頼宣の家老となる。1619年(元和5)頼宣が紀州藩主となると、紀伊新宮に3万5千石を与えられる。1621年(元和7)11月12日没。52才。法名「全龍寺殿日山常春居士」。
水野忠央妻の墓碑
水野忠央妻
生 不明
没 嘉永元年 (1848年)
玉松氏。名は多摩子。水野忠央に嫁ぎ、忠幹を儲ける。1848年(嘉永元)7月没。法名「徳眞院殿節操妙圓大姉」。他2名の「童子」「童女」の法名もあるが詳細不明。
水野忠央の墓碑
水野忠央
生 文化11年 (1814年)
没 元治2年 (1865年)
紀伊新宮藩9代藩主。1814年(文化11)10月忠啓の長男として生まれる。1835年(天保6)8月父の隠居により家督を相続する。紀州徳川家の附家老として、徳川斉順、斉彊、慶福、茂承に仕える。紀州藩士で、陸奥宗光の父伊達宗広を幽閉したりして藩の実権を握る。将軍継嗣問題では井伊直弼と組み、紀州から徳川家茂を将軍とする。1865年(元治2)2月25日没。52才。法名「鶴峯院殿篤勤日精大居士」。
水野忠啓の墓碑
水野忠啓
生 寛政7年 (1795年)
没 嘉永元年 (1848年)
 紀伊新宮藩8代藩主。1795年(寛政7)11月11日範明の長男として生まれる。1812年(文化9)9月将軍徳川家斉に拝謁。1822年(文政5)祖父忠実の死により跡を継ぐ。1835年(天保6)8月隠居。1848年(嘉永元)9月30日没。54才。法名「徳洽院殿日新至誠大居士」。
民沢作右衛門の墓碑
民沢作右衛門
生 不明
没 元和6年 (1620年)
梶浦正範の次男。名は可三。蜂須賀至鎮に仕える。至鎮が1620年(元和6)2月26日没すると墓守をする。4年後の主君の命日1624年(寛永元)2月26日に殉死。法名「奇岳卜也庵主」。墓石には「慶安四年(1651年)二月廿六日」とある。
毛利房謙妻の墓碑
毛利房謙妻
生 不明
没 安政4年 (1857年)
益田親愛の娘。毛利房謙に嫁ぎ、音之助、元一、元亮、於堯、隼之進、堅田賢佐の5男1女を儲ける。1857年(安政4)9月5日没。法名「容蘭院殿装臺浄薫」。
毛利広規の墓碑
毛利広規
生 承応2年 (1653年)
没 元禄3年 (1690年)
1653年(承応2)吉敷毛利家の就直の長男として生まれる。同姓同名の阿川毛利宇右衛門広規とは別人。家督を継ぐことなく1690年(元禄3)12月26日没。38才。法名「寒清院殿梅巖道樹大居士」。
毛利就直娘の墓碑
毛利就直娘
生 不明
没 元禄7年 (1694年)
毛利就直の長女。名は於琳。1694年(元禄7)8月10日没。法名「了桂院殿壽岳栄昌大姉」。
毛利就包の墓碑
毛利就包
生 寛文3年 (1663年)
没 元禄8年 (1695年)
1663年(寛文3)就直の3男として生まれる。村上就武の娘を娶り、村上家の養子となる。長兄は早世、1690年(元禄3)次兄広規が没すると実家に戻り嫡男となる。しかし跡を継ぐことなく1695年(元禄8)9月28日没。33才。法名「楓林院殿紅顔秋葉大居士」。
毛利就兼妻(智鏡院)の墓碑
毛利就兼妻(智鏡院)
生 不明
没 寛政4年 (1792年)
毛利就将の娘。名は於虎。右田毛利就兼に嫁ぎ婿とする。就兼との間に子は出来ず。1792年(寛政4)1月21日没。法名「智鏡院殿壽山慧昌大姉」。
毛利就兼妻(春霄院)の墓碑
毛利就兼妻(春霄院)
生 不明
没 安永9年 (1780年)
毛利広豊の娘。毛利就兼に嫁ぎ、代五郎の1男を儲ける。1780年(安永9)1月12日没。法名「春霄院殿薫山智芳大姉」。
毛利元鎮妻の墓碑
毛利元鎮妻
生 不明
没 慶安2年 (1649年)
穂井田元清の娘。1607年(慶長12)1月藩主毛利輝元の仲介により毛利元鎮に嫁ぐ。同年11月に元包を生む。1649年(慶安2)6月20日没。法名「地徳院殿生和順長」。墓石は1655年(明暦元)6月20日息子元包の建立による。
毛利元包妻の墓碑
毛利元包妻
生 不明
没 明暦3年 (1657年)
福原元俊の娘。毛利元包の継室。1657年(明暦3)8月6日没。法名「妙壽院殿松月周永禅定尼」。
榊原政敦妻の墓碑
榊原政敦妻
生 宝暦9年 (1759年)
没 文政7年 (1824年)
1759年(宝暦9)生まれ。三宅氏。象の方。名は喜佐。榊原政敦の妻となり、政令、政由の2男を儲ける。1824年(文政7)11月18日没。66才。法名「智静院殿皓月妙耀日見大姉」。墓石正面「智静院殿髪歯墓」側面「榊原遠江守政令為實母菩提也」とある。
榊原政房妻の墓碑
榊原政房妻
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
池尻大納言共孝の娘。榊原政房に嫁ぎ、政倫を儲ける。1672年(寛文12)8月14日没。法名「春光院殿皓譽苓月松永大姉」。墓石は息子熊之助政倫の建立による。
榊原忠次妻の墓碑
榊原忠次妻
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
寺沢広高の娘。榊原忠次に嫁ぎ、松平小平太、女子の1男1女を儲ける。法名「長昌院殿華〇眞譽専栄大信女」。1643年(寛永20)9月7日が刻まれているも没年月日かは不明。
榊原康政妻の墓碑
榊原康政妻
生 不明
没 承応2年 (1653年)
花房氏。榊原康政に嫁ぎ、康勝を儲ける。1653年(承応2)4月13日没。法名「周光院殿葉誉青荷大禅定尼」。墓石は息子康勝の養子忠次の建立による。
榊原康政の墓碑
榊原康政
生 天文17年 (1548年)
没 慶長11年 (1606年)
1548年(天文17)長政の次男として生まれる。1560年(永禄3)徳川家康の家臣となる。三河一向一揆の上野の合戦で初陣。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)5月14日没。59才。法名「羪林院殿上誉見向大禅定門」。
松平近陳の墓碑
松平近陳
生 寛永15年 (1638年)
没 享保4年 (1719年)
豊後府内藩2代藩主。1638年(寛永15)3月忠昭の長男として生まれる。1646年(正保3)12月将軍徳川家光に拝謁。1676年(延宝4)3月父の隠居により跡を継ぐ。1705年(宝永2)11月に隠居。1719年(享保4)12月10日没。82才。法名「證眞院殿頓譽圓意如元大居士」。
松平近貞の墓碑
松平近貞
生 元禄2年 (1689年)
没 宝暦7年 (1757年)
豊後府内藩4代藩主。1689年(元禄2)1月三宅康雄の3男として生まれる。1705年(宝永2)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1712年(正徳2)1月松平近禎の婿養子となり1725年(享保10)近禎の死により跡を継ぐ。1745年(延享2)9月に隠居。1757年(宝暦7)5月13日没。69才。法名「雲晴院殿現譽徳翁智山大居士」。
松平近訓の墓碑
松平近訓
生 寛政11年 (1799年)
没 嘉永5年 (1852年)
豊後府内藩8代藩主。1799年(寛政11)3月近儔の次男として生まれる。1807年(文化4)叔父で藩主近義の死去により家督を継ぐ。藩政改革において、父と対立。1831年(天保2)2月隠居させられる。1852年(嘉永5)3月20日没。54才。法名「大鏡院殿寂譽智徳閑山大居士」。
松平近義の墓碑
松平近義
生 明和7年 (1770年)
没 文化4年 (1807年)
豊後府内藩7代藩主。1770年(明和7)4月近形の3男として生まれる。1804年(文化元)12月兄近儔の隠居により跡を継ぐ。1807年(文化4)8月27日参勤交代の道中、駿河国岡部にて没。38才。法名「淨岳院殿暁譽翻然清遊大居士」。
松平近禎の墓碑
松平近禎
生 寛文5年 (1665年)
没 享保10年 (1725年)
豊後府内藩3代藩主。1665年(寛文5)7月近陳の次男として生まれる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1705年(宝永2)11月父の隠居により家督を継ぐ。1725年(享保10)8月24日没。61才。法名「大智院殿雲譽徳水林眞大居士」。
松平近形の墓碑
松平近形
生 享保8年 (1723年)
没 安永2年 (1773年)
豊後府内藩5代藩主。1723年(享保8)9月近貞の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)9月父の隠居により跡を継ぐ。1762年(宝暦11)3月銭瓶石騒動という境界線争いが起こり、幕府より逼塞処分となる。1773年(安永2)6月10日没。51才。法名「觀光院殿照譽無涯壽玄大居士」。
松平近儔の墓碑
松平近儔
生 宝暦4年 (1754年)
没 天保11年 (1840年)
豊後府内藩6代藩主。1754年(宝暦4)3月近形の長男として生まれる。1770年(明和7)7月父の隠居により跡を継ぐ。1804年(文化元)12月弟の近義に家督を譲り隠居。隠居後も9代藩主のときまで実権を握り、1840年(天保11)2月16日没。87才。法名「光澤院殿馨譽華月不騫大居士」。
松平近信の墓碑
松平近信
生 文化元年 (1804年)
没 天保12年 (1841年)
豊後府内藩9代藩主。1804年(文化元)10月前田利幹の次男として生まれる。松平近訓の養子となり、養父の隠居により1831年(天保2)2月跡を継ぐ。1841年(天保12)3月28日没。38才。法名「寂靜院殿心譽所著超勝大居士」。
松平成重妻の墓碑
松平成重妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
松平康元の娘。椿姫。徳川家康の養女として田中忠政に嫁ぐ。忠政が1620年(元和6)に没すると、松平成重に嫁ぐ。1629年(寛永6)11月26日没。法名「久松院殿椿岳宗壽大姉」。没日は、11月11日(大分県郷土史料集成)、11月21日(柳営婦女伝叢)、11月1日(金鯱叢書)、10月21日(細江町史)とあるも墓石の11月26日とした。
松平成重の墓碑
松平成重
生 文禄3年 (1594年)
没 寛永10年 (1633年)
1594年(文禄3)一生の子として生まれる。1608年(慶長13)3月徳川家康に拝謁。大坂冬の陣のときは小田原城二の丸を守備。大坂夏の陣には参戦して手柄をたてる。1633年(寛永10)9月16日没。40才。法名「見樹院殿覚譽圓徹大禅定門」。