水野元知の墓碑
水野元知
生 正保元年 (1644年)
没 延宝8年 (1680年)
上野安中藩2代藩主。1644年(正保元)元綱の次男として生まれる。1664年(寛文4)10月父の隠居により跡を継ぐ。1667年(寛文7)5月発狂して妻を斬りつけたために改易となる。1680年(延宝8)9月没。37才。法名「大遍院殿碧雲冲虚大居士」。
森川重俊の墓碑
森川重俊
生 天正12年 (1584年)
没 寛永9年 (1632年)
下総生実藩初代藩主。1584年(天正12)氏俊の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに従う。大久保忠隣の改易に連座して改易となるも、大坂の陣で活躍して復帰。1631年(寛永8)には老中となる。1632年(寛永9)1月24日に秀忠が亡くなると翌日25日に殉死。49才。法名「重俊院殿活國正英居士」。
本多純政の墓碑
本多純政
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
有馬直純の次男。1641年(寛永18)父より日向本庄にて采地を分け与えられる。同年8月将軍徳川家光に拝謁。1644年(正保元)病により領地を返上して京都に隠棲。1655年(明暦元)12月27日没。法名「崇福院殿僧譽還愚居士」。
有馬直純妻の墓碑
有馬直純妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶安2年 (1649年)
1595年(文禄4)本多忠政の娘として生まれる。母は松平信康の娘。名は国姫。曽祖父徳川家康の養女として堀忠俊に嫁ぐ。忠俊が改易後には、有馬直純に嫁ぐ。直純の間に、康純、本多政勝室、本多政勝養妹、秋元富朝室、純政の2男3女を儲ける。1649年(慶安2)2月29日没。55才。法名「榮壽院殿長譽秋岳大信尼」。
有馬康純妻の墓碑
有馬康純妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
阿部正澄の娘。阿部忠秋の養女として有馬康純に嫁ぐ。康純との間に、清純を儲ける。1645年(正保2)10月28日没。法名「妙禅院殿覚園日巖信女」。墓石は康純の建立による。
戸川安宣妻の墓碑
戸川安宣妻
生 承応2年 (1653年)
没 寛文6年 (1666年)
1653年(承応2)有馬康純の4女として生まれる。戸川安宣に嫁ぐ。1666年(寛文6)9月1日没。14才。法名「寶林院殿玉朗妙榮大姉」。墓石施主は父康純。
徳川頼宣の墓碑
徳川頼宣
生 慶長7年 (1602年)
没 寛文11年 (1671年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1602年(慶長7)3月家康の10男として生まれる。1603年(慶長8)常陸水戸にて20万石を与えられるが2才のため駿府の家康のもとで過ごす。1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。1619年(元和5)紀伊和歌山藩主となる。1671年(寛文11)1月10日没。70才。法名「南龍院殿顗永天晃大居士」。
小笠原長章妻の墓碑
小笠原長章妻
生 不明
没 寛文3年 (1663年)
水野忠職の次女。小笠原長章に嫁ぐ。1663年(寛文3)7月17日没。法名「陽玄院殿松譽華貞單信大姉」。
多田満仲の墓碑
多田満仲
生 不明
没 長徳3年 (997年)
源経基の長男として生まれる。969年(安和2)の安和の変では源高明の謀反を密告。藤原兼家のもと鎮守府将軍にまで出世。987年(永延元)出家。997年(長徳3)8月27日没。法名「覚信」。墓石には「右大臣源朝臣 仲光敬白 満仲法名覚信 天禄元年八月廿七日」とあることから、後裔の源仲光の建立であることがわかる。
北条氏貞の墓碑
北条氏貞
生 元禄16年 (1703年)
没 宝暦8年 (1758年)
河内狭山藩6代藩主。1703年(元禄16)氏朝の長男として生まれる。1714年(正徳4)8月将軍徳川家継に拝謁。1735年(享保20)父の死後家督を継ぐ。1758年(宝暦8)4月27日没。56才。法名「廣覚院殿信叟義堅大居士」。
北条氏直の墓碑
北条氏直
生 永禄5年 (1562年)
没 天正19年 (1591年)
1562年(永禄5)氏政の子として生まれる。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)氏政の隠居とともに家督を継ぐ。1582年(天正10)神流川の戦いで滝川一益を破り、甲斐国に進出。同地で徳川家康と長期間の合戦となるも和睦となり、家康の娘督姫が氏直に嫁ぐ。1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原合戦により敗北。氏直は家康の婿ということで命は助けられ高野山に入り謹慎。1591年(天正19)には赦免されるも同年11月4日没。30才。法名「松巌院殿大圓徹公大居士」。
北条氏朝の墓碑
北条氏朝
生 寛文9年 (1669年)
没 享保20年 (1735年)
河内狭山藩5代藩主。1669年(寛文9)氏利の5男として生まれる。1683年(天和3)3月北条氏治の養子となる。同年閏5月将軍徳川綱吉に拝謁。氏治の死により1696年(元禄9)7月跡を継ぐ。1735年(享保20)9月9日没。67才。法名「圓成院殿即証元領大居士」。
北条氏昉の墓碑
北条氏昉
生 宝暦10年 (1760年)
没 文化8年 (1811年)
河内狭山藩8代藩主。1760年(宝暦10)氏彦の長男として生まれる。1769年(明和6)父の死により家督を継ぐ。百姓一揆や天明の大飢饉で財政は悪化。1811年(文化8)1月16日没。52才。法名「願真院殿養叟宗安大居士」。
北条氏政の墓碑
北条氏政
生 天文7年 (1538年)
没 天正18年 (1590年)
1538年(天文7)氏康の次男として生まれる。小田原北条氏第4代目当主。妻は武田信玄の娘黄梅院。豊臣秀吉の上洛命令を無視したため、合戦となるも圧倒的な大軍の前に屈する。降伏後1590年(天正18)7月11日弟氏照と共に切腹。53才。法名「慈雲院殿勝岩傑公大居士」。
北条氏彦の墓碑
北条氏彦
生 寛保2年 (1742年)
没 明和6年 (1769年)
河内狭山藩7代藩主。1742年(寛保2)氏貞の長男として生まれる。父の死により1758年(宝暦8)6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家重に拝謁。1769年(明和6)4月27日没。28才。法名「琰光院殿鐡叟紹心大居士」。
北条氏喬の墓碑
北条氏喬
生 天明5年 (1785年)
没 弘化3年 (1846年)
河内狭山藩9代藩主。1785年(天明5)氏昉の長男として生まれる。1801年(享和元)10月父の隠居により家督を継ぐ。1837年(天保8)2月大塩平八郎の乱のときは大坂城の警備を務める。1846年(弘化3)7月8日没。62才。法名「敬雲院殿恭厳義良大居士」。
北条氏久の墓碑
北条氏久
生 文化13年 (1816年)
没 嘉永5年 (1852年)
河内狭山藩10代藩主。1816年(文化13)戸田氏庸の4男として生まれる。1840年(天保11)北条氏喬の婿養子となり、1842年(天保13)氏喬の隠居により家督を継ぐ。1852年(嘉永5)3月養子の氏燕に家督を譲り隠居。同年5月10日没。37才。法名「顕光院殿仁峯義賢大居士」。
行基の墓碑
行基
生 元号なし (668年)
没 天平21年 (749年)
668年(天智天皇7)高志才智の子として生まれる。 682年(天武天皇11)15才で出家。飛鳥寺、薬師寺に入って法相宗を学ぶ。母の死後、諸国を行脚して布教。717年(養老元)僧尼令に違反したとされ弾圧を受ける。のちに弾圧は緩まり、740年(天平12)聖武天皇の依頼により東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力。745年(天平17)に朝廷より「大僧正」の位を受ける。749年(天平21)2月2日没。82才。
聖武天皇の墓碑
聖武天皇
生 大宝元年 (701年)
没 天平勝宝8年 (756年)
第45代天皇。701年(大宝元)8月文武天皇の第一皇子として生まれる。724年(神亀元)2月即位する。729年(神亀6)2月長屋王の変で反対勢力を鎮圧。743年(天平15)5月墾田永年私財法を制定。749年(天平勝宝元)7月娘(孝謙天皇)に譲位。756年(天平勝宝8)5月2日崩御。56才。
米津政武の墓碑
米津政武
生 寛永15年 (1638年)
没 宝永5年 (1708年)
 1638年(寛永15)田盛の長男として生まれる。1644年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1684年(貞享元)3月跡を継ぐ。1698年(元禄11)11月隠居。1708年(宝永5)6月26日没。71才。法名「雲行院殿潤譽雨施澤翁大居士」。
米倉昌純の墓碑
米倉昌純
生 慶長19年 (1614年)
没 宝永4年 (1707年)
 1614年(慶長19)永時の3男として生まれる。政継とも。1628年(寛永5)父の遺領200石余を継ぎ、大番となる。1633年(寛永10)と1651年(慶安4)に各200石、計400石を加増される。組頭、小普請を務め、1684年(貞享元)7月隠居。1707年(宝永4)8月23日没。94才。法名「天真院殿〇性宗源居士」。妻と思われる法名もある。
米倉昌尹の墓碑
米倉昌尹
生 寛永14年 (1637年)
没 元禄12年 (1699年)
下野皆川藩初代藩主。1637年(寛永14)昌純の長男として生まれる。1645年(正保2)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1684年(貞享元)7月跡を継ぐ。600余石だったが加増を重ね、1696年(元禄9)3月若年寄となり1万石の大名となる。1699年(元禄12)1月にさらに5千石の加増を受ける。同年7月12日没。63才。法名「蔵林寺殿徳石道明大居士」。
秋月種春の墓碑
秋月種春
生 慶長15年 (1610年)
没 万治2年 (1659年)
日向高鍋藩2代藩主。1610年(慶長15)5月種貞の長男として生まれる。1613年(慶長18)3才のとき徳川家康に拝謁。1614年(慶長19)母方の祖父種長の死により跡を継ぐ。幼く家督を継いだため、家老たちの専横(上方下方騒動)が長く続く。1659年(万治2)10月15日没。50才。法名「大洋院殿古巌宗帆大居士」。墓石は1670年(万治3)8月21日息子種信の建立による。
秋月種信娘の墓碑
秋月種信娘
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
秋月種信の娘。寛政諸では本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親を儲けるとある。墓石には1679年(延宝7)4月19日逝去、法名「智休院殿和䆫清心大姉」、為本堂源三郎悲母建立とある。寛政諸の源七郎伊親は1689年(元禄2)前後の生まれで墓石にある1679年(延宝7)の種信娘の没年と合わず。本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親ではなく源三郎(詳細不明)を生んだと思われる。
秋月種信妻の墓碑
秋月種信妻
生 不明
没 宝永2年 (1705年)
松浦隆信の娘。秋月種信に嫁ぎ、女子、本堂玄親妻、花房正矩妻、種恒、大森頼隆妻、種政、安部信峯妻、種封、種利、松浦鎮信養女、佐久間勝茲の5男6女を儲ける。1705年(宝永2)9月2日没。法名「長徳院殿松譽貞心榮壽大姉」。墓石は息子種政の建立による。
秋月種信の墓碑
秋月種信
生 寛永8年 (1631年)
没 元禄12年 (1699年)
日向高鍋藩3代藩主。1631年(寛永8)12月種春の長男として生まれる。1646(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の死により跡を継ぐ。家臣たちの綱紀粛正を行い上方下方騒動と呼ばれる騒動を終わらせる。1699年(元禄12)7月27日没。69才。法名「天澤院殿龍嶽宗雲大居士」。
石川義孝の墓碑
石川義孝
生 万治2年 (1659年)
没 宝永7年 (1710年)
山城淀藩2代藩主。 1659年(万治2)7月憲之の次男として生まれる。1674年(延宝2)将軍徳川家綱に拝謁。1706年(宝永3)2月の隠居により家督を継ぐ。1710年(宝永7)9月2日没。52才。法名「義孝院殿日意」。
真田信安妻の墓碑
真田信安妻
生 享保9年 (1724年)
没 延享5年 (1748年)
1724年(享保9)4月13日前田利章の次女として生まれる。真田信安に嫁ぎ、建部政賢妻、松平忠恕妻の2女を儲ける。1748年(延享5)6月5日没。25才。法名「匡章院殿端心怡嚴大姉」。
水野忠直妻の墓碑
水野忠直妻
生 承応2年 (1653年)
没 貞享2年 (1685年)
1653年(承応2)鍋島光茂の娘として生まれる。母は上杉定勝の娘。名は岩姫。水野忠直に嫁ぎ、忠周、忠富、石川勝之妻の2男1女を儲ける。1685年(貞享2)4月19日没。33才。法名「柔軟院殿安譽光澤清心大姉」。
水野忠直の墓碑
水野忠直
生 慶安5年 (1652年)
没 正徳3年 (1713年)
信濃松本藩3代藩主。 1652年(慶安5)9月忠職の次男として生まれる。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。隣国より年貢が重く、1686年(貞享3)に貞享騒動という百姓一揆が起きている。1713年(正徳3)5月28日没。62才。法名「賢徳院大譽直生全提大居士」。
水野忠周の墓碑
水野忠周
生 寛文13年 (1673年)
没 享保3年 (1718年)
 信濃松本藩4代藩主。1673年(寛文13)1月忠直の長男として生まれる。徳川綱吉の小姓となり、1713年(正徳3)父の死後家督を継ぐ。1718年(享保3)10月28日没。46才。法名「智徳院殿本蓮社清譽浄祐光阿大居士」。墓石は息子忠幹(忠茂)の建立による。
松平重忠妻の墓碑
松平重忠妻
生 不明
没 寛永12年 (1635年)
戸田忠次の娘。松平重忠に嫁ぎ、屋代忠正妻、松平重直妻の2女を儲ける。1635年(寛永12)8月29日没。法名「長昌院殿清誉法春大信女」。墓石には子息松平丹後守重直敬白とあるが、重直は娘婿にあたる。
松平重忠の墓碑
松平重忠
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永3年 (1626年)
重勝の長男。1570年(元亀元)三河にて生まれる。徳川家に仕え、1612年(慶長17)父の跡を引継ぎ大番。1614年(慶長19)大坂冬の陣に従い、翌年の大坂夏の陣のときは伏見城を守った。1621年(元和7)父の遺領を継ぎ駿府城代を務める。同年出羽国上山に移り4万石を領した。1626年(寛永3)7月11日没。57才。法名「桐林院殿英誉長安大居士」。
戸田清堅の墓碑
戸田清堅
生 不明
没 承応3年 (1654年)
三九郎清光の子。三河渥美生まれ。父が1575年(天正3)8月に諏訪原にて討死したときは、まだ生まれてなくお腹の中にいた。幼くして体が弱かったため、家を継がず。徳川家康に仕え、関ヶ原にも従った。戦後、先祖の地である三河の大津の地を賜る。その後、徳川頼宣の家臣となる。1654年(承応3)5月5日没。法名「雄山全威居士」。
弘法大師の墓碑
弘法大師
生 宝亀5年 (774年)
没 承和2年 (835年)
774年(宝亀5)佐伯田公の子として讃岐国で生まれる。真言宗の開祖。空海。国内で仏教を修行。803年(延暦23)最澄らとともに唐に渡る。806年(大同元)帰国。816年(弘仁7)6月嵯峨天皇から高野山が下賜され、真言宗の修禅の道場として開く。835年(承和2)3月21日入定。62才。高野山では弘法大師はまだ生きているとされているため、没年月日を入定日としている。
奥平昌能の墓碑
奥平昌能
生 寛永10年 (1633年)
没 寛文12年 (1672年)
出羽山形藩初代藩主。1633年(寛永10)7月忠昌の長男として生まれる。1648年(正保4)徳川家綱の傅役となる。1668年(寛文8)家臣の対立による宇都宮興禅寺刃傷事件や家臣の殉死が起き、宇都宮から山形へ減封となる。1672年(寛文12)7月2日没。40才。法名「徳雲院殿奇峰道也大居士」。
奥平忠昌の墓碑
奥平忠昌
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文8年 (1668年)
1608年(慶長13)家昌の長男として生まれる。1614年(慶長19)10月に父が亡くなると11月に跡を継ぎ、徳川秀忠から1字を賜わり忠昌と名乗る。1616年(元和2)3月病床の曾祖父徳川家康を見舞う。1668年(寛文8)2月19日没。61才。法名「玄光院殿海印道湛大居士」。
土屋陳直の墓碑
土屋陳直
生 元禄8年 (1695年)
没 享保19年 (1734年)
常陸土浦藩3代藩主。1695年(元禄8)12月政直の4男として生まれる。1719年(享保4)5月父の隠居に伴い家督を継ぐ。大手御門番、奏者番、西の丸大手御門番などを務める。 1734年(享保19)1月16日没。40才。法名「霊鷲院殿顕応瑞英大居士」。
土屋邦直の墓碑
土屋邦直
生 不明
没 文久3年 (1863年)
知直の子。佐渡守。幕臣。1854年(嘉永7)御小姓組の番頭。1863年(文久3)8月9日没。法名「靈松院殿鐡操凌雲大居士」。墓石は息子豪直の建立による。
土屋英直の墓碑
土屋英直
生 明和6年 (1769年)
没 享和3年 (1803年)
常陸土浦藩7代藩主。1769年(明和6)11月篤直の3男として生まれる。1790年(寛政2)兄泰直の死去に伴い家督を継ぐ。1799年(寛政11)に土浦城内に藩校を設立。1803年(享和3)8月12日没。35才。法名「英哲院殿勛山義功大居士」。
土屋篤直の墓碑
土屋篤直
生 享保17年 (1732年)
没 安永5年 (1776年)
常陸土浦藩4代藩主。1732年(享保17)6月陳直の次男として生まれる。1734年(享保19)父の死により家督を継ぐも幼いため一族土屋亮直の補佐を受ける。奏者番、寺社奉行などを務める。1776年(安永5)5月20日没。45才。法名「本覺院殿厳性遵義大居士」。
土屋直樹妻の墓碑
土屋直樹妻
生 不明
没 貞享3年 (1686年)
寛政重修諸家譜では某氏とある。土屋直樹の妻で逵直を儲ける。1686年(貞享3)11月16日没。法名「清凉院殿○○妙春大姉」。墓石に「江戸土屋主税逵直公為御母儀造立之」とある。
土屋直樹の墓碑
土屋直樹
生 寛永11年 (1634年)
没 延宝9年 (1681年)
上総久留里藩3代藩主。1634年(寛永11)利直の長男として生まれる。1675年(延宝3)に父により家督を継ぐ。1679年(延宝7)8月狂気を理由に改易。晩年は遠江国に領地を与えられた長男逵直のもとで過ごす。1681年(延宝9)6月30日没。48才。法名「定林院殿本岩宗徹居士」。
土屋泰直の墓碑
土屋泰直
生 明和5年 (1768年)
没 寛政2年 (1790年)
常陸土浦藩6代藩主。1768年(明和5)3月篤直の次男として生まれる。1777年(安永6)兄で5代藩主寿直が死去したため跡を継ぐ。1783年(天明3)将軍徳川家治に拝謁。1790年(寛政2)5月12日没。23才。法名「純徳院殿善應義信大居士」。
土屋昭直の墓碑
土屋昭直
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄3年 (1690年)
1667年(寛文7)政直の次男として生まれる。1677年(延宝5)将軍徳川家綱に拝謁。1690年(元禄3)10月29日家督を継ぐことなく没した。24才。法名「崇峯院殿中岩玄庸居士」。
土屋数直妻の墓碑
土屋数直妻
生 不明
没 貞享3年 (1686年)
水野忠貞の娘。土屋数直に嫁ぎ、政直、雅直を生む。1686年(貞享3)2月2日没。法名「雲松院殿法性慈宣尼大姉」。
土屋数直の墓碑
土屋数直
生 慶長13年 (1608年)
没 延宝7年 (1679年)
常陸土浦藩初代藩主。1608年(慶長13)忠直の次男として生まれる。徳川家光の近習として仕える。その後、徳川家綱の御側衆となり出世、4万5千石の大名となる。幕府では老中を務める。1679年(延宝7)4月2日没。72才。法名「融相院殿寛翁道智大居士」。
土屋政直の墓碑
土屋政直
生 寛永18年 (1641年)
没 享保7年 (1722年)
常陸土浦藩2代藩主。 1641年(寛永18)2月数直の長男として生まれる。父の死後、土浦藩を継ぐが駿河田中藩に移封。その後土浦藩に復帰。大坂城代、京都所司代、老中を務め加増を続ける。 徳川4代将軍家綱から8代将軍吉宗まで使える。1722年(享保7)11月16日没。82才。法名「徳相院殿俊翁道耆大居士」。
土屋忠直妻の墓碑
土屋忠直妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
森川氏俊の娘。土屋忠直に嫁ぎ、利直、数直、之直の3男を儲ける。1665年(寛文5)11月26日没。法名「正覚院殿天室壽青大姉」。
土屋彦直の墓碑
土屋彦直
生 寛政10年 (1798年)
没 弘化4年 (1847年)
常陸土浦藩9代藩主。1798年(寛政10)5月徳川治保の3男として生まれる。土屋寛直の養女(妹)を娶り家督を継ぐ。藩主となってからは天災などで財政が圧迫。1838年(天保9)12月眼病により家督を長男寅彦に譲る。1847年(弘化4)7月23日没。50才。法名「賢相院殿道譽拾山松翁大居士」。