北条氏久の墓碑
北条氏久
生 文化13年 (1816年)
没 嘉永5年 (1852年)
河内狭山藩10代藩主。1816年(文化13)戸田氏庸の4男として生まれる。1840年(天保11)北条氏喬の婿養子となり、1842年(天保13)氏喬の隠居により家督を継ぐ。1852年(嘉永5)3月養子の氏燕に家督を譲り隠居。同年5月10日没。37才。法名「顕光院殿仁峯義賢大居士」。
行基の墓碑
行基
生 元号なし (668年)
没 天平21年 (749年)
668年(天智天皇7)高志才智の子として生まれる。 682年(天武天皇11)15才で出家。飛鳥寺、薬師寺に入って法相宗を学ぶ。母の死後、諸国を行脚して布教。717年(養老元)僧尼令に違反したとされ弾圧を受ける。のちに弾圧は緩まり、740年(天平12)聖武天皇の依頼により東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力。745年(天平17)に朝廷より「大僧正」の位を受ける。749年(天平21)2月2日没。82才。
聖武天皇の墓碑
聖武天皇
生 大宝元年 (701年)
没 天平勝宝8年 (756年)
第45代天皇。701年(大宝元)8月文武天皇の第一皇子として生まれる。724年(神亀元)2月即位する。729年(神亀6)2月長屋王の変で反対勢力を鎮圧。743年(天平15)5月墾田永年私財法を制定。749年(天平勝宝元)7月娘(孝謙天皇)に譲位。756年(天平勝宝8)5月2日崩御。56才。
米津政武の墓碑
米津政武
生 寛永15年 (1638年)
没 宝永5年 (1708年)
 1638年(寛永15)田盛の長男として生まれる。1644年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1684年(貞享元)3月跡を継ぐ。1698年(元禄11)11月隠居。1708年(宝永5)6月26日没。71才。法名「雲行院殿潤譽雨施澤翁大居士」。
米倉昌純の墓碑
米倉昌純
生 慶長19年 (1614年)
没 宝永4年 (1707年)
 1614年(慶長19)永時の3男として生まれる。政継とも。1628年(寛永5)父の遺領200石余を継ぎ、大番となる。1633年(寛永10)と1651年(慶安4)に各200石、計400石を加増される。組頭、小普請を務め、1684年(貞享元)7月隠居。1707年(宝永4)8月23日没。94才。法名「天真院殿〇性宗源居士」。妻と思われる法名もある。
米倉昌尹の墓碑
米倉昌尹
生 寛永14年 (1637年)
没 元禄12年 (1699年)
下野皆川藩初代藩主。1637年(寛永14)昌純の長男として生まれる。1645年(正保2)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1684年(貞享元)7月跡を継ぐ。600余石だったが加増を重ね、1696年(元禄9)3月若年寄となり1万石の大名となる。1699年(元禄12)1月にさらに5千石の加増を受ける。同年7月12日没。63才。法名「蔵林寺殿徳石道明大居士」。
秋月種春の墓碑
秋月種春
生 慶長15年 (1610年)
没 万治2年 (1659年)
日向高鍋藩2代藩主。1610年(慶長15)5月種貞の長男として生まれる。1613年(慶長18)3才のとき徳川家康に拝謁。1614年(慶長19)母方の祖父種長の死により跡を継ぐ。幼く家督を継いだため、家老たちの専横(上方下方騒動)が長く続く。1659年(万治2)10月15日没。50才。法名「大洋院殿古巌宗帆大居士」。墓石は1670年(万治3)8月21日息子種信の建立による。
秋月種信娘の墓碑
秋月種信娘
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
秋月種信の娘。寛政諸では本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親を儲けるとある。墓石には1679年(延宝7)4月19日逝去、法名「智休院殿和䆫清心大姉」、為本堂源三郎悲母建立とある。寛政諸の源七郎伊親は1689年(元禄2)前後の生まれで墓石にある1679年(延宝7)の種信娘の没年と合わず。本堂玄親に嫁ぎ、源七郎伊親ではなく源三郎(詳細不明)を生んだと思われる。
秋月種信妻の墓碑
秋月種信妻
生 不明
没 宝永2年 (1705年)
松浦隆信の娘。秋月種信に嫁ぎ、女子、本堂玄親妻、花房正矩妻、種恒、大森頼隆妻、種政、安部信峯妻、種封、種利、松浦鎮信養女、佐久間勝茲の5男6女を儲ける。1705年(宝永2)9月2日没。法名「長徳院殿松譽貞心榮壽大姉」。墓石は息子種政の建立による。
秋月種信の墓碑
秋月種信
生 寛永8年 (1631年)
没 元禄12年 (1699年)
日向高鍋藩3代藩主。1631年(寛永8)12月種春の長男として生まれる。1646(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の死により跡を継ぐ。家臣たちの綱紀粛正を行い上方下方騒動と呼ばれる騒動を終わらせる。1699年(元禄12)7月27日没。69才。法名「天澤院殿龍嶽宗雲大居士」。
石川義孝の墓碑
石川義孝
生 万治2年 (1659年)
没 宝永7年 (1710年)
山城淀藩2代藩主。 1659年(万治2)7月憲之の次男として生まれる。1674年(延宝2)将軍徳川家綱に拝謁。1706年(宝永3)2月の隠居により家督を継ぐ。1710年(宝永7)9月2日没。52才。法名「義孝院殿日意」。
真田信安妻の墓碑
真田信安妻
生 享保9年 (1724年)
没 延享5年 (1748年)
1724年(享保9)4月13日前田利章の次女として生まれる。真田信安に嫁ぎ、建部政賢妻、松平忠恕妻の2女を儲ける。1748年(延享5)6月5日没。25才。法名「匡章院殿端心怡嚴大姉」。
水野忠直妻の墓碑
水野忠直妻
生 承応2年 (1653年)
没 貞享2年 (1685年)
1653年(承応2)鍋島光茂の娘として生まれる。母は上杉定勝の娘。名は岩姫。水野忠直に嫁ぎ、忠周、忠富、石川勝之妻の2男1女を儲ける。1685年(貞享2)4月19日没。33才。法名「柔軟院殿安譽光澤清心大姉」。
水野忠直の墓碑
水野忠直
生 慶安5年 (1652年)
没 正徳3年 (1713年)
信濃松本藩3代藩主。 1652年(慶安5)9月忠職の次男として生まれる。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。隣国より年貢が重く、1686年(貞享3)に貞享騒動という百姓一揆が起きている。1713年(正徳3)5月28日没。62才。法名「賢徳院大譽直生全提大居士」。
水野忠周の墓碑
水野忠周
生 寛文13年 (1673年)
没 享保3年 (1718年)
 信濃松本藩4代藩主。1673年(寛文13)1月忠直の長男として生まれる。徳川綱吉の小姓となり、1713年(正徳3)父の死後家督を継ぐ。1718年(享保3)10月28日没。46才。法名「智徳院殿本蓮社清譽浄祐光阿大居士」。墓石は息子忠幹(忠茂)の建立による。
松平重忠妻の墓碑
松平重忠妻
生 不明
没 寛永12年 (1635年)
戸田忠次の娘。松平重忠に嫁ぎ、屋代忠正妻、松平重直妻の2女を儲ける。1635年(寛永12)8月29日没。法名「長昌院殿清誉法春大信女」。墓石には子息松平丹後守重直敬白とあるが、重直は娘婿にあたる。
松平重忠の墓碑
松平重忠
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永3年 (1626年)
重勝の長男。1570年(元亀元)三河にて生まれる。徳川家に仕え、1612年(慶長17)父の跡を引継ぎ大番。1614年(慶長19)大坂冬の陣に従い、翌年の大坂夏の陣のときは伏見城を守った。1621年(元和7)父の遺領を継ぎ駿府城代を務める。同年出羽国上山に移り4万石を領した。1626年(寛永3)7月11日没。57才。法名「桐林院殿英誉長安大居士」。
戸田清堅の墓碑
戸田清堅
生 不明
没 承応3年 (1654年)
三九郎清光の子。三河渥美生まれ。父が1575年(天正3)8月に諏訪原にて討死したときは、まだ生まれてなくお腹の中にいた。幼くして体が弱かったため、家を継がず。徳川家康に仕え、関ヶ原にも従った。戦後、先祖の地である三河の大津の地を賜る。その後、徳川頼宣の家臣となる。1654年(承応3)5月5日没。法名「雄山全威居士」。
弘法大師の墓碑
弘法大師
生 宝亀5年 (774年)
没 承和2年 (835年)
774年(宝亀5)佐伯田公の子として讃岐国で生まれる。真言宗の開祖。空海。国内で仏教を修行。803年(延暦23)最澄らとともに唐に渡る。806年(大同元)帰国。816年(弘仁7)6月嵯峨天皇から高野山が下賜され、真言宗の修禅の道場として開く。835年(承和2)3月21日入定。62才。高野山では弘法大師はまだ生きているとされているため、没年月日を入定日としている。
奥平昌能の墓碑
奥平昌能
生 寛永10年 (1633年)
没 寛文12年 (1672年)
出羽山形藩初代藩主。1633年(寛永10)7月忠昌の長男として生まれる。1648年(正保4)徳川家綱の傅役となる。1668年(寛文8)家臣の対立による宇都宮興禅寺刃傷事件や家臣の殉死が起き、宇都宮から山形へ減封となる。1672年(寛文12)7月2日没。40才。法名「徳雲院殿奇峰道也大居士」。
奥平忠昌の墓碑
奥平忠昌
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文8年 (1668年)
1608年(慶長13)家昌の長男として生まれる。1614年(慶長19)10月に父が亡くなると11月に跡を継ぎ、徳川秀忠から1字を賜わり忠昌と名乗る。1616年(元和2)3月病床の曾祖父徳川家康を見舞う。1668年(寛文8)2月19日没。61才。法名「玄光院殿海印道湛大居士」。
土屋陳直の墓碑
土屋陳直
生 元禄8年 (1695年)
没 享保19年 (1734年)
常陸土浦藩3代藩主。1695年(元禄8)12月政直の4男として生まれる。1719年(享保4)5月父の隠居に伴い家督を継ぐ。大手御門番、奏者番、西の丸大手御門番などを務める。 1734年(享保19)1月16日没。40才。法名「霊鷲院殿顕応瑞英大居士」。
土屋邦直の墓碑
土屋邦直
生 不明
没 文久3年 (1863年)
知直の子。佐渡守。幕臣。1854年(嘉永7)御小姓組の番頭。1863年(文久3)8月9日没。法名「靈松院殿鐡操凌雲大居士」。墓石は息子豪直の建立による。
土屋英直の墓碑
土屋英直
生 明和6年 (1769年)
没 享和3年 (1803年)
常陸土浦藩7代藩主。1769年(明和6)11月篤直の3男として生まれる。1790年(寛政2)兄泰直の死去に伴い家督を継ぐ。1799年(寛政11)に土浦城内に藩校を設立。1803年(享和3)8月12日没。35才。法名「英哲院殿勛山義功大居士」。
土屋篤直の墓碑
土屋篤直
生 享保17年 (1732年)
没 安永5年 (1776年)
常陸土浦藩4代藩主。1732年(享保17)6月陳直の次男として生まれる。1734年(享保19)父の死により家督を継ぐも幼いため一族土屋亮直の補佐を受ける。奏者番、寺社奉行などを務める。1776年(安永5)5月20日没。45才。法名「本覺院殿厳性遵義大居士」。
土屋直樹妻の墓碑
土屋直樹妻
生 不明
没 貞享3年 (1686年)
寛政重修諸家譜では某氏とある。土屋直樹の妻で逵直を儲ける。1686年(貞享3)11月16日没。法名「清凉院殿○○妙春大姉」。墓石に「江戸土屋主税逵直公為御母儀造立之」とある。
土屋直樹の墓碑
土屋直樹
生 寛永11年 (1634年)
没 延宝9年 (1681年)
上総久留里藩3代藩主。1634年(寛永11)利直の長男として生まれる。1675年(延宝3)に父により家督を継ぐ。1679年(延宝7)8月狂気を理由に改易。晩年は遠江国に領地を与えられた長男逵直のもとで過ごす。1681年(延宝9)6月30日没。48才。法名「定林院殿本岩宗徹居士」。
土屋泰直の墓碑
土屋泰直
生 明和5年 (1768年)
没 寛政2年 (1790年)
常陸土浦藩6代藩主。1768年(明和5)3月篤直の次男として生まれる。1777年(安永6)兄で5代藩主寿直が死去したため跡を継ぐ。1783年(天明3)将軍徳川家治に拝謁。1790年(寛政2)5月12日没。23才。法名「純徳院殿善應義信大居士」。
土屋昭直の墓碑
土屋昭直
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄3年 (1690年)
1667年(寛文7)政直の次男として生まれる。1677年(延宝5)将軍徳川家綱に拝謁。1690年(元禄3)10月29日家督を継ぐことなく没した。24才。法名「崇峯院殿中岩玄庸居士」。
土屋数直妻の墓碑
土屋数直妻
生 不明
没 貞享3年 (1686年)
水野忠貞の娘。土屋数直に嫁ぎ、政直、雅直を生む。1686年(貞享3)2月2日没。法名「雲松院殿法性慈宣尼大姉」。
土屋数直の墓碑
土屋数直
生 慶長13年 (1608年)
没 延宝7年 (1679年)
常陸土浦藩初代藩主。1608年(慶長13)忠直の次男として生まれる。徳川家光の近習として仕える。その後、徳川家綱の御側衆となり出世、4万5千石の大名となる。幕府では老中を務める。1679年(延宝7)4月2日没。72才。法名「融相院殿寛翁道智大居士」。
土屋政直の墓碑
土屋政直
生 寛永18年 (1641年)
没 享保7年 (1722年)
常陸土浦藩2代藩主。 1641年(寛永18)2月数直の長男として生まれる。父の死後、土浦藩を継ぐが駿河田中藩に移封。その後土浦藩に復帰。大坂城代、京都所司代、老中を務め加増を続ける。 徳川4代将軍家綱から8代将軍吉宗まで使える。1722年(享保7)11月16日没。82才。法名「徳相院殿俊翁道耆大居士」。
土屋忠直妻の墓碑
土屋忠直妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
森川氏俊の娘。土屋忠直に嫁ぎ、利直、数直、之直の3男を儲ける。1665年(寛文5)11月26日没。法名「正覚院殿天室壽青大姉」。
土屋彦直の墓碑
土屋彦直
生 寛政10年 (1798年)
没 弘化4年 (1847年)
常陸土浦藩9代藩主。1798年(寛政10)5月徳川治保の3男として生まれる。土屋寛直の養女(妹)を娶り家督を継ぐ。藩主となってからは天災などで財政が圧迫。1838年(天保9)12月眼病により家督を長男寅彦に譲る。1847年(弘化4)7月23日没。50才。法名「賢相院殿道譽拾山松翁大居士」。
土屋寛直の墓碑
土屋寛直
生 寛政7年 (1795年)
没 文化7年 (1810年)
常陸土浦藩8代藩主。1795年(寛政7)9月英直の長男として生まれる。1803年(享和3)父の死により家督を継ぐ。1810年(文化7)10月15日没。16才。法名「祥善院殿徳倫元良大居士」。ただし、相続の関係から幕府には1811年(文化8)10月2日に没したと届けているため、墓石にはこちらの命日が刻まれている。
土屋定直の墓碑
土屋定直
生 元禄2年 (1689年)
没 宝永2年 (1705年)
1689年(元禄2)政直の3男として生まれる。1696年(元禄9)将軍徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)閏4月9日没。17才。法名「大慈院殿英叟義雄居士」。
土屋壽直の墓碑
土屋壽直
生 宝暦11年 (1761年)
没 安永6年 (1777年)
常陸土浦藩5代藩主。1761年(宝暦11)5月篤直の長男として生まれる。父の死により1776年(安永5)家督を継ぐも1777年(安永6)7月19日没。17才。法名「俊良院殿彰善惟顕大居士」。
土屋之直の墓碑
土屋之直
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝7年 (1679年)
1611年(慶長16)忠直の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え御手水番、御書院番などを務める。一時期閉門となるも1667年(寛文7)許され、御書院番、大番頭を務める。1679年(延宝7)8月14日没。69才。法名「恵明院殿月仙道秋居士」。
前田利治の墓碑
前田利治
生 元和4年 (1618年)
没 万治3年 (1660年)
加賀大聖寺藩初代藩主。1618年(元和4)利常の3男として生まれる。父の隠居の際に加賀江沼郡にて7万石を与えられ大聖寺藩主となる。九谷焼を藩内に推奨。1660年(万治3)4月21日没。43才。法名「實性院殿機雲宗用大居士」。墓石は弟で跡を継いだ利明の建立による。
京極忠高妻の墓碑
京極忠高妻
生 慶長7年 (1602年)
没 寛永7年 (1630年)
1602年(慶長7)7月徳川秀忠の4女として生まれる。家康の孫。母はお江。3代将軍家光の姉。名は初姫。1606年(慶長11)京極忠高に嫁ぐ。夫婦仲は悪く、2人の間に子供は出来ず。1630年(寛永7)3月4日没。29才。法名「興安院殿豊誉天清陽山大禅定尼」。初姫が亡くなったとき忠高は相撲見物をしていたため、幕府は京極家の葬儀の臨席を許可しなかった。
京極高直の墓碑
京極高直
生 寛永9年 (1632年)
没 寛文3年 (1663年)
丹後田辺藩2代藩主。 1632年(寛永9)11月高三の長男として生まれる。1636年(寛永13)父の死により跡を継ぐ。同じ一族の宮津藩京極高広と領土をめぐり争う。1663年(寛文3)1月7日没。32才。法名「法性院殿真郭道保大禅定門」。
京極高三の墓碑
京極高三
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永13年 (1636年)
丹後田辺藩初代藩主。1607年(慶長12)3月高知の3男として生まれる。1611年(慶長16)二条城で徳川家康と秀忠に拝謁。父の死後、遺領の一部を継いで田辺藩主となる。1636年(寛永13)9月13日没。30才。法名「惣泰院殿雲山道徹大禅定門」。
江崎利一の墓碑
江崎利一
生 明治15年 (1882年)
没 昭和55年 (1980年)
1882年(明治15)12月清七の子として佐賀県で生まれる。牡蠣エキスから抽出したグリコーゲンでの食品事業を拡大。栄養菓子グリコと両腕をあげてゴールインするパッケージデザインで有名な江崎グリコの創始者となる。1980年(昭和55)2月2日没。
大田原晴清妻の墓碑
大田原晴清妻
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
那須資貞の娘。大田原晴清に嫁ぎ、政清を生む。1639年(寛永16)5月16日没。法名「満鏡院殿輝〇清光大姉」。
大田原晴清の墓碑
大田原晴清
生 永禄10年 (1567年)
没 寛永8年 (1631年)
下野大田原藩初代藩主。1567年(永禄10)縄清の子として生まれる。1590年(天正18)小田原城合戦のときに、豊臣秀吉に駿河国沼津で謁見。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方する。1631年(寛永8)2月5日没。65才。法名「奪勝院殿印国永金大居士」。
覚信尼の墓碑
覚信尼
生 元仁元年 (1224年)
没 弘安6年 (1283年)
1224年(元仁元)親鸞の末娘として生まれる。久我通光に仕え、兵衛督局と称す。日野広綱に嫁いで覚恵、光玉尼を生む。広綱没後、小野宮禅念に嫁ぎ唯善を生む。1272年(文永9)父の墓所でもある大谷廟堂を建立。1283年(弘安6)11月24日に没したといわれる。
石川重利妻の墓碑
石川重利妻
生 不明
没 寛永9年 (1632年)
大文字屋宗味の娘。石川重利の妻となる。1632年(寛永9)1月5日没。法名「芳巖恵春禅定尼」。墓石は夫の三郎四郎重利の建立による。
石川重利の墓碑
石川重利
生 不明
没 寛永10年 (1633年)
貞清の4男。三郎四郎。武蔵品川に居住して、のち京都新町に移住。1633年(寛永10)1月17日没。法名「陰山祖光大禅定門」。
石川貞清の墓碑
石川貞清
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
光重の次男。光吉とも。豊臣秀吉に仕え尾張犬山城主。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは西軍に付いたため改易。京に隠棲して茶人として過ごす。1626年(寛永3)4月8日没。法名「雲岳宗林大居士」。墓石は1628年(寛永5)4月に宗玄、三郎四郎(重利)、八左衛門(宗甫)の3人の息子が施主となり建立。
熊谷直実の墓碑
熊谷直実
生 永治元年 (1141年)
没 建永2年 (1207年)
1141年(永治元)2月直貞の子として生まれる。1159年(平治元)平治の乱では源義平に従う。その後平知盛に仕えるも、源頼朝が挙兵すると御家人となる。一ノ谷の戦いでは源義経の鵯越に従う。この合戦では、16才の平敦盛を討取る。息子と同じ年くらいの敦盛を討取ったことで武士をやめ、敦盛を高野山で供養、その後出家して法然の弟子となる。法力房蓮生と称し墓石にも蓮生法師とある。1207年(建永2)9月4日没。67才。