石井善太夫 生 不明没 寛永3年 (1626年) 奥州南部氏の家臣。1626年(寛永3)南部利直が上洛したときに供奉。同年10月29日京都で没。法名「〇〇正善大禅定門」。墓石は1周忌に息子作十郎の建立による。
南部重直 生 慶長11年 (1606年)没 寛文4年 (1664年) 陸奥盛岡藩2代藩主。1606年(慶長11)3月利直の3男として生まれる。1632年(寛永9)父の死後跡を継ぐ。1636年(寛永13)参勤交代に遅れたため蟄居処分を受ける。1664年(寛文4)9月12日没。59才。法名「即性院殿三峯宗玄大居士」。
南部重信妻 生 不明没 寛文11年 (1671年) 玉山秀久の娘。南部重信に嫁ぎ、重信との間に、七戸定信、行信、池田綱清妻の2男1女を儲ける。1671年(寛文11)10月14日没。法名「大智院殿心月妙印大姉」。
南部行信妻 生 不明没 貞享元年 (1684年) 毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信 生 延宝4年 (1676年)没 元禄13年 (1700年) 1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院) 生 天正9年 (1581年)没 寛文3年 (1663年) 1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直 生 天正4年 (1576年)没 寛永9年 (1632年) 陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎) 生 享和3年 (1803年)没 文政4年 (1821年) 陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎) 生 文化4年 (1807年)没 文政4年 (1821年) 1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済 生 寛政9年 (1797年)没 文政8年 (1825年) 陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音 生 延宝8年 (1680年)没 宝暦元年 (1751年) 1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻 生 永禄10年 (1567年)没 正保2年 (1645年) 1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水 生 元亀元年 (1570年)没 寛永18年 (1641年) 信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠 生 天文5年 (1536年)没 慶長11年 (1606年) 1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻 生 不明没 天保13年 (1842年) 松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。
諏訪忠虎妻 生 万治2年 (1659年)没 元禄16年 (1703年) 1659年(万治2)松平昌勝の娘として生まれる。1687年(貞享4)4月諏訪忠虎に嫁ぎ、右京、盛太郎、忠尋、勝之丞、助蔵の5男を生む。1703年(元禄16)8月4日没。45才。法名「玄珠院殿勝光如璨大姉」。墓石は夫忠虎の建立による。
諏訪忠虎 生 寛文3年 (1663年)没 享保16年 (1731年) 信濃諏訪藩4代藩主。1663年(寛文3)3月忠晴の3男として生まれる。1695年(元禄8)父の死により跡を継ぐ。赤穂事件で討取られた吉良上野介の孫吉良義周の身柄を預かる。文化人で俳諧を宝井其角に学ぶ。1731年(享保16)7月2日没。69才。法名「洞虎院殿彰住闡幽大居士」。
諏訪忠粛妻 生 明和8年 (1771年)没 天保2年 (1831年) 1771年(明和8)松平乗完の娘として生まれる。1785年(天明5)4月諏訪忠粛の側室となり忠恕を生む。1831年(天保2)11月12日没。62才。法名「真操院殿成圓理貞大姉」。墓石は息子忠恕の建立による。
諏訪忠粛 生 宝暦13年 (1763年)没 文政5年 (1822年) 信濃諏訪藩7代藩主。1763年(宝暦13)忠厚の長男として生まれる。1782年(天明元)11月将軍徳川家治に拝謁。同年12月父の隠居により跡を継ぐ。1822年(文政5)6月27日没。60才。 法名「放光院殿普照道徳大居士」。
諏訪忠林妻 生 享保3年 (1718年)没 寛保3年 (1743年) 1718年(享保3)6月13日信濃諏訪藩4代藩主諏訪忠虎の娘として生まれる。1733年(享保18)11月分家の諏訪忠林に嫁ぐ。忠林との間に忠倫を儲ける。1743年(寛保3)11月7日没。26才。法名「雲臺院殿霊香慈薫大姉」。
諏訪忠林 生 元禄16年 (1703年)没 明和7年 (1770年) 信濃諏訪藩5代藩主。1703年(元禄16)頼篤の次男として生まれる。諏訪藩4代藩主忠虎の娘を娶り養子となり、忠虎死後に跡を継ぐ。詩人としての才能が高かったが、藩政改革がうまくいかずに逼迫。1770年(明和7)5月27日没。68才。法名「養賢院殿聖懿諦範大居士」。
諏訪忠晴妻 生 寛永18年 (1641年)没 正徳2年 (1712年) 1641年(寛永18)内藤美興の娘として生まれる。内藤忠興の養女として1658年(明暦4)4月諏訪忠晴の正室となる。忠晴との間に、千代熊、萬助、忠虎、女子、女子の3男2女を儲ける。1712年(正徳2)9月9日没。72才。法名「長春院殿空室韶華大姉」。墓石は息子忠虎の建立による。
諏訪忠晴 生 寛永16年 (1639年)没 元禄8年 (1695年) 信濃諏訪藩3代藩主。1639年(寛永16)8月忠恒の長男として生まれる。1657年(明暦3)父の死により跡を継ぐ。延宝の飢饉には領内に死者が多数でる。1683年(天和3)高島城内にて蟄居中の徳川家康の6男松平忠輝が92才で死去。1695年(元禄8)3月2日没。57才。法名「乾龍院殿雄巌文頴大居士」。
諏訪忠恕 生 寛政12年 (1800年)没 嘉永4年 (1851年) 信濃諏訪藩8代藩主。1800年(寛政12)10月忠粛の長男として生まれる。1815年(文化12)松平定信の娘を娶る。父の隠居により跡を継ぐ。藩政の再建に取り組むも、凶作や百姓一揆により悪化。1851年(嘉永4)5月2日没。52才。法名「泰俊院殿徳海義山大居士」。
諏訪忠恒娘 生 不明没 慶安4年 (1651年) 諏訪忠恒の2女。名は延。生年等詳細不明だが、長野県茅野市の頼岳寺にも墓が現存する。1651年(慶安4)1月24日没。(頼岳寺では1月22日没)法名「盛光院殿渓元怡清大姉」。
諏訪忠恒妻(永高院) 生 不明没 天和3年 (1683年) 小喜多氏。諏訪忠恒の側室で忠晴を生む。(寛政重修諸家譜では忠晴の母は忠恒正室の稲葉典通の娘月江院となっているが間違い)熱心な日蓮宗信者で諏訪の日蓮宗高国寺を再興する。1683年(天和3)1月1日没。法名「永高院殿天心日誠大姉」。
諏訪忠恒妻(月江院) 生 不明没 寛文9年 (1669年) 稲葉典通の娘。台命により1621年(元和7)7月諏訪忠恒に嫁ぐ。1669年(寛文9)2月14日没。法名「月江院殿心岳清鑑大禅定尼」。寛政重修諸家譜では忠晴の母となっているが、実際は永高院殿が実母である。墓石は1669年(寛文9)3月18日に建立。
諏訪忠恒 生 文禄4年 (1595年)没 明暦3年 (1657年) 信濃諏訪藩2代藩主。1595年(文禄4)頼水の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川秀忠の御前で元服、1字を賜い忠頼と名乗る。大坂冬の陣では居城の信濃高島城を守る。大坂夏の陣は榊原康勝に属して戦う。1657年(明暦3)9月28日没。63才。法名「天久院殿一寶要關大居士」。
諏訪忠尋 生 元禄8年 (1695年)没 享保2年 (1717年) 1695年(元禄8)10月忠虎の3男として生まれる。1704年(宝永元)9月将軍徳川綱吉に拝謁。家督を相続することなく1717年(享保2)4月23日没。23才。法名「景耀院殿霊淵空恵大居士」。墓石は父忠虎の建立による。
諏訪忠厚 生 延享3年 (1746年)没 文化9年 (1812年) 信濃諏訪藩6代藩主。 1746年(延享3)忠林の4男として生まれる。1762年(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。翌年父の隠居により跡を継ぐ。二の丸騒動といわれる家中の対立が起こり幕府の介入によって解決。1812年(文化9)6月17日没。67才。法名「観光院殿天倫宗澤大居士」。
諏訪忠倫 生 元文5年 (1740年)没 延享4年 (1747年) 1740年(元文5)7月信濃高島藩5代藩主忠林の長男として生まれる。母は同4代藩主忠虎の娘。父に先立って1747年(延享4)8月16日没。8才。法名「蘭香院妙峯仁秀童子」。墓石は父忠林の建立による。
南部利義妻 生 文政8年 (1825年)没 弘化4年 (1847年) 1825年(文政8)7月22日南部利用(善太郎)の娘として生まれる。名は豊子。井伊直亮の養女として1842年(天保13)12月南部利義(信侯)に嫁ぐ。利義との間に羊松丸の1男を儲ける。1847年(弘化4)2月19日没。23才。法名「法雲院殿實巌宗際大姉」。
南部利済妻 生 享和3年 (1803年)没 文政12年 (1829年) 1803年(享和3)松平輝延の娘として生まれる。南部利敬養女として南部利済に嫁ぐ。利済との間に男子1男を儲ける。1829年(文政12)8月12日没。27才。法名「寶鏡院殿湛然宗照大姉」。
三戸信丞妻 生 天明4年 (1784年)没 文政8年 (1825年) 1784年(天明4)5月1日南部利正の4女として生まれる。三戸信丞に嫁ぎ、南部利用(吉次郎)を儲ける。1825年(文政8)8月12日没。42才。法名「玉芳院殿蘭室貞秀大姉」。
七戸舜信 生 天和2年 (1682年)没 宝永3年 (1706年) 1682年(天和2)南部重信の子として生まれる。兄七戸英信の養子となり七戸家を継ぐ。1699年(元禄12)加増され千石。1706年(宝永3)4月24日没。25才。法名「奇峯院殿元照宜享大居士」。
赤井直正 生 享禄2年 (1529年)没 天正6年 (1578年) 1529年(享禄2)時家の次男として生まれる。1554年(天文23)荻野秋清を殺害して丹波黒井城を奪う。兄の子忠家を補佐して丹波で領土を拡大。織田信長に従ったが、のちに敵対。1575年(天正3)明智光秀に居城黒井城を攻められるも撃退。1578年(天正6)3月9日没。50才。法名「柚戦院殿實山常休大居士」。
竹村嘉理 生 永禄9年 (1566年)没 寛永8年 (1631年) 1566年(永禄9)与吉兵衛の次男として生まれる。織田信長のもとに人質としていたが、信長没後は大久保長安に仕える。長安没後は徳川家康の直臣として仕える。1627年(寛永4)7月佐渡金山の奉行となる。1631年(寛永8)9月15日没。66才。法名「光善院殿一譽栄純大禅定門」。
竹村嘉勝 生 慶長5年 (1600年)没 寛永18年 (1641年) 1600年(慶長5)嘉理の長男として生まれる。父の死後、1632年(寛永9)佐渡に赴き父に代わりに佐渡奉行となる。伊豆国のことも兼任した、とあるので伊豆土肥金山の奉行も兼任したと思われる。1641年(寛永18)10月27日没。42才。法名「心光院殿〇譽栄林大禅定門」。
永井直期妻 生 宝永5年 (1708年)没 享保19年 (1734年) 1708年(宝永5)南部信恩の娘として生まれる。名は政姫。永井直期に嫁ぐ。1734年(享保19)7月2日没。法名「霊光院月窓妙心大姉」。京都市東山区悲田院には夫直期との合葬墓がある。
武田勝頼 生 天文15年 (1546年)没 天正10年 (1582年) 1546年(天文15)信玄の4男として生まれる。はじめ諏訪家の跡を継ぐ。父の死後家督を継ぐ。1575年(天正3)織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗。その後、親戚の木曽義昌、穴山梅雪の裏切りもあり、1582年(天正10)3月11日甲斐天目山で自害。37才。法名「法泉寺殿泰山安公大禅定門」。
武田信玄 生 大永元年 (1521年)没 元亀4年 (1573年) 1521年(大永元)11月信虎の長男として生まれる。1536年(天文5)元服し、晴信と名乗る。甲斐信濃にて武名をあらわし、特に上杉謙信との川中島の戦いは有名。三方原の戦いでは、徳川家康を完膚なまでに破る。1573年(元亀4)4月12日没。53才。法名「法性院殿機山信玄大居士」。
桜庭統弧妻 生 不明没 享保5年 (1720年) 南部重信の11女。名は益子、恵岐姫。南部家臣桜庭兵三郎直良と婚約するも直良の死により、桜庭兵太郎統弧(直良弟)に嫁ぐ。統弧没後は桜庭家に養子に入った井上(桜庭)兵八郎統愛に再婚予定だったが婚姻前に統愛は没す。1720年(享保5)8月4日没。法名「妙解院殿實心淨相大姉」。
柳沢信鴻妻 生 不明没 天明5年 (1785年) 村井氏の出にて柳沢信鴻の妻となる。信鴻の間に、六角広寿、尚姫、里姫、邦姫、女子、信助の2男4女を儲ける。1785年(天明5)没。法名「賢性院殿月心貞照大姉」。
柳沢信鴻 生 享保9年 (1724年)没 寛政4年 (1792年) 1724年(享保9)10月吉里の4男として生まれる。吉保の孫。1745年(延享2)父の死により家を継ぐ。1773年(安永2)に隠居して江戸の六義園に居住して、毎日日記を書き残す。1785年(天明5)出家。1792年(寛政4)3月3日没。69才。法名「即仏心院無誉祐阿香山大居士」。
松平清照 生 承応元年 (1652年)没 貞享3年 (1686年) 1652年(承応元)忠弘の長男として生まれる。病弱ゆえ廃嫡となる。1686年(貞享3)5月27日没。35才。法名「涼雲院殿南峰道薫居士」。