南部行信の墓碑
南部行信
生 寛永19年 (1642年)
没 元禄15年 (1702年)
陸奥盛岡藩4代藩主。1642年(寛永19)8月重信の長男として生まれる。1664年(寛文6)4月将軍徳川家綱に拝謁。1692年(元禄5)6月父の隠居により家督を継ぐ。砲術と馬術に優れ、儒教に深く傾倒。1702年(元禄15)10月11日没。61才。法名「徳雲院殿玉翁宗珊大居士」。
南部義堯の墓碑
南部義堯
生 寛政6年 (1794年)
没 文政13年 (1830年)
遠野南部家9代当主。1794年(寛政6)八戸義応の子として生まれる。遠野南部家の八戸怡顔が没すると跡を継ぐ。1829年(文政12)より南部姓となる。藩主南部利用(善太郎)、利済がそれぞれ将軍徳川家斉に拝謁した際に供をする。1830年(文政13)5月3日没。37才。法名「天真院殿覺實英性大居士」。
南部政直の墓碑
南部政直
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永元年 (1624年)
1599年(慶長4)利直の次男として生まれる。1613年(慶長18)花巻城主となる。南部家の重臣柏山明助を毒殺する際、明助を騙すため自らも毒を飲んで死亡。1624年(寛永元)10月23日没。26才。法名「海潮院殿天巌宗青大居士」。墓石は1周忌に建立。
南部広信の墓碑
南部広信
生 宝永3年 (1706年)
没 寛保元年 (1741年)
陸奥八戸藩4代藩主。1706年(宝永3)通信の長男として生まれる。1716年(享保元)10月父の死により跡を継ぐ。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)4月29日没。相続の都合で幕府には5月2日没としている。36才。法名「正見院殿覺雲宗智大居士」。
南部利雄の墓碑
南部利雄
生 享保10年 (1725年)
没 安永8年 (1779年)
陸奥盛岡藩8代藩主。1725年(享保10)利幹の長男として生まれる。1738年(元文3)10月南部利視の養子となる。同年11月将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)5月利視の死により家督を継ぐ。宝暦の飢饉などにより財政が圧迫。1779年(安永8)12月11日没。55才。法名「養源院殿機翁宗鑑大居士」。
南部利謹の墓碑
南部利謹
生 延享3年 (1746年)
没 文化11年 (1814年)
1746年(延享3)利雄の長男として生まれる。1761年(宝暦11)2月将軍徳川家治に拝謁。素行に問題があり1774年(安永3)11月廃嫡となる。1814年(文化11)11月19日没。69才。法名「晋雲院殿天山恵祐大居士」。
南部利視の墓碑
南部利視
生 宝永5年 (1708年)
没 宝暦2年 (1752年)
陸奥盛岡藩7代藩主。1708年(宝永5)信恩の次男として生まれる。父5代藩主信恩の死後生まれたため、叔父利幹が6代藩主となる。のちに家督を継ぎ、8代将軍徳川吉宗に拝謁。1752年(宝暦2)4月4日没。45才。法名「天量院殿宣山宗明大居士」。
南部利正の墓碑
南部利正
生 宝暦2年 (1752年)
没 天明4年 (1784年)
陸奥盛岡藩9代藩主。1752年(宝暦2)3月利視の6男として生まれる。始め南部信起の養子となる。1770年(明和7)4月将軍徳川家治に拝謁。1774年(安永3)12月盛岡藩南部利雄の養子となる。同月に再度徳川家治に拝謁。1780年(安永9)2月利雄の死により跡を継ぐ。1784年(天明4)5月25日没。33才。法名「義徳院殿南岳宗薫大居士」。
南部利敬の墓碑
南部利敬
生 天明2年 (1782年)
没 文政3年 (1820年)
陸奥盛岡藩10代藩主。1782年(天明2)利正の次男として生まれる。1784年(天明4)7月父の死により2才で家督を継ぐ。年齢を誤魔化し、幕府には1779年(安永8)生まれと届ける。1795年(寛政7)2月将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)6月3日没。39才。法名「神鼎院殿龍嶽宗文大居士」。
南部利康の墓碑
南部利康
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永8年 (1631年)
1608年(慶長13)利直の4男として生まれる。1626年(寛永3)に南直義の跡を継ぎ浅水城主となる。1631年(寛永8)11月21日没。24才。法名「龍巖薀公大禅定門」。
南部利幹の墓碑
南部利幹
生 元禄2年 (1689年)
没 享保10年 (1725年)
陸奥盛岡藩6代藩主。1689年(元禄2)行信の4男として生まれる。1706年(宝永3)1月兄の藩主信恩が死により、末期養子として家督を継ぐ。同年1月将軍徳川綱吉に拝謁。1725年(享保10)6月4日没。37才。法名「靈徳院殿雄山宗英大居士」。
南部信興の墓碑
南部信興
生 享保8年 (1723年)
没 安永2年 (1773年)
陸奥八戸藩5代藩主。1723年(享保8)広信の長男として生まれる。1740年(元文5)将軍徳川吉宗に拝謁。1741年(寛保元)父の死により家督を継ぐ。1773年(安永2)8月13日没。51才。法名「龍津院殿珠岩宗滉大居士」。
南部信房の墓碑
南部信房
生 明和2年 (1765年)
没 天保6年 (1835年)
 陸奥八戸藩7代藩主。1765年(明和2)6月信依の長男として生まれる。1780年(安永9)11月将軍徳川家治に拝謁。1781年(天明元)2月父の死により跡を継ぐ。1835年(天保6)5月12日没。71才。法名「仙溪院殿仁道宗壽大居士」。
南部信恩妻の墓碑
南部信恩妻
生 不明
没 享保20年 (1735年)
黒田伝兵衛定治の娘。名は康。南部信恩に嫁ぎ、昆(今)姫、女子、利視の1男2女を儲ける。1735年(享保20)5月29日没。法名「浄智院殿南窻妙薫大姉」。墓石は6月29日とある。
南部信恩の墓碑
南部信恩
生 延宝6年 (1678年)
没 宝永4年 (1707年)
陸奥盛岡藩5代藩主。1678年(延宝6)9月行信の3男として生まれる。1701年(元禄14)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1702年(元禄15)11月父の死により家督を継ぐ。1707年(宝永4)12月8日没。30才。法名「靈巖院殿了因義方大居士」。
南部信依の墓碑
南部信依
生 延享4年 (1747年)
没 天明元年 (1781年)
陸奥八戸藩6代藩主。1747年(延享4)信興の長男として生まれる。1762(宝暦12)将軍徳川家治に拝謁。1765年(明和2)父の隠居により跡を継ぐ。藩内に武芸を奨励。1781年(天明元)6月7日没。35才。法名「寶性院殿禪岩宗安大居士」。
北信愛の墓碑
北信愛
生 大永3年 (1523年)
没 慶長18年 (1613年)
1523年(大永3)致愛の嫡男として生まれる。南部氏に仕え家老職。1600年(慶長5)和賀忠親の一揆勢により居城花巻城を攻められるも撃退。1613年(慶長18)8月17日没。91才。法名「萬献院殿節叟忠公大居士」。
八戸義応の墓碑
八戸義応
生 宝暦10年 (1760年)
没 寛政7年 (1795年)
1760年(宝暦10)信彦の5男として生まれる。1786年(天明6)3月八戸怡顔の養子となる。怡顔の跡を継ぐことなく、1795年(寛政7)8月15日没。36才。法名「俊宗院殿英山量雄大居士」。
八戸竹之助の墓碑
八戸竹之助
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
八戸内記家2代。附馬牛(岩手県遠野市)領主。八戸義也(義長弟)の子。義也が1683年(天和3)没すると跡を継ぐ。1684年(貞享元)8月19日早世。法名「〇巖幻陽」。
八戸直義妻の墓碑
八戸直義妻
生 不明
没 万治4年 (1661年)
八戸直政の次女。母は清心尼。名は千代。八戸直義に嫁ぎ、義長を儲ける。1661年(万治4)7月25日没。法名「松光院殿天英馨香大禅定尼」。墓石施主は息子三五郎義長。
八戸利戡妻の墓碑
八戸利戡妻
生 延宝4年 (1676年)
没 享保4年 (1719年)
1676年(延宝4)南部重信の10女として生まれる。1690年(元禄3)2月11日八戸義倫に嫁ぐ。義倫没後、1699年(元禄12)7月山田(八戸)利戡と再婚。1719年(享保4)8月28日没。44才。法名「常穩院殿妙體心公大禪定尼」。
八戸信有妻の墓碑
八戸信有妻
生 不明
没 享保5年 (1720年)
山田利仲の長女。八戸利戡の妹。八戸信有に嫁ぎ、信彦を儲ける。1720年(享保5)7月29日没。法名「線針院殿密繡星公大禪定尼」。
八戸信有の墓碑
八戸信有
生 元禄15年 (1702年)
没 享保20年 (1735年)
遠野南部家5代当主。1702年(元禄15)5月七戸舜信の長男として生まれる。1712年(正徳2)八戸利戡の養子となり利戡の娘と婚約。1719年(享保4)12月藩主南部利幹の代理で将軍への年賀のため江戸に上府。1735年(享保20)6月4日没。34才。法名「定涼院殿仁君智通大居士」。
八戸信彦の墓碑
八戸信彦
生 享保5年 (1720年)
没 安永3年 (1774年)
遠野南部家6代当主。1720年(享保5)4月信有の長男として生まれる。父の死により1735年(享保20)6月跡を継ぐ。1745年(延享2)12月、前年に起きた遠野屋敷の火災の責任を取り隠居。1774年(安永3)7月11日没。55才。法名「霊應院殿憩無詠歸入道大居士」。
奥平信昌妻の墓碑
奥平信昌妻
生 永禄3年 (1560年)
没 寛永2年 (1625年)
1560年(永禄3)6月4日徳川家康の長女として駿府で生まれる。母は築山殿。名は亀姫。1576年(天正4)7月長篠の戦いのときに長篠城を守り通した奥平信昌に嫁ぐ。信昌の間に、家昌、松平家治、忠政、松平忠明、大久保忠常室の4男1女を儲ける。性格は母に似て強かったらしく、本多正純を失脚したのは亀姫が黒幕とされている。1625年(寛永2)5月27日没。66才。法名「盛徳院殿香林慈雲大姉」。
遠山長景の墓碑
遠山長景
生 天正12年 (1584年)
没 正保2年 (1645年)
1584年(天正12)方景の次男として生まれる。1615年(元和元)大坂夏の陣に参戦。1619年(元和5)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1638年(寛永15)9月跡を継ぐ。1645年(正保2)6月8日没。62才。法名「玄忠」。
遠山伊次の墓碑
遠山伊次
生 寛永3年 (1626年)
没 延宝6年 (1678年)
1626年(寛永3)長景の長男として生まれる。1632年(寛永9)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1645年(正保2)12月跡を継ぐ。1678年(延宝6)8月3日没。53才。法名「大梁院殿」。
水野忠良の墓碑
水野忠良
生 天保5年 (1834年)
没 安政5年 (1858年)
駿河沼津藩5代藩主。1834年(天保5)8月忠義の5男として生まれる。1844年(天保15)兄の忠武の死により家督を継ぐ。外国船出没による沿岸警備に務めたり、旱魃などにより財政は逼迫。1858年(安政5)5月3日没。25才。法名「常徳院泰譽安然義道大居士」。
水野忠職妻(青陽院)の墓碑
水野忠職妻(青陽院)
生 元和2年 (1616年)
没 貞享3年 (1686年)
1616年(元和2)中川久盛の娘として生まれる。1635年(寛永12)5月水野忠職に嫁ぎ、某の1男を儲ける。1686年(貞享3)12月13日没。71才。法名「青陽院殿榮譽天光春良大法尼」。墓石は生前の1662年(寛文2)2月の建立による。水野忠直の生母とされているが、実は昇仙院殿が忠直実母である。
水野忠職妻(昇仙院)の墓碑
水野忠職妻(昇仙院)
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
信濃松本藩3代藩主水野忠直の母。1692年(元禄5)8月13日没。法名「昇仙院殿長譽映月妙允大姉」。忠直の母は中川久盛の娘(青陽院殿)とされているが、水野家菩提寺の松本市玄向寺は昇仙院殿を忠直母としていて墓石も残る。墓石の位置や大きさから身分の低い女性と思われ、中川久盛の娘(青陽院殿)を忠直の生母として幕府に届けたと思われる。墓石は水野忠直の建立による。
水野忠職の墓碑
水野忠職
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文8年 (1668年)
信濃松本藩2代藩主。1613年(慶長18)9月忠清の次男として生まれる。父の死後1647年(正保4)8月跡を継ぐ。江戸城の石垣普請の他、大坂城代を何回か務める。1668年(寛文8)6月26日没。56才。法名「道樹院信譽上昌玄向大居士」。
水野忠清妻の墓碑
水野忠清妻
生 天正5年 (1577年)
没 寛文10年 (1670年)
1577年(天正5)生まれ。小林氏の出で、前田利家の養女となり水野忠清の正室となる。忠清との間に忠次、京極高三室、山内忠直室、忠職、祖活の3男2女を儲ける。1670年(寛文10)4月2日没。94才。法名「福壽院殿性宣妙演尼大姉」。
水野忠清の墓碑
水野忠清
生 天正10年 (1582年)
没 正保4年 (1647年)
信濃松本藩初代藩主。1582年(天正10)忠重の4男として生まれる。1600年(慶長5)関ケ原の戦いに徳川家康の命により扈従。大坂の両陣に参戦。夏の陣のときに青山忠俊と軍功を巡って争い閉門。家康の没する直前に閉門を解かれる。その後、加増を重ね、1642年(寛永19)に信濃松本にて7万石となる。1647年(正保4)5月28日没。66才。法名「真珠院殿廓譽全忠大居士」。
水野忠幹の墓碑
水野忠幹
生 元禄12年 (1699年)
没 享保8年 (1723年)
信濃松本藩5代藩主。1699年(元禄12)忠周の長男として生まれる。1709年(宝永6)将軍徳川家宣に拝謁。1718年(享保3)父が死去すると家督を継ぐ。目安箱を設置したり藩の財政改革に努める。1723年(享保8)5月10日没。25才。法名「徳本院殿心譽仁光大居士」。
水野元知の墓碑
水野元知
生 正保元年 (1644年)
没 延宝8年 (1680年)
上野安中藩2代藩主。1644年(正保元)元綱の次男として生まれる。1664年(寛文4)10月父の隠居により跡を継ぐ。1667年(寛文7)5月発狂して妻を斬りつけたために改易となる。1680年(延宝8)9月没。37才。法名「大遍院殿碧雲冲虚大居士」。
森川重俊の墓碑
森川重俊
生 天正12年 (1584年)
没 寛永9年 (1632年)
下総生実藩初代藩主。1584年(天正12)氏俊の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは信州上田城攻めに従う。大久保忠隣の改易に連座して改易となるも、大坂の陣で活躍して復帰。1631年(寛永8)には老中となる。1632年(寛永9)1月24日に秀忠が亡くなると翌日25日に殉死。49才。法名「重俊院殿活國正英居士」。
本多純政の墓碑
本多純政
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
有馬直純の次男。1641年(寛永18)父より日向本庄にて采地を分け与えられる。同年8月将軍徳川家光に拝謁。1644年(正保元)病により領地を返上して京都に隠棲。1655年(明暦元)12月27日没。法名「崇福院殿僧譽還愚居士」。
有馬直純妻の墓碑
有馬直純妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶安2年 (1649年)
1595年(文禄4)本多忠政の娘として生まれる。母は松平信康の娘。名は国姫。曽祖父徳川家康の養女として堀忠俊に嫁ぐ。忠俊が改易後には、有馬直純に嫁ぐ。直純の間に、康純、本多政勝室、本多政勝養妹、秋元富朝室、純政の2男3女を儲ける。1649年(慶安2)2月29日没。55才。法名「榮壽院殿長譽秋岳大信尼」。
有馬康純妻の墓碑
有馬康純妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
阿部正澄の娘。阿部忠秋の養女として有馬康純に嫁ぐ。康純との間に、清純を儲ける。1645年(正保2)10月28日没。法名「妙禅院殿覚園日巖信女」。墓石は康純の建立による。
戸川安宣妻の墓碑
戸川安宣妻
生 承応2年 (1653年)
没 寛文6年 (1666年)
1653年(承応2)有馬康純の4女として生まれる。戸川安宣に嫁ぐ。1666年(寛文6)9月1日没。14才。法名「寶林院殿玉朗妙榮大姉」。墓石施主は父康純。
徳川頼宣の墓碑
徳川頼宣
生 慶長7年 (1602年)
没 寛文11年 (1671年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1602年(慶長7)3月家康の10男として生まれる。1603年(慶長8)常陸水戸にて20万石を与えられるが2才のため駿府の家康のもとで過ごす。1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。1619年(元和5)紀伊和歌山藩主となる。1671年(寛文11)1月10日没。70才。法名「南龍院殿顗永天晃大居士」。
小笠原長章妻の墓碑
小笠原長章妻
生 不明
没 寛文3年 (1663年)
水野忠職の次女。小笠原長章に嫁ぐ。1663年(寛文3)7月17日没。法名「陽玄院殿松譽華貞單信大姉」。
多田満仲の墓碑
多田満仲
生 不明
没 長徳3年 (997年)
源経基の長男として生まれる。969年(安和2)の安和の変では源高明の謀反を密告。藤原兼家のもと鎮守府将軍にまで出世。987年(永延元)出家。997年(長徳3)8月27日没。法名「覚信」。墓石には「右大臣源朝臣 仲光敬白 満仲法名覚信 天禄元年八月廿七日」とあることから、後裔の源仲光の建立であることがわかる。
北条氏貞の墓碑
北条氏貞
生 元禄16年 (1703年)
没 宝暦8年 (1758年)
河内狭山藩6代藩主。1703年(元禄16)氏朝の長男として生まれる。1714年(正徳4)8月将軍徳川家継に拝謁。1735年(享保20)父の死後家督を継ぐ。1758年(宝暦8)4月27日没。56才。法名「廣覚院殿信叟義堅大居士」。
北条氏直の墓碑
北条氏直
生 永禄5年 (1562年)
没 天正19年 (1591年)
1562年(永禄5)氏政の子として生まれる。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)氏政の隠居とともに家督を継ぐ。1582年(天正10)神流川の戦いで滝川一益を破り、甲斐国に進出。同地で徳川家康と長期間の合戦となるも和睦となり、家康の娘督姫が氏直に嫁ぐ。1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原合戦により敗北。氏直は家康の婿ということで命は助けられ高野山に入り謹慎。1591年(天正19)には赦免されるも同年11月4日没。30才。法名「松巌院殿大圓徹公大居士」。
北条氏朝の墓碑
北条氏朝
生 寛文9年 (1669年)
没 享保20年 (1735年)
河内狭山藩5代藩主。1669年(寛文9)氏利の5男として生まれる。1683年(天和3)3月北条氏治の養子となる。同年閏5月将軍徳川綱吉に拝謁。氏治の死により1696年(元禄9)7月跡を継ぐ。1735年(享保20)9月9日没。67才。法名「圓成院殿即証元領大居士」。
北条氏昉の墓碑
北条氏昉
生 宝暦10年 (1760年)
没 文化8年 (1811年)
河内狭山藩8代藩主。1760年(宝暦10)氏彦の長男として生まれる。1769年(明和6)父の死により家督を継ぐ。百姓一揆や天明の大飢饉で財政は悪化。1811年(文化8)1月16日没。52才。法名「願真院殿養叟宗安大居士」。
北条氏政の墓碑
北条氏政
生 天文7年 (1538年)
没 天正18年 (1590年)
1538年(天文7)氏康の次男として生まれる。小田原北条氏第4代目当主。妻は武田信玄の娘黄梅院。豊臣秀吉の上洛命令を無視したため、合戦となるも圧倒的な大軍の前に屈する。降伏後1590年(天正18)7月11日弟氏照と共に切腹。53才。法名「慈雲院殿勝岩傑公大居士」。
北条氏彦の墓碑
北条氏彦
生 寛保2年 (1742年)
没 明和6年 (1769年)
河内狭山藩7代藩主。1742年(寛保2)氏貞の長男として生まれる。父の死により1758年(宝暦8)6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家重に拝謁。1769年(明和6)4月27日没。28才。法名「琰光院殿鐡叟紹心大居士」。
北条氏喬の墓碑
北条氏喬
生 天明5年 (1785年)
没 弘化3年 (1846年)
河内狭山藩9代藩主。1785年(天明5)氏昉の長男として生まれる。1801年(享和元)10月父の隠居により家督を継ぐ。1837年(天保8)2月大塩平八郎の乱のときは大坂城の警備を務める。1846年(弘化3)7月8日没。62才。法名「敬雲院殿恭厳義良大居士」。