鍋島綱茂妻の墓碑
鍋島綱茂妻
生 不明
没 元禄12年 (1699年)
越前松平光通の娘。布与姫。鍋島綱茂の正室となり女子1人を生む。1699年(元禄12)4月12日江戸麻布の鍋島家屋敷で没。法名「寂光院圓空智鏡大禅定尼」。
鍋島直茂妻の墓碑
鍋島直茂妻
生 天文10年 (1541年)
没 寛永6年 (1629年)
1541年(天文10)石井常延の娘として生まれる。名は彦鶴。納富信澄に嫁ぎ1女を儲ける。信澄戦死後、1569年(永禄12)鍋島直茂に嫁ぐ。直茂との間に多久安順妻、諫早直孝妻、勝茂の1男2女を儲ける。1629年(寛永6)1月8日没。89才。法名「陽泰院殿芳林妙春大姉」。
鍋島直茂の墓碑
鍋島直茂
生 天文7年 (1538年)
没 元和4年 (1618年)
1538年(天文7)3月清房の次男として生まれる。龍造寺家に仕える。1584年(天正12)沖田畷の戦いでは島津・有馬連合軍と戦うも、主君龍造寺隆信が討取られ大敗。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に味方。江戸時代になると幕府の威光などもあり、佐賀藩は主筋龍造寺家より直茂に譲られる。1618年(元和4)6月3日没。81才。法名「高傳寺殿日峯宗智大居士」。
鍋島宗茂妻の墓碑
鍋島宗茂妻
生 元禄12年 (1699年)
没 宝暦2年 (1752年)
1699年(元禄12)9月18日久世通夏の娘として生まれる。名は貞、溜池御前。1714年(正徳4)4月鍋島宗茂に嫁ぎ、宗教、女子、直鄰、重茂の3男1女を儲ける。1752年(宝暦2)7月22日没。53才。法名「貞樹院殿實操浄光大姉」。
鍋島宗茂の墓碑
鍋島宗茂
生 貞享3年 (1686年)
没 宝暦4年 (1754年)
肥前佐賀藩5代藩主。1686年(貞享3)光茂の15男として生まれる。1716年(享保元)11月兄吉茂の養子となる。同月将軍徳川吉宗に拝謁。翌月吉宗の前で元服して1字を賜い宗茂と名乗る。吉茂の死により1730年(享保15)5月跡を継ぐ。1754年(宝暦4)11月25日没。69才。法名「海量院殿慈明活眼大居士」。
諫早直孝の墓碑
諫早直孝
生 天正2年 (1574年)
没 寛永12年 (1635年)
1574年(天正2)龍造寺家晴の子として生まれる。鍋島家の家老。兄がいたが、家晴と仲が悪く直孝が跡を継ぐ。肥前高来郡伊佐早に領地を賜い、地名を諫早として自身の名も龍造寺から諫早に改名。1635年(寛永12)6月30日没。62才。法名「全禎宗雲」。没年が1637年(寛永14)としているものもあるが間違い。墓石は妻の建立による。
菅沼定芳の墓碑
菅沼定芳
生 天正15年 (1587年)
没 寛永20年 (1643年)
丹波亀山藩初代藩主。1587年(天正15)定盈の6男として三河野田にて生まれる。1604年(慶長9)徳川家康に拝謁。兄の定仍が没したため家督を継ぐ。大坂の陣のときは本多忠政に属して戦い戦功があり。1643年(寛永20)1月17日没。57才。法名「大虚院殿無参圓徹大居士」。
菅沼定昭の墓碑
菅沼定昭
生 寛永2年 (1625年)
没 正保4年 (1647年)
丹波亀山藩2代藩主。1625年(寛永2)定芳の長男として生まれる。1634年(寛永11)7月将軍徳川家光が膳所城を訪れたときに拝謁。1643年(寛永20)父の死により家督を継ぐ。1647年(正保4)9月21日没。23才。法名「浄寂院殿傑叢全英大居士」。
秋元源之助の墓碑
秋元源之助
生 不明
没 元文3年 (1738年)
喬求の長男。1738年(元文3)12月8日早世。法名「幻光院殿一露慈観童子」。
秋元喬知妻の墓碑
秋元喬知妻
生 慶安元年 (1648年)
没 元禄4年 (1691年)
1648年(慶安元)秋元忠朝の娘として生まれる。秋元喬知に嫁ぎ、女子、朽木稙元妻、秋田広季妻、女子、戸田忠昌養女、喬房の1男5女を儲ける。1691年(元禄4)11月5日没。44才。「遍照院殿清月妙圓大姉」。
秋元喬知の墓碑
秋元喬知
生 慶安2年 (1649年)
没 正徳4年 (1714年)
武蔵川越藩初代藩主。1649年(慶安2)戸田忠昌の長男として生まれる。甲斐谷村藩主秋元富朝の養子となる。若年寄、のちに実弟戸田忠真と老中を務める。1714年(正徳4)8月14日没。66才。法名「済川院殿義舟喬知大居士」。
秋元喬求妻の墓碑
秋元喬求妻
生 不明
没 元文5年 (1740年)
秋元喬房の長女。戸田忠余の次男喬求に嫁ぎ婿とする。喬求との間に長男源之助を儲けるも早世。1740年(元文5)6月23日没。法名「琳證院殿覺峯梨玄大姉」。
秋元喬房妻の墓碑
秋元喬房妻
生 貞享2年 (1685年)
没 享保5年 (1720年)
1685年(貞享2)3月29日奥平昌章の娘として生まれる。秋元喬房の妻となる。喬房の間に子供は出来ず。1720年(享保5)5月10日没。36才。法名「浄影院殿妙岸智法大姉」。
秋元喬房の墓碑
秋元喬房
生 天和3年 (1683年)
没 元文3年 (1738年)
武蔵川越藩2代藩主。1683年(天和3)喬知の次男として生まれる。1693年(元禄6)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)父の死により家督を継ぐ。1728年(享保13)徳川吉宗の日光詣でに供奉。1738年(元文3)9月5日没。56才。法名「泰元院殿智山義勇大居士」。
牧野忠貴の墓碑
牧野忠貴
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永3年 (1706年)
1662年(寛文2)忠清の長男として生まれる。1667(寛文7)12月将軍徳川家綱に拝謁。1682年(天和2)5月父の隠居により家督を継ぐ。勤務を疎かにしたことで逼塞を命じられたが赦免される。1706年(宝永3)9月15日没。45才。法名「廓真院殿臟光月感大居士」。
牧野忠清の墓碑
牧野忠清
生 元和6年 (1620年)
没 元禄6年 (1693年)
1620年(元和6)忠成の5男として生まれる。徳川家綱の小姓として仕える。1659年(万治元)兄定成の養子となり同年閏12月遺跡を継ぐ。1682年(天和2)5月隠居。1693年(元禄6)2月5日没。74才。法名「廓誉然心幽閑大居士」。
牧野康成(与板)の墓碑
牧野康成(与板)
生 元和3年 (1617年)
没 明暦3年 (1657年)
1617年(元和3)忠成の次男として生まれる。1634年(寛永11)父より1万石を分知され越後与板藩主となる。1657年(明暦3)12月30日没。41才。法名「馨香院殿登譽泰安大居士」。
牧野定成(三根山)の墓碑
牧野定成(三根山)
生 元和3年 (1617年)
没 万治元年 (1658年)
1617年(元和3)忠成の4男として生まれる。1632年(寛永9)8月将軍徳川家光に拝謁。1634年(寛永11)父より6千石分知をされ越後三根山領主となる。1658年(万治元)10月7日没。42才。法名 「一山大居士」。
松平永兼の墓碑
松平永兼
生 天正8年 (1580年)
没 元和5年 (1619年)
1580年(天正8)戸田康長の長男として生まれる。母は徳川家康の異父妹松姫。1592年(文禄元)家康の御前で元服。1619年(元和5)6月10日没。40才。法名「壽昌院殿劫巖玄永大禅定門」。
松平忠光の墓碑
松平忠光
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永6年 (1629年)
1598年(慶長3)戸田康長の次男として生まれる。15才のとき徳川秀忠の御前で元服して、1字を賜い始め忠長と名乗る。大坂の両陣に父に従い参陣。1629年(寛永6)3月16日没。32才。法名「大休院殿的翁良端大居士」。
松平光雄の墓碑
松平光雄
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦6年 (1756年)
信濃松本藩2代藩主。1716年(享保元)8月松平光煕の5男として生まれる。1732年(享保17)8月兄光慈の養子となり、同年10月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1756年(宝暦6)11月1日没。41才。法名「萬彭院殿松巖元盛大居士」。
松平光永の墓碑
松平光永
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永2年 (1705年)
美濃加納藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1656年(明暦2)3月将軍徳川家綱に拝謁。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。1705年(宝永2)2月29日没。63才。法名「光永院殿逸山道秀大居士」。
松平光慈の墓碑
松平光慈
生 正徳2年 (1712年)
没 享保17年 (1732年)
信濃松本藩初代藩主。1712年(正徳2)9月光煕の3男として生まれる。叔父戸田光規の養子となるも兄2人が亡くなったため、父の死後1717年(享保2)11月家督を継ぐ。1723年(享保8)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1732年(享保17)8月11日没。21才。法名「泰心院殿穆堂良恭大居士」。
戸田忠昌娘の墓碑
戸田忠昌娘
生 延宝元年 (1673年)
没 貞享4年 (1687年)
1673年(延宝元)戸田忠昌の娘として生まれる。1687年(貞享4)9月27日没。15才。法名「瑞心院殿慈観妙慧大姉」。
戸田忠昌妻の墓碑
戸田忠昌妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
秋元富朝の娘。母は有馬直純の娘。戸田忠昌に嫁ぎ、秋元喬知、忠真、忠章の3男を儲ける。1695年(元禄8)2月23日没。法名「雲臺院殿高嶽妙蔭大姉」。墓石は夫忠昌の建立による。
戸田康長娘の墓碑
戸田康長娘
生 不明
没 正保3年 (1646年)
戸田康長の2女。松平乗寿に嫁ぐ。乗寿との間に子は出来ず、のちに離縁している。戸田家墓域に墓があることから、離婚後は実家に戻ったと思われる。1646年(正保3)6月18日没。法名「清涼院殿南窓貞薫大姉」。墓石は兄忠光の子松平光重の建立による。
戸田康長の墓碑
戸田康長
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永9年 (1632年)
1562年(永禄5)忠重の子として生まれる。徳川家康より松平の姓を賜り、家康の異父妹松姫を妻とする。1574年(天正2)家康の御前で元服、家康より一字を賜い康長と名乗る。1581年(天正9)高天神城攻めで初陣。以後、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、関ヶ原の戦いに従う。1617年(元和3)信濃松本藩7万石となる。2代将軍秀忠の信頼も厚く家光の守役も務めた。1632年(寛永9)12月12日没。71才。法名「祥雲院殿一運宗智大居士」。
戸田康直の墓碑
戸田康直
生 元和3年 (1617年)
没 寛永11年 (1634年)
播磨明石藩初代藩主。1617年(元和3)康長の3男として生まれる。1632年(寛永9)12月父の死により家督を継ぐ。1634年(寛永11)5月12日没。18才。法名「寂照院殿節叟賢忠大禅定門」。
戸田光重の墓碑
戸田光重
生 元和8年 (1622年)
没 寛文8年 (1668年)
美濃加納藩初代藩主。1622年(元和8)忠光の長男として生まれる。1634年(寛永11)叔父の康直が没すると、改易になるとこを特別に光重が跡を継ぐ。1668年(寛文8)7月30日没。47才。法名「光重寺殿別峯道見大居士」。
戸田光規の墓碑
戸田光規
生 延宝6年 (1678年)
没 享保元年 (1716年)
1678年(延宝6)光永の3男として生まれる。1695年(元禄8)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1704年(宝永元)1月中奥の小姓となる。1716年(享保元)閏2月19日没。39才。法名「光䂓院殿明山孤天大居士」。
戸田光熙の墓碑
戸田光熙
生 延宝2年 (1674年)
没 享保2年 (1717年)
美濃加納藩3代藩主。1674年(延宝2)光永の長男として生まれる。1683年(天和3)3月徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)4月家督を継ぐ。1717年(享保2)9月4日没。44才。法名「寶雲院殿徳翁良泰大居士」。
小笠原忠真妻の墓碑
小笠原忠真妻
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永20年 (1643年)
1597年(慶長2)本多忠政の次女として生まれる。母は松平信康の次女熊姫。名は亀姫といわれる。徳川家康の曾孫にあたる。家康の養女として、同じく家康の曾孫小笠原忠脩(母は信康の長女登久姫)に嫁ぐ。1615年(慶長20)大坂夏の陣で忠脩が討死すると忠脩の弟忠真に嫁いだ。忠脩の間には1男1女、忠真の間には2男3女を儲けた。1643年(寛永20)10月3日没。47才。法名「圓照院殿花陽宗月大姉」。
青山忠門の墓碑
青山忠門
生 永正15年 (1518年)
没 元亀2年 (1571年)
1518年(永正15)忠世の子として生まれる。松平広忠に仕え1548年(天文17)3月小豆坂の戦いに参戦。今川義元に仕え、さらに徳川家康に仕える。三河一向一揆のときは家康側に従う。武田軍との戦いで傷を負い、それが原因で1571年(元亀2)4月7日没。54才。法名「映峯授玉禅定門」。墓石施主は息子藤七郎忠成による。
蠣崎利広娘の墓碑
蠣崎利広娘
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
蠣崎利広の娘。1665年(寛文5)6月11日没。法名「高嶽院殿玉簾貞深大姉」。墓石に「松前竹松為養母立之」とあり、松前竹松の養母をしている。竹松は、1659年(万治2)生まれの松前藩5代藩主松前矩広と思われる。
稲富祐直妻の墓碑
稲富祐直妻
生 不明
没 不明
稲富祐直の妻。詳細不明。逆修塔で夫の没年月日の1611年(慶長16)2月6日建立とある。
松前高広の墓碑
松前高広
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文5年 (1665年)
蝦夷地松前藩4代藩主。1642年(寛永19)氏広の長男として生まれる。1648年(慶安元)父の死により7才で跡を継ぐ。1649年(慶安2)6月将軍徳川家光に拝謁。1665年(寛文5)7月5日没。24才。法名「松前院殿漢臣利永大居士」。
松前為広の墓碑
松前為広
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
安広の5男。兄広国の養子となる。仙台藩伊達家に仕える。1676年(延宝4)小姓、1687年(貞享4)大番頭。1692年(元禄5)9月14日没。法名「吸江院蘊嶽紹龐居士」。
松前氏広の墓碑
松前氏広
生 元和8年 (1622年)
没 慶安元年 (1648年)
蝦夷地松前藩3代藩主。1622年(元和8)公広の次男として生まれる。1638年(寛永15)将軍徳川家光に拝謁。1641年(寛永18)父の死去により跡を継ぐ。1648年(慶安元)8月25日没。27才。法名「氏広院殿直心宗性大居士」。
松前広国の墓碑
松前広国
生 寛永8年 (1631年)
没 天和2年 (1682年)
1631年(寛永8)安広の次男として生まれる。八之助。仙台藩伊達家の家臣。白石城主片倉景長は実兄。父の隠居により1656年(明暦2)跡を継ぐ。伊達騒動で活躍。歌舞伎や浪曲の「松前鉄之助」は広国をモデルとしている。1682年(天和2)3月10日没。52才。法名「見桃院了源崇徹居士」。
松前安広の墓碑
松前安広
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文8年 (1668年)
1606年(慶長11)慶広の7男として生まれる。1623年(元和9)より伊達政宗に仕える。仙台松前家の祖。伊達家の重臣片倉重長の娘を妻とする。長男の重長は片倉家を継いでいる。1656年(明暦2)隠居。1668年(寛文8)7月8日没。63才。法名「大信院殿自体恕然居士」。
松前公広の墓碑
松前公広
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永18年 (1641年)
蝦夷地松前藩2代藩主。1598年(慶長3)盛広の長男として生まれる。1613年(慶長18)11月9日将軍徳川秀忠に15日に大御所家康に拝謁。祖父慶広の死により1617年(元和3)跡を継ぐ。1641年(寛永18)7月8日没。44才。法名「公広院殿渓雲宗愚大居士」。側面に「寛文元年十月十四日」とあり建立日と思われる。
山口直友妻の墓碑
山口直友妻
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
戸田一西の長女。間宮牛之助に嫁ぎ、戸田正家、八左衛門、正綱、権左衛門の4男を儲ける。のち、山口直友と再婚。直友との間に直治を儲ける。1644年(寛永21)1月17日没。法名「光壽院殿梅譽清春大姉」。墓石は正綱が母の為に建立。
南部利直妻(香林院)の墓碑
南部利直妻(香林院)
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
南部家重臣石井伊賀守直弥の妹。名は楽。南部利直に嫁ぎ、北直愛妻、政直、中野元康妻の1男2女を儲ける。1628年(寛永5)7月26日没。法名「香林院殿梅枝月公大禅定尼」。
北直継の墓碑
北直継
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
信愛の3男。南部信直の家老。信直より1字を賜い直継と名乗る。九戸政実の乱や大坂冬の陣に従う。1630年(寛永7)10月13日没。法名「雪窓好公大禅定門」。
八戸義長妻の墓碑
八戸義長妻
生 不明
没 不明
北宣継の娘。名は連。八戸義長に嫁ぎ、義論を儲ける。夫の没後戌千代(義論)の後見をする。法名「壽量院殿栄岳宗繁大姉」。墓石は、息子義論の養子彦市利戡の建立による。
八戸義長の墓碑
八戸義長
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄元年 (1688年)
遠野南部家2代当主。1641年(寛永18)7月直義の長男として生まれる。盛岡藩南部家筆頭家老として仕える。遠野領地の検地を行い、超過分の1部で附馬牛八戸家として弟義也に分知。1688年(元禄元)6月28日没。48才。法名「光徳院殿日山惠公大居士」。
八戸義論の墓碑
八戸義論
生 天和2年 (1682年)
没 元禄12年 (1699年)
遠野南部家3代当主。1682年(天和2)10月義長の次男として生まれる。父が1688年(元禄元)6月没したため跡を継ぐ。幼少ゆえ外祖父北宣継の干渉を受ける。1699年(元禄12)5月21日没。18才。法名「觀照院殿德眼義公大居士」。
八戸直義の墓碑
八戸直義
生 慶長6年 (1601年)
没 延宝3年 (1675年)
遠野南部家初代当主。1601年(慶長6)新田政広の子として生まれる。八戸氏の女当主清心尼の娘を娶り婿となる。1627年(寛永4)主君南部利直の命により八戸から遠野に移封となり、遠野南部家初代当主となる。1675年(延宝3)1月31日没。75才。法名「大桑院殿鐵洲源船大居士」。
八戸怡顔の墓碑
八戸怡顔
生 寛延4年 (1751年)
没 文化14年 (1817年)
遠野南部家8代当主。1751年(寛延4)8月義顔の次男として生まれる。父の死により1785年(天明5)3月跡を継ぐ。1806年(文化3)松平定信による「集古十種」作成に協力。1817年(文化14)10月6日没。67才。法名「峻德院殿哲勇仁舩大居士」。相続の問題により公式には10月26日に没したことになっている。
七戸直時の墓碑
七戸直時
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直勝の子。隼人正。南部信直の家老。1597年(慶長2)父の隠居により跡を継ぎ、七戸城主となり2千石を領す。(2千300石とも)1614年(慶長19)大坂冬の陣に主君信直に従い参戦。1647年(正保4)2月16日没。法名「瑞龍寺殿証山自公居士」。