米倉永時 生 不明没 寛永元年 (1624年) 信継の長男。家康に仕え関ヶ原の戦いに従う。大久保長安の不正を調べるため佐渡島に赴く。1624年(寛永元)2月2日没。55才または56才。法名「大虚院殿天誉道普居士」。
米倉信継 生 天文17年 (1548年)没 寛永13年 (1636年) 1548年(天文17)宗継の次男として生まれる。兄忠継とともに家康に仕える。兄が没したとき、養子となり跡を継ぐ。関ヶ原の戦い、大坂の両陣に参戦。1636年(寛永13)4月8日没。89才。法名「米倉院殿無常道心居士」。
米倉忠継 生 天文2年 (1533年)没 天正19年 (1591年) 1533年(天文2)宗継の長男として生まれる。武田家滅亡後、徳川家康の家臣となる。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1591年(天正19)4月20日没。59才。法名「放光院殿陵山殊元居士」。
土屋盛直 生 明和5年 (1768年)没 寛政5年 (1793年) 1768年(明和5)渡邊寛綱の次男として生まれる。土屋匡直の養子となり、匡直の隠居により1793年(寛政5)4月跡を継ぐ。1793年(寛政5)8月4日没。26才。法名「正○院殿了道宗直居士」。
土屋易直 生 享保10年 (1725年)没 明和5年 (1768年) 1725年(享保10)亮直の次男として生まれる。倫直の養子となり、倫直の死により1740年(元文5)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。勤務を怠ることが多く出仕をめられるものち赦される。1768年(明和5)1月2日没。44才。法名「紹得院殿體然元空居士」。
土屋倫直 生 元禄15年 (1702年)没 元文5年 (1740年) 1702年(元禄15)喬直の3男として生まれる。兄安直の養子となり、安直の死により1737年(元文2)11月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1740年(元文5)4月9日没。39才。法名「普光院殿本照了然居士」。
土屋安直 生 元禄12年 (1699年)没 元文2年 (1737年) 1699年(元禄12)喬直の長男として生まれる。1710年(宝永7)9月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1725年(享保10)11月跡を継ぐ。1737年(元文2)8月1日没。39才。法名「嶺雲院殿蘆淵以白居士」。
土屋喬直 生 寛文6年 (1666年)没 享保10年 (1725年) 1666年(寛文6)利直の3男として生まれる。幕府の寄合となる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1725年(享保10)8月23日没。60才。法名「鐡心院殿禪閑義透居士」。
土屋利直 生 慶長12年 (1607年)没 延宝3年 (1675年) 上総久留里藩2代藩主。1607年(慶長12)忠直の長男として生まれる。1612年(慶長17)遺領を継ぎ、徳川家康に拝謁。大坂の陣のときには箱根を警備。1675年(延宝3)閏4月24日没。69才。法名「普乾院殿俊林道英大居士」。
土屋忠直① 生 天正6年 (1578年)没 慶長17年 (1612年) 上総久留里藩初代藩主。1578年(天正6)昌恒の長男として生まれる。父は武田家の家臣で武田家滅亡の時に殉じた。忠直は、母に連れられて駿河国に逃れ清見寺にて成長した。1588年(天正16)徳川家康が鷹狩のとき清見寺に立寄ったときに召される。翌年より家康3男秀忠の近習として仕える。1600年(慶長5)上田城攻めに従う。1602年(慶長7)上総久留里で2万石を与えらる。1612年(慶長17)3月24日没。35才。法名「圓覚寺殿琴窓淨閑大居士」。
徳川秀忠妻① 生 不明没 寛永3年 (1626年) 浅井長政の3女として近江国小谷に生まれる。母は織田信長の妹お市の方。お江、小督、お江与ともいい崇源院は諡号。姉に淀殿、常高院がいる。豊臣秀吉の意向により佐治一成に嫁ぐ。一成が小牧長久手の戦いのときに秀吉に敵対したため、離縁。その後、秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁ぎ、女子(豊臣完子)を儲ける。秀勝が病没すると、徳川秀忠に再婚。秀忠との間に、千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の2男5女を儲ける。1626年(寛永3)9月15日没。法名「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。
勝田典愛妻 生 不明没 正徳5年 (1715年) 矢島治太夫の長女。典愛との間に愛通の1男を儲ける。1715年(正徳5)5月14日没。法名「貞鏡院殿照誉法忍大姉」。墓石側面には「矢嶋氏治太夫藤原安貞嫡女」とある。
松平忠啓妻 生 宝暦5年 (1755年)没 安永8年 (1779年) 1755年(宝暦5)2月28日毛利重就の6女として生まれる。名は澄姫。1775年(安永4)6月3日忍城主松平忠啓に嫁ぐ。忠啓との間に、男子1人を儲ける。1779年(安永8)6月29日没。25才。法名「蘭蕙院殿孤芳智秀大姉」。
佐世広長妻 生 不明没 正徳2年 (1712年) 毛利就泰の長女。佐世広長に嫁ぐ。広長との間に子は出来ず。1712年(正徳2)2月27日没。法名「桂光院殿昌顔自久大姉」。夫広長は1714年(正徳4)に桂光院(山口市阿東地福上)で彼女の追善菩提を弔っている。
佐世広玄 生 貞享2年 (1685年)没 享保16年 (1731年) 長州毛利家家臣。1685年(貞享2)宣直の子として生まれる。伯父広長の養子となり跡を継ぐ。1731年(享保16)9月29日没。47才。法名「忠山宗節居士」。
毛利吉元 生 延宝5年 (1677年)没 享保16年 (1731年) 長州藩5代藩主。1677年(延宝5)8月24日綱元の長男として生まれる。毛利本家の吉広が亡くなると養嗣子となり本家を継ぐ。毛利家の支藩徳山藩毛利元次と揉め事を起し、幕府も介入して徳山藩は改易となる。(万役山事件)1731年(享保16)9月13日没。55才。法名「泰桓院殿仰岳浄高大居士」。
毛利宗広妻 生 享保7年 (1722年)没 元文5年 (1740年) 1722年(享保7)越前松平宗昌の長女として生まれる。1738年(元文3)宗広と結婚。宗広との間に豊姫の1女を儲ける。1740年(元文5)3月7日没。19才。法名「融芳院殿宣譽現笑和光大姉」。
毛利宗広 生 享保2年 (1717年)没 寛延4年 (1751年) 長州藩6代藩主。1717年(享保2)7月6日吉元の5男として生まれる。1727年(享保12)徳川吉宗より1字を賜り宗広と名乗る。父の死により1731年(享保16)10月跡を継ぐ。1751年(寛延4)2月4日没。25才。法名「観光院殿天倫常沢大居士」。
毛利治親妻(邦媛院) 生 宝暦6年 (1756年)没 文化12年 (1815年) 1756年(宝暦6)徳川宗武の5女として生まれる。治親との間に美喜姫、多美姫の2女を儲ける。1815年(文化12)6月4日没。60才。法名「邦媛院殿壽山展興大姉」。
毛利治親 生 宝暦4年 (1754年)没 寛政3年 (1791年) 長州藩8代藩主。1754年(宝暦4)6月15日重就の4男として生まれる。10代将軍徳川家治から1字を与えられ治元と名乗る。(のちに治親に改名)1791年(寛政3)6月12日没。38才。法名「容徳院殿仁山応壽大居士」。
毛利吉広妻 生 元禄5年 (1692年)没 元文4年 (1739年) 1692年(元禄5)鷹司輔信の次女として生まれる。名は小石姫。1703年(元禄16)9月吉広と結婚。吉広との間には子供が出来ず。1739年(元文4)8月22日没。48才。法名「養心院殿浄室負観大禅定尼」。
毛利吉広 生 延宝元年 (1673年)没 宝永4年 (1707年) 長州藩4代藩主。1673年(延宝元)1月12日綱広の次男として生まれる。右田毛利就信の養子となるも、兄吉就が子が無く没したため長州藩を継ぐ。徳川綱吉に拝謁して1字を賜い、吉広と名乗る。1707年(宝永4)10月13日没。35才。法名「青雲院殿徹山道照大居士」。
毛利吉元妻(法林院) 生 貞享2年 (1685年)没 宝暦11年 (1761年) 1685年(貞享2)池田綱政の次女として生まれる。吉元の間に、宗元、齋宮、元陳、島津綱豊妻の3男1女を儲ける。1761年(宝暦11)3月8日没。77才。法名「法林院殿壽昌浄榮大姉」。
毛利斉熙妻 生 寛政10年 (1798年)没 安政3年 (1856年) 1798年(寛政10)池田治道の3女として生まれる。1810年(文化7)1月毛利斉熙に嫁ぐ。1856年(安政3)12月24日没。59才。法名「法鏡院殿真光恵明大姉」。
毛利斉熙 生 天明3年 (1783年)没 天保7年 (1836年) 長州藩10代藩主。1783年(天明3)12月治親の次男として生まれる。兄の死去により跡を継ぐ。11代将軍徳川家斉より1字を与えられ斉熙と名乗る。1836年(天保7)5月14日没。54才。法名「清徳院殿天安道寧大居士」。
毛利斉房妻 生 天明2年 (1782年)没 嘉永5年 (1852年) 1782年(天明2)有栖川宮織仁親王の第2王女として生まれる。妹の子に徳川慶喜がいる。1797年(寛政9)1月毛利斉房に嫁ぐ。1852年(嘉永5)9月8日没。71才。法名「貞操院殿松林如榮大姉」。
毛利斉房 生 天明2年 (1782年)没 文化6年 (1809年) 長州藩9代藩主。1782年(天明2)11月治親の長男として生まれる。1791年(寛政3)父の死により跡を継ぐ。1795年(寛政7)11代将軍徳川家斉から1字を賜い斉房と名乗る。1809年(文化6)2月14日没。28才。法名「靖恭院殿澹雲如祥大居士」。
毛利斉元妻 生 文化元年 (1804年)没 天保9年 (1838年) 1804年(文化元)毛利斉熙の娘として生まれる。名は由美姫。斉元との間に子は出来ず。1838年(天保9)12月21日没。35才。法名「蓮容院殿美艶清質大禅尼」。
毛利斉元 生 寛政6年 (1794年)没 天保7年 (1836年) 長州藩11代藩主。1794年(寛政6)3月親著の長男として生まれる。福原房純の養嗣子となるが、のちに長州藩本家の斉熙の養子となり1824年(文政7)2月跡を継ぐ。1836年(天保7)9月8日没。43才。法名「邦憲院殿慈峰真秀大居士」。遺髪塔。
永井直矢 生 天保13年 (1842年)没 慶応元年 (1865年) 摂津高槻藩12代藩主。1842年(天保13)松平親良の次男として生まれる。11代藩主直輝の養子となり、直輝の隠居により1861年(文久元)9月跡を継ぐ。1865年(慶応元)4月17日没。24才。法名「真諦院殿本空宗継大居士」。
永井直与 生 天明5年 (1785年)没 弘化3年 (1846年) 摂津高槻藩10代藩主。1785年(天明5)4月直進の長男として生まれる。父の隠居により1809年(文化6)8月跡を継ぐ。1842年(天保13)11月隠居。1846年(弘化3)7月7日没。62才。法名「瑞鳳院殿徳翁宗壽大居士」。
永井直進 生 宝暦11年 (1761年)没 文化12年 (1815年) 摂津高槻藩9代藩主。1761年(宝暦11)直珍の長男として生まれる。父の死により1771年(明和8)1月跡を継ぐ。1809年(文化6)8月隠居。1815年(文化12)2月2日没。55才。法名「法心院殿瑞林宗雲大居士」。
有馬頼貴妻 生 宝暦元年 (1751年)没 安永4年 (1775年) 1751年(宝暦元)毛利重就の娘として生まれる。名は勢代。有馬頼貴に嫁ぐも子は出来ず。1775年(安永4)閏12月20日没。25才。法名「養源院殿貞室知榮大姉」。
有馬頼徸妻 生 享保8年 (1723年)没 安永3年 (1774年) 1723年(享保8)京極宮家仁親王の第一王女として生まれる。名は登与姫。1742年(寛保2)9月有馬頼徸に嫁ぐ。子は出来なかったが側室奥田氏の生んだ頼貴の養母となる。1774年(安永3)1月14日没。52才。法名「景福院殿花岳宗富大姉」。
毛利治親娘(瑤林院) 生 寛政2年 (1790年)没 寛政3年 (1791年) 1790年(寛政2)6月26日治親の3女として生まれる。名は美津姫。1791年(寛政3)11月12日没。2才。法名「瑤林院殿如幻雪香神童女」。
毛利治親娘(麗光院) 生 天明元年 (1781年)没 寛政6年 (1794年) 1781年(天明元)閏5月3日治親の次女として生まれる。名は多美姫。有馬頼端と婚約するも1794年(寛政6)9月4日没。14才。法名「麗光院殿實參堅頴大姉」。
毛利治親娘(寶幢院) 生 安永7年 (1778年)没 天明2年 (1782年) 1778年(安永7)6月5日毛利治親の長女として生まれる。名は美喜姫。1782年(天明2)5月4日没。5才。法名「寶幢院殿岡玉榮光大童女」。
前田利謙妻 生 明和5年 (1768年)没 寛政4年 (1792年) 1768年(明和5)3月1日毛利重就の9女として生まれる。名は長姫。1792年(寛政4)1月23日前田利謙に嫁ぐ。利謙との間に子は出来ず。1814年(文化11)5月25日没。47才。法名「瑤臺院殿瓊室妙燿大姉」。
大岡久弥 生 文政2年 (1819年)没 文政12年 (1829年) 1819年(文政2)4月12日忠固の長男として生まれる。1829年(文政12)12月27日没。11才。法名「梅萼院殿天然清香禅童子」。
大岡忠喜娘(繊月院) 生 明和4年 (1767年)没 天明7年 (1787年) 1767年(明和4)12月23日忠喜の5女として生まれる。名は於宣。1784年(天明4)水野忠昭に嫁ぐも1786年(天明6)9月離縁。このとき身籠っていたことが後で判明。1787年(天明7)5月6日出産のとき、子とともに没。(表向は7日没)21才。法名「繊月院殿翆岩妙黛大姉」。
大岡忠喜娘(照蓮院) 生 宝暦10年 (1760年)没 安永3年 (1774年) 1760年(宝暦10)2月3日忠喜の長女として生まれる。名は於松。1767年(明和4)12月増山正賢と縁談が決まるも、1774年(安永3)9月2日没。15才。法名「照蓮院殿安室智清大姉」。
鍋島重茂妻 生 元文4年 (1739年)没 宝暦11年 (1761年) 1739年(元文4)伊達宗村の娘として生まれる。名は源姫惇子。鍋島重茂に嫁ぎ、1761年(宝暦11)源丸 を儲ける。同年10月5日没。23才。法名「霊松院殿青巌慧浄大姉」。