牧野康成(与板)の墓碑
牧野康成(与板)
生 元和3年 (1617年)
没 明暦3年 (1657年)
1617年(元和3)忠成の次男として生まれる。1634年(寛永11)父より1万石を分知され越後与板藩主となる。1657年(明暦3)12月30日没。41才。法名「馨香院殿登譽泰安大居士」。
牧野定成(三根山)の墓碑
牧野定成(三根山)
生 元和3年 (1617年)
没 万治元年 (1658年)
1617年(元和3)忠成の4男として生まれる。1632年(寛永9)8月将軍徳川家光に拝謁。1634年(寛永11)父より6千石分知をされ越後三根山領主となる。1658年(万治元)10月7日没。42才。法名 「一山大居士」。
松平永兼の墓碑
松平永兼
生 天正8年 (1580年)
没 元和5年 (1619年)
1580年(天正8)戸田康長の長男として生まれる。母は徳川家康の異父妹松姫。1592年(文禄元)家康の御前で元服。1619年(元和5)6月10日没。40才。法名「壽昌院殿劫巖玄永大禅定門」。
松平忠光の墓碑
松平忠光
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永6年 (1629年)
1598年(慶長3)戸田康長の次男として生まれる。15才のとき徳川秀忠の御前で元服して、1字を賜い始め忠長と名乗る。大坂の両陣に父に従い参陣。1629年(寛永6)3月16日没。32才。法名「大休院殿的翁良端大居士」。
松平光雄の墓碑
松平光雄
生 享保元年 (1716年)
没 宝暦6年 (1756年)
信濃松本藩2代藩主。1716年(享保元)8月松平光煕の5男として生まれる。1732年(享保17)8月兄光慈の養子となり、同年10月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1756年(宝暦6)11月1日没。41才。法名「萬彭院殿松巖元盛大居士」。
松平光永の墓碑
松平光永
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永2年 (1705年)
美濃加納藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1656年(明暦2)3月将軍徳川家綱に拝謁。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。1705年(宝永2)2月29日没。63才。法名「光永院殿逸山道秀大居士」。
松平光慈の墓碑
松平光慈
生 正徳2年 (1712年)
没 享保17年 (1732年)
信濃松本藩初代藩主。1712年(正徳2)9月光煕の3男として生まれる。叔父戸田光規の養子となるも兄2人が亡くなったため、父の死後1717年(享保2)11月家督を継ぐ。1723年(享保8)4月将軍徳川吉宗に拝謁。1732年(享保17)8月11日没。21才。法名「泰心院殿穆堂良恭大居士」。
戸田忠昌娘の墓碑
戸田忠昌娘
生 延宝元年 (1673年)
没 貞享4年 (1687年)
1673年(延宝元)戸田忠昌の娘として生まれる。1687年(貞享4)9月27日没。15才。法名「瑞心院殿慈観妙慧大姉」。
戸田忠昌妻の墓碑
戸田忠昌妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
秋元富朝の娘。母は有馬直純の娘。戸田忠昌に嫁ぎ、秋元喬知、忠真、忠章の3男を儲ける。1695年(元禄8)2月23日没。法名「雲臺院殿高嶽妙蔭大姉」。墓石は夫忠昌の建立による。
戸田康長娘の墓碑
戸田康長娘
生 不明
没 正保3年 (1646年)
戸田康長の2女。松平乗寿に嫁ぐ。乗寿との間に子は出来ず、のちに離縁している。戸田家墓域に墓があることから、離婚後は実家に戻ったと思われる。1646年(正保3)6月18日没。法名「清涼院殿南窓貞薫大姉」。墓石は兄忠光の子松平光重の建立による。
戸田康長の墓碑
戸田康長
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永9年 (1632年)
1562年(永禄5)忠重の子として生まれる。徳川家康より松平の姓を賜り、家康の異父妹松姫を妻とする。1574年(天正2)家康の御前で元服、家康より一字を賜い康長と名乗る。1581年(天正9)高天神城攻めで初陣。以後、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、関ヶ原の戦いに従う。1617年(元和3)信濃松本藩7万石となる。2代将軍秀忠の信頼も厚く家光の守役も務めた。1632年(寛永9)12月12日没。71才。法名「祥雲院殿一運宗智大居士」。
戸田康直の墓碑
戸田康直
生 元和3年 (1617年)
没 寛永11年 (1634年)
播磨明石藩初代藩主。1617年(元和3)康長の3男として生まれる。1632年(寛永9)12月父の死により家督を継ぐ。1634年(寛永11)5月12日没。18才。法名「寂照院殿節叟賢忠大禅定門」。
戸田光重の墓碑
戸田光重
生 元和8年 (1622年)
没 寛文8年 (1668年)
美濃加納藩初代藩主。1622年(元和8)忠光の長男として生まれる。1634年(寛永11)叔父の康直が没すると、改易になるとこを特別に光重が跡を継ぐ。1668年(寛文8)7月30日没。47才。法名「光重寺殿別峯道見大居士」。
戸田光規の墓碑
戸田光規
生 延宝6年 (1678年)
没 享保元年 (1716年)
1678年(延宝6)光永の3男として生まれる。1695年(元禄8)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1704年(宝永元)1月中奥の小姓となる。1716年(享保元)閏2月19日没。39才。法名「光䂓院殿明山孤天大居士」。
戸田光熙の墓碑
戸田光熙
生 延宝2年 (1674年)
没 享保2年 (1717年)
美濃加納藩3代藩主。1674年(延宝2)光永の長男として生まれる。1683年(天和3)3月徳川綱吉に拝謁。1705年(宝永2)4月家督を継ぐ。1717年(享保2)9月4日没。44才。法名「寶雲院殿徳翁良泰大居士」。
小笠原忠真妻の墓碑
小笠原忠真妻
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永20年 (1643年)
1597年(慶長2)本多忠政の次女として生まれる。母は松平信康の次女熊姫。名は亀姫といわれる。徳川家康の曾孫にあたる。家康の養女として、同じく家康の曾孫小笠原忠脩(母は信康の長女登久姫)に嫁ぐ。1615年(慶長20)大坂夏の陣で忠脩が討死すると忠脩の弟忠真に嫁いだ。忠脩の間には1男1女、忠真の間には2男3女を儲けた。1643年(寛永20)10月3日没。47才。法名「圓照院殿花陽宗月大姉」。
青山忠門の墓碑
青山忠門
生 永正15年 (1518年)
没 元亀2年 (1571年)
1518年(永正15)忠世の子として生まれる。松平広忠に仕え1548年(天文17)3月小豆坂の戦いに参戦。今川義元に仕え、さらに徳川家康に仕える。三河一向一揆のときは家康側に従う。武田軍との戦いで傷を負い、それが原因で1571年(元亀2)4月7日没。54才。法名「映峯授玉禅定門」。墓石施主は息子藤七郎忠成による。
蠣崎利広娘の墓碑
蠣崎利広娘
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
蠣崎利広の娘。1665年(寛文5)6月11日没。法名「高嶽院殿玉簾貞深大姉」。墓石に「松前竹松為養母立之」とあり、松前竹松の養母をしている。竹松は、1659年(万治2)生まれの松前藩5代藩主松前矩広と思われる。
稲富祐直妻の墓碑
稲富祐直妻
生 不明
没 不明
稲富祐直の妻。詳細不明。逆修塔で夫の没年月日の1611年(慶長16)2月6日建立とある。
松前高広の墓碑
松前高広
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文5年 (1665年)
蝦夷地松前藩4代藩主。1642年(寛永19)氏広の長男として生まれる。1648年(慶安元)父の死により7才で跡を継ぐ。1649年(慶安2)6月将軍徳川家光に拝謁。1665年(寛文5)7月5日没。24才。法名「松前院殿漢臣利永大居士」。
松前為広の墓碑
松前為広
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
安広の5男。兄広国の養子となる。仙台藩伊達家に仕える。1676年(延宝4)小姓、1687年(貞享4)大番頭。1692年(元禄5)9月14日没。法名「吸江院蘊嶽紹龐居士」。
松前氏広の墓碑
松前氏広
生 元和8年 (1622年)
没 慶安元年 (1648年)
蝦夷地松前藩3代藩主。1622年(元和8)公広の次男として生まれる。1638年(寛永15)将軍徳川家光に拝謁。1641年(寛永18)父の死去により跡を継ぐ。1648年(慶安元)8月25日没。27才。法名「氏広院殿直心宗性大居士」。
松前広国の墓碑
松前広国
生 寛永8年 (1631年)
没 天和2年 (1682年)
1631年(寛永8)安広の次男として生まれる。八之助。仙台藩伊達家の家臣。白石城主片倉景長は実兄。父の隠居により1656年(明暦2)跡を継ぐ。伊達騒動で活躍。歌舞伎や浪曲の「松前鉄之助」は広国をモデルとしている。1682年(天和2)3月10日没。52才。法名「見桃院了源崇徹居士」。
松前安広の墓碑
松前安広
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文8年 (1668年)
1606年(慶長11)慶広の7男として生まれる。1623年(元和9)より伊達政宗に仕える。仙台松前家の祖。伊達家の重臣片倉重長の娘を妻とする。長男の重長は片倉家を継いでいる。1656年(明暦2)隠居。1668年(寛文8)7月8日没。63才。法名「大信院殿自体恕然居士」。
松前公広の墓碑
松前公広
生 慶長3年 (1598年)
没 寛永18年 (1641年)
蝦夷地松前藩2代藩主。1598年(慶長3)盛広の長男として生まれる。1613年(慶長18)11月9日将軍徳川秀忠に15日に大御所家康に拝謁。祖父慶広の死により1617年(元和3)跡を継ぐ。1641年(寛永18)7月8日没。44才。法名「公広院殿渓雲宗愚大居士」。側面に「寛文元年十月十四日」とあり建立日と思われる。
山口直友妻の墓碑
山口直友妻
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
戸田一西の長女。間宮牛之助に嫁ぎ、戸田正家、八左衛門、正綱、権左衛門の4男を儲ける。のち、山口直友と再婚。直友との間に直治を儲ける。1644年(寛永21)1月17日没。法名「光壽院殿梅譽清春大姉」。墓石は正綱が母の為に建立。
南部利直妻(香林院)の墓碑
南部利直妻(香林院)
生 不明
没 寛永5年 (1628年)
南部家重臣石井伊賀守直弥の妹。名は楽。南部利直に嫁ぎ、北直愛妻、政直、中野元康妻の1男2女を儲ける。1628年(寛永5)7月26日没。法名「香林院殿梅枝月公大禅定尼」。
北直継の墓碑
北直継
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
信愛の3男。南部信直の家老。信直より1字を賜い直継と名乗る。九戸政実の乱や大坂冬の陣に従う。1630年(寛永7)10月13日没。法名「雪窓好公大禅定門」。
八戸義長妻の墓碑
八戸義長妻
生 不明
没 不明
北宣継の娘。名は連。八戸義長に嫁ぎ、義論を儲ける。夫の没後戌千代(義論)の後見をする。法名「壽量院殿栄岳宗繁大姉」。墓石は、息子義論の養子彦市利戡の建立による。
八戸義長の墓碑
八戸義長
生 寛永18年 (1641年)
没 元禄元年 (1688年)
遠野南部家2代当主。1641年(寛永18)7月直義の長男として生まれる。盛岡藩南部家筆頭家老として仕える。遠野領地の検地を行い、超過分の1部で附馬牛八戸家として弟義也に分知。1688年(元禄元)6月28日没。48才。法名「光徳院殿日山惠公大居士」。
八戸義論の墓碑
八戸義論
生 天和2年 (1682年)
没 元禄12年 (1699年)
遠野南部家3代当主。1682年(天和2)10月義長の次男として生まれる。父が1688年(元禄元)6月没したため跡を継ぐ。幼少ゆえ外祖父北宣継の干渉を受ける。1699年(元禄12)5月21日没。18才。法名「觀照院殿德眼義公大居士」。
八戸直義の墓碑
八戸直義
生 慶長6年 (1601年)
没 延宝3年 (1675年)
遠野南部家初代当主。1601年(慶長6)新田政広の子として生まれる。八戸氏の女当主清心尼の娘を娶り婿となる。1627年(寛永4)主君南部利直の命により八戸から遠野に移封となり、遠野南部家初代当主となる。1675年(延宝3)1月31日没。75才。法名「大桑院殿鐵洲源船大居士」。
八戸怡顔の墓碑
八戸怡顔
生 寛延4年 (1751年)
没 文化14年 (1817年)
遠野南部家8代当主。1751年(寛延4)8月義顔の次男として生まれる。父の死により1785年(天明5)3月跡を継ぐ。1806年(文化3)松平定信による「集古十種」作成に協力。1817年(文化14)10月6日没。67才。法名「峻德院殿哲勇仁舩大居士」。相続の問題により公式には10月26日に没したことになっている。
七戸直時の墓碑
七戸直時
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直勝の子。隼人正。南部信直の家老。1597年(慶長2)父の隠居により跡を継ぎ、七戸城主となり2千石を領す。(2千300石とも)1614年(慶長19)大坂冬の陣に主君信直に従い参戦。1647年(正保4)2月16日没。法名「瑞龍寺殿証山自公居士」。
石井善太夫の墓碑
石井善太夫
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
奥州南部氏の家臣。1626年(寛永3)南部利直が上洛したときに供奉。同年10月29日京都で没。法名「〇〇正善大禅定門」。墓石は1周忌に息子作十郎の建立による。
南部重直の墓碑
南部重直
生 慶長11年 (1606年)
没 寛文4年 (1664年)
陸奥盛岡藩2代藩主。1606年(慶長11)3月利直の3男として生まれる。1632年(寛永9)父の死後跡を継ぐ。1636年(寛永13)参勤交代に遅れたため蟄居処分を受ける。1664年(寛文4)9月12日没。59才。法名「即性院殿三峯宗玄大居士」。
南部重信妻の墓碑
南部重信妻
生 不明
没 寛文11年 (1671年)
玉山秀久の娘。南部重信に嫁ぎ、重信との間に、七戸定信、行信、池田綱清妻の2男1女を儲ける。1671年(寛文11)10月14日没。法名「大智院殿心月妙印大姉」。
南部行信妻の墓碑
南部行信妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
毛利光広の娘。1666年(寛文6)11月南部行信に嫁ぎ、青山幸督妻、男子、南部直政妻、小出重興妻、実信の2男3女を儲ける。1684年(貞享元)10月17日没。法名「清淨院殿玉峯宗秀大姉」。
南部実信の墓碑
南部実信
生 延宝4年 (1676年)
没 元禄13年 (1700年)
1676年(延宝4)行信の次男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。跡取りだったが父よりも早く1700年(元禄13)2月29日没。25才。法名「泰雲院殿霊嶽宗光大居士」。
南部利直妻(源秀院)の墓碑
南部利直妻(源秀院)
生 天正9年 (1581年)
没 寛文3年 (1663年)
1581年(天正9)3月9日小倉行隆の娘として生まれる。名は於武。蒲生氏郷の養女となり南部利直に嫁ぐ。藤原秀郷が大ムカデ退治した時の矢の鏃を持って輿入れしたためムカデ姫とも呼ばれる。利直との間に重直を儲ける。1663年(寛文3)7月26日江戸で没。83才。法名「源秀院殿寶譽正玉大姉」。墓石は3回忌に利直の息子で重信(母は花輪政朝の娘)の建立による。3回忌のときには息子の重直が没していたため、相続した弟の重信が義母のために建立したものと思われる。
南部利直の墓碑
南部利直
生 天正4年 (1576年)
没 寛永9年 (1632年)
陸奥盛岡藩初代藩主。1576年(天正4)信直の長男として生まれる。1590年(天正18)前田利家が烏帽子親となり元服、1字を貰い利直と名乗る。豊臣秀吉に従い死後は、徳川家康に従う。1632年(寛永9)8月18日没。57才。法名「南宗院殿月渓晴公居士」。墓石には息子重直が1633年(寛永10)8月18日の1周忌に建立したことが刻まれている。
南部利用(善太郎)の墓碑
南部利用(善太郎)
生 享和3年 (1803年)
没 文政4年 (1821年)
陸奥盛岡藩11代藩主。1803年(享和3)11月信浄の3男として生まれる。1821年(文政4)に怪我で没した藩主利用(吉次郎)の替え玉として藩主となる。同年11月には藩主利用として将軍徳川家斉に拝謁。1825年(文政8)8月21日没。23才。法名「養徳院殿義山宗仁大居士」。
南部利用(吉次郎)の墓碑
南部利用(吉次郎)
生 文化4年 (1807年)
没 文政4年 (1821年)
1807年(文化4)12月信丞の長男として生まれる。南部利敬の養子となり跡を継ぐ。1821年(文政4)8月21日怪我が原因で死去。15才。法名「常孝院殿誠允宗善大居士」。将軍に拝謁まえだったため利用の従兄の善次郎に利用を名乗らせ身代わりとして幕府に届けているため、公式の藩主となっていない。
南部利済の墓碑
南部利済
生 寛政9年 (1797年)
没 文政8年 (1825年)
陸奥盛岡藩12代藩主。1797年(寛政9)8月利謹の次男として生まれる。初め出家していたが1820年(文政3)還俗して三戸修礼と名乗る。1825年(文政8)9月盛岡藩主南部利用(善太郎)が没すると跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家斉に拝謁。1855年(安政2)4月14日没。59才。法名「靈承院殿顯道宗祗大居士」。
諏訪頼音の墓碑
諏訪頼音
生 延宝8年 (1680年)
没 宝暦元年 (1751年)
1680年(延宝8)頼郷の長男として生まれる。1646年(正保3)3月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)12月跡を継ぐ。父と同じく徳川綱重の家老を務める。1751年(宝暦元)12月2日没。72才。法名「元亨院殿一得萬休居士」。墓石は息子主殿頼為(頼秋)の建立による。
諏訪頼水妻の墓碑
諏訪頼水妻
生 永禄10年 (1567年)
没 正保2年 (1645年)
1567年(永禄10)徳川家康家臣本多康重の娘として生まれる。家康の命で諏訪頼水に嫁ぐ。頼水との間に、忠恒、頼郷、頼長の3男を儲ける。1645年(正保2)10月7日没。79才。法名「貞松院殿興譽英隆大姉」。墓石は逆修塔。
諏訪頼水の墓碑
諏訪頼水
生 元亀元年 (1570年)
没 寛永18年 (1641年)
信濃諏訪藩初代藩主。1570年(元亀元)頼忠の子として生まれる。1582年(天正10)父とともに徳川家康に拝謁。そのとき仰せにより家康譜代の家臣本多康重の娘を娶る。1590年(天正18)父と共に小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原のときは、家康3男秀忠に従い上田城を攻める。戦後、信濃国諏訪の地を賜る。1626年(寛永3)4月家康の6男松平忠輝を預かる。1641年(寛永18)1月14日没。72才。法名「頼岳寺殿昊窓映林大居士」。
諏訪頼忠妻の墓碑
諏訪頼忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
向井氏。諏訪頼忠に嫁ぎ、頼水を生む。1627年(寛永4)9月2日没。法名「理昌院殿玉榮貞珠大姉」。墓石は息子頼水の建立による。
諏訪頼忠の墓碑
諏訪頼忠
生 天文5年 (1536年)
没 慶長11年 (1606年)
1536年(天文5)満隣の子として生まれる。武田信玄、勝頼に仕える。武田家が滅び、さらに織田信長が斃れると諏訪家の旧臣千野昌房が高島城から織田方の弓削重蔵を追い出し頼忠を迎い入れた。その後甲斐に進出してきた徳川家康の家臣となる。小田原の合戦で功をあげる。1600(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城を守衛。1606年(慶長11)8月11日没。71才。法名「永明院殿光山宗瑚大居士」。
諏訪忠誠妻の墓碑
諏訪忠誠妻
生 不明
没 天保13年 (1842年)
松平乗寛の娘。1840年(天保11)11月諏訪忠誠の正室となる。1842年(天保13)7月11日没。法名「貞鏡院殿月津浄照大姉」。墓石は夫忠誠の建立による。