佐竹義和妻の墓碑
佐竹義和妻
生 安永元年 (1772年)
没 文化13年 (1816年)
1772年(安永元)11月26日堀田正順の娘として生まれる。名は鐡、彌。1793年(寛政5)2月佐竹義和に嫁ぐ。義和との間に、女子1女を儲ける。他の側室が儲けた女子(名は利瑳)を養女として前田斉泰と婚約するも、嫁ぐまえに早世。1816年(文化13)5月13日没。45才。法名「仙松院殿幽巖秀雲大姉」。
佐世長哲の墓碑
佐世長哲
生 享保元年 (1716年)
没 元文元年 (1736年)
長州毛利家家臣。1716年(享保元)広玄の子として生まれる。毛利広規の娘と婚約するも1736年(元文元)8月1日没。21才。法名「月岑宗圓居士」。
佐世広長の墓碑
佐世広長
生 承応元年 (1652年)
没 享保2年 (1717年)
長州毛利家家臣。1652年(承応元)就説の長男として生まれる。1717年(享保2)6月4日没。66才。法名「仁叟宗英居士」。
佐世就説の墓碑
佐世就説
生 元和4年 (1618年)
没 延宝9年 (1681年)
長州毛利家家臣。1618年(元和4)元量の子として生まれる。母は尼子倫久の娘。1681年(延宝9)3月13日没。64才。法名「芳心院殿巖宗〇居士」。
亀井茲延妻の墓碑
亀井茲延妻
生 享保3年 (1718年)
没 元文6年 (1741年)
1718年(享保3)4月有馬則維の娘として生まれる。名は嘉代。稲葉董通の許嫁となるも嫁ぐまえに董通が1737年(元文2)没す。(寛政重修諸家譜には董通室とあるが結婚してない)1739年(元文4)9月亀井茲延の妻となる。1741年(元文6)1月24日没。24才。法名「成仙院殿壷岑貞玉大禅定尼」。
長井元房の墓碑
長井元房
生 不明
没 寛永2年 (1625年)
元為の子。毛利輝元に仕える。輝元から温情をかけられた逸話が残っていて、輝元が没すると1625年(寛永2)6月2日殉死。法名「閑叟紹玄居士」。山口県萩市の天樹院墓所の輝元墓の傍にも墓がある。
蘆名義勝妻の墓碑
蘆名義勝妻
生 不明
没 寛永7年 (1630年)
京都より出羽角館の蘆名義勝に嫁ぐ。1630年(寛永7)3月7日没。法名「天桂院殿長薫大姉」。秋田県仙北市角館町の天寧寺にも墓がある。墓石は夫主計義勝の建立による。
蘆名盛俊の墓碑
蘆名盛俊
生 寛永8年 (1631年)
没 慶安4年 (1651年)
出羽角館蘆名氏2代。1631年(寛永8)義勝の子として生まれる。久保田藩佐竹家の重臣。1643年(寛永20)6月将軍徳川家光に拝謁。1651年(慶安4)6月10日没。21才。法名「廣猷院雄山宗英大禅定門」。墓石には「慶安四年七月廿日」とあるが建立日と思われる。墓石施主は息子千鶴丸。墓石には芦名千靏とある。
牧野成時の墓碑
牧野成時
生 寛文3年 (1663年)
没 貞享4年 (1687年)
1663年(寛文3)黒田用綱の4男として生まれる。1670年(寛文10)2月将軍徳川家綱に拝謁。1683年(天和3)1月牧野成貞の養子となり、その娘を妻とする。牧野家の跡を継ぐことなく1687年(貞享4)9月27日没。25才。法名「功泰院殿機應即全居士」。
牧野儀成の墓碑
牧野儀成
生 慶長11年 (1606年)
没 万治3年 (1660年)
1606年(慶長11)忠成の3男として生まれる。1627年(寛永4)大御所徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。御書院番、小姓組頭、御書院番頭を務める。1660年(万治3)3月5日没。55才。法名「要津院殿壁立鈍鐡居士」。
毛利重広の墓碑
毛利重広
生 享保21年 (1736年)
没 宝暦10年 (1760年)
1736年(享保21)2月25日有馬一準の次男として生まれる。毛利宗広の次女誠姫を娶り、長府藩7代藩主毛利重就の養子となる。1752年(宝暦2)4月9代将軍徳川家重に拝謁。跡を継ぐことなく1760年(宝暦10)6月19日没。25才。法名「隆徳院殿傑心傅英大居士」。
毛利重就娘(涼嶽院)の墓碑
毛利重就娘(涼嶽院)
生 宝暦2年 (1752年)
没 宝暦9年 (1759年)
1752年(宝暦2)11月15日重就の5女として生まれる。母は立花貞俶の娘。1759年(宝暦9)7月25日没。8才。法名「涼嶽院殿慧林玉芳大童女」。
毛利重就の墓碑
毛利重就
生 享保10年 (1725年)
没 寛政元年 (1789年)
長州藩7代藩主。1725年(享保10)匡広の10男として生まれる。1751年(宝暦元)2月長州藩6代藩主宗広の末期養子として跡を継ぐ。同4月、将軍徳川家重に拝謁。新田開発、塩田開発など藩の財政改革に取り組む。1782年(天明2)家督を4男の治親に譲り隠居。1789年(寛政元)10月7日没。65才。法名「英雲院殿祐山如靖大居士」。重就の読みは「しげたか」である。
毛利輝元の墓碑
毛利輝元
生 天文22年 (1553年)
没 寛永2年 (1625年)
1553年(天文22)1月隆元の長男として生まれる。祖父元就の跡を継ぎ、叔父吉川元春や小早川隆景の2人が輝元を補佐した。織田信長と敵対していたが、信長没後は豊臣秀吉に従う。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは西軍の総大将となったため大幅に減封される。1625年(寛永2)4月27日没。73才。法名「天樹院殿雲岩宗瑞大居士」。
毛利宗元の墓碑
毛利宗元
生 元禄16年 (1703年)
没 享保6年 (1721年)
長門長府藩4代藩主。元朝とも。 1703年(元禄16)1月19日吉元の長男として生まれる。祖父綱元の養子となり長府藩主となる。1717年(享保2)将軍徳川吉宗の御前で元服、1字を賜り宗元と名乗る。長州藩の嗣子となっていたが、跡を継ぐことなく1721年(享保6)4月19日没。19才。法名「祐巖院殿賢良浄雄大居士」。
大関高増妻の墓碑
大関高増妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
分部光信の娘。大関高増に嫁ぎ、屋代忠正妻、村上正尚妻、神尾守好妻、増親、清雲院尼、増栄、増公、増俊の4男4女を儲ける。1645年(正保2)6日22日没。法名「青松院殿茂林宗繁大姉」。
大関高増の墓碑
大関高増
生 慶長16年 (1611年)
没 正保3年 (1646年)
下野黒羽藩3代藩主。1611年(慶長16)政増の長男として生まれる。父の死により1616年(元和2)跡を継ぐ。同年将軍徳川秀忠に拝謁。1646年(正保3)8月21日没。36才。法名「法光院殿覺岑生鐡大居士」。墓石には1647年(正保4)3月とあるが、建立日と思われる。
大関政増の墓碑
大関政増
生 天正19年 (1591年)
没 元和2年 (1616年)
下野黒羽藩2代藩主。1591年(天正19)晴増の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川氏の人質として江戸に赴く。1605年(慶長10)叔父の大関資増から家督を譲られる。大坂の両陣にも参戦。1616年(元和2)5月30日没。26才。法名「顧岑道鑑大禅定門」。
大関増親の墓碑
大関増親
生 寛永12年 (1635年)
没 寛文2年 (1662年)
下野黒羽藩4代藩主。1635年(寛永12)高増の長男として生まれる。1643年(寛永20)7月将軍徳川家光に拝謁。1646年(正保3)11月父の死により家督を継ぐ。1662年(寛文2)4月1日没。28才。法名「正覺院殿傳心宗單大居士」。
大関増栄の墓碑
大関増栄
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄元年 (1688年)
下野黒羽藩5代藩主。1639年(寛永16)高増の次男として生まれる。幕府に仕え交代寄合となる。のちに兄で藩主増親の養子となり、家督を継ぐ。1662年(寛文2)7月将軍徳川家綱に拝謁。1688年(元禄元)12月13日没。50才。法名「本源院殿心印元証大居士」。
大関増恒の墓碑
大関増恒
生 貞享3年 (1686年)
没 宝暦9年 (1759年)
下野黒羽藩6代藩主。1686年(貞享3)11月増茂の長男として生まれる。1689年(元禄元)10月に父、同年12月に祖父増栄が亡くなったため、1689年(元禄2)1月跡を継ぐ。1696年(元禄9)10月将軍徳川綱吉に拝謁。1759年(宝暦9)1月20日没。74才。法名「慧日院殿義天得翁大居士」。
脇坂安董の墓碑
脇坂安董
生 明和4年 (1767年)
没 天保12年 (1841年)
播磨龍野藩8代藩主。1767年(明和4)6月安親の次男として生まれる。1784年(天明4)父の隠居により跡を継ぐ。幕府では寺社奉行、老中を務める。1803年(享和3)延命院事件と呼ばれる大奥も絡んだ事件を解決。1841年(天保12)閏1月23日没。75才。法名「蒼龍院殿君威安董大居士」。
脇坂安経の墓碑
脇坂安経
生 不明
没 寛永9年 (1632年)
安治の5男。兄安元の養子となる。1632年(寛永9)4月4日親族の備中松山藩池田家の遺領を巡り、池田長常と口論になり殺害される。法名「崇禅院殿機叟紹用大禅定門」。
脇坂安照妻の墓碑
脇坂安照妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
岡部直好の娘。脇坂安照に嫁ぎ、女子、安清の1男1女を儲ける。1714年(正徳4)10月20日没。法名「遊窓院殿締譽圓月大姉」。
脇坂安照の墓碑
脇坂安照
生 万治元年 (1658年)
没 享保7年 (1722年)
播磨龍野藩2代藩主。1658年(万治元)安政の5男として生まれる。1672年(寛文12)6月将軍徳川家綱に拝謁。1678年(延宝6)9月嫡子となり、父の隠居により1684年(貞享元)11月跡を継ぐ。1701年(元禄14)浅野長矩の赤穂城の受取役を務める。1709年(宝永6)11月隠居。1722年(享保7)9月19日没。65才。法名「玄要院殿一機幽水大居士」。
脇坂安治妻の墓碑
脇坂安治妻
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
西洞院宰相の娘。脇坂安治に嫁ぎ、安元を儲ける。1639年(寛永16)4月17日没。法名「玄昌院殿雲誉清自大禅定尼」。墓石には「寛永十六天七月廿七日」とあるが建立日と思われる。
脇坂安治の墓碑
脇坂安治
生 天文23年 (1554年)
没 寛永3年 (1626年)
1554年(天文23)安明の子として生まれる。浅井氏に属していたが後織田信長の家臣時代の豊臣秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人となる。小牧長久手の戦い、小田原合戦、朝鮮出兵などに参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは西軍に付き、戦中に東軍に寝返る。戦後所領安堵。1615年(元和元)隠居。1626年(寛永3)8月6日没。73才。法名「雲松寺殿平林安治大居士」。墓石は1612年(慶長17)8月建立の逆修塔。
脇坂安政妻の墓碑
脇坂安政妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
今井総十郎の娘。脇坂安政に嫁ぎ、伝次郎、加藤泰恒妻の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月9日没。法名「周光院殿堅譽妙清大信女」。
脇坂安政の墓碑
脇坂安政
生 寛永10年 (1633年)
没 元禄7年 (1694年)
播磨龍野藩初代藩主。1633年(寛永10)堀田正盛の次男として生まれる。1640年(寛永17)8月脇坂安元の養子となる。同年11月将軍徳川家光に拝謁。安元の死により1654年(承応3)3月跡を継ぐ。1672年(寛文12)5月移封により播磨龍野藩主となる。1694年(元禄7)4月20日没。62才。法名「東陽院大禅如水居士」。
脇坂安元妻の墓碑
脇坂安元妻
生 不明
没 明暦3年 (1657年)
石河光元の長女。脇坂安元に嫁ぐ。1657年(明暦3)8月1日没。法名「慶光院殿受譽榮久大姉」。墓石は1671年(寛文11)4月1日安元の養子安政(安吉)の建立による。
脇坂安元の墓碑
脇坂安元
生 天正12年 (1584年)
没 承応2年 (1653年)
信濃飯田藩初代藩主。1584年(天正12)3月安治の次男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは父とともに西軍に属するも、戦中に東軍に寝返る。大坂の両陣に参戦。1617年(元和3)信濃飯田藩主となる。1653年(承応2)12月3日没。70才。法名「八雲院殿藤享安元大居士」。
福原親俊の墓碑
福原親俊
生 天保4年 (1833年)
没 安政5年 (1858年)
1833年(天保4)熙賢の長男として生まれる。父の死により1836年(天保7)跡を継ぐ。長州藩主毛利慶親より1字を賜い親俊と名乗る。1858(安政5)8月4日没。26才。法名「好謙齋道光宗貴居士」。
福原熙賢妻の墓碑
福原熙賢妻
生 文化8年 (1811年)
没 慶応元年 (1865年)
1811年(文化8)毛利広鎮の4女として生まれる。福原熙賢に嫁ぎ、親俊、女子の1男1女を儲ける。1865年(慶応元)7月10日没。55才。法名「真相院殿貞巖茂松大姉」。
福原広泰妻の墓碑
福原広泰妻
生 不明
没 享保10年 (1725年)
毛利就久の娘。福原広泰に嫁ぐ。広泰との間に子は出来ず。1725年(享保10)4月23日没。法名「玉龍院殿翆雲眞光大姉」。
福原就清妻の墓碑
福原就清妻
生 宝暦10年 (1760年)
没 文政6年 (1823年)
1760年(宝暦10)毛利広豊の娘として生まれる。福原就清の後室として嫁ぎ、少輔三郎の1男を儲ける。1823年(文政6)7月2日没。64才。法名「錬功院殿霞山養眞大姉」。
福原就俊の墓碑
福原就俊
生 不明
没 正保2年 (1645年)
元俊の子。父に先立ちて1645年(正保2)11月21日没。法名「暁雲院殿智光圓實居士」。家系に「未受譲先父卒」とあることから、嫡男だったが家督を継ぐ前に亡くなる。跡は弟広俊が継ぐ。
福原元貞妻の墓碑
福原元貞妻
生 正徳2年 (1712年)
没 明和9年 (1772年)
1712年(正徳2)福原元房の娘として生まれる。福原元貞に嫁ぎ、広門を儲ける。1772年(明和9)9月2日没。61才。法名「心鏡院殿瑞雲貞性大姉」。
福原元貞の墓碑
福原元貞
生 宝永5年 (1708年)
没 元文6年 (1741年)
1708年(宝永5)益田就賢の次男として生まれる。福原広泰の養子となり、1725年(享保10)6月跡を継ぐ。1741年(元文6)3月15日没。34才。法名「光宅院殿天寧崇祐大居士」。墓石は半分に割れており、手前の上部に「光宅・・」等が見え、奥の下部には「・・祐居士」等が見える。
福原元僴の墓碑
福原元僴
生 文化12年 (1815年)
没 元治元年 (1864年)
1815年(文化12)8月毛利広鎮の6男として生まれる。1851年(嘉永4)毛利家の家老になったときに福原家の家督を継ぐ。尊王攘夷派で、禁門の変のときに総大将を務める。幕府による第1次長州征伐が起こると、国司親相、益田親施とともに責任を取らせられ死罪となる。元僴は1864年(元治元)11月12日岩国の龍護寺で自害。50才。法名「隆文院殿頣堂全忠大居士」。
松平照信の墓碑
松平照信
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
康信の次男。1656年(明暦2)12月将軍徳川家綱に拝謁。松平重信の養子となりその娘を妻とする。1662年(寛文2)2月13日没。法名「勝譽資建居士」。
松平氏信妻の墓碑
松平氏信妻
生 不明
没 貞享2年 (1685年)
久貝正世の娘。松平氏信に嫁ぎ、氏清、氏辰を儲ける。1685年(貞享2)5月26日没。法名「長昌院殿栄譽転壽大姉」。墓石は息子氏辰の建立による。
松平氏信の墓碑
松平氏信
生 慶長18年 (1613年)
没 天和3年 (1683年)
1613年(慶長18)家信の4男として生まれる。1635年(寛永12)11月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)9月徳川家綱付きとなる。1677年(延宝5)4月隠居。1683年(天和3)6月16日没。71才。法名「覺凉院殿菴窓道頓居士」。墓石は3男氏辰の建立による。
松平康信の墓碑
松平康信
生 慶長5年 (1600年)
没 天和2年 (1682年)
丹波篠山藩初代藩主。1600年(慶長5)家信の次男として生まれる。1609年(慶長14)将軍徳川秀忠に拝謁。大坂冬の陣では井上正就に属し、夏の陣では徳川頼宣に属して参戦。父の死により1638年(寛永15)5月跡を継ぐ。1649年(慶安2)7月加増移封により丹波篠山藩主となる。1682年(天和2)6月13日没。83才。法名「大安院殿徳誉道悟別峯大居士」。
松平家信の墓碑
松平家信
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永15年 (1638年)
1565年(永禄8)家忠の長男として生まれる。徳川家康に仕え、信州高島城攻め、小牧長久手の戦い、九戸一揆に参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは江戸城留守居役。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは病により息子康信を代わりに出陣させる。1638年(寛永15)1月14日没。74才。法名「常立院殿上誉露雪居士」。
松平典信妻の墓碑
松平典信妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
板倉重宗の娘。松平典信に嫁ぎ、松平光永妻、板倉重郷養女、戸田重恒妻、松平忠充妻、信利、松平氏辰妻、真田信音妻、信庸、永井直敬妻、松平近禎妻の2男8女を儲ける。1670年(寛文10)3月5日没。法名「専稱院殿長譽榮春大姉」。
松平典信の墓碑
松平典信
生 寛永6年 (1629年)
没 寛文12年 (1672年)
丹波篠山藩2代藩主。1629年(寛永6)康信の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1669年(寛文9)9月跡を継ぐ。1672年(寛文12)11月20日没。44才。法名「忠岸院殿松誉源榮居士」。
松平信志妻の墓碑
松平信志妻
生 不明
没 文政7年 (1824年)
松平信志に嫁ぎ、信豪、鏞次郎を儲ける。信豪の母は妾腹とあるので身分が低い女性と思われる。1824年(文政7)6月10日没。法名「瑶光院殿鏡譽月珊宜仙大姉」。墓石は息子英之助信豪の建立による。
松平信利の墓碑
松平信利
生 万治2年 (1659年)
没 延宝4年 (1676年)
丹波篠山藩3代藩主。1659年(万治2)典信の次男として生まれる。1667年(寛文7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1673年(延宝元)1月跡を継ぐ。1676年(延宝4)11月28日没。18才。法名「淨光院殿徹信法誉源受居士」。墓石は「施主孝子松平九十郎政信建」とあり跡を継いだ弟信庸(信建)の建立による。
有馬清純妻の墓碑
有馬清純妻
生 不明
没 元禄5年 (1692年)
脇坂安政の娘。母は松平康映の娘。1678年(延宝6)6月10日有馬清純に嫁ぐ。清純との間に子は出来ず。1692年(元禄5)6月21日没。法名「慈光院殿玉岑圓明大姉」。
京極高之妻の墓碑
京極高之妻
生 不明
没 正徳6年 (1716年)
脇坂安村の娘。脇坂安照養女として京極高之に嫁ぐ。高之との間に、鍋之助を儲ける。1716年(正徳6) 4月23日没。法名「受教院殿妙榮自證大姉」。