井伊直経妻 生 不明没 安政5年 (1858年) 松平信志の娘。墓石に「紀伊守信忠妾腹娘」とあり信忠は信志に該当する。1828年(文政11)6月井伊直経に嫁ぐ。1858年(安政5)3月25日没。法名「淨信院殿天壽妙長大姉」。
金田徳光 生 文久3年 (1863年)没 大正8年 (1919年) 1863年(文久3)9月和田徳平の子として生まれる。堺の鉄工所に奉公していたとき主人の影響により弘法大師に信仰を持つようになる。修行を重ね1912年(大正元)御嶽教徳光大教会を設立し教祖となる。1919年(大正8)1月4日没。57才。諡号「天人海瑠璃彦命」。
里見忠義妻 生 不明没 明暦元年 (1655年) 大久保忠常の娘。里見忠義に嫁ぎ、木下延由妻の1女を儲ける。(2女儲けた説有り)忠義が没すると、弟の大久保忠職のもとに戻る。1655年(明暦元)8月晦日没。法名「桃源院殿仙應妙壽大禅定尼」。墓石は、1661年(万治4)7回忌の建立による。
里見忠義 生 文禄3年 (1594年)没 元和8年 (1622年) 安房館山藩2代藩主。1594年(文禄3)義康の長男として生まれる。父の死により1603年(慶長8)跡を継ぐ。1606年(慶長11)将軍徳川秀忠の御前で元服、1字を賜り忠義と名乗る。1614年(慶長19)大久保忠隣事件に連座して改易。1622年(元和8)6月19日没。29才。法名「雲晴院殿心叟賢涼大居士」。墓石は33回忌の1654年(承応3)6月19日建立による。
西尾盛教 生 元和7年 (1621年)没 万治元年 (1658年) 1621年(元和7)氏教の長男として生まれる。父の死により1633年(寛永10)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月7日没。38才。法名「善致院殿塞外道勇居士」。墓石には「十一月六日」とある。
西尾教次 生 天正16年 (1588年)没 慶長13年 (1608年) 1588年(天正16)木下吉隆の長男として生まれる。母方の祖父西尾光教の養子となる。跡を継ぐことなく1608年(慶長13)5月6日没。21才。法名「伊信院殿天廣圓證大居士」。
西尾忠篤 生 嘉永3年 (1850年)没 明治43年 (1910年) 遠江横須賀藩8代藩主。1850年(嘉永3)忠受の長男として生まれる。父の死により1861年(文久元)10月跡を継ぐ。戊辰戦争のときは新政府軍に従う。1884年(明治17)7月子爵。1910年(明治43)11月5日没。法名「潤徳院殿深信觀蓮自淨大居士」。
西尾忠尚 生 元禄2年 (1689年)没 宝暦10年 (1760年) 遠江横須賀藩2代藩主。1689年(元禄2)忠成の4男として生まれる。1696年(元禄9)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1713年(正徳3)7月跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行、若年寄、老中を務める。1760年(宝暦10)3月10日没。72才。法名「高風院殿徳巖道樹大居士」。
西尾嘉教 生 天正18年 (1590年)没 元和9年 (1623年) 美濃揖斐藩2代藩主。1590年(天正18)木下吉隆の次男として生まれる。西尾光教の養子となっていた兄教次が亡くなったため、嘉教が養子となる。徳川家康に仕え、大坂の両陣に参戦。1615年(元和元)跡を継ぐ。1623年(元和9)4月2日没。34才。法名「理禪院殿玄香淨圓大居士」。
西尾包教 生 寛永18年 (1641年)没 正徳5年 (1715年) 1641年(寛永18)盛教の長男として生まれる。1652年(承応元)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1715年(正徳5)3月16日没。75才。法名「通智院殿性孝全傑大居士」。
西尾光教 生 天文12年 (1543年)没 元和元年 (1615年) 美濃揖斐藩初代藩主。1543年(天文12)信光の子として生まれる。斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは岐阜城攻め、大垣城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1615年(元和元)11月19日没。73才。法名「常照院殿宗岳圓光大居士」。
華岡鹿城 生 安永8年 (1779年)没 文政10年 (1827年) 1779年(安永8)直道の4男として生まれる。良平とも。兄に有名な青洲がいる。京都の吉益南涯のもと医学を学ぶ。外科手術を得意として、医師番付で関脇とされる。1827年(文政10)4月28日没。49才。
織田信長 生 天文3年 (1534年)没 天正10年 (1582年) 1534年(天文3)5月信秀の次男として生まれる。尾張一国を統一後、1560年(永禄3)桶狭間で今川義元を討取る。その後、斉藤氏、浅井氏、朝倉氏、武田氏などを滅ぼす。1582年(天正10)6月2日、家臣明智光秀の謀反により死す。49才。法名「總見寺殿贈大相國一品泰巖大居士」。
織田信邦 生 延享2年 (1745年)没 天明3年 (1783年) 上野小幡藩7代藩主。1745年(延享2)信栄の4男として生まれる。1764年(明和元)7月小幡藩主織田信富の末期養子として家督を相続。同年8月将軍徳川家治に拝謁。明和事件の影響で1762年(明和4)8月幕府の命により隠居させられる。さらに出羽高畠藩に移封となる。1783年(天明3)7月8日没。39才。法名「淨翁院殿黙巖了然大居士」。墓石裏面では38才没となっている。
織田信良 生 天正12年 (1584年)没 寛永3年 (1626年) 上野小幡藩初代藩主。1584年(天正12)信雄の4男として生まれる。母は木造具政の娘。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、父信雄は中立、兄秀雄は西軍に付いたが信良の動向は不明。また大坂の陣のときの動向も不明。父より、上野甘楽郡などで2万石を与えられ小幡藩初代藩主となる。1626年(寛永3)5月17日没。43才。法名「心芳院殿松巌浄清大居士」。
織田信美妻 生 寛政9年 (1797年)没 文化13年 (1816年) 1797年(寛政9)大村純鎮の3女として生まれる。名は章姫。織田信美に嫁ぐ。1816年(文化13)5月4日没。20才。法名「守節院殿貞室妙璨大姉」。墓石は夫信美の建立による。墓石裏面に信美室、純鎮女、没年、享年などが刻まれている。
織田信美 生 寛政5年 (1793年)没 天保7年 (1836年) 出羽高畠藩2代藩主。出羽天童藩初代藩主。1793年(寛政5)7月信浮の9男として生まれる。1810年(文化7)11月将軍徳川家斉に拝謁。1818年(文政元)12月父の死により家督を継ぐ。1836年(天保7)8月4日没。44才。法名「恭徳院殿清巖良義大居士」。
織田信盛 生 寛文元年 (1661年)没 貞享2年 (1685年) 1661年(寛文元)信久の長男として生まれる。1673年(延宝元)4月将軍徳川家綱に拝謁。跡を継ぐことなく1685年(貞享2)6月15日没。25才。法名「霊源院殿皎厳凉潔大居士」。
織田信浮 生 寛延4年 (1751年)没 文政元年 (1818年) 出羽高畠藩初代藩主。1751年(寛延4)8月信栄の5男として生まれる。上野小幡藩7代藩主織田信邦が明和事件により蟄居となると、陸奥、出羽に転封のうえ家督を継ぐ。1768年(明和5)出羽高畠に陣屋を定める。1770年(明和7)11月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)11月19日没。68才。法名「瑞岡院殿徳巖俊峰大居士」。
織田信昌 生 寛永2年 (1625年)没 慶安3年 (1650年) 上野小幡藩2代藩主。1625年(寛永2)信良の次男として生まれる。翌年、父の死により2才で家督を継ぐ。1631年(寛永8)2月将軍徳川家光に拝謁。1650年(慶安3)7月9日没。26才。法名「宝泰院殿節巌英忠大居士」。
織田信就 生 寛文元年 (1661年)没 享保16年 (1731年) 上野小幡藩4代藩主。1661年(寛文元)信久の次男として生まれる。跡取りの兄信盛と弟信知(共に正室の子)が若く没したため嫡子となる。1694年(元禄7)将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)8月父の死により家督を継ぐ。1731年(享保16)6月10日没。71才。法名「乾瑞院殿亭巌元貞大居士」。
織田信富 生 享保8年 (1723年)没 明和元年 (1764年) 上野小幡藩6代藩主。1723年(享保8)信就の7男として生まれる。1757年(宝暦7)12月兄信右の養子となる。1758年(宝暦8)3月将軍徳川家重に拝謁。1759年(宝暦9)11月信右の隠居により跡を継ぐ。1764年(明和元)6月7日没。42才。法名「南溟院殿搏巖宗翼大居士」。
織田信右 生 正徳3年 (1713年)没 宝暦12年 (1762年) 上野小幡藩5代藩主。1713年(正徳3)信就の4男として生まれる。1730年(享保15)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)7月父の死により家督を継ぐ。1762年(宝暦12)8月18日没。50才。法名「桃溪院殿仙巌宗壽大居士」。寛政重修諸家譜は1713年(正徳3)生まれの50才没、墓石裏面には1716年(享保元)8月生まれの47才没とある。
織田信久 生 寛永20年 (1643年)没 正徳4年 (1714年) 上野小幡藩3代藩主。1643年(寛永20)高長の4男として生まれる。1650年(慶安3)9月従兄の信昌の末期養子として家督を相続、同年11月将軍徳川家光に拝謁。藩主として64年務める。1714年(正徳4)7月8日没。72才。法名「凌雲院殿嶮巌維峻大居士」。
筒井順慶 生 天文18年 (1549年)没 天正12年 (1584年) 1549年(天文18)3月順昭の子として生まれる。1565年(永禄8)松永久秀により居城筒井城を追われるも1566年(永禄9)6月に奪還。1571年(元亀2)より織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)8月11日没。36才。法名「順慶法印」。
浅野斉賢妻 生 安永9年 (1780年)没 寛政8年 (1796年) 1780年(安永9)7月有栖川織仁親王の第1王女として生まれる。母は鷹司輔平の娘。織子女王。浅野斉賢に嫁ぐ。1796年(寛政8)5月29日没。17才。法名「翺翔院」。妹の子に徳川慶喜がいる。墓石は父織仁親王が浅野家と交渉のうえ遺髪を埋めた塔である。
池田輝政 生 永禄7年 (1564年)没 慶長18年 (1613年) 1564年(永禄7)12月恒興の次男として生まれる。織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に従う。1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が徳川家康軍によって討ち取られると家督を継ぐ。その後秀吉の仲介により家康の次女督姫を娶る。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは東軍に付き、戦後大幅に加増され播磨で52万石を領した。1613年(慶長18)1月25日没。50才。法名「国清院殿泰叟玄高大居士」。
池田忠継 生 慶長4年 (1599年)没 慶長20年 (1615年) 1599年(慶長4)2月輝政の5男として生まれる。母は徳川家康の次女督姫。1603年(慶長8)5才のとき備前国岡山で28万石を与えられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参陣。1615年(慶長20)2月23日没。17才。法名「龍峯寺殿雲臺元祥大居士」。
池田光政娘 生 正保2年 (1645年)没 延宝7年 (1679年) 1645年(正保2)池田光政の娘として生まれる。名は六姫。1658年(万治元)池田由貞の元に嫁ぐ。しかし由貞は嫉妬深い六姫に耐えれず逐電。のち切腹。その後、滝川一宗と再婚。しかし夫の一宗が他の女性と一緒にいたため、夫を殺害。鬼姫と呼ばれたという。1679年(延宝7)12月25日没。35才。法名「成徳院殿見巖永性大禅定尼」。
松平頼重 生 元和8年 (1622年)没 元禄8年 (1695年) 1622年(元和8)7月徳川頼房の嫡男として生まれる。徳川光圀(水戸黄門)の兄。故有って頼房から堕胎を命じられたが、密かに三木之次夫妻に養育される。嫡男だったが家は弟光圀が継ぎ、次男扱いとなる。1642年(寛永19)讃岐高松で12万石。1695年(元禄8)4月12日没。74才。法名「龍雲院殿雄蓮社大譽孤峯源英大居士」。
末吉利長 生 正保4年 (1647年)没 貞享3年 (1686年) 1647年(正保4)長明の子として生まれる。父の死により1653年(承応2)12月跡を継ぐ。1664年(寛文4)6月将軍徳川家綱に拝謁。1686年(貞享3)9月6日没。40才。法名「成等院殿松譽寒貞大居士」。墓石は息子勘太郎嘉于の建立による。寛政重修諸家譜の法名は「貞寒」とあるが墓石の「寒貞」が正しいと思われる。
末吉利方 生 大永6年 (1526年)没 慶長12年 (1607年) 1526年(大永6)平野行増の次男として生まれる。西末吉家の祖。平野郷の豪商として織田信長、豊臣秀吉に仕え、商業の他代官も兼ねる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1607年(慶長12)3月5日没。82才。法名「道鑑」。
有栖川宮韶仁親王 生 天明4年 (1784年)没 弘化2年 (1845年) 有栖川宮7代当主。1784年(天明4)12月織仁親王の第2皇子として生まれる。1807年(文化4)光格天皇の猶子となる。1808年(文化5)親王宣下をする。1822年(文政5)に二品。1845年(弘化2)2月26日没。62才。法名「大功徳院」。
有栖川宮職仁親王 生 正徳3年 (1713年)没 享保元年 (1716年) 有栖川宮5代当主。1713年(正徳3)9月霊元天皇の第17皇子として生まれる。1716年(享保元)有栖川宮正仁親王が嗣子なく没したため有栖川宮家を継ぐ。歌道、書道に優れ、有栖川流書道を創始者となる。1769年(明和6)10月20日没。57才。法名「本朋圓心院」。
有栖川宮織仁親王 生 宝暦3年 (1753年)没 文政3年 (1820年) 有栖川宮6代当主。1753年(宝暦3)7月職仁親王の第7王子として生まれる。1762年(宝暦12)桃園天皇の猶子となる。1763年(宝暦13)親王宣下をする。1811年(文化8)に一品。1820年(文政3)2月19日没。68才。法名「文聚院」。
戸田種辰 生 宝永2年 (1705年)没 天明2年 (1782年) 1705年(宝永2)松平信庸の4男として生まれる。戸田重澄の養子となる。1718年(享保3)7月将軍徳川吉宗に拝謁。翌年重澄の死により跡を継ぐ。小姓組の番頭、御書院の番頭、大番頭を務める。1782年(天明2)9月17日没。78才。法名「如雲」。
大森頼隆妻 生 明暦3年 (1657年)没 天和2年 (1682年) 1657年(明暦3)秋月種信の4女として生まれる。大森頼隆に嫁ぎ、松千代、女子の1男1女を儲ける。1682年(天和2)7月5日没。26才。法名「月照院殿凉岩知清大姉」。
大森頼隆 生 明暦3年 (1657年)没 宝永4年 (1707年) 1657年(明暦3)頼直の子として生まれる。1667年(寛文7)閏2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。1707年(宝永4)1月4日没。51才。法名「勇猛院殿心傳了空居士」。
内田正信 生 慶長18年 (1613年)没 慶安4年 (1651年) 下野鹿沼藩初代藩主。1613年(慶長18)正世の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。家光のもとで出世、1649年(慶安2)8月下野で1万5千石を領す。1651年(慶安4)4月20日家光が没すると同日に殉死。39才。法名「理明院殿光徳徹宗大居士」。
佐久間実勝 生 元亀元年 (1570年)没 寛永19年 (1642年) 1570年(元亀元)政実の子として生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え、のちに徳川幕府の旗本として仕える。1609年(慶長14)名古屋城築城の奉行となる。茶人として有名で、宗可流の開祖となり山隠宗可と号す。晩年は京都大徳寺内に寸松庵を建立して過ごす。1642年(寛永19)9月22日没。73才。法名「寸松庵山隠宗可居士」。
佐久間佐吉 生 不明没 寛永18年 (1641年) 詳細不明。墓石に「施主御内儀稲葉丹後守御息女」とあり妻は稲葉正勝の娘である。墓石によると、1641年(寛永18)1月18日没で法名「盡峯空縁禅定門」。寛政重修諸家譜に稲葉正勝の娘で佐久間佐吉の妻となった人物の記載はなく、さらに佐吉自身の記載もなく詳細不明。