福原就清の墓碑
福原就清
生 宝暦6年 (1756年)
没 寛政3年 (1791年)
1756年(宝暦6)6月広門の長男として生まれる。藩主毛利重就より1字を賜い、就郷(のち就清)と名乗る。父の隠居により1789年(寛政元)跡を継ぐ。1791年(寛政3)8月18日没。36才。法名「清風齋猗園信誓居士」。
神尾理介の墓碑
神尾理介
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は神野理助成通とも。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると、同月18日殉死。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月17日に殉死とある。しかし墓石には「二月十八日」とあるので、こちらに従った。
浅野長矩の墓碑
浅野長矩
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄14年 (1701年)
播磨赤穂藩3代藩主。1667年(寛文7)8月長友の長男として生まれる。内匠頭。父の死により1675年(延宝3)3月跡を継ぐ。1701年(元禄14)3月14日勅使饗応役中、江戸城内にて吉良上野介に刃傷に及ぶ。激怒した将軍徳川綱吉により即日切腹となる。35才。法名「冷光院殿吹毛玄利大居士」。
池田仲庸の墓碑
池田仲庸
生 享保4年 (1719年)
没 宝暦8年 (1758年)
1719年(享保4)仲央の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1753年(宝暦3)3月父の死により跡を継ぐ。1758年(宝暦8)6月12日没。40才。法名「青嶂院殿雲外弘庸大居士」。
池田仲央の墓碑
池田仲央
生 元禄5年 (1692年)
没 宝暦3年 (1753年)
1692年(元禄5)11月仲澄の次男として生まれる。1702年(元禄15)11月将軍徳川綱吉に拝謁。翌年9月父の隠居により跡を継ぐ。1753年(宝暦3)1月11日没。62才。法名「岌暾院殿活空徹玄大居士」。
武野紹鴎の墓碑
武野紹鴎
生 文亀2年 (1502年)
没 弘治元年 (1555年)
1502年(文亀2)信久の子として生まれる。連歌師、茶人。茶道は、千利休、今井宗久、津田宗達などを弟子として大きな影響を与える。1555年(弘治元)閏10月29日没。54才。法名「一閑紹鴎居士」。
武内宿禰の墓碑
武内宿禰
生 不明
没 不明
実在したかも疑問の古代の偉人。屋主忍男武雄心命の子。景行天皇から仁徳天皇の5代に仕えた忠臣。日本書記によると、景行天皇のときに棟梁之臣、成務天皇のときに大臣を務める。神功皇后のときに反乱を起こした忍熊皇子を破り、応神天皇のときに甘美内宿禰を破る。360才、295才、または280才で死亡したという。墓石は宗教家吉村長慶の建立による。
松平忠吉の墓碑
松平忠吉
生 天正8年 (1580年)
没 慶長12年 (1607年)
1580年(天正8)9月徳川家康の4男として生まれる。1592年(文禄元)武蔵忍城主となり10万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。戦後、美濃尾張で52万石となる。1607年(慶長12)3月5日没。28才。法名「性高院殿憲瑩玄伯大居士」。
松平定温妻の墓碑
松平定温妻
生 不明
没 寛延3年 (1750年)
池田仲央の娘。名は輝子。松平定温に嫁ぐ。1750年(寛延3)4月24日没。法名「光輪院殿貞譽正華亮仁大姉」。墓石は夫定温の建立による。「豫洲今治城主松平主水正定温」と墓石にあるが夫定温は伊予今治藩世嗣で城主として跡を継ぐ前に没している。
村越兵庫の墓碑
村越兵庫
生 不明
没 慶長5年 (1600年)
光勝の子。徳川家康に仕えるも勘気を被り、豊臣秀長、秀保に仕える。その後再び家康に仕える。1600年(慶長5)9月15日関ヶ原の戦いのときに、藤堂高虎に属して戦い討死。法名「照光院蘭月宗英大禅定門」。
村井長次妻の墓碑
村井長次妻
生 天正8年 (1580年)
没 寛永18年 (1641年)
1580年(天正8)5月7日前田利家の7女として生まれる。名は千世。1597年(慶長2)細川忠隆に嫁ぐものちに離縁。1605年(慶長10)前田家重臣の村井長次に嫁ぐ。1641年(寛永18)11月20日没。62才。法名「春高院殿昌慶」。墓石は1614年(慶長19)3月21日建立の逆修塔。のち、法名「春香院殿梅室昌薫大姉」となる。
本多正純の墓碑
本多正純
生 永禄8年 (1565年)
没 寛永14年 (1637年)
1565年(永禄8)正信の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。大坂の両陣にも参戦。家康没後は2代将軍徳川秀忠の側近となるも、1622年(元和8)宇都宮城石垣の無断修理等の罪状嫌疑により失脚。晩年は出羽横手にて過ごす。1637年(寛永14)3月10日没。73才。法名「慧光院殿鐵顔宗智大居士」。
曽我部俊雄の墓碑
曽我部俊雄
生 明治6年 (1873年)
没 昭和24年 (1949年)
金剛流御詠歌の流祖。天野山金剛寺第76世座主。1873年(明治6)10月生まれ。1926年(大正15)4月金剛流詠歌団体を高野山大師教会内に設立する。金剛流御詠歌を編集、整備。現在も継続されている。1949年(昭和24)没。
岩沢半九郎の墓碑
岩沢半九郎
生 不明
没 寛永20年 (1643年)
青山幸成の家臣。名は岩城平大夫成重ともある。1643年(寛永20)2月16日に主君幸成が没すると殉死。梅窓院(東京都港区)の記録によると2月19日に殉死とある。法名「清嚴勇心禅定門」。墓石施主は幸成の息子青山大膳亮幸利。墓石には主君の命日「二月十六日」が見える。
山本茂成の墓碑
山本茂成
生 永正12年 (1515年)
没 慶長5年 (1600年)
1515年(永正12)室正成の子として生まれる。父は三河牟呂城主だったが松平清康に攻められ自害。茂成は牧野家臣山本弥三郎茂門に引き取られる。本多百助信俊に属していたが、のち徳川家康に従う。家康長男信康に付属させられたが、信康自害後は隠棲。1600年(慶長5)7月3日没。86才。法名「星安長昌居士」。孫図書正春が紀伊徳川頼宣に仕え、恵運寺(和歌山市)を茂成のために建立している。墓石は茂成の4男唯右衛門等9人分の法名がある。
契沖の墓碑
契沖
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄14年 (1701年)
1640年(寛永17)下川元全の子として生まれる。真言宗の僧となり高野山にて阿闍梨を授けられる。歌人、国学者でもあり、万葉代匠記、和字正濫鈔などの作品を遺す。1701年(元禄14)1月25日没。62才。
大石良重の墓碑
大石良重
生 元和5年 (1619年)
没 天和3年 (1683年)
1619年(元和5)良勝の次男として生まれる。赤穂藩浅野長直に仕え家老職。1677年(延宝5)に兄良欽が没すると兄の子内蔵助良雄の後見人となる。1683年(天和3)5月18日没。法名「賢徳院殿義翁良達居士」。
伊東長貞妻の墓碑
伊東長貞妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
大久保教勝の娘。伊東長貞に嫁ぎ、長救、遠山友春妻、女子、縫殿之助、女子の2男3女を儲ける。1714年(正徳4)10月25日没。法名「舜功院殿成庵圓慈大姉」。墓石は息子信濃守長救の建立による。
伊東長貞の墓碑
伊東長貞
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄6年 (1693年)
備中岡田藩4代藩主。1643年(寛永20)長治の長男として生まれる。1654年(承応3)9月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1658年(万治元)閏12月跡を継ぐ。1693年(元禄6)9月1日没。51才。法名「大僊院殿竺巖賢心大居士」。
伊東長裕の墓碑
伊東長裕
生 文化13年 (1816年)
没 万延元年 (1860年)
備中岡田藩9代藩主。1816年(文化13)5月長禎の長男として生まれる。1844年(天保15)4月将軍徳川家慶に拝謁。1850年(嘉永3)8月祖父長寛の死により跡を継ぐ。1860年(万延元)8月14日没。45才。法名「泰性院殿萬随義光大居士」。
伊東長治の墓碑
伊東長治
生 寛永5年 (1628年)
没 万治元年 (1658年)
備中岡田藩3代藩主。1628年(寛永5)長昌の長男として生まれる。1634年(寛永11)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1640年(寛永17)11月跡を継ぐ。1658年(万治元)10月8日没。31才。 「興國院殿一関要無居士」。
今井宗薫の墓碑
今井宗薫
生 天文21年 (1552年)
没 寛永4年 (1627年)
1552年(天文21)宗久の子として生まれる。豊臣秀吉に御伽衆として仕える。秀吉死後は徳川家康に接近。家康の6男松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫との婚約を仲介。大坂冬の陣のときは大坂方に捕らえられる。織田有楽によって放たれ、高野山に逃れる。1627年(寛永4)4月11日没。76才。法名「天外宗薫」。
今井宗呑の墓碑
今井宗呑
生 不明
没 元和9年 (1623年)
宗薫の長男。彦八郎。大坂冬の陣のとき、大坂方に父とともに捕らえられる。織田有楽によって放たれ、父と高野山に逃れる。のち二条城にて父と徳川家康に拝謁。1623年(元和9)4月13日没。法名「不盡宗呑居士」。墓石は逆修塔。
今井宗久妻の墓碑
今井宗久妻
生 不明
没 文禄3年 (1594年)
詳細不明。夫と同じく茶の湯を嗜み、唐の時代の「茶経」を読破する。1594年(文禄3)7月5日没。法名「瑞松院春芳宗榮」。
今井宗久の墓碑
今井宗久
生 永正17年 (1520年)
没 文禄2年 (1593年)
1520年(永正17)氏高の子として生まれる。武野紹鴎に茶を学び、その娘を妻とする。紹鴎の遺産を巡り、武野宗瓦と争い織田信長の裁決により勝つ。織田信長、豊臣秀吉に従い、堺商人として活躍。茶会にも貢献。1593年(文禄2)8月5日没。74才。法名「壽林宗久居士」。
丹羽氏明の墓碑
丹羽氏明
生 寛文7年 (1667年)
没 貞享3年 (1686年)
美濃岩村藩4代藩主。1667年(寛文7)氏純の長男として生まれる。父の死により1674年(延宝2)11月26日跡を継ぐ。28日将軍徳川綱吉に拝謁。1686年(貞享3)3月2日没。20才。法名「徳雲道海大居士」。
丹羽氏定妻の墓碑
丹羽氏定妻
生 元和5年 (1619年)
没 元禄14年 (1701年)
1619年(元和5)高木正成の娘として生まれる。丹羽氏定に嫁ぎ、氏純を儲ける。1701年(元禄14)5月17日没。83才。法名「芳春院殿蘭室永秀大姉」。墓石は丹羽壱岐守氏音が曾祖母のために1701年(元禄14)7月15日に建立。
丹羽勘十郎の墓碑
丹羽勘十郎
生 不明
没 承応3年 (1654年)
氏定の次男。1653年(承応2)閏6月将軍徳川家綱に拝謁。1654年(承応3)7月12日没。法名「學翁良海大禅定門」。岐阜県恵那市岩村町殿町の大名墓地にも墓がある。
三浦為隆の墓碑
三浦為隆
生 万治2年 (1659年)
没 享保17年 (1732年)
紀州藩家老三浦家3代当主。1659年(万治2)為時の子として生まれる。父の死後家督を継ぎ家老職。1716年(享保元)紀州藩主徳川吉宗が将軍となると、幕臣として仕えるよう望まれるもこれを断る。1732年(享保17)11月8日没。74才。法名「清净心院湛然無相居士」。
三浦為脩妻の墓碑
三浦為脩妻
生 不明
没 文化13年 (1816年)
植村家道の娘。1779年(安永8)三浦為脩に嫁ぎ、為積を儲ける。1816年(文化13)2月4日没。法名「蓮池院智月妙浄大姉」。
三浦為脩の墓碑
三浦為脩
生 宝暦9年 (1759年)
没 寛政元年 (1789年)
紀州藩家老三浦家5代当主。1759年(宝暦9)4月徳川宗将の8男として生まれる。1760年(宝暦10)5月三浦為恭の養子となる。為恭の死により1775年(安永4)7月跡を継ぐ。1776年(安永5)9月将軍徳川家治に拝謁。1789年(寛政元)9月4日没。31才。法名「嚴淨土院義嶽慧了大居士」。
三浦為章の墓碑
三浦為章
生 享和3年 (1803年)
没 天保12年 (1841年)
紀州藩家老三浦家7代当主。1803年(享和3)4月為積の長男として生まれる。父の隠居により1823年(文政6)5月跡を継ぐ。1835年(天保6)5月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)3月2日没。39才。法名「紫金光院性覚円常大居士」。
三浦為積妻の墓碑
三浦為積妻
生 不明
没 天保7年 (1836年)
安藤直紀の娘。1798年(寛政10)三浦為積に嫁ぎ、為章を儲ける。1836年(天保7)6月2日没。法名「真珠院圓月妙映大姉」。
三浦為積の墓碑
三浦為積
生 天明元年 (1781年)
没 天保11年 (1840年)
紀州藩家老三浦家6代当主。1781年(天明元)9月為脩の長男として生まれる。1789年(寛政元)父の死により家督を継ぐ。1797年(寛政9)将軍徳川家斉に拝謁。1820年(文政3)隠居。1840年(天保11)8月15日没。60才。法名「金剛臺院義巖恵雄大居士」。
三浦為恭妻の墓碑
三浦為恭妻
生 不明
没 安永7年 (1778年)
三浦為隆の娘。1722年(享保7)中川家の為恭と結婚して三浦家の婿とする。1778年(安永7)5月12日没。法名「常往院心観宣議大姉」。
三浦為恭の墓碑
三浦為恭
生 宝永3年 (1706年)
没 安永4年 (1775年)
紀州藩家老三浦家4代当主。1706年(宝永3)中川元宣の子として生まれる。1722年(享保7)叔父三浦為隆の養子となる。1732年(享保17)跡を継ぐ。1733年(享保18)主君徳川宗直に従い、将軍徳川吉宗に拝謁。1775年(安永4)7月17日没。69才。法名「至徳行院觀山智同居士」。
三好政盛の墓碑
三好政盛
生 寛永元年 (1624年)
没 元禄12年 (1699年)
1624年(寛永元)直政の子として生まれる。母は明石全登の娘。1630年(寛永7)より徳川家光に仕える。1669年(寛文9)京都の東福門院和子のもとに使者となる。1699年(元禄12)2月15日没。76才。法名「崇徳院殿天誉月峯照和大居士」。
安部信賢妻の墓碑
安部信賢妻
生 不明
没 享保16年 (1731年)
青山忠重の娘。青山秘成の養女として安部信賢に嫁ぐ。信賢との間に信平を儲ける。1731年(享保16)1月13日没。法名「榮昌院殿桃林宗僊大姉」。墓石は息子信平(多宮)が母の為に建立。
安部信盛の墓碑
安部信盛
生 天正12年 (1584年)
没 延宝元年 (1673年)
武蔵岡部藩初代藩主。1584年(天正12)信勝の長男として生まれる。1599年(慶長4)伏見において徳川家康に謁見。1600年(慶長5)父の死により遺領を継ぎ、同年の上杉攻めでは本多正信に属して下野国小山まで参陣。加増を続け、信盛の代から大名となる。1673年(延宝元)11月27日没。90才。法名「龍徳院殿妙峯性都大居士」。
安部信操の墓碑
安部信操
生 寛政2年 (1790年)
没 文政8年 (1825年)
武蔵岡部藩9代藩主。1790年(寛政2)信亨の3男として生まれる。兄2人は早世したため嫡子となる。1806年(文化3)8月父の隠居により跡を継ぐ。1825年(文政8)4月29日没。36才。法名「高徳院殿義峰宗春大居士」。
安部信峯妻の墓碑
安部信峯妻
生 不明
没 元禄2年 (1689年)
墓石に「安部丹波守信峯妻」とあり、正室で秋月種信の娘と思われるも確証なし。1689年(元禄2)7月23日没。法名「覺樹院殿霊律宗湛大姉」。
安部信宝の墓碑
安部信宝
生 天保10年 (1839年)
没 文久3年 (1863年)
武蔵岡部藩12代藩主。1839年(天保10)信古の長男として生まれる。父の死により1842年(天保13)12月跡を継ぐ。1850年(嘉永3)3月将軍徳川家慶に拝謁。幕府より罪人の高島秋帆を預かる。1863年(文久3)4月10日没。25才。法名「蔵雲院殿忠巖全孝大居士」。
安部信孝の墓碑
安部信孝
生 不明
没 正保2年 (1645年)
信盛の次男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川家光に拝謁。御書院の番士、小姓組の組頭を務める。1645年(正保2)7月14日没。法名「大応院殿月峰洞雲居士」。
安部信古の墓碑
安部信古
生 文化12年 (1815年)
没 天保13年 (1842年)
武蔵岡部藩11代藩主。1815年(文化12)信操の4男として生まれる。1828年(文政11)兄で藩主信任が没したため、末期養子として跡を継ぐ。1831年(天保2)9月将軍徳川家斉に拝謁。1842年(天保13)10月7日没。28才。法名「義徳院殿廓山魯道大居士」。
安部信友妻の墓碑
安部信友妻
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
内藤忠政の娘。名は万。安部信友に嫁ぎ、信峯、信方の2男を儲ける。1693年(元禄6)5月9日没。法名「春光院殿長譽壽寶大姉」。墓石に「安部摂津守信友為妻女」とある。
安部信友の墓碑
安部信友
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄14年 (1701年)
武蔵岡部藩3代藩主。1638年(寛永15)信之の長男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。1678年(延宝6)4月父の隠居により家督を継ぐ。1701年(元禄14)3月8日没。64才。法名「乾徳院殿徹應宗證大居士」。
安部信允の墓碑
安部信允
生 享保13年 (1728年)
没 寛政10年 (1798年)
武蔵岡部藩7代藩主。1728年(享保13)信興の次男として生まれる。6代藩主信平の死去の際養子となり、1750年(寛延3)5月跡を継ぐ。同年6月将軍徳川家重に拝謁。1781年(天明元)9月隠居。1798年(寛政10)12月12日没。71才。法名「峻德院殿法雲義潤大居士」。
安部信任の墓碑
安部信任
生 文化6年 (1809年)
没 文政11年 (1828年)
武蔵岡部藩10代藩主。1809年(文化6)信操の長男として生まれる。父の死により1825年(文政8)跡を継ぐ。大坂加番を務む。1828年(文政11)4月10日没。法名「祐泉院殿彩雲蒼竜大居士」。
安部信亨の墓碑
安部信亨
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政5年 (1822年)
武蔵岡部藩8代藩主。1758年(宝暦8)信允の長男として生まれる。1775年(安永4)12月将軍徳川家治に拝謁。1806年(文化3)8月隠居。1822年(文政5)6月17日没。65才。法名「来震院殿灌渓道関大居士」。
黒田長溥の墓碑
黒田長溥
生 文化8年 (1811年)
没 明治20年 (1887年)
筑前福岡藩11代藩主。1811年(文化8)3月島津重豪の13男として生まれる。黒田斉清の娘を娶り養子となる。将軍徳川家斉から1字を賜い斉溥と名乗る(幕末まで)父重豪や養父斉清と同じく蘭癖が強く藩内に近代化を広める。1869年(明治2)2月隠居。1887年(明治20)3月7日没。77才。