黒田光之の墓碑
黒田光之
生 寛永5年 (1628年)
没 宝永4年 (1707年)
筑前福岡藩3代藩主。1628年(寛永5)5月忠之の長男として生まれる。1635年(寛永12)1月徳川家康の養女でもある祖母に連れられ将軍徳川家光に拝謁。1648年(慶安元)12月家光より1字を賜り光之と名乗る。父の死により1654年(承応3)4月跡を継ぐ。1688年(元禄元)12月隠居。1707年(宝永4)5月20日没。80才。法名「江龍院殿淳山宗真大居士」。
青木可一の墓碑
青木可一
生 寛永4年 (1627年)
没 寛永21年 (1644年)
1627年(寛永4)若狭小浜藩主酒井忠勝の3男として生まれる。1639年(寛永16)7月将軍徳川家光に拝謁。青木重兼の養子となる。家督を継ぐことなく1644年(寛永21)6月26日没。18才。法名「清巖院殿三衆一玄」。
青山一角の墓碑
青山一角
生 不明
没 寛文2年 (1662年)
小浜酒井家の世嗣忠朝の家臣。忠朝が没すると1662年(寛文2)殉死。法名 「玄無雷菴居士」。墓石施主は忠朝の弟で小浜藩主酒井修理大夫忠直。
酒井重忠妻の墓碑
酒井重忠妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
松平忠輝家臣山田重辰の娘。酒井重忠に嫁ぎ、忠世、忠季、西尾忠永、忠正の4男を儲ける。1627年(寛永4)2月19日没。法名「臨川院殿實継良朴大姉」。
酒井重忠の墓碑
酒井重忠
生 天文18年 (1549年)
没 元和3年 (1617年)
上野厩橋藩初代藩主。1549年(天文18)正親の次男として生まれる。徳川家康に仕え、遠江掛川城攻め、姉川の戦い、小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。大坂の陣のときは、江戸城留守居役を務める。1617年(元和3)7月21日没。69才。法名「傑叟源英大禅定門」。
酒井正親の墓碑
酒井正親
生 大永元年 (1521年)
没 天正3年 (1575年)
1521年(大永元)清秀の子として生まれる。松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕える。家康初陣の寺部城攻めでは先鋒を務める。三方原の戦い、長篠の戦いにも従う。1575年(天正3)6月6日没。56才。法名「寶樹院殿繁林源昌大禅定門」。1624年(寛永元)12月3男忠利による建立の墓石には「酒井雅楽助殿忠光公」とあり、晩年は忠光を名乗っていたと思われる。
酒井忠経の墓碑
酒井忠経
生 元和8年 (1622年)
没 寛永17年 (1640年)
1622年(元和8)忠勝の次男として生まれる。1642年(寛永19)6月将軍徳川家光に拝謁。1640年(寛永17)8月17日没。19才。法名「達觀恵通大禪定門」。
酒井忠正の墓碑
酒井忠正
生 文禄4年 (1595年)
没 明暦元年 (1655年)
1595年(文禄4)重忠の4男として生まれる。1607年(慶長12)より徳川秀忠に仕える。武蔵と下総で4500石を知行。1655年(明暦元)3月14日没。61才。法名「鷲峯院殿皓寒潭月大居士」。
酒井忠朝の墓碑
酒井忠朝
生 元和5年 (1619年)
没 寛文2年 (1662年)
1619年(元和5)忠勝の長男として生まれる。徳川家光の幕臣として活躍するも職を解かれ、1649年(慶安2)9月には廃嫡となる。1662年(寛文2)3月24日没。44才。法名「用運院殿擉立葉山大居士」。
酒井忠恆の墓碑
酒井忠恆
生 不明
没 寛永21年 (1644年)
忠正の長男。与七郎。父に先立ちて1644年(寛永21)11月6日没。法名「月江院殿日州源果居士」。墓石は父酒井下総守忠正の建立による。
酒井忠勝(庄内)の墓碑
酒井忠勝(庄内)
生 文禄3年 (1594年)
没 正保4年 (1647年)
出羽庄内藩初代藩主。1594年(文禄3)家次の長男として生まれる。将軍徳川秀忠より1字を賜り忠勝と名乗る。大坂の両陣に参戦。父の死により1618年(元和4)4月跡を継ぐ。1622年(元和8)加増移封により出羽庄内藩主となる。1647年(正保4)10月17日没。54才。「成覺院殿眞譽道保達三大居士」。
酒井忠勝(小浜)娘の墓碑
酒井忠勝(小浜)娘
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
酒井忠勝(小浜)の娘。名は仙子。詳細不明。小浜市空印寺の酒井家墓地にも墓があることから、嫁ぐことなく没したと思われる。1636年(寛永13)6月13日没。法名「松岩院殿花桂宗心大姉」。
酒井忠勝(小浜)妻の墓碑
酒井忠勝(小浜)妻
生 天正12年 (1584年)
没 寛永18年 (1641年)
1584年(天正12)松平親能の娘として生まれる。祖母は徳川家康の妹市場姫。名は竹子。酒井忠勝に嫁ぎ、建部政長妻、松平康信妻、高木正俊妻、松平康政妻、堀田正盛妻、忠朝、都筑秀政妻、忠経、井伊直好妻、青木可一、忠直の4男7女を儲ける。1641年(寛永18)3月14日没。58才。法名「心光院殿星譽瓊琳周榮大姉」。墓石は息子忠朝の建立による。
酒井忠勝(小浜)の墓碑
酒井忠勝(小浜)
生 天正15年 (1587年)
没 寛文2年 (1662年)
若狭小浜藩初代藩主。1587年(天正15)6月忠利の長男として生まれる。1600年(慶長5)信州上田城攻めに父と従う。1624年(寛永元)老中となる。父の死により1627年(寛永4)11月跡を継ぐ。1634年(寛永11)閏7月加増移封により若狭小浜藩主となる。1656年(明暦2)5月隠居。1662年(寛文2)7月12日没。76才。法名「空印寺殿傑傳長英大居士」。
酒井忠利妻の墓碑
酒井忠利妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
鈴木重直の娘。酒井忠利に嫁ぎ、忠勝、忠吉、忠重、忠次の4男を儲ける。1620年(元和6)8月27日没。法名「寶鏡院殿桃嚴宗仙大禪定尼」。墓石は息子忠勝の建立による。
酒井忠利の墓碑
酒井忠利
生 永禄2年 (1559年)
没 寛永4年 (1627年)
武蔵川越藩初代藩主。1559年(永禄2)正親の3男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦いでは蟹江城攻めに参陣。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、徳川秀忠に従い信州上田城攻めに従軍。1627年(寛永4)11月14日没。69才。法名「廣徳院殿泰雲建康大居士」。
酒井忠久の墓碑
酒井忠久
生 慶長14年 (1609年)
没 寛永13年 (1636年)
1609年(慶長14)忠利の4男として生まれる。1627年(寛永4)11月父の遺領のうち千石を分かち賜う。1636年(寛永13)8月15日没。28才。法名「月桂院殿劔受宗刃居士」。墓石は弟の蔵人忠次の建立による。
都筑秀政妻の墓碑
都筑秀政妻
生 不明
没 慶安5年 (1652年)
酒井忠勝(小浜)の娘。名は弥子。忠勝の家臣都筑秀政に嫁ぎ、秀久を儲ける。1652年(慶安5)3月28日没。法名「光林院殿玉譽榮春」。
宇喜多秀家妻の墓碑
宇喜多秀家妻
生 天正2年 (1574年)
没 寛永11年 (1634年)
1574年(天正2)前田利家の4女として生まれる。名は豪姫。幼い頃より豊臣秀吉の養女となる。1588年(天正16)宇喜多秀家に嫁ぐ。秀家との間に、秀高、秀継、富田重家室、伏見宮貞清親王室の2男2女を儲ける。夫秀家は1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍に付いて改易となったため実家前田家に戻る。1634年(寛永11)5月23日没。61才。法名「樹正院殿命室寿光大禅定尼」。
豊臣鶴松の墓碑
豊臣鶴松
生 天正17年 (1589年)
没 天正19年 (1591年)
1589年(天正17)5月豊臣秀吉の長男として生まれる。母は浅井長政の娘淀君。病気勝ちで1591年(天正19)8月5日没。3才。法名 「祥雲院殿玉厳麟公神童」。墓石は浅野長政の建立による。
豊臣秀長妻の墓碑
豊臣秀長妻
生 不明
没 元和6年 (1620年)
1585年(天正13)9月豊臣秀長の正室となる。名は慶。秀長より長く生き、江戸時代には幕府より大和国内で2千石の化粧料を認められる。元和6年(1620年)没。法名「慈雲院芳室紹慶大姉」。墓石は1591年(天正19)5月7日建立の逆修塔。
豊臣秀長の墓碑
豊臣秀長
生 天文9年 (1540年)
没 天正19年 (1591年)
1540年(天文9)生まれる。兄の秀吉に仕える。長島一向一揆の戦い、但馬攻め、毛利攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻めなど秀吉の主要な合戦に参戦。1590年(天正18)小田原北条攻めのときは、病気のため留守居役となる。1591年(天正19)1月22日没。52才。法名「大光院殿春岳紹栄大居士」。
豊臣秀吉の墓碑
豊臣秀吉
生 天文6年 (1537年)
没 慶長3年 (1598年)
1537年(天文6)生まれる。はじめ松下之綱に仕え、のちに織田信長に仕える。身分は低いが織田家重臣まで出世。信長死後、明智光秀や柴田勝家などを討ち織田家中をまとめる。徳川家康を従えたあと、九州の島津氏や小田原北条氏などを攻め、全国統一を果たす。1598年(慶長3)8月18日没。62才。法名「国泰寺殿霊山俊龍大居士」。
結城秀康妻(清凉院)の墓碑
結城秀康妻(清凉院)
生 不明
没 寛永17年 (1640年)
中川一元の娘。結城秀康の側室となり松平忠直、忠昌を儲ける。1640年(寛永17)7月21日没。法名「清凉院殿久窓貞昌大姉」。墓石は息子忠昌の建立による。
結城秀康妻(月照院)の墓碑
結城秀康妻(月照院)
生 不明
没 慶安元年 (1648年)
三谷長基の娘。遊女であったが結城秀康が身請けして側室とする。秀康との間に毛利秀就妻、直政の1男1女を儲ける。1648年(慶安元)11月27日没。法名「月照院殿浄譽蒙光大信女」。
石井定右衛門の墓碑
石井定右衛門
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行300石。1634年(寛永11)牧弥七郎の上意討ちのとき忠勝の命で目付を務める。のち忠勝の勘気を受け浪人。1647年(正保4)10月忠勝が江戸で没し遺骸が庄内に運ばれると途中から従い、葬儀後の11月13日に殉死。法名「本光院日住」。
松平親定の墓碑
松平親定
生 不明
没 寛永元年 (1624年)
好景の次男。与五左衛門。系図に事跡不明とあるが、兄で深溝松平の当主となった伊忠に仕えたと思われる。その後も家忠、忠利に代々仕える。忠利が大坂の陣に出陣したときは、三河吉田城を守る。1624年(寛永元)5月26日没。法名「心貢源安禅定門」。
松平直政の墓碑
松平直政
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
1601年(慶長6)8月結城秀康の3男として生まれる。1611年(慶長16)4月兄忠直と二条城で祖父である徳川家康に拝謁。大坂の両陣に参戦して、夏の陣のときは活躍して家康より賞される。1616年(元和2)上総姉ヶ崎藩にて1万石。その後移封加増を重ね寛永15年(1638年)2月出雲松江藩にて18万6千石。1666年(寛文6)2月3日没。66才。法名「高眞院殿歓譽一空道善大居士」。
松平忠雄の墓碑
松平忠雄
生 延宝元年 (1673年)
没 享保21年 (1736年)
肥前島原藩2代藩主。1673年(延宝元)10月松平伊行の次男として生まれる。1686年(貞享3)7月松平忠房の養子となる。1691年(元禄4)9月将軍徳川綱吉に拝謁。忠房の隠居により1698年(元禄11)4月跡を継ぐ。1735年(享保20)12月隠居。1736年(享保21)2月7日没。64才。法名「瑞光院殿徳運源恭大居士」。
松平忠隆(額田)の墓碑
松平忠隆(額田)
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永4年 (1627年)
1596年(慶長元)家忠の5男として生まれる。徳川秀忠に仕える。兄忠一が大坂の陣で討死して子が無かったため、跡を継ぐ。三河国額田郡にて采地千石。1627年(寛永4)9月26日没。32才。法名「源峯大禅定門」。
松平忠貞の墓碑
松平忠貞
生 天正16年 (1588年)
没 元和5年 (1619年)
家忠の2男。1603年(慶長8)16才にて徳川家康に仕える。御所院番となり1610年(慶長15)10月三河国宝飯郡にて采地を賜る。1619年(元和5)6月24日、徳川秀忠に付き添い上洛したときに伏見城にて死去。32才。法名「龍雲源洞禅定門」。
松平忠房の墓碑
松平忠房
生 元和5年 (1619年)
没 元禄13年 (1700年)
肥前島原藩初代藩主。1619年(元和5)2月忠利の長男として生まれる。1623年(元和9)吉田城にて将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1632年(寛永9)8月跡を継ぐ。1669年(寛文9)6月加増移封により肥前島原藩主となる。1698年(元禄11)4月隠居。1700年(元禄13)10月1日没。82才。法名「興慶院殿泰雲源通大居士」。
松平忠実妻の墓碑
松平忠実妻
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
松平家忠の娘。松平忠実に嫁ぎ、伊耀、忠尚を儲ける。1636年(寛永13)10月11日没。法名「長松院殿明窓照鏡大禪定尼」。
松平忠一の墓碑
松平忠一
生 天正18年 (1590年)
没 慶長20年 (1615年)
家忠の3男。庄九郎。徳川秀忠に仕え御所院番。1615年(慶長20)5月7日大坂夏の陣のときに、敵の中に突撃して討死。26才。法名「○峰院殿籌山源勝居士」。
松平家忠妻の墓碑
松平家忠妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
水野忠分の次女。松平家忠に嫁ぎ、忠利、吉良義定妻、松平忠実妻、忠貞、忠一、忠重、忠隆、松平重成妻の5男3女を儲ける。1642年(寛永19)6月27日没。法名「照光院殿陽山貞春大姉」。墓石は逆修塔で1628年(寛永5)8月15日の建立による。
松平家忠の墓碑
松平家忠
生 弘治元年 (1555年)
没 慶長5年 (1600年)
1555年(弘治元)伊忠の長男として生まれる。徳川家康に仕え、長篠の戦い、高天神城攻めなどに従軍。城の普請や補修などにの土木にも活躍。1600年(慶長5)8月1日伏見城を守っていたが、小早川秀秋に攻められ切腹。46才。法名「慈雲院殿賀屋源慶大居士」。「家忠日記」の著者である。
村井長次の墓碑
村井長次
生 永禄11年 (1568年)
没 慶長18年 (1613年)
1568年(永禄11)長頼の子として生まれる。前田利家に父とともに仕え、利家の7女を妻とする。義母でもある芳春院お松が、人質として江戸に向かうときに従う。1613年(慶長18)11月7日没。46才。法名「好巌崇雪居士」。墓石施主は妻。
木下俊治妻の墓碑
木下俊治妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
松平忠利の娘。木下俊治に嫁ぐ。俊治との間には子供は出来ず。1637年(寛永14)9月14日没。法名「桂林院殿月輪息窓大姉」。
宇津木泰繁の墓碑
宇津木泰繁
生 元亀3年 (1572年)
没 寛永12年 (1635年)
宇津木家2代。1572年(元亀3)氏久の子として生まれる。幼名勝三郎。井伊直政に仕える。1591年(天正19)20才にて九戸一揆に出陣。砲術家でもあり、1614年(慶長19)9月稲富祐直から砲術伝授書を受けている。1635年(寛永12)1月没。64才。法名「長壽院雪庭」。
宇津木氏久の墓碑
宇津木氏久
生 不明
没 慶長13年 (1608年)
宇津木家初代。下総守。武田勝頼、北条氏直に仕える。氏直が没落すると本領の上野国玉村に隠棲。井伊直政より出仕の依頼があるもこれを断り、息子泰繁を代わりに出仕させる。1608年(慶長13)8月13日没。昔の文献によれば、墓石は「本國上〇國鹿島郡」「宇津木下總守」「慶長十三年八月十三日」が読み取れたというが、今は地輪の大部分が土中にて「本國」「宇津」程度しか読めない。
宇津木久豊の墓碑
宇津木久豊
生 不明
没 不明
宇津木家3代。泰繁の子。父と同じく井伊家に仕え、砲術家。1615年(元和元)7月伏見城にて徳川秀忠の砲術上覧に父とともに披露。晩年は禅髄を号す。法名「天徳院殿徹巖禅髄居士」。妻は河手良則と高瀬姫(井伊直政の姉)の次女。
宇津木久就の墓碑
宇津木久就
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
宇津木家6代。彦根藩井伊家家老。幼名弥平太。治部右衛門。久英の養子となる。久英の隠居により1734年(享保19)6月跡を継ぎ、井伊家の家老となる。御勝手方御倹約頭取を務む。1756年(宝暦6)11月6日没。法名「天秀院殿源峯紹俊居士」。
大政所の墓碑
大政所
生 永正13年 (1516年)
没 天正20年 (1592年)
木下弥右衛門、竹阿弥の妻。三好吉房妻、豊臣秀吉、秀長、徳川家康妻の母。息子秀吉の出世により1585年(天正13)従一位となり大政所と称する。1586年(天正14)徳川家康のもとへ人質(名目は娘の訪問)として赴く。1592年(天正20)7月22日没。77才。法名「青巌貞松」。墓石は1587年(天正15)6月21日建立の逆修塔。
佐々甚兵衛の墓碑
佐々甚兵衛
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行250石。1647年(正保4)10月忠勝が没して葬儀が終わると、11月13日に殉死。法名「松心貞忠禅定門」。
三好吉房妻の墓碑
三好吉房妻
生 天文3年 (1534年)
没 寛永2年 (1625年)
1534年(天文3)生まれ。名は智。豊臣秀吉の姉。三好吉房に嫁ぎ、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保を儲ける。3人の息子に先立たれ、夫も所領を没収されて改易となり、1596年(文禄5)1月に出家。1625年(寛永2)4月24日没。92才。法名「瑞龍院妙慧日秀尼」。墓石は1592年(天正20)5月7日建立の逆修塔。
万年与左衛門の墓碑
万年与左衛門
生 不明
没 正保4年 (1647年)
酒井忠勝の家臣。知行300石。1647年(正保4)10月忠勝が没して葬儀が終わると、11月13日に殉死。法名「光岸文瑞居士」。
結城秀康の墓碑
結城秀康
生 天正2年 (1574年)
没 慶長12年 (1607年)
越前福井藩初代藩主。1574年(天正2)2月徳川家康の次男として生まれる。1584年(天正12)豊臣秀吉のもとに人質(名目は養子)となる。1587年(天正15)島津攻めにて初陣。1590年(天正18)8月結城晴朝の養子となる。関ヶ原の戦い後、越前北ノ庄藩主(のちの福井藩)となる。1607年(慶長12)閏4月8日没。34才。法名「浄光院殿森巌道慰運正大居士」。石廟のなかには5基の宝篋印塔があり、そのうち1つが結城秀康のものである。
本多忠政妻の墓碑
本多忠政妻
生 天正5年 (1577年)
没 寛永3年 (1626年)
1577年(天正5)7月松平信康の次女として生まれる。名は熊姫。父方の祖父は徳川家康、母方の祖父は織田信長。家康の命令で本多忠政の正室となる。忠政との間に忠刻、政朝、忠義、有馬直純妻、小笠原忠真妻の3男2女を儲ける。1626年(寛永3)6月25日没。50才。法名「妙光院殿悟窓祐慶大姉」。
永見長次の墓碑
永見長次
生 天正14年 (1586年)
没 慶長12年 (1607年)
1586年(天正14)貞親の子として生まれる。右衛門。結城秀康に仕える。主君秀康が没すると1607年(慶長12)4月9日殉死。22才。法名「閑窓道有禅定門」。結城秀康石廟の中、左奥に長次宝篋印塔がある。墓石には「長見右馬」とある。
松平武雅の墓碑
松平武雅
生 宝永2年 (1705年)
没 享保13年 (1728年)
上野館林藩2代藩主。1705年(宝永2)義行の次男として生まれる。松平清方が1724年(享保9)1月に没すると同年4月養子となり、同月将軍徳川吉宗に拝謁。同年10月跡を継ぐ。1728年(享保13)7月28日没。24才。法名「顕徳院殿武雅大居士」。1769年(明和6)3月に武雅の遺爪を納めた爪塚。