黒田綱政妻の墓碑
黒田綱政妻
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永5年 (1708年)
1662年(寛文2)立花忠茂の8女として生まれる。名は六姫、呂久姫。兄の鑑虎養女となり黒田綱政に嫁ぐ。綱政との間に、吉之、宣政、亀之助の3男を儲ける。1708年(宝永5)9月4日没。47才。法名「心空院殿元鏡負圓大姉」。新訂黒田家譜では享年52としている。
黒田清定の墓碑
黒田清定
生 安永7年 (1778年)
没 天保11年 (1840年)
三奈木黒田家9代当主。1778年(安永7)12月3日四宮義和の嫡男として生まれる。はじめ伊丹景弘の養子となる。1795年(寛政7)11月三奈木黒田隆庸の娘を妻として養子となる。隆庸の死により1800年(寛政12)11月跡を継ぐ。1840年(天保11)2月6日没。63才。法名「淨觀院殿恭翁紹篤居士」。
黒田吉之の墓碑
黒田吉之
生 天和2年 (1682年)
没 宝永7年 (1710年)
1682年(天和2)6月綱政の長男として生まれる。1691年(元禄4)2月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1710年(宝永7)7月3日没。29才。法名「 乾光院殿範雄道洪大居士」。
黒田一誠の墓碑
黒田一誠
生 正徳3年 (1713年)
没 天明7年 (1787年)
三奈木黒田家6代当主。1713年(正徳3)一利の子として生まれる。父の隠居により1734年(享保19)5月跡を継ぐ。1754年(宝暦4)5月藩主黒田継高より隠居を命じられる。1787年(天明7)5月2日没。75才。法名「月谿院殿適齊道機居士」。
黒田一興の墓碑
黒田一興
生 元文4年 (1739年)
没 宝暦12年 (1762年)
三奈木黒田家7代当主。1739年(元文4)5月10日一誠の長男として生まれる。父の隠居により1754年(宝暦4)5月跡を継ぐ。1762年(宝暦12)8月5日没。24才。法名「全昌院殿英嵓道偉居士」。学を好み、武芸も怠らずとある。
青山忠雄妻の墓碑
青山忠雄妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
真田信政の6女。1670年(寛文10)「青山家に御引越ナリ」と記録があることから、この時青山忠雄に嫁いだと思われる。1684年(貞享元)4月21日没。法名「綠芳院殿珠林義明大姉」。長野市の善光寺にも墓があり、こちらの法名は「緑芳院殿樹林惟馨大姉」とある。
長連房の墓碑
長連房
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
藤堂監物初代。高連の子。前田家重臣で一族の長氏の元に居たが、のちに藤堂高虎に仕える。大坂夏の陣のときに江戸留守居役を命じられるも、戦いに参戦。高虎の怒りに触れ蟄居となる。のち妹で高虎室松寿院のとりなしにより赦される。1631年(寛永8)5月8日没。法名「無○宗哲居士」。
藤堂高重の墓碑
藤堂高重
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
高虎の子。1625年(寛永2)5月大御所徳川秀忠が高虎邸に訪問した際、馬1匹を賜う。1631年(寛永8)4月10日没。法名「寳樹院殿淨岸仙峯居士」。
藤堂市右衛門の墓碑
藤堂市右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
高次の子。母は長生院。高久の兄。1636年(寛永13)6月13日早世。法名「了云院殿智性」。
藤堂信直の墓碑
藤堂信直
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
藤堂監物2代。長連房の子。連房の妹は藤堂高虎の妻(松寿院)となり高次を生む。信直も父と同じく藤堂家に仕え、藤堂姓を賜う。1672年(寛文12)11月18日没。法名「喜屋宗歓居士」。墓石は1637年(寛永14)8月15日建立の逆修塔。
細川有孝の墓碑
細川有孝
生 延宝4年 (1676年)
没 享保18年 (1733年)
肥後宇土藩2代藩主。1676年(延宝4)行孝の3男として生まれる。1684年(貞享元)7月将軍徳川綱吉に拝謁。父の死により1690年(元禄3)8月跡を継ぐ。1703年(元禄16)9月隠居。1733年(享保18)6月19日没。58才。法名「 泰立院殿通峯宗貫大居士」。
篠原一由妻の墓碑
篠原一由妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶長19年 (1614年)
1595年(文禄4)9月前田利家の10女として生まれる。名は保智姫。徳川家康の5男武田信吉と婚約するも信吉が没したため、前田家家臣の篠原一由に嫁ぐ。一由との間に岩松を儲ける。1614年(慶長19)6月24日没。20才。法名「清妙院殿華萼貞香大姉」。なお、母は利家の側室隆興院(岩)だが、墓石は利家の正室で義母芳春院(まつ)が施主として建立。「芳春院殿御内〇岩為息女菩提」と墓石にある。
篠原一由の墓碑
篠原一由
生 不明
没 慶長20年 (1615年)
一孝の長男。父と同じく前田利家に仕える。前田家の重臣で、主君利家の娘を正室とする。父に先立ちて1615年(慶長20)4月26日没。法名「月江宗心居士」。墓石は父一孝の建立による。
稲葉貞通の墓碑
稲葉貞通
生 天文15年 (1546年)
没 慶長8年 (1603年)
豊後臼杵藩初代藩主。1546年(天文15)良通の次男として生まれる。美濃斉藤家に仕え、のち織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に仕え、小田原合戦や朝鮮出兵に参陣。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは西軍に属すも岐阜城落城後は東軍に加担。1603年(慶長8)9月3日没。58才。法名「智勝院殿一等玄規大居士」。
稲葉良通の墓碑
稲葉良通
生 永正12年 (1515年)
没 天正16年 (1588年)
1515年(永正12)通則の子として生まれる。別名一鉄。美濃斉藤氏の家臣であったが織田信長に内応して仕える。1570年(元亀元)姉川の戦いのときに活躍。信長没後は豊臣秀吉に従う。1588年(天正16)11月19日没。74才。法名「清光院殿一鐵宗勢大居士」。
稲葉知通の墓碑
稲葉知通
生 承応元年 (1652年)
没 宝永3年 (1706年)
豊後臼杵藩6代藩主。1652年(承応元)信通の3男として生まれる。1681年(天和元)11月兄景通の養子となる。翌年2月将軍徳川綱吉に拝謁。1694年(元禄7)7月景通の死により跡を継ぐ。1706年(宝永3)4月15日没。55才。法名「本霊院殿一嶽宗泰大居士」。
稲葉景通の墓碑
稲葉景通
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄7年 (1694年)
豊後臼杵藩5代藩主。1639年(寛永16)4月信通の長男として生まれる。1646年(正保3)5月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1673年(延宝元)8月跡を継ぐ。1694年(元禄7)閏5月20日没。56才。法名「本光院殿一空宗眞大居士」。
稲葉典通の墓碑
稲葉典通
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永3年 (1626年)
豊後臼杵藩2代藩主。1566年(永禄9)貞通の長男として生まれる。織田信長に仕え、信長没後は豊臣秀吉に仕える。1587年(天正15)秀吉の機嫌を損ねて伊勢国朝熊に蟄居。のちに豊臣秀勝、秀次に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは岐阜城の織田秀信に従っていたが、岐阜城落城後東軍に味方。1626年(寛永3)11月19日没。61才。法名「廣嚴院殿一以恕心大居士」。
稲葉信通の墓碑
稲葉信通
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文13年 (1673年)
豊後臼杵藩4代藩主。1608年(慶長13)4月一通の長男として生まれる。1623年(元和9)7月将軍宣下のため上洛した徳川家光に拝謁。父の死により1641年(寛永18)11月跡を継ぐ。1673年(寛文13)6月24日没。66才。法名「本覺院殿一関宗如大居士」。
稲葉一通の墓碑
稲葉一通
生 天正15年 (1587年)
没 寛永18年 (1641年)
豊後臼杵藩3代藩主。1587年(天正15)6月典通の長男として生まれる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に父と参陣するも途中で大坂城は落城。そのまま大坂に向かい徳川家康、秀忠に拝謁。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1641年(寛永18)8月16日没。55才。法名「長江院殿一雲宗岫大居士」。
甲斐庄正述の墓碑
甲斐庄正述
生 不明
没 万治3年 (1660年)
正房の子。某年、父の跡を継ぐ。御書院番、御堀の普請奉行、長崎奉行を務める。郡崩れと呼ばれる肥前大村藩の隠れキリシタンに対応、処罰を担当する。1660年(万治3)6月5日没。法名「淨智院殿徳峰性仁居士」。
甲斐庄正親の墓碑
甲斐庄正親
生 不明
没 元禄3年 (1690年)
正述の子。1648年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1660年(万治3)12月跡を継ぐ。1680年(延宝8)8月から江戸南町奉行。奉行勤務を3度賞され加増も重ねる。有名な「八百屋お七」を裁く。1690年(元禄3)12月15日没。法名「法昌院殿心了大安居士」。
甲斐庄正永の墓碑
甲斐庄正永
生 寛文元年 (1661年)
没 享保2年 (1717年)
1661年(寛文元)正親の長男として生まれる。父の死により1691年(元禄4)7月跡を継ぐ。目付、普請奉行を務める。1708年(宝永5)小奉行に降格。1717年(享保2)3月4日没。57才。法名「成安院殿鐵山性心居士」。
田沼意次の墓碑
田沼意次
生 享保4年 (1719年)
没 天明8年 (1788年)
1719年(享保4)7月意行の長男として生まれる。1732年(享保17)7月将軍徳川吉宗に拝謁。のちの将軍家重の小姓となる。家重のときに600石から1万石の大名に出世。次の将軍家治のときにも出世を重ね5万7千石を領す。老中にもなるが家治死後に失脚。1788年(天明8)7月24日没。70才。法名「隆興院殿耆山良英大居士」。墓石には「隆興院殿歯塔」とある。
浅野長晟の墓碑
浅野長晟
生 天正14年 (1586年)
没 寛永9年 (1632年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1586年(天正14)1月長政の次男として生まれる。父、兄とともに豊臣秀吉に仕える。のち徳川家康の小姓となる。兄幸長が没すると家康の意向もあり跡を継ぐ。大坂の両陣にも参戦して活躍。戦後、家康の3女振姫と婚姻。1632年(寛永9)9月3日没。47才。法名「自得院殿洞雲宗仙大居士」。
浅野長政の墓碑
浅野長政
生 天文16年 (1547年)
没 慶長16年 (1611年)
1547年(天文16)安井重継の長男として生まれる。浅野長勝の娘を娶り養子となる。織田信長の弓衆として仕え、豊臣秀吉と義兄弟となる。信長の命で秀吉付となり以後秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦い、島津攻め、北条攻めに従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1611年(慶長16)4月7日没。65才。法名「傳正院殿功山道忠大居士」。
浅野幸長妻の墓碑
浅野幸長妻
生 不明
没 元和2年 (1616年)
池田恒興の娘。浅野幸長に嫁ぎ、松平忠昌妻、松平忠直妻の2女を儲ける。1616年 (元和2)12月17日没。法名「慶雲院殿栄春宗久大姉」。
浅野幸長の墓碑
浅野幸長
生 天正4年 (1576年)
没 慶長18年 (1613年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1576年(天正4)長政の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え1590年(天正18)小田原合戦にて初陣。文禄の役、慶長の役では朝鮮に渡り参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担して本戦に参戦。1613年(慶長18)8月25日没。38才。法名「清光院殿春翁宗雲大居士」。
橋本則綱妻の墓碑
橋本則綱妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
但馬垣屋氏の出身。長連房の養女として橋本則綱に嫁ぐ。夫とともに藤堂高虎夫人の松寿院付きとなる。1654年(承応3)3月11日没。法名「松応院南補妙泉禅定尼」。墓石に「正保四年(1647年)六月十五日」とあるが、逆修の建立日と思われる。
橋本則綱の墓碑
橋本則綱
生 天文23年 (1554年)
没 寛永7年 (1630年)
1554年(天文23)生まれ。藤堂高虎の妻(松寿院)の縁故により1599年(慶長4)より高虎に仕える。松寿院付きとなり、関ヶ原の戦いのときは大坂の屋敷、大坂の両陣のときは江戸の屋敷に詰める。1630年(寛永7)2月29日没。77才。法名「微妙院殿実山用眞禅定門」。
柴田康能妻の墓碑
柴田康能妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
朝倉高興の娘。柴田康能に嫁ぎ、康端を儲ける。1670年(寛文10)5月14日没。法名「長江院殿松室貞壽大姉」。墓石は1694年(元禄7)3月7日の建立による。
柴田康明妻の墓碑
柴田康明妻
生 不明
没 天和3年 (1683年)
某氏。柴田康明に嫁ぎ、康能、山田康継の2男を儲ける。1683年(天和3)5月7日没。法名「琳昌院殿暁譽受法大姉」。墓石に「元禄七龍集甲戌三月七日終焉」とあるが、終焉→建之の誤記。横の柴田康能妻の墓石は「元禄七龍集甲戌三月七日建之」とあるので、康能妻とこの康明妻は同じ日に建立されている。なお墓石には「命日天和三癸亥年五月七日」もある。
柴田康明の墓碑
柴田康明
生 慶長19年 (1614年)
没 延宝8年 (1680年)
1614年(慶長19)康長の次男として生まれる。1631年(寛永8)12月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1636年(寛永13)9月遺領のうち700石を賜う。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)11月28日没。67才。法名「泰安院殿堅譽相入大居士」。
松平直恒妻の墓碑
松平直恒妻
生 明和8年 (1771年)
没 寛政元年 (1789年)
1771年(明和8)伊達村候の8女として生まれる。名は富。花山院中納言愛徳と婚約するも破談。1789年(寛政元)4月松平直恒に嫁ぐ。同年9月14日没。19才。法名「桂林院殿真月良光大姉」。
松平忠政の墓碑
松平忠政
生 天正8年 (1580年)
没 慶長19年 (1614年)
1580年(天正8)奥平信昌の3男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。摂津守。1597年(慶長2)菅沼定利の養子となり上野国吉井2万石を継ぐ。父信昌の隠居により1602年(慶長7)跡を継いで美濃国加納で10万石を領す。1614年(慶長19)7月2日没。35才。法名「光國院殿雄山英公大居士」。
松下連昌妻の墓碑
松下連昌妻
生 不明
没 不明
松下長尹の娘。松下連昌に嫁ぎ、常慶の1男を儲ける。法名「蘭窓求〇大禅定尼」。墓石に「遠刕濱松庄松下常慶御悲母」と命日なのか「十月十八日」が読める。
松下連昌の墓碑
松下連昌
生 永正15年 (1518年)
没 天正17年 (1589年)
1518年(永正15)安秀の子として生まれる。遠州浜松にて徳川家康に拝謁して家臣となる。1589年(天正17)11月24日没。72才。法名 「善叟慶積庵主」。
松下常慶妻の墓碑
松下常慶妻
生 不明
没 不明
墓石に「松下常慶御内儀」とある。詳細は不明だが、重綱を儲けた落合蔵主の娘と思われる。法名「花屋妙長大禅定尼」。逆修の文字も見える。
松下常慶の墓碑
松下常慶
生 永禄元年 (1558年)
没 寛永元年 (1624年)
1558年(永禄元)連綱の4男として生まれる。名は安綱。徳川家康に仕え、主に諜報活動や身辺警護で活躍。1624年(寛永元)7月13日没。67才。法名「松林院殿仙壽笑安大居士」。
本多忠義の墓碑
本多忠義
生 慶長7年 (1602年)
没 延宝4年 (1676年)
1602年(慶長7)忠政の3男として生まれる。1615年(元和元)徳川家康に拝謁、大坂の陣に供奉することを許される。同年5月7日敵の首を取る。1626年(寛永3)播磨にて4万石。1639年(寛永16)遠江掛川藩7万石、1644年(正保元)越後村上藩10万石、1649年(慶安2)陸奥白河藩12万石と移封加増。1676年(延宝4)9月26日没。75才。法名「大信院殿本譽忠義居士」。
川口正家妻の墓碑
川口正家妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
紫波氏。南部信直の家臣川口正家に嫁ぐ。正家との間に、正康、内堀某妻、千種某妻、大釜某妻、南部直房妻(霊松院)の1男4女を儲ける。1684年(貞享元)没。法名「耕雲院殿清月妙林大姉」。墓石は1679年(延宝7)3月28日建立の逆修塔。
小川政吉の墓碑
小川政吉
生 慶長11年 (1606年)
没 慶安元年 (1648年)
1606年(慶長11)天野政勝の子として生まれる。1614年(慶長19)将軍徳川秀忠に拝謁。1615年(元和元)徳川家光付きとなり、小姓となる。このとき秀忠の命により母方の小川姓を名乗る。1648年(慶安元)4月13日没。43才。法名「雪渓院殿壽山建勝」。墓石は1652年(慶安5)6月13日息子藤十郎(藤助康真のことか)の建立による。
奥村栄明の墓碑
奥村栄明
生 永禄11年 (1568年)
没 元和6年 (1620年)
1568年(永禄11)永福の長男として生まれる。前田利家に仕え、1584年(天正12)佐々成政による末森城の戦いのときは、父とともに城を守り通す。1590年(天正18)小田原合戦に従う。1599年(慶長4)父の隠居により家督を継ぐ。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)5月20日没。53才。法名「清雲院葉山久変居士」。
南部直政の墓碑
南部直政
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄12年 (1699年)
陸奥八戸藩2代藩主。1661年(寛文元)5月直房の長男として生まれる。1668年(寛文8)父の死により家督を継ぐ。同年将軍徳川家綱に拝謁。1699年(元禄12)3月16日没。39才。法名「天祥院殿月潤宗眞大居士」。
南部直常の墓碑
南部直常
生 寛文3年 (1663年)
没 延宝8年 (1680年)
1663年(寛文3)1月15日直房の次男として生まれる。1680年(延宝8)6月22日没。18才。法名「天岸院殿江嶽宗雲大居士」。墓石に施主齢松院とあるが、齢松院は母である霊松院のことである。
南部利直妻(仙壽院)の墓碑
南部利直妻(仙壽院)
生 慶長9年 (1604年)
没 延宝元年 (1673年)
1604年(慶長9)中里正吉の娘として生まれる。南部利直に嫁ぎ、直房を設ける。1673年(延宝元)10月25日没。法名「仙壽院殿松嶺妙閑尼大姉」。70才。墓石は孫直政が7年忌追善供養のために建立。
南部信真の墓碑
南部信真
生 安永9年 (1780年)
没 弘化3年 (1846年)
陸奥八戸藩8代藩主。1780年(安永9)2月信依の3男として生まれる。1795年(寛政7)9月兄信房の養子となる。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1796年(寛政8)2月信房の隠居により家督を継ぐ。1846年(弘化3)12月29日没。67才。法名「惇徳院殿仁峯榮大居士」。
前田長種妻の墓碑
前田長種妻
生 永禄2年 (1559年)
没 元和2年 (1616年)
1559年(永禄2)6月前田利家の長女として生まれる。母は芳春院。名は幸。前田長種に嫁ぎ、直知、長時、溝口善勝妻の2男1女を儲ける。1616年(元和2)4月18日没。58才。法名「春桂院殿月照利犀大姉」。
前田利長妻の墓碑
前田利長妻
生 天正2年 (1574年)
没 元和9年 (1623年)
1574年(天正2)織田信長の4女として生まれる。1581年(天正9)前田利長に嫁ぐ。利長との間に子供は出来ず。1614年(慶長19)夫が没すると、剃髪して玉泉院と称した。1623年(元和9)2月24日没。50才。法名「玉泉院殿松厳永寿大姉」。
前田利長の墓碑
前田利長
生 永禄5年 (1562年)
没 慶長19年 (1614年)
加賀藩初代藩主。1562年(永禄5)1月利家の長男として生まれる。織田信長、豊臣秀吉に仕える。父の死後、豊臣政権下で五大老となる。徳川家康に謀反の容疑をかけられるも母を人質に出して服従。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは東軍に味方。1614年(慶長19)5月20日没。53才。法名「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。