稲葉泰通の墓碑
稲葉泰通
生 享保15年 (1730年)
没 明和5年 (1768年)
豊後臼杵藩9代藩主。1730年(享保15)7月董通の長男として生まれる。1737年(元文2)父の死により跡を継ぐ。1746年(延享3)3月将軍徳川家重に拝謁。1768年(明和5)7月2日没。39才。法名「本源院殿一水宗滴大居士」。
稲葉恒通の墓碑
稲葉恒通
生 元禄3年 (1690年)
没 享保5年 (1720年)
豊後臼杵藩7代藩主。1690年(元禄3)2月知通の次男として生まれる。1699年(元禄12)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1706年(宝永3)父の死により跡を継ぐ。1720年(享保5)6月25日没。31才。法名「本輪院殿一華宗厳大居士」。
稲葉弘通の墓碑
稲葉弘通
生 宝暦2年 (1752年)
没 文政元年 (1818年)
豊後臼杵藩10代藩主。1752年(宝暦2)泰通の長男として生まれる。1768年(明和5)父の死後は弟副通(正室の子。弘通は側室の子)が継ぐも、副通が将軍拝謁前に没したため、幕府には泰通の跡を弘通が継いだこととして届ける。1770年(明和7)2月将軍徳川家治に拝謁。1818年(文政元)10月28日没。67才。法名「本有院殿一円宗成大居士」。
稲葉幾通の墓碑
稲葉幾通
生 文化12年 (1815年)
没 天保14年 (1843年)
豊後臼杵藩13代藩主。1815年(文化12)3月雍通の子として生まれる。1821年(文政4)兄尊通の死により跡を継ぐ。幼年ゆえ先々代の藩主の父が後見。1843年(天保14)12月17日没。29才。法名「本誠院殿一寛宗仁大居士」。
稲葉尊通の墓碑
稲葉尊通
生 享和元年 (1801年)
没 文政4年 (1821年)
豊後臼杵藩12代藩主。1801年(享和元)2月雍通の子として生まれる。1820年(文政3)5月父の隠居により跡を継ぐ。1821年(文政4)10月17日没。21才。法名「本隆院殿一道宗成大居士」。
稲葉侯通の墓碑
稲葉侯通
生 安永元年 (1772年)
没 寛政元年 (1789年)
1772年(安永元)弘通の長男として生まれる。1789年(寛政元)7月8日父に先立ちて没。18才。法名「眞相院殿諦巖紹章大居士」。
溝口勝豊の墓碑
溝口勝豊
生 元禄15年 (1702年)
没 明和3年 (1766年)
1702年(元禄15)友勝の次男として生まれる。1716年(享保元)11月将軍徳川吉宗に拝謁。兄塡勝の死により1744年(延享元)8月跡を継ぐ。1766年(明和3)1月29日没。65才。法名「勝豊院殿大亮義倫居士」。
法然上人の墓碑
法然上人
生 長承2年 (1133年)
没 建暦2年 (1212年)
1133年(長承2)4月漆間時国の子として生まれる。天台宗比叡山延暦寺の源光のもとで修行。1175年(承安5)浄土宗を開く。1207年(承元元)浄土宗が危険視され、法然は讃岐、弟子の親鸞は越後に配流となる。1212年(建暦2)1月25日没。80才。源空上人とも称し、墓石には「源空」とある。
桑原為彬の墓碑
桑原為彬
生 宝暦2年 (1752年)
没 宝暦14年 (1764年)
1752年(宝暦2)高辻家長の次男として生まれる。大学頭。従五位下。桑原家の養子となる。1764年(宝暦14)1月30日没。13才。法名「登仙院」。
向井直宗の墓碑
向井直宗
生 慶長12年 (1607年)
没 正保元年 (1644年)
1607年(慶長12)忠勝の2男として生まれる。忠宗とも。1614年(慶長19)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1641年(寛永18)12月跡を継ぐ。1644年(正保元)6月17日没。38才。法名「崇安禅心居士」。
向井直則の墓碑
向井直則
生 不明
没 正保4年 (1647年)
直宗の長男。右衛門太郎。父の死により1644年(正保元)12月跡を継ぐ。1647年(正保4)10月11日没。法名「玉洞院殿天瑞宗因信士」。
黒田隆庸の墓碑
黒田隆庸
生 延享元年 (1744年)
没 寛政12年 (1800年)
三奈木黒田家8代当主。1744年(延享元)一誠の子として生まれる。1762年(宝暦12)9月兄一興の死により跡を継ぐ。1777年(安永6)前藩主黒田継高の葬儀を主宰。1800年(寛政12)9月4日没。57才。法名「雲翔院殿絶巖宗倫居士」。
黒田綱政娘の墓碑
黒田綱政娘
生 元禄6年 (1693年)
没 宝永7年 (1710年)
1693年(元禄6)黒田綱政の娘として生まれる。名は久姫。上杉吉憲と婚約するも、婚儀まえの1710年(宝永7)5月14日没。18才。法名「寶乗院殿安性宗恬大姉」。
黒田綱政妻の墓碑
黒田綱政妻
生 寛文2年 (1662年)
没 宝永5年 (1708年)
1662年(寛文2)立花忠茂の8女として生まれる。名は六姫、呂久姫。兄の鑑虎養女となり黒田綱政に嫁ぐ。綱政との間に、吉之、宣政、亀之助の3男を儲ける。1708年(宝永5)9月4日没。47才。法名「心空院殿元鏡負圓大姉」。新訂黒田家譜では享年52としている。
黒田清定の墓碑
黒田清定
生 安永7年 (1778年)
没 天保11年 (1840年)
三奈木黒田家9代当主。1778年(安永7)12月3日四宮義和の嫡男として生まれる。はじめ伊丹景弘の養子となる。1795年(寛政7)11月三奈木黒田隆庸の娘を妻として養子となる。隆庸の死により1800年(寛政12)11月跡を継ぐ。1840年(天保11)2月6日没。63才。法名「淨觀院殿恭翁紹篤居士」。
黒田吉之の墓碑
黒田吉之
生 天和2年 (1682年)
没 宝永7年 (1710年)
1682年(天和2)6月綱政の長男として生まれる。1691年(元禄4)2月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1710年(宝永7)7月3日没。29才。法名「 乾光院殿範雄道洪大居士」。
黒田一誠の墓碑
黒田一誠
生 正徳3年 (1713年)
没 天明7年 (1787年)
三奈木黒田家6代当主。1713年(正徳3)一利の子として生まれる。父の隠居により1734年(享保19)5月跡を継ぐ。1754年(宝暦4)5月藩主黒田継高より隠居を命じられる。1787年(天明7)5月2日没。75才。法名「月谿院殿適齊道機居士」。
黒田一興の墓碑
黒田一興
生 元文4年 (1739年)
没 宝暦12年 (1762年)
三奈木黒田家7代当主。1739年(元文4)5月10日一誠の長男として生まれる。父の隠居により1754年(宝暦4)5月跡を継ぐ。1762年(宝暦12)8月5日没。24才。法名「全昌院殿英嵓道偉居士」。学を好み、武芸も怠らずとある。
青山忠雄妻の墓碑
青山忠雄妻
生 不明
没 貞享元年 (1684年)
真田信政の6女。1670年(寛文10)「青山家に御引越ナリ」と記録があることから、この時青山忠雄に嫁いだと思われる。1684年(貞享元)4月21日没。法名「綠芳院殿珠林義明大姉」。長野市の善光寺にも墓があり、こちらの法名は「緑芳院殿樹林惟馨大姉」とある。
長連房の墓碑
長連房
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
藤堂監物初代。高連の子。前田家重臣で一族の長氏の元に居たが、のちに藤堂高虎に仕える。大坂夏の陣のときに江戸留守居役を命じられるも、戦いに参戦。高虎の怒りに触れ蟄居となる。のち妹で高虎室松寿院のとりなしにより赦される。1631年(寛永8)5月8日没。法名「無○宗哲居士」。
藤堂高重の墓碑
藤堂高重
生 不明
没 寛永8年 (1631年)
高虎の子。1625年(寛永2)5月大御所徳川秀忠が高虎邸に訪問した際、馬1匹を賜う。1631年(寛永8)4月10日没。法名「寳樹院殿淨岸仙峯居士」。
藤堂市右衛門の墓碑
藤堂市右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
高次の子。母は長生院。高久の兄。1636年(寛永13)6月13日早世。法名「了云院殿智性」。
藤堂信直の墓碑
藤堂信直
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
藤堂監物2代。長連房の子。連房の妹は藤堂高虎の妻(松寿院)となり高次を生む。信直も父と同じく藤堂家に仕え、藤堂姓を賜う。1672年(寛文12)11月18日没。法名「喜屋宗歓居士」。墓石は1637年(寛永14)8月15日建立の逆修塔。
細川有孝の墓碑
細川有孝
生 延宝4年 (1676年)
没 享保18年 (1733年)
肥後宇土藩2代藩主。1676年(延宝4)行孝の3男として生まれる。1684年(貞享元)7月将軍徳川綱吉に拝謁。父の死により1690年(元禄3)8月跡を継ぐ。1703年(元禄16)9月隠居。1733年(享保18)6月19日没。58才。法名「 泰立院殿通峯宗貫大居士」。
篠原一由妻の墓碑
篠原一由妻
生 文禄4年 (1595年)
没 慶長19年 (1614年)
1595年(文禄4)9月前田利家の10女として生まれる。名は保智姫。徳川家康の5男武田信吉と婚約するも信吉が没したため、前田家家臣の篠原一由に嫁ぐ。一由との間に岩松を儲ける。1614年(慶長19)6月24日没。20才。法名「清妙院殿華萼貞香大姉」。なお、母は利家の側室隆興院(岩)だが、墓石は利家の正室で義母芳春院(まつ)が施主として建立。「芳春院殿御内〇岩為息女菩提」と墓石にある。
篠原一由の墓碑
篠原一由
生 不明
没 慶長20年 (1615年)
一孝の長男。父と同じく前田利家に仕える。前田家の重臣で、主君利家の娘を正室とする。父に先立ちて1615年(慶長20)4月26日没。法名「月江宗心居士」。墓石は父一孝の建立による。
稲葉貞通の墓碑
稲葉貞通
生 天文15年 (1546年)
没 慶長8年 (1603年)
豊後臼杵藩初代藩主。1546年(天文15)良通の次男として生まれる。美濃斉藤家に仕え、のち織田信長に仕える。信長没後は豊臣秀吉に仕え、小田原合戦や朝鮮出兵に参陣。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは西軍に属すも岐阜城落城後は東軍に加担。1603年(慶長8)9月3日没。58才。法名「智勝院殿一等玄規大居士」。
稲葉良通の墓碑
稲葉良通
生 永正12年 (1515年)
没 天正16年 (1588年)
1515年(永正12)通則の子として生まれる。別名一鉄。美濃斉藤氏の家臣であったが織田信長に内応して仕える。1570年(元亀元)姉川の戦いのときに活躍。信長没後は豊臣秀吉に従う。1588年(天正16)11月19日没。74才。法名「清光院殿一鐵宗勢大居士」。
稲葉知通の墓碑
稲葉知通
生 承応元年 (1652年)
没 宝永3年 (1706年)
豊後臼杵藩6代藩主。1652年(承応元)信通の3男として生まれる。1681年(天和元)11月兄景通の養子となる。翌年2月将軍徳川綱吉に拝謁。1694年(元禄7)7月景通の死により跡を継ぐ。1706年(宝永3)4月15日没。55才。法名「本霊院殿一嶽宗泰大居士」。
稲葉景通の墓碑
稲葉景通
生 寛永16年 (1639年)
没 元禄7年 (1694年)
豊後臼杵藩5代藩主。1639年(寛永16)4月信通の長男として生まれる。1646年(正保3)5月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1673年(延宝元)8月跡を継ぐ。1694年(元禄7)閏5月20日没。56才。法名「本光院殿一空宗眞大居士」。
稲葉典通の墓碑
稲葉典通
生 永禄9年 (1566年)
没 寛永3年 (1626年)
豊後臼杵藩2代藩主。1566年(永禄9)貞通の長男として生まれる。織田信長に仕え、信長没後は豊臣秀吉に仕える。1587年(天正15)秀吉の機嫌を損ねて伊勢国朝熊に蟄居。のちに豊臣秀勝、秀次に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは岐阜城の織田秀信に従っていたが、岐阜城落城後東軍に味方。1626年(寛永3)11月19日没。61才。法名「廣嚴院殿一以恕心大居士」。
稲葉信通の墓碑
稲葉信通
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文13年 (1673年)
豊後臼杵藩4代藩主。1608年(慶長13)4月一通の長男として生まれる。1623年(元和9)7月将軍宣下のため上洛した徳川家光に拝謁。父の死により1641年(寛永18)11月跡を継ぐ。1673年(寛文13)6月24日没。66才。法名「本覺院殿一関宗如大居士」。
稲葉一通の墓碑
稲葉一通
生 天正15年 (1587年)
没 寛永18年 (1641年)
豊後臼杵藩3代藩主。1587年(天正15)6月典通の長男として生まれる。1615年(慶長20)大坂夏の陣に父と参陣するも途中で大坂城は落城。そのまま大坂に向かい徳川家康、秀忠に拝謁。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1641年(寛永18)8月16日没。55才。法名「長江院殿一雲宗岫大居士」。
甲斐庄正述の墓碑
甲斐庄正述
生 不明
没 万治3年 (1660年)
正房の子。某年、父の跡を継ぐ。御書院番、御堀の普請奉行、長崎奉行を務める。郡崩れと呼ばれる肥前大村藩の隠れキリシタンに対応、処罰を担当する。1660年(万治3)6月5日没。法名「淨智院殿徳峰性仁居士」。
甲斐庄正親の墓碑
甲斐庄正親
生 不明
没 元禄3年 (1690年)
正述の子。1648年(慶安元)6月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1660年(万治3)12月跡を継ぐ。1680年(延宝8)8月から江戸南町奉行。奉行勤務を3度賞され加増も重ねる。有名な「八百屋お七」を裁く。1690年(元禄3)12月15日没。法名「法昌院殿心了大安居士」。
甲斐庄正永の墓碑
甲斐庄正永
生 寛文元年 (1661年)
没 享保2年 (1717年)
1661年(寛文元)正親の長男として生まれる。父の死により1691年(元禄4)7月跡を継ぐ。目付、普請奉行を務める。1708年(宝永5)小奉行に降格。1717年(享保2)3月4日没。57才。法名「成安院殿鐵山性心居士」。
田沼意次の墓碑
田沼意次
生 享保4年 (1719年)
没 天明8年 (1788年)
1719年(享保4)7月意行の長男として生まれる。1732年(享保17)7月将軍徳川吉宗に拝謁。のちの将軍家重の小姓となる。家重のときに600石から1万石の大名に出世。次の将軍家治のときにも出世を重ね5万7千石を領す。老中にもなるが家治死後に失脚。1788年(天明8)7月24日没。70才。法名「隆興院殿耆山良英大居士」。墓石には「隆興院殿歯塔」とある。
浅野長晟の墓碑
浅野長晟
生 天正14年 (1586年)
没 寛永9年 (1632年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1586年(天正14)1月長政の次男として生まれる。父、兄とともに豊臣秀吉に仕える。のち徳川家康の小姓となる。兄幸長が没すると家康の意向もあり跡を継ぐ。大坂の両陣にも参戦して活躍。戦後、家康の3女振姫と婚姻。1632年(寛永9)9月3日没。47才。法名「自得院殿洞雲宗仙大居士」。
浅野長政の墓碑
浅野長政
生 天文16年 (1547年)
没 慶長16年 (1611年)
1547年(天文16)安井重継の長男として生まれる。浅野長勝の娘を娶り養子となる。織田信長の弓衆として仕え、豊臣秀吉と義兄弟となる。信長の命で秀吉付となり以後秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦い、島津攻め、北条攻めに従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1611年(慶長16)4月7日没。65才。法名「傳正院殿功山道忠大居士」。
浅野幸長妻の墓碑
浅野幸長妻
生 不明
没 元和2年 (1616年)
池田恒興の娘。浅野幸長に嫁ぎ、松平忠昌妻、松平忠直妻の2女を儲ける。1616年 (元和2)12月17日没。法名「慶雲院殿栄春宗久大姉」。
浅野幸長の墓碑
浅野幸長
生 天正4年 (1576年)
没 慶長18年 (1613年)
紀伊和歌山藩初代藩主。1576年(天正4)長政の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え1590年(天正18)小田原合戦にて初陣。文禄の役、慶長の役では朝鮮に渡り参戦。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担して本戦に参戦。1613年(慶長18)8月25日没。38才。法名「清光院殿春翁宗雲大居士」。
橋本則綱妻の墓碑
橋本則綱妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
但馬垣屋氏の出身。長連房の養女として橋本則綱に嫁ぐ。夫とともに藤堂高虎夫人の松寿院付きとなる。1654年(承応3)3月11日没。法名「松応院南補妙泉禅定尼」。墓石に「正保四年(1647年)六月十五日」とあるが、逆修の建立日と思われる。
橋本則綱の墓碑
橋本則綱
生 天文23年 (1554年)
没 寛永7年 (1630年)
1554年(天文23)生まれ。藤堂高虎の妻(松寿院)の縁故により1599年(慶長4)より高虎に仕える。松寿院付きとなり、関ヶ原の戦いのときは大坂の屋敷、大坂の両陣のときは江戸の屋敷に詰める。1630年(寛永7)2月29日没。77才。法名「微妙院殿実山用眞禅定門」。
柴田康能妻の墓碑
柴田康能妻
生 不明
没 寛文10年 (1670年)
朝倉高興の娘。柴田康能に嫁ぎ、康端を儲ける。1670年(寛文10)5月14日没。法名「長江院殿松室貞壽大姉」。墓石は1694年(元禄7)3月7日の建立による。
柴田康明妻の墓碑
柴田康明妻
生 不明
没 天和3年 (1683年)
某氏。柴田康明に嫁ぎ、康能、山田康継の2男を儲ける。1683年(天和3)5月7日没。法名「琳昌院殿暁譽受法大姉」。墓石に「元禄七龍集甲戌三月七日終焉」とあるが、終焉→建之の誤記。横の柴田康能妻の墓石は「元禄七龍集甲戌三月七日建之」とあるので、康能妻とこの康明妻は同じ日に建立されている。なお墓石には「命日天和三癸亥年五月七日」もある。
柴田康明の墓碑
柴田康明
生 慶長19年 (1614年)
没 延宝8年 (1680年)
1614年(慶長19)康長の次男として生まれる。1631年(寛永8)12月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1636年(寛永13)9月遺領のうち700石を賜う。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)11月28日没。67才。法名「泰安院殿堅譽相入大居士」。
松平直恒妻の墓碑
松平直恒妻
生 明和8年 (1771年)
没 寛政元年 (1789年)
1771年(明和8)伊達村候の8女として生まれる。名は富。花山院中納言愛徳と婚約するも破談。1789年(寛政元)4月松平直恒に嫁ぐ。同年9月14日没。19才。法名「桂林院殿真月良光大姉」。
松平忠政の墓碑
松平忠政
生 天正8年 (1580年)
没 慶長19年 (1614年)
1580年(天正8)奥平信昌の3男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。摂津守。1597年(慶長2)菅沼定利の養子となり上野国吉井2万石を継ぐ。父信昌の隠居により1602年(慶長7)跡を継いで美濃国加納で10万石を領す。1614年(慶長19)7月2日没。35才。法名「光國院殿雄山英公大居士」。
松下連昌妻の墓碑
松下連昌妻
生 不明
没 不明
松下長尹の娘。松下連昌に嫁ぎ、常慶の1男を儲ける。法名「蘭窓求〇大禅定尼」。墓石に「遠刕濱松庄松下常慶御悲母」と命日なのか「十月十八日」が読める。
松下連昌の墓碑
松下連昌
生 永正15年 (1518年)
没 天正17年 (1589年)
1518年(永正15)安秀の子として生まれる。遠州浜松にて徳川家康に拝謁して家臣となる。1589年(天正17)11月24日没。72才。法名 「善叟慶積庵主」。