久世熊之丞の墓碑
久世熊之丞
生 宝暦8年 (1758年)
没 明和9年 (1772年)
1758年(宝暦8)3月広明の4男として生まれる。はじめ虎五郎。1760年(宝暦10)7月熊之丞と改名。1772年(明和9)9月2日没。15才。法名「如法院殿觀月日理居士」。
馬場武右衛門の墓碑
馬場武右衛門
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄の家臣。左手鉄砲組。直寄が死ぬ直前の1639年(寛永16)6月8日に、馬場武右衛門が殉死しないように書かれた書状が残る。しかし直寄が1639年(寛永16)6月29日没すると、7月6日殉死。法名「大甫念佛」。
野瀬右近の墓碑
野瀬右近
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄の筆頭家老。名は氏長。直寄の弟直忠の娘を妻として、1万5千石を領す。主君直寄が1639年(寛永16)6月29日に没すると、初七日にあたる7月5日殉死。法名「開鐡一無居士」。
米田是長の墓碑
米田是長
生 元和4年 (1618年)
没 延宝8年 (1680年)
1618年(元和4)是季の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。1622年(元和8)に父と熊本藩細川家に帰参。1640年(寛永17)6月より家老職。1677年(延宝5)11月隠居。1680年(延宝8)7月4日没。63才。法名「瑞雲院殿泰嶺住安大居士」。
米田是福妻の墓碑
米田是福妻
生 享保9年 (1724年)
没 天明4年 (1784年)
1724年(享保9)細川宣紀の娘として生まれる。名は衛世。1784年(天明4)2月6日没。61才。法名「壽鏡院殿當臺妙相大姉」。
米田是福の墓碑
米田是福
生 享保4年 (1719年)
没 安永4年 (1775年)
1719年(享保4)是直の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。1742年(寛保2)8月主君細川宣紀の娘を娶る。父の隠居により1746年(延享3)跡を継ぐ。1774年(安永3)12月隠居。1775年(安永4)8月14日没。57才。法名「齊光院殿仁榮芳渚大居士」。
米田是春の墓碑
米田是春
生 元禄4年 (1691年)
没 延享5年 (1748年)
熊本藩細川家の家老。1691年(元禄4)是庸の子として生まれる。父の死により1712年(正徳2)2月跡を継ぐ。1746年(延享3)6月隠居。1748年(延享5)1月29日没。58才。法名「良嚴院殿要堅耕雲居士」。
米田是季の墓碑
米田是季
生 天正14年 (1586年)
没 明暦4年 (1658年)
1586年(天正14)求政の子として生まれる。熊本藩細川家の家老。長岡監物とも。細川家に仕え関ケ原の戦いに参戦。1607年(慶長12)細川忠興と反りが合わず浪人となる。大坂の陣のときは豊臣方として戦う。戦後浪人。1622年(元和8)再び細川家に帰参、家老となる。1637年(寛永14)島原の乱に参戦。1658年(明暦4)1月8日没。73才。法名「雲祥院殿仁勇紹寛居士」。
村田仁兵衛の墓碑
村田仁兵衛
生 不明
没 寛永16年 (1639年)
堀直寄に仕え400石。主君直寄が1639年(寛永16)6月29日に没すると、7月7日殉死。法名「心甫道安」。
堀直香の墓碑
堀直香
生 正保2年 (1645年)
没 寛文9年 (1669年)
1645年(正保2)直常の子として生まれる。宮内。1669年(寛文9)10月29日没。25才。法名「越覺玄超居士」。
堀直為妻の墓碑
堀直為妻
生 不明
没 天明5年 (1785年)
詳細不明。堀直為に嫁ぎ、直堯を儲ける。1785年(天明5)10月10日没。法名「是心院殿智峯妙空大姉」。直堯の母は妾腹女とあることから身分の低い女性と思われる。
堀直為の墓碑
堀直為
生 元禄11年 (1698年)
没 寛保3年 (1743年)
越後村松藩4代藩主。1698年(元禄11)10月直利の次男として生まれる。1708年(宝永5)4月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1711年(正徳元)9月跡を継ぐ。1740年(元文5)2月隠居。1743年(寛保3)3月23日没。46才。法名「鐡翁院殿祖透儀關大居士」。
堀直泰の墓碑
堀直泰
生 元文3年 (1738年)
没 安永8年 (1779年)
1738年(元文3)直堯の長男として生まれる。1754年(宝暦4)閏2月将軍徳川家重に拝謁。家督を継ぐことなく1779年(安永8)6月2日没。42才。「淨禪院殿觀空了夢大居士」。寛政重修諸家譜では6月2日没だが、墓石には「安永八年五月晦日寂」とある。
堀直次妻の墓碑
堀直次妻
生 元和6年 (1620年)
没 貞享元年 (1684年)
1620年(元和6)土井利勝の娘として生まれる。1630年(寛永7)11才のとき堀直次に嫁ぐ。直次との間に、直定、堀直吉妻の1男1女を儲ける。1684年(貞享元)8月6日没。65才。法名「隆崇院殿珠林満貞大姉」。
堀直次の墓碑
堀直次
生 慶長19年 (1614年)
没 寛永15年 (1638年)
越後村上藩2代藩主。1614年(慶長19)直寄の長男として生まれる。父の隠居により1636年(寛永13)跡を継ぐ。1638年(寛永15)7月17日没。25才。法名「中證院殿月窓全清」。
堀直政の墓碑
堀直政
生 天文16年 (1547年)
没 慶長13年 (1608年)
1547年(天文16)奥田直純の子として生まれる。従弟の堀秀政に仕える。秀政が越前北之庄城主となると奥田姓から堀姓とする。長久手の戦い、小田原合戦に従軍。1608年(慶長13)2月26日没。62才。法名「千手院殿傑山道英大居士」。
堀直寄の墓碑
堀直寄
生 天正5年 (1577年)
没 寛永16年 (1639年)
越後村上藩初代藩主。1577年(天正5)直政の次男として生まれる。豊臣秀吉の家臣として仕える。のち堀秀治、忠俊に仕える。主君忠俊、兄直次と家督のことで対立、徳川家康により忠俊と直次は改易、直寄も減封となる。大坂の両陣に参戦、戦後加増を重ねる。1639年(寛永16)6月29日没。63才。法名「凌雲院殿鉄団宗釘大居士」。
堀直定の墓碑
堀直定
生 寛永13年 (1636年)
没 寛永19年 (1642年)
越後村上藩3代藩主。1636年(寛永13)直次の長男として生まれる。1638年(寛永15)父直次、1639年(寛永16)祖父直寄が没したため跡を継ぐ。1642年(寛永19)3月2日没。7才。法名「春陽院殿梅臺清銕」。越後村上藩堀家は断絶となる。
堀直堯の墓碑
堀直堯
生 正徳5年 (1715年)
没 天明5年 (1785年)
越後村松藩5代藩主。1715年(正徳5)直為の長男として生まれる。1733年(享保18)9月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1740年(元文5)2月跡を継ぐ。1785年(天明5)10月29日没。71才。法名「松巖院殿俊徳日休大居士」。墓石には「天明五年十月廿五日寂」とある。
堀直吉妻の墓碑
堀直吉妻
生 不明
没 延宝5年 (1677年)
堀直次の娘。堀直吉に嫁ぎ、直利を儲ける。1677年(延宝5)5月12日没。法名「栄寿院殿光月浄心大姉」。
堀直吉の墓碑
堀直吉
生 寛永14年 (1637年)
没 延宝4年 (1676年)
越後村松藩2代藩主。1637年(寛永14)直時の長男として生まれる。父の死により1643年(寛永20)跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家光に拝謁。1676年(延宝4)10月15日没。40才。法名「出障院殿観雪芳空大居士」。
堀直利の墓碑
堀直利
生 万治元年 (1658年)
没 享保元年 (1716年)
越後村松藩3代藩主。1658年(万治元)直吉の子として生まれる。1665年(寛文5)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1676年(延宝4)12月跡を継ぐ。1711年(正徳元)9月隠居。1716年(享保元)7月10日没。59才。法名「禪慧院殿義天保壽大居士」。
三吉隆亮の墓碑
三吉隆亮
生 不明
没 天正16年 (1588年)
致高の子。大内義隆に仕え、1字を賜り、隆亮と名乗る。妹が毛利元就の妻となっていることより、後に毛利氏に従う。尼子氏との戦いに参戦。1588年(天正16)5月16日没。法名「峻功院陽巖常慶大禅定門」。墓石は1558年(永禄元)3月建立の逆修塔。家臣祝勘左衛門を取次として高野山小坂坊に逆修を行う書状が残る。撮影禁止区間(御廟橋の先)にも三吉隆亮の2つ目の墓碑がある。
黒田隼三郎の墓碑
黒田隼三郎
生 安永元年 (1772年)
没 安永6年 (1777年)
1772年(安永元)12月治之の長男として生まれる。母は鈴木氏。1777年(安永6)9月25日没。6才。法名「眞常院殿玉峯宗琇大童子」。
黒田長重妻の墓碑
黒田長重妻
生 寛文7年 (1667年)
没 元禄6年 (1693年)
1667年(寛文7)黒田光之の次女として生まれる。名は富貴姫。黒田長重に嫁ぎ、長軌を儲ける。1693年(元禄6)8月14日没。27才。法名「勝眞院殿月巖宗照大姉」。
黒田長溥妻の墓碑
黒田長溥妻
生 文政2年 (1819年)
没 嘉永4年 (1851年)
1819年(文政2)黒田斉清の長女として生まれる。名は純姫墨子。1822年(文政5)島津家の長溥と婚姻、長溥は黒田家に婿入りとなる。1851年(嘉永4)6月17日没。33才。法名「昌光院殿久巖妙映大姉」。
黒田長清妻(定香院)の墓碑
黒田長清妻(定香院)
生 延宝8年 (1680年)
没 宝永3年 (1706年)
1680年(延宝8)小笠原長勝の2女として生まれる。名は伊予。1698年(元禄11)黒田長清に嫁ぎ、継高、某の2男を儲ける。1706年(宝永3)9月27日没。27才。法名「定香院殿通寂宗倫大姉」。姉(長勝の長女)も同じ黒田長清に嫁いでいたが1696年(元禄9)に没している。黒田家譜によると遺髪を納めたとある。
黒田長清の墓碑
黒田長清
生 寛文7年 (1667年)
没 享保5年 (1720年)
1667年(寛文7)6月光之の4男として生まれる。1682年(天和2)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1688年(元禄元)12月筑前直方藩で5万石を分知される。黒田本家の藩主宣政が病弱により、長清が後見人となる。1720年(享保5)2月23日没。54才。法名「龍湫院殿瑞林道祥大居士」。
黒田重政娘の墓碑
黒田重政娘
生 宝暦11年 (1761年)
没 明和8年 (1771年)
1761年(宝暦11)黒田重政の娘として生まれる。名はお屋世。黒田継高の養女となり、黒田治之の許嫁となるも、1771年(明和8)8月10日没。11才。法名「眞如院殿月峰妙輝大姉」。
黒田重政妻の墓碑
黒田重政妻
生 享保18年 (1733年)
没 文化5年 (1808年)
1733年(享保18)島津継豊の娘として生まれる。名は菊姫。黒田重政に嫁ぎ、黒田治之室、女子、男子の1男2女を儲ける。1808年(文化5)3月17日没。76才。法名「眞含院殿實高慈清大禅定尼」。
黒田重政の墓碑
黒田重政
生 元文2年 (1737年)
没 宝暦12年 (1762年)
1737年(元文2)継高の次男として生まれる。1748年(寛延元)1月将軍徳川家重に拝謁。家重より1字を賜り重政と名乗る。兄春千代が早世したため世子扱いだったが、跡を継ぐことなく1762年(宝暦12)7月14日没。26才。法名「瑛光院殿瑞嶽紹鳳大居士」。
黒田継高娘の墓碑
黒田継高娘
生 宝暦9年 (1759年)
没 天明4年 (1784年)
1759年(宝暦9)黒田継高の娘として生まれる。母は鷲尾隆照娘。厚姫。1784年(天明4)没。25才。法名「玉臺院殿桂輪素光大姉」。
黒田治高の墓碑
黒田治高
生 宝暦4年 (1754年)
没 天明2年 (1782年)
筑前福岡藩8代藩主。1754年(宝暦4)5月京極高慶の7男として生まれる。1781年(天明元)11月危篤状態の黒田治之の養子となり、1782年(天明2)2月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1字を賜り治高と名乗る。1782年(天明2)8月21日没。29才。法名「龍雲院殿徳巖道俊大禅定門」。幕府には10月24日没と届けている。
黒田治之妻の墓碑
黒田治之妻
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政3年 (1820年)
1758年(宝暦8)榊原政永の娘として生まれる。名は幸姫。黒田治之に嫁ぐ。1820年(文政3)11月24日没。63才。法名「瑶津院殿瓊山妙瑩大襌定尼」。
黒田斉清妻の墓碑
黒田斉清妻
生 寛政5年 (1793年)
没 天保10年 (1839年)
1793年(寛政5)二条治孝の娘として生まれる。名は徳姫。黒田斉清に嫁ぎ、黒田長溥妻の1女を儲ける。1839年(天保10)12月20日没。47才。法名「寶林院殿」。
畔柳寿学の墓碑
畔柳寿学
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
徳川家康の家臣で、代官、奉行などを務める。土木技術者・建築家としても活躍。陰陽師も兼ねた特殊技術者。彦坂光正、友野宗善とともに、駿府の町づくりに貢献し、「駿府城下町造り三奉行」と呼ばれる。ほか、岡崎市の大樹寺や土呂八幡宮などを再建。1626年(寛永3)閏4月5日没。法名「○照院殿傅叟壽学居士」。
本多豊後の墓碑
本多豊後
生 寛永4年 (1627年)
没 寛永15年 (1638年)
1627年(寛永4)忠利の4男として生まれる。母は井上正就の娘。1638年(寛永15)12月27日没。12才。法名「光雲院殿登巖秀哲」。
本多彌太郎の墓碑
本多彌太郎
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
忠利の3男。母は井上正就の娘。1638年(寛永15)12月26日没。法名「源相院殿琢宝永玉大禅定門」。翌日27日には弟豊後(忠利4男)も亡くなっている。
本多康紀の墓碑
本多康紀
生 天正7年 (1579年)
没 元和9年 (1623年)
1579年(天正7)康重の長男として生まれる。徳川家康より1字を賜り康紀と名乗る。大坂両の陣に出陣。1615年(元和元)5月7日の夏の陣のときに、兜の眉間を鉄砲で打ち砕かれるも死を免れた。この日、康紀の軍勢で210の首を取る。1623年(元和9)9月25日没。45才。法名「諦琳院殿雄山道策大居士」。
内藤忠重の墓碑
内藤忠重
生 天正14年 (1586年)
没 承応2年 (1653年)
志摩鳥羽藩初代藩主。1586年(天正14)忠政の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠のもと上田城攻めに従う。1610年(慶長15)より徳川家光に付けられ、大坂の陣のときは茶臼山の徳川家康本陣に使者として赴く。忠勤の功により1633年(寛永10)志摩国鳥羽3万5千石を与えられる。1653年(承応2)4月23日没。68才。法名「善龍院殿空安了源大禅定門」。墓石は長男忠種の建立による。
内藤忠種の墓碑
内藤忠種
生 寛文12年 (1672年)
没 享保3年 (1718年)
1672年(寛文12)忠通の子として生まれる。1683年(天和3)11月将軍徳川綱吉に拝謁。1690年(元禄3)父の遺領を継ぐ。1718年(享保3)8月2日没。47才。法名「眞性院殿高譽圓量大禅定門」。
内藤忠次の墓碑
内藤忠次
生 正保2年 (1645年)
没 宝永元年 (1704年)
1645年(正保2)忠政の長男として生まれる。1656年(明暦2)7月将軍徳川家綱に拝謁。長男だが病により跡を継がず、弟忠勝が跡を継いだ。1704年(宝永元)5月25日没。60才。法名「涼法院殿覺翁圓心居士」。
内藤忠政の墓碑
内藤忠政
生 元和3年 (1617年)
没 寛文13年 (1673年)
志摩鳥羽藩2代藩主。1617年(元和3)忠重の長男として生まれる。1627年(寛永4)4月将軍徳川家光に拝謁。1653年(承応2)6月父の死により跡を継ぐ。1673年(寛文13)7月12日没。57才。法名「智洞院殿性誉覚木大禅定門」。
内藤忠勝の墓碑
内藤忠勝
生 承応3年 (1654年)
没 延宝8年 (1680年)
志摩鳥羽藩3代藩主。1654年(承応3)忠政の次男として生まれる。1656年(明暦2)7月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)徳川家綱の77日法要のとき増上寺にて永井尚長を刺殺したため同年6月27日切腹を命じられた。27才。法名「淨邦院殿行譽直心大禅定門」。
内藤休明の墓碑
内藤休明
生 元禄14年 (1701年)
没 享保16年 (1731年)
1701年(元禄14)忠種の子として生まれる。1717年(享保2)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1718年(享保3)父の死により跡を継ぐ。1731年(享保16)8月24日没。31才。法名「覺峰院殿正譽秋光月閑大禅定門」。
黒田忠之妻の墓碑
黒田忠之妻
生 慶長7年 (1602年)
没 延宝5年 (1677年)
1602年(慶長7)坪坂十右衛門の娘として生まれる。黒田忠之に嫁ぎ、光之、之勝の2男を儲ける。1677年(延宝5)7月16日没。76才。法名「養照院殿松巖永壽大姉」。
黒田宣政妻の墓碑
黒田宣政妻
生 貞享2年 (1685年)
没 元文5年 (1740年)
1685年(貞享2)南部行信の娘として生まれる。名は艶姫。南部信恩の養女となり、黒田宣政に嫁ぐ。宣政との間に子供は出来ず。1740年(元文5)12月11日没。56才。法名「瑞嶺院殿香雲妙薫大姉」。
黒田光之妻の墓碑
黒田光之妻
生 寛永4年 (1627年)
没 寛文8年 (1668年)
1627年(寛永4)小笠原忠真の長女として生まれる。名は壱姫。1647年(正保4)黒田光之の正室となり、光之との間に酒井忠挙妻、綱之、市之助、綱政、長清の4男1女を儲ける。1668(寛文8)1月9日没。42才。法名「寶光院殿元壽妙長大姉」。墓石は1周忌に夫光之の建立による。
松平直矩妻の墓碑
松平直矩妻
生 寛永19年 (1642年)
没 寛文3年 (1663年)
1642年(寛永19)松平直政の長女として生まれる。名は駒姫。松平直矩に嫁ぐも子供は出来なかった。1663(寛文3)1月29日没。22才。法名「樹芳院殿花屋理春大姉」。
松平忠昌の墓碑
松平忠昌
生 慶長2年 (1597年)
没 正保2年 (1645年)
越前福井藩3代藩主。1597年(慶長2)12月結城秀康の次男として生まれる。徳川家康の孫。家康側室の英勝院お勝の方の猶子となり、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられる。大坂の陣に兄忠直とともに参戦。忠直が乱行等で改易となると福井藩主となる。1645年(正保2)8月1日没。49才。法名「隆芳院殿郭翁貞真大居士」。家臣7名が殉死している。