一柳直盛の墓碑
一柳直盛
生 永禄7年 (1564年)
没 寛永13年 (1636年)
1564年(永禄7)直高の次男として生まれる。兄直末とともに豊臣秀吉に仕え、鳥取城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦いに従軍。1590年(天正18)山中城攻めのとき兄が討死すると代わりに指揮を取る。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは東軍に味方。大坂の両陣にも参戦。1636年(寛永13)6月伊予西条藩主となる。同年8月19日没。73才。法名「多宝院殿心空思斎大居士」。
一柳直末の墓碑
一柳直末
生 天文15年 (1546年)
没 天正18年 (1590年)
1546年(天文15)直高の長男として生まれる。1570年(元亀元)より豊臣秀吉に仕え、秀吉の甥三好秀次に付けられる。1584年(天正12)小牧長久手の戦いに参戦。1590年(天正18)3月29日山中城攻めのときに討死。45才。法名「大通院殿天叟長運大禅定門」。
相馬貞胤娘の墓碑
相馬貞胤娘
生 延宝6年 (1678年)
没 正徳4年 (1714年)
1678年(延宝6)2月相馬貞胤の長女として生まれる。名は亀。1692年(元禄5)北条氏朝と婚約。1696年(元禄9)年4月離縁、実家に戻る。1714年(正徳4)12月22日没。37才。法名「菱光院殿香室貞鑑大姉」。墓石施主は、相馬讃岐守清胤(尊胤)による。
相馬貞胤妻の墓碑
相馬貞胤妻
生 寛文2年 (1662年)
没 貞享3年 (1686年)
1662年(寛文2)板倉重矩の娘として生まれる。於梅の方。相馬貞胤に嫁ぎ、北条氏朝妻(名は亀)の1女を儲ける。1686年(貞享3)5月4日没。25才。法名「凉徳院殿花窓秀蓮大姉禅定尼」。墓石は貞胤の弟昌胤の建立による。
相馬貞胤の墓碑
相馬貞胤
生 万治2年 (1659年)
没 延宝7年 (1679年)
陸奥相馬中村藩4代藩主。1659年(万治2)5月忠胤の長男として生まれる。1668年(寛文8)8月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1673年(延宝元)12月跡を継ぐ。1679年(延宝7)11月23日没。21才。法名「光明院殿瓊巖周英大居士」。
相馬義胤(蒼霄院)妻の墓碑
相馬義胤(蒼霄院)妻
生 永禄7年 (1564年)
没 元和4年 (1618年)
 1564年(永禄7)三分一所義景(長江盛景)の娘として生まれる。深谷御前、おきた御方。相馬義胤(蒼霄院)に嫁ぎ、利胤、岩城貞隆妻、及胤の2男1女を儲ける。関ヶ原の戦いの後、人質として江戸で過ごす。1618年(元和4)8月11日没。55才。法名「月潭妙秋大禅定尼」。
相馬義胤(巴陵院)妻の墓碑
相馬義胤(巴陵院)妻
生 不明
没 正保4年 (1647年)
内藤忠重の娘。1635年(寛永12)相馬義胤(巴陵院)に嫁ぎ、亀、千松の2女を儲ける。1647年(正保4)3月6日没。法名「聖衆院殿花岳宗心大禅定尼」。墓石には内藤家から相馬家に従った久米半右衛門の名も見える。
相馬義胤(巴陵院)の墓碑
相馬義胤(巴陵院)
生 元和5年 (1619年)
没 慶安4年 (1651年)
陸奥相馬中村藩2代藩主。1619年(元和5)利胤の長男として生まれる。父の死により1625年(寛永2)10月跡を継ぐ。1629年(寛永6)5月将軍徳川家光に拝謁。1651年(慶安4)3月5日没。33才。法名「巴陵院殿月海霜剱大居士」。
相馬祥胤の墓碑
相馬祥胤
生 明和2年 (1765年)
没 文化13年 (1816年)
陸奥相馬中村藩9代藩主。1765年(明和2)恕胤の3男として生まれる。年齢を誤魔化し幕府には1761年(宝暦11)生まれと届ける。1777年(安永6)将軍徳川家治に拝謁。1783年(天明3)12月父の隠居により跡を継ぐ。1816年(文化13)6月20日没。52才。法名「岹嶢院殿泰雲巨嶽大居士」。
相馬樹胤の墓碑
相馬樹胤
生 天明元年 (1781年)
没 天保10年 (1839年)
陸奥相馬中村藩10代藩主。1781年(天明元)11月祥胤の長男として生まれる。1798年(寛政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。1801年(享和元)3月父の隠居により家督を継ぐ。1813年(文化10)隠居。1839年(天保10)9月7日没。59才。法名「大隆院殿英巖徳雄大居士」。
相馬昌胤妻の墓碑
相馬昌胤妻
生 元和8年 (1622年)
没 延宝2年 (1674年)
1622年(元和8)常陸額田藩主松平頼元の娘として生まれる。名は多禰姫。松平主膳正信利の妻となるも1674年(延宝2)信利が没したため、1680(延宝8)年12月13日相馬昌胤と再婚。昌胤の間に相馬叙胤妻、於勝の2女を儲ける。1711年(正徳元)年6月4日没。53才。法名「本立院殿卓然貞高大姉」。墓石の施主は昌胤の子清胤(尊胤)。
相馬昌胤の墓碑
相馬昌胤
生 寛文元年 (1661年)
没 享保13年 (1728年)
陸奥相馬中村藩5代藩主。1661年(寛文元)忠胤の次男として生まれる。1679年(延宝7)11月兄で藩主の貞胤の養子となり、翌月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1701年(元禄14)2月隠居。1728年(享保13)10月6日没。68才。法名「建徳院殿勢誉峻岩孔照大居士」。
相馬恕胤の墓碑
相馬恕胤
生 享保20年 (1735年)
没 寛政3年 (1791年)
陸奥相馬中村藩8代藩主。1735年(享保20)徳胤の長男として生まれる。1751年(宝暦元)2月将軍徳川家重に拝謁。祖父尊胤の隠居により1765年(明和2)5月跡を継ぐ。1783年(天明3)12月隠居。1791年(寛政3)9月14日没。57才。法名「高峻院殿徳應雲巖大居士」。
相馬忠胤娘の墓碑
相馬忠胤娘
生 寛文5年 (1665年)
没 貞享元年 (1684年)
1665年(寛文5)6月相馬忠胤の長女として生まれる。名は於奈阿。1678年(延宝6)12月佐竹義長の妻となる。翌年離婚。1684(貞享元)12月5日没。法名「寒光院殿雪窓貞白大姉」。
相馬忠胤妻の墓碑
相馬忠胤妻
生 不明
没 延宝2年 (1674年)
相馬義胤の長女。亀姫。佐竹義處と婚約していたが、解消。相馬忠胤(土屋氏)の正室となり、忠胤の間に、貞胤、昌胤、佐竹義長室、女子、女子の2男3女を儲ける。1674年(延宝2)2月10日没。法名「圓照院殿月堂壽桂大姉」。
相馬忠胤の墓碑
相馬忠胤
生 寛永14年 (1637年)
没 延宝元年 (1673年)
陸奥相馬中村藩3代藩主。1637年(寛永14)土屋利直の次男として生まれる。1651年(慶安4)相馬義胤の養子となりその娘を妻とする。1652年(承応元)2月跡を継ぐ。1673年(延宝元)11月2日没。37才。法名「廣徳院殿方山貞義大居士」。
相馬徳胤の墓碑
相馬徳胤
生 元禄15年 (1702年)
没 宝暦2年 (1752年)
1702年(元禄15)2月叙胤の3男として生まれる。1714年(正徳4)7月将軍徳川家継に拝謁。尊胤の養子となるも跡を継ぐことなく1752年(宝暦2)5月15日没。51才。法名「洞嶽院殿別宗覺天大居士」。
相馬尊胤妻の墓碑
相馬尊胤妻
生 不明
没 明和7年 (1770年)
本多康慶の娘。名は丈姫。1717年(享保2)2月相馬尊胤に嫁ぐ。尊胤の間に子供は出来ず。1770年(明和7)11月2日没。法名「實相院殿操譽貞光妙英大姉」。墓石は恕胤(尊胤の弟徳胤の子)の建立による。
相馬尊胤の墓碑
相馬尊胤
生 元禄9年 (1696年)
没 明和9年 (1772年)
 陸奥相馬中村藩7代藩主。1696年(元禄9)昌胤の次男として生まれる。義兄(昌胤婿養子)叙胤の養子となる。1708年(宝永5)将軍徳川綱吉に拝謁。1709年(宝永6)養父叙胤の隠居により跡を継ぐ。1772年(明和9)4月6日没。77才。法名「壽高院殿仁譽廉節瑞巖大居士」。
相馬叙胤妻の墓碑
相馬叙胤妻
生 天和元年 (1681年)
没 享保5年 (1720年)
1681年(天和元)9月相馬昌胤の長女として生まれる。名は品姫。父の意向により、佐竹家の叙胤を婿に迎えるため1697年(元禄10)1月婚姻。叙胤との間に次郎、延壽丸、鍋千代、徳胤、於由の4男1女を儲ける。1720年(享保5)3月23日没。40才。法名「保壽院殿慈僊榮祐大姉」。墓石に「施主相馬讃岐守尊胤為養母」とあるが、尊胤は叙胤の跡を継いだ品姫の異母弟にあたる。
相馬叙胤の墓碑
相馬叙胤
生 延宝5年 (1677年)
没 宝永8年 (1711年)
陸奥相馬中村藩6代藩主。1677年(延宝5)4月佐竹義處の次男として生まれる。1692年(元禄5)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1696年(元禄9)7月相馬昌胤の婿養子となる。1701年(元禄14)2月昌胤の隠居により跡を継ぐ。1711年(宝永8)4月20日没。35才。法名「香雲院殿靉翁玄靆大居士」。
相馬利胤妻の墓碑
相馬利胤妻
生 天正14年 (1586年)
没 寛文5年 (1665年)
1586年(天正14)岡田元次の次女として生まれる。土屋忠直の異父妹。将軍徳川秀忠の養女となり、1601年(慶長6)相馬利胤に嫁ぐ。利胤の間に、於安、義胤(巴陵院)の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月30日没。80才。法名「長松院殿蘭榮惠秀大禅定尼」。
相馬利胤の墓碑
相馬利胤
生 天正9年 (1581年)
没 寛永2年 (1625年)
陸奥相馬中村藩初代藩主。1581年(天正9)義胤の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは中立で、戦後所領を一旦没収されるものちに安堵される。1611年(慶長16)居城を相馬中村城に移す。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。1625年(寛永2)9月10日没。45才。法名「二照院殿日璨杲公大居士」。墓石は息子の虎之助(義胤)が1626年(寛永3)7月10日に建立。
寺沢堅高妻の墓碑
寺沢堅高妻
生 不明
没 延宝8年 (1680年)
相馬利胤の娘。寺沢堅高に嫁ぐも、堅高が島原の乱の責任を取らされた後、実家の相馬家に戻る。なお堅高との間には子供は出来なかった。江戸の八丁堀に屋敷に在住。1680年(延宝8)12月23日陸奥中村にて没。法名「松岩院殿梅月景蘂大姉禅定尼」。墓石は弟義胤の孫で陸奥相馬中村藩5代藩主昌胤の建立による。墓石にある法名の「大姉禅定尼」は極めて珍しい。
伊東祐隆の墓碑
伊東祐隆
生 宝永7年 (1710年)
没 宝暦7年 (1757年)
日向飫肥藩8代藩主。1710年(宝永7)祐永の3男として生まれる。1744年(延享元)12月異母弟祐之の死により跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1757年(宝暦7)8月18日没。48才。法名「慈廣院殿節山玄義大居士」。
伊東祐鐘の墓碑
伊東祐鐘
生 明和9年 (1772年)
没 寛政10年 (1798年)
日向飫肥藩10代藩主。 1772年(明和9)4月祐福の長男として生まれる。1781年(天明元)父の死により跡を継ぐ。1788年(天明8)2月将軍徳川家斉に拝謁。1798年(寛政10)2月14日没。27才。法名「崇賢院殿洽岳仁融大居士」。
伊東祐福の墓碑
伊東祐福
生 享保20年 (1735年)
没 天明元年 (1781年)
日向飫肥藩9代藩主。1735年(享保20)祐隆の長男として生まれる。1752年(宝暦2)4月将軍徳川家重に拝謁。1757年(宝暦7)父の死により家督を継ぐ。1781年(天明元)7月20日没。47才。法名「廣徳院殿大安道樹大居士」。
伊東祐由の墓碑
伊東祐由
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文元年 (1661年)
日向飫肥藩4代藩主。1631年(寛永8)1月祐久の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。1657年(明暦3)12月父の死により跡を継ぐ。1661年(寛文元)6月13日没。31才。法名「法泉院殿瑞雲宗鳳大居士」。
伊東祐永の墓碑
伊東祐永
生 元禄4年 (1691年)
没 元文4年 (1739年)
日向飫肥藩6代藩主。1691年(元禄4)祐信の子として生まれる。祐実の養子となる。1707年(宝永4)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)4月祐実の隠居により家督を継ぐ。1739年(元文4)1月14日没。49才。法名「玄証院殿霊鑑自覺大居士」。
伊東祐民の墓碑
伊東祐民
生 寛政4年 (1792年)
没 文化9年 (1812年)
日向飫肥藩11代藩主。1792年(寛政4)2月祐鐘の長男として生まれる。1798年(寛政10)父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)6月29日没。21才。法名「泰梁院殿通峯玄津大居士」。
伊東祐慶妻の墓碑
伊東祐慶妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
佐藤隆勝の娘。伊東祐慶の妻。1638年(寛永15)9月13日没。法名「良昌院殿法源妙応大姉」。墓石施主は義理の息子大和守祐久。
伊東祐慶の墓碑
伊東祐慶
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
日向飫肥藩2代藩主。1589年(天正17)6月祐兵の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方する。同年、父の死により跡を継ぐ。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは出陣するも戦場に着く前に戦が終わったため領地に引き返す。1636年(寛永13)4月4日没。48才。法名「東禅寺殿泰雲玄興大居士」。
伊東祐崇妻の墓碑
伊東祐崇妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
分部信政の娘。伊東祐崇の妻。1698年(元禄11)6月4日没。法名「眞照院殿清鏡圓智大姉」。
伊東祐実妻(龍珠院)の墓碑
伊東祐実妻(龍珠院)
生 不明
没 延宝3年 (1675年)
秋田盛季の娘。於子々。伊東祐実に嫁ぎ1女を儲ける。1675年(延宝3)9月7日没。法名「龍珠院殿宗玄妙猷大姉」。墓石は1677年(延宝5)3月26日夫祐実の建立による。
伊東祐実妻(槐巖院)の墓碑
伊東祐実妻(槐巖院)
生 明暦2年 (1656年)
没 元禄6年 (1693年)
1656年(明暦2)鍋島光茂の娘として生まれる。春姫。伊東祐実に嫁ぐも子供は出来なかった。1693年(元禄6)5月22日没。(墓石は23日とある)法名「槐巖院殿慈蔭貞凉大禪定尼」。墓石は祐実の子駿河守祐崇(母は土岐頼泰の娘)の建立による。
伊東祐実の墓碑
伊東祐実
生 寛永21年 (1644年)
没 享保8年 (1723年)
日向飫肥藩5代藩主。 1644年(寛永21)1月祐久の4男として生まれる。1661年(寛文元)6月兄祐由の養子となる。同年8月兄の死により跡を継ぐ。同年閏8月将軍徳川家綱に拝謁。1714年(正徳4)4月祐永に家督を譲って隠居。1723年(享保8)9月18日没。80才。法名「洞林院殿佺叟丹心大居士」。
伊東祐兵妻の墓碑
伊東祐兵妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
伊東義益の娘。阿虎の方。伊東祐兵に嫁ぎ、伊東祐平妻、祐慶、成瀬正武妻、滝川法直妻、祐寿の2男3女を儲ける。1637年(寛永14)3月4日没。法名「松壽院殿正巌慶因尼大姉」。
伊東祐兵の墓碑
伊東祐兵
生 永禄2年 (1559年)
没 慶長5年 (1600年)
日向飫肥藩初代藩主。 1559年(永禄2)1月義祐の3男として生まれる。1577年(天正5)島津氏の攻撃により城を奪われ大友宗麟のもとに逃げる。しかし宗麟も耳川の戦いで島津氏に大敗。祐兵は伊予国の大内氏を頼る。のち、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従う。秀吉が島津征伐をしたのち、日向国を与えられ旧領に復帰。1600年(慶長5)10月11日没。42才。法名「報恩寺殿心関宗安大禅定門」。
伊東祐之の墓碑
伊東祐之
生 享保12年 (1727年)
没 延享元年 (1744年)
日向飫肥藩7代藩主。 1727年(享保12)5月祐永の9男として生まれる。1739年(元文4)3月父の死により家督を継ぐ。1742年(寛保2)10月将軍徳川吉宗に拝謁。1744年(延享元)9月2日没。18才。法名「天受院殿仁空義眞大居士」。
伊東祐久妻の墓碑
伊東祐久妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
滝川法直の娘。伊東祐久に嫁ぎ、祐次、鶴千代、女子、祐春、祐実の4男1女を儲ける。1645年(正保2)3月12日没。法名「養華院殿圓光理春大禅定尼」。墓石は1671年(寛文11)4月12日息子出雲守祐実の建立による。
伊東祐久の墓碑
伊東祐久
生 慶長14年 (1609年)
没 明暦3年 (1657年)
日向飫肥藩3代藩主。1609年(慶長14)7月祐慶の長男として生まれる。1620年(元和6)将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)5月父の死により家督を継ぐ。1637年(寛永14)島原の乱に出陣。1657年(明暦3)10月27日没。49才。法名「慈雲院殿玄龍大居士」。
伊東祐丕の墓碑
伊東祐丕
生 寛政9年 (1797年)
没 文化11年 (1814年)
日向飫肥藩12代藩主。1797年(寛政9)閏7月祐鐘の次男として生まれる。1812年(文化9)6月兄祐民の死により跡を継ぐ。1814年(文化11)8月14日没。18才。法名「玄徳院殿三要宗心大居士」。
高木正陳の墓碑
高木正陳
生 寛文5年 (1665年)
没 元文6年 (1741年)
河内丹南藩6代藩主。1665年(寛文5)正盛の次男として生まれる。1681年(天和元)5月河内丹南藩5代藩主正豊の養子となり、同年7月跡を継ぐ。同月将軍徳川綱吉に拝謁。1741年(元文6)2月5日没。77才。法名「元亨院殿乾譽學黌性久大居士」。墓石は孫の主水正弼の建立による。
高木正豊の墓碑
高木正豊
生 寛文2年 (1662年)
没 延宝9年 (1681年)
河内丹南藩5代藩主。1662年(寛文2)正盛の長男として生まれる。母は板倉重矩の娘。父の死により1670年(寛文10)4月跡を継ぐ。同年5月将軍徳川家綱に拝謁。1681年(延宝9)5月12日没。20才。法名「峯穹院殿堅譽意仙居士」。
高木正直の墓碑
高木正直
生 宝暦6年 (1756年)
没 天明元年 (1781年)
河内丹南藩9代藩主。1756年(宝暦6)酒井忠与の4男として生まれる。1777年(安永6)1月高木正弼の長女を娶り養子となる。同年12月将軍徳川家治に拝謁。正弼の死により1780年(安永9)11月跡を継ぐ。1781年(天明元)5月26日没。26才。法名「圓淨院殿英誉義光亮純大居士」。
高木正次の墓碑
高木正次
生 永禄6年 (1563年)
没 寛永7年 (1630年)
河内丹南藩初代藩主。1563年(永禄6)清秀の3男として生まれる。1582年(天正10)より徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠に属して上田城攻めに参陣。大坂夏の陣に参陣して戦功をたてる。1630年(寛永7)11月30日没。68才。法名「釋浄照」。
高木正明の墓碑
高木正明
生 享和3年 (1803年)
没 明治2年 (1869年)
河内丹南藩11代藩主。1803年(享和3)閏1月正剛の長男として生まれる。1819年(文政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1826年(文政9)10月跡を継ぐ。1848年(嘉永元)8月隠居。1869年(明治2)9月13日没。67才。法名「智覺院殿見融通照〇翁大居士」。
高木正成の墓碑
高木正成
生 天正15年 (1587年)
没 寛永12年 (1635年)
河内丹南藩2代藩主。1587年(天正15)正次の長男として生まれる。徳川家康に仕える。信州上田城攻め、大坂の両陣に参陣。父の死により、1631年(寛永8)3月跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月2日没。49才。法名「釋道向」。墓石は息子善次郎正弘の建立による。
高木正恒の墓碑
高木正恒
生 正徳4年 (1714年)
没 寛保3年 (1743年)
河内丹南藩7代藩主。1714年(正徳4)板倉重行の次男として生まれる。1719年(享保4)11月高木正陳の養子となる。1728年(享保13)2月将軍徳川吉宗に拝謁。正陳の死により1741年(寛保元)4月跡を継ぐ。1743年(寛保3)6月4日没。30才。法名「法源院殿圓誉智寛道應居士」。
高木正剛の墓碑
高木正剛
生 安永2年 (1773年)
没 天保5年 (1834年)
河内丹南藩10代藩主。1773年(安永2)松平忠福の次男として生まれる。1781年(天明元)5月高木正直の養子となり娘を娶る。同年6月跡を継ぐ。1791年(寛政3)2月将軍徳川家斉に拝謁。1834年(天保5)7月5日没。62才。法名「良弘院殿建譽秀道常葉大居士」。