相馬忠胤娘 生 寛文5年 (1665年)没 貞享元年 (1684年) 1665年(寛文5)6月相馬忠胤の長女として生まれる。名は於奈阿。1678年(延宝6)12月佐竹義長の妻となる。翌年離婚。1684(貞享元)12月5日没。法名「寒光院殿雪窓貞白大姉」。
相馬忠胤妻 生 不明没 延宝2年 (1674年) 相馬義胤の長女。亀姫。佐竹義處と婚約していたが、解消。相馬忠胤(土屋氏)の正室となり、忠胤の間に、貞胤、昌胤、佐竹義長室、女子、女子の2男3女を儲ける。1674年(延宝2)2月10日没。法名「圓照院殿月堂壽桂大姉」。
相馬忠胤 生 寛永14年 (1637年)没 延宝元年 (1673年) 陸奥相馬中村藩3代藩主。1637年(寛永14)土屋利直の次男として生まれる。1651年(慶安4)相馬義胤の養子となりその娘を妻とする。1652年(承応元)2月跡を継ぐ。1673年(延宝元)11月2日没。37才。法名「廣徳院殿方山貞義大居士」。
相馬徳胤 生 元禄15年 (1702年)没 宝暦2年 (1752年) 1702年(元禄15)2月叙胤の3男として生まれる。1714年(正徳4)7月将軍徳川家継に拝謁。尊胤の養子となるも跡を継ぐことなく1752年(宝暦2)5月15日没。51才。法名「洞嶽院殿別宗覺天大居士」。
相馬尊胤妻 生 不明没 明和7年 (1770年) 本多康慶の娘。名は丈姫。1717年(享保2)2月相馬尊胤に嫁ぐ。尊胤の間に子供は出来ず。1770年(明和7)11月2日没。法名「實相院殿操譽貞光妙英大姉」。墓石は恕胤(尊胤の弟徳胤の子)の建立による。
相馬尊胤 生 元禄9年 (1696年)没 明和9年 (1772年) 陸奥相馬中村藩7代藩主。1696年(元禄9)昌胤の次男として生まれる。義兄(昌胤婿養子)叙胤の養子となる。1708年(宝永5)将軍徳川綱吉に拝謁。1709年(宝永6)養父叙胤の隠居により跡を継ぐ。1772年(明和9)4月6日没。77才。法名「壽高院殿仁譽廉節瑞巖大居士」。
相馬叙胤妻 生 天和元年 (1681年)没 享保5年 (1720年) 1681年(天和元)9月相馬昌胤の長女として生まれる。名は品姫。父の意向により、佐竹家の叙胤を婿に迎えるため1697年(元禄10)1月婚姻。叙胤との間に次郎、延壽丸、鍋千代、徳胤、於由の4男1女を儲ける。1720年(享保5)3月23日没。40才。法名「保壽院殿慈僊榮祐大姉」。墓石に「施主相馬讃岐守尊胤為養母」とあるが、尊胤は叙胤の跡を継いだ品姫の異母弟にあたる。
相馬叙胤 生 延宝5年 (1677年)没 宝永8年 (1711年) 陸奥相馬中村藩6代藩主。1677年(延宝5)4月佐竹義處の次男として生まれる。1692年(元禄5)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1696年(元禄9)7月相馬昌胤の婿養子となる。1701年(元禄14)2月昌胤の隠居により跡を継ぐ。1711年(宝永8)4月20日没。35才。法名「香雲院殿靉翁玄靆大居士」。
相馬利胤妻 生 天正14年 (1586年)没 寛文5年 (1665年) 1586年(天正14)岡田元次の次女として生まれる。土屋忠直の異父妹。将軍徳川秀忠の養女となり、1601年(慶長6)相馬利胤に嫁ぐ。利胤の間に、於安、義胤(巴陵院)の1男1女を儲ける。1665年(寛文5)10月30日没。80才。法名「長松院殿蘭榮惠秀大禅定尼」。
相馬利胤 生 天正9年 (1581年)没 寛永2年 (1625年) 陸奥相馬中村藩初代藩主。1581年(天正9)義胤の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは中立で、戦後所領を一旦没収されるものちに安堵される。1611年(慶長16)居城を相馬中村城に移す。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参戦。1625年(寛永2)9月10日没。45才。法名「二照院殿日璨杲公大居士」。墓石は息子の虎之助(義胤)が1626年(寛永3)7月10日に建立。
寺沢堅高妻 生 不明没 延宝8年 (1680年) 相馬利胤の娘。寺沢堅高に嫁ぐも、堅高が島原の乱の責任を取らされた後、実家の相馬家に戻る。なお堅高との間には子供は出来なかった。江戸の八丁堀に屋敷に在住。1680年(延宝8)12月23日陸奥中村にて没。法名「松岩院殿梅月景蘂大姉禅定尼」。墓石は弟義胤の孫で陸奥相馬中村藩5代藩主昌胤の建立による。墓石にある法名の「大姉禅定尼」は極めて珍しい。
伊東祐隆 生 宝永7年 (1710年)没 宝暦7年 (1757年) 日向飫肥藩8代藩主。1710年(宝永7)祐永の3男として生まれる。1744年(延享元)12月異母弟祐之の死により跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1757年(宝暦7)8月18日没。48才。法名「慈廣院殿節山玄義大居士」。
伊東祐鐘 生 明和9年 (1772年)没 寛政10年 (1798年) 日向飫肥藩10代藩主。 1772年(明和9)4月祐福の長男として生まれる。1781年(天明元)父の死により跡を継ぐ。1788年(天明8)2月将軍徳川家斉に拝謁。1798年(寛政10)2月14日没。27才。法名「崇賢院殿洽岳仁融大居士」。
伊東祐福 生 享保20年 (1735年)没 天明元年 (1781年) 日向飫肥藩9代藩主。1735年(享保20)祐隆の長男として生まれる。1752年(宝暦2)4月将軍徳川家重に拝謁。1757年(宝暦7)父の死により家督を継ぐ。1781年(天明元)7月20日没。47才。法名「廣徳院殿大安道樹大居士」。
伊東祐由 生 寛永8年 (1631年)没 寛文元年 (1661年) 日向飫肥藩4代藩主。1631年(寛永8)1月祐久の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。1657年(明暦3)12月父の死により跡を継ぐ。1661年(寛文元)6月13日没。31才。法名「法泉院殿瑞雲宗鳳大居士」。
伊東祐永 生 元禄4年 (1691年)没 元文4年 (1739年) 日向飫肥藩6代藩主。1691年(元禄4)祐信の子として生まれる。祐実の養子となる。1707年(宝永4)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)4月祐実の隠居により家督を継ぐ。1739年(元文4)1月14日没。49才。法名「玄証院殿霊鑑自覺大居士」。
伊東祐民 生 寛政4年 (1792年)没 文化9年 (1812年) 日向飫肥藩11代藩主。1792年(寛政4)2月祐鐘の長男として生まれる。1798年(寛政10)父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)6月29日没。21才。法名「泰梁院殿通峯玄津大居士」。
伊東祐慶 生 天正17年 (1589年)没 寛永13年 (1636年) 日向飫肥藩2代藩主。1589年(天正17)6月祐兵の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方する。同年、父の死により跡を継ぐ。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは出陣するも戦場に着く前に戦が終わったため領地に引き返す。1636年(寛永13)4月4日没。48才。法名「東禅寺殿泰雲玄興大居士」。
伊東祐実妻(龍珠院) 生 不明没 延宝3年 (1675年) 秋田盛季の娘。於子々。伊東祐実に嫁ぎ1女を儲ける。1675年(延宝3)9月7日没。法名「龍珠院殿宗玄妙猷大姉」。墓石は1677年(延宝5)3月26日夫祐実の建立による。
伊東祐実妻(槐巖院) 生 明暦2年 (1656年)没 元禄6年 (1693年) 1656年(明暦2)鍋島光茂の娘として生まれる。春姫。伊東祐実に嫁ぐも子供は出来なかった。1693年(元禄6)5月22日没。(墓石は23日とある)法名「槐巖院殿慈蔭貞凉大禪定尼」。墓石は祐実の子駿河守祐崇(母は土岐頼泰の娘)の建立による。
伊東祐実 生 寛永21年 (1644年)没 享保8年 (1723年) 日向飫肥藩5代藩主。 1644年(寛永21)1月祐久の4男として生まれる。1661年(寛文元)6月兄祐由の養子となる。同年8月兄の死により跡を継ぐ。同年閏8月将軍徳川家綱に拝謁。1714年(正徳4)4月祐永に家督を譲って隠居。1723年(享保8)9月18日没。80才。法名「洞林院殿佺叟丹心大居士」。
伊東祐兵妻 生 不明没 寛永14年 (1637年) 伊東義益の娘。阿虎の方。伊東祐兵に嫁ぎ、伊東祐平妻、祐慶、成瀬正武妻、滝川法直妻、祐寿の2男3女を儲ける。1637年(寛永14)3月4日没。法名「松壽院殿正巌慶因尼大姉」。
伊東祐兵 生 永禄2年 (1559年)没 慶長5年 (1600年) 日向飫肥藩初代藩主。 1559年(永禄2)1月義祐の3男として生まれる。1577年(天正5)島津氏の攻撃により城を奪われ大友宗麟のもとに逃げる。しかし宗麟も耳川の戦いで島津氏に大敗。祐兵は伊予国の大内氏を頼る。のち、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従う。秀吉が島津征伐をしたのち、日向国を与えられ旧領に復帰。1600年(慶長5)10月11日没。42才。法名「報恩寺殿心関宗安大禅定門」。
伊東祐之 生 享保12年 (1727年)没 延享元年 (1744年) 日向飫肥藩7代藩主。 1727年(享保12)5月祐永の9男として生まれる。1739年(元文4)3月父の死により家督を継ぐ。1742年(寛保2)10月将軍徳川吉宗に拝謁。1744年(延享元)9月2日没。18才。法名「天受院殿仁空義眞大居士」。
伊東祐久妻 生 不明没 正保2年 (1645年) 滝川法直の娘。伊東祐久に嫁ぎ、祐次、鶴千代、女子、祐春、祐実の4男1女を儲ける。1645年(正保2)3月12日没。法名「養華院殿圓光理春大禅定尼」。墓石は1671年(寛文11)4月12日息子出雲守祐実の建立による。
伊東祐久 生 慶長14年 (1609年)没 明暦3年 (1657年) 日向飫肥藩3代藩主。1609年(慶長14)7月祐慶の長男として生まれる。1620年(元和6)将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)5月父の死により家督を継ぐ。1637年(寛永14)島原の乱に出陣。1657年(明暦3)10月27日没。49才。法名「慈雲院殿玄龍大居士」。
伊東祐丕 生 寛政9年 (1797年)没 文化11年 (1814年) 日向飫肥藩12代藩主。1797年(寛政9)閏7月祐鐘の次男として生まれる。1812年(文化9)6月兄祐民の死により跡を継ぐ。1814年(文化11)8月14日没。18才。法名「玄徳院殿三要宗心大居士」。
高木正陳 生 寛文5年 (1665年)没 元文6年 (1741年) 河内丹南藩6代藩主。1665年(寛文5)正盛の次男として生まれる。1681年(天和元)5月河内丹南藩5代藩主正豊の養子となり、同年7月跡を継ぐ。同月将軍徳川綱吉に拝謁。1741年(元文6)2月5日没。77才。法名「元亨院殿乾譽學黌性久大居士」。墓石は孫の主水正弼の建立による。
高木正豊 生 寛文2年 (1662年)没 延宝9年 (1681年) 河内丹南藩5代藩主。1662年(寛文2)正盛の長男として生まれる。母は板倉重矩の娘。父の死により1670年(寛文10)4月跡を継ぐ。同年5月将軍徳川家綱に拝謁。1681年(延宝9)5月12日没。20才。法名「峯穹院殿堅譽意仙居士」。
高木正直 生 宝暦6年 (1756年)没 天明元年 (1781年) 河内丹南藩9代藩主。1756年(宝暦6)酒井忠与の4男として生まれる。1777年(安永6)1月高木正弼の長女を娶り養子となる。同年12月将軍徳川家治に拝謁。正弼の死により1780年(安永9)11月跡を継ぐ。1781年(天明元)5月26日没。26才。法名「圓淨院殿英誉義光亮純大居士」。
高木正次 生 永禄6年 (1563年)没 寛永7年 (1630年) 河内丹南藩初代藩主。1563年(永禄6)清秀の3男として生まれる。1582年(天正10)より徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠に属して上田城攻めに参陣。大坂夏の陣に参陣して戦功をたてる。1630年(寛永7)11月30日没。68才。法名「釋浄照」。
高木正明 生 享和3年 (1803年)没 明治2年 (1869年) 河内丹南藩11代藩主。1803年(享和3)閏1月正剛の長男として生まれる。1819年(文政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1826年(文政9)10月跡を継ぐ。1848年(嘉永元)8月隠居。1869年(明治2)9月13日没。67才。法名「智覺院殿見融通照〇翁大居士」。
高木正成 生 天正15年 (1587年)没 寛永12年 (1635年) 河内丹南藩2代藩主。1587年(天正15)正次の長男として生まれる。徳川家康に仕える。信州上田城攻め、大坂の両陣に参陣。父の死により、1631年(寛永8)3月跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月2日没。49才。法名「釋道向」。墓石は息子善次郎正弘の建立による。
高木正恒 生 正徳4年 (1714年)没 寛保3年 (1743年) 河内丹南藩7代藩主。1714年(正徳4)板倉重行の次男として生まれる。1719年(享保4)11月高木正陳の養子となる。1728年(享保13)2月将軍徳川吉宗に拝謁。正陳の死により1741年(寛保元)4月跡を継ぐ。1743年(寛保3)6月4日没。30才。法名「法源院殿圓誉智寛道應居士」。
高木正剛 生 安永2年 (1773年)没 天保5年 (1834年) 河内丹南藩10代藩主。1773年(安永2)松平忠福の次男として生まれる。1781年(天明元)5月高木正直の養子となり娘を娶る。同年6月跡を継ぐ。1791年(寛政3)2月将軍徳川家斉に拝謁。1834年(天保5)7月5日没。62才。法名「良弘院殿建譽秀道常葉大居士」。
香宗我部親泰 生 天文12年 (1543年)没 文禄2年 (1593年) 1543年(天文12)長宗我部国親の3男として生まれる。香宗我部親秀の養子となり兄長宗我部元親の家臣として戦いに参加して活躍。他国の大名との外交も行う。1593年(文禄2)12月21日没。51才。法名「瑞松院殿明彭孤仙大禅定門」。
飯塚綱重妻 生 不明没 不明 墓石に「生國下野佐野住飯塚〇〇平朝臣綱重簾中」とあるので、佐野周防守家臣高瀬紀伊豊友の娘と思われる。飯塚綱重に嫁ぎ、忠重を儲ける。法名「妙金禅尼」。墓石は1625年(寛永2)8月建立の逆修塔。
飯塚綱重 生 弘治2年 (1556年)没 元和9年 (1623年) 1556年(弘治2)貞重の子として生まれる。佐野昌綱、宗綱、北条氏忠に仕える。その後、常陸国に至り佐竹義宣に仕える。1602年(慶長7)徳川家康に仕える。1614年(慶長19)大坂冬の陣には土井利勝に属して参戦。1623年(元和9)5月21日没。68才。法名「寶山盛印居士」。
酒井直次妻 生 不明没 不明 酒井直次の妻。墓石に「生国三州」とあり、鳥居忠政の娘と思われる。法名「永壽院殿淨譽華屋清薫大信女」。墓石は逆修塔。1631年(寛永8)8月15日と墓石にあるが、建立日か没年月日か不明。
酒井直次 生 慶長元年 (1596年)没 寛永8年 (1631年) 1596年(慶長元)家次の次男として生まれる。1622年(元和8)兄忠勝が出羽庄内藩に加増移封となると、1万2千石を分知され出羽左沢藩主となる。1631年(寛永8)3月10日没。36才。法名「慈光院殿凉譽琳清大居士」。
酒井忠辰 生 元禄13年 (1700年)没 宝永6年 (1709年) 1700年(元禄13)忠真の長男として生まれる。1708年(宝永5)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1709年(宝永6)1月19日没。10才。法名「寶林院殿陽山香心大童子」。
酒井忠恒 生 寛永16年 (1639年)没 延宝3年 (1675年) 出羽松山藩初代藩主。1639年(寛永16)忠勝の3男として生まれる。父の遺領のうち2万石を分知され出羽松山藩主となる。1648年(慶安元)2月将軍徳川家光に拝謁。1675年(延宝3)8月6日没。37才。法名「光顔院殿覚譽道専受法大居士」。
酒井忠予 生 明暦3年 (1657年)没 享保20年 (1735年) 出羽松山藩2代藩主。1657年(明暦3)忠恒の長男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)10月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1732年(享保17)11月隠居。1735年(享保20)12月16日没。79才。法名「詠鏡院殿勝譽起清遊園大居士」。
酒井左衛門次郎 生 不明没 正保2年 (1645年) 庄内藩主酒井忠勝弟民部政時の長男。父政時は庄内藩家臣柴谷武右衛門の養子となっていたが、政時、武右衛門が相次いで没したため、酒井姓に戻す。1645年(正保2)9月3日没。法名「雲光院殿智月晴圓居士」。
酒井家次妻 生 不明没 慶安2年 (1649年) 榊原正吉の娘。酒井家次に嫁ぎ、忠勝、直次の2男を儲ける。鶴岡城二之丸に住んでいたことより二ノ丸殿と称す。1649年(慶安2)12月15日没。法名「福聚院殿法誉昌清貞感大姉」。墓石は逆修塔。
酒井家次 生 永禄7年 (1564年)没 元和4年 (1618年) 1564年(永禄7)忠次の長男として生まれる。徳川家康に1字を賜い、家次と名乗る。1575年(天正3)長篠の戦いのときは父に従い鳶巣山を攻める。父の隠居により1588年(天正16)10月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1616年(元和2)加増移封により越後高田藩10万石。1618年(元和4)3月15日没。55才。法名「梅林院殿圓譽宗慶大居士」。
酒井了次 生 慶長11年 (1606年)没 寛永12年 (1635年) 1606年(慶長11)家次の5男として生まれる。讒言により藩主で兄忠勝から高野山へ蟄居を命じられるも、山を下り幕府に訴える。これにより今度は庄内藩領内に幽閉となる。1635年(寛永12)5月11日没。30才。法名「弘誓院殿応譽貞感居士」。墓石は1周忌に酒井宮内(忠勝か)の建立による。