宍戸就年妻 生 不明没 文化12年 (1815年) 星坂正為の娘で矢野紀以の養女として宍戸就年に嫁ぐ。就年との間に、親朝を儲ける。1815年(文化12)2月17日没。法名「桺線院殿天室淨錦大姉」。墓石に「防州三尾宍戸美濃就年室」とある。
宍戸就年 生 寛延2年 (1749年)没 文政9年 (1826年) 1749年(寛延2)広周の次男として生まれる。父の藩内の失脚により1761年(宝暦11)跡を継ぐ。主君毛利重就より1字を賜い就年と名乗る。1826年(文政9)1月2日没。78才。法名「齢運院殿仁翁良壽大居士」。
大岡忠愛 生 文化4年 (1807年)没 安政4年 (1857年) 三河西大平藩6代藩主。1807年(文化4)忠移の長男として生まれる。1828年(文政11)父の隠居により跡を継ぐ。1857年(安政4)10月5日没。51才。法名「徳光院殿永譽忠愛巍山大居士」。墓石側面には1857年(安政4)8月28日とあるので没したのが8月28日、後継ぎ(弟が相続)の関係で幕府に届けた没日が10月5日と思われる。
内藤信良 生 寛永2年 (1625年)没 元禄8年 (1695年) 陸奥棚倉藩2代藩主。1625年(寛永2)信照の長男として生まれる。1633年(寛永10)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1665年(寛文5)跡を継ぐ。1674年(延宝2)11月隠居。1695年(元禄8)7月23日没。71才。法名「寶岸院殿静挙供安大禅定門」。
内藤信照 生 文禄元年 (1592年)没 寛文5年 (1665年) 陸奥棚倉藩初代藩主。1592年(文禄元)信正の長男として生まれる。多病ゆえ弟信武が嫡子となるも、1619年(元和5)信武が没したため嫡子となる。1626年(寛永3)跡を継ぐ。1627年(寛永4)陸奥棚倉藩に移封。1665年(寛文5)1月19日没。74才。法名「清淨院長岳良榮哲春大禅定門」。多病とあるも長生きをしている。
内藤信正妻 生 不明没 万治3年 (1660年) 石川康通の娘。内藤信正に嫁ぎ、信照を儲ける。1660年(万治3)3月24日没。法名「雲照院立譽宗建大信女」。墓石に「奥州高野郡棚倉城主内藤豊前守源朝臣信照 御袋方逆修建立之」とあり逆修塔である。没年月日も刻まれてるが、この部分のみ没後に刻まれたと思われる。
内藤信正 生 永禄11年 (1568年)没 寛永3年 (1626年) 摂津高槻藩主。1568年(永禄11)信成の長男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、九戸一揆、関ヶ原の戦いに参戦。1615年(元和元)閏6月摂津高槻城主となり5万石を領す。1626年(寛永3)4月28日没。59才。法名「光徳院殿善壽宗覚大禅定門」。
内藤信成 生 天文14年 (1545年)没 慶長17年 (1612年) 1545年(天文14)嶋田景信の次男として生まれる。徳川家康の異母弟との説もある。内藤清長の養子となり、家康に仕える。丸根砦攻め、三河一向一揆、掛川城攻め、三方原の戦い、長篠の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)近江長浜城主となり4万石を領す。1612年(慶長17)7月24日没。68才。法名「法善寺殿陽竹宗賢大居士」。
伊奈忠順 生 不明没 正徳2年 (1712年) 忠常の次男。はじめ稲葉正篤の養子となる。兄忠篤の子が早世したため養子となり跡を継ぐ。1698年(元禄11)江戸永代橋を創架。1707年(宝永4)富士山噴火のときは災害対策の最高責任者として活躍。1712年(正徳2)2月29日没。法名「嶺頂院殿松譽哲翁大居士」。
伊奈忠篤 生 寛文9年 (1669年)没 元禄10年 (1697年) 1669年(寛文9)忠常の長男として生まれる。1679年(延宝7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1680年(延宝8)9月関東代官を継ぐ。1697年(元禄10)10月19日没。29才。法名「法玄院殿本譽覺真大居士」。
伊奈忠常 生 慶安元年 (1648年)没 延宝8年 (1680年) 1648年(慶安元)忠克の長男として生まれる。父の死により1665年(寛文5)12月跡を継ぐ。翌年3月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)1月4日没。33才。法名「法性院殿空譽徹真大居士」。
久野輝純 生 延享2年 (1745年)没 文化8年 (1811年) 紀州藩家老久野家6代当主。1745年(延享2)俊純の子として生まれる。父の死により1773年(安永2)跡を継ぐ。1811年(文化8)1月20日没。67才。法名「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
久野昌純 生 天明7年 (1787年)没 文政6年 (1823年) 紀州藩家老久野家7代当主。1787年(天明7)輝純の子として生まれる。父の死により1811年(文化8)2月跡を継ぐ。1823年(文政6)7月24日没。37才。法名「光徳院殿仁誉本空禮純大居士」。
久野宗晴 生 慶長14年 (1609年)没 慶安2年 (1649年) 紀州藩家老久野家2代当主。1609年(慶長14)宗成の子として生まれる。紀州藩主徳川頼宣に仕える。父の死により1626年(寛永3)跡を継ぎ田丸城代となる。1649年(慶安2)6月1日没。41才。法名「長照院殿月峯宗閑居士」。
久野宗俊 生 寛永20年 (1643年)没 宝永3年 (1706年) 紀州藩家老久野家3代当主。1643年(寛永20)宗晴の子として生まれる。父の死により1649年(慶安2)10月跡を継ぐ。1654年(承応3)田丸城代となる。1706年(宝永3)4月27日没。64才。法名「常立院殿信譽大圓大居士」。
丹羽長重 生 元亀2年 (1571年)没 慶長5年 (1600年) 陸奥白河藩初代藩主。1571年(元亀2)長秀の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦。父の死後跡を継ぐが、相次ぐ不祥事により123万石から4万石まで大幅な減封となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍の前田利長と戦い、戦後領地没収となる。のち大名に復帰、晩年は陸奥白河藩10万700石を領す。1637年(寛永14)閏3月6日没。67才。法名「大隣寺殿桀俊浄英大居士」。
丹羽長次 生 寛永20年 (1643年)没 元禄11年 (1698年) 陸奥二本松藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1653年(承応2)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1679年(延宝7)4月跡を継ぐ。1698年(元禄11)6月26日没。56才。法名「興國院殿節山麟功大居士」。
丹羽光重 生 元和7年 (1621年)没 元禄14年 (1701年) 陸奥二本松藩初代藩主。1621年(元和7)12月長重の3男として生まれる。母は織田信長の娘。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1637年(寛永14)4月跡を継ぐ。1643年(寛永20)7月陸奥二本松藩へ移封。1679年(延宝7)4月隠居。1701年(元禄14)4月11日没。81才。法名「慈明院殿補闕玉峰大居士」。
三浦高連 生 不明没 慶長16年 (1611年) 初代五郎右衛門。今川氏真に仕え、のちに兄安久とともに井伊直政に仕える。長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従う。直政の娘が德川家康4男松平忠吉に嫁いだときに従い、忠吉の家臣となる。忠吉没後は井伊家に戻る。1611年(慶長16)7月29日没。法名「安祥院殿臺覚浄蓮居士」。墓石は2代目五郎右衛門高則の建立による。法名「清正院殿花覚妙蓮居士」もあるも高連の妻と思われる。墓石は為父母とあること、花や妙は女性の法名にあるのが一般的であることから妙蓮居士は妙蓮大姉の誤記と推察。
荒尾隆重 生 不明没 元和3年 (1617年) 善次の3男。池田輝政の家臣。輝政没後は兄の成房とともに忠継の家老職となる。兄の成房は但馬守、隆重は志摩守を代々称した。1614年(慶長19)大坂の陣に出陣。1617年(元和3)7月11日没。法名「桂林院殿月峯浄心大居士」。
秋月種政妻 生 不明没 享保19年 (1734年) 松浦棟の娘。秋月種政に嫁ぎ、種弘、脇坂安清妻、女子、女子の1男3女を儲ける。1734年(享保19)4月14日没。法名「正眼院殿心體了悟尼大姉」。墓石は息子長門守種弘の建立による。
秋月種政 生 万治元年 (1658年)没 正徳6年 (1716年) 日向高鍋藩4代藩主。1658年(万治元)5月種信の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1689年(元禄2)2月跡を継ぐ。1710年(宝永7)閏8月隠居。1716年(正徳6)閏2月26日没。59才。法名「天祐院殿慶嶽宗善公大居士」。
秋月種恒 生 承応3年 (1654年)没 寛文11年 (1671年) 1654年(承応3)種信の長男として生まれる。1669年(寛文9)6月将軍徳川家綱に拝謁。父に先立ちて1671年(寛文11)10月10日没。18才。法名「松嶽院殿温室宗良居士」。
秋月種弘妻 生 元禄7年 (1694年)没 宝暦6年 (1756年) 1694年(元禄7)10月7日中川久通の3女として生まれる。名は菊。1710年(宝永7)6月秋月種弘に嫁ぐ。種弘との間に種美を儲ける。1756年(宝暦6)8月26日没。63才。法名「凉照院殿桂輪貞香大姉」。墓石は息子佐渡守種美の建立による。
秋月種弘 生 貞享4年 (1687年)没 宝暦3年 (1753年) 日向高鍋藩5代藩主。1687年(貞享4)11月種政の長男として生まれる。1700年(元禄13)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。1753年(宝暦3)7月21日没。67才。法名「瑞應院殿恵山宗定大居士」。
石田三成 生 永禄3年 (1560年)没 慶長5年 (1600年) 1560年(永禄3)正継の3男として生まれる。近江長浜城主時代の豊臣秀吉に見出され仕える。文官奉行として頭角を現し豊臣政権下で五奉行となる。1600年(慶長5)9月関ヶ原の戦いのときは、徳川家康と戦うも敗れる。戦後、捕縛され同年10月1日六条河原で斬首となる。41才。法名「江東院正軸因公大禅定門」。墓石は1590年(天正18)3月18日逆修として建てられ法名「宗應」とある。
溝口重雄 生 寛永10年 (1633年)没 宝永5年 (1708年) 越後新発田藩4代藩主。1633年(寛永10)宣直の長男として生まれる。1640年(寛永17)10月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1672年(寛文12)9月跡を継ぐ。1706年(宝永3)7月隠居。1708年(宝永5)9月4日没。76才。法名「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
溝口政勝 生 慶長13年 (1608年)没 寛文10年 (1670年) 越後沢海藩2代藩主。1608年(慶長13)善勝の長男として生まれる。1622年(元和8)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)跡を継ぐ。その際、弟2人に4千石を分知したため沢海藩は1万石となる。1670年(寛文10)1月28日没。63才。法名「清香院殿恵観浄智大居士」。
溝口宣直 生 慶長10年 (1605年)没 延宝4年 (1676年) 越後新発田藩3代藩主。1605年(慶長10)宣勝の長男として生まれる。1611年(慶長16)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1672年(寛文12)9月隠居。1676年(延宝4)11月22日没。72才。法名「寒光院殿禅林味歇大居士」。
溝口宣勝妻 生 不明没 寛永18年 (1641年) 堀秀政の娘。溝口宣勝に嫁ぎ、宣直、宣秋、宣俊、宣知、溝口政勝妻、長谷川正尚妻、徳永昌勝妻の3男3女を儲ける。1641年(寛永18)10月29日没。法名「長壽院殿寶屋慶延大姉」。墓石は1628年(寛永5)11月21日建立の逆修塔。
溝口宣勝 生 天正10年 (1582年)没 寛永5年 (1628年) 越後新発田藩2代藩主。1582年(天正10)秀勝の長男として生まれる。父の死により跡を継ぐ。1615年(元和元)大坂夏の陣のときは松平忠輝に属して戦う。1628年(寛永5)10月29日没。47才。法名「松嶽寺殿傑岑善英大居士」。
溝口善勝 生 天正12年 (1584年)没 寛永11年 (1634年) 越後沢海藩初代藩主。1584年(天正12)秀勝の次男として生まれる。1601年(慶長6)徳川家康に拝謁。のちに徳川秀忠に仕える。2千石を領していたが、1610年(慶長15)父の遺領のうち1万2千石を分与され越後沢海藩1万4千石の大名となる。大坂の両陣では、土井利勝に属して参陣。1634年(寛永11)5月2日没。 51才。法名「利性院殿大岳道徹大居士」。
溝口助勝 生 慶長16年 (1611年)没 寛永13年 (1636年) 1611年(慶長16)善勝の次男として生まれる。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)遺領のうち3千石を相続する。1636年(寛永13)5月24日没。26才。法名「昌運東繁居士」。
松平昌勝 生 寛永13年 (1636年)没 元禄6年 (1693年) 越前松岡藩初代藩主。1636年(寛永13)3月忠昌の長男として生まれる。父の死後、5万石を分知され越前松岡藩主となる。父の福井藩を継ぐことが出来なかったが、息子3人が福井藩主となっている。1693年(元禄6)7月27日没。58才。法名「見性院殿鐵關了無大居士」。
松平忠国 生 慶長2年 (1597年)没 万治2年 (1659年) 1597年(慶長2)8月17日藤井松平信吉の長男として生まれる。1607年(慶長12)徳川家康、秀忠に拝謁。1609年(慶長14)12月22日秀忠の御前で元服。1615年(元和元)5月7日大坂夏の陣で首を獲る手柄を立てる。1649年(慶安2)播磨明石城を与えられ7万石を領した。1659年(万治2)2月20日没。63才。法名「浄源院殿雲誉崇安道覚大居士」。墓石は息子日向守信之の建立による。
松平光領 生 文化12年 (1815年)没 天保12年 (1841年) 1815年(文化12)4月光年の4男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。信濃松本藩主松平光庸の養子となっていたが、跡を継ぐことなく1841年(天保12)6月24日没。27才。
松平光行 生 明和3年 (1766年)没 天保10年 (1839年) 信濃松本藩6代藩主。1766年(明和3)戸田光為の4男として生まれる。松平光悌の養子となり娘を妻とする。光悌の死により1786年(天明6)8月跡を継ぐ。同年11月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)隠居して竹翁と号す。1839年(天保10)12月14日没。74才。法名「瑞光院殿祥巖道麟大居士」。
松平光悌 生 宝暦2年 (1752年)没 天明6年 (1786年) 信濃松本藩5代藩主。1752年(宝暦2)光雄の8男として生まれる。兄光和の隠居により1774年(安永3)12月跡を継ぐ。同月将軍徳川家治に拝謁。1786年(天明6)6月21日没。35才。法名「本覺院殿則道了規大居士」。
松平光徳 生 元文元年 (1736年)没 宝暦9年 (1759年) 信濃松本藩3代藩主。1736年(元文元)光雄の長男として生まれる。1749年(寛延2)5月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1756年(宝暦6)閏11月跡を継ぐ。1759年(宝暦9)1月8日没。24才。法名「壷春院殿洞外義仙大居士」。
松平光年 生 天明元年 (1781年)没 天保8年 (1837年) 信濃松本藩7代藩主。1781年(天明元)光悌の子として生まれる。1794年(寛政6)2月松平光行の養子となる。同年4月将軍徳川家斉に拝謁。1800年(寛政12)光行の隠居により跡を継ぐ。1837年(天保8)2月4日没。57才。法名「神龍院殿大光啓雲大居士」。
松平光和 生 延享元年 (1744年)没 安永4年 (1775年) 信濃松本藩4代藩主。1744年(延享元)光雄の6男として生まれる。兄光徳の養子となり1759年(宝暦9)3月跡を継ぐ。同月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)7月24日没。32才。法名「泰量院殿義範勇見大居士」。
松平信吉妻 生 不明没 承応2年 (1653年) 松平信一の娘。松平信吉に嫁ぎ、忠国、忠晴、秋田俊季妻、忠秋、信治の4男1女を儲ける。1653年(承応2)6日23日没。法名「崇龍院殿華雄貞信大禅定尼」。墓石は息子山城守忠勝(忠国)の建立による。
松平信一妻 生 不明没 元和5年 (1619年) 松平好景の娘。松平信一に嫁ぎ、久清、大久保康忠妻、石川織部妻の1男2女を儲ける。1619年(元和5)10月28日没。法名「嶽雄院殿俊譽惣貞清大姉」。墓石は1643年(寛永20)10月28日の25回忌に信一の孫山城守忠国の建立による。
本多康俊 生 永禄12年 (1569年)没 元和7年 (1621年) 1569年(永禄12)酒井忠次の次男として生まれる。母は松平清康の娘碓井姫。徳川家康に仕え、幼少時は織田信長への人質となる。本多忠次の養子となり跡を継ぐ。関ケ原の戦い、大坂夏の陣に参戦して、近江国膳所で3万石を与えられる。1621年(元和7)2月7日没。53才。法名「梅香院英誉輝厳緑崇大居士」。墓石は息子下総守俊次と美作守忠相の建立による。
本多俊次妻 生 不明没 寛文8年 (1668年) 小田部統房の娘。立花宗茂の養女となり本多俊次に嫁ぐ。俊次の間に、康長、牧野光成妻、康将、忠顕、忠隆、俊正の4男1女を儲ける。1668年(寛文8)11月没。法名「崇安院殿明誉壽光大姉」。墓石施主は息子兵部少輔康将。
本多俊次 生 文禄4年 (1595年)没 寛文8年 (1668年) 近江膳所藩2代藩主。1595年(文禄4)康俊の長男として生まれる。1599年(慶長4)徳川家康に拝謁。大坂の陣に父とともに参戦。夏の陣のときには自ら槍を持ち首を取った。1621年(元和7)父の死去により家督を継ぐ。1668年(寛文8)8月11日没。74才。法名「専光院殿信蓮社深誉浄有大居士」。
最上義智妻 生 寛永19年 (1642年)没 寛文4年 (1664年) 1642年(寛永19)奥平忠昌の娘として生まれる。名はてい。最上義智に嫁ぐ。1664年(寛文4)閏5月24日没。23才。法名「智光院殿槐窓壽貞大禅定尼」。
明智光秀 生 不明没 天正10年 (1582年) 生年不明。朝倉義景に仕え、その後足利義昭に仕える。義昭が没落すると織田信長に仕え重臣となる。1582年(天正10)6月2日主君信長を討つ。(本能寺の変)しかし、同じ信長の重臣豊臣秀吉と戦い(山崎の戦い)敗れ、同年6月13日落ち延びる途中土民に襲われ殺される。法名「秀岳院宗光禅定門」。この墓石にはかなり以前より法名等が全く読めないが光秀の墓と伝わっているので、正確には「伝明智光秀墓」である。