彦坂元正の墓碑
彦坂元正
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
光景の子。小刑部。徳川家康に仕え、代官、町奉行を務める。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは小荷駄奉行。領地の農民に訴えられ、さらに貢金を私物化したため改易となる。1634年(寛永11)1月8日没。法名「聚林居士」。墓石には、彦坂市兵衛(詳細不明)の名も見える。
安藤重長の墓碑
安藤重長
生 慶長5年 (1600年)
没 明暦3年 (1657年)
上野高崎藩2代藩主。1600年(慶長5)本多正盛の長男として生まれる。母は安藤重信の娘。祖父重信の跡を継ぐ。1609年(慶長14)徳川家康に拝謁。徳川秀忠付となり、大坂の両陣に従い、夏の陣のときは首2つを取る。1632年(寛永9)改易となった徳川忠長を居城高崎城に預かる。1657年(明暦3)9月29日没。58才。法名「良峯院殿前京兆司録天誉泰翁居士」。
安藤重博の墓碑
安藤重博
生 寛永17年 (1640年)
没 元禄11年 (1698年)
備中松山藩初代藩主。1640年(寛永17)重之の長男として生まれる。1651年(慶安4)11月将軍徳川家綱に拝謁。祖父重長の死により1657年(明暦3)11月上野高崎藩3代藩主となる。1695年(元禄8)5月備中松山に加増移封。1698年(元禄11)8月9日没。59才。法名「定慧院殿不漚覺海大居士」。
安藤重信の墓碑
安藤重信
生 弘治3年 (1557年)
没 元和7年 (1621年)
上野高崎藩初代藩主。1557年(弘治3)基能の次男として生まれる。徳川家康に仕え1584年(天正12)長久手の戦いのときは兜首1つを獲った。後、家康3男秀忠に仕え、1600年(慶長5)真田昌幸の籠る上田城攻めに参戦。他、大坂の陣にも参戦。大久保忠隣、福島正則の所領没収のときに使者を務めている。1621年(元和7)6月29日没。65才。法名「栖岸院殿釋良善大居士」。
安藤重之の墓碑
安藤重之
生 元和9年 (1623年)
没 寛永18年 (1641年)
1623年(元和9)重長の長男として生まれる。跡を継ぐことなく1641年(寛永18)11月12日没。19才。法名「浄本院殿清譽理覺大禅定門」。墓石施主は息子伊勢千代(重博)。
奥平忠昌妻の墓碑
奥平忠昌妻
生 不明
没 寛永19年 (1642年)
鳥居忠政の3女。奥平忠昌に嫁ぎ、内藤信良妻、最上義智妻、昌能、由良頼繁妻の1男3女を儲ける。1642年(寛永19)4月4日没。法名「桂嶽院殿少室香林大禅定尼」。
奥平家昌の墓碑
奥平家昌
生 天正5年 (1577年)
没 慶長19年 (1614年)
下野宇都宮藩初代藩主。1577年(天正5)信昌の長男として生まれる。祖父徳川家康から1字を賜い家昌と名乗る。1601年(慶長6)下野宇都宮で10万石を与えれる。1614年(慶長19)10月10日没。38才。法名「六通院殿天眼道高大禅定門」。
吉田良連娘の墓碑
吉田良連娘
生 不明
没 天保15年 (1844年)
吉田良連の3女。鷹司任子(徳川家定妻)に年寄役として仕える。通称勘解由小路。1844年(天保15)5月没。法名「功〇院殿熏譽昭和清均大姉」。膳所本多家墓域にあることから、母は本多康伴の娘と思われる。
内藤重頼の墓碑
内藤重頼
生 寛永5年 (1628年)
没 元禄3年 (1690年)
1628年(寛永5)正勝の長男として生まれる。1630年(寛永7)父が没すると遺領1万5千石を没収され5千石を相続。1635年(寛永12)12月将軍徳川家光に拝謁。順調に加増を重ね3万3千石を領す。1687年(貞享4)京都所司代となる。1690年(元禄3)11月27日没。63才。法名「無著院殿然譽常光存空大居士」。
内藤信良妻の墓碑
内藤信良妻
生 不明
没 不明
奥平忠昌の長女。名はミネ姫。内藤信良の正室となる。子を儲けることなく没す。法名「恵照院殿寂然宗空大禅定尼」。
保科正重の墓碑
保科正重
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
正直の次男。冷遇されていたらしく詳細不明。晩年は異母弟正貞のもとに寄せていたと思われ、正貞の領地である千葉県木更津市の選擇寺にも墓がある。1636年(寛永13)8月23日没。法名「鳳桐院殿月光玄白大禅定門」。
仙石久信の墓碑
仙石久信
生 寛永15年 (1638年)
没 元禄12年 (1699年)
1638年(寛永15)久邦の子として生まれる。1648年(慶安元)将軍徳川家光に拝謁。父の死により1681年(天和元)12月跡を継ぐ。その際、6千石のうち千石を弟久尚に分け与える。1699年(元禄12)1月5日没。62才。法名「圓光院殿普岳常照居士」。
青木友重の墓碑
青木友重
生 慶長10年 (1605年)
没 寛永13年 (1636年)
1605年(慶長10)生まれ。戸田氏の出身。忠五郎。伊達政宗に小姓として仕える。青木源七郎の娘を娶り青木家を継ぐ。1636年(寛永13)6月20日に殉死。32才。法名「圓岫了規禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
菅野重虎の墓碑
菅野重虎
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永13年 (1636年)
1596年(慶長元)生まれ。正(勝)左衛門。重成とも。伊達政宗に火縄銃薬込役として仕える。政宗から拝領したという黒漆五枚胴具足が今に残る。1636年(寛永13)6月20日殉死。41才。法名「芳叔久聯禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
茂庭兼綱の墓碑
茂庭兼綱
生 文禄2年 (1593年)
没 寛永13年 (1636年)
1593年(文禄2)斎藤孫左衛門の子として生まれる。采女。中畠兵次の婿となり伊達政宗に仕える。茂庭綱元によって茂庭の姓を名乗る。1636年(寛永13)6月20日殉死。44才。法名「叟善昌因禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
石田与純の墓碑
石田与純
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
1589年(天正17)大波大膳の次男として生まれる。将監。伊達政宗に仕える。石田豊前宗朝の娘を娶り婿となる。1636年(寛永13)6月21日に殉死。48才。法名「信澤道傳禅定門」。青柳伝右衛門と加藤三右衛門が与純に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
矢目常重の墓碑
矢目常重
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。伊兵衛。伊達政宗に仕え、大坂の陣に従う。政宗が没すると1636年(寛永13)6月7日仙台覚範寺にて殉死。63才。法名「堅室道固禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
桑折綱長の墓碑
桑折綱長
生 元亀2年 (1571年)
没 寛永13年 (1636年)
1571年(元亀2)生まれ。豊後。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。66才。法名「竹友祟賢禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小野時村の墓碑
小野時村
生 天正14年 (1586年)
没 寛永13年 (1636年)
1586年(天正14)生まれ。二左衛門。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日殉死。51才。法名「涼窓受蔭禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
小平元成の墓碑
小平元成
生 天正2年 (1574年)
没 寛永13年 (1636年)
1574年(天正2)生まれ。太郎左衛門。伊達政宗に仕える。京都伏見にて町人を斬ったため、政宗の命で高野山に逃れる。のちに名を武石仁右衛門として陸奥国に戻る。のちに政宗に再仕。1636年(寛永13) 6月19日自宅にて殉死。63才。法名「怡心道悦禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
大槻定安の墓碑
大槻定安
生 天正4年 (1576年)
没 寛永13年 (1636年)
1576年(天正4)生まれ。喜右衛門。伊達政宗に仕える。大坂夏の陣で首を取る。1636年(寛永13)6月19日殉死。61才。法名「天岑周徳禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
喜斎の墓碑
喜斎
生 永禄5年 (1562年)
没 寛永13年 (1636年)
1562年(永禄5)生まれ。岡崎喜斎とも伝わるも詳細不明。1636年(寛永13)6月20日仏眼寺にて伊達政宗に殉死。75才。法名「悦嶂道観禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
南政吉の墓碑
南政吉
生 元和元年 (1615年)
没 寛永13年 (1636年)
1615年(元和元)惣右衛門の子として生まれる。次郎吉。伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)5月24日政宗が没すると同日殉死。22才。法名「清隠浄光禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤昌吉の墓碑
加藤昌吉
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
備前池田家の家臣七太夫の子。十三郎。同僚を殺害したため、備前を離れ宇和島伊達秀宗に仕える。のち伊達政宗の近習となる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。23才。(21才とも)法名「説庭良宣禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
加藤三右衛門の墓碑
加藤三右衛門
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
名は賀藤とも。伊達政宗家臣石田与純に仕える。1636年(寛永13) 与純が主君政宗に殉死すると、三右衛門も殉死。法名「梁岫元棟禅定門」。墓石には政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
入生田元康の墓碑
入生田元康
生 天正5年 (1577年)
没 寛永13年 (1636年)
1577年(天正5)成定の子として生まれる。三右衛門。16才のときに伊達政宗に仕える。1636年(寛永13)6月20日に殉死。60才。法名「功翁知全禅定門」。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
佐藤吉信の墓碑
佐藤吉信
生 慶長13年 (1608年)
没 寛永13年 (1636年)
1608年(慶長13)向岩孫助の子として生まれる。内膳。伊達政宗に仕える。佐藤甚十郎と改名。出世して2千石を与えられる。1636年(寛永13)6月20日に殉死。29才。法名「法得紹隆禅定門」。杉山理兵衛が吉信に殉死している。墓石には主君政宗の1周忌の寛永十四年五月廿四日が刻まれている。
白石宗貞の墓碑
白石宗貞
生 慶長2年 (1597年)
没 寛永21年 (1644年)
1597年(慶長2)宗直の長男として生まれる。登米伊達家2代当主。伊達政宗、忠宗に仕える。父宗直は伊達姓を許されたものの政宗の勘気を被り伊達姓を剥奪されていたが、1640年(寛永17)藩主忠宗より宗貞に再び伊達姓を与えられる。1644年(寛永21)4月11日没。48才。法名「長秀院殿茂林昌繁大居士」。墓石施主は長女の夫で養子となった五郎吉。
川勝広有の墓碑
川勝広有
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文13年 (1673年)
1631年(寛永8)広尚の子として生まれる。1644年(正保元)14才のとき徳川家光に拝謁。小姓組、西城御書院番士、奉行などを務める。1673年(寛文13)9月3日没。43才。法名「寂照院殿桂岸蒼秋居士」。
島津綱久の墓碑
島津綱久
生 寛永9年 (1632年)
没 寛文13年 (1673年)
1632年(寛永9)4月光久の長男として生まれる。1651年(慶安4)将軍徳川家綱より一字を賜り綱久と名乗る。1673年(寛文13)2月19日父に先立ちて没。42才。法名「泰清院殿關山良無大居士」。
山内忠義妻の墓碑
山内忠義妻
生 文禄4年 (1595年)
没 寛永9年 (1632年)
1595年(文禄4)松平定勝の次女として生まれる。名は阿姫。1605年(慶長10)徳川家康の養女として山内忠義に嫁ぐ。忠義との間に、忠豊、松下長綱妻、忠直の2男1女を儲ける。1632年(寛永9)2月13日没。38才。法名「光照院殿泰譽皓月大姉」。
山内忠直の墓碑
山内忠直
生 慶長18年 (1613年)
没 寛文7年 (1667年)
土佐中村藩初代藩主。1613年(慶長18)9月忠義の次男として生まれる。1656年(明暦2)父の隠居の際、土佐中村にて3万石を与えられる。1667年(寛文7)6月9日没。55才。法名「顕徳院殿傑岩宗英大居士」。
山内一豊の墓碑
山内一豊
生 天文14年 (1545年)
没 慶長10年 (1605年)
土佐藩初代藩主。1545年(天文14)盛豊の3男として生まれる。豊臣秀吉に仕え姉川の戦い、播磨三木城攻め、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなど多くの戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に従い、戦後土佐国を与えられる。1605年(慶長10)9月20日没。61才。法名「大通院殿心峯宗傳大居士」。
奥山兼清の墓碑
奥山兼清
生 元亀2年 (1571年)
没 元和2年 (1616年)
1571年(元亀2)目々沢常基の長男として生まれる。伊達政宗に仕え、人取橋の戦いや朝鮮出兵に従う。大坂の陣にも参戦。夏の陣の道明寺の戦いでは首を取る活躍をする。1616年(元和2)2月6日没。46才。墓石に「奥刕政宗内奥山出羽守為兼清・・」と没年月日が刻まれている。享年は40才の説もある。
伊達輝宗妻の墓碑
伊達輝宗妻
生 不明
没 元和9年 (1623年)
最上義守の娘として生まれる。名は義姫。伊達輝宗に嫁ぎ、政宗、小次郎、女、女の2男2女を儲ける。1588年(天正16)息子政宗と兄義光が合戦となると、戦場に輿で乗り込み両軍の停戦を行う。1594年(文禄3)伊達家から出奔して、実家の最上家に戻る。1622年(元和8)に最上家が改易となると仙台の政宗を頼る。1623年(元和9)7月17日没。法名「花窓久栄尼大姉」。墓石は逆修塔。
伊達輝宗の墓碑
伊達輝宗
生 天文13年 (1544年)
没 天正13年 (1585年)
1544年(天文13)9月晴宗の次男として生まれる。1565年(永禄8)父の隠居により家督を継ぐ。家中をまとめ、遠藤基信を登用して外交を行わせる。1585年(天正13)10月8日陸奥二本松城主畠山義継が降伏後、輝宗の居城に訪れたときに義継と家臣に拉致される。二本松領付近まできたときに、味方の伊達勢に撃たれて義継共々死亡。法名「覚範寺殿性山受心大居士」。
伊達斉邦の墓碑
伊達斉邦
生 文化14年 (1817年)
没 天保12年 (1841年)
陸奥仙台藩12代藩主。1817年(文化14)9月宗充の長男として生まれる。1827年(文政10)1月仙台藩主斉義の婿養子となる。1828年(文政11)斉義の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)7月24日没。25才。法名「慈雲院殿龍山真珠大居士」。
伊達斉義の墓碑
伊達斉義
生 寛政10年 (1798年)
没 文政10年 (1827年)
陸奥仙台藩11代藩主。1798年(寛政10)3月田村村資の4男として生まれる。1819年(文政2)4月仙台藩主伊達斉宗が亡くなったときに、斉宗娘と婚約して婿養子という形で藩主となる。同年8月将軍徳川家斉に拝謁。1827年(文政10)11月27日没。30才。法名「曹源院殿正山榮因大居士」。
伊達斉村の墓碑
伊達斉村
生 安永3年 (1774年)
没 寛政8年 (1796年)
陸奥仙台藩8代藩主。1774年(安永3)12月重村の次男として生まれる。1787年(天明7)将軍徳川家斉から1字を与えられ斉村と名乗る。1790年(寛政2)父の隠居により家督を相続。1796年(寛政8)7月27日没。23才。法名「永慶院殿桂山蘭榮大居士」。幕府には相続の都合で8月12日死去と届けている。
伊達斉宗の墓碑
伊達斉宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文政2年 (1819年)
陸奥仙台藩10代藩主。1796年(寛政8)9月斉村の次男として生まれる。1812年(文化9)兄周宗の隠居(実は周宗は没していた)により家督を継ぐ。1819年(文政2)5月24日没。24才。法名「廣徳院殿英山元高大居士」。
伊達宗高の墓碑
伊達宗高
生 慶長12年 (1607年)
没 寛永3年 (1626年)
1607年(慶長12)政宗の7男として生まれる。1626年(寛永3)閏4月徳川秀忠と将軍徳川家光に拝謁。1626年(寛永3)8月17日没。20才。法名「龍島院殿涼山英清大居士」。家臣10人が殉死している。
伊達宗倫妻の墓碑
伊達宗倫妻
生 寛永15年 (1638年)
没 延宝5年 (1677年)
1638年(寛永15)白石宗貞の2女として生まれる。伊達宗倫に嫁ぐ。 1677年(延宝5)7月15日没。40才。法名「霊光院殿桂臺裔中大姉」。墓石は宗倫の養子の大蔵村直が1682年(天和2)7回忌に建立。(ただし7回忌だと延宝6年没となる)
伊達宗倫の墓碑
伊達宗倫
生 寛永17年 (1640年)
没 寛文10年 (1670年)
1640年(寛永17)4月忠宗の5男として生まれる。兄の五郎吉が登米伊達家を継いでいたが没したため宗倫が継ぐ。領内の新田開発を行い石高は上がったが、涌谷伊達家の宗重と領地の境界線問題で争うこととなる。1670年(寛文10)2月10日没。31才。法名「高臺院殿天山宗清大禅定門」。墓石は1682年(天和2)養子の大蔵村直が13回忌に建立。
伊達宗信の墓碑
伊達宗信
生 慶長8年 (1603年)
没 寛永4年 (1627年)
1603年(慶長8)政宗の6男として生まれる。幼名吉松丸。1627年(寛永4)8月8日没。25才。法名「高照院殿外天洞雲大居士」。
伊達周宗の墓碑
伊達周宗
生 寛政8年 (1796年)
没 文化6年 (1809年)
陸奥仙台藩9代藩主。1796年(寛政8)3月斉村の長男として生まれる。同年4月に祖父重村、同年7月父斉村が死去したため1才未満で跡を継ぐ。同時に将軍徳川家斉の3女綾姫と婚約。綾姫が没したため1806年(文化3)家斉の11女浅姫と婚約。1812年(文化9)2月疱瘡のため家督を弟斉宗に譲る。結婚することも将軍に拝謁することもなく同年4月24日没。17才。法名「青龍院殿紹山隆公大居士」。実際には、1809年(文化6)1月4日に14才で没してたらしい。
五島運龍の墓碑
五島運龍
生 安永9年 (1780年)
没 天保15年 (1844年)
肥前富江領6代領主。1780年(安永9)盛恭の子として生まれる。父の死により1789年(寛政元)11月跡を継ぐ。1795年(寛政7)12月将軍徳川家斉に拝謁。1844年(天保15)9月6日没。65才。法名「瑞鳳院殿恭運良興大居士」。
五島盛朗の墓碑
五島盛朗
生 延宝5年 (1677年)
没 享保11年 (1726年)
肥前富江領2代領主。1677年(延宝5)盛清の長男として生まれる。父の死により1679年(延宝7)12月3才で跡を継ぐ。1683年(天和3)8月将軍徳川家綱に拝謁。1726年(享保11)7月18日没。50才。法名「瑞雲寺殿常山良真大居士」。墓石は息子修理盛尚の建立による。
五島盛恭の墓碑
五島盛恭
生 宝暦4年 (1754年)
没 寛政元年 (1789年)
肥前富江領5代領主。1754年(宝暦4)盛道の4男として生まれる。1772年(安永元)12月将軍徳川家治に拝謁。時期は不明だが五島盛峰の養子となっており、1773年(安永2)7月盛峰の死により跡を継ぐ。1789年(寛政元)7月29日没。36才。法名「單傳院殿直心良機大居士」。墓石は息子兵次郎運龍の建立による。
五島盛峰の墓碑
五島盛峰
生 享保11年 (1726年)
没 安永2年 (1773年)
肥前富江領4代領主。1726年(享保11)盛尚の長男として生まれる。1752年(宝暦2)12月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1765年(明和2)12月跡を継ぐ。1773年(安永2)4月4日没。48才。法名「雄安院殿㯮禪良峯大居士」。
五島盛尚の墓碑
五島盛尚
生 元禄8年 (1695年)
没 明和5年 (1768年)
肥前富江領3代領主。1695年(元禄8)盛朗の長男として生まれる。1711年(正徳元)4月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1726年(享保11)10月跡を継ぐ。1765年(明和2)12月隠居。1768年(明和5)3月2日没。74才。法名「大乗院殿頊明良圓大居士」。