大道寺繁清の墓碑
大道寺繁清
生 明暦3年 (1657年)
没 元禄14年 (1701年)
1657年(明暦3)為久の子として生まれる。津軽信政に仕え家老職。妻は主君信政の妹。1701年(元禄14)8月27日没。45才。法名「眞乗院殿湛然無怕居士」。墓石は1704年(宝永元)5月19日息子大道寺隼人直聴の建立による。
大道寺為久の墓碑
大道寺為久
生 寛永2年 (1625年)
没 延宝2年 (1674年)
1625年(寛永2)津軽信枚の子として生まれる。1640年(寛永17)大道寺直秀の娘と婚姻、家督を継ぐ。1647年(正保4)兄で藩主津軽信義を隠居させようとするも失敗、蟄居となる。のち許され家老職となる。1674年(延宝2)2月23日没。50才。法名「圓通院殿盛叟英堅巨居士」。
石川廉勝妻の墓碑
石川廉勝妻
生 不明
没 寛永11年 (1634年)
堀尾忠晴の娘。石川宗十郎廉勝に嫁ぎ憲之を儲ける。1634年(寛永11)4月27日没。法名「法光院殿全心玄貞大姉」。墓石施主は夫石川宗十郎とある。
水野勝貞妻の墓碑
水野勝貞妻
生 不明
没 延宝7年 (1679年)
野瀬氏。水野勝貞の妻となり、女子、勝種の1男1女を儲ける。1679年(延宝7)7月2日没。法名「永久院殿」。墓石に「水野美作守勝慶之母堂」とあり勝慶とは勝種の前名である。
水野勝種の墓碑
水野勝種
生 寛文元年 (1661年)
没 元禄10年 (1697年)
備後福山藩4代藩主。1661年(寛文元)5月勝貞の長男として生まれる。1663年(寛文3)父の死により3才で家督を継ぐ。1668年(寛文8)9月将軍徳川家綱に拝謁。1697年(元禄10)8月23日没。37才。法名「萬輝院殿忠嶽全功大居士」。
松村監物の墓碑
松村監物
生 不明
没 寛永10年 (1633年)
堀尾家の家臣。主君堀尾忠晴が1633年(寛永10)9月24日に没すると2日後の26日に殉死。法名「大恕玄忠居士」。
松平忠敏の墓碑
松平忠敏
生 寛文12年 (1672年)
没 元禄8年 (1695年)
1672年(寛文12)忠継の長男として生まれる。1685年(貞享2)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父の忠継が病弱のため、祖父忠倶の跡継ぎとなるも、1695年(元禄8)12月7日没。24才。法名「心源院殿蓮譽寂然道法大居士」。
松平忠吉妻の墓碑
松平忠吉妻
生 不明
没 寛永4年 (1627年)
井伊直政の長女。徳川家康の4男松平忠吉に嫁ぐ。忠吉との間に、梅貞大童子の1男を儲ける。忠吉没後は実家に戻る。1627年(寛永4)9月28日没。法名「清泉院殿覚窓榮正大姉」。
松平定信の墓碑
松平定信
生 宝暦8年 (1758年)
没 文政12年 (1829年)
陸奥白河藩3代藩主。1758年(宝暦8)12月徳川宗武の7男として生まれる。1774年(安永3)3月松平定邦の養子となりその娘を妻とする。1775年(安永4)閏12月将軍徳川家治に拝謁。11代将軍徳川家斉のもとで老中首座を務め「寛政の改革」を行う。1829年(文政12)5月13日没。72才。法名「守國院殿崇蓮社天誉保徳樂翁大居士」。
戸田氏長の墓碑
戸田氏長
生 貞享4年 (1687年)
没 享保20年 (1735年)
美濃大垣藩5代藩主。1687年(貞享4)11月氏定の次男として生まれる。1697年(元禄10)11才のときに徳川綱吉に拝謁。1723年(享保8)4月父が職を辞したため跡を継ぐ。1735年(享保20)8月10日没。49才。法名「享澤院殿乾誉徹元大居士」。
戸田氏鉄妻の墓碑
戸田氏鉄妻
生 不明
没 承応3年 (1654年)
戸田康長の娘。母は徳川家康の異父妹松姫。戸田氏鉄に嫁ぎ、板倉重宗妻、氏信、本多正勝妻、氏経、松平忠国妻、頼鉄、氏照、利鉄の5男2女を儲ける。1654年(承応3)12月23日没。「心譽壽栄大姉」。
戸田氏鉄の墓碑
戸田氏鉄
生 天正4年 (1576年)
没 承応4年 (1655年)
美濃大垣藩初代藩主。1576年(天正4)3月一西の長男として生まれる。徳川家康に仕え1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。大坂の両陣のときは居城である近江膳所城を守る。戦後、摂津尼崎5万石を与えられ、1635年(寛永12)7月に美濃大垣10万石へ加増移封。1655年(承応4)2月14日没。80才。法名「覺岸院殿長誉常閑大居士」。墓石は息子氏信の建立による。
戸田氏西妻の墓碑
戸田氏西妻
生 不明
没 元禄16年 (1703年)
内藤忠政の娘。戸田氏西に嫁ぎ、氏定、氏成の2男を儲ける。 1703年(元禄16)12月23日没。法名「貞凉院殿光誉理教法雲大姉」。
戸田氏西の墓碑
戸田氏西
生 寛永4年 (1627年)
没 貞享元年 (1684年)
美濃大垣藩3代藩主。1627年(寛永4)11月氏信の長男として生まれる。1671年(寛文11)家督を継ぐ。家臣の首切りや藩財政の立て直しのための節約などの藩政改革を行うも成功はしなかった。1684年(貞享元)6月7日没。58才。法名「高稱院殿清譽江自大居士」。
戸田氏英の墓碑
戸田氏英
生 享保14年 (1729年)
没 明和5年 (1768年)
美濃大垣藩6代藩主。1729年(享保14)12月氏長の次男として生まれる。1735年(享保20)10月父の死により跡を継ぐ。1740年(元文5)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1768年(明和5)4月23日没。40才。法名「崇眞院殿徳譽興善大居士」。
戸田氏春の墓碑
戸田氏春
生 寛永11年 (1634年)
没 寛文12年 (1672年)
1634年(寛永11)氏信の3男として生まれる。1641年(寛永18)11月徳川家綱の小姓となる。1651年(慶安4)8月従五位下摂津守を叙任。1672年(寛文12)9月11日没。39才。法名「〇性院殿本譽教然大禅定門」。
戸田氏教の墓碑
戸田氏教
生 宝暦4年 (1754年)
没 文化3年 (1806年)
美濃大垣藩7代藩主。1754年(宝暦4)松平武元の5男として生まれる。1768(明和5)4月戸田氏英の養子となり同年6月跡を継ぐ。同年7月将軍徳川家治に拝謁。1790年(寛政2)老中となり1803年(享和3)老中首座となる。1806年(文化3)4月26日没。53才。法名「壽徳院殿圓譽教山大居士」。
戸田氏彬の墓碑
戸田氏彬
生 天保2年 (1831年)
没 慶応元年 (1865年)
美濃大垣藩10代藩主。1831年(天保2)5月氏正の長男として生まれる。1846年(弘化3)11月将軍徳川家慶に拝謁。1864年(元治元)7月蛤御門の変では長州軍と戦い軍功をたてる。第2次長州征伐にも参戦。1865年(慶応元)8月8日没。35才。法名「大顕院殿仁譽義勇大居士」。
戸田氏庸の墓碑
戸田氏庸
生 安永9年 (1780年)
没 天保12年 (1841年)
美濃大垣藩8代藩主。1780年(安永9)氏教の長男として生まれる。1796年(寛政8)5月将軍徳川家斉に拝謁。1806年(文化3)4月父の死により跡を継ぐ。1841年(天保12)3月19日没。62才。法名「泰嶽院殿霊譽瑞雲大居士」。
戸田氏定の墓碑
戸田氏定
生 明暦3年 (1657年)
没 享保18年 (1733年)
美濃大垣藩4代藩主。1657年(明暦3)3月氏西の長男として生まれる。1684年(貞享元)父の死後、家督を継ぐ。播磨赤穂藩主浅野長矩が刃傷沙汰をおこしたとき、母方の従弟にあたるため一時出仕を止められる。1723年(享保8)4月次男氏長に家督を譲り隠居。1733年(享保18)7月23日没。77才。法名「霊臺院殿瑞譽松巖大居士」。
戸田氏利の墓碑
戸田氏利
生 寛永16年 (1639年)
没 寛文12年 (1672年)
1639年(寛永16)氏信の4男として生まれる。内蔵允。氏親とも。祖父氏鉄により育てられる。1672年(寛文12)3月28日没。34才。法名「天清院殿春山嶺月大信士」。
戸田氏信の墓碑
戸田氏信
生 慶長4年 (1599年)
没 天和元年 (1681年)
美濃大垣藩2代藩主。1599年(慶長4)11月氏鉄の長男として生まれる。7才のときに徳川家康に拝謁。1651年(慶安4)11月父氏鉄の隠居のより家督を継ぐ。1681年(天和元)11月14日没。83才。法名「真林院殿天誉逸閑大居士」。
宇喜多忠家の墓碑
宇喜多忠家
生 天文2年 (1533年)
没 慶長14年 (1609年)
1533年(天文2)宇喜多興家の子として生まれる。兄直家に仕える。1578年(天正6)毛利氏による播磨上月城攻めのときは、兄に代わって従軍。兄の死後は兄の子秀家を補佐。1599年(慶長4)宇喜多騒動と呼ばれる家中の騒動が起きると隠居。1609年(慶長14)没。77才。法名「安津」。墓石には「備前国浮田七郎兵衛入道 為安津忠家逆修也 慶長四年」とあり、隠居したときに逆修塔を建立している。
大久保教業の墓碑
大久保教業
生 文化5年 (1808年)
没 文政13年 (1830年)
1808年(文化5)教孝の長男として生まれる。家督を相続することなく1830年(文政13)8月8日没。23才。法名「慈明院殿秋岳道諦大居士」。
大久保教寛の墓碑
大久保教寛
生 明暦3年 (1657年)
没 元文2年 (1737年)
駿河松長藩初代藩主。1657年(明暦3)忠朝の次男として生まれる。1675年(延宝3)6月将軍徳川家綱に拝謁。1706年(宝永3)10月加増により駿河松長藩主となる。1730年(享保15)11月隠居。1737年(元文2)12月17日没。81才。法名「虎山院殿武林崇勇大居士」。
大久保忠顕の墓碑
大久保忠顕
生 宝暦5年 (1755年)
没 享和3年 (1803年)
相模小田原藩6代藩主。1755年(宝暦5)忠由の長男として生まれる。父の死により1769年(明和6)11月跡を継ぐ。1774年(安永3)10月将軍徳川家治に拝謁。1796年(寛政8)1月隠居。1803年(享和3)8月8日没。49才。法名「亨泰院殿慎常了善大居士」。
大久保忠興の墓碑
大久保忠興
生 正徳3年 (1713年)
没 明和元年 (1764年)
相模小田原藩4代藩主。1713年(正徳3)忠方の長男として生まれる。1727年(享保12)4月将軍徳川吉宗に拝謁。父の死により1732年(享保17)11月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月隠居。1764年(明和元)10月29日没。52才。法名「大雲院殿仙巖了潤大居士」。
大久保忠脩の墓碑
大久保忠脩
生 文化7年 (1810年)
没 天保2年 (1831年)
1810年(文化7)6月忠真の長男として生まれる。家督を継ぐことなく1831年(天保2)11月9日父より先に没。22才。法名「敬順院殿愼行了性大居士」。
大久保忠真の墓碑
大久保忠真
生 安永7年 (1778年)
没 天保8年 (1837年)
相模小田原藩7代藩主。1778年(安永7)忠顕の長男として生まれる。父の死により1796年(寛政8)1月跡を継ぐ。藩政改革に農民の二宮尊徳を登用。幕府では老中を務める。1837年(天保8)3月9日没。60才。法名「彰道院殿欽承良顯大居士」。
大久保忠方の墓碑
大久保忠方
生 元禄5年 (1692年)
没 享保17年 (1732年)
相模小田原藩3代藩主。1692年(元禄5)6月忠増の6男として生まれる。1704年(宝永元)11月将軍徳川綱吉に拝謁。仰せにより柳沢吉保の養女を正室とする。父の死により1713年(正徳3)9月跡を継ぐ。1732年(享保17)10月3日没。41才。法名「現成院殿圓山了智大居士」。
大久保忠愨の墓碑
大久保忠愨
生 文政12年 (1829年)
没 安政6年 (1859年)
相模小田原藩8代藩主。1829年(文政12)忠脩の長男として生まれる。父が若くして没したため1837年(天保8)3月祖父忠真の跡を継ぐ。1859年(安政6)9月27日没。31才。法名「有道院殿好學正儀大居士」。
大久保忠常妻の墓碑
大久保忠常妻
生 天正10年 (1582年)
没 寛永20年 (1643年)
1582年(天正10)奥平信昌の娘として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。大久保忠常に嫁ぎ、忠常との間に、里見忠義室、本多重能室、片桐貞昌室、忠職の1男3女を儲ける。1643年(寛永20)4月26日没。62才。法名「永久院殿梅陽栄玉大姉」。
堀尾民部の墓碑
堀尾民部
生 不明
没 元和6年 (1620年)
揖斐勘左衛門詮信の子。母は堀尾吉晴の姉。宮内少輔。名は一信。母方の姓を名乗り、堀尾家の重臣となる。1620年(元和6)3月6日没。法名「寶山榮真大居士」。墓石は息子采女一明の建立による。
堀尾政家の墓碑
堀尾政家
生 不明
没 寛永13年 (1636年)
頼母助。堀尾家の重臣。詳細は不明だが、堀尾正秀と息子佐兵衛が頼母を名乗っているので当人かその一族であろう。1636年(寛永13)8月27日没。法名「切岩」。
堀尾忠氏の墓碑
堀尾忠氏
生 天正6年 (1578年)
没 慶長9年 (1604年)
出雲松江藩初代藩主。1578年(天正6)吉晴の次男として生まれる。1599年(慶長4)父の隠居により遠江浜松城主12万石を相続する。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いのときに徳川家康に付き、戦後出雲松江藩24万石となる。1604年(慶長9)8月4日没。27才。法名「忠光寺殿天岫世球大居士」。
堀尾忠晴の墓碑
堀尾忠晴
生 慶長4年 (1599年)
没 寛永10年 (1633年)
出雲松江藩2代藩主。 1599年(慶長4)忠氏の長男として生まれる。1604年(慶長9)父の死により跡を継ぐも、幼かったため祖父吉晴が後見する。1614年(慶長19)大坂冬の陣に参戦。1633年(寛永10)9月20日没。35才。法名「圓城院殿高賢宗肖大居士」。
堀尾吉晴の墓碑
堀尾吉晴
生 天文12年 (1543年)
没 慶長16年 (1611年)
1543年(天文12)泰晴の長男として生まれる。織田信安に仕え、のちに織田信長に仕える。豊臣秀吉の傘下として付属され、信長没後も秀吉に仕える。一時期豊臣秀次の付宿老を務める。豊臣政権下では中老職。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川家康に加担。1611年(慶長16)6月17日没。69才。法名「法雲院殿松庭世栢大居士」。墓石は1607年(慶長12)4月建立の逆修塔で「松庭世栢居士」とある。
堀尾勘解由の墓碑
堀尾勘解由
生 不明
没 慶長13年 (1608年)
野々村(堀尾)河内守の子。母は堀尾吉晴の娘。1608年(慶長13)12月5日没。法名「桂岩院殿祥雲世瑞大居士」。勘解由を堀尾家当主としようと、父河内守が御家騒動を起こし父とともに死罪となった、ともあるが最近の研究で御家騒動自体がなかったとされている。
坂崎直盛の墓碑
坂崎直盛
生 不明
没 元和2年 (1616年)
宇喜多忠家の子。父の兄宇喜多秀家に仕える。秀家没後は秀家に仕えた。秀家とは仲が悪く関ケ原の戦いのときは、主君の敵である東軍に味方。1615年(元和元)大坂夏の陣のときに家康の孫娘千姫の救出したが、この件で幕府と対立。1616年(元和2)9月11日自殺した。法名「正法寺殿一峰玄秀大居士」。
土井利剛の墓碑
土井利剛
生 元文4年 (1739年)
没 安永2年 (1773年)
1739年(元文4)8月久世広武の4男として生まれる。土井利里の養子となる。1765年(明和2)将軍徳川家治に拝謁。利里の跡を継ぐことなく1773年(安永2)4月30日没。法名「演徳院殿乗誉金臺寛剛居士」。
井伊直陽の墓碑
井伊直陽
生 正徳4年 (1714年)
没 享保17年 (1732年)
越後与板藩2代藩主。1714年(正徳4)直矩の長男として生まれる。1728年(享保13)9月将軍徳川吉宗に拝謁。1731年(享保16)2月父の隠居により跡を継ぐ。1732年(享保17)10月14日没。19才。法名「凌霄院殿松巌淨秀大居士」。
井伊直縄妻の墓碑
井伊直縄妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
桜居氏の出。井伊直縄の妻となり、直興を儲ける。1698年(元禄11)8月15日没。法名「圓臺院殿大通智鏡大姉」。墓石に「江州彦根城主井伊掃郶頭直興公御非母御追為」とある。
井伊直縄の墓碑
井伊直縄
生 元和8年 (1622年)
没 明暦4年 (1658年)
1622年(元和8)直孝の4男として生まれる。直時とも。1634年(寛永11)2月将軍徳川家光に拝謁。彦根藩の世嗣であったが、跡を継ぐことなく1658年(明暦4)4月20日没。37才。法名「廣度院殿圓照宗智大禅定門」。
井伊直経の墓碑
井伊直経
生 寛政11年 (1799年)
没 安政3年 (1856年)
 越後与板藩8代藩主。1799年(寛政11)1月直朗の7男として生まれる。1826年(文政9)直暉(父の養子で7代藩主)の養子となり翌年7月跡を継ぐ。1856年(安政3)6月30日没。58才。法名「泰量院殿全機真彰大居士」。
井伊直矩の墓碑
井伊直矩
生 元禄6年 (1693年)
没 寛保2年 (1742年)
越後与板藩初代藩主。1693年(元禄6)直興の4男として生まれる。1705年(宝永2)遠江掛川藩3代主井伊直朝が病気で失心となったため、養子となり跡を継ぐ。その時移封となり、越後与板藩主となる。1706年(宝永3)1月将軍徳川吉宗に拝謁。1742年(寛保2)3月19日没。50才。法名「光煕院殿花岳淨桃大居士」。
井伊直滋妻の墓碑
井伊直滋妻
生 不明
没 明暦元年 (1655年)
井伊直勝の娘。母は受法院殿。井伊直滋に嫁ぐ。臺花山生西寺(東京都文京区小日向)が江戸の牛込津久戸から小日向に移転のときに出資する。1655年(明暦元)6月13日没。法名「生信院殿臺花法玉大姉」。臺花山生西寺の「臺花」は彼女の法名より名付けられた。墓石は義父井伊直孝の建立による。
井伊直朝の墓碑
井伊直朝
生 延宝8年 (1680年)
没 正徳5年 (1715年)
遠江掛川藩3代藩主。1680年(延宝8)直武の長男として生まれる。1690年(元禄3)10月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1694年(元禄7)11月跡を継ぐ。乱心を理由に所領減となり隠居となる。1715年(正徳5)7月15日没。36才。法名「温良院殿恭徳宜謙大居士」。
井伊直朗の墓碑
井伊直朗
生 延享4年 (1747年)
没 文政2年 (1819年)
越後与板藩6代藩主。1747年(延享4)直存の3男として生まれる。1760年(宝暦10)12月兄直郡の養子となり、翌年2月跡を継ぐ。1763年(宝暦13)7月将軍徳川家治に拝謁。1819年(文政2)12月20日没。73才。法名「大信院殿雪翁真覲大居士」。妻は田沼意次の次女。
井伊直暉の墓碑
井伊直暉
生 寛政3年 (1791年)
没 文政9年 (1826年)
越後与板藩7代藩主。1791年(寛政3)11月直広の長男として生まれる。父が与板藩井伊家に婿に入り跡を継ぐ予定だったが没したため、直暉が藩主井伊直朗の養子となる。1820年(文政3)2月直朗の死により跡を継ぐ。1826年(文政9)5月24日没。36才。法名「嶺雲院殿徳應杲岳大居士」。
井伊直政妻の墓碑
井伊直政妻
生 不明
没 寛永6年 (1629年)
松平康親の娘。徳川家康の養女となり井伊直政に嫁ぐ。直政の間に、松平忠吉(家康4男)妻、直勝、伊達秀宗妻の1男2女を儲けた。1629年(寛永6)7月3日没。法名「東梅院殿臺誉崇玉大姉」。始め東梅院と号していたが、のち唐梅院に改める。