土井利益 生 慶安3年 (1650年)没 正徳3年 (1713年) 肥前唐津藩初代藩主。1650年(慶安3)利隆の次男として生まれる。父の死後、兄利重より1万石を分与され常陸下妻藩主となる。古河土井家が跡取りがなく断絶となるも、幕命により利益が継ぐことになる。下総古河藩を継いだあと、志摩鳥羽藩、肥前唐津藩と2度移封となる。1713年(正徳3)閏5月25日没。64才。法名「諦玄院殿高岸德雄居士」。
伊達政宗① 生 永禄10年 (1567年)没 寛永13年 (1636年) 陸奥仙台藩初代藩主。1567年(永禄10)8月輝宗の長男として生まれる。1584年(天正12)10月父の隠居により家督を継ぐ。奥州で領土を拡大。豊臣秀吉に従い、秀吉死後は徳川家康に従う。関ヶ原の戦いのときは東軍に付く。大坂両陣に参陣。1636年(寛永13)5月24日没。70才。法名「瑞巌寺殿貞山利公大居士」。墓石は1周忌に建立されたもの。
伊達政宗妻 生 不明没 寛文9年 (1669年) 多田吉広の娘。伊達政宗に嫁ぎ、伊達左衛門宗実妻、宗勝の1男1女を儲ける。1669年(寛文9)3月15日没。法名「保性院殿快巖妙奇大姉」。伊達治家記録に3月26日没とあるが墓石に「三月十五日逝去」とあるので墓石に従った。保性院は法性院とも。
大久保教平 生 宝永5年 (1708年)没 宝暦11年 (1761年) 1708年(宝永5)教寛の4男として生まれる。1719年(享保4)4月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居のさい、3千石を分け与えられ寄合となる。1761年(宝暦11)5月3日没。54才。法名「元孝大居士」。
皆川齊秀 生 享保17年 (1732年)没 安永8年 (1779年) 1732年(享保17)庸春の3男として生まれる。1756年(宝暦6)12月将軍徳川家重に拝謁。父の死により1760年(宝暦10)12月跡を継ぐ。1779年(安永8)6月26日没。48才。法名「圓通院殿普叟良門大居士」。
皆川庸春 生 元禄13年 (1700年)没 宝暦10年 (1760年) 1700年(元禄13)祇常の長男として生まれる。1716年(享保元)10月将軍徳川吉宗に拝謁。広逵の娘を娶り、広逵の養子となる。広逵の死により1718年(享保3)9月跡を継ぐ。1760年(宝暦10)9月6日没。61才。法名「實相院殿實参良道大居士」。
毛利重就妻 生 不明没 宝暦6年 (1756年) 戸次勘左衛門の娘。毛利重就の側室。産後脱症にて死亡とあるが、子ナシともあるので死産と思われる。1755年(宝暦5)4月8日没。法名「新梢院殿善應妙因大姉」。
毛利吉元妻(桂月院) 生 不明没 享保17年 (1732年) 伴氏。名は衣笠。毛利吉元の側室となる。吉元との間に槌三郎の1男を儲ける。1732年(享保17)12月12日没。法名「桂月院殿照輪淨普大姉」。
立花鑑任 生 天和3年 (1683年)没 享保6年 (1721年) 筑後柳河藩4代藩主。1683年(天和3)鑑虎の次男として生まれる。1690年(元禄3)10月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1696年(元禄9)7月跡を継ぐ。1721年(享保6)5月13日没。39才。法名「霊明院殿常心法鑑大居士」。
六郷政聲 生 宝暦9年 (1759年)没 天明4年 (1784年) 1759年(宝暦9)政林の次男として生まれる。兄政展の死により嫡子となるも1781年(天明元)12月病のためこれを辞す。1784年(天明4)5月24日没。26才。法名「瑞興院殿鶴應道大居士」。
六郷政展 生 宝暦元年 (1751年)没 安永5年 (1776年) 1751年(宝暦元)政長の次男として生まれる。1761年(宝暦11)3月政林の養子となる。1768年(明和5)6月将軍徳川家治に拝謁。跡を継ぐことなく1776年(安永5)3月18日没。26才。法名「乾徳院殿雲外義龍大居士」。
前田宗辰① 生 享保10年 (1725年)没 延享3年 (1746年) 加賀藩6代藩主。1725年(享保10)4月吉徳の長男として生まれる。父の死により1744年(延享元)6月跡を継ぐ。1746年(延享3)12月8日没。22才。法名「大應院殿梅關雪峯大居士」。
前田宗辰妻① 生 享保10年 (1725年)没 延享2年 (1745年) 1725年(享保10)松平正容の娘として生まれる。宗辰との間に子供が出来るも死産。1745年(延享2)11月30日没。21才。法名「梅園院殿心操紹源大姉」。
前田吉徳妻① 生 元禄6年 (1693年)没 天明元年 (1781年) 1693年(元禄6)上坂喜信の娘として生まれる。吉徳に嫁ぎ、宗辰を儲ける。加賀騒動の際、他の側室により毒殺されそうになる。1781年(天明元)12月18日没。89才。法名「淨珠院殿德霖了清大姉」。
小出吉政妻① 生 不明没 寛永9年 (1632年) 伊東治明の娘。小出吉政に嫁ぎ、加藤貞泰妻、吉英、吉親、吉景、吉成、松平忠明妻の4男2女を儲ける。1632年(寛永9)7月3日没。法名「長春院殿天室紹仲大姉」。
小出吉政① 生 永禄8年 (1565年)没 慶長18年 (1613年) 和泉岸和田藩2代藩主。1565年(永禄8)秀政の子として生まれる。豊臣秀吉の従弟。秀吉に仕える。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは西軍に味方。丹後田辺城攻撃に参戦。戦後、弟秀家が東軍だったため、所領安堵。1613年(慶長18)2月29日没。49才。法名「雲龍院殿乹堂元公大禪定門」。
加藤泰恒妻① 生 不明没 天和2年 (1682年) 脇坂安政の娘。名は左牟。1676年(延宝4)2月加藤泰恒に嫁ぐ。泰恒との間に五郎八を儲ける。1682年(天和2)9月7日没。法名「普光院殿本覺自性大姉」。
最上義俊 生 慶長11年 (1606年)没 寛永8年 (1631年) 出羽山形藩3代藩主。1606年(慶長11)家親の子として生まれる。父の死により1617年(元和3)5月跡を継ぐ。最上騒動が起きたため、出羽山形藩57万石から近江大森藩1万石に大幅な減封となる。1631年(寛永8)11月22日。26才。法名「月照院殿華嶽英心大居士」。墓石はほとんど読めないが、「為華嶽英心」と「命日〇〇十一月廿二」が見える。
松平近周 生 寛保元年 (1741年)没 寛政5年 (1793年) 1741年(寛保元)近明の子として生まれる。1757年(宝暦7)8月将軍徳川家重に拝謁。父の隠居により1780年(安永9)8月跡を継ぐ。1793年(寛政5)8月22没。53才。法名「妙光院殿月窓圓定大居士」。
松平近明 生 正徳2年 (1712年)没 天明6年 (1786年) 1712年(正徳2)近郷の3男として生まれる。近方の養子となり、近方の死により1735年(享保20)7月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川吉宗に拝謁。1780年(安永9)8月隠居。1786年(天明6)5月12没。75才。法名「止靜院殿高節竹翁大居士」。
松平近方 生 元禄16年 (1703年)没 享保20年 (1735年) 1703年(元禄16)近則の長男として生まれる。近敏の養子となり、1723年(享保8)将軍徳川吉宗に拝謁。近敏の死により1724年(享保9)8月跡を継ぐ。1735年(享保20)4月28没。33才。法名「方廣院殿蕐岳嚴浄居士」。
松平近敏 生 元禄14年 (1701年)没 享保9年 (1724年) 1701年(元禄14)近任の長男として生まれる。松平近鎮の養子となり、1710年(宝永7)12月将軍徳川家宣に拝謁。近鎮の死により1716年(享保元)3月跡を継ぐ。1724年(享保9)5月14日没。28才。法名「瑞現院殿寂岸常照居士」。 寛政譜には法名「淨空」とあるも、台東区根岸の東源院(現在は廃寺)にあった位牌には「瑞現院殿寂岸常照大居士 享保九辰年五月十四日」とある。
長坂信次 生 天正12年 (1584年)没 正保3年 (1646年) 1584年(天正12)信宅の4男として生まれる。徳川家康に仕え、大坂の両陣に従う。1646年(正保3)9月13日稲富直賢と井上正継の口論に巻き込まれ、正継によって斬られる。63才。法名「一無宗心居士」。
長坂一正 生 天正10年 (1582年)没 正保4年 (1647年) 1582年(天正10)信宅の3男として生まれる。徳川秀忠に仕え1600年(慶長5)信州上田城攻めに従う。大坂冬の陣のときは松平重忠に属して戦い、夏の陣のときは伏見城を守る。1647年(正保4)5月22日没。66才。法名「山室劍空居士」。
植村政広 生 貞享2年 (1685年)没 享保10年 (1725年) 1685年(貞享2)政行の次男として生まれる。1688年(元禄元)11月将軍徳川綱吉に拝謁。後に兄政勝の養子となり、政勝の死により1707年(宝永4)8月跡を継ぐ。1725年(享保10)8月25日没。41才。法名「照光院殿廓譽紫雲圓月居士」。
植村政行 生 寛文2年 (1662年)没 貞享5年 (1688年) 1662年(寛文2)政春の子として生まれる。父の死により1671年(寛文11)7月跡を継ぐ。1688年(貞享5)6月3日没。27才。法名「 爽涼院殿風譽芳玄居士」。
本多忠直 生 宝暦8年 (1758年)没 天明8年 (1788年) 三河西端領 6代領主。1758年(宝暦8)忠栄の次男として生まれる。父の死により1778年(安永7)12月跡を継ぐ。1779年(安永8)4月将軍徳川家治に拝謁。1788年(天明8)1月26日没。31才。法名「巖縁院殿近誉淨還覺真大居士」。
本多忠敝 生 元禄10年 (1697年)没 延享2年 (1745年) 三河西端領 4代領主。1697年(元禄10)忠能の長男として生まれる。1711年(正徳元)12月将軍徳川家宣に拝謁。父の隠居により1731年(享保16)11月跡を継ぐ。1745年 (延享2)9月14日没。49才。法名「幽真院殿寂誉徹道了仙大居士」。
本多忠能 生 寛文12年 (1672年)没 延享元年 (1744年) 三河西端領 3代領主。1672年(寛文12)忠将の長男として生まれる。1680年(延宝8)閏8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の死により1692年(元禄5)12月跡を継ぐ。1731年(享保16)11月隠居。1744年(延享元)4月6日没。73才。法名「心玄院殿探誉勇岳淨威大居士」。
本多忠将 生 寛永3年 (1626年)没 元禄5年 (1692年) 三河西端領 2代領主。1626年(寛永3)忠相の長男として生まれる。1633年(寛永10)将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1671年(寛文11)12月跡を継ぐ。1692年(元禄5)11月11日没。67才。法名「本光院殿轉譽真入大居士」。
本多忠相 生 慶長4年 (1599年)没 天和2年 (1682年) 三河西端領初代領主。1599年(慶長4)康俊の次男として生まれる。1605年(慶長10)徳川秀忠に拝謁。1615年(元和元)大坂夏の陣に父とともに参戦。1671年(寛文11)12月隠居。1682年(天和2)2月26日没。84才。法名「照光院殿詠譽淨讃大居士」。
松本重太郎 生 天保15年 (1844年)没 大正2年 (1913年) 1844年(天保15)10月亀右衛門の次男として生まれる。明治の実業家で銀行や紡績会社、阪堺鉄道、南海鉄道を設立するのに尽力。1913年(大正2)6月20日没。法名「萬松院殿本覺雙軒大居士」。