牧野以成の墓碑
牧野以成
生 天明8年 (1788年)
没 天保4年 (1833年)
丹後田辺藩7代藩主。1788年(天明8)6月宣成の長男として生まれる。父の隠居により1804年(文化元)跡を継ぐ。1825年(文政8)11月隠居。1833年(天保4)8月24日没。46才。法名「崇樹院殿徳譽興英端雄仁山大居士」。
牧野宣成の墓碑
牧野宣成
生 明和元年 (1764年)
没 文化8年 (1811年)
丹後田辺藩6代藩主。1764年(明和元)惟成の5男として生まれる。父の死により1783年(天明3)9月跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家治に拝謁。1811年(文化8)3月19日没。48才。法名「松樹院殿仙譽貞幹宗如忠翁大居士」。
牧野親成の墓碑
牧野親成
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝5年 (1677年)
下総関宿藩2代藩主、丹後田辺藩初代藩主。1607年(慶長12)信成の次男として生まれる。徳川秀忠の小姓役を務め、父の隠居により跡を継ぐ。京都所司代を務める。1677年(延宝5)9月23日没。71才。法名「良園院殿方誉善朗哲三大禅定門」。
牧野信成の墓碑
牧野信成
生 天正6年 (1578年)
没 慶安3年 (1650年)
下総関宿藩初代藩主。1578年(天正6)康成の3男として生まれる。1592年(文禄元)江戸城造営の奉行を15才で務め徳川家康より言葉をかけられる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従う。1615年(元和元)大坂夏の陣では、大砲で大坂城の櫓を破壊する手柄をたてる。1650年(慶安3)4月11日没。73才。法名「知見院殿性誉哲心大禅定門」。
池田恒興①の墓碑
池田恒興①
生 天文5年 (1536年)
没 天正12年 (1584年)
1536年(天文5)恒利の子として生まれる。母は織田信長の乳母で、恒興も幼い頃より信長に仕える。桶狭間の戦い、姉川の戦いなどに従軍。信長没後は、豊臣秀吉に仕える。1584年(天正12)4月9日長久手の戦いのときに徳川家康と戦い討死。49才。法名「護国院殿雄岳宗英大禅定門」。
水野忠興妻の墓碑
水野忠興妻
生 不明
没 宝暦7年 (1757年)
1757年(宝暦7)7月11日没。法名「〇性院殿淨觀宗智大姉」。忠興妻は永井直期の娘とあるが、彼女の法名は芳壽院殿で1778年(安永7)4月に没しているので他の側室と思われる。
水野忠興の墓碑
水野忠興
生 寛延2年 (1749年)
没 宝暦13年 (1763年)
紀伊新宮藩6代藩主。忠昭の長男。1749年(寛延2)11月父の死により跡を継ぐ。同年12月将軍徳川家重に拝謁。1763年(宝暦13)6月28日没。27才。法名「本立院殿義道日成大居士」。
水野忠奇妻の墓碑
水野忠奇妻
生 不明
没 文化13年 (1816年)
早見氏。8代藩主範明の母。1816年(文化13)5月17日没。法名「蓮心院殿妙護日喜大姉」。
水野忠奇の墓碑
水野忠奇
生 寛延2年 (1749年)
没 文政5年 (1822年)
紀伊新宮藩7代藩主。1749年(寛延2)11月守鑑の次男として生まれる。忠実とも。水野忠興の養子となり跡を継ぐ。1763年(宝暦13)9月将軍徳川家治に拝謁。1822年(文政5)4月25日没。74才。法名「法心院殿永持日顕大居士」。
土方行忠の墓碑
土方行忠
生 享保17年 (1732年)
没 安永4年 (1775年)
1732年(享保17)行曹の子として生まれる。父の死により1759年(宝暦9)9月跡を継ぐ。同年10月将軍徳川家重に拝謁。1775年(安永4)5月13日没。44才。法名「日修」。
土方行曹の墓碑
土方行曹
生 正徳2年 (1712年)
没 宝暦9年 (1759年)
1712年(正徳2)保江の子として生まれる。父の死により1745年(延享2)5月跡を継ぐ。同年8月将軍徳川吉宗に拝謁。1759年(宝暦9)7月2日没。48才。法名「日椿」。
土方保江の墓碑
土方保江
生 天和3年 (1683年)
没 延享2年 (1745年)
1683年(天和3)雄賀の子として生まれる。父の隠居により1695年(元禄8)12月跡を継ぐ。1696年(元禄9)8月将軍徳川綱吉に拝謁。1745年(延享2)2月12日没。63才。法名「日長」。
土方雄賀の墓碑
土方雄賀
生 不明
没 正徳元年 (1711年)
雄次の3男。1659年(万治2)7月将軍徳川家綱に拝謁。父の遺領のうち2千石を賜う。1695年(元禄8)12月隠居。1711年(正徳元)4月14日没。法名「慈景」。
土方雄次の墓碑
土方雄次
生 慶長16年 (1611年)
没 延宝8年 (1680年)
陸奥窪田藩2代藩主。1611年(慶長16)雄重の長男として生まれる。1621年(元和7)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1629年(寛永6)2月跡を継ぐ。1679年(延宝7)11月隠居。1680年(延宝8)1月28日没。70才。法名「淨光院殿江月淨澄大居士」。
土方雄重の墓碑
土方雄重
生 文禄元年 (1592年)
没 寛永5年 (1628年)
陸奥窪田藩初代藩主。1592年(文禄元)雄久の次男として生まれる。父の死により1609年(慶長14)2月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1622年(元和8)9月加増移封により。陸奥窪田藩主となる。1628年(寛永5)12月29日没。37才。法名「雪江了寒大居士」。
土方雄久①の墓碑
土方雄久①
生 天文22年 (1553年)
没 慶長13年 (1608年)
下総多古藩初代藩主。1553年(天文22)信治の子として生まれる。織田信雄に仕え1字を賜り雄久と名乗る。その後、豊臣秀吉に仕える。1599年(慶長4)徳川家康の暗殺疑惑により改易。その後、家康に仕える。1604年(慶長9)下総多古藩主となる。1608年(慶長13)11月12日没。56才。法名「功運建忠大居士」。
松平康哉妻の墓碑
松平康哉妻
生 宝暦6年 (1756年)
没 安永6年 (1777年)
1756年(宝暦6)井伊直幸の娘として生まれる。世与姫。松平康哉に嫁ぐ。1777年(安永6)7月31日没。22才。法名「信源院殿輭誉蒙光貞温大姉」。
井伊直惟妻の墓碑
井伊直惟妻
生 不明
没 安永5年 (1776年)
堀部氏。直惟との間に大通寺真応妻、直幸の1男1女を儲ける。1776年(安永5)5月3日没。法名「壽慶院殿」。
井伊直幸妻(本覺院)の墓碑
井伊直幸妻(本覺院)
生 不明
没 安永6年 (1777年)
江見氏。直幸との間に瀬与姫(世与姫・勢与姫)の1女を儲ける。1777年(安永6)10月10日没。法名「本覺院殿慧空妙性大姉」。
上杉景勝①の墓碑
上杉景勝①
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治元)長尾政景の次男として生まれる。上杉謙信の養子となり、謙信死後相続争いで勝利して跡を継いだ。豊臣秀吉に従い、会津120万石を領す。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのとき、西軍に付いたため戦後出羽米沢30万石に移封。大坂の陣のときは徳川方として出陣。1623年(元和9)3月20日没。法名「覺上院殿法印権大僧都宗心法印」。廟内には謙信と景勝の石碑がある。(2枚目の写真)
秋元久朝の墓碑
秋元久朝
生 寛政4年 (1792年)
没 弘化4年 (1847年)
出羽山形藩3代藩主。1792年(寛政4)閏2月永朝の5男として生まれる。1839年(天保10)4月隠居。1847年(弘化4)10月19日没。56才。「享徳院殿哲明久朝大居士」。
秋元永朝妻の墓碑
秋元永朝妻
生 不明
没 文政6年 (1823年)
牧野貞長の娘で、初め本多忠粛に嫁ぎ忠粛没後に永朝に嫁ぐ。永朝との間に久朝を儲ける。1823年(文政6)11月29日没。「長壽院殿慧光妙照大姉」。
秋元永朝の墓碑
秋元永朝
生 元文3年 (1738年)
没 文化7年 (1810年)
出羽山形藩2代藩主。1738年(元文3)4月上田義当の4男として生まれる。1760年(宝暦10)2月秋元凉朝の養子となり凉朝の隠居に伴い跡を継ぐ。1810年(文化7)7月9日没。73才。法名「大隆院殿慈寛永朝大居士」。
小笠原秀政妻①の墓碑
小笠原秀政妻①
生 天正4年 (1576年)
没 慶長12年 (1607年)
1576年(天正4)3月徳川家康の長男松平信康と織田信長の長女徳姫の子として生まれる。名は福姫、登久姫。1589年(天正17)8月小笠原秀政に嫁ぎ、蜂須賀至鎮室(敬台院)、忠脩、忠真、細川忠利室(保寿院)、忠知、松平重直、忠慶、長俊の6男2女を儲ける。1607年(慶長12)10月18日夫の領地信濃国飯田で没。32才。法名「峯高院殿高月峰譽智廓大禅定尼」。
戸田忠能①の墓碑
戸田忠能①
生 天正14年 (1586年)
没 正保4年 (1647年)
1586年(天正14)三河生まれ。父は尊次。1598年(慶長3)13才のとき徳川家康に拝謁。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに父とともに従う。大坂冬の陣では2代将軍秀忠に従い、翌年の夏の陣では家康10男頼宣に従う。1647年(正保4)1月3日没。62才。法名「道林寺殿一機全通大居士」。
稲富祐直①の墓碑
稲富祐直①
生 天文21年 (1552年)
没 慶長16年 (1611年)
1552年(天文21)直秀の子として生まれる。鉄砲の名手で稲富流砲術として有名。一色氏に仕え、のち細川忠興に仕える。1600年(慶長5)忠興妻ガラシャの警備をするが、ガラシャが自害すると逐電。忠興は激怒するも徳川家康が宥め、家康や家康4男松平忠吉に仕える。1611年(慶長16)2月6日没。法名「庸珠院殿泰譽榮閑一無居士」。
本山彦一の墓碑
本山彦一
生 嘉永6年 (1853年)
没 昭和7年 (1932年)
1853年(嘉永6)8月熊本藩士本山四郎作の長男として生まれる。1854年(元治元)跡を継ぐ。明治になると実業家として活躍。大阪毎日新聞社に相談役として就任。社長の原敬が内務大臣に就任すると後任として社長となる。大阪毎日新聞社を全国紙まで発展させ、現在の毎日新聞の祖となる。1932年(昭和7)12月30日没。80才。法名「光月院雪操松陰大居士」。
馬場昌房の墓碑
馬場昌房
生 不明
没 不明
信房の長男。信忠とも。父が討死した後に跡を継ぐ。1582年(天正10)信濃深志城で討死したとも、信濃牧之島城で討死したともいう。法名「蓮華院照山慈源大居士」。
馬場信房の墓碑
馬場信房
生 永正11年 (1514年)
没 天正3年 (1575年)
教来石信保の子。1514年(永正11)生まれ。美濃守。信春とも。武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕える。1572年(元亀3)三方原の戦いでは徳川家康を追い詰める。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いのとき討死。62才。法名「信翁乾忠居士」。
水野忠義の墓碑
水野忠義
生 寛政4年 (1792年)
没 天保13年 (1842年)
駿河沼津藩3代藩主。1792年(寛政4)9月忠成の3男として生まれる。1834年(天保5)の父の死により跡を継ぐ。1842年(天保13)1月19日没。51才。法名「共徳院殿寛誉泰安義山大居士」。
水野忠友の墓碑
水野忠友
生 享保16年 (1731年)
没 享和2年 (1802年)
駿河沼津藩初代藩主。1731年(享保16)2月忠穀の長男として生まれる。田沼意次のもと老中まで出世する。しかし意次失脚により免職。その後、西丸老中となる。1802年(享和2)9月19日没。72才。法名「修徳院殿譲譽興仁懿翁大居士」。
水野忠武の墓碑
水野忠武
生 文政7年 (1824年)
没 天保15年 (1844年)
駿河沼津藩4代藩主。1824年(文政7)7月忠義の次男として生まれる。1842年(天保13)父の死により家督を継ぐ。1844年(天保15)7月10日没。21才。法名「恒徳院殿道誉赫然曜武大居士」。
水野忠成の墓碑
水野忠成
生 宝暦12年 (1762年)
没 天保5年 (1834年)
駿河沼津藩2代藩主。1762年(宝暦12)12月岡野知暁の次男として生まれる。1778年(安永7)水野忠隣の末期養子となる。1785年(天明5)水野忠友の養子となり、忠友の死後跡を継ぐ。将軍徳川家斉のもと老中首座となり、賄賂政治を行う。1834年(天保5)2月28日没。73才。法名「巍徳院殿光譽成榮融鑑大居士」。
有馬直純①の墓碑
有馬直純①
生 天正14年 (1586年)
没 寛永18年 (1641年)
1586年(天正14)晴信の長男として生まれる。1612年(慶長17)に父が岡本大八事件によって死罪となると、直純には罪が及ばず跡を継ぐ。1614年(慶長19)7月に日向延岡に転封。1637年(寛永14)旧領で起こった島原の乱に参戦。1641年(寛永18)4月25日没。56才。法名「松園院殿光山宗和大居士」。
米倉永時の墓碑
米倉永時
生 不明
没 寛永元年 (1624年)
信継の長男。家康に仕え関ヶ原の戦いに従う。大久保長安の不正を調べるため佐渡島に赴く。1624年(寛永元)2月2日没。55才または56才。法名「大虚院殿天誉道普居士」。
米倉信継の墓碑
米倉信継
生 天文17年 (1548年)
没 寛永13年 (1636年)
1548年(天文17)宗継の次男として生まれる。兄忠継とともに家康に仕える。兄が没したとき、養子となり跡を継ぐ。関ヶ原の戦い、大坂の両陣に参戦。1636年(寛永13)4月8日没。89才。法名「米倉院殿無常道心居士」。
米倉忠継の墓碑
米倉忠継
生 天文2年 (1533年)
没 天正19年 (1591年)
1533年(天文2)宗継の長男として生まれる。武田家滅亡後、徳川家康の家臣となる。1585年(天正13)信州上田城攻めに参戦。1591年(天正19)4月20日没。59才。法名「放光院殿陵山殊元居士」。
米倉宗継の墓碑
米倉宗継
生 不明
没 天正3年 (1575年)
武田信玄、勝頼に仕える。1552年(天文21)8月竹束を使い苅谷原城攻めを行う。1575年(天正3)5月21日長篠の戦いで討死。
土屋盛直の墓碑
土屋盛直
生 明和5年 (1768年)
没 寛政5年 (1793年)
1768年(明和5)渡邊寛綱の次男として生まれる。土屋匡直の養子となり、匡直の隠居により1793年(寛政5)4月跡を継ぐ。1793年(寛政5)8月4日没。26才。法名「正○院殿了道宗直居士」。
土屋易直の墓碑
土屋易直
生 享保10年 (1725年)
没 明和5年 (1768年)
1725年(享保10)亮直の次男として生まれる。倫直の養子となり、倫直の死により1740年(元文5)7月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。勤務を怠ることが多く出仕をめられるものち赦される。1768年(明和5)1月2日没。44才。法名「紹得院殿體然元空居士」。
土屋倫直の墓碑
土屋倫直
生 元禄15年 (1702年)
没 元文5年 (1740年)
1702年(元禄15)喬直の3男として生まれる。兄安直の養子となり、安直の死により1737年(元文2)11月跡を継ぐ。同月将軍徳川吉宗に拝謁。1740年(元文5)4月9日没。39才。法名「普光院殿本照了然居士」。
土屋安直の墓碑
土屋安直
生 元禄12年 (1699年)
没 元文2年 (1737年)
1699年(元禄12)喬直の長男として生まれる。1710年(宝永7)9月将軍徳川家宣に拝謁。父の死により1725年(享保10)11月跡を継ぐ。1737年(元文2)8月1日没。39才。法名「嶺雲院殿蘆淵以白居士」。
土屋喬直の墓碑
土屋喬直
生 寛文6年 (1666年)
没 享保10年 (1725年)
1666年(寛文6)利直の3男として生まれる。幕府の寄合となる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1725年(享保10)8月23日没。60才。法名「鐡心院殿禪閑義透居士」。
土屋利直の墓碑
土屋利直
生 慶長12年 (1607年)
没 延宝3年 (1675年)
上総久留里藩2代藩主。1607年(慶長12)忠直の長男として生まれる。1612年(慶長17)遺領を継ぎ、徳川家康に拝謁。大坂の陣のときには箱根を警備。1675年(延宝3)閏4月24日没。69才。法名「普乾院殿俊林道英大居士」。
土屋忠直①の墓碑
土屋忠直①
生 天正6年 (1578年)
没 慶長17年 (1612年)
上総久留里藩初代藩主。1578年(天正6)昌恒の長男として生まれる。父は武田家の家臣で武田家滅亡の時に殉じた。忠直は、母に連れられて駿河国に逃れ清見寺にて成長した。1588年(天正16)徳川家康が鷹狩のとき清見寺に立寄ったときに召される。翌年より家康3男秀忠の近習として仕える。1600年(慶長5)上田城攻めに従う。1602年(慶長7)上総久留里で2万石を与えらる。1612年(慶長17)3月24日没。35才。法名「圓覚寺殿琴窓淨閑大居士」。
徳川秀忠妻①の墓碑
徳川秀忠妻①
生 不明
没 寛永3年 (1626年)
浅井長政の3女として近江国小谷に生まれる。母は織田信長の妹お市の方。お江、小督、お江与ともいい崇源院は諡号。姉に淀殿、常高院がいる。豊臣秀吉の意向により佐治一成に嫁ぐ。一成が小牧長久手の戦いのときに秀吉に敵対したため、離縁。その後、秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁ぎ、女子(豊臣完子)を儲ける。秀勝が病没すると、徳川秀忠に再婚。秀忠との間に、千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の2男5女を儲ける。1626年(寛永3)9月15日没。法名「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。
勝田典愛妻の墓碑
勝田典愛妻
生 不明
没 正徳5年 (1715年)
矢島治太夫の長女。典愛との間に愛通の1男を儲ける。1715年(正徳5)5月14日没。法名「貞鏡院殿照誉法忍大姉」。墓石側面には「矢嶋氏治太夫藤原安貞嫡女」とある。
松平忠啓妻の墓碑
松平忠啓妻
生 宝暦5年 (1755年)
没 安永8年 (1779年)
1755年(宝暦5)2月28日毛利重就の6女として生まれる。名は澄姫。1775年(安永4)6月3日忍城主松平忠啓に嫁ぐ。忠啓との間に、男子1人を儲ける。1779年(安永8)6月29日没。25才。法名「蘭蕙院殿孤芳智秀大姉」。
佐世広長妻の墓碑
佐世広長妻
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
毛利就泰の長女。佐世広長に嫁ぐ。広長との間に子は出来ず。1712年(正徳2)2月27日没。法名「桂光院殿昌顔自久大姉」。夫広長は1714年(正徳4)に桂光院(山口市阿東地福上)で彼女の追善菩提を弔っている。
佐世広玄妻の墓碑
佐世広玄妻
生 不明
没 宝暦3年 (1753年)
詳細不明なるも益田就高の娘と思われる。1753年(宝暦3)1月21日没。法名「眞〇院節操妙義大姉」。