溝口宣勝妻の墓碑
溝口宣勝妻
生 不明
没 寛永18年 (1641年)
 堀秀政の娘。溝口宣勝に嫁ぎ、宣直、宣秋、宣俊、宣知、溝口政勝妻、長谷川正尚妻、徳永昌勝妻の3男3女を儲ける。1641年(寛永18)10月29日没。法名「長壽院殿寶屋慶延大姉」。墓石は1628年(寛永5)11月21日建立の逆修塔。
溝口宣直の墓碑
溝口宣直
生 慶長10年 (1605年)
没 延宝4年 (1676年)
越後新発田藩3代藩主。1605年(慶長10)宣勝の長男として生まれる。1611年(慶長16)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1628年(寛永5)跡を継ぐ。1672年(寛文12)9月隠居。1676年(延宝4)11月22日没。72才。法名「寒光院殿禅林味歇大居士」。
溝口政勝の墓碑
溝口政勝
生 慶長13年 (1608年)
没 寛文10年 (1670年)
越後沢海藩2代藩主。1608年(慶長13)善勝の長男として生まれる。1622年(元和8)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1634年(寛永11)跡を継ぐ。その際、弟2人に4千石を分知したため沢海藩は1万石となる。1670年(寛文10)1月28日没。63才。法名「清香院殿恵観浄智大居士」。
溝口重雄の墓碑
溝口重雄
生 寛永10年 (1633年)
没 宝永5年 (1708年)
越後新発田藩4代藩主。1633年(寛永10)宣直の長男として生まれる。1640年(寛永17)10月将軍徳川家光に拝謁。父の隠居により1672年(寛文12)9月跡を継ぐ。1706年(宝永3)7月隠居。1708年(宝永5)9月4日没。76才。法名「悠山院殿勝林宗慧大居士」。
石田三成の墓碑
石田三成
生 永禄3年 (1560年)
没 慶長5年 (1600年)
1560年(永禄3)正継の3男として生まれる。近江長浜城主時代の豊臣秀吉に見出され仕える。文官奉行として頭角を現し豊臣政権下で五奉行となる。1600年(慶長5)9月関ヶ原の戦いのときは、徳川家康と戦うも敗れる。戦後、捕縛され同年10月1日六条河原で斬首となる。41才。法名「江東院正軸因公大禅定門」。墓石は1590年(天正18)3月18日逆修として建てられ法名「宗應」とある。
秋月種弘の墓碑
秋月種弘
生 貞享4年 (1687年)
没 宝暦3年 (1753年)
日向高鍋藩5代藩主。1687年(貞享4)11月種政の長男として生まれる。1700年(元禄13)8月将軍徳川綱吉に拝謁。父の隠居により1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。1753年(宝暦3)7月21日没。67才。法名「瑞應院殿恵山宗定大居士」。
秋月種弘妻の墓碑
秋月種弘妻
生 不明
没 宝暦6年 (1756年)
柴垣氏の出にて、秋月種弘の妻となる。種弘との間に種美を儲ける。1756年(宝暦6)8月26日没。法名「凉照院殿桂輪貞香大姉」。墓石は息子佐渡守種美の建立による。
秋月種恒の墓碑
秋月種恒
生 承応3年 (1654年)
没 寛文11年 (1671年)
1654年(承応3)種信の長男として生まれる。1669年(寛文9)6月将軍徳川家綱に拝謁。父に先立ちて1671年(寛文11)10月10日没。18才。法名「松嶽院殿温室宗良居士」。
秋月種政の墓碑
秋月種政
生 万治元年 (1658年)
没 正徳6年 (1716年)
日向高鍋藩4代藩主。1658年(万治元)5月種信の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1689年(元禄2)2月跡を継ぐ。1710年(宝永7)閏8月隠居。1716年(正徳6)閏2月26日没。59才。法名「天祐院殿慶嶽宗善公大居士」。
秋月種政妻の墓碑
秋月種政妻
生 不明
没 享保19年 (1734年)
松浦棟の娘。秋月種政に嫁ぎ、種弘、脇坂安清妻、女子、女子の1男3女を儲ける。1734年(享保19)4月14日没。法名「正眼院殿心體了悟尼大姉」。墓石は息子長門守種弘の建立による。
荒尾隆重の墓碑
荒尾隆重
生 不明
没 元和3年 (1617年)
善次の3男。池田輝政の家臣。輝政没後は兄の成房とともに忠継の家老職となる。兄の成房は但馬守、隆重は志摩守を代々称した。1614年(慶長19)大坂の陣に出陣。1617年(元和3)7月11日没。法名「桂林院殿月峯浄心大居士」。
三浦高連の墓碑
三浦高連
生 不明
没 慶長16年 (1611年)
初代五郎右衛門。今川氏真に仕え、のちに兄安久とともに井伊直政に仕える。長久手の戦いや関ヶ原の戦いに従う。直政の娘が德川家康4男松平忠吉に嫁いだときに従い、忠吉の家臣となる。忠吉没後は井伊家に戻る。1611年(慶長16)7月29日没。法名「安祥院殿臺覚浄蓮居士」。墓石は2代目五郎右衛門高則の建立による。法名「清正院殿花覚妙蓮居士」もあるも高連の妻と思われる。墓石は為父母とあること、花や妙は女性の法名にあるのが一般的であることから妙蓮居士は妙蓮大姉の誤記と推察。
丹羽光重の墓碑
丹羽光重
生 元和7年 (1621年)
没 元禄14年 (1701年)
陸奥二本松藩初代藩主。1621年(元和7)12月長重の3男として生まれる。母は織田信長の娘。1627年(寛永4)将軍徳川秀忠に拝謁。父の死により1637年(寛永14)4月跡を継ぐ。1643年(寛永20)7月陸奥二本松藩へ移封。1679年(延宝7)4月隠居。1701年(元禄14)4月11日没。81才。法名「慈明院殿補闕玉峰大居士」。
丹羽長次の墓碑
丹羽長次
生 寛永20年 (1643年)
没 元禄11年 (1698年)
陸奥二本松藩2代藩主。1643年(寛永20)光重の長男として生まれる。1653年(承応2)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1679年(延宝7)4月跡を継ぐ。1698年(元禄11)6月26日没。56才。法名「興國院殿節山麟功大居士」。
丹羽長重の墓碑
丹羽長重
生 元亀2年 (1571年)
没 慶長5年 (1600年)
陸奥白河藩初代藩主。1571年(元亀2)長秀の長男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦。父の死後跡を継ぐが、相次ぐ不祥事により123万石から4万石まで大幅な減封となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍の前田利長と戦い、戦後領地没収となる。のち大名に復帰、晩年は陸奥白河藩10万700石を領す。1637年(寛永14)閏3月6日没。67才。法名「大隣寺殿桀俊浄英大居士」。
久野宗俊の墓碑
久野宗俊
生 寛永20年 (1643年)
没 宝永3年 (1706年)
紀州藩家老久野家3代当主。1643年(寛永20)宗晴の子として生まれる。父の死により1649年(慶安2)10月跡を継ぐ。1654年(承応3)田丸城代となる。1706年(宝永3)4月27日没。64才。法名「常立院殿信譽大圓大居士」。
久野宗晴の墓碑
久野宗晴
生 慶長14年 (1609年)
没 慶安2年 (1649年)
紀州藩家老久野家2代当主。1609年(慶長14)宗成の子として生まれる。紀州藩主徳川頼宣に仕える。父の死により1626年(寛永3)跡を継ぎ田丸城代となる。1649年(慶安2)6月1日没。41才。法名「長照院殿月峯宗閑居士」。
久野昌純の墓碑
久野昌純
生 天明7年 (1787年)
没 文政6年 (1823年)
紀州藩家老久野家7代当主。1787年(天明7)輝純の子として生まれる。父の死により1811年(文化8)2月跡を継ぐ。1823年(文政6)7月24日没。37才。法名「光徳院殿仁誉本空禮純大居士」。
久野輝純の墓碑
久野輝純
生 延享2年 (1745年)
没 文化8年 (1811年)
紀州藩家老久野家6代当主。1745年(延享2)俊純の子として生まれる。父の死により1773年(安永2)跡を継ぐ。1811年(文化8)1月20日没。67才。法名「久近院殿賢譽緑山密道大居士」。
伊奈忠常の墓碑
伊奈忠常
生 慶安元年 (1648年)
没 延宝8年 (1680年)
1648年(慶安元)忠克の長男として生まれる。父の死により1665年(寛文5)12月跡を継ぐ。翌年3月将軍徳川家綱に拝謁。1680年(延宝8)1月4日没。33才。法名「法性院殿空譽徹真大居士」。
伊奈忠篤の墓碑
伊奈忠篤
生 寛文9年 (1669年)
没 元禄10年 (1697年)
1669年(寛文9)忠常の長男として生まれる。1679年(延宝7)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1680年(延宝8)9月関東代官を継ぐ。1697年(元禄10)10月19日没。29才。法名「法玄院殿本譽覺真大居士」。
伊奈忠順の墓碑
伊奈忠順
生 不明
没 正徳2年 (1712年)
忠常の次男。はじめ稲葉正篤の養子となる。兄忠篤の子が早世したため養子となり跡を継ぐ。1698年(元禄11)江戸永代橋を創架。1707年(宝永4)富士山噴火のときは災害対策の最高責任者として活躍。1712年(正徳2)2月29日没。法名「嶺頂院殿松譽哲翁大居士」。
内藤信成の墓碑
内藤信成
生 天文14年 (1545年)
没 慶長17年 (1612年)
1545年(天文14)嶋田景信の次男として生まれる。徳川家康の異母弟との説もある。内藤清長の養子となり、家康に仕える。丸根砦攻め、三河一向一揆、掛川城攻め、三方原の戦い、長篠の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)近江長浜城主となり4万石を領す。1612年(慶長17)7月24日没。68才。法名「法善寺殿陽竹宗賢大居士」。
内藤信正の墓碑
内藤信正
生 永禄11年 (1568年)
没 寛永3年 (1626年)
摂津高槻藩主。1568年(永禄11)信成の長男として生まれる。徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原合戦、九戸一揆、関ヶ原の戦いに参戦。1615年(元和元)閏6月摂津高槻城主となり5万石を領す。1626年(寛永3)4月28日没。59才。法名「光徳院殿善壽宗覚大禅定門」。
内藤信正妻の墓碑
内藤信正妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
石川康通の娘。内藤信正に嫁ぎ、信照を儲ける。1660年(万治3)3月24日没。法名「雲照院立譽宗建大信女」。墓石に「奥州高野郡棚倉城主内藤豊前守源朝臣信照 御袋方逆修建立之」とあり逆修塔である。没年月日も刻まれてるが、この部分のみ没後に刻まれたと思われる。
内藤信照の墓碑
内藤信照
生 文禄元年 (1592年)
没 寛文5年 (1665年)
陸奥棚倉藩初代藩主。1592年(文禄元)信正の長男として生まれる。多病ゆえ弟信武が嫡子となるも、1619年(元和5)信武が没したため嫡子となる。1626年(寛永3)跡を継ぐ。1627年(寛永4)陸奥棚倉藩に移封。1665年(寛文5)1月19日没。74才。法名「清淨院長岳良榮哲春大禅定門」。多病とあるも長生きをしている。
内藤信良の墓碑
内藤信良
生 寛永2年 (1625年)
没 元禄8年 (1695年)
陸奥棚倉藩2代藩主。1625年(寛永2)信照の長男として生まれる。1633年(寛永10)3月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1665年(寛文5)跡を継ぐ。1674年(延宝2)11月隠居。1695年(元禄8)7月23日没。71才。法名「寶岸院殿静挙供安大禅定門」。
大岡忠愛の墓碑
大岡忠愛
生 文化4年 (1807年)
没 安政4年 (1857年)
 三河西大平藩6代藩主。1807年(文化4)忠移の長男として生まれる。1828年(文政11)父の隠居により跡を継ぐ。1857年(安政4)10月5日没。51才。法名「徳光院殿永譽忠愛巍山大居士」。墓石側面には1857年(安政4)8月28日とあるので没したのが8月28日、後継ぎ(弟が相続)の関係で幕府に届けた没日が10月5日と思われる。
宍戸八助の墓碑
宍戸八助
生 宝永5年 (1708年)
没 正徳5年 (1715年)
1708年(宝永5)1月広隆の次男として生まれる。1715年(正徳5)11月22日没。8才。法名「梅梢院殿雲庭自白禅童子」。
宍戸就年の墓碑
宍戸就年
生 寛延2年 (1749年)
没 文政9年 (1826年)
1749年(寛延2)広周の次男として生まれる。父の藩内の失脚により1761年(宝暦11)跡を継ぐ。主君毛利重就より1字を賜い就年と名乗る。1826年(文政9)1月2日没。78才。法名「齢運院殿仁翁良壽大居士」。
宍戸就年妻の墓碑
宍戸就年妻
生 不明
没 文化12年 (1815年)
星坂正為の娘で矢野紀以の養女として宍戸就年に嫁ぐ。就年との間に、親朝を儲ける。1815年(文化12)2月17日没。法名「桺線院殿天室淨錦大姉」。墓石に「防州三尾宍戸美濃就年室」とある。
宍戸就延の墓碑
宍戸就延
生 寛永20年 (1643年)
没 享保7年 (1722年)
1643年(寛永20)2月熊谷元実の3男として生まれる。宍戸家を継いだ実兄宍戸就附が嫡男なく没したため、その跡を継ぐ。1722年(享保7)7月16日没。80才。法名「徳光院殿空峯心等大居士」。
宍戸就延妻の墓碑
宍戸就延妻
生 不明
没 正徳4年 (1714年)
毛利就嘉の娘。宍戸就延に嫁ぎ、弥三郎、福原広頼妻、宍戸広隆妻の1男2女を儲ける。1714年(正徳4)3月26日没。法名「廣徳院殿鏡月慈光大姉」。
宍戸就附の墓碑
宍戸就附
生 寛永12年 (1635年)
没 延宝4年 (1676年)
1635年(寛永12)5月熊谷元実の長男として生まれる。伯父宍戸就尚が没したときその娘を娶り跡を継ぐ。毛利一門として家老職。毛利秀就、綱広に仕える。1676年(延宝4)12月14日没。42才。法名「立徳院殿外翁宗格居士」。
宍戸就附妻の墓碑
宍戸就附妻
生 不明
没 寛文5年 (1665年)
宍戸就尚の娘。宍戸(熊谷)就附を婿養子として結婚。就附との間に、毛利定道妻、益田就高妻、毛利広矩妻、毛利就久妻の4女を儲ける。1665年(寛文5)8月14日没。法名「心鏡院殿妙照月清大姉」。
宍戸広周の墓碑
宍戸広周
生 享保5年 (1720年)
没 安永元年 (1772年)
1720年(享保5)熊谷元貞の次男として生まれる。宍戸広隆が没すると養子となり跡を継ぐ。藩主毛利宗広より1字を賜い、広満(のち広周)と名乗る。1772年(安永元)9月2日没。53才。法名「国樹院殿楨郷枯淡大居士」。墓石は1780年(安永9)9月の建立による。
宍戸広周妻の墓碑
宍戸広周妻
生 不明
没 享和元年 (1801年)
毛利元連の娘。宍戸広周に嫁ぎ、四郎、志道就良妻、内藤栄勝妻、女子の1男3女を儲ける。1801年(享和元)9月16日没。法名「恭性院殿永真本敬大姉」。
宍戸広隆の墓碑
宍戸広隆
生 貞享3年 (1686年)
没 元文元年 (1736年)
1686年(貞享3)熊谷就実の長男として生まれる。藩主毛利吉広より1字を賜り広隆と名乗る。1722年(享保7)叔父宍戸就延の死により跡を継ぐ。1736年(元文元)11月5日没。51才。法名「天心院殿義翁尊孝大居士」。墓石は養子宍戸広周の建立による。
宍戸広隆妻の墓碑
宍戸広隆妻
生 不明
没 享保15年 (1730年)
宍戸就延の次女。宍戸広隆に嫁ぎ、婿とする。広隆との間に、孫四郎、八助、竹次郎、女子の3男1女を儲ける。1730年(享保15)12月12日没。法名「恵光院殿寒月智照大姉」。
宍戸親朝の墓碑
宍戸親朝
生 安永元年 (1772年)
没 天保2年 (1831年)
1772年(安永元)就年の長男として生まれる。主君毛利治親より1字を賜り親朝と名乗る。1811年(文化8)藩主毛利斉熙に従い将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1818年(文政元)跡を継ぐ。1831年(天保2)8月24日没。60才。法名「大隆院殿孝運常觀大居士」。
宍戸親朝妻の墓碑
宍戸親朝妻
生 不明
没 文政5年 (1822年)
梅園実縄の娘で毛利就任の養女として宍戸親朝に嫁ぐ。親朝との間に、元礼を儲ける。1822年(文政5)9月4日没。法名「瓊琳院殿寶室貞盤大姉」。墓石に「宍戸主計親朝室」とある。
山名時義の墓碑
山名時義
生 貞和2年 (1346年)
没 康応元年 (1389年)
1346年(貞和2)山名時氏の5男として生まれる。南朝方に味方をしていたが、幕府方に帰参。1363年(貞治2)将軍足利義詮に拝謁。1376年(永和2)兄師義の死により家督を継ぐ。但馬守護のほか備後守護も担い11ヶ国を領有、「六分一殿」と称される。1389年(康応元)5月4日没。44才。法名「圓通寺殿大等宗均大禅定門」。墓石は1404年(応永11)5月4日の建立による。
山浦清麿の墓碑
山浦清麿
生 文化10年 (1813年)
没 嘉永7年 (1854年)
1813年(文化10)3月昌友の次男として生まれる。源清麿とも。信州上田藩主真田幸貫の命により江戸に行き、刀工として活躍。水心子正秀、大慶直胤とともに「江戸三作」と呼ばれる。1854年(嘉永7)11月14日自殺。42才。法名「大道院義心居士」。
徳川斉彊の墓碑
徳川斉彊
生 文政3年 (1820年)
没 嘉永2年 (1849年)
紀伊和歌山藩12代藩主。 1820年(文政3)4月家斉の21男として生まれる。1827年(文政10)清水徳川家を継ぐ。1834年(天保5) 元服のとき将軍で父でもある家斉から1字を賜り斉彊と名乗る。1846年(弘化3)和歌山藩主で兄でもある斉順が死去すると紀伊徳川家を継ぐ。1849年(嘉永2)3月1日没。30才。法名「憲章院殿至徳道光大居士」。
徳川斉順の墓碑
徳川斉順
生 享和元年 (1801年)
没 弘化3年 (1846年)
紀伊和歌山藩11代藩主。 1801年(享和元)9月家斉の7男として生まれる。1805年(文化2)11月清水徳川家を継ぐ。1815年(文化12)2月元服のとき父で将軍の家斉から1字を賜り斉順と名乗る。1824年(文政7)6月和歌山藩主となる。1846年(弘化3)5月8日没。46才。法名「顯龍院殿恭譲圓輝大居士」。
徳川治貞の墓碑
徳川治貞
生 享保13年 (1728年)
没 寛政元年 (1789年)
紀伊和歌山藩9代藩主。 1728年(享保13)2月宗直の次男として生まれる。1741年(寛保元)松平頼邑の養子となる。1775年(安永4)紀伊和歌山藩8代藩主徳川重倫が隠居すると養子となり跡を継ぐ。10代将軍徳川家治より1字を賜い治貞と名乗る。1789年(寛政元)10月26日没。62才。法名「香嚴院殿心齋圓通大居士」。
徳川重倫の墓碑
徳川重倫
生 延享3年 (1746年)
没 文政12年 (1829年)
紀伊和歌山藩8代藩主。 1746年(延享3)2月宗将の次男として生まれる。 1755年(宝暦5)11月元服のとき将軍徳川家重より1字を賜り重倫と名乗る。1765年(明和2)20才で藩主になり30才で隠居。隠居生活を54年以上送り、1829年(文政12)6月2日没。84才。法名「観自在院殿太眞大居士」。
戸沢正庸の墓碑
戸沢正庸
生 寛文4年 (1664年)
没 元文5年 (1740年)
出羽新庄藩3代藩主。1664年(寛文4)5月戸沢家重臣楢岡友清の4男として生まれる。1686年(貞享3)5月藩主戸沢正誠の養子となる。同年6月将軍徳川綱吉に拝謁。正誠の隠居により1710年(宝永7)2月跡を継ぐ。1740年(元文5)12月27日没。77才。法名「源徳院殿龐山常隆大居士」。
有馬豊氏の墓碑
有馬豊氏
生 永禄12年 (1569年)
没 寛永19年 (1642年)
筑後久留米藩初代藩主。1569年(永禄12)則頼の次男として生まれる。豊臣秀吉に仕え遠江横須賀で3万石を領す。のち徳川家康に仕え家康養女を妻とする。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参戦。大坂の両陣にも参戦。1620年(元和6)閏12月筑後久留米にて21万石を与えられる。1642年(寛永19)閏9月30日没。74才。法名「春林院殿如夢道長大居士」。
本多忠勝の墓碑
本多忠勝
生 天文17年 (1548年)
没 慶長15年 (1610年)
1548年(天文17)2月忠高の長男として生まれる。幼い時より徳川家康に仕え、大高城兵糧入れ、三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどに従う。徳川四天王の1人。1610年(慶長15)10月18日没。63才。法名「西岸寺殿長譽良信居士」。
本多忠勝妻の墓碑
本多忠勝妻
生 不明
没 慶長18年 (1613年)
松平玄鉄(阿知和右衛門玄鉄)の娘。1569年(永禄12)10月徳川家康が媒酌人となり本多忠勝に嫁ぐ。忠勝との間に小松姫(真田信之室)、奥平信昌室、忠政、忠朝、本多信之室の2男3女を儲けた。1613年(慶長18)9月14日没。法名「見性院殿蓮譽光信大姉」。
本多忠政の墓碑
本多忠政
生 天正3年 (1575年)
没 寛永8年 (1631年)
1575年(天正3)忠勝の長男として生まれる。1590年(天正18)小田原合戦のときは父忠勝に従い岩槻城を攻めた。そのとき敵の妹尾下総守を討取る。この功績で秀吉から腰刀を賜った。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に属して上田城攻めに参戦。大坂の両陣にも参戦。1631年(寛永8)8月10日没。57才。法名「大乾院殿秋譽長岳道悟大居士」。
本多忠盈の墓碑
本多忠盈
生 享保17年 (1732年)
没 明和4年 (1767年)
石見浜田藩2代藩主。1732年(享保17)真田信弘の6男として生まれる。1759年(宝暦9)7月本多忠敞の養子となり、その娘を妻とする。同年閏8月跡を継ぎ、将軍徳川家重に拝謁。1767年(明和4)閏9月16日没。36才。法名「元徳院殿仁譽智興永崇大居士」。
本多政信の墓碑
本多政信
生 寛永11年 (1634年)
没 寛文2年 (1662年)
1634年(寛永11)政朝の3男として生まれる。本多政勝の養子となり、1644年(正保元)11月将軍徳川家光に拝謁。1653年(承応2)10月大和国内にて1万石を領す。1662年(寛文2)4月20日没。29才。法名「覺了院殿英真哲翁居士」。
松平乗寿の墓碑
松平乗寿
生 慶長5年 (1600年)
没 承応3年 (1654年)
1600年(慶長5)生まれ。大給松平家乗の長男。1614年(慶長19)父の死により遺領を継ぐ。のち徳川家康、秀忠に拝謁。大坂の陣のときには、稲葉正成、遠藤慶隆、稲葉方通、平岡頼資、妻木頼忠たちの美濃衆の組頭となり出陣。美濃国岩村2万余石から遠江国浜松3万6千石、さらに上野国館林6万余石と加増を重ねた。1654年(承応3)1月26日没。55才。法名「源高院殿忠蓮社深譽道徹居士」。
松平乗寿妻の墓碑
松平乗寿妻
生 不明
没 慶安4年 (1651年)
赤城氏。松平乗寿の側室となり、乗久、石川乗政の2男を儲ける。1651年(慶安4)1月27日没。法名「了泉院殿春誉雲覚貞法大信女」。越前国丹生郡朝日村志、成田市史等では了仙院殿」としている。墓石は息子石川乗政の建立による。
松平信之の墓碑
松平信之
生 寛永8年 (1631年)
没 貞享3年 (1686年)
下総古河藩初代藩主。1631年(寛永8)忠国の次男として生まれる。1649年(慶安2)10月将軍徳川家光に拝謁。父の死により1659年(万治2)4月播磨明石藩主を継ぐ。1679年(延宝7)大和郡山藩に移封。1685年(貞享2)老中となり、下総古河藩へ加増移封。1686年(貞享3)7月22日没。56才。法名「長昌院殿窓譽江月圓榮大居士」。
松平忠良妻(圓明院)の墓碑
松平忠良妻(圓明院)
生 不明
没 元和6年 (1620年)
酒井家次の娘。松平忠良に嫁ぎ、金田房能妻、黒田忠之妻、松平直政妻、佐久間勝友妻、忠憲の1男4女を儲ける。1620年(元和6)4月9日没。法名「圓明院殿花岳貞心大禅定尼」。
松平忠重の墓碑
松平忠重
生 不明
没 寛永2年 (1625年)
深溝松平家忠の4男。三郎兵衛。高野山の墓石より下総国生まれ、とあるので父家忠が下総国を治め始めた文禄期以降に生まれたことになる。紀伊徳川頼宣に仕える。1625年(寛永2)6月3日没。法名「金邦源真居士」。妻は諏訪頼水の娘。
松平忠重妻の墓碑
松平忠重妻
生 不明
没 不明
諏訪頼水の娘。松平忠重に嫁ぐ。法名「梅香春清禅定尼」。墓石は1625年(寛永2)8月15日建立の逆修塔。「和哥山松平三郎兵衛内儀逆修」「信州諏訪因幡守息女」が刻まれている。
益田就宣妻の墓碑
益田就宣妻
生 元和8年 (1622年)
没 寛文2年 (1662年)
1622年(元和8)吉川広家の長女として生まれる。名は今子。益田就宣の正室となる。就宣との間に、徳子、百子、毛利元勝妻、竹松、千太郎の2男3女を儲ける。1662年(寛文2)7月8日没。41才。法名「法雲院殿寂照理空大姉」。墓石に「吉川蔵人藤原廣家」が読める。
藤堂高次妻(松林院)の墓碑
藤堂高次妻(松林院)
生 不明
没 宝永4年 (1707年)
平井十郎右衛門の娘。名は於光。藤堂高次に嫁ぎ、堯円妻、高睦の1男1女を儲ける。1707年(宝永4)1月27日没。法名「松林院殿智月妙光大姉」。
藤堂高次妻(長生院)の墓碑
藤堂高次妻(長生院)
生 不明
没 貞享4年 (1687年)
多羅尾光量の娘。名は振。藤堂高次に嫁ぎ、市右衛門、勘姫、高久、高通の3男1女を儲ける。1687年(貞享4)4月21日没。法名「長生院殿仙嶽栄壽大姉」。墓石は逆修塔。
豊臣朝臣茂勝の墓碑
豊臣朝臣茂勝
生 不明
没 不明
「豊臣朝臣茂勝逆修」と「峕慶長三年七月十一日」が読める。1598年(慶長3)時点で「茂勝」を名乗っていた人物は横浜茂勝と加藤嘉明が該当するが、両人とも豊臣姓を下賜された記録がない。どちらかの逆修墓であると思われるが確証を得ず。
酒井了次の墓碑
酒井了次
生 慶長11年 (1606年)
没 寛永12年 (1635年)
1606年(慶長11)家次の5男として生まれる。讒言により藩主で兄忠勝から高野山へ蟄居を命じられるも、山を下り幕府に訴える。これにより今度は庄内藩領内に幽閉となる。1635年(寛永12)5月11日没。30才。法名「弘誓院殿応譽貞感居士」。墓石は1周忌に酒井宮内(忠勝か)の建立による。
酒井家次の墓碑
酒井家次
生 永禄7年 (1564年)
没 元和4年 (1618年)
1564年(永禄7)忠次の長男として生まれる。徳川家康に1字を賜い、家次と名乗る。1575年(天正3)長篠の戦いのときは父に従い鳶巣山を攻める。父の隠居により1588年(天正16)10月跡を継ぐ。大坂の両陣に参戦。1616年(元和2)加増移封により越後高田藩10万石。1618年(元和4)3月15日没。55才。法名「梅林院殿圓譽宗慶大居士」。
酒井家次妻の墓碑
酒井家次妻
生 不明
没 慶安2年 (1649年)
榊原正吉の娘。酒井家次に嫁ぎ、忠勝、直次の2男を儲ける。鶴岡城二之丸に住んでいたことより二ノ丸殿と称す。1649年(慶安2)12月15日没。法名「福聚院殿法誉昌清貞感大姉」。墓石は逆修塔。
酒井左衛門次郎の墓碑
酒井左衛門次郎
生 不明
没 正保2年 (1645年)
庄内藩主酒井忠勝弟民部政時の長男。父政時は庄内藩家臣柴谷武右衛門の養子となっていたが、政時、武右衛門が相次いで没したため、酒井姓に戻す。1645年(正保2)9月3日没。法名「雲光院殿智月晴圓居士」。
酒井忠予の墓碑
酒井忠予
生 明暦3年 (1657年)
没 享保20年 (1735年)
出羽松山藩2代藩主。1657年(明暦3)忠恒の長男として生まれる。父の死により1675年(延宝3)10月跡を継ぐ。同月将軍徳川家綱に拝謁。1732年(享保17)11月隠居。1735年(享保20)12月16日没。79才。法名「詠鏡院殿勝譽起清遊園大居士」。
酒井忠予娘の墓碑
酒井忠予娘
生 不明
没 元禄9年 (1696年)
酒井忠予の娘。1696年(元禄9)8月16日に早世。法名「淨林院殿寶譽清安秋榮大信女」。墓石は母(忠予妻)の建立による。
酒井忠恒の墓碑
酒井忠恒
生 寛永16年 (1639年)
没 延宝3年 (1675年)
出羽松山藩初代藩主。1639年(寛永16)忠勝の3男として生まれる。父の遺領のうち2万石を分知され出羽松山藩主となる。1648年(慶安元)2月将軍徳川家光に拝謁。1675年(延宝3)8月6日没。37才。法名「光顔院殿覚譽道専受法大居士」。
酒井忠辰の墓碑
酒井忠辰
生 元禄13年 (1700年)
没 宝永6年 (1709年)
1700年(元禄13)忠真の長男として生まれる。1708年(宝永5)5月将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて1709年(宝永6)1月19日没。10才。法名「寶林院殿陽山香心大童子」。
酒井直次の墓碑
酒井直次
生 慶長元年 (1596年)
没 寛永8年 (1631年)
1596年(慶長元)家次の次男として生まれる。1622年(元和8)兄忠勝が出羽庄内藩に加増移封となると、1万2千石を分知され出羽左沢藩主となる。1631年(寛永8)3月10日没。36才。法名「慈光院殿凉譽琳清大居士」。
酒井直次妻の墓碑
酒井直次妻
生 不明
没 不明
酒井直次の妻。墓石に「生国三州」とあり、鳥居忠政の娘と思われる。法名「永壽院殿淨譽華屋清薫大信女」。墓石は逆修塔。1631年(寛永8)8月15日と墓石にあるが、建立日か没年月日か不明。
飯塚綱重の墓碑
飯塚綱重
生 弘治2年 (1556年)
没 元和9年 (1623年)
1556年(弘治2)貞重の子として生まれる。佐野昌綱、宗綱、北条氏忠に仕える。その後、常陸国に至り佐竹義宣に仕える。1602年(慶長7)徳川家康に仕える。1614年(慶長19)大坂冬の陣には土井利勝に属して参戦。1623年(元和9)5月21日没。68才。法名「寶山盛印居士」。
飯塚綱重妻の墓碑
飯塚綱重妻
生 不明
没 不明
墓石に「生國下野佐野住飯塚〇〇平朝臣綱重簾中」とあるので、佐野周防守家臣高瀬紀伊豊友の娘と思われる。飯塚綱重に嫁ぎ、忠重を儲ける。法名「妙金禅尼」。墓石は1625年(寛永2)8月建立の逆修塔。
香宗我部親泰の墓碑
香宗我部親泰
生 天文12年 (1543年)
没 文禄2年 (1593年)
1543年(天文12)長宗我部国親の3男として生まれる。香宗我部親秀の養子となり兄長宗我部元親の家臣として戦いに参加して活躍。他国の大名との外交も行う。1593年(文禄2)12月21日没。51才。法名「瑞松院殿明彭孤仙大禅定門」。
高木正剛の墓碑
高木正剛
生 安永2年 (1773年)
没 天保5年 (1834年)
河内丹南藩10代藩主。1773年(安永2)松平忠福の次男として生まれる。1781年(天明元)5月高木正直の養子となり娘を娶る。同年6月跡を継ぐ。1791年(寛政3)2月将軍徳川家斉に拝謁。1834年(天保5)7月5日没。62才。法名「良弘院殿建譽秀道常葉大居士」。
高木正恒の墓碑
高木正恒
生 正徳4年 (1714年)
没 寛保3年 (1743年)
河内丹南藩7代藩主。1714年(正徳4)板倉重行の次男として生まれる。1719年(享保4)11月高木正陳の養子となる。1728年(享保13)2月将軍徳川吉宗に拝謁。正陳の死により1741年(寛保元)4月跡を継ぐ。1743年(寛保3)6月4日没。30才。法名「法源院殿圓誉智寛道應居士」。
高木正成の墓碑
高木正成
生 天正15年 (1587年)
没 寛永12年 (1635年)
河内丹南藩2代藩主。1587年(天正15)正次の長男として生まれる。徳川家康に仕える。信州上田城攻め、大坂の両陣に参陣。父の死により、1631年(寛永8)3月跡を継ぐ。1635年(寛永12)4月2日没。49才。法名「釋道向」。墓石は息子善次郎正弘の建立による。
高木正明の墓碑
高木正明
生 享和3年 (1803年)
没 明治2年 (1869年)
河内丹南藩11代藩主。1803年(享和3)閏1月正剛の長男として生まれる。1819年(文政2)11月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1826年(文政9)10月跡を継ぐ。1848年(嘉永元)8月隠居。1869年(明治2)9月13日没。67才。法名「智覺院殿見融通照〇翁大居士」。
高木正次の墓碑
高木正次
生 永禄6年 (1563年)
没 寛永7年 (1630年)
河内丹南藩初代藩主。1563年(永禄6)清秀の3男として生まれる。1582年(天正10)より徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原合戦に従う。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠に属して上田城攻めに参陣。大坂夏の陣に参陣して戦功をたてる。1630年(寛永7)11月30日没。68才。法名「釋浄照」。
高木正直の墓碑
高木正直
生 宝暦6年 (1756年)
没 天明元年 (1781年)
河内丹南藩9代藩主。1756年(宝暦6)酒井忠与の4男として生まれる。1777年(安永6)1月高木正弼の長女を娶り養子となる。同年12月将軍徳川家治に拝謁。正弼の死により1780年(安永9)11月跡を継ぐ。1781年(天明元)5月26日没。26才。法名「圓淨院殿英誉義光亮純大居士」。
高木正豊の墓碑
高木正豊
生 寛文2年 (1662年)
没 延宝9年 (1681年)
河内丹南藩5代藩主。1662年(寛文2)正盛の長男として生まれる。母は板倉重矩の娘。父の死により1670年(寛文10)4月跡を継ぐ。同年5月将軍徳川家綱に拝謁。1681年(延宝9)5月12日没。20才。法名「峯穹院殿堅譽意仙居士」。
高木正陳の墓碑
高木正陳
生 寛文5年 (1665年)
没 元文6年 (1741年)
河内丹南藩6代藩主。1665年(寛文5)正盛の次男として生まれる。1681年(天和元)5月河内丹南藩5代藩主正豊の養子となり、同年7月跡を継ぐ。同月将軍徳川綱吉に拝謁。1741年(元文6)2月5日没。77才。法名「元亨院殿乾譽學黌性久大居士」。墓石は孫の主水正弼の建立による。
伊東祐丕の墓碑
伊東祐丕
生 寛政9年 (1797年)
没 文化11年 (1814年)
日向飫肥藩12代藩主。1797年(寛政9)閏7月祐鐘の次男として生まれる。1812年(文化9)6月兄祐民の死により跡を継ぐ。1814年(文化11)8月14日没。18才。法名「玄徳院殿三要宗心大居士」。
伊東祐久の墓碑
伊東祐久
生 慶長14年 (1609年)
没 明暦3年 (1657年)
日向飫肥藩3代藩主。1609年(慶長14)7月祐慶の長男として生まれる。1620年(元和6)将軍徳川秀忠に拝謁。1636年(寛永13)5月父の死により家督を継ぐ。1637年(寛永14)島原の乱に出陣。1657年(明暦3)10月27日没。49才。法名「慈雲院殿玄龍大居士」。
伊東祐久妻の墓碑
伊東祐久妻
生 不明
没 正保2年 (1645年)
滝川法直の娘。伊東祐久に嫁ぎ、祐次、鶴千代、女子、祐春、祐実の4男1女を儲ける。1645年(正保2)3月12日没。法名「養華院殿圓光理春大禅定尼」。墓石は1671年(寛文11)4月12日息子出雲守祐実の建立による。
伊東祐之の墓碑
伊東祐之
生 享保12年 (1727年)
没 延享元年 (1744年)
日向飫肥藩7代藩主。 1727年(享保12)5月祐永の9男として生まれる。1739年(元文4)3月父の死により家督を継ぐ。1742年(寛保2)10月将軍徳川吉宗に拝謁。1744年(延享元)9月2日没。18才。法名「天受院殿仁空義眞大居士」。
伊東祐兵の墓碑
伊東祐兵
生 永禄2年 (1559年)
没 慶長5年 (1600年)
日向飫肥藩初代藩主。 1559年(永禄2)1月義祐の3男として生まれる。1577年(天正5)島津氏の攻撃により城を奪われ大友宗麟のもとに逃げる。しかし宗麟も耳川の戦いで島津氏に大敗。祐兵は伊予国の大内氏を頼る。のち、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従う。秀吉が島津征伐をしたのち、日向国を与えられ旧領に復帰。1600年(慶長5)10月11日没。42才。法名「報恩寺殿心関宗安大禅定門」。
伊東祐兵妻の墓碑
伊東祐兵妻
生 不明
没 寛永14年 (1637年)
伊東義益の娘。阿虎の方。伊東祐兵に嫁ぎ、伊東祐平妻、祐慶、成瀬正武妻、滝川法直妻、祐寿の2男3女を儲ける。1637年(寛永14)3月4日没。法名「松壽院殿正巌慶因尼大姉」。
伊東祐実の墓碑
伊東祐実
生 寛永21年 (1644年)
没 享保8年 (1723年)
日向飫肥藩5代藩主。 1644年(寛永21)1月祐久の4男として生まれる。1661年(寛文元)6月兄祐由の養子となる。同年8月兄の死により跡を継ぐ。同年閏8月将軍徳川家綱に拝謁。1714年(正徳4)4月祐永に家督を譲って隠居。1723年(享保8)9月18日没。80才。法名「洞林院殿佺叟丹心大居士」。
伊東祐実妻(槐巖院)の墓碑
伊東祐実妻(槐巖院)
生 明暦2年 (1656年)
没 元禄6年 (1693年)
1656年(明暦2)鍋島光茂の娘として生まれる。春姫。伊東祐実に嫁ぐも子供は出来なかった。1693年(元禄6)5月22日没。(墓石は23日とある)法名「槐巖院殿慈蔭貞凉大禪定尼」。墓石は祐実の子駿河守祐崇(母は土岐頼泰の娘)の建立による。
伊東祐実妻(龍珠院)の墓碑
伊東祐実妻(龍珠院)
生 不明
没 延宝3年 (1675年)
秋田盛季の娘。於子々。伊東祐実に嫁ぎ1女を儲ける。1675年(延宝3)9月7日没。法名「龍珠院殿宗玄妙猷大姉」。墓石は1677年(延宝5)3月26日夫祐実の建立による。
伊東祐崇妻の墓碑
伊東祐崇妻
生 不明
没 元禄11年 (1698年)
分部信政の娘。伊東祐崇の妻。1698年(元禄11)6月4日没。法名「眞照院殿清鏡圓智大姉」。
伊東祐慶の墓碑
伊東祐慶
生 天正17年 (1589年)
没 寛永13年 (1636年)
日向飫肥藩2代藩主。1589年(天正17)6月祐兵の長男として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは東軍に味方する。同年、父の死により跡を継ぐ。大坂冬の陣に参戦。夏の陣のときは出陣するも戦場に着く前に戦が終わったため領地に引き返す。1636年(寛永13)4月4日没。48才。法名「東禅寺殿泰雲玄興大居士」。
伊東祐慶妻の墓碑
伊東祐慶妻
生 不明
没 寛永15年 (1638年)
佐藤隆勝の娘。伊東祐慶の妻。1638年(寛永15)9月13日没。法名「良昌院殿法源妙応大姉」。墓石施主は義理の息子大和守祐久。
伊東祐民の墓碑
伊東祐民
生 寛政4年 (1792年)
没 文化9年 (1812年)
日向飫肥藩11代藩主。1792年(寛政4)2月祐鐘の長男として生まれる。1798年(寛政10)父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)6月29日没。21才。法名「泰梁院殿通峯玄津大居士」。
伊東祐永の墓碑
伊東祐永
生 元禄4年 (1691年)
没 元文4年 (1739年)
日向飫肥藩6代藩主。1691年(元禄4)祐信の子として生まれる。祐実の養子となる。1707年(宝永4)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1714年(正徳4)4月祐実の隠居により家督を継ぐ。1739年(元文4)1月14日没。49才。法名「玄証院殿霊鑑自覺大居士」。
伊東祐由の墓碑
伊東祐由
生 寛永8年 (1631年)
没 寛文元年 (1661年)
日向飫肥藩4代藩主。1631年(寛永8)1月祐久の長男として生まれる。1639年(寛永16)6月将軍徳川家光に拝謁。1657年(明暦3)12月父の死により跡を継ぐ。1661年(寛文元)6月13日没。31才。法名「法泉院殿瑞雲宗鳳大居士」。