榊原政敦妻 生 宝暦9年 (1759年)没 文政7年 (1824年) 1759年(宝暦9)生まれ。三宅氏。象の方。名は喜佐。榊原政敦の妻となり、政令、政由の2男を儲ける。1824年(文政7)11月18日没。66才。法名「智静院殿皓月妙耀日見大姉」。墓石正面「智静院殿髪歯墓」側面「榊原遠江守政令為實母菩提也」とある。
榊原政房妻 生 不明没 寛文12年 (1672年) 池尻大納言共孝の娘。榊原政房に嫁ぎ、政倫を儲ける。1672年(寛文12)8月14日没。法名「春光院殿皓譽苓月松永大姉」。墓石は息子熊之助政倫の建立による。
榊原忠次妻 生 不明没 寛永20年 (1643年) 寺沢広高の娘。榊原忠次に嫁ぎ、松平小平太、女子の1男1女を儲ける。法名「長昌院殿華〇眞譽専栄大信女」。1643年(寛永20)9月7日が刻まれているも没年月日かは不明。
榊原康政 生 天文17年 (1548年)没 慶長11年 (1606年) 1548年(天文17)長政の次男として生まれる。1560年(永禄3)徳川家康の家臣となる。三河一向一揆の上野の合戦で初陣。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原合戦などに従う。1606年(慶長11)5月14日没。59才。法名「羪林院殿上誉見向大禅定門」。
松平近陳 生 寛永15年 (1638年)没 享保4年 (1719年) 豊後府内藩2代藩主。1638年(寛永15)3月忠昭の長男として生まれる。1646年(正保3)12月将軍徳川家光に拝謁。1676年(延宝4)3月父の隠居により跡を継ぐ。1705年(宝永2)11月に隠居。1719年(享保4)12月10日没。82才。法名「證眞院殿頓譽圓意如元大居士」。
松平近貞 生 元禄2年 (1689年)没 宝暦7年 (1757年) 豊後府内藩4代藩主。1689年(元禄2)1月三宅康雄の3男として生まれる。1705年(宝永2)12月将軍徳川綱吉に拝謁。1712年(正徳2)1月松平近禎の婿養子となり1725年(享保10)近禎の死により跡を継ぐ。1745年(延享2)9月に隠居。1757年(宝暦7)5月13日没。69才。法名「雲晴院殿現譽徳翁智山大居士」。
松平近訓 生 寛政11年 (1799年)没 嘉永5年 (1852年) 豊後府内藩8代藩主。1799年(寛政11)3月近儔の次男として生まれる。1807年(文化4)叔父で藩主近義の死去により家督を継ぐ。藩政改革において、父と対立。1831年(天保2)2月隠居させられる。1852年(嘉永5)3月20日没。54才。法名「大鏡院殿寂譽智徳閑山大居士」。
松平近義 生 明和7年 (1770年)没 文化4年 (1807年) 豊後府内藩7代藩主。1770年(明和7)4月近形の3男として生まれる。1804年(文化元)12月兄近儔の隠居により跡を継ぐ。1807年(文化4)8月27日参勤交代の道中、駿河国岡部にて没。38才。法名「淨岳院殿暁譽翻然清遊大居士」。
松平近禎 生 寛文5年 (1665年)没 享保10年 (1725年) 豊後府内藩3代藩主。1665年(寛文5)7月近陳の次男として生まれる。1675年(延宝3)7月将軍徳川家綱に拝謁。1705年(宝永2)11月父の隠居により家督を継ぐ。1725年(享保10)8月24日没。61才。法名「大智院殿雲譽徳水林眞大居士」。
松平近形 生 享保8年 (1723年)没 安永2年 (1773年) 豊後府内藩5代藩主。1723年(享保8)9月近貞の長男として生まれる。1737年(元文2)11月将軍徳川吉宗に拝謁。1745年(延享2)9月父の隠居により跡を継ぐ。1762年(宝暦11)3月銭瓶石騒動という境界線争いが起こり、幕府より逼塞処分となる。1773年(安永2)6月10日没。51才。法名「觀光院殿照譽無涯壽玄大居士」。
松平近儔 生 宝暦4年 (1754年)没 天保11年 (1840年) 豊後府内藩6代藩主。1754年(宝暦4)3月近形の長男として生まれる。1770年(明和7)7月父の隠居により跡を継ぐ。1804年(文化元)12月弟の近義に家督を譲り隠居。隠居後も9代藩主のときまで実権を握り、1840年(天保11)2月16日没。87才。法名「光澤院殿馨譽華月不騫大居士」。
松平近信 生 文化元年 (1804年)没 天保12年 (1841年) 豊後府内藩9代藩主。1804年(文化元)10月前田利幹の次男として生まれる。松平近訓の養子となり、養父の隠居により1831年(天保2)2月跡を継ぐ。1841年(天保12)3月28日没。38才。法名「寂靜院殿心譽所著超勝大居士」。
松平成重妻 生 不明没 元和6年 (1620年) 松平康元の娘。椿姫。徳川家康の養女として田中忠政に嫁ぐ。忠政が1620年(元和6)に没すると、松平成重に嫁ぐ。1629年(寛永6)11月26日没。法名「久松院殿椿岳宗壽大姉」。没日は、11月11日(大分県郷土史料集成)、11月21日(柳営婦女伝叢)、11月1日(金鯱叢書)、10月21日(細江町史)とあるも墓石の11月26日とした。
松平成重 生 文禄3年 (1594年)没 寛永10年 (1633年) 1594年(文禄3)一生の子として生まれる。1608年(慶長13)3月徳川家康に拝謁。大坂冬の陣のときは小田原城二の丸を守備。大坂夏の陣には参戦して手柄をたてる。1633年(寛永10)9月16日没。40才。法名「見樹院殿覚譽圓徹大禅定門」。
松平忠昭妻 生 不明没 不明 酒井忠正の娘。松平忠昭に嫁ぎ、近陳、中根正延妻、岡部豊明妻、近鎮、近良、女子の3男3女を儲ける。法名「芳心院殿花屋長栄大禅定尼」。墓石は夫忠昭が1647年(正保4)4月12日に建立。
松平忠昭 生 元和3年 (1617年)没 元禄6年 (1693年) 豊後府内藩初代藩主。1617年(元和3)11月成重の次男として生まれる。1632(寛永9)6月将軍徳川家光に拝謁。1633年(寛永10)父の死により家督を継ぎ丹波亀山藩主となる。1656年(明暦2)豊後府内藩主となる。1693年(元禄6)9月12日没。77才。法名「寶林院殿淨譽覺月如圓大居士」。
松平康重 生 永禄11年 (1568年)没 寛永17年 (1640年) 和泉岸和田藩初代藩主。1568年(永禄11)康親の長男として生まれる。徳川家康に仕え武蔵騎西藩で2万石を領す。常陸笠間、丹波篠山と移封加増を重ね1619年(元和5)和泉岸和田藩主となる。1640年(寛永17)6月27日没。73才。法名「長安院殿竜誉浄和大居士」。
松平康映 生 元和元年 (1615年)没 延宝2年 (1674年) 石見浜田藩初代藩主。1615年(元和元)康重の次男として生まれる。1633年(寛永10)将軍徳川家光に拝謁。1640年(寛永17)父の死により和泉岸和田藩主となる。播磨山崎藩主を経て1649年(慶安2)8月石見浜田藩に移封。1674年(延宝2)12月30日没。60才。法名「雲峯院殿照譽浄閑大居士」。
松平康員 生 延宝7年 (1679年)没 正徳3年 (1713年) 石見浜田藩3代藩主。1679年(延宝7)康宦の長男として生まれる。1705年(宝永2)1月父の隠居により家督を継ぐ。1709年(宝永6)9月隠居。1713年(正徳3)3月22日没。35才。法名「泰巌院殿安譽智性春道大居士」。
松平小平太 生 寛永5年 (1628年)没 寛永12年 (1635年) 1628年(寛永5)榊原忠次の長男として生まれる。1635年(寛永12)8月将軍徳川家光に拝謁。同年9月6日没。8才。法名「玉樹院高月良山」。墓石には寛永13年9月6日とあるので一周忌の墓である。
有馬清純 生 寛永21年 (1644年)没 元禄15年 (1702年) 日向延岡藩3代藩主。越前丸岡初代藩主。 1644年(寛永21)1月康純の長男として生まれる。1679年(延宝7)11父の隠居により家督を継ぐ。一揆が起こるなど藩政治の失策のため越後国糸魚川に移封。さらに1695年(元禄8)5月越前国丸岡へ移封となる。1702年(元禄15)12月10日没。59才。法名「華岳院殿清山宗純大居士」。
有馬康純 生 慶長18年 (1613年)没 元禄5年 (1692年) 日向延岡藩2代藩主。1613年(慶長18)8月直純の長男として生まれる。1616年(元和2)高祖父徳川家康に拝謁。1641年(寛永18)父の死により家督を継ぐ。延岡城を修築して城下町を整備。1679年(延宝7)11月隠居。1692年(元禄5)4月12日没。80才。法名「嘉祥院殿徹洞宗通大居士」。
小早川隆景妻 生 不明没 元和5年 (1619年) 小早川正平の娘として生まれる。1551年(天文20)小早川隆景に嫁ぐ。隆景との間に子は出来ず、隆景の死後は周防国吉敷郡問田に居住。問田大方と称される。1619年(元和5)5月20日没。法名「慈光院月渓信善」。
小早川隆景 生 天文2年 (1533年)没 慶長2年 (1597年) 1533年(天文2)毛利元就の3男として生まれる。1544年(天文13)12才のとき竹原小早川家を継ぐ。のち沼田小早川家も継ぐ。元就死後は、隆元、輝元と毛利家の重臣として仕える。豊臣政権下では主君輝元とともに五大老となる。1597年(慶長2)6月12日没。65才。法名「隆景寺殿泰岳紹安大居士」。
大條宗頼 生 慶長7年 (1602年)没 延宝4年 (1676年) 1602年(慶長7)実頼の子として生まれる。伊達家に仕える。最上義俊改易のときには、城の受取のため東根城、金山城に赴く。1658年(万治元)伊達綱宗のときに家老となる。1676年(延宝4)2月21日没。75才。法名「勝福院殿向外不求居士」。
堀直時 生 元和2年 (1616年)没 寛永20年 (1643年) 越後村松藩初代藩主。1616年(元和2)直寄の次男として生まれる。1626年(寛永3)徳川秀忠と家光に拝謁。1639年(寛永16)父の遺領のち3万石を分け与えられる。1643年(寛永20)2月29日没。28才。法名「華徳院芳屋浄香大居士」。
南直道 生 不明没 慶長11年 (1606年) 榊原康政の家臣。甚之丞。康政が1606年(慶長11)5月14日に没すると、16日に殉死。法名「腹誉道切禅定門」。墓石には読みにくいが「榊原式部大輔供奉 南甚之丞 〇誉道切 慶長十〇 五月〇四日」とある。
伊達重村 生 寛保2年 (1742年)没 寛政8年 (1796年) 陸奥仙台藩7代藩主。1742年(寛保2)4月宗村の次男として生まれる。1756年(宝暦6)7月父の死により家督を継ぐ。家臣同士の争いや官位獲得のための費用により財政は悪化。1796年(寛政8)4月23日没。55才。法名「叡明院殿徹山玄機大居士」。
伊達綱村 生 万治2年 (1659年)没 享保4年 (1719年) 陸奥仙台藩4代藩主。1659年(万治2)3月綱宗の長男として生まれる。伊達家中の対立により父が隠居したため2才で家督を継ぐ。1671年(寛文11)伊達騒動が起き綱村後見人の伊達宗勝などが罰せられるも仙台藩は存続。1719年(享保4)6月20日没。61才。法名「大年寺殿肯山全提大居士」。
伊達宗清 生 慶長5年 (1600年)没 寛永11年 (1634年) 1600年(慶長5)政宗の3男として生まれる。河内守。1604年(慶長9)に飯坂宗康の養嗣子となるも後に伊達姓に戻る。陸奥黒川郡吉岡城主で3万5千石を領す。1634年(寛永11)7月22日没。35才。法名「天皇寺殿空巌長印大禅定門」。墓石に為御自身造立とあるが日付は没後の寛永十二年二月二十二日となっている。
伊達宗村 生 享保3年 (1718年)没 宝暦6年 (1756年) 陸奥仙台藩6代藩主。1718年(享保3)5月吉村の4男として生まれる。1726年(享保11)1月将軍徳川吉宗に拝謁。1字を賜い宗村と名乗る。父の隠居により1743年(寛保3)7月跡を継ぐ。1756年(宝暦6)5月26日没。39才。法名「政徳院殿忠山浄信大居士」。
井伊直通 生 元禄2年 (1689年)没 宝永7年 (1710年) 近江彦根藩6代藩主。1689年(元禄2)直興の8男として生まれる。1698年(元禄11)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1701年(元禄14)3月家督を継ぐ。1710年(宝永7)7月26日没。23才。法名「光照院殿天眞義空大居士」。
井伊直興 生 明暦2年 (1656年)没 享保2年 (1717年) 近江彦根藩5代藩主および第8代藩主。1656年(明暦2)3月直縄の長男として生まれる。井伊直澄の養子となり1676年(延宝4)の直澄の死により家督を継ぐ。1701年(元禄14)隠居。8男の直通に跡を継がせるも1710年(宝永7)7月に没し更に跡を継いだ10男直恒も同年10月没したため、再度藩主となる。1717年(享保2)4月20日没。62才。法名「長壽院殿覚翁知性大居士」。
井伊直禔 生 享保12年 (1727年)没 宝暦4年 (1754年) 近江彦根藩11代藩主。1727年(享保12)9月直惟の次男として生まれる。1737年(元文2)8月叔父直定の養子となり、同月将軍徳川吉宗に拝謁。1754年(宝暦4)6月直定の隠居により家督を継ぐ。急病により同年8月29日没。28才。法名「見性院殿観刹了因大居士」。
井伊直澄 生 寛永2年 (1625年)没 延宝4年 (1676年) 近江彦根藩4代藩主。1625年(寛永2)7月直孝の5男として生まれる。1634年(寛永11)2月将軍徳川家光に拝謁。1659年(万治2)父の死により跡を継ぐ。1668年(寛文8)より大老を務める。1676年(延宝4)1月3日没。52才。法名「玉龍院殿忠山源功大居士」。
井伊直清 生 寛政3年 (1791年)没 文化8年 (1811年) 1791年(寛政3)4月直中の長男として生まれる。病弱のため1805年(文化2)廃嫡となる。1811年(文化8)9月21日没。21才。法名「俊澤院殿等霖元洪大居士」。墓石は直清の代わり跡を継いだ弟直亮の建立による。
井伊直武妻 生 不明没 享保7年 (1722年) 藤堂高次の娘。名は鶴姫。安藤重之の養女として井伊直武に嫁ぐ。直武との間に、小笠原信秀妻、直朝の1男1女を儲ける。1722年(享保7)10月4日没。法名「羪俊院殿禅山壽高大姉」。墓石は息子直朝の養子直矩の建立による。
井伊直武 生 慶安3年 (1650年)没 元禄10年 (1697年) 遠江掛川藩2代藩主。1650年(慶安3)直好の長男として生まれる。1658年(万治元)3月将軍徳川家綱に拝謁。1672年(寛文12)父の死後、家督を継ぐ。1694年(元禄7)11月隠居。1697年(元禄10)6月8日没。48才。法名「原忠院殿高節元義大居士」。
井伊直政 生 永禄4年 (1561年)没 慶長7年 (1602年) 近江彦根藩初代藩主。1561年(永禄4)直親の子として生まれる。1575年(天正3)2月徳川家康に仕える。1576年(天正4)武田軍との対戦にて初めて出陣、以降家康のもとで戦や外交で活躍して徳川四天王の1人となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには、家康の4男であり娘婿の忠吉とともに出陣。戦の後半にて島津軍と戦い、負傷。1602年(慶長7)2月1日、関ヶ原の傷が原因で死去。42才。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。廟の中に宝篋印塔(2枚目写真)がある。
井伊直惟 生 元禄13年 (1700年)没 元文元年 (1736年) 近江彦根藩9代藩主。1700年(元禄13)5月直興の13男として生まれる。1711年(正徳元)10月将軍徳川家宣に拝謁。1714年(正徳4)2月父の隠居に伴い家督を継ぐ。1736年(元文元)6月4日没。37才。法名「泰源院海印指光大居士」。
井伊直恒 生 元禄6年 (1693年)没 宝永7年 (1710年) 近江彦根藩7代藩主。1693年(元禄6)3月直興の10男として生まれる。兄で藩主の直通が没したため1710年(宝永7)閏8月跡を継ぐ。同月、将軍徳川綱吉に拝謁。同年10月5日没。18才。法名「圓成院殿徳巖道隣大居士」。
井伊直弼 生 文化12年 (1815年)没 安政7年 (1860年) 近江彦根藩16代藩主。1815年(文化12)10月直中の14男として生まれる。15代藩主井伊直亮の養子となり、直亮の死後家督を継ぐ。江戸幕府の大老となり日米修好通商条約の締結や将軍の跡取り問題などを行う。政策に反対するものは厳しく罰したため(安政の大獄)、かえって反感を買い1860年(安政7)3月3日水戸浪士たちにより殺される。(桜田門外の変)46才。法名「宗観院殿桺暁覺翁大居士」。
井伊直幸 生 享保14年 (1729年)没 寛政元年 (1789年) 近江彦根藩13代藩主。1729年(享保14)7月直惟の次男として生まれる。叔父の直定の養子となり1755年(宝暦5)直定の隠居により跡を継ぐ。官位が上がり正四位上となり、1784年(天明4)11月には大老となる。1789年(寛政元)2月30日没。61才。法名「大魏院殿弥高文山大居士」。
井伊直富妻 生 明和7年 (1770年)没 天明7年 (1787年) 1770年(明和7)伊達重村の娘として生まれる。名は満姫詮子。1783年(天明3)井伊直富に嫁ぐ。直富が1787年(天明7)に若くして没したため、直富との間には子供が出来ず。1844年(弘化元)9月12日没。75才。法名「守眞院殿滿光貞詮大姉」。
井伊直富 生 宝暦10年 (1760年)没 天明7年 (1787年) 1760年(宝暦10)8月直幸の3男として生まれる。1775年(安永4)将軍徳川家治に拝謁。1787年(天明7)7月12日父に先立って没。28才。法名「龍泉院殿恵天徳光大居士」。