井伊直富 生 宝暦10年 (1760年)没 天明7年 (1787年) 1760年(宝暦10)8月直幸の3男として生まれる。1775年(安永4)将軍徳川家治に拝謁。1787年(天明7)7月12日父に先立って没。28才。法名「龍泉院殿恵天徳光大居士」。
井伊直元 生 文化6年 (1809年)没 弘化3年 (1846年) 1809年(文化6)4月直中の11男として生まれる。1825年(文政8)4月兄で彦根藩主直亮の養子となる。家督を継ぐことなく1846年(弘化3)1月13日没。38才。法名「良性院殿真相元諦大居士」。
井伊直亮妻 生 寛政8年 (1796年)没 文化13年 (1816年) 1796年(寛政8)松平頼儀の娘として生まれる。名は餐姫。井伊直亮に嫁ぐも子供は出来ず。1816年(文化13)2月28日没。法名「龍華院殿善法正因大姉」。
井伊直亮 生 寛政6年 (1794年)没 嘉永3年 (1850年) 近江彦根藩15代藩主。1794年(寛政6)6月直中の3男として生まれる。1812年(文化9)2月父の隠居により家督を継ぐ。1835年(天保6)大老に就任。軍隊を西洋式にしたり蘭学者を登用するなど開明的な政治を行う。1850年(嘉永3)10月1日没。57才。法名「天徳院殿真龍廓性大居士」。
井伊直中妻(親光院) 生 明和8年 (1771年)没 天保7年 (1836年) 1771年(明和8)南部利正の娘として生まれる。名は豊姫、親姫。井伊直中に嫁ぎ、蜂須賀斉昌妻、直亮、秩姫の1男2女を儲ける。1836年(天保7)5月14日没。法名「親光院殿憲室龍華大姉」。
井伊直中 生 明和3年 (1766年)没 天保2年 (1831年) 近江彦根藩14代藩主。1766年(明和3)6月直幸の6男として生まれる。1787年(天明7)10月将軍徳川家斉に拝謁。1789年(寛政元)4月父の死により跡を継ぐ。1812年(文化9)2月隠居。1831年(天保2)5月25日没。66才。法名「観徳院殿天寧広輝大居士」。
九鬼隆常 生 正保3年 (1646年)没 元禄11年 (1698年) 丹波綾部藩2代藩主。1646年(正保3)隆季の長男として生まれる。1654年(承応3)将軍徳川家綱に拝謁。父の隠居により1674年(延宝2)11月跡を継ぐ。1698年(元禄11)4月1日没。53才。法名「乾徳院殿仁嶽了賢大居士」。
中島宗信 生 不明没 寛文9年 (1669年) 宗求の3男。伊勢守。伊達家の家臣。兄宗勝が没したため家督を継ぐ。1669年(寛文9)10月16日没。法名「正兵院殿」。墓石に「為中嶋伊勢守宗信御追善」とある。
松浦隆信 生 天正19年 (1591年)没 寛永14年 (1637年) 肥前平戸藩3代藩主。1591年(天正19)久信の長男として生まれる。曾祖父の隆信(道可)と同名。1602年(慶長7)父の死により家督を継ぐ。1603年(慶長8)将軍徳川家康に拝謁。キリシタンだったが幕府の禁教令により棄教。1615年(慶長20)大坂夏の陣に参陣するも向かう途中で戦いは終了、二条城で家康に拝謁。1637年(寛永14)5月24日没。47才。法名「正宗院殿向東宗陽居士」。
松浦長 生 寛文11年 (1671年)没 元禄5年 (1692年) 1671年(寛文11)棟の長男として生まれる。1686年(貞享3)将軍徳川綱吉に拝謁。父に先立ちて、1692年(元禄5)6月9日没。22才。法名「龍珠院殿大圓宗光居士」。
松浦重信妻 生 不明没 慶安2年 (1649年) 松平忠国の娘。寛永年間に松浦重信に嫁ぐ。重信との間に、棟、石川乗政妻の1男1女を儲ける。1649年(慶安2)9月7日没。法名「雲晴院殿高譽秋月大禅定尼」。
松浦重信 生 元和8年 (1622年)没 元禄16年 (1703年) 肥前平戸藩4代藩主。1622年(元和8)3月隆信の長男として生まれる。1629年(寛永6)将軍徳川家光に拝謁。外国との交易を幕府の命により、長崎の出島のみとなったために財政が悪化。領内ではキリシタンの取締りを行う。1689年(元禄2)7月に隠居して、曾祖父と同じ鎮信を名乗る。1703年(元禄16)10月6日没。82才。法名「天祥院殿慶巖徳祐大居士」。
松浦邦 生 享保17年 (1732年)没 宝暦7年 (1757年) 1732年(享保17)誠信の長男として生まれる。1744年(延享元)12月将軍徳川吉宗に拝謁。跡を継ぐことなく1757年(宝暦7)5月4日没。26才。法名「本覺院殿華林宗嚴大居士」。
松浦誠信 生 正徳元年 (1711年)没 安永8年 (1779年) 肥前平戸藩8代藩主。1711年(正徳元)篤信の次男として生まれる。1728年(享保13)8月7代藩主有信の養子となり、同年11月7日跡を継ぐ。同年11月15日将軍徳川吉宗に拝謁。1779年(安政8)4月29日没。69才。法名「誠嶽院殿英山紹俊大居士」。
松浦篤信 生 貞享元年 (1684年)没 宝暦6年 (1756年) 肥前平戸藩6代藩主。1684年(貞享元)7月重信の4男として生まれる。1696年(元禄9)5月将軍徳川綱吉に拝謁。1713年(正徳3)2月兄の棟の隠居により家督を継ぐ。1727年(享保12)閏1月隠居。1756年(宝暦6)12月3日没。73才。法名「松英院殿逸巖俊翁大居士」。
松浦熈 生 寛政3年 (1791年)没 慶応3年 (1867年) 肥前平戸藩10代藩主。1791年(寛政3)清の3男として生まれる。1803年(享和3)6月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1805年(文化2)6月跡を継ぐ。1841年(天保12)閏1月隠居。1867年(慶応3)6月27日没。77才。法名「龍瑞院殿乾乾観中大居士」。
松浦清 生 宝暦10年 (1760年)没 天保12年 (1841年) 肥前平戸藩9代藩主。1760年(宝暦10)1月政信の長男として生まれる。号は静山。甲子夜話の著者。1774年(安永3)4月将軍徳川家治に拝謁。1775年(安永4)2月祖父誠信の隠居により跡を継ぐ。1806年(文化3)3男の熈に家督を譲り隠居。1841年(天保12)6月29日没。82才。法名「豊功院殿静山流水大居士」。
松浦棟 生 正保3年 (1646年)没 正徳3年 (1713年) 肥前平戸藩5代藩主。1646年(正保3)9月重信の長男として生まれる。1656年(明暦2)8月将軍徳川家綱に拝謁。1689年(元禄2)7月父の隠居により家督を継ぐ。1713年(正徳3)9月22日没。68才。法名「雄香寺殿俊林宗英大居士」。
松浦有信 生 宝永7年 (1710年)没 享保13年 (1728年) 肥前平戸藩7代藩主。1710年(宝永7)篤信の長男として生まれる。1722年(享保7)11月将軍徳川吉宗に拝謁。父の隠居により1727年(享保12)閏1月跡を継ぐ。1728年(享保13)8月25日没。19才。法名「等覚院殿天麟英心大居士」。
松浦曜 生 文化9年 (1812年)没 安政5年 (1858年) 肥前平戸藩11代藩主。1812年(文化9)8月熈の長男として生まれる。1827年(文政10)11月将軍徳川家斉に拝謁。1841年(天保12)閏1月父の隠居により家督を継ぐ。1858年(安政5)6月28日没。47才。法名「諦乗院殿得脱祥瑞大居士」。
松浦政信 生 享保20年 (1735年)没 明和8年 (1771年) 1735年(享保20)誠信の3男として生まれる。兄2人が没したため嫡子となり、1757年(宝暦7)10月将軍徳川家重に拝謁。跡を継ぐことなく1771年(明和8)8月11日没。37才。法名「政功院殿蓬山宗丘大居士」。
松浦信貞 生 慶長14年 (1609年)没 元禄7年 (1694年) 1609年(慶長14)信正の長男として生まれる。1633年(寛永10)8月将軍徳川家光に拝謁。幕府の小姓組、勘定頭を務める。1682年(天和2)12月隠居。1694年(元禄7)8月22日没。86才。法名「芳性院殿蘭溪道秀居士」。
松浦信清 生 慶長5年 (1600年)没 寛永元年 (1624年) 1600年(慶長5)久信の次男として生まれる。源太郎。成清とも。松浦豊後守信實の養子となる。1624年(寛永元)5月24日江浄寺(静岡市清水区)で自殺。25才。法名「龍光院涼雲道静」。江浄寺にも新しい墓(恋塚)があり、こちらでは法名「松源院法岸宗鉄大居士」とある。婚約を交わした春姫が兄隆信に取られそうになったため、江戸を無断で出奔。江浄寺で家臣により自殺させられたという。
松浦久信妻 生 不明没 明暦2年 (1656年) 大村純忠の5女。父がキリシタンのためメンシアという洗礼名を持つ。松浦久信に嫁ぎ、隆信、信辰の2男を儲ける。1656年(明暦2)11月25日没。史料によってまちまちだが享年82~85才。法名「松東院殿月心宗玉大姉」。
本多忠籌妻 生 元文5年 (1740年)没 明和5年 (1768年) 1740年(元文5)松浦誠信の5女として生まれる。名は富子。1764年(明和元)9月本多忠籌に嫁ぐ。忠籌との間に忠雄、忠の2男を儲ける。1768年(明和5)5月15日没。29才。法名「瑤池院殿宝蓮紹香大姉」。
香川春継 生 天文14年 (1545年)没 元和5年 (1619年) 1545年(天文14)光景の次男として生まれる。毛利元就に仕え、のちに吉川元春に仕える。豊臣秀吉の九州征伐のときは吉川軍の一員として豊前香春嶽城を攻撃。関ヶ原の戦い後、吉川広家が周防岩国へと移ると従う。1619年(元和5)7月22日没。75才。法名「籌勝院殿幹翁英秀居士」。
酒井忠行妻 生 不明没 延宝5年 (1677年) 徳川家康の異父弟松平定勝の娘。母は奥平貞友の娘。名は菊姫。酒井忠行に嫁ぎ、忠清、忠能を儲ける。1677年(延宝5)8月9日没。法名「光壽院殿真譽松安宝玉大姉」。父定勝より嫁入りのときに嫁入り道具として持たせた「鳴神兼定」が今も現存している。
酒井忠行 生 慶長4年 (1599年)没 寛永13年 (1636年) 1599年(慶長4)忠世の子として生まれる。徳川秀忠に仕え、1614年(慶長19)大坂冬の陣で初陣。翌年の大坂夏の陣では手柄をたてる。秀忠の死後は家光に仕えるも、江戸城西の丸の失火の責任を取り父とともに謹慎。父の死後は、遺領を継ぎ厩橋藩主となる。1636年(寛永13)11月17日没。38才。法名「松岸院殿雪窓玖白居士」。
酒井忠清妻 生 不明没 延宝4年 (1676年) 姉小路公景の娘。酒井忠清に嫁ぎ、千姫、松平頼常妻、水野勝種妻、中川久通妻、加藤泰恒妻、忠寛、松平信庸妻、與志姫、石姫、萬千代、藤堂高久養女の2男9女を儲ける。1676年(延宝4)12月11日没。法名「清岸院殿浄譽光安心大法信女」。
酒井忠世 生 元亀3年 (1572年)没 寛永13年 (1636年) 1572年(元亀3)6月重忠の長男として生まれる。徳川家康、秀忠、家光に仕える。1590年(天正18)武蔵国川越で5千石を与えられ秀忠の家老となる。1600年(慶長5)上田城攻めに秀忠に従い参陣。大坂の両陣にも参陣。1634年(寛永11)忠世の守る江戸城西丸が火災を起こし、一時職務を止められた。1636年(寛永13)3月19日没。65才。法名「隆興院殿前拾遺發向源真大居士」。
豊臣秀頼 生 文禄2年 (1593年)没 慶長20年 (1615年) 1593年(文禄2)8月秀吉の3男として生まれる。秀吉の死後、家督を継ぐ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは、西軍の総大将毛利輝元の保護下にあり家臣の一部も関ヶ原本戦に参陣。1614年(慶長19)方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発。1615年(慶長20)5月8日大坂城にて自害。23才。法名「帰寂山高陽寺殿秀山大居士」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
能勢信重 生 不明没 承応3年 (1654年) 惣左衛門の子。兵右衛門。長岡藩主牧野忠成(初代)の家臣。200石。忠成が1654年(承応3)12月16日死去すると同月26日殉死。主君と同じ没年月日の1654年(承応3)12月16日が刻まれている。
直江兼続妻 生 弘治3年 (1557年)没 寛永14年 (1637年) 1557年(弘治3)直江景綱の娘として生まれる。名はお船の方。直江信綱(長尾藤九郎)と婚姻、婿として直江家を継がせる。信綱が家臣の争いで殺害されると、上杉景勝の命により直江兼続(樋口兼続)と婚姻。景明、本多政重妻の1男1女を儲ける。1637年(寛永14)1月4日没。81才。法名「宝林院殿月桂貞心大姉」。墓石は上杉定勝の建立による。
皆川隆庸 生 天正9年 (1581年)没 正保2年 (1645年) 常陸府中藩2代藩主。1581年(天正9)広照の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従う。1609年(慶長14)父が松平忠輝と対立したため、父とともに改易。大坂の両陣に井伊直孝に属して参戦。1623年(元和9)に父とともに赦免される。父の隠居により1625年(寛永2)跡を継ぐ。1645年(正保2)2月5日没。65才。法名「一陽院殿春厳紹智大居士」。
皆川秀隆 生 寛永3年 (1626年)没 明暦3年 (1657年) 常陸府中藩代藩主。1626年(寛永3)隆庸の次男として生まれる。父の遺領のうち5千石を与えられ寄合になる。1657年(明暦3)6月18日没。32才。法名「自性院殿法山凉説居士」。墓石施主は息子左京広隆による。
皆川成郷 生 寛永元年 (1624年)没 正保2年 (1645年) 常陸府中藩3代藩主。1624年(寛永元)隆庸の長男として生まれる。父の死により1645年(正保2)5月21日跡を継ぐも同年6月4日没。15日間の短い藩主であった。22才。法名「迎涼院殿南室紹清大居士」。墓石側面に「正保二年七月四日」とあり没後1ヶ月に建立されたと思われる。
皆川庸清 生 宝暦11年 (1761年)没 享和2年 (1802年) 1761年(宝暦11)斉秀の子として生まれる。父の死により1779年(安永8)9月跡を継ぐ。1782年(天明2)12月将軍徳川家治に拝謁。1802年(享和2)3月21日没。42才。法名「高徳院殿瑞巌良祥大居士」。女性の法名「良壽院殿真譽貞節大姉」、側面に1835年(天保6)6月22日寂とあり妻と思われる。墓石は1803年(享和3)息子皆川森之助庸郡の建立。
皆川広照 生 天文17年 (1548年)没 寛永4年 (1627年) 常陸府中藩初代藩主。1548年(天文17)下野皆川城主俊宗の次男として生まれる。1576年(天正4)兄広勝の死により跡を継ぐ。北条氏・上杉氏と敵対、従属を繰り返す。徳川家康に誼を通じ、1590年(天正18)小田原合戦のときは北条氏を裏切り家康に投降。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは家康に味方。家康の6男松平忠輝の家老となるも、忠輝と対立して改易。1623年(元和9)赦免され常陸府中にて1万石となる。1627年(寛永4)12月22日没。80才。法名「三清院殿善翁慶勝大居士」。
牧野忠成(初代) 生 天正9年 (1581年)没 承応3年 (1654年) 越後長岡藩初代藩主。1581年(天正9)康成の子として生まれる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときは徳川秀忠に従い信州上田城を攻める。大坂の両陣に参戦。1654年(承応3)12月16日没。74才。法名「寶性院殿仙譽月卦正心大居士」。
牧野忠成(2代) 生 寛永12年 (1635年)没 延宝2年 (1674年) 越後長岡藩2代藩主。祖父で初代藩主と同名。後忠成。1635年(寛永12)光成の長男として生まれる。1639年(寛永16)将軍徳川家光に拝謁。祖父初代忠成が没した後、将軍徳川家綱の判断により跡を継ぐ。1674年(延宝2)5月27日没。40才。法名「超雄院殿尊󠄁誉利岳乗見大居士」。
豊臣秀吉妻 生 不明没 慶長20年 (1615年) 浅井長政の娘。母は織田信長の妹。名は淀君。1573年(天正元)小谷城で父長政が自害したときは母とともに城を脱出。1583年(天正11)北の庄城で義父柴田勝家と母が自害したときも城を脱出。豊臣秀吉に嫁ぎ、鶴松と秀頼の2男を儲ける。1615年(慶長20)5月8日徳川家康により大坂城を攻められ自害。法名「大虞院殿英岩大禅定尼」。墓石には「慶長廿年五月七日」とあるが誤記である。
水野貞利 生 不明没 安永8年 (1779年) 政勝の子。1775年(安永4)9才のとき徳川家基の御伽小姓となる。1779年(安永8)家基が没したため将軍徳川家治の小姓となる。1844年(天保15)3月2日没。法名「歓祥院殿鳳林玉鳴大居士」。
水野政勝 生 享保19年 (1734年)没 天明6年 (1786年) 1734年(享保19)忠英の子として生まれる。1743年(寛保3)徳川家治の御伽小姓となる。家治が将軍になると御小姓組の番頭となる。家治から小袖、八丈織、書などを賜う。1786年(天明6)10月24日没。53才。法名「賢性院殿仁淵義信大居士」。
水野勝貞 生 寛永2年 (1625年)没 寛文2年 (1662年) 備後福山藩3代藩主。1625年(寛永2)6月勝俊の次男として生まれる。1638年(寛永15)島原の乱に祖父勝成、父勝俊に従い参戦。1639年(寛永16)12月将軍徳川家光に拝謁。1655年(明暦元)5月父の死により跡を継ぐ。1662年(寛文2)10月29日没。38才。法名「源光院殿傑山宗英大居士」。