松平忠弘の墓碑
松平忠弘
生 寛永8年 (1631年)
没 元禄13年 (1700年)
奥平松平家2代当主。1631年(寛永8)11月忠明の長男として生まれる。父の死により1644年(寛永21)播磨姫路藩18万石を継ぐ。うち3万石を弟清道に分知。出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩と転封。白河藩主のときに家臣の紛争により減封のうえ再度出羽山形藩10万石となる。1700年(元禄13)5月16日没。70才。法名「楞伽院殿端翁道嚴大居士」。
松平忠啓の墓碑
松平忠啓
生 延享3年 (1746年)
没 天明6年 (1786年)
奥平松平家5代当主。伊勢桑名藩3代藩主。1746年(延享3)12月忠刻の次男として生まれる。1771年(明和8)6月父の隠居により家督を継ぐ。自然災害、百姓一揆、飢饉により財政が悪化。1786年(天明6)12月10日没。41才。法名「崇巌院殿功運道惇大居士」。
松平忠功妻の墓碑
松平忠功妻
生 明和2年 (1765年)
没 寛政3年 (1791年)
1765年(明和2)9月松平忠啓の娘として生まれる。名は久仁姫。徳川宗将の7男松平忠功と結婚して忠功を婿養子として迎える。忠功との間には子供は出来ず。1791年(寛政3)3月13日没。27才。法名「桃仙院殿花溪妙鮮大禅定尼」。
松平忠刻の墓碑
松平忠刻
生 享保2年 (1717年)
没 天明2年 (1782年)
奥平松平家4代当主。伊勢桑名藩2代藩主。1717年(享保2)忠雅の3男として生まれる。1738年(元文3)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。1771年(明和8)病気により隠居。1782年(天明2)12月27日没。66才。法名「龍光院殿天山宗見大居士」。
松平定経の墓碑
松平定経
生 寛永7年 (1630年)
没 寛文10年 (1670年)
1630年(寛永7)定房の子として生まれる。1644年(正保元)将軍徳川家光に拝謁。家督を相続することなく1670年(寛文10)5月11日没。41才。法名「崇峯院殿清誉光安須和大居士」。
成瀬正虎の墓碑
成瀬正虎
生 文禄3年 (1594年)
没 寛文3年 (1663年)
1594年(文禄3)正成の長男として生まれる。初め徳川家康の3男秀忠の小姓として仕えていたが1614年(慶長19)大坂冬の陣のときに、家康の命令で家康の9男義直に仕えるようになり、翌年の大坂夏の陣のときは義直の先鋒となった。1632年(寛永10)義直の子光友が徳川家光に拝謁したときに、家光より刀を賜る。1663年(寛文3)5月9日没。70才。法名「乾龍院一岳宗無居士」。
徳川頼職の墓碑
徳川頼職
生 延宝8年 (1680年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩4代藩主。1680年(延宝8)1月光貞の3男として生まれる。はじめ越前高森藩主。のちに病気となった兄綱教の養子となり、1705年(宝永2)5月兄の死により跡を継ぐ。同年8月には父が没す。同年9月8日没。26才。法名「深覺院殿贈相公三品圓巌真常大居士」。
徳川綱教の墓碑
徳川綱教
生 寛文5年 (1665年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩3代藩主。1665年(寛文5)8月光貞の長男として生まれる。1698年(元禄11)父の隠居により家督を継ぐ。徳川綱吉の娘を娶り、将軍候補でもあったが1705年(宝永2)5月18日没。41才。法名「高林院殿三品前黄門雲峯浄空大居士」。
徳川宗直の墓碑
徳川宗直
生 天和2年 (1682年)
没 宝暦7年 (1757年)
紀伊和歌山藩6代藩主。1682年(天和2)7月松平頼純の子として生まれる。1711年(正徳元)11月父の跡を継いで伊予西条藩主となる。従弟の和歌山藩主徳川吉宗が将軍となったため1716年(正徳6)に跡を継ぐ。1757年(宝暦7)7月2日没。76才。法名「大慧院殿普観徹性台大居士」。
徳川宗将の墓碑
徳川宗将
生 享保5年 (1720年)
没 明和2年 (1765年)
紀伊和歌山藩7代藩主。1720年(享保5)2月宗直の長男として生まれる。1757年(宝暦7)8月父の死後跡を継ぐ。仏教に帰依して高野山にも多額の寄付をする。1765年(明和2)2月25日没。46才。法名「菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士」。
徳川光貞の墓碑
徳川光貞
生 寛永3年 (1626年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1626年(寛永3)12月頼宣の長男として生まれる。1633年(寛永10)9月将軍徳川家光より1字を与えられ光貞と名乗る。1667年(寛文7)に父の隠居により家督を継ぐ。1705年(宝永2)8月8日没。80才。法名「清渓院殿二品前亜相源泉尊義對山大居士」。
庵原朝昌の墓碑
庵原朝昌
生 弘治2年 (1556年)
没 寛永17年 (1640年)
1556年(弘治2)朝綱の子として生まれる。今川氏真に仕え、のち武田勝頼、戸田勝隆に仕える。勝隆家臣時代に朝鮮出兵に参戦。1596年(慶長元)井伊直政に仕えるも直政と諍いを起こし出奔。1601年(慶長6)井伊家に帰参。木俣家に次ぐ次席家老となる。大坂夏の陣では木村重成を討取る。1639年(寛永16)隠居。1640年(寛永17)5月2日没。法名「長壽院殿實山宗心居士」。
大村純尹の墓碑
大村純尹
生 寛文4年 (1664年)
没 正徳2年 (1712年)
肥前大村藩5代藩主。1664年(寛文4)純長の次男として生まれる。1676年(延宝4)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1706年(宝永3)10月跡を継ぐ。1712年(正徳2)10月14日没。49才。法名「寛長院殿徳山日廣大居士」。
土方雄興の墓碑
土方雄興
生 寛政11年 (1799年)
没 天保9年 (1838年)
伊勢菰野藩10代藩主。1799年(寛政11)1月義苗の長男として生まれる。1816年(文化13)8月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1835年(天保6)1月跡を継ぐ。1838年(天保9)7月2日没。40才。法名「見龍院殿懿徳同応大居士」。
土方雄嘉の墓碑
土方雄嘉
生 文政12年 (1829年)
没 安政5年 (1858年)
伊勢菰野藩11代藩主。1829年(文政12)雄興の長男として生まれる。父の死により1838年(天保9)8月跡を継ぐ。1844年(弘化元)8月将軍徳川家慶に拝謁。1858年(安政5)8月28日没。30才。法名「寛裕院殿天然自得大居士」。
土方義苗の墓碑
土方義苗
生 安永7年 (1778年)
没 弘化2年 (1845年)
伊勢菰野藩9代藩主。1778年(安永7)5月木下俊直の次男として生まれる。1782年(天明2)5才で土方雄貞の末期養子として跡を継ぐ。藩内の改革を行い成功させる。1835年(天保6)1月隠居。1845年(弘化2)6月28日没。68才。法名「霊光院殿一灯自照大居士」。
吉川経賢の墓碑
吉川経賢
生 寛政3年 (1791年)
没 文化3年 (1806年)
周防岩国藩9代藩主。1791年(寛政3)11月経忠の長男として生まれる。父の没後、1803年(享和3)7月跡を継ぐ。1806年(文化3)12月26日没。16才。法名「文恭院殿徳巌道馨大居士」。
吉川経章の墓碑
吉川経章
生 寛政6年 (1794年)
没 天保14年 (1843年)
周防岩国藩11代藩主。1794年(寛政6)11月経忠の3男として生まれる。1836年(天保7)11月兄経礼が没すると、翌年跡を継ぐ。1843年(天保14)11月19日没。50才。法名「亮功院殿英山道雄大居士」。
吉川経礼の墓碑
吉川経礼
生 寛政5年 (1793年)
没 天保7年 (1836年)
周防岩国藩10代藩主。1793年(寛政5)11月経忠の次男として生まれる。1806年(文化3)12月兄経賢が没すると翌年3月跡を継ぐ。1836年(天保7)11月26日没。44才。法名「謙光院殿慈雲藤蔭大居士」。
吉川経永の墓碑
吉川経永
生 正徳4年 (1714年)
没 明和元年 (1764年)
周防岩国藩6代藩主。1714年(正徳4)10月広逵の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぐ。家老吉川外記の専制政治や百姓一揆、火災、旱魃などが相次ぎ財政は傾く。1764年(明和元)10月13日没。51才。法名「遍照院真誉蓮光華岸大禅定門」。
吉川経忠の墓碑
吉川経忠
生 明和3年 (1766年)
没 享和3年 (1803年)
周防岩国藩8代藩主。1766年(明和3)2月経倫の長男として生まれる。1792年(寛政4)父の隠居により家督を継ぐ。藩の財政改革を行うも1803年(享和3)5月30日没。38才。法名「紹徳院殿孝運祖澤大居士」。
吉川経倫娘の墓碑
吉川経倫娘
生 安永2年 (1773年)
没 天明2年 (1782年)
1773年(安永2)経倫の次女として生まれる。名は篤子、順子。1782年(天明2)8月3日没。10才。法名「真如院殿無相妙顔大童女」。
吉川経倫妻の墓碑
吉川経倫妻
生 宝暦5年 (1755年)
没 安永5年 (1776年)
1755年(宝暦5)一柳末栄の娘として生まれる。名は多芽姫。吉川経倫に嫁ぎ、経忠を儲ける。なお、経忠は別の女(高木氏)が生んだ説もある。経忠の生年が1766年(明和3)なので、多芽姫が12才で生んだこととなる。経倫の側室高木氏が経忠を生むも、正室の多芽姫の子とした可能性が高いと思われる。1776年(安永5)5月18日没。22才。法名「華厳院殿梅玉妙聯大姉」。
吉川経倫の墓碑
吉川経倫
生 延享3年 (1746年)
没 享和3年 (1803年)
周防岩国藩7代藩主。1746年(延享3)5月毛利広豊の9男として生まれる。吉川経永の養子となり、1764年(明和元)経永の死により家督を継ぐ。水害や火災などで財政難で苦しむ。1803年(享和3)9月7日没。58才。法名「大乗院即心圓通大居士」。
吉川広逵の墓碑
吉川広逵
生 元禄8年 (1695年)
没 正徳5年 (1715年)
周防岩国藩5代藩主。1695年(元禄8)7月広紀の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぎ、家臣達が後見人となり補佐。1715年(正徳5)6月19日没。21才。法名「涼雲院殿玉顔元鮮大居士」。
吉川広紀の墓碑
吉川広紀
生 明暦4年 (1658年)
没 元禄9年 (1696年)
周防岩国藩4代藩主。1658年(明暦4)3月広嘉の長男として生まれる。1679年(延宝7)父の死により家督を継ぐ。財政が豊かで、財政難の主筋毛利家とは家格問題もあり悪化。1696年(元禄9)7月13日没。39才。法名「普恩院殿徳峯祖天大居士」。
吉川広正娘の墓碑
吉川広正娘
生 寛永3年 (1626年)
没 承応3年 (1654年)
1626年(寛永3)吉川広正の5女として生まれる。母は毛利輝元の長女。名は虎子。毛利秀就の養女となる。未婚のまま1654年(承応3)10月18日没。29才。法名「養源院殿正譽貞心大姉」。東京都江東区心行寺にも墓があり、そこでは吉川監物殿(広嘉)内室となっているが、広嘉内室ではなく、広嘉妹である。
吉川広正妻の墓碑
吉川広正妻
生 慶長5年 (1600年)
没 正保元年 (1644年)
1600年(慶長5)毛利輝元の長女として生まれる。名は竹姫。1616年(元和2)7月吉川広正の正室となり、徳大寺公信室、広嘉、就紀の2男1女を儲ける。1644年(正保元)9月10日没。45才。法名「高玄院殿超誉誉珠英大姉」。墓石は息子広嘉の建立による。
吉川広正の墓碑
吉川広正
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
周防岩国藩2代藩主。1601年(慶長6)2月広家の長男として生まれる。1614年(慶長19)徳川家康、秀忠に拝謁。紙の製造を行ったり、新田開発を行う。1663年(寛文3)8月家督を長男広嘉に譲り隠居。1666年(寛文6)5月5日没。66才。法名「淨性院殿鐵堂宗閑大居士」。
吉川広嘉の墓碑
吉川広嘉
生 元和7年 (1621年)
没 延宝7年 (1679年)
周防岩国藩3代藩主。1621年(元和7)7月広正の長男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光に拝謁。1663年(寛文3)8月父の隠居により家督を継ぐ。広嘉が自ら研究、監督して城下に木造アーチの錦帯橋を架橋する。1679年(延宝7)8月16日没。59才。法名「玄真院殿快巌如心大居士」。
吉川就紀の墓碑
吉川就紀
生 元和8年 (1622年)
没 寛永20年 (1643年)
1622年(元和8)10月広正の次男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光と大御所徳川秀忠に拝謁。江戸にて徳川家の人質となる。1643年(寛永20)6月6日没。自殺したという。22才。法名「宗源院殿一覺鐵心大禅定門」。墓石は1646年(正保3)6月6日の建立による。
吉川吉五郎の墓碑
吉川吉五郎
生 安永5年 (1776年)
没 安永6年 (1777年)
1776年(安永5)経倫の次男として生まれる。1777年(安永6)9月23日没。2才。法名「崑岳院良讃大童子」。
吉川元長の墓碑
吉川元長
生 天文17年 (1548年)
没 天正15年 (1587年)
1548年(天文17)元春の長男として生まれる。尼子氏の月山富田城の戦いにおいて初陣。1582年(天正10)12月父の隠居により跡を継ぐ。1585年(天正13)豊臣秀吉による四国攻めに参戦。秀吉の九州平定にも参戦。1587年(天正15)6月5日陣中で没。40才。法名「万徳院前礼部中翁空山大居士」。
吉川元春の墓碑
吉川元春
生 享禄3年 (1530年)
没 天正14年 (1586年)
1530年(享禄3)毛利元就の次男として生まれる。吉川興経の養子となり跡を継ぐ。厳島の戦い、月山富田城の戦いに参戦。父元就、兄隆元、兄の子輝元の3代を弟小早川隆景と共に支え毛利の両川と称された。毛利家が豊臣秀吉に従うようになると、家督を息子元長に譲る。1586年(天正14)隠居の身であったが秀吉の要請で九州平定に参戦。同年11月15日豊前小倉城で没。57才。法名「随浪院殿海翁正恵大居士」。
今田経高の墓碑
今田経高
生 大永5年 (1525年)
没 慶長9年 (1604年)
1525年(大永5)吉川経世の次男として生まれる。1541年(天文9)毛利元就の家臣吉川興経に従い吉田郡山城攻めに参戦。吉川元春、元長、広家に仕える。1604年(慶長9)5月24日没。80才。法名「天叟寺殿天叟正運居士」。
井伊直幸妻(量壽院)の墓碑
井伊直幸妻(量壽院)
生 不明
没 享和3年 (1803年)
大武氏。井伊直幸に嫁ぎ、俊姫、直中の1男1女を儲ける。1803年(享和3)12月8日没。法名「量壽院殿抴玉貫之大姉」。井伊直弼の祖母にあたる。
井伊直定の墓碑
井伊直定
生 元禄15年 (1702年)
没 宝暦4年 (1754年)
近江彦根藩10代、12代藩主。1702年(元禄15)2月直興の14男として生まれる。1735年(享保20)兄直惟の隠居により跡を継ぐ。1754年(宝暦4)6月直惟の子直禔に家督を譲るも同年8月直禔が没したため、再度藩主となる。1760年(宝暦10)2月8日没。59才。法名「天祥院殿泰山定公大居士」。
井伊直孝娘の墓碑
井伊直孝娘
生 不明
没 元禄6年 (1693年)
井伊直孝の娘。母は春光院。名は亀姫。1677年(延宝5)亀姫が父の菩提を弔うため豪徳寺(東京都世田谷区)に仏殿を建立。1693年(元禄6)5月18日没。法名「掃雲院殿無染了心大姉」。墓石は弟直澄の息子直興が伯母のために建立。
井伊直孝妻(隆雲院)の墓碑
井伊直孝妻(隆雲院)
生 不明
没 元和7年 (1621年)
蜂須賀家政の娘。名は阿喜姫。1615年(元和元)徳川家康の命により井伊直孝に嫁ぐ。直孝との間に子供は出来なかった。1621年(元和7)11月11日没。法名「隆雲院殿山臺正壽大禅定尼」。墓石に「施主本国遠州井伊谷後彦根城主井伊侍従」とあり、夫直孝が施主となり建立されている。
井伊直孝妻(春光院)の墓碑
井伊直孝妻(春光院)
生 不明
没 延宝9年 (1681年)
毛利輝元家臣石井元好の長女。井伊直孝に嫁ぎ、女子、直澄を儲ける。1681年(延宝9)1月8日没。法名「春光院殿華岑檐月大姉」。墓石は孫直興(直澄の養子)の建立による。
井伊直孝の墓碑
井伊直孝
生 天正18年 (1590年)
没 万治2年 (1659年)
1590年(天正18)2月直政の次男として生まれる。1603年(慶長8)徳川家康に拝謁、命により秀忠に仕える。大坂の陣のときは病の兄に代わり出陣。冬の陣では真田丸を攻め大損害を被っている。夏の陣では木村重成や長宗我部盛親を打ち破る功績があった。秀忠、家光、家綱に仕え、幕閣の中枢を担った。譜代大名の中でも石高が最も高く彦根藩30万石を領す。1659年(万治2)6月28日没。70才。法名「久昌院殿豪徳天英大居士」。
井伊直中妻(要妙院)の墓碑
井伊直中妻(要妙院)
生 天明5年 (1785年)
没 文政2年 (1819年)
1785年(天明5)生まれ。名はお富の方。井伊直中の側室となり、直元、直与、直弼を儲ける。1819年(文政2)2月26日没。35才。法名「要妙院殿瑞室智誓大姉」。墓石は1852年(嘉永5)9月直弼の建立による。
五島盛道の墓碑
五島盛道
生 宝永5年 (1708年)
没 安永9年 (1780年)
肥前福江藩7代藩主。1708年(宝永5)盛佳の長男として生まれる。1726年(享保10)12月将軍徳川吉宗に拝謁。1728年(享保13)8月父の隠居により家督を継ぐ。藩内の財政は逼迫していて1761年(宝暦11)より領民の長女以外の娘を3年無償で武家で働かせる法律を作る。1780年(安永9)4月20日没。73才。法名「大圓寺殿向山見外大居士」。
五島盛運の墓碑
五島盛運
生 宝暦3年 (1753年)
没 文化6年 (1809年)
肥前福江藩8代藩主。1753年(宝暦3)10月23日盛道の次男として生まれる。1769年(明和6)12月父の隠居により家督を継ぐ。大村藩から農民(キリシタン)の移住があり、財政が復活。1809年(文化6)5月9日没。57才。法名「泰源院殿徳芳良仁大居士」。
五島盛次の墓碑
五島盛次
生 元和4年 (1618年)
没 明暦元年 (1655年)
肥前福江藩3代藩主。1618年(元和4)盛利の長男として生まれる。1642年(寛永19)閏9月父の死により家督を継ぐ。同年10月将軍徳川家光に拝謁。1655年(明暦元)10月9日没。38才。法名「大圓寺昌屋泰久大居士」。
五島盛暢の墓碑
五島盛暢
生 寛文2年 (1662年)
没 元禄4年 (1691年)
肥前福江藩5代藩主。1662年(寛文2)11月盛勝の長男として生まれる。1674年(延宝2)将軍徳川家綱に拝謁。1677年(延宝5)12月父の隠居により家督を継ぐ。1691年(元禄4)6月22日没。30才。法名「清涼院殿良嶽英温大居士」。
五島盛勝の墓碑
五島盛勝
生 正保2年 (1645年)
没 延宝6年 (1678年)
肥前福江藩4代藩主。1645年(正保2)盛次の長男として生まれる。1655年(明暦元)父の死により家督を継いだ。幼いため叔父盛清が後見。1677年(延宝5)12月隠居する。1678年(延宝6)2月24日没。34才。法名「松巖院殿羅屋壽休大居士」。
五島盛利妻の墓碑
五島盛利妻
生 不明
没 延宝3年 (1675年)
七里玄通の娘。名は梅子。五島盛利の妻で、盛次、盛清を儲ける。1675年(延宝3)12月24日没。法名「普照院殿圓明如鏡大姉」。「普照院」は盛利の娘で日向正春の妻と一般的に伝わるも、墓石に「肥前五嶋民部少輔源朝臣盛清為悲母建立」とあるので盛清母で盛利妻であることがわかる。また五輪塔が横の盛利の墓石と形状大きさが対をなしていることから、盛利の娘よりも盛利の妻と考えるのが自然である。公譜別録にも盛利の後室とある。
五島盛利の墓碑
五島盛利
生 天正19年 (1591年)
没 寛永19年 (1642年)
肥前福江藩2代藩主。1591年(天正19)宇久盛長の長男として生まれる。1594年(文禄3)五島玄雅の養子となる。1603年(慶長8)徳川家康に拝謁。1612年(慶長17)玄雅の死により家督を継ぐ。1642年(寛永19)7月19日没。52才。法名「大圓寺殿傑山伝英大居士」。
五島盛佳の墓碑
五島盛佳
生 貞享4年 (1687年)
没 享保19年 (1734年)
肥前福江藩6代藩主。1687年(貞享4)9月盛暢の長男として生まれる。父の死後、1691年(元禄4)9月家督を継ぐ。1695年(元禄8)7月将軍徳川綱吉に拝謁。1728年(享保13)8月家督を長男盛道に譲り隠居。1734年(享保19)8月6日没。48才。法名「覚岸院殿天量和卒大居士」。