水谷勝隆の墓碑
水谷勝隆
生 慶長2年 (1597年)
没 寛文4年 (1664年)
備中松山藩初代藩主。1597年(慶長2)勝俊の長男として京に生まれる。徳川家康の家臣。1600年(慶長5)関ケ原の戦いのときは、西軍の人質になるとこを乳母とともに逃れた。大坂の両陣には酒井家次の陣に属して参戦。1664年(寛文4)閏5月3日没。68才。法名「大龍寺殿鐵山全性大居士」。
水谷勝美の墓碑
水谷勝美
生 寛文3年 (1663年)
没 元禄6年 (1693年)
備中松山藩3代藩主。1663年(寛文3)勝宗の次男として生まれる。1672年(寛文12)2月将軍徳川家綱に拝謁。1693年(元禄6)10月6日没。31才。法名「隆昌寺殿天山全長大居士」。子がいなく勝美を最後に水谷家は改易となる。
水谷勝宗妻の墓碑
水谷勝宗妻
生 不明
没 寛文12年 (1672年)
青山幸成の娘。水谷勝宗に嫁ぎ、勝美、平山常時妻の1男1女を儲ける。1672年(寛文12)没。法名「曹渓院殿吉〇永〇大姉」。墓石は息子犬千代(勝美)の建立による。
水谷勝宗の墓碑
水谷勝宗
生 元和9年 (1623年)
没 元禄2年 (1689年)
備中松山藩2代藩主。1623年(元和9)勝隆の長男として生まれる。1664年(寛文4)父の死により後を継ぐ。1684年(貞享元)外様大名から譜代大名となる。備中松山城を改築、現在も当時の姿で現存。1689年(元禄2)2月19日没。67才。法名「栄興院殿健岑全勇大居士」。
毛利熊之助の墓碑
毛利熊之助
生 明暦3年 (1657年)
没 寛文3年 (1663年)
1657年(明暦3)就詮の長男として生まれる。1663年(寛文3)8月7日没。7才。法名「桂岩幻枝」。墓石は1679年(延宝7)母(吉川広正の5女法泉院)の建立による。「吉見氏熊之助之墓」とあるが、熊之助の大野毛利家の祖は吉見氏であり、その縁により吉見姓を称したと思われる。
毛利就詮妻の墓碑
毛利就詮妻
生 不明
没 元禄8年 (1695年)
吉川広正の5女。名は長姫。毛利就詮に嫁ぎ、長男熊之助を儲ける。後に離縁。1695年(元禄8)6月22日没。法名「法泉院殿霊谷妙應大禅尼」。
橋本正高の墓碑
橋本正高
生 不明
没 天授6年 (1380年)
南北朝時代の武士で、南朝方の楠木正成の一族。土丸城を中心に泉南地域で足利幕府方と戦う。1380年(天授6)7月17日北朝方と戦い討死。法名「高名院殿興國義勇正高大居士」。
梶原政景の墓碑
梶原政景
生 天文17年 (1548年)
没 元和9年 (1623年)
1548年(天文17)太田資正の次男として生まれる。足利義氏に仕える。後、佐竹義重、義宣に仕える。佐竹家が関ヶ原の後に秋田に減封となると、結城秀康に仕える。秀康没後は、秀康の子松平忠直に仕え大坂の陣に従軍。1623年(元和9)10月8日没。76才。法名「東光院殿悦叟道喜居士」。墓石は逆修塔で1610年(慶長15)7月20日の建立による。
松浦良の墓碑
松浦良
生 寛政2年 (1790年)
没 文化11年 (1814年)
肥前平戸新田藩7代藩主。1790年(寛政2)義信の子として生まれる。1803年(享和3)平戸新田藩主の矩が没したとき、婿養子となり跡を継ぐ。1814年(文化11)12月5日没。25才。法名「廣徳院殿孤峯有隣大居士」。
松浦矩の墓碑
松浦矩
生 明和5年 (1768年)
没 享和3年 (1803年)
肥前平戸新田藩6代藩主。1768年(明和5)宝の子として生まれる。父の死により1783年(天明3)7月跡を継ぐ。1785年(天明5)11月将軍徳川家治に拝謁。1803年(享和3)4月19日没。36才。法名「寛量院殿義山宗勇大居士」。
松平鶴松の墓碑
松平鶴松
生 寛文10年 (1670年)
没 延宝2年 (1674年)
1670年(寛文10)9月忠弘の4男として生まれる。側室の子だが、忠弘正室天眼院の子として育てられる。しかし1674年(延宝2)7月1日没。5才。法名「寂浄院殿一相是○」。初代忠明(祖父)、2代忠弘(父)も幼名を鶴松と名乗っていたことから跡継ぎとして期待されていたと思われる。
松平鎌之助の墓碑
松平鎌之助
生 寛政3年 (1791年)
没 寛政9年 (1797年)
1791年(寛政3)忠和の長男として生まれる。1797年(寛政9)8月14日没。7才。法名「馨顔院殿徳祖幻明童子」。
松平忠明妻の墓碑
松平忠明妻
生 不明
没 万治3年 (1660年)
小出吉政の娘。松平忠明に嫁ぐも子供は出来ず。他の側室が生んだ忠弘、清道の養母となる。1660年(万治3)2月27日没。法名「慶壽院殿花岳玉榮大姉」。墓石は義理の息子清良(忠弘)の建立による。
松平忠明の墓碑
松平忠明
生 天正11年 (1583年)
没 寛永21年 (1644年)
奥平松平家初代当主。1583年(天正11)奥平信昌の4男として生まれる。母は徳川家康長女亀姫。1588年(天正16)兄家治とともに家康の養子となり松平姓となる。1592年(文禄元)兄家治が没したため家督を継ぐ。関ヶ原の戦いや大坂の陣に参戦。1644年(寛永21)3月25日没。62才。法名「天祥院心巌玄鐡大居士」。
松平忠弘の墓碑
松平忠弘
生 寛永8年 (1631年)
没 元禄13年 (1700年)
奥平松平家2代当主。1631年(寛永8)11月忠明の長男として生まれる。父の死により1644年(寛永21)播磨姫路藩18万石を継ぐ。うち3万石を弟清道に分知。出羽山形藩、下野宇都宮藩、陸奥白河藩と転封。白河藩主のときに家臣の紛争により減封のうえ再度出羽山形藩10万石となる。1700年(元禄13)5月16日没。70才。法名「楞伽院殿端翁道嚴大居士」。
松平忠啓の墓碑
松平忠啓
生 延享3年 (1746年)
没 天明6年 (1786年)
奥平松平家5代当主。伊勢桑名藩3代藩主。1746年(延享3)12月忠刻の次男として生まれる。1771年(明和8)6月父の隠居により家督を継ぐ。自然災害、百姓一揆、飢饉により財政が悪化。1786年(天明6)12月10日没。41才。法名「崇巌院殿功運道惇大居士」。
松平忠功妻の墓碑
松平忠功妻
生 明和2年 (1765年)
没 寛政3年 (1791年)
1765年(明和2)9月松平忠啓の娘として生まれる。名は久仁姫。徳川宗将の7男松平忠功と結婚して忠功を婿養子として迎える。忠功との間には子供は出来ず。1791年(寛政3)3月13日没。27才。法名「桃仙院殿花溪妙鮮大禅定尼」。
松平忠刻の墓碑
松平忠刻
生 享保2年 (1717年)
没 天明2年 (1782年)
奥平松平家4代当主。伊勢桑名藩2代藩主。1717年(享保2)忠雅の3男として生まれる。1738年(元文3)6月将軍徳川吉宗に拝謁。1746年(延享3)父の死により家督を継ぐ。1771年(明和8)病気により隠居。1782年(天明2)12月27日没。66才。法名「龍光院殿天山宗見大居士」。
松平定経の墓碑
松平定経
生 寛永7年 (1630年)
没 寛文10年 (1670年)
1630年(寛永7)定房の子として生まれる。1644年(正保元)将軍徳川家光に拝謁。家督を相続することなく1670年(寛文10)5月11日没。41才。法名「崇峯院殿清誉光安須和大居士」。
成瀬正虎の墓碑
成瀬正虎
生 文禄3年 (1594年)
没 寛文3年 (1663年)
1594年(文禄3)正成の長男として生まれる。初め徳川家康の3男秀忠の小姓として仕えていたが1614年(慶長19)大坂冬の陣のときに、家康の命令で家康の9男義直に仕えるようになり、翌年の大坂夏の陣のときは義直の先鋒となった。1632年(寛永10)義直の子光友が徳川家光に拝謁したときに、家光より刀を賜る。1663年(寛文3)5月9日没。70才。法名「乾龍院一岳宗無居士」。
徳川頼職の墓碑
徳川頼職
生 延宝8年 (1680年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩4代藩主。1680年(延宝8)1月光貞の3男として生まれる。はじめ越前高森藩主。のちに病気となった兄綱教の養子となり、1705年(宝永2)5月兄の死により跡を継ぐ。同年8月には父が没す。同年9月8日没。26才。法名「深覺院殿贈相公三品圓巌真常大居士」。
徳川綱教の墓碑
徳川綱教
生 寛文5年 (1665年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩3代藩主。1665年(寛文5)8月光貞の長男として生まれる。1698年(元禄11)父の隠居により家督を継ぐ。徳川綱吉の娘を娶り、将軍候補でもあったが1705年(宝永2)5月18日没。41才。法名「高林院殿三品前黄門雲峯浄空大居士」。
徳川宗直の墓碑
徳川宗直
生 天和2年 (1682年)
没 宝暦7年 (1757年)
紀伊和歌山藩6代藩主。1682年(天和2)7月松平頼純の子として生まれる。1711年(正徳元)11月父の跡を継いで伊予西条藩主となる。従弟の和歌山藩主徳川吉宗が将軍となったため1716年(正徳6)に跡を継ぐ。1757年(宝暦7)7月2日没。76才。法名「大慧院殿普観徹性台大居士」。
徳川宗将の墓碑
徳川宗将
生 享保5年 (1720年)
没 明和2年 (1765年)
紀伊和歌山藩7代藩主。1720年(享保5)2月宗直の長男として生まれる。1757年(宝暦7)8月父の死後跡を継ぐ。仏教に帰依して高野山にも多額の寄付をする。1765年(明和2)2月25日没。46才。法名「菩提心院殿三品前黄門和願愍生大居士」。
徳川光貞の墓碑
徳川光貞
生 寛永3年 (1626年)
没 宝永2年 (1705年)
紀伊和歌山藩2代藩主。1626年(寛永3)12月頼宣の長男として生まれる。1633年(寛永10)9月将軍徳川家光より1字を与えられ光貞と名乗る。1667年(寛文7)に父の隠居により家督を継ぐ。1705年(宝永2)8月8日没。80才。法名「清渓院殿二品前亜相源泉尊義對山大居士」。
庵原朝昌の墓碑
庵原朝昌
生 弘治2年 (1556年)
没 寛永17年 (1640年)
1556年(弘治2)朝綱の子として生まれる。今川氏真に仕え、のち武田勝頼、戸田勝隆に仕える。勝隆家臣時代に朝鮮出兵に参戦。1596年(慶長元)井伊直政に仕えるも直政と諍いを起こし出奔。1601年(慶長6)井伊家に帰参。木俣家に次ぐ次席家老となる。大坂夏の陣では木村重成を討取る。1639年(寛永16)隠居。1640年(寛永17)5月2日没。法名「長壽院殿實山宗心居士」。
大村純尹の墓碑
大村純尹
生 寛文4年 (1664年)
没 正徳2年 (1712年)
肥前大村藩5代藩主。1664年(寛文4)純長の次男として生まれる。1676年(延宝4)3月将軍徳川家綱に拝謁。父の死により1706年(宝永3)10月跡を継ぐ。1712年(正徳2)10月14日没。49才。法名「寛長院殿徳山日廣大居士」。
土方雄興の墓碑
土方雄興
生 寛政11年 (1799年)
没 天保9年 (1838年)
伊勢菰野藩10代藩主。1799年(寛政11)1月義苗の長男として生まれる。1816年(文化13)8月将軍徳川家斉に拝謁。父の隠居により1835年(天保6)1月跡を継ぐ。1838年(天保9)7月2日没。40才。法名「見龍院殿懿徳同応大居士」。
土方雄嘉の墓碑
土方雄嘉
生 文政12年 (1829年)
没 安政5年 (1858年)
伊勢菰野藩11代藩主。1829年(文政12)雄興の長男として生まれる。父の死により1838年(天保9)8月跡を継ぐ。1844年(弘化元)8月将軍徳川家慶に拝謁。1858年(安政5)8月28日没。30才。法名「寛裕院殿天然自得大居士」。
土方義苗の墓碑
土方義苗
生 安永7年 (1778年)
没 弘化2年 (1845年)
伊勢菰野藩9代藩主。1778年(安永7)5月木下俊直の次男として生まれる。1782年(天明2)5才で土方雄貞の末期養子として跡を継ぐ。藩内の改革を行い成功させる。1835年(天保6)1月隠居。1845年(弘化2)6月28日没。68才。法名「霊光院殿一灯自照大居士」。
吉川経賢の墓碑
吉川経賢
生 寛政3年 (1791年)
没 文化3年 (1806年)
周防岩国藩9代藩主。1791年(寛政3)11月経忠の長男として生まれる。父の没後、1803年(享和3)7月跡を継ぐ。1806年(文化3)12月26日没。16才。法名「文恭院殿徳巌道馨大居士」。
吉川経章の墓碑
吉川経章
生 寛政6年 (1794年)
没 天保14年 (1843年)
周防岩国藩11代藩主。1794年(寛政6)11月経忠の3男として生まれる。1836年(天保7)11月兄経礼が没すると、翌年跡を継ぐ。1843年(天保14)11月19日没。50才。法名「亮功院殿英山道雄大居士」。
吉川経礼の墓碑
吉川経礼
生 寛政5年 (1793年)
没 天保7年 (1836年)
周防岩国藩10代藩主。1793年(寛政5)11月経忠の次男として生まれる。1806年(文化3)12月兄経賢が没すると翌年3月跡を継ぐ。1836年(天保7)11月26日没。44才。法名「謙光院殿慈雲藤蔭大居士」。
吉川経永の墓碑
吉川経永
生 正徳4年 (1714年)
没 明和元年 (1764年)
周防岩国藩6代藩主。1714年(正徳4)10月広逵の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぐ。家老吉川外記の専制政治や百姓一揆、火災、旱魃などが相次ぎ財政は傾く。1764年(明和元)10月13日没。51才。法名「遍照院真誉蓮光華岸大禅定門」。
吉川経忠の墓碑
吉川経忠
生 明和3年 (1766年)
没 享和3年 (1803年)
周防岩国藩8代藩主。1766年(明和3)2月経倫の長男として生まれる。1792年(寛政4)父の隠居により家督を継ぐ。藩の財政改革を行うも1803年(享和3)5月30日没。38才。法名「紹徳院殿孝運祖澤大居士」。
吉川経倫娘の墓碑
吉川経倫娘
生 安永2年 (1773年)
没 天明2年 (1782年)
1773年(安永2)経倫の次女として生まれる。名は篤子、順子。1782年(天明2)8月3日没。10才。法名「真如院殿無相妙顔大童女」。
吉川経倫妻の墓碑
吉川経倫妻
生 宝暦5年 (1755年)
没 安永5年 (1776年)
1755年(宝暦5)一柳末栄の娘として生まれる。名は多芽姫。吉川経倫に嫁ぎ、経忠を儲ける。なお、経忠は別の女(高木氏)が生んだ説もある。経忠の生年が1766年(明和3)なので、多芽姫が12才で生んだこととなる。経倫の側室高木氏が経忠を生むも、正室の多芽姫の子とした可能性が高いと思われる。1776年(安永5)5月18日没。22才。法名「華厳院殿梅玉妙聯大姉」。
吉川経倫の墓碑
吉川経倫
生 延享3年 (1746年)
没 享和3年 (1803年)
周防岩国藩7代藩主。1746年(延享3)5月毛利広豊の9男として生まれる。吉川経永の養子となり、1764年(明和元)経永の死により家督を継ぐ。水害や火災などで財政難で苦しむ。1803年(享和3)9月7日没。58才。法名「大乗院即心圓通大居士」。
吉川広逵の墓碑
吉川広逵
生 元禄8年 (1695年)
没 正徳5年 (1715年)
周防岩国藩5代藩主。1695年(元禄8)7月広紀の長男として生まれる。父の死により2才で家督を継ぎ、家臣達が後見人となり補佐。1715年(正徳5)6月19日没。21才。法名「涼雲院殿玉顔元鮮大居士」。
吉川広紀の墓碑
吉川広紀
生 明暦4年 (1658年)
没 元禄9年 (1696年)
周防岩国藩4代藩主。1658年(明暦4)3月広嘉の長男として生まれる。1679年(延宝7)父の死により家督を継ぐ。財政が豊かで、財政難の主筋毛利家とは家格問題もあり悪化。1696年(元禄9)7月13日没。39才。法名「普恩院殿徳峯祖天大居士」。
吉川広正娘の墓碑
吉川広正娘
生 寛永3年 (1626年)
没 承応3年 (1654年)
1626年(寛永3)吉川広正の5女として生まれる。母は毛利輝元の長女。名は虎子。毛利秀就の養女となる。未婚のまま1654年(承応3)10月18日没。29才。法名「養源院殿正譽貞心大姉」。東京都江東区心行寺にも墓があり、そこでは吉川監物殿(広嘉)内室となっているが、広嘉内室ではなく、広嘉妹である。
吉川広正妻の墓碑
吉川広正妻
生 慶長5年 (1600年)
没 正保元年 (1644年)
1600年(慶長5)毛利輝元の長女として生まれる。名は竹姫。1616年(元和2)7月吉川広正の正室となり、徳大寺公信室、広嘉、就紀の2男1女を儲ける。1644年(正保元)9月10日没。45才。法名「高玄院殿超誉誉珠英大姉」。墓石は息子広嘉の建立による。
吉川広正の墓碑
吉川広正
生 慶長6年 (1601年)
没 寛文6年 (1666年)
周防岩国藩2代藩主。1601年(慶長6)2月広家の長男として生まれる。1614年(慶長19)徳川家康、秀忠に拝謁。紙の製造を行ったり、新田開発を行う。1663年(寛文3)8月家督を長男広嘉に譲り隠居。1666年(寛文6)5月5日没。66才。法名「淨性院殿鐵堂宗閑大居士」。
吉川広嘉の墓碑
吉川広嘉
生 元和7年 (1621年)
没 延宝7年 (1679年)
周防岩国藩3代藩主。1621年(元和7)7月広正の長男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光に拝謁。1663年(寛文3)8月父の隠居により家督を継ぐ。広嘉が自ら研究、監督して城下に木造アーチの錦帯橋を架橋する。1679年(延宝7)8月16日没。59才。法名「玄真院殿快巌如心大居士」。
吉川就紀の墓碑
吉川就紀
生 元和8年 (1622年)
没 寛永20年 (1643年)
1622年(元和8)10月広正の次男として生まれる。1630年(寛永7)将軍徳川家光と大御所徳川秀忠に拝謁。江戸にて徳川家の人質となる。1643年(寛永20)6月6日没。自殺したという。22才。法名「宗源院殿一覺鐵心大禅定門」。墓石は1646年(正保3)6月6日の建立による。
吉川吉五郎の墓碑
吉川吉五郎
生 安永5年 (1776年)
没 安永6年 (1777年)
1776年(安永5)経倫の次男として生まれる。1777年(安永6)9月23日没。2才。法名「崑岳院良讃大童子」。
吉川元長の墓碑
吉川元長
生 天文17年 (1548年)
没 天正15年 (1587年)
1548年(天文17)元春の長男として生まれる。尼子氏の月山富田城の戦いにおいて初陣。1582年(天正10)12月父の隠居により跡を継ぐ。1585年(天正13)豊臣秀吉による四国攻めに参戦。秀吉の九州平定にも参戦。1587年(天正15)6月5日陣中で没。40才。法名「万徳院前礼部中翁空山大居士」。
吉川元春の墓碑
吉川元春
生 享禄3年 (1530年)
没 天正14年 (1586年)
1530年(享禄3)毛利元就の次男として生まれる。吉川興経の養子となり跡を継ぐ。厳島の戦い、月山富田城の戦いに参戦。父元就、兄隆元、兄の子輝元の3代を弟小早川隆景と共に支え毛利の両川と称された。毛利家が豊臣秀吉に従うようになると、家督を息子元長に譲る。1586年(天正14)隠居の身であったが秀吉の要請で九州平定に参戦。同年11月15日豊前小倉城で没。57才。法名「随浪院殿海翁正恵大居士」。
今田経高の墓碑
今田経高
生 大永5年 (1525年)
没 慶長9年 (1604年)
1525年(大永5)吉川経世の次男として生まれる。1541年(天文9)毛利元就の家臣吉川興経に従い吉田郡山城攻めに参戦。吉川元春、元長、広家に仕える。1604年(慶長9)5月24日没。80才。法名「天叟寺殿天叟正運居士」。
井伊直幸妻(量壽院)の墓碑
井伊直幸妻(量壽院)
生 不明
没 享和3年 (1803年)
大武氏。井伊直幸に嫁ぎ、俊姫、直中の1男1女を儲ける。1803年(享和3)12月8日没。法名「量壽院殿抴玉貫之大姉」。井伊直弼の祖母にあたる。